文章/essay

調査制作のフィールドの変化

身の回りの出来事や社会的な事象によって、環境やテーマは変化してきたことを実感するので書き留める。

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―2001年 米同時多発テロー

( 2001年大学卒業 )

2001年ー2005年
《日本の内側》
「戦争のかたち」=日本全国をバイクで旅しながら戦争の遺構を調査撮影、その延長で台湾や韓国へと。「日曜画家」「Re-Fort Project」

2006年ー2012年
《日本の外側 東アジア》
「torii」=日本の国境線の外側を旅しながら日本人によって作られた鳥居を調査撮影

―2011年 東日本大震災/福島ー

( 2012年結婚 )

2011年ー2013年
《自宅の近所》
「bridge」「ははのふた」=自分の日常の周りから、無名で小さな創造物を探す
「14歳と世界と境」=日本やアジアの中学生のインタビューで新聞連載を作る

2014年ー2019年(コロナまで)
《日本の境界線上 沖縄》
「津波石」「沖縄ガラス」=日本の内側と外側の後に、その境界線上の沖縄へ興味が移行する。

( 2018年娘生まれる )

― 2020年 コロナウィルスパンデミックー

2019年(コロナ禍)ー
《瀬戸内海の島》
「瀬戸内「 」資料館」=生まれ育った瀬戸内の島に移住して、旅をせず住みながら地域のアーカイブを作品として制作

NY日記?

ニューヨーク滞在はすぐに過ぎていった。時差ぼけの頭で日々バタバタと忙しい2週間だった。こっちに住む日本人アーティストの後輩やその友人たちに日常や生活や情報を垣間見せてもらったり。全然、観光的な写真を撮ってなくてアップするものがないが、朝起きた窓からの普通の朝とか、一応少しアップします。楽しかったなぁ。

ニューヨークの個展の話

山下道ラジオ 第162回 NY編

ニューヨークに2週間滞在した。その間に現地から毎週月曜のルーティーンワークの『山下道ラジオ』を録音した。友人によると一つの《神回》になったという意見も。

で、帰国した後、直島で「ニューヨーク見聞録」というトークイベントを開いた。海外に少し滞在して、その話を人を集めて話すなんて古臭いイベントをやることになった理由は、コロナ禍でさらに原油高で遠い海外旅行が行けない状況やアートに興味を持つ島民が多いことなど。あえて「見聞録」と古臭いタイトルをつけた。以下の日記はその「ニューヨーク見聞録」のために書いた原稿だ。

僕の置かれている状況を包み隠さずに話すために、
さまざまな 「アーティストの分類」ができるがあえてこう2つに分類して話を進めたい。

「プロジェクト型」と「コマーシャル型」。

「プロジェクト型」=フィールドワークをしたり、地域とコミットしながら、プロセスを重要視しながら作品を作るタイプ。
「コマーシャル型」=絵画や彫刻などスタジオやアトリエで制作され、場所などと強くコミットしないタイプの作品。

この二つは実は国内では
「プロジェクト型」=芸術祭に呼ばれやすい。美術館の企画展にも呼ばれやすい。=販売しにくい
「コマーシャル型」=ギャラリーと契約して展示をすることが多い。=販売しやすい

もちろん、プロジェクト型で売れる作品を作る人はたくさんいるし、コマーシャル型でリサーチベースの作家もいるが、あえてこう2つに分けて書いている。(業界の人からはいろいろ言われそうだけど、業界を知らない人にもわかりやすくするために、あえて書きます)

僕は「プロジェクト型」に属するだろうと。
プロジェクト型は展示や世界の芸術祭には呼ばれやすいが基本販売に向かない。つまり、美術館や芸術祭で活躍している作家が売れているとは限らない、ということだ。そしてその逆、美術館や芸術祭で活躍していないが売れている作家はたくさんいる。(もう少し踏み込むと、芸術祭などの土地や場所やテーマに合わせて新作を求められて作品を作った場合、その作品を他の場所で発表したり販売するのは難しい作品になる傾向があることも「プロジェクト型」が売れにくい原因の一つだろう。それなのに、企画展や芸術祭の謝礼というのは作品の販売価格から見て低すぎる現状である。)
僕の場合、「プロジェクト型」ではあるが、ある地域を長期に渡り調査するがアウトプットはその土地とくっついていないので、いくつかの作品は美術館に収蔵されたりしているが、残念ながらコレクターからはほぼ興味を持たないし、コマーシャルギャラリーからのお誘いをいただいたこともない。僕自信がコマーシャルやビジネスの才能もないし外からの期待もないのだろうと諦めつつ、だから、数少ない強く応援してくれる人々によって、こうして自分で(家族と)サバイブしながら、自分の作りたい作品が継続的に作れるだけでも本当にとても恵まれたことなのだとは常に感じている。

僕自身、最初から目標やそういう作家像があったわけではない。作品を売って生きていくというよりは、まずは自分がやりたいことに向かって進み、他の仕事をしながら自費で調査を始めて制作しながら、それを本にまとめて販売したり、助成金や美術館や芸術祭から制作費や謝礼をもらいながら、作りたい作品を作っていたら今の流れになっていった。それは、振り返ると、研究者などの生き方に近いのかもしれないなぁと思う。ビシネスではなくて研究費を得て、本を書いて、死なない程度に生きながら研究に専念するような。(続けているアーティストがみんな売れているのではなく、こういう生き方もあるし、アーティストの生き方も生き方も様々だということ。)
自分で作った物をバンバン売って商売をしている感覚はない。ただ、画家の友達のように、コマーシャル型の作家が自分の物を売りながら生きている状況に憧れもあるが、その辛さも知っているし、諦めのようなものもあった。なぜなら、売れる物を作ることに頭を悩ませる暇があるなら、面白い調査発表をして成果を出すことの方が優先したい。売れるものを作るのもかなりの才能と努力がいる。両立などは考えもしなかった。でも、僕は現時点で国内ではとても恵まれていると思っているし、家族と生きられているし、最低限では生きられている。

さらに踏み込まなくてもいいところを踏み込んで話すと、
40歳を超えて、作家にも家族ができる。するとやはり安定が必要にもなるし、美大の先生の職に就くことが多く、これも研究者と立場は似ている。しかし、かつての美大の教授のように研究だけをやってられないのが今の大学(特に私大)であり、安定とやりがいと引き換えに作家としての活動ができなくなる人も多いのはよく見る。僕は学部卒であるので教員になれるかは疑問だし、美大の先生で美術作家を生み出す仕事に自分には向いていないのではないかと思っている。逆に島で子供に小さな塾を作り、東京で中学生の塾を始めた。これはそれに対する自分なりの抵抗の一つかもしれない。

で、この前提で、こんな僕にニューヨークの個展の話がきたのだ(話にようやくNYに接続する)。

ちなみに、僕にこのギャラリーの企画を持ってきてくれたのはまだ若いエイミだった。彼女はNY在住の博士課程の学生であり研究者でありキュレーター。優秀だし多忙だ。アメリカと日本の関係や植民地主義など、そして日本の独自の芸術祭に興味を持った研究者であり、若きキュレーターである。彼女の修士論文は”日本の地域アート”についてで、2016年には小エビ隊として働いた経験もある。実は、2年ほど前、彼女は僕に最初は別の企画を持ってきた。その展示企画は、今年の夏に実際にNYで開催される小規模区の展示で。NYの小さなNPOのギャラリーで植民地主義をテーマにした日本の若い作家を集めた小さなグループ展に参加してほしいというものだった。その流れの中で、彼女から「せっかくなら「torii」の作品を別のギャラリーでも展示しませんか?」というもう一つのオファーをもらったのが今回の個展の話だった。つまり、グループ展と個展の二つの依頼。僕としては、NPOのギャラリーでの彼女の個人的なキュレーションの展示が2つあるのだと少し勘違いしていた。ギャラリーの図面を見ても2つの展示空間もとても小さいし、エイミも熱意があるし面白そうだからオファーは受けるが、実験的な企画で、正直、ニューヨークの展示ではあるけど、この展示に参加することで何か大きなチャンスを得る可能性は低いと思ったし、正直、彼女の企画に”作品を貸し出す”という気持ちだった。

ただ、ニューヨークの個展の準備を出発半年前、2022年の秋くらいからバタバタと始める中で、「あれ?この個展は少しイメージが違うぞ? コマーシャルギャラリーだし、個展だし、新しい展開かもしれないぞ…」と気が付いた。なぜなら、エイミではないギャラリースタッフからやたらと契約書や保険や書類が多いしきっちりしている。そんな時、向こうから「今の時期、シッピングが非常に高価なので、下道はNYには来ず、ZOOMで遠隔で展示を作ってほしい」と連絡が来たので、とりあえずいろいろな提案をして実際にNYに行けるように交渉した。実際にNYに設営やオープニングに立ち会えるようになり、さらに1週間滞在を延長して友人の家に泊めてもらいながらNYを吸収するタイミングにできる準備をした。その中で、もう一度このギャラリーについて、調べようとネットで検索したが、できたばかりのギャラリーでよくわからないので、NYに住む日本のアーティストや関係者に質問していくと、僕が想像していた方向性とは違っていたことが分かってきた。

ギャラリーのオーナーは日本の写真を専門してNYで活動してきたディーラー。これまでは日本の写真のコマーシャルギャラリーのニューヨーク支部の販売を手伝っていたが、その日本のギャラリーが撤退した後、1年半前に自らギャラリーを始めた。ただ日本の写真が本当に好きでとても詳しいし、販売の実績も十分あるようだ。日本人の写真家を中心に紹介していく予定で、若手では僕が初めてのようだ。ただし、本人はギャラリーなどはするつもりはなかったようで、自分は販売専門で、展示の企画は若いキュレーターに任せる方針をとっているのが非常に変わっている形態だ。

実際に今回NYに行ってみると(前回は2008年、NPOのギャラリーでのグループ展のために数日の滞在だったが。)、ギャラリーの立地は、ビルの8階の1部屋と小さいが、チェルシーのコマーシャルギャラリー街のど真ん中のビルの中に入っている。アメリカのいや世界のアートのコマーシャルの中心の小さな部屋。さらに、なんと、今回の個展のために、アメリカの美術雑誌ARTFORUMに個展の一面広告を出している。その時の他の1面広告の日本人は塩田千春さんの巨大な個展などだからどのくらいの気合いかが伝わってくる。ギャラリーは売る気満々だ。(当たり前だ、僕の旅費や作品の輸送だいや額装代などすでに100万を超える出費だし、この家賃を払いながら1ヶ月半個展を開催するのだから。)
値段や契約の交渉を何度も行う。周囲の友人知人からは「アメリカは言いたいことを言わないと損。顔色なんてうかがっている暇はない」と言われ、一人頑張る。相手には「ミッチー!あなたはこの経歴と作品を持っているんだから自信を持ちなさい!インターナショナルな作家として挑戦してみましょう!」と言われる。これはコマーシャル、ビジネスへの挑戦なのである、しかも日本を飛び越えて突然始まったアメリカでの。
僕の世界に新しい小さな窓が突然開いて外に海が見えた、ような感覚だった。
ただ、そこから外に出られるかはまだわからない。


一体どうなる…。

制作におけるプロセスと完成以降の体験

半年前のこと、島でやっている小学生の塾「島の子どもの研究室(しまけん)」で、島の小高い山に登ったことがある。以前より個人的に島にはいくつかの山頂がありそこには木が生い茂り、誰も登ってない様子が気になっていたのだ。その中の行きやすそうな山を調べて、実際に子どもたちと3人でみんなで登ってみたのだ。植物をかき分けて1時間くらいかけてみんなで山頂に。そこからはみたこともない方向から瀬戸内海や島々がばーーっと見えて感動した。僕も初めて登った。みんなで宝箱を見つけたような興奮に包まれた。その延長として、今年の夏は、彼らと近所の島々を調べてまとめて展覧会を開こうと動いている。(さらにその展示がアーカイブの一部になっていく。)

多分、僕がこの数年(ベニス後でありコロナ禍で)大切にしてやっていること(のひとつ)はこういうことだと思う。”弱い表現だけど、しっかりとした学びが双方向にある体験を作ること”。双方向とは、絶対に僕が教えるのではなく、自分自身も学びがある方法、ということ。
ではでは、数年前までの制作のことを、山登りに例えるとどうなるかというと。まずは飛行機でネパールに行って、現地で山登りに詳しいシェルパを雇って、世界一の山頂を目指していた、といった感じだろうか。もちろん例え話である。一人で高みを目指していた。
何が言いたいかというと、これは制作プロセスと達成や目標の話であり、コラボレーション(協働作業)と作品制作との関係性についての考え方の変化の話だ。
どの山に誰と登るか。さらにはその体験をどのように人に伝えるか。
つまり、制作プロセスの体験を誰と分け合うか。そして作品の到達する方向性や完成度や体験どう決めるか。それらを同時に考えているということ。

2001年から作った「戦争のかたち」は、一人旅をベースに写真を撮影しながら徐々に作品を制作した。その制作のプロセスや旅でさまざまな事件やそれからの学びが起こっていった。それ自体がすごく刺激的で重要であったが、カメラを手に一人で旅をしているので、その部分は旅の日記として残していきながら、出版物/写真集としての完成物の中に入れて混ぜていった。しかし、写真の展示を作る場合はその長い日記を見せることは難しい。それは少しもどかしいことでもあった。
次の「torii」のシリーズの場合も、一人旅をベースに写真を撮影しながら徐々に作品を制作する方法をとったが、前作ではできなかった写真だけでしっかりと見せられる写真シリーズを目指した。その制作のプロセスでさまざまな事件やそれからの学びが起こっていく。もちろん日記も書く。でもその経験をも写真の中に少しでも含ませられるように意識していた。もちろん、写真集の中には日記も掲載したが、プロセスを意識的に削ったり結晶化するという意味では、大きな違いがあった。
ただし、やはり基本的には、この二つの経験では、何かを調べたり見つけたり出会ったたり、そういう学びが一人の中で発生してしまう。(そこで「Re-Fort Project」という共同作業が生まれてきて、さらにそこでコラボしていた服部くんの企画でさらなる発展系の日本館への挑戦へと、プロセスでの共同作業は発展していく先に僕の今はあるのだけど、それは少し置いておいて。)

僕の目指してきた最終的な作品というのは、基本、作家の手から離れて、自動再生機のように人々に体験をもたらせるもの。つまり、どこかに置かれて、多くの人々に鑑賞されるもの。それは、文学でもアート作品でも写真作品でも多くはそうだろう。置かれたものが人々に語りかける存在というのは簡単そうで難しい、だから必死に考えて頑張ってきたが、逆にそういうものに対して常に疑問や嫌気もある。それは、ここで言っている作品はアーカイブに委ねすぎているし、パフォーマンスやライブの清々しさに比べてかび臭い。(これは後々田さんの言葉。)それゆえに、油絵の筆跡のように、作家はその制作プロセスをパフォーマンスの記録のようにその作品内にうまく残しながら、シンプルで複雑な表現を目指してきた。し、逆にいうと、プロセスの中での学びの残り滓のようなものであることもあるし、僕の二つのシリーズでのプロセスの残し方はやはり筆跡の意識を持っていたと思う。

山登りの例え話。これはどういうことかというと。
例えば、多くの画家が絵を描く場合、一人でアトリエで一人で完成させるだろう。(=山に一人で登る) 次に、大きな作品の場合に手伝いを雇ってみんなで完成させるだろう。(=高い山に誰かと登る) でもその手伝いの人々は誰なのか?(=どこに登るかではなく誰と登るか) 例えば、その手伝いを職人などの専門職にお願いする場合、と、作家から学びたい生徒や弟子やインターンにお願いするのでは、体験が別のものになる。後者の方が後輩への学びの場になっている。しかし、「作家から学びたい生徒や弟子やインターン」の場合、どちらかというと、作品制作の手伝いの中から自分で学び取る姿勢になることが大きいのではないか。さらにいうと、作家が完成度の作品を目指していく作業を手伝わせているという意味ではどちらも大差はない。
恐らく、僕の最近の興味と実践としては、「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」と「完成した作品から受けられる体験や学び」を二つ同時に考えながら、意識的に新しくデザインするということであるのかもしれない。
多くの作家は「作品制作のプロセスの段階で発生する」存在を自らの筆跡として残すことを考える。しかしそうではなく、「作品制作のプロセスの段階で発生する」「体験や学び」を「完成した作品から受けられる体験や学び」と別のベクトルで考え構築するということを考えたいのだ。

ここで、一つ言っておきたいのは、作品制作でプロセスの体験自体に重点を置きすぎた場合に「完成した作品から受けられる体験や学び」が”弱く”なってしまうことが多いということだ。しかし、そこを妥協したくないし、今の段階で両立を目指している。それ自体が今の興味であり実験であり、完成した時に見えてくる新しさになるだろう。

例えば、「宇宙の卵」では制作時におけるプロセスでの協働と学びを見事に完成させたし、僕も多くを学べたと思うが、出来上がった作品からの受けられる観客の体験や学びは強くなかった。その両立のために、「瀬戸内「」資料館」では「プロセスの段階で発生する体験や学び」を重視しながら出来上がる作品が出来上がるが、さらにその先に長い年月をかけてさまざまな協働作業と完成が何度も起こっていき、それらが積層した状態を完成と考えていて、その完成予想図を持っているし、それによって、プロセスでの体験や学びをおこしながら、客観的な「完成した作品から受けられる体験や学び」を発生させようと考えている。

そうやっているうちに、一つ一つの調査や制作をより、いろんな人との共有していくことに興奮を覚えている。その一つが子どもたちとの調査と展示作りだと思っている。

軽視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 重視「完成した作品から受けられる体験や学び」

重視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 軽視「完成した作品から受けられる体験や学び」

という形であったのを、以下のようにする。

重視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 軽視「完成した作品から受けられる体験や学び」×多数→ 重視「完成した作品から受けられる体験や学び」

例えば、資料館では複数の協働作業やコラボレーションから展示や出版物を作っている。

・地元の主要産業の調査=「直島からみ風景地図」=地元男性二人とコラボ
・地元の食の調査=「直島すっぽんぽん新聞」=移住組の女性三人とコラボ
・地元の過去の産業の調査=「直島無人島地図(仮)」=地元こども4人とコラボ

他にもスタッフとの協働や部活動で協働など、

一つ一つの行動の完成したものを”軽視”している訳ではないが、それだけではしっかりと新しい作品形態にならないアウトプットであるが、それらを積み重ねていき、積層する形態を作っていくことで、より複雑に「完成した作品から受けられる体験や学び」を産もうとしている。つまりは、一つ一つのアウトプットがプロセスの一部である。

日記が停止していた理由

FBやTwitterやらSNSで日記や悩みや愚痴やらを全く書かなくなって久しい。
この自分のホームページのessayコーナーのみに書くようになって数年が経つ。

昨年の10月くらいに、ここに愚痴や悩みやらを書き散らかしたまま、そのまま筆が止まっていて更新が止まっていた。いや本当は書きたいことがあったが書けなかった。何人かの友人や知人から心配をされ、声もかけられていた。
実は、自分のホームページの形式(ムーバブルタイプというの)が古くなりすぎて、昨年10月に突然、更新のためのログインすらできなくなって、手も足も出ない状況だったのだ。
すぐにwebに詳しい人たちに相談をしてみたが「この形式に未来はないので新しくするのを勧めるよ」と、さらにやり直すには数十万円はかかるだろう…と言われ、好きな庭いじりができなくて、草ボウボウの庭を眺めるように落ち込む日々を送っていたのだ。
そんな中、(もう3年以上、週一の愚痴発散の)山下道ラジオで、そのことをクダを巻いたところ、ひょんな繋がりから、「私でよければ、お手伝いしましょうか?」との連絡があり救われた。サイトが動かなくなって、4ヶ月。ようやく新しいサイトが徐々に出来上がり、今日に至るわけだ。

ご心配なく。笑
元気にやってますので。

でもさ、この1年、少し愚痴っぽくなっているのは、全力で時間も労力もかけて作った2019ベネチアや2020東京の帰国展、さらに2021丸亀でのグループ展とが、全く業界内外から全く反応が返ってこないことにがっくりきているんだと思う。「torii」を超える新たな水脈をガンガン挑発的に見せているつもりが、業界内外から思うような反応が返ってこない、暖簾に腕押しの数年。中堅の壁か? 結構すごいバランス感覚だと思うんだけどなぁ。涙

でも、まだまだ、本気で暖簾に腕押しします。数人の理解者さえいてくれたら、進めます。

SNSは告知のみで、ここには今後もガンガン言いたい事や愚痴とかいろいろ書いていきますが、
今後ともよろしくお願いしますー。頑張るぞー

愚痴、直島、焼酎

(毎日がハッピーで充実しているのだけれど、あえて書きます。)

最近、脳が、思考が、停止してしまっていた。
メールが返せないし、溜まる一方で、思考が進まない状態。

瀬戸芸で《瀬戸内「 」資料館》の新作はオープンしたのに、この場合、展示のオープンは制作の終わりではなく、始まりを意味しているわけで。今週、オープン間もない展示会場で、資料館の棚作りをDIYしてて、ドライバーで指に穴を開けてしまった。血が出た。

なぜこうなってしまったのか。
なぜだろうか。
書いてみて整理してみたい。


今までは、3年前までは、
例えば2ヶ月に1つ展覧会が入っているとする。すると1年で6本。
でも、実際は大体、個展とグループ展合わせて、年間10本くらいはしているのでそれ以上しているが。一つ一つを進めて終わらせながら、先へと進めていった。1年が終わること、「今年も頑張ったー」と一息ついて、打ち上げをやった。
展覧会や芸術祭は期間限定なので、1年や半年前から準備が始まって、3ヶ月前くらいからバタバタと本腰が入っていく。そして、オープンすると重荷を下ろすように軽くなって、ぱたっと終わり、次に向かう。

しかし、、、
最近、子供が産まれて子育てもしっかり参加したいので、移動ばかりの生活をやめて、家族で島に移住して、毎日ルーティーンワークにしていった。(その直後にコロナ禍になった。)
それから、すでに2年半が過ぎた。
毎日、小さな島でルーティーンが続く。9時に子供を幼稚園に送り、その後、資料館/スタジオへ、17時に保育園に迎えにいくと仕事終了、8時に風呂に入れて9時半には寝かしつけて。その基本のルーティーンに加えて、資料館では月曜日木曜日は9-16時で「窯工部」、水曜日は17:00-18:30で「子供の塾」。さらに、土日は幼稚園が休みなので、子供が家にいるので、どこかへ遊びに出かけたりと、基本仕事はできない。
と、
こういう毎日のサイクルが完全に固定していて、さらにコロナ禍でそれが強固になって、ずーっと小さな島に閉じ込められているような感覚。3ヶ月くらいに一回展示の下見などで都市に行く。ひさしぶり感。コロナ禍で人混みに逆に緊張する。そういう生活に息苦しさをベースに感じるようになってきている。旅に行きたいのにいけないからもある。さらに、島から車で船に乗ると3500円かかるので、島の外にすら、なかなか出れない。サクッと行きたい文房具屋や飲食店にも行けない。1日の船の時間に全ての行動が制限される。(例えば、1時間ほど大きなホームセンターで買い物をしたいとする。船は9時と11時と13時と15時と17時だとして、子供を9時に送っていき17時に迎えにいく必要がある場合、13時から1時間MTGが入っただけで、ホームセンターへふらりといくのは断念せざる得ない。)

でも、ここまで疲れてしまったのはさらに別の理由があるかも。

実は、
最近の僕の最新作、現在進行形の制作中の作品/プロジェクトは《瀬戸内「 」資料館》と《新美塾!》。これらは、これまでと作品形態が全く違うことに挑戦している。これまで、沖縄のフィールドワークからの作品から一転。瀬戸内海の島に定住して、写真も撮らないし、旅もしない、ある意味”場づくり”的で”ラーニング”的で実験的。旅して撮り溜めて編集して発表して終わり!準備してオープンして終わり!ではない方向へとどんどん進んでいる。こう言う作品形態には、人間関係の構築があるので、種まき、水やり、などが日常的に必要である。なんというか、子育てと一緒で、ずーーーーーーっと終わりがないのだ。(こう言うことを”作品”としてやって、終わりがあるなら、それはそれ風の作品なのだろう。)
ま、毎週毎週、島で子供に塾をする、島に部活動を作る、というのを始めたもう一つの理由が、周囲の同年代の作家が「美術大学の先生」になってきていることへの反抗かもしれない。ゼロから自分で島で学校のような学びの環境を作ってみようと。だから、数時間のワークショップで終わりではなく、ルーティーンで毎日毎週で長くガッツリやってみたいのだ。

さらにさらに、
今まで通りに、(ありがたいことに)、作品を展示する仕事も入ってくる。
そう言う今まで通りの感じで、展覧会に参加しながらも、それに加えて、終わらない作品形態を実験し続け(それは終わりも完成も見えず)、その二つの予定をやりくりする。娘は超可愛いし、毎日劇的に成長するから見届けたいし。そう言う、いろんな状態が重なりまくって、終わりも”打ち上げ”もなくて。なんだろう、この今までに体験したことのない、バラバラの生活サイクル/時間の感覚を一度に強引に体に投与するような。

僕はその道を進まないように生きてきたからかもしれない。
もちろん、人間関係や大きな意味での制作やフィールドワークに終わりはないのかもしれない、でも、「制作して発表する」ということの取り組み方が自分の中で変わっていっていて、それによって今、心身疲れてしまったのかもしれない………


あ!
すみません!
メール返しますー!
もう少々お待ちくださーい!

依頼を受けるか断るかの基準をバカ正直に書いてみる。

仕事の依頼が来たときに、こういうことが1つ以上含まれていたら、前向きに心が動く。

・一緒に仕事をしてみたい人である。
・展示してみたい空間である。
・制作してみたい場所である。
・新しく挑戦してみたいと感じる内容だった。
・内容は響かないが、交渉をして良い機会にできそうな感じがする。
・物凄いリスペクトがあり、熱意がある。
・しっかりとした対価が支払われる。

本当なら複数ほしいが、一つでも強烈なら前向きに進めることが多い。
こういう中で、「しっかりとした対価が支払われ”ない”」が「制作してみたい場所である」とかが、よくあるパターンで、これが”やりがい搾取”というケースに分類される。それはそれで良い場合もあるので、ケースバイケース。

ただ、「一緒に仕事をしてみたい人である」で「制作してみたい場所である」で「しっかりとした対価が支払われる」で「物凄いリスペクトがあり、熱意がある」とかはほぼ出会わないし奇跡中の奇跡かも。
(でも、最近、そういう仕事も少しずつ増えているので、逆に1つしかない仕事を受けにくくなってきていて悩んでいるのかも。)


逆に、
こういう依頼が来て、頭を悩ませる。
いや、それは人それぞれなので、これは僕の基準で、こういう依頼だと、少し身構えるという話を書くと。

・僕の事や作品をよく知らない人である。
・魅力的な仕事をしてきているように感じない人である。
・全く魅力の感じない場所/空間である。
・制作日数が少なすぎる。
・製作費や謝礼が(ほぼ)ない。


想像してみてほしい。
「僕の事や作品をよく知らない人」から、「全く魅力の感じない場所」での制作依頼は、「制作日数が少なすぎ」て、メールには『薄謝ですみませんが、、』と書かれ、明らかに赤字である。

「お金はないけど、自由に使ってくれていいですので!ぜひやってみませんか?」というケースもよくあるが、力と意欲が有り余ってて放出したいアートな若者ならいいが、普通の社会に生きる大人の仕事としては、キャッチャーすら取れない暴投のレベルでバッタとしてはバットをふることが不可能。そうゆう余力があるなら、自分のやりたい場所で勝手に発散するだろうし。

基本、求められるのは嬉しいのであまり断らないように前向きに考えたい。でも、リスペクトもないのに、空間を埋めるコンテンツくらいにしか思っていないケースはさらにお金がないの三拍子が揃いやすく、断るしかないし、怪我しかしない。

ま、一言では言えないし、問題は根深いので一概には言えないが。
もやもやするので、書いておく。


(「下道も偉くなったのぅ…」みたいな話で片付けないでほしい内容なので書き留めました。)

小さな手作りの学校

この一年以上、小さな手作りの学校を自分でやろうと、ない知恵をしぼっている。ま、時間だけはあるので。

これまでは、いろんな遠い場所を旅して、新しいビジュアル的な体験/視覚芸術作品を作ろうとしていたが、
コロナ禍の島での子育ての中で、制作やプロジェクトの方向性を少しシフトチェンジしている。

自分にとって、高校までの学校の経験というのを厳しめに書くと、
近所に住んでいると言うだけでバラバラの個性や性格の同じ年に生まれた子供があつめられ、興味もモチベーションもないことを色々とさせられる場所。(中学校などはさらに授業を妨害する生徒もいるわけで。数少ないモチベーションのある子まで邪魔される。)
先生はそういう子たちを数十人とかを同時に動かしながら同じ目標まで一緒に連れていく努力をする。社会で協調性を持って、一人で労働者として働けるまでに子供を仕上げる(工場のような場所)。(いや、個性を尊重して伸ばしてくれる良い先生もいた。でも現代、やる気のない生徒に「やる気がないならやめてしまえ」はパワハラになるし、みんな同等にケアしないといけない。そのせいで先生すら脱個性でモチベーションを失い工場の機械になっていく。)
個人的に高いレベルや教科以外の興味には対応しにくい特性もある。これまで、より高度な受験に対応できない学校に代わって、進学塾が発展した。今後は、それぞれの個性を伸ばすのも対応できない学校に代わって、勉強以外の塾/フリースクールは発展していくだろう。さらに、日本の学校は、お金がなくなり、どんどん保守化し、国際力を失っていくし、人間性や個性を伸ばせない方向へ。反面教師としては十分効果的な存在ではある。
つまり、学校は近代の歪みに満ちているのは明確で、近代の歪みと人々の生活と環境や風景に興味を持っていた僕がこの辺りに興味を持つのは真っ当な流れかもしれないなとも思う。さらに、この疑問に対してイメージの力で批判とか愚痴を言うのではなく、アクションを起こして実際に小さな変化を生み出してみたいと考えるようになった。自分でできる範囲で、家庭菜園を作るみたいに。


本当なら、学校は、
興味やモチベーションのある生徒が来る場所で。目標はバラバラでその子の個性に合わせて変化していくカリキュラムで。新しい仕事を作っていける生徒を輩出できたら最高だけど。
でも、もし、そんな学校を作るなら、ものすごく学費の高い学校になってしまい、結局、お金を稼げて意識の高い「親」のいる子供だけの特権になってしまうだろう。(逆に、今の日本でも、親は貧しくなるばかり、貧富の差が激しくなり、実力ややる気以外のヒエラルキーが社会に蔓延る。)
いや。でも。できる範囲でやってみても良いんじゃないかな。と思って、はじめてみる事にしたのだ。

今、僕自身、子育てをしていることもあって、「教育」に今までになく興味やモチベーションがあるし、まだ脳もそこまで硬くない状態なので、今のうちに自分のプロジェクトとして「教育」について関わってみたいと考えている。
その手探りで手作りの学校が、「しまけん!(小学生向け)」と「新美塾!(中高生向け)」なのかも。生徒は「しまけん!」が4人、「新美塾!」が13人。17人の個性と向き合うだけでも結構な仕事量と充実感。いつも脳のどこかで彼らのことを考えている。
「しまけん!(小学生向け)」は、僕の小さな島での実験として、無料で行なっている。生徒は逆指名性。僕が選んで声をかける。こんなの都市部ではできないだろう。さらに、「新美塾!(中高生向け)」は国立の美術館の企画で、無料。だけど、美術館の教育普及チームと本気で作っているし、無料なのに美術館独特の知恵と贅沢さがある。

問題があるとすると、すごい労力がかかっているが、稼ぎにはならないということ。それ以外はベストができている。今は収入にならないけど、時間があるから、今のうちに、こういう実験や実践をしておくことは、将来に何かの道になるだろうと、思っている。
でも、相当な負担がかかる。しかも、その逆に、すごい達成感もある。
だから、これまで仕事の中心になっていた「自分の作品を作る」「展示を作る」というモチベーションが、一気に色褪せていく。
その場所で専門性が出てきた瞬間に、野に下る癖なのかもしれない。
また目の前に、新しい荒野が広がっているのだ。
足を踏み出せ。

デンマーク日記

ヨーロッパは3年ぶりだろうか。デンマークのオーフスに来た。人口30万人なので首都コペンハーゲンとは比べられないほどのんびりした中規模都市。有名大学があって学生が多く、お洒落な店は全然ないが、夕方からバーや公園でビールを楽しむ学生や人々。清潔感があって、雪解けの春のような爽やかなエネルギーの満ちたこの街がすぐに気に入った。
オーフスには二つ現代美術館がある。僕が展示するのは、(オラファー作の屋上展望台が有名な)大きな美術館「アロス・オーフス美術館」ではなく、そこから歩いて5分の小さくてかわいい美術館「オーフス現代美術館」のほう。今回は海外での初個展の設営のために、一人異国に来た。大きな方の美術館は、現代的な巨大なホワイトキューブとコレクションを有するのに対して、こちらは平屋で焚き火もできる庭があって、展示室とカフェが緩やかに繋がっていて展示のためにくるというよりは公園に遊びに来るような感じ。照明も天窓から自然光を取り込んでいて、空間も人もリラックスしている。歴史も100年以上あるから、人々は愛着を感じているようだ。

今回は、度重なる展示期間の延長、コロナ禍の移動のストレスに加え、輸送費や保険などが厳しくてたくさんの作品を手持ちで運ぶことや、ロシアを迂回して飛ぶ飛行機と高騰するサーチャージ、さらに現地でのワークショップがなくなるなど、出発前には大きく気持ちが落ちていました。(逆に家族や友人たちから「北欧、いいなぁ〜。」と羨ましがられすぎて、ストレスを溜めていた。)ただ大変なストレスを抱えつつもこちらに来てみると、美術館やスタッフ全体からリラックスした空気にすぐに感染した。デンマークではマスクは誰もしていない、コロナ禍の日本に閉じ込められている2年以上の時間から少し未来の世界へタイムトラベルしたような感覚で、目が覚める思い。
展示空間は広くはないですが狭くもなく。何より自然光が美しい空間に励まされ、元気が出る。スタッフはさなまざな国出身の多国籍チーム。展示前なのにみんなリラックスしててそれにも励まされる。設営準備中でも人々は公園やカフェに来るようにこの小さな美術館に来る。僕の小さな作品たちには十分な小中規模の個展。内容は一昨年の都現美のTCAAのような作り方を実践。僕がこれまでやってきた、ある意味バナキュラーな旅、東アジアの境界線上という限定されたフィールドで思考しつくられた作品たちを別の地域の観客たちはどのように受け取るのか。今回はオーフス現代美術館の企画展は、韓国との交換プログラムがベースで、韓国のキュレーターのヘジュさんが誘ってくれた。ここまで僕の活動を深く理解してくれている彼女に感謝しかない。

なんて言えばいいのだろう。公共施設を回し予算を使うたために作られるモチベーションが強くない企画とかもそうだけど、作品を地球の反対側までお金や労力をかけて運んで展示して、1回1回作っては壊しを繰り返す展示とか、そういう自分が関わっている環境の後ろめたい部分?に疑問を感じる最近。数年前の現美のオラファー展を見た時にそれは考えさせられたけど、別にオラファー展にその解決はなされていなかったし。ユーモアを武器にモチベーションを取り戻そうと力みすぎるとパワハラになってしまうのではと急ブレーキ。誰のため?自分のため?これ誰がやりたいの?誰が見たいの?自己顕示欲?承認欲求?美術の歴史のため? その自分が置かれた場所に疑問を持ち、実践していきいたいと考えている道がここにも続いている。その疑問への答えを探す船のように、小さな直島に自ら閉じ込められ住みながら進めている小さな地域のアーカイブ/美術館を作るプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》は(2つの瀬戸芸を越えて)最新作として、さらにゆっくり強くなっていくはずだと信じている。さらに、はじまった「新美塾!」も未来。

色々大変な思いの末の異国での日常が始まった昨日。展示空間はまだ空っぽ。さらに、明日から連休らしく、みんな休む気まんまん。でも、ここまできたら、なるようにしかならないので、ベストを尽くすだけ。なるようになるし、なるようにしかならない。
小さな島(直島ではなく日本だろうな)から少し連れ出してくれた友人に感謝。
いや、まぁ、やはりこれは羨ましがられる機会というわけなのだろうかな。
自分のベストで。

2022.5.25

「入口のライターはなんですか?」

瀬戸芸が始まり5月のゴールデンウィーク、直島にはすごい人数の人が押し寄せている。
時間帯によっては、フェリーに乗れない人も出てきている。
コロナで海外からのお客さんがいないし、美術館などでも人数制限があるとはいえ、「ゴールデンウェーク」の「直島」は想像以上。なるべく家から出ないようにしていたが、外はお祭り騒ぎなので、なんだかソワソワしてしまう。

瀬戸内「 」資料館にも多くの人が訪れている。そんな中で、スタッフへの一番多い質問は「入口のライターはなんですか?」だという。それに対して製作者として、その”返し”を簡単に考えてみると。
『浜辺の汚いゴミを”標本”のように集めて並べるだけで、ステンドグラスとして美しく転化してみた』
ということだろうか。シンプルに。
瀬戸内「 」資料館との接続としては、コンセプトの根底にあるのは、
オブジェや絵画をうまく作るだけがアートではなく、ただただ「調べてまとめる」とか「集めて並べる」だけ。でもその面白さがビジュアル的に形になって伝わればと思っている。「調べて自分なりの発見を視覚化して人に発表する」その楽しさ。それは僕だけができる特殊能力ではなく、子供でもできるはずでそれが「しまけん」であり、カラミ調査であり。

ファサードの可能性 2

・ゴミのステンドグラス

瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、元パチンコ屋のリノベーション建築だ。
瀬戸内「 」資料館は、そこに寄生する形でプロジェクトは展開している。
建築として、パチンコ屋当時の面影を伝えるのは、入り口のガラスでできたファサード。

瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、直島観光マップに記載されている。
しかし、普段はオープンしていない。企画展が行われている時だけ開く。
そんな建築内で資料館で、日々仕事をしていると、レンタサイクルに乗った観光客が日々やってきて、開館していないことをぼやいたり、鍵のかかった入り口の扉をガタガタと動かして閉館を再確認している。

そのファサードに新しい作品を作ってみた。
漂着ライターのゴミのステンドグラス。光を通して美しい。
漂着物の標本のようなイメージ。資料館の新しい目玉。

海に流れ着く漂着物の100円ライターを浜辺で拾った。
でも、こういう漂着物は誰しもがオブジェにして”アート”にしやすいから”気をつけている”。
漂着物にはすでに偶然性や”味”や”物語”がある。それをパーツに立体物を作れば”アート?”になりやすい。僕も漂着物には魅力を感じるし、異国の南の島から流れ着いた椰子に思いを馳せる。でも、それで作品を作るなら、注意する。(見る人によっては微妙な差かもしれないが)漂着物を加工してくっつけて魚やロボットや何かしらの立体物にするようなことはしたくない、そのままに”並べる”だけで、よりシンプルでより深い作品にしてみたい。方法は、まず、漂着物ならなんでもいいからいろんな物を並べるのではなく、
・一つの漂着物だけを選ぶ
・並べ方や置く場所を選ぶ
・並べる順番は意味を与えない、偶然に任せる。
・なるべくシンプルに。なるべく複雑な意味を内包する。
それだけだけ。
ここには、瀬戸内「 」資料館のコンセプトである、”集めると並べる”のみの、標本的な見せ方、そして、パチンコ屋のイメージや大量消費社会に対する疑問などなど、いろんなコンセプトがあるのだけれど、ま、一言で言えば、”映え”を狙ってみたかった。
いやいや、”映え”というとSNSに振り回されているように聞こえるが、通常閉館しているこの施設は、いつも観光客が中には入れないが、そういう人が見たり参加できる要素を通りに向けて作りたかった、ということかもしれない。

・「このギャラリーはいつも開館していない」

この建築で、ファサードの可能性や重要性を考える上で外せない理由は、「このギャラリーはいつも開館していない」ということ。閉館しているからファサードの重要性が高まっている。これは建築家の理由ではなく、使う側としての理由だ。(僕は通常開館したいが。)
地元民たちは「宮浦ギャラリー六区はほとんど開いていない」という。宮浦ギャラリー六区が、いつも開館していない理由をよく聞かれるので、そのことにつういて書いてみたい。

宮浦ギャラリー六区は、元々、ギャラリーとして作られたので、作品あっての空間で、ただの空っぽの空間しかない。その中で企画展が開かれた時に開館するために作られているから、企画展が行われていないときは閉館している。当然といえば当然。だからと言って、美術館のように常に新しい企画をここで展示し続けられるか?といえば、ここを管理運営する福武財団は、”このギャラリーを企画展で回し続ける”ためのギャラリストや学芸員はいない。つまり、宮浦ギャラリー六区は、通常、ハードのみが存在している空き家状態で、たまーに展示でオープンしている状況にあった。ただし、直島観光マップには他の施設同様に掲載されているので、観光客は回ってくる、しかし、基本的に閉館状態。というわけだ。(建築家の作品として外観を鑑賞する、という見方もできるが。)

瀬戸内「 」資料館は、僕は、そこに寄生することになった。
しかし、この企画の構想段階では宮浦ギャラリー六区ではない場所が想定されていたが二転三転してここに流れ着いたし、資料館の企画は宮浦ギャラリー六区という建築家によるギャラリー建築と合わないと直感で感じていた。(その理由は以前に何度も書いたのでここで書かない。)
結局、僕は移住し、通常は空っぽだった宮浦ギャラリー六区に、テーブルと椅子、空っぽの本棚を置き、毎日ルーティーンワークを始めた。月曜日から金曜日、9:00-17:00は、館長が作業をしていて、ふらりと立ち寄る島民と話したり、島民と何かを一緒にやったり、自分の仕事をしたり、アーカイブや企画展を構想し制作し始め、すでに3年目である。

移住までした理由は、やはり子育ての環境が第一だったが。自分が島で資料館を作るのなら、その土地の日常を見ながら、ゆっくりと時間をかけて積み上げていくべきだと思ったからで。それは、これまで”置いて終わり”のプロジェクト作品をこれまで何度も見てきたし。プロジェクト型の作品はそのコンセプトの中に”継続性”と結びつきを持ち、従来の作品形態の”置いて終わり”や”完成”を嫌う部分もあるはずだが、結局多くのプロジェクト作品はその”継続性”を産まず、そういうコンセプトやデザインだけが残された、”置いて終わり”の作品ばかりであることへの疑問。そんな中で、僕自身、これまでの数年かけて旅をして写真シリーズを作ってきたが、さらにその先の新しい作品として、プロジェクト型の作品、本当の”資料館”であり”アーカイブ”を作るのであれば、間違いなく、”継続性”について考え、できる限り僕がそこにい続けることが作品にとって重要になると、なんとなく感じたし、それは移住の一つの理由であった。

話が大きくそれてしまったので軌道修正する。

では。
宮浦ギャラリー六区が、瀬戸内「 」資料館として、いつも開館している施設になることができるか?
について書きたい。
なぜなら、僕としては、瀬戸内「 」資料館を近い将来、本当の直島の資料館にしたいと考えている。(作品として資料館的な体裁ではなく、作品であり普通の資料館として。)僕としては、瀬戸内「 」資料館は図書館でありミュージアムなので、公共の施設として島民にも活用してほしい。企画展の時だけではなく、銭湯のように通常営業したい。つまり「鑑賞者が入館料を払って見れる」と「島民が無料で利用する」の両方、つまり言い換えると「現代美術の作品として見れる」と「普通の図書館として利用できる」の両方を持つものにしたい。さらには、当たり前のことだけど、継続していくためには、最低限赤字を出さない、ということが普通に大切だと考えている。(素晴らしい理念のもと、過去の遺物を収集した民俗資料館が運営できず休館や埃をかぶっている光景をよくみるし、そうじゃない民俗資料館の在り方を提示したいし実験したい。)
この施設を客に開くには、作品を管理する受付や監視をする人や光熱費が必要となる。(あり得ないほどどんぶり勘定で)簡単な計算をしてみると、1日人を一人雇い、他の費用も考え、例えば、10000円/1日コストがかかるとする。そうすると赤字を出さないためには、入場料500円だとすると、毎日20人の入館者が必要となる。監視の人が2人必要なら毎日の入館者はもっと必要になる。こういう簡単な計算なしで、スタートして継続できなかった資料館は全国にどのくらいあるのだろうか、僕の作る資料館がそうならないためには、こういうこともある程度考えておきたい。
宮浦ギャラリー六区の空間はとても小さい。空間内をゆっくり歩き回っても数分。入り口から全てを見回すことができる。さらに、僕には島内の他の作家のようなネイムバリューもない。そこに500円払って入館するか?

現在は、年間1-2本の企画を資料館内で行い、その1ヶ月や2ヶ月のみ集中的に開館している。さらに今回のような3年に1回の芸術祭の期間もあいている。
では、さらに、通常営業をするためにできることは?

今、すでに挑戦しているのは。
・受付と監視を1人でできる動線。
・空間を小さく感じさせない。(密度を増し、さらに裏のへんこつにつなげて展開を作る)

今後やっていきたいこと。
・Webサイトを作り、蔵書の検索やイベントなどを見られるようにしていく。
・さらに、空間内の密度や展開を増やす

さらに先の可能性。
・週1や週2で開館していく
・アーカイブを継続的に続ける
・島民によっての資料館になるために地域と連携していく

どちらにしても、ファサードは資料館の顔。
今まではギャラリーとして、いろいろな可能性を持った無機質な雰囲気だったが、
もうそろそろ、瀬戸内「 」資料館としての個性をむき出しにして、宮浦ギャラリー六区に閉じ込められた中身ではなく、殻を破る挑戦の時期がきたのだろう。
とにかく、元パチンコ屋の宮浦ギャラリー六区が残している当時の建物の部分はファサードだけであり、さらに、瀬戸内「 」資料館は内部(入口ホワイトキューブ以外)は撮影禁止にしているので、このファサードをどう使うかは、作家に投げられた一つのミッションであり遊べる場である。

旅する部屋

娘は自宅待機。
でも、子供は外に出たがる。
コロナとか自宅待機とか言っても3歳児は理解できないし。
歩いて数分の誰もいない浜辺に一緒に行くくらいは良いと思う。でも、外に出るとそこは小さな島で気を遣う。
結局娘は症状もなく、幼稚園も来週から通常に開くみたいだし。(僕はPCR陰性。)
家族三人でずーっと家にいるのも悪くないが、ドライブに出たくなる。

そこで、「よし!秘密基地作ろう!」と娘を駐車場の軽バンに連れていく。
後ろの荷台部分を掃除して、マットをひいたり机を作ったり、Ipadやスピーカーを置いたり、お気に入りのぬいぐるみも連れて行くと、子供部屋みたいに。

家族三人でフェリーに乗ってドライブへ。
娘は基本車を降りない方向で。
時々、妻が買い物をしている間に、駐車場に停めたその子供部屋で遊ぶ。
また、場所を移動して、また遊ぶ。
窓の外の風景が変わるだけで自宅とは全然違うし、
小さな島から出て、ご飯もテイクアウトで車内で食べるだけでも気分は変わる。
旅する子供部屋を得たような1日だった。

芸術祭の未来?

先週、瀬戸芸が始まった。
なのに平日昼間から家にいる。傍には娘、そして妻。
つまり自宅待機をしているのだ。
京都で開催予定だったイベントも中止に。

週末にはやはり多くの観光客が島にやってきた。
翌日の月曜日は美術館が休みで少し静かになったが、
火曜水曜も平日だが通りには観光客の姿があった。

で、
昨日、島内で17名の陽性が発表された。

一昨日、娘の園で別の学年に7名陽性(クラスター?)の連絡。
娘は陽性者の誰かと給食の席が一緒だったらしく濃厚接触の疑いとの連絡。
しかしPCRは受けられないので何もわからないまま、休園、全園児が自宅待機。
観光業や芸術祭自体に関わる人も多いので、この久しぶりの書き入れ時、
子供が預けられず、バタバタとしている人も少なくない。

ま、うちは、娘はいつものまま元気だから心配ご無用。
しかし、役場で働く妻も僕も大事を取り、自主的に自宅待機をしている。
ただ、調べると、別に濃厚接触の家族には特に制限はないが。

国や県はPCRを受けられるハードルを上げているので、
全国で実際には目に見えない感染者はもっといるだろう。
これは陽性者を増やさない策なのだろうか。
それとも、もうすでにコロナはインフル程度と考え、
深く調べる必要性はない方向にカジきりしていくのか。

僕自身としては、もう日々感染者数を追わなくなったし、
いつかかかってもおかしくないと思っている。
疑いがある誰もがPCRを受ける必要もない気がするが、
濃厚接触とわかっても受けられないのは困る人もいる。
だから普通に、受けたい人はいつでも簡単に安く受けられる環境になってほしい。
選択できるのが重要ではないかと思う。

もし僕が、この小さな”島の新聞記者/ジャーナリスト”なら、
この状況を今、こう書くだろう。
「芸術祭開始早々、島で感染者増大か!?」と。
沖縄だって、観光客が増えると途端に感染者が増大するわけで、
観光客のせいにする必要はないが、可能性はあると考えられる。


”実行委会長を務める香川県の浜田恵造知事は4日の記者会見で、前回の実績や感染状況などを踏まえた試算を基に、「県外からの来場者の発症見込みは多くて1日当たり2人程度だ」と述べた。「風通しの良い屋外で作品を鑑賞する上、屋内でも大声を出すことは想定されていない。来場者のクラスター(感染者集団)の発生は考えにくい」と説明した。”
 (「毎日新聞」4月13日)


直島だけでなく、高齢者の多い小さな島で何も起こらなければ良いが、やはり心配だ。
島内のバスなどは観光客で一杯だし、それを島民も使うし、
島民の運営する飲食店には時間帯には行列ができているし、
観光業を営む島民も多いので接触は避けられない。

小さな島々を観光客が巡る芸術祭。
コロナの中で何が浮き彫りになるのだろうか。
関わっているアーティストとして、運営している人々の頑張りに泥を塗る気は全くない。
美術館以外に”芸術祭”があるから国内のアーティストたちに発表の場が増えているのも事実。
さらに、コマーシャルギャラリーやマーケットに乗れない作家たちにとってもそう。
しかし、”芸術祭”というフレームに疑問を持ち、変化していく真っ只中に自分達は立たされている。
僕は、コロナ禍において、転ばぬ先の杖で、全てのイベントを中止にしていくタイミングは終わったと思っているし、瀬戸芸をおこなっているのは賛成。ただ、何かが起こった時にどのように対処していくか、によって未来は大きく変化していく局面だろう。

瀬戸芸初日

(執筆中)

瀬戸内国際芸術祭の1日。
4月14日は、学生の春休みも終了した平日だし、雨で寒いし、コロナも治まっていないし、観光客の姿はまばらだった。
資料館のプロジェクトにとっては、久しぶりに外からのお客さんに見てもらえる機会が素直に嬉しい。だからと言って「展覧会オープン」の特別な日かというと、何か変な感覚。なぜなら今日も、展示空間の裏では「窯工部」の人々がワイワイ集まっているし、夕方からは小学生向けの塾「しまけん」も動いていて、これまで2年(プロジェクト的には3年)の毎日毎日積み上げてきた日常の延長でしかないのかもしれない。

資料館は芸術祭や展示のために作るオブジェ的な作品形態ではない。「準備期間→完成→オープン」や「準備期間→完成しなかった→オープン(作業を見せながら)」とは全く違い、準備期間と完成が分けられないのにオープンしている。前回の2019年瀬戸芸では空っぽだった空間内の棚にもだいぶ埋まって重みが出てきた。しかし、作品の完成(完全な完成はないが)はまだ遠い。そういう状況でのオープンだ。


・資料館の変化

この1年くらいで資料館のプロジェクトは大きく動いた。もちろん地元を調査して展示を作りアーカイブを作ることは進行中だが、そのほかが大きく動き始めている。
一つ目は、展示や収蔵庫/アーカイブの機能を「宮浦ギャラリー六区」に集約させ、それとは別に裏の廃墟だった元焼肉屋「へんこつ」に島民との活動や財団スタッフの課外活動を展開すること。空間の拡張。
2021年3月に始まり1年経った「直島窯工部」は、島民やスタッフや移住組などが徐々に集まり、コロナ禍で家に篭もりがちの人々が作陶をしながら交流(日常の愚痴や他愛もない会話)を楽しむ、重要な場所になってきている。僕も含め移住組の同年代の部員にとっては、日常の多くが子育てや家族のために時間をさく中で、大学の部活動のような「窯工部」はそれぞれ自分自身のための時間を取り戻す場になるのかもしれない。それはさらに横へとつながりながらコロナ禍での小さな島で大きな意味を持っているのではないかと思っている。そして、「宮浦ギャラリー六区」では手狭になった「窯工部」を元焼肉屋「へんこつ」へ移動させるべく、大掃除とDIYが行われた。「宮浦ギャラリー六区」とお隣の元焼肉屋「へんこつ」の廃墟は徐々に接続していく。「へんこつ」自体は財団が管理する建物で、財団としてはゆるゆると使いたい思惑もあり、スタッフの課外活動「なおラボ」や「寺子屋」も動きつつあるが、雨漏りがひどく、焼肉屋の匂いもきつかったので、大きく活用はされない状況。「窯工部」や「なおラボ」や「寺子屋」など財団や島民の課外活動やさらには資料館のアーカイブに関わるような”野良”研究所的な部室的な場所を「へんこつ」を中心に動かしていく方向性が徐々に見えてきて、「へんこつ」の本格的な修理が始まることに。つまり、

瀬戸内「 」資料館=「六区」+「へんこつ」

・「六区」=展示/アーカイブ/収蔵庫/プロフェッショナル →外のお客さんが直島を知る(有料)/島民の図書館(無料)

・「へんこつ」=課外活動/”野良”研究/島民交流/勉強会/塾/憩いのば/食事会/レジデンス →島内のさなまな人々が集まり会話し学ぶ場所。ここでできた”野良”研究がアーカイブにさらに接続する

となる。
実は、密かに困っていたのが、これまで、「宮浦ギャラリー六区」で自分の作品/プロジェクトを行なっていて、外にPRする際に常に「宮浦ギャラリー六区」という(サイトスペシフィックな)建築家の作品に包まれてしまい見えにくくなってしまっていた。どうしても、それを消すことはできないジレンマがあった。島内のマップや瀬戸芸の作品紹介もまずは建築家の名前があり、その下に僕のプロジェクト名がくる。(美術館で展示した場合に、まず建築家の名前は来ないが、ここは特殊でそれを外すことができないのだ。)
ただ、「宮浦ギャラリー六区」を消す方向ではなくて、どんどん増幅して「へんこつ」も合体して、DIYで使いやすいように増幅して、ブリコラージュ的に、生命体のように変化していくイメージが徐々にできてきた。ある意味”スマートさやわかりやすさを放棄して、必要に応じて変化し増幅し、実験もどんどん行なって、カオスとなって進んでいく場”で良いのではないかと思うようになってきた。それは、初めの2年間、ずっと「宮浦ギャラリー六区」という建築家の作品に閉じ込められていたことへの反発かもしれない。”戦うより、もうどうでもいいや、やっちゃえ、カオスになっちゃえ”と。その場合、誰の建物かわからなくなると同時に、僕の作品であることも曖昧になっていくだろう、それを受け入れるということになる。
そういう意味では、資料館は僕の作品だけど、映画みたいにキャプションで、僕は「総指揮」みたいな感じで良いのかもと思えてきて、ではそこに「アドバイザー」「メインスタッフ」「空間設計」「デザイン」「スペシャルサンクス」なども書かれるようになっても良いかもだし。僕のものではなく、みんなのものとして手放しても良いのではないかと思うようになってきている。(その場合、さらに、この資料館を財団の物から島民のものへと”セミパブリック”?”半公共”にしていく必要も出てくるだろう。)


・資料館の作品性

僕にとってこのプロジェクトは、この2年を家族も巻き込み移住してやっているし、僕の中では、やはり、この20年、メインで長期で制作してきた写真シリーズ作品の流れの最新作であるという認識である。つまり、
「戦争のかたち(2001-2005)」→「torii(2006-2012)」→「津波石(2014-)」→「瀬戸内「 」資料館(2019-)」
さらにいうと、これまでの制作プロセスは、一人で旅を繰り返し制作してきたシリーズ作品に対しては、定住型。
「戦争のかたち(日本国内)」→「torii(日本国境外)」→「津波石(日本国境周辺)」
国内調査が国外へそして、沖縄という境界線上へ向いていき、ついに、生まれ故郷の近所の島に移住し、コロナ禍において移動を制限され、→「瀬戸内「 」資料館(故郷定住)」と流れきた。
制作スタイルも、
「戦争のかたち(旅/フィルム写真)」→「torii(旅/フィルム写真)」→「津波石(旅/動画)」→「瀬戸内「 」資料館(定住/アーカイブ・場作り)」
という感じで変化してきている。ただ、この流れの中に「Re-Fort Project(2004-)」が入るともう少しわかりやすい。このプロジェクト作品で2004年からやってきた”いろいろな人との協働としての作品”が、2019年のヴェネチアの「宇宙の卵」展でさらに加速して、そっちの流れと、写真シリーズ作品系の流れが瀬戸内で合流する形で、「瀬戸内「 」資料館」は動いている。個人の作品ではなく、個人の作品とは呼べない存在と向き合ってきたことや、いろんな人々と一緒に作って思いもよらない形になることを受け入れることを楽しめる土壌がここでさらに別の形態になってきているのかもしれない。

そして、もう一つ書いておかねばなのは、「戦争のかたち」「torii」はある意味で自分で始めて一人で完成させた作品に近いが、例えば「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレ2016のキュレーションがないと始まらなかったしその後の韓国や香港などのキュレーターや通訳など多くの協力者/並走者がないとできなかったし、今回の「瀬戸内「 」資料館」でも、福武財団による継続的なサポートや三木あき子さんによる並走、さらに建築の能作文徳さんやデザインの橋詰宗さんの力など、さまざまな能力の結集であることはさらに新しい。
作家の作品性を否定する動きが”地域アート”の中でもてはやされ始めているが、作家の作品性自体が変化し続けていることに僕は興味を持っているし、”なんでもあり”ではなく、(現代美術において中心ではなく周縁にいる)自分としても「作品」(英語では”Art work”であるが)として、批評性や評価軸の上で仕事を成立させることを放棄する気持ちはない。


・シリーズ作品の完成のタイミング

「瀬戸内「 」資料館」の完成とは?と考える。

「戦争のかたち(2001-2005)」「torii(2006-2012)」「津波石(2014-)」などの作品の制作プロセスとして、まず、①何かに出会い、疑問や興味を持つと、その対象を調査し撮影し収集を始める。(ここで途中で興味を失う対象も多々) 次に、②旅や収集を重ねて、さらに調査を進めていくと、ぼんやりしていた興味が自分の中でシンプルになっていく、その時、撮影/調査対象がはっきりして(写真で言うと風景の中に主人公が決まる)、シリーズ作品として流れとコンセプトができてくる。 ③さらに旅や収集を重ねて、ある量感やバリエーションやバランスが整っていく(主人公の決め方、シンプルに仕方、バランスと量感、あたりが僕らしさかも)。で、④ある時、それらすべてのバランスがある一定を超えた時、「あ、発表できるな」となる。その時、アウトプットの形が自ずと見える。ただし、⑤その後も、作品のバランスは流動的で、継続的に撮影/調査対象と向き合い続けるので、基本的に終わりはない。
と、簡単に書くとこんな感じ。
では、「瀬戸内「 」資料館」の今の状況は?完成のタイミングは?と言うと。
②から③へと移行し始めたあたりかと思う。
ただやはり「瀬戸内「 」資料館」にも完成はないかもしれない。なぜなら「瀬戸内「 」資料館」はアーカイブであるので継続的な収集が必要であり、プロジェクトを生き物だと考えると新陳代謝(展示や館長やスタッフの交代)しながらの継続が必要だと考える。そう言う意味で、まずは10年(あと6年程度)の継続は必要ではないかと思う。(その数字の根拠は僕のネタがそのくらいあるのと、僕が興味を持続し継続的にしっかり関われるだろう年月。)

さて。
朝5時からこの日記を書いているが、ただの覚書である。それともう一つ、瀬戸芸が動き始めた今日、何か、「瀬戸内「 」資料館」が自分のシリーズ作品の延長として、自分の作品になるという一つの手応えを密かに感じたからかもしれない。

写真ワークショップ 2

島での写真ワークショップが終了した。
僕が写真を教えるとか先生生徒ではなく、僕自身も宝箱を開けるような楽しい体験だった。
島の6歳から10歳までが参加し、内容はフィルムカメラで1日3枚づつ日常や家族を写真に撮り、現像した後みんなでそれをノートに貼って写真集を作る、というもの。なんかこう内容の企画は、今まで考えなかったしやろうと思ったこともなかった。作家としては、誰でもやりそうな事や、すでに誰かがやって有名になっているようなことは基本的はやりたくないし、そういう意識で活動を続けてきた。だから、今まで距離を取ってきた内容かもしれない。「写真を撮って写真展とか写真集とかを作ろう!」みたいな。
ただ、意識的に考えたのは対象年齢。カメラを意識的にギリギリ取れる6歳からさらに大人になりすぎない10歳という年齢だけ、新しい実験ができたかもしれない。この選択は間違っていなかった。なぜなら、「写真家に写真が教えてもらえる」という期待が彼らにはない。「上手に撮ろう」という気持ちすらあまりない。体が反応して写してみた、それに近い。さらに、フィルムカメラなので、何が写っているか確認もできないので、より、いい写真を撮ろうなどと考えない状態だっただろう。まず、一人1個のインスタントカメラを渡して1週間撮って、みんなで集合したとき、実はストロボをうまく使えていなくて、ほとんどの子が夜部屋で撮った写真が写っていない事態が発生した。ただ、それも、撮ったけど写っていなかったという新しい体験になっていたように感じた。でもそれだと残念なので、もう一個みんなに配って、もう1週間延長した。
彼らは日常から、彼らの眼差しを拾い集めてきた。それをみているだけで、子供の目で旅をしているような新鮮で楽しい体験になった。こういう、一方的に何かを体験させるのではなく、こちらには新しい経験が生まれるのはWSとして成功だと思う。

たまに文章を書いてみたり。いい感じ。

あと、写真を撮ってみるだけではなくて、貼り方を考えて、ノートに貼って、写真集にしたのも、結構成功したので。WSを開催した会場で写真集の展覧会をささやかに開くことにした。結構いい展示になっていると思う。

直島クロスワードパズル

直島で密かに行っている私塾「しまけん」。
小学3〜5年生と一緒に調査や表現の楽しさを何かの形にするプロジェクト。
毎週彼らと向かい、彼らが得意な部分やそうではない部分を見つめつつ。みんなで何かの形を作る方法を模索した結果、なぜか、偶然直島を調べて作った「直島クロスワードパズル」が生まれた。それを「広報直島」に売り込み、コーナー化がついに実現!「広報直島」は島全域に配られる島内の最強メディア。「直島クロスワードパズル」は問題がゆるいのと、島民しか答えられない回答が多いのが特徴。昨夜、家のテーブルにそれを置いておいたら、妻が早速やっていたようなので、クロスワードは誰でも参加しやすいし、制作面ではリサーチからのアウトプットとしても有効かも。
僕も子供達もクロスワードに興味もなかったし作ったこともなかったが、今では立派なクロスワード職人になってきてきてる。クロスワードを作りきっかけは、みんなでつくる媒体としての試行錯誤が、「直島ウソ新聞」→「答えのないテスト」→「問題が難解で答えが超簡単なテスト」という流れの先に生まれた。詳しく書くと、まず彼らに日々の発見をノートに書かせていて、それから直島の日常をフィクションにした「直島ウソ日記」を書かせて、その流れで「直島ウソ新聞」を作ろうとしたが失敗。その後、「テスト」というフレームが子供達の共通の興味/言語だなぁと思い、面白いテストを作って誰かにやってもらおう!と「答えがないテスト」や「問題が難解で答えが超簡単なテスト」などを作ってみてすごく盛り上がったが、結局誰もやってもらえないことが判明、作るのは難しいし楽しいがやってくれる人がいないので失敗。そこから、「直島島民しかわからないクイズ」を考えるようになって、テストではなくてクロスワードパズルが良いのでは?となった。経緯。
クロスワードパズルは作ってみると、まず、答えから考えるわけで、直島につながる文字を考えて、完全に6×6のコマを埋めるのがすごく難しく時間もかかる。でもそれが全てが埋まった瞬間には歓声が上がるほど嬉しい。そこから、クイズを作っていく。そんなプロセスも面白い。さらに、先日、クイズに出てきた場所に実際に探検しに行ったり、島への関心は上がっていくきっかけになっている。

他のプロジェクト「14歳と世界と境」は中学生と地元新聞をジャックするプロジェクトだったが、今回は小学生と島内紙をジャックする。連載に向けて子供達と編集会議。これは僕の作品とかではなく子供達のアウトプット、だから僕の名前はない。でも、それを見て「ミッチーの名前がない!?なんで?」と気遣ってくれました。「ミッチーは縁の下の力持ちという役目なので」と。
新しいメディアを作るのではなくて、すでにある場所に余白を見つけて寄生するっていうのは、新しく作るよりも交渉とか関係を作るのも大変だけど、それも含めて自分らしいやり方のひとつだし、それが小さな形になったなぁと思います。広報直島の担当者の方々の協力に感謝です。そして、島の方が、島の子供の作るこのコーナーを楽しんでもらえると嬉しいなぁと願うばかり。来月の仕込みしないと。

瀬戸内「」資料館のことをいつも考えている。それは作りかけのシリーズ作品のことをずっと頭のどこかで考えながらすごいしているのに近いなぁと最近思う。僕の作るスタイルがシリーズ作品ばかりなのは、大きな何かをドンとおいて終わりのような作品ではなく、じわじわじわじわ要素が増えながら形が徐々に出来上がっていく感覚。写真シリーズの場合、旅先や日常で1枚の写真が撮れて始まり、その旅が次の旅につながりながら、展開し、枚数が増えて、徐々にコンセプトも自分の中で言語化できていく。瀬戸内「」資料館はまだ言語化できていない部分もあるので、まだ完成は先かもしれないが、その時は突然やってくるだろう。
「直島クロスワードパズル」は額に入れて展示するわけでもないので、瀬戸内「」資料館、全体への影響は資料館の本棚に並べられると厚みが2ミリくらい増えるくらいにしか変化しない。収集した本屋購入した本を一冊ずつ選んで並べていっても、ほとんど変化はない。作品を作って置くという行為には程遠い、気が遠くなるような蓄積がこの資料館の力になると考えているので、このシリーズの完成形が見えるにはまだあと3-5年くらいは最低必要なのかもしれない。

ファサードの可能性

『シナモン500円弁当アーカイブ展』
コロナ以降、直島で安くてホカホカのお弁当を始めたカフェ”シナモン”。
500円(税込+ドリンク)で毎日毎日やるのはなかなか体力がいるはずだ。
今では、人気メニューの日は行列&即完売がなじみの風景に。
お腹が減ってはアートもできぬ!
資料館ではシナモンに毎日書かれる段ボールの弁当の看板を収集中。
コロナかでの”島の日常の記録物”として。


第2回 2022年1月末

第1回 2021年1月末

写真ワークショップ

写真のワークショップをした。のは初めてだ。
参加者は5歳から10歳。となかなか若め。
今日はその一日目。

僕自身、写真家で(も)ありながら写真を写すことに自信がない(特に人物は無理)。写真を教えられる/教えたいと全然思っていない。そんなこともあって、写真家だから写真ワークショップをこれまでに何度か求められることもあったがしてこなかった。ただ、そういう中で、写真”的体験”をカメラなしで行うワークショップとして『見えない風景』というのをこれまで2010年から継続的にやってきていて、僕のカメラ感覚の共有体験としてのワークショップはこれ以上はないっと思っているのもやらない理由だったりしたが。ただ、今回は幼い子供が対象ということもあり、『見えない風景』ではなく、”普通の”写真ワークショップに踏み切って見たのは時間の流れがあったのかも。それは、彼らがスマホやデジタルカメラにネイティブだから。つまり、僕が手にしている(た)カメラと彼らが感じているカメラは似て非なるものになった。彼らと僕の持つカメラ感覚や意味の違いの部分をうまく抽出できたら、それは僕のワークショップ(写真を教えるのではないワークショップ)になるのではないか。ま、そういう期待。彼らと一緒に、フィルムカメラ(27枚どりインスタントカメラ)を使うことで、日常が”自分だけのものであること”や”有限であること”を強く感じる体験になるのではないか、さらに写真というメディアが映えるイメージを作るものではなく、過去と未来をつなぐ存在であることをより感じられるのではないかと期待して、(インスタントカメラを使った普通に日常を撮るワークショップという誰でも考えるしできることを)やってみることにした。写してもすぐに画像が見れない時間差、そして、他愛もないある日常のスナップを写真集にして保管し未来に開封される(だろう)タイムカプセル感(これに子供達は気がつかないだろうが、いつか。)。 テーマはシンプルに「自分だけの風景をとる」「近い人を毎日撮影する」「フィルムカメラで1日4枚1週間」だ。わかりやすいのが一番。これも新しい挑戦。
アイデアのベースには、『ようこそ先輩』の荒木経惟「イイ顔を撮ろう」(2002年1月27日)の記憶があった。その影響が今更結実した感がある。2002年といえば、ようやくデジカメが普及し始めた頃、200万画素の時代(現在は2000-3000万画素)。荒木の授業は母を撮るような内容で、「メメントモリ」が根底にあったように思う。人物写真などを決して撮らない僕としても、今更だからこそ、ようやく子供とフィルムカメラで何か特別な時間を作れる気がしたのかも。

開催場所はキッズポートという児童館的な子供のための島の新しい場。参加者が幼いこともあるし、工作が得意な子が集まるので、まずは内容を説明した後、インスタントカメラに愛着をもつために、ポスカで色を塗ったり絵を描いたりしてみることに。すると、見に来ていたお母さんがたから「この感覚懐かしい!」と声が上がる。確かに、高校生とかの頃、プリクラとともにインスタントカメラを自分で色付けして持ち歩く友達いたかも(さらにプリントした写真は無印のクリアアルバムに入れたっけ。)。意図せず、この世代を超えた妙な一体感を得ること。。

さて、意気揚々とカメラを手にそれぞれの日常へ帰って行った子供たち。何を捕まえてくるのでしょうか。
みるのが楽しみ。

ひとつ小言を書いておくと、参加者が顔の知っている移住組ばかりだったことは少し気になったかな。
基本的に、島の移住組は教育や文化的な意識の高い人たちではあるが、チラシは小学校全校生徒にばら撒かれたはずだから、何人かはじめての子がいても良いのに。。
なぜでしょうか? 島では文化イベントに無料で慣れてしまっているから? カメラや現像などの費用もあるので2000円(実際は3500円くらいかかるから安いのだが)がハードルになった? もし無料に慣れているのであれば、それも結構問題じゃない? 1日数時間のワークショップではなく、毎日写真を撮り計2回もあるのが面倒?
しかし、都市の美術館でワークショップをしても常連さんばかりだったりするし、原因はそれだけでもないだろう。
でも、僕の作るワークショップは時間もかかるし、絵や工作が上手いとか興味があるとかそういう人ではない人にも響く内容を考えているので、なんというか残念ではある。やはり『14歳と世界と境』(は『ようこそ先輩』を一つのモデルにしているが)のように、学校のクラスにお邪魔して生徒全員とかにやらないと、本当の意味がないと思ったりする。が、これは根が深い難しい問題だ。

小言が多いっすね。おやすなさい〜。

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