無題
来年春、直島の自宅の近所に美術館ができます。歩いで100歩くらいのところ。今回は集落エリアに美術館が立ちます。それはアジアの作家の美術館らしく、その中の日本人作家が発表されました。まずは、この展示をみて、この島での自分の6年を振り返りたいと思います。(あ、僕はこの作家には入ってません。客として見に行って。)その経験はきっと、いい意味でも悪い意味でも、今後のこの島での僕に何かのきっかけをもたらすのだと思います。(それは近所の古い旧家がホテル建設で壊されているのと同様に。)そして、来年は(3年に1度)瀬戸芸の3回目です。
再会
久しぶりの台湾でのグループ展。
2013年のアジアンアートビエンナーレ以来、11年ぶりに台湾に足を踏み入れた。
色々と思ったことを書き残してみる。かなり懐古的に。
台湾にはじめてきたのは、シリーズ「torii」の制作のため、2006年だった。
その後、取材のために何度も訪れた。まだ、デビューしたばかりの若い写真家?いやいや、カメラを手にした20代のただのバックパッカーだった。安宿に泊まって、日本統治時代の遺構を見てまわり、自分で日本統治時代の研究者に会いに行ったり、一人孤独な調査と旅が続いた。
2010年に東京で出会った台湾の若いキュレーターAが完成間近の「torii」に興味を持ち、2011年に鳳甲美術館での小さなグループ展に参加することになった。初めての海外での展示制作。日本人は僕だけ。僕よりも少し年下の20代後半の台湾のキュレーターや作家たちと、言語をこえて展示を一緒に作る経験は本当に素晴らしい経験だった。
2011年展示設営の様子
一人っきりの旅ではなく、台湾の同世代の人々との展示を作る共同作業。その後、2013年、台中の国立台湾美術館のアジアンアートビエンナーレに参加。2012年の韓国光州ビエンナーレやこのビエンナーレへの参加によって、アジアや国際的に作家たちがどのような制作や発表を活動をしているかを肌で感じれたし、視界が一気に開けたように思った。さまざまな先輩の作家をみながら作家としての生き方を模索し始めた。(2009年のフランス1年間、何も出来ず自分が日本人であることを外から感じられた時間や、2010年の東京のレジデンスの1年間も土台作りとして大きい期間。)
大学卒業して10年目、ちょうど日本での美術館でのグループ展が増え始めようとした頃に、それと同時に台湾(や韓国やベトナムなど東アジア)での関係が接続し始めていた感覚。本当に幸運だった。そこから10年、欧米も含めて活動の幅は広がった。台湾には特別な感覚を持っていたが、台湾と関係はそこからずっと止まったままになった…。僕に原因があったというよりも、多分交流がより活発になり選択肢が増えたのだろう。2012年に「torii」は写真集になりほぼ完成したし発表したかったが、台湾ではその機会はなかった。(その背景には一つ、台湾に限らず、植民主義を扱う場合、日本人という加害側ではなく、被害を受けた側から何かが生み出されること(地元からの作品の誕生)を望んだのだろうと僕は思う。)そのうち、「torii」に似た作品が台湾で注目されていたり植民地時代を扱う作品もどんどん流行していくのも遠くから見ていたし、友人の日本人作家たちがどんどん台湾で活躍する姿を見て、少し複雑な思いをしていた。ま、その頃、僕自身は、新たなフィールドや手法を開発し始めたこともあって、自ら台湾に向かう機会も失い、色々あって、近い場所であった台湾との距離は10年以上遠のいていた。
日記 2011年9月22日
https://shitamichi.exblog.jp/15540224
日記 2011年11月23日
https://shitamichi.exblog.jp/16943194/
そんな中、今年の2月、
台湾の20代後半のキュレーターからグループ展のメールがあった。本当に久しぶりで、とても嬉しい連絡。実際に台湾に来ると、2011年の展示で一緒に作ったキュレーターAは、既に40代になり美術館の館長になっていた。そして今回のキュレーターたちはその生徒たちのような存在だった。世代が”一回り”していた。
今回は、作品選定や制作は半年程度の短い期間であったし旧作の展示であったが、彼らは本当に情熱があり、よく働き、即座に深い部分まで内容を理解し、仕事が丁寧だった。インストールやランティングなどのテクニカルも、デザインやマネージメントも含め、30歳前後の若い台湾の展示チームは、本当に素晴らしかく、驚かされた。
僕はというと、そのグループ展では一番の長老になっていた。笑
日本でももう若手ではないが、まだ若い中堅? 日本のキュレーターは35歳くらいでもまだ若手で40代50代はまだまだ働き盛り、Aは40そこそこで館長だ。台湾は若い。それは本当に面白いこと。僕は既に大御所のような扱いになっていた。いや、悪い感じで大御所のようにペコペコとされることはなく、フラットに付き合ってくれるが、深いリスペクトを感じ、自分の立ち振る舞いを深く考える良い機会になった。実際、僕はまだ何も成し遂げていないし、人の上に立てるような存在でもないと思う。でも、自分の役割は変わったのだろう。上に押し上げられ、若い人から意見を求められるし、自分はまだそれは慣れないが、自分なりに意識的に立ち振る舞っていく必要があるだろう、ということを今回、深く考えて、静かに挑戦した。
2024年展示オープンパーティーの深夜 Photo by Yuya Suzuki
今回の出品作品は、2011年から作っている「bridge」や2010年からやっているワークショップ「見えない風景」。キュレーターからの推薦もあり話し合った。せっかくの11年ぶりの台湾で発表する作品が11年以上前のものであるのは、少し悲しさのようなものも感じた(「今の新作を見せたい!」という気持ちこともあるので)。しかし、逆に2011年の東日本大震災や福島の事故の影響の中で制作した作品が、今のコロナ後で人々の心に届いているのは作家としてとても勇気づけられることでもある。
現代の社会事象が現代美術家の作品制作の素材/メディウム(ある意味”ネタ”)になって久しいし、何人の日本人の作家が”福島”を直接的にネタにしてきたように。「bridge」は東日本大震災や福島の原発事故を受けて(テーマに)、僕が作った作品であるが、社会事象を直接ネタとして扱わず、自分の中で起こった変化に目を向けた。直接的に表現しなかったから、わかりにくい作品だと思う。でも今、国を超えて、この作品が伝わっている。この作品が(まずは10年という)時間を超えたことも正直嬉しい。
今回のグループ展に選ばれた作品たちも、ストレートに社会事象を扱うのではなく、日常的な些細な変化をテーマにしていて、静かだけどじわりと胸にくるものが多い。
最新の社会事象や場所性を扱い、常に新作を作っている作家は、現在美術館や芸術祭にどんどん呼ばれている。その中で僕はそのレースには合わないのは最近よく理解できた。だからそういう企画には呼ばれにくくなっている。(いや1年以上の時間と並走をくれれば、新作を挑戦できるが、その程度の時間や並走が企画側にない気がする。)
2009〜2018年あたりに、台湾や韓国や東アジアの若いキュレーターや作家たちに出会って、模索した制作や発表の方法。それは滞在制作や展覧会をベースにしていた。
しかし、2018〜現在、さらにコロナ禍で小さな島で家族と暮らしながら、考え模索した制作や発表の方法。(それは紛れもなく僕の今の最新作なのだろうけど、)『瀬戸内「 」資料館』も『新美塾!』も展覧会をベースにした発表を想定していない。作品とし認知もされにくい。(それはアートのプラットフォームに載せることを最優先にしていないからかもしれないが。)数ヶ月の滞在制作ではなく、数年のスパンで作っている。内容はより即興的で、非物質的で、制作しているのは”場所”そのものであり、学校や美術館や公共への新しい道の模索なのかもしれない。持ち運びもできない存在。時間も人員もお金もかかる。この流れは、国際展やグループ展というフォーマットをベースに渡り歩き、自分の活動を広げるのはフィットしないだろう、かもしれない。(いや、逆に言えば、時間も人員や程々の予算があれば、すごいことができると思っているのだが。)
とにかく、10年ぶりの台湾での機会は、10年ぶりの街や友人との再会し、映画「おもひでぽろぽろ」のように10年以上前の自分との再会する機会になった。そして、目の前には、変化した自分の置かれた環境があり、新しい人々との出会いがあった。
2010年代世界を飛び回り、2020年前半で小さな島に閉じこもった僕に、今回は強烈に過去を振り返る機会を与えてくれた。そして、40代や50代をどのように生きるか、自分には何ができるのか。それを一人で考える時間を与えてくれた。
少し過去を振り返ってしまったが、過去の自分をポイと投げ捨て、変わり続けるのだ。
自分も誰も歩んだことのない道を踏み締めて一歩一歩。
今日のへんこつ
毎週土曜日の写真館!
沖縄最終日早朝
photo: rajiogoogoo
《瀬戸内「漂泊 家族」写真館》
今年の直島の展示が始まった。内容は、地域の人々の写真を風景と共に撮影して写真展を作り、さらに、展示期間中は資料館の中に写真スタジオを作り、実際に地域の写真館として稼働する。正直、こうなると思わなかった展開。興奮が止まらない。
資料館のプロジェクトがはじまった2019年からアイデアとしてあった「写真館」。
それは、僕が写真を撮るこということへの興味ではなく、地域の写真館の存在自体に強い興味があった。「あるくみるきく」1986年5月号 No.231に掲載されている「牛窓の写真館」の取材やSteidlから出版されていたダンスパーティーの記録写真がごっそり出てきた写真集(タイトル忘れた)などはそれをよく表しているが、写真館はその地域の人々の生活や肖像を記録するアーカイブの存在に時としてなっている。地域の写真館/写真屋さん自体は、七五三など人々のハレの日の家族写真や学校行事などの依頼を仕事として行う生業/ビジネスではあるが、時間を引いてみると、そこに無意識に蓄積される「地域の記録性」がありそこに興味があるのだ。(だから、資料館では早い段階から玉野など直島周辺の古い写真館への取材を考えていた時期もあったが、他の企画を実行する中で時が過ぎていた。)
僕が写真家として写真館を直島でやらない理由は、正直写真が下手だから。それは冗談ではなく本当に。あとは、僕の興味の対象は時間であり風景であり、人間の存在もその風景の一部であると言う感覚があり、だから、スタジオや背景をぼかし人の顔にフォーカスするポートレート自体に基本的にあまり興味がないのもある。(背景と人物が同等に写ってしまう。被写体が目を瞑ってようが気にならないし、逆に写真用の笑顔が好きじゃない。だから本当に無理。)
今回の展示の最初に考えていた目的/方向性は、「浜辺の漂着物から直島の生業の歴史を考える」と言うもの。その調査は2年前から始まっていたが、正直停滞していた。その理由は、たとえば、浜辺で拾った漁具を僕は見極める専門性を持っていないわけで、一つ一つ調べていくがこれをしててもプロの学者には敵わない。そこで、僕が浜辺の調査と生業のつながりを視覚化するが、その展示後半はマレーシアの作家ジェフリーを招聘して、漂着物からカメラを作って、直島の今、直島の人々や風景を写真にしてもらい、企画自体をまとめようと構想した。つまり、前半は漂着物調査と直島の生業年表など、後半は色々な職業の人々の写真展(しまけんの子供たちも協働する。漂着物に関する何かを。)。ただし、実際にジェフリーが来てから内容は大きく動いた。
2週間の滞在。ジェフリーがきてすぐにカメラになる漂着物を一緒に収集。すぐにカメラ制作に取り掛かる。最初の1週間で2つのカメラが完成した。翌週から直島島内で撮影を開始した。ジェフリーから、直島写真研究会やスタッフ、関心のある島民を集めて、写真のワークショップをしたい、と言われ、自己紹介も兼ねて歓迎会を開いた時のこと。彼はその場で、出来立ての漂着物カメラでその場で一人を撮影し、さらにその場で数分で写真プリントを制作してしまった。「簡単だから。みんなでやろうよ。教えてあげるからさ」と彼は言った。それ以来、ジェフリーや僕たちが制作するへんこつには、写真研のメンバーやスタッフが普段から遊びに来るようになった。ジェフリーはカメラ制作や暗室技術などを人々に教えていった。2週間滞在が終わる頃には、漂着物カメラを使って写真を撮ってプリントできる人が、僕も含め5-6人。ジェフリーが帰った後も、撮影は継続。この流れの中で、ふと思い出したのが「写真館」。「写真展」ではなく「写真館」にしてしまおうと企画がずれた。(しまけんの子供たちは漂着物を分類して、写真スタジオを作った。)展示は金曜日土曜日日曜日開館。土曜日だけ写真スタジオが開館する。
資料館は過去と現在を通なぎ、未来に放り投げるもの。
2年前に1950年代の直島を撮影した「直島どんぐりクラブ」を発掘して展示し収蔵した。半年前に自ら「直島写真研究会」を立ち上げた。今は奇妙なカメラを手に資料館は写真館と暗室になって、今の直島を記録しアーカイブする写真館が始まった。過去、現在、未来、全てがすべてが繋がってきている。
土曜日に、島民がスタジオに来てくれて、撮影をした。写真一枚はその場で現像した手の濡れたままでプレゼント、もう一枚は資料館のアーカイブとして展示していく。
島民の方をカメラ越しに覗き、暗室でプリントし、プレゼントしながら、一瞬、自分が本当の写真館の亭主になったような感覚がする。本当にその感覚があって、静かに感動していた。僕以外にも島民の撮影はできるので写真研やスタッフも撮影に入る。彼らも、何か特別な感覚を感じているようだ。
この写真館はビジネスではない、だから、その場でその被写体を喜んでもらうことはもちろんだけど、それ以上に、今を自分がそこに立っていて、ご近所さんを記録していて、それを未来に投げている感覚。写真館のある側面を肥大化させた妙な感覚。
今度、映画「SMOKE」をみんなで見たいなぁ。
まだ始まって1週間。まだ言語化できていないが。書き留める。
A面/B面
『…… 下道基行は旅するアーティストだ。文字通り各地に滞在し生活するなかで作品を制作する「旅人型」という意味もあるが、それ以上に「旅」に喩えることで、その創作活動は非常に捉え易くなる。旅は、ある明確な目的地を設定しそこに到達することを最終目標とするタイプのものと、具体的な目的地は定めず移動すること自体や移動の過程での街・人・ものとの出会いなどを求めるものの、大きく2通りに区分できるだろう。下道は作品の質に応じてこの「旅」の両極を探求し作品として提示する。ここで、レコードやCDのA面曲/B面曲という構成を範として、前者のような明確な目的地(対象)を目指す活動/作品を「A面」、後者のように具体的な目的は明瞭でなかったり、何らかの目標へ向かう過程で発生する副産物的なものに着目するプロセス自体に重点を置く活動/作品を「B面」と定義すると、下道はときにA面を目指す過程でB面的な作品を生んだりと、A面/B面を往来することによりバランスを保ち、自身の両極を横断する活動を補完しているように思われる。……』
と服部浩之氏がレビューで書いてくれたことがあるが、この自分の制作の中でA面B面というのが最近、よりはっきりしてきたなぁと思ってきたのでここで書いておく。
CDや音楽で言うとこういうイメージを持っている。
A面=メイン B面=サブ
A面=売れそうな曲 B面=売れないけど作家がやりたい曲
僕の制作の場合は
A面=メイン B面=サブ
A面=プロセスを大きく切り落として抽象化 B面=プロセスの面白さを詰め込んだ雑多さ
A面=純度の高い「作品」として B面=プロセスを重視したプロジェクト型「作品」
A面=ひとりで制作 B面=いろんな人と一緒に制作
ま、ざっと書くとこのようになる。で、毎回、5年程度のフィールドワークや制作をしていくと、このA面的作品を目指していると、そこから少し遅れて B面的プロジェクト型「作品」が生まれてくる。その両方で自分の中のバランスをとってきたのだろう、自然と。A面制作で抽象化し純度の高い「作品」を作ろうとすると、そのプロセスで巻き起こる重要な出来事を切り捨てることになる、その部分への欲求がB面へと繋がる。
●A面「戦争のかたち」→ B面「Re-Fort Project」
日本全国の戦争遺跡を一人で旅して調査した「戦争のかたち」(2001-2005)、に対して、その戦争遺跡の観察ではなく実際に使ってみるアクションとして美術家や建築家などと行ってきた「Re-Fort Project」(2004-)。
●A面「torii」→ B面「14歳と世界と境」
東アジアを日本残滓を探して旅した「torii」(2006-2012)。国家の境界線を扱ったA面に対して、東アジアの中学生に”小さな境界線”の話を聞いて新聞連載にする「14歳と世界と境」(2013-)。一人で制作時に、東アジアで日本の戦争の歴史を調べるときに現地で起こる摩擦を日記に書いていたが、「torii」には反映されずシンプルな写真作品になったその反動と言える。
●A面「津波石」→ B面「沖縄硝子/Floatong Monuments」+「宇宙の卵」
沖縄の浜辺をフィールドワークして津波の岩を撮影する「津波石」。に対して、浜辺で拾ったガラス瓶を沖縄の職人さんと食器にして販売する「沖縄硝子/Floatong Monuments」。さらに、服部くんが企画した「宇宙の卵」は外からの依頼でコラボレーションが起こった B面と言えなくもない。
しかしそう考えるうと《瀬戸内「 」資料館》はA面とB面の一体化を目指しているのかもしれない。
旅人感覚を持ちながらある土地に定住すること。
ギャラリー六区の展示とアーカイブはA面、へんこつの研究会はB面。
それらが一体化した《瀬戸内「 」資料館》、いや、今回の企画調査展《瀬戸内「漂泊家族」写真館》が一体化された姿のように感じているのかも。
独り言
《瀬戸内「漂泊 家族」写真館》
第6回目となる《瀬戸内「」資料館》の調査展示は、《瀬戸内「漂泊 家族」写真館》と題して、漂着物からカメラを制作し写真館を期間限定でオープン。写真とインタビューで直島の家族の肖像を記録します。
今回はマレーシアの文化活動家ジェフリー・リムを資料館に招聘してコラボレーションで制作します。彼が2012年から行う「Kanta project」は、手作りのカメラを手に旅をして、その地域の人々を撮影し、その地域の多様性を調査するプロジェクト。直島では、島の子供たちと直島諸島の浜辺で漂着物を集め、それらから手作りで”漂着物カメラ”を製作し、直島の風景の中で家族写真を撮影していきます。(滞在制作として現地でカメラを制作するのも、漂着物から制作するのも初めてです。)
ジェフリーが2週間の滞在を終えて帰国した後は、子供たちと漂着物を使って《瀬戸内「」資料館》に写真スタジオを作り、下道館長と直島写真研究会と福武財団スタッフが、”漂着物カメラ”を使って直島の家族写真を撮影します。撮影した写真は1枚は展示に使用し、もう一枚はプレゼントします!直島に生まれた期間限定の家族写真館に写真を撮りに来ませんか?
(この写真館はビジネスとしてではなく、直島の”現在”を調査発表する展覧会とアーカイブを作ることを目的にしています。島民の方は毎週土曜日午後に予約が可能です。無料!撮影した写真は、資料館内の暗室で現像して、一枚は本展示で使用しアーカイブし、もう一枚をご家族にプレゼントします。申し訳ございませんが、ご観光の方は鑑賞のみになります。)
会期 :2024年8月9日(金)~2024年10月14日(月・祝)
※毎週金・土・日曜日、祝日のみ開館
開館時間 :13:00~18:00(最終入館17:30)
会場 :瀬戸内「 」資料館 宮浦ギャラリー六区+へんこつ
(〒761-3110香川県香川郡直島町2310-77 )
鑑賞料金 :520円(15歳以下は無料)
写真スタジオ :毎週土曜日 13:00~18:00 要予約(町民の方のみ申し込み可)
宇野港にて
西野与吟+軸原ヨウスケ+山下陽光+下道基行
宇野港 東山ビルにて
(写真:北村奈央)
島の子供の研究室
今日は、雲を描く。
「ははのふた」と「給水塔」
これは、シリーズ「ははのふた」が、この秋に出版社から写真集になることがきっかけで、思考の整理をしたいから書いてみようと思う。自分で自分の批評を試しに書いてみるなら、現代写真の金字塔であるベルント & ヒラ・ベッヒャー「給水塔」と自分のシリーズ「ははのふた」を並べてみようかと。笑
作家の自分語りが苦手な人はスルーください。作家の思考に興味がある方は、乱筆ですが、どうぞ。
左:ベッヒャー「給水塔」より 右:下道「ははのふた」より
私自身、初めてのシリーズ作品「戦争のかたち」を制作時(2001-2005)に、その内容から影響を受けてた(思考の一部に取り込んでいた)作家や作品を上げると、
・ベルント & ヒラ・ベッヒャー「給水塔」
・ポール・ヴィリリオ「トーチカ考古学」
・アトリエワン「Made in Tokyo」
・都築響一「Tokyo Style」
・柴田敏雄「日本典型」
など、だろうか。(これらの作品の影響はもちろん今の私の中にも残る。)
「戦争のかたち」は、戦争のためだけに設計され作られた超機能的な建造物(トーチカ、掩体壕など)が戦後捨てられ、現代の風景に妙な形で馴染んでいる様子をテーマにしている。それを、どのようにまとめ上げるか(作品化)するかを試行錯誤しながら、上のような作品を自分の先駆者と出会い意識していた。(もちろん、僕の美術的なバックボーンの中には赤瀬川のトマソンや、考古学や民俗学への興味もあったが。)
それらを撮りためる中で、まずは、挑戦してみたのは、モノクロで正面から同じ構図で撮影することを試みた。それはもちろんベッヒャー「給水塔」の影響であり、タイポロジーで表現することをまずは選んだ。そして挫折した。(直感的にこれでは表現できないと思った。)
「戦争のかたち」(TCAA展示風景より)
ベッヒャーがモノクロで表現した代表作「給水塔」(1963-)は、近代の遺したモダニズム的で超機能的な遺構/構造物を、客観性を持って、植物学者が植物を採取して研究するように、写真作品として収取し作品化してみせた。私は対象物に作家の愛着(主観)を感じるが、基本的には客観性と近代への批評が見事に混じりら、色褪せない作品に仕上がっている。この制作を始めたのは1963年、戦後間も無くの日本ではまた別の問題意識と写真の流れが起こっていたはずだが問題意識は遠くなかっただろう。
この戦後間も無くというのは、新しい経済成長によって、近代や近代以前の存在が消えていく時代。宮本常一が「忘れられた日本人」を書いたように、日本では失われる近代以前の風景や生活を記録する方向性が写真界でもみることができる。(これは戦争の時代への反省やそれによる左派の影響、さらに公害問題なども含め)日本の写真界でこの問題意識は、民俗学的やジャーナリズム的に発展したのではないか。
ベッヒャーの言葉では、この淡々と撮りためるタイポロジーという手法を「物体/オブジェクトのファミリーを作ること」と述べている。「自然界で古いものが新しいものに飲み込まれるように、人間化されて互いを破壊し合うモチーフのファミリーを作ること」とも。
ベッヒャーの「給水塔」に描かれる近代は「荒野に取り残された廃墟」的である。しかし、2000年台の私の目の前に残された戦争の遺構は、あるものは「荒野に取り残された廃墟」的であるがあっけらかんとした風景の中に存在し、僕が本当に興味があるのは、今の風景の中で、その建物の価値や意味が別のものにすり替わっていること(簡単にいうと”転用”など)だということに途中で気がついていく。そこで、出会ったのがアトリエワン「Made in Tokyo」や都築響一「Tokyo Style」などの調査とアウトプットだった。そこで、アトリエワンの影響(いや今和次郎の影響かもしれないが)もあり、「戦争のかたち」の制作時に写真以外に図面を描くことを始めた。
そして、白黒で撮影しようとしてたのをやめて、あえてカラーネガフィルムで浅いフラットな感覚で撮影していき、廃墟感や記憶色を排除していく方向へ変えていった。だから、「戦争のかたち」は2005年に完成したが、写真あり、図面あり、文章あり、地図ありの、色々な影響が入り混じったカオティックな完成になった。
この続編として、続くシリーズ「torii」は、写真のみで構成する写真作品としての純度を意識的に挑戦しつつつ完成するも。自分の写真家としての才能のなさに打ちひしがれる結果となる。作品テーマとして鳥居を主人公にしたことは的確であったが、これ自体をタイポロジー的に撮影することはもうなかった。
私は写真家を名乗ることもある。しかし、自分の中で、写真家として意識し制作した写真作品はシリーズ「torii」だけのはずだった。しかし、2011年の東日本大震災と福島の事故を受けて、また全然別の時間軸を持ったピュアな写真作品が生まれた。
それはシリーズ「bridge」と「ははのふた」。そしてはこれら(特に「ははのふた」)は、ベッヒャーの「給水塔」への自分なりのオマージュでありアンサーになっていると思っている。いやいや、馬鹿馬鹿しい写真ではあるが、シリーズ「torii」以上に写真作品として、実は”硬派”な仕上がりになっていると思っていると僕は思っている。
「ははのふた」と「給水塔」。
まずは、どちらも、「水を貯めるもの」である。
というのは冗談……。
僕のこれまでのテーマ(「戦争のかたち」「torii」など)は、ベッヒャー「給水塔」と同様に、産業考古学や近代考古学のようなのが根底にあったが、シリーズ「ははのふた」ではスッキリとそれが無くなった。だから、一見、時間の深さがないように見えるが、実は僕の意識はその逆で。近代という時間の深さから原始と現代との接続を意識している。それは何かというと。福島の原発事故を目の当たりにして、今までの自分のテーマであった「近代批判」など当たり前すぎて言及する気も失せた、という感じ。さらにいうと、この事故によって、近代的思考の危うさや歪みが露呈したはずだったのに、すぐにその開いた傷口は閉じて日常に戻ってしまったことへの怒りのような感情。そこで、僕の中に生まれた興味や表現がこれだった。
ある日、義母のふたを見て、原始人の母もきっと食料の備蓄に葉っぱで蓋をしてただろうなぁ、と想像して笑ってしまった。そういう、人間の変わらないクリエイティブな部分を視覚化して肯定すること。
ベッヒャーの「機能的な美」や「廃墟感」、に対する、私のは「歪な関係性への美」や「生き物感」。そして、ポストモダンやポストコロニアルではなく、人の中に潜む原始の野生。いや野生に回帰する!とか野生を忘れるな!ではなく、すでにみんな持っている当たり前の野生の視覚化。
あと、今は言葉にできないけど、シリーズ「ははのふた」は家族写真である。お義母さんのポートレートであり、2011年以降の日本の家族の関係性を描こうとしている。
それは日本の写真の中から生まれてきた写真であること。
とか?
浅い思考ですみませんでしたー。少し本などを読んでさらに深くしていきますー。笑
直島漂流記
移住者(僕)による直島の記録。
動画は日常の記録。そこに日記を加える。
動画自体に声や文章は加えず、日記は別に挿入する。
1回3分程度に編集。
雑誌連載が一冊の本としてまとまるように、 1回1回の動画は、連続して見れることを想定して、日記は書かれる。
つまり、1回ずつプロセスを見せながら、最終的には一つの動画にまとまる想定。
記録することを日常化するために、撮りっぱなしにして、大量の動画から最後にまとめるのではなく、少しずつ編集して、グログを書くように、小出しにしながらまとめる方法を考える。(動画日記。)
次回の「直島写真研究会」でメンバーに見せてみようと思って急いで制作した。
このフォーマットがうまく行けば、この動画日記は長く続くし、良いフォーマットでなければ、すぐに飽きてしまうだろう。
さらに書くと、これはまずは自分のために作ってみる。もし、資料館にくっつけた方が効果的なら、資料館用にするかもしれない。ま、そういう予想の中で、目の前で風景が変わっていくので、初めて見た。それを公開してみた。
新美塾!第3期生 募集開始
立ち上げから3年、新美塾!は毎年10人くらいの中高生と向き合ってきたが、これが僕のラストイヤーかも!? NACT YOUTH PROJECTはきっと続くだろうけど、僕が関わるのはこれが最後かもしれないです!逆に、このな企画が国立美術館で3年間もよくできたなぁと思います。3年目、集大成。
写真家?美術家?
新しい制作が始まる場合、風景や人など惹かれる対象物との出会いがある。
その対象の新しい角度から面白さを発見し、新しいアプローチで形/ビジョンとして引き出すことに興味があるし、これが自分の仕事/能力なのではないかと最近は思う。(最初はそれが仕事だとは思っていなかった。)こういうことを作家に話す場合、大体共感してくれるのは「写真家」が多くて、「美術家」は少し腑に落ちなそうなことが多い。これはノンフィクション作家とフィクション作家との違いにも少し似ているのかも。ある意味で、創造者は世界の方なのか?自分の方なのか?という制作の意識の違いがあるのかも。
僕自身、いろいろな写真家にも美術家にも影響を受けていて、それらがごちゃごちゃに混ざり合う中に表現はある。でもその作品は、写真業界の人には現代美術家だと思われていて、美術業界の人には写真家だと思われているような気がする。悩ましい。それは僕が「写真というメディア」や「写真史」を舞台に戦おうとは思っていないからかもしれない(≠写真家)。そして、「美術史」や「絵画や彫刻というメディア」を舞台に戦おうとも思っていないからかもしれない(≠美術家)。いや、もちろん制作するにあたって歴史やメディアを意識はしてるが、それが表現の中心ではないということ。
自らの表現手法やメディアが表現の中心として興味があること以上に、対象物から引き出される感覚が表現の中心にある。いやもちろん、どのようなメディウムを使ってどのように制作するかは深く考えるのが大好きではあるが、風景や人や対象物、時間とか光とか、つまり世界の方に興味がある。
ある評論家は僕のような作家を「NHKドキュメンタリーのような作家」と言っていた。それは相当な皮肉だが、間違いではない部分もある。でも、表現手法やメディアとしての「NHKドキュメンタリー」は「30分や1時間で編集されたノンフィクション動画」を指すのだろうし、テレビと言うフォーマットに乗せるために作られた表現。僕がやっているのはそれではまとめられないことをしているし、そのメディア(やNHK)では表現できない手法を探求しているので、やはりその指摘は正しくない。(この方にとって作家=フィクション作家であるのだろう。)
例えば、シリーズ「津波石」は、先島諸島の津波の岩をビジュアル的に掘り起こしたもの。しかしその表現手法は白黒映像で編集無し。16:10のスクリーンにそれぞれの動画はループ映像で写真展のように空間に展開する。音は空間内で別に発生させる。これは対象物を取り集める中でこの形になった。(これを見たテレビドキュメンタリーの方が今、番組を制作しているかもしれないが)僕はこの形がこの対象物の面白い部分が出ると思ってこの形にした。
自分の適当な肩書きが見つからないのは、いまだに悩みであるが、個性だから仕方なく、僕から見ると、
美術館や美術史と向き合い続ける、美術作家や学芸員や美術史家はある意味”清い”、し
写真美術館や写真史と向き合い続ける、写真家や学芸員や写真史家も”清い”。
それを見ながら、自分はそこから外れた道(=外道)を深く探求するしかないと思っている。
【外道】 仏教の信者からみて、仏教以外の教え。 また、それを信じる者。 ⇔内道。
↓↓↓
【下道】 美術・写真の信者からみて、それ以外の教え。 また、それを信じる者。 (無神論者、多神論者?)
しかし、このような表現活動を理解し、言葉にしてくれたり、誘ってくれたり、支援してくれる人々が少なくないのは、常に幸運だと思う。(現代美術自体が中心だけではなく、拡張する周縁自体も現代美術であるから、外れる方向性は間違っていないのだろうが。)このような活動を仕事にして生きていけているし、新しい挑戦を期待され続けられることは、本当に恵まれていると思っている。合掌…
バスの運転手になってみたい。というもう一つの肩書きへの夢を持ってもいるが。その話はまたいつか。
(後日追記)
先日、瀬戸内「 」資料館を訪れたお客さんにこのようなことを言われた。
「アートというのは嫌な日常から切り離されて楽しめるものではないですか?そういう意味で大竹さんの作品は好きですが、この資料館は分かりません。あと、私は、最近の地域に寄り添うアートや文化政策が胡散臭くて嫌いです。」のようなこと。
いや、ほんと、その通りだと思う。
僕の中にも、美術作品や美術館は「日常から切り離されて楽しめるもの」であって欲しいし、そうやって楽しんでいる。でも、写真家が嫌な日常を切り取って再提示したとすると、やはり日常から切り離す行為ではある。(これは、上で書いたフィクションとノンフィクションにも通じるかも。)さらに、「地域に寄り添う」というのが気持ち悪いのは僕もそうだ。寄り添っている風に近づいてきて、搾取する感じ。芸術祭が作家たちの作品制作の一つの中心になりこういう現象が起こっている。
そこで僕はこう答えた。
「それは僕も同感です。でも、いろんな作家がいて、僕の興味や仕事の根底には、「観察」して「記録」することがあって、だから一般的な”アート”よりはジャーナリズムに近いのかもしれません。僕にはそれしかできないし、僕の中には、過去の美術作家の作ってきた歴史や「地域に寄り添うアートや文化政策」への疑問もあって、今これを作っています。」
直島にもう4年住みながら、この島に対して嫌いでも好きでもない感情を維持している。
だから、「この土地が大好きだから島のためにプロジェクトをやってます!」というのとは違う。(でも、そう見せようとは思っていないが、そう見えていても良いと思っている。)
僕の興味は、子育て。そして、近代からの三菱という産業、そして現代のアートによる観光、その両者の極端な発展と歪みに興味を持っている。資料館は、前者の光と影を掘り起こし発表し残しながら、後者の中に入りながら内部から風穴を開ける、そういう作品にしたいと思っている。(そのためには、ただの資料館にするべきなのだと思っている。この作品は時が経たないと意味がない、今の現在進行形では、後者の中に取り込まれたと錯覚するだろう。その感覚が薄れてくる頃、この作品は意味を持ってくる。)
でもなんといっても、小さな娘を育てる環境として、直島は最高。現在進行形で、それを原動力にして住んでいる。それに限る。他に住みたい場所もないので、日常を送る場所は、今は生活では子育て中心に考えているので、直島はやはり面白いのだ。
レコード寄席 直島編
レコード寄席 直島編
田口史人
現在、直島表現図鑑として佐義達雄さんの展示が開催中です。佐義さんといえば、直島ミュージックスタジオ、そしてその世界最強のマニアといえば田口さん!レコード寄席が直島に来まーす!直島ミュージックスタジオのレコードと語り。
日時:2024年5月20日(月)18:00~20:00頃
場所:瀬戸内「 」資料館 へんこつ(宮ノ浦)
料金:町民無料
申込:不要
問合せ:公益財団法人 福武財団 087-892-4455(平日9:00-17:00
《瀬戸内「 」資料館》
《瀬戸内「 」資料館》を説明するとき、「アーティストが島に移住して、島民たちと一緒に島の郷土資料館/郷土図書館を作っている」と話す。それは分かりやすいし正解だけど、その奥にあるビジョンを書いておく。これは作家のエゴ? いや、資料館は福祉センターではなく、現代美術であり表現であるので、その部分を書き留める。
【目的/意図】
●個人の作家の「作品/アートプロジェクト」として、「視覚化された資料庫」を目指す。
●写真家/美術家(ある意味アカデミックではない者)が作るビジュアル化された収蔵庫としての表現。
●「ベネッセアートサイト直島」の作品/コミッションワークとして保存/公開され、しかし、地元の「郷土資料館/郷土史図書館」として公共的に開かれる。(現在、毎週土曜日開館。町民無料。)
●美術作品として収蔵/保管されることで残される地域のアーカイブ。(←アーカイブは過去方向を向いているので、資料館を作るのは良いが、生産性が少なく活用も維持が難しく、継続性が問題になることが多い。)
●自分らしくあり、しかし実験的/挑戦的であること。
【直島やこの地域の状況】
●直島に郷土資料館や郷土史図書館がない。
←重要なものの多くは香川県の図書館や博物館が保存している。島やローカルに中心を持ってくることはできないか?
●直島には、すでに国際的な有名な美術作品や美術館で溢れている。
←僕のような作家がこの小さな島にさらに何か新しい制作物を置く必要があるか?僕なりのやれることを。
●3年に一度、芸術祭がくる。それに合わせて、作家たちがその土地をサーチして作品を作り去っていく。
←その中に自分もありながら、別の寄生やサバイブの仕方や制作のスピードを提示する。
●作品はあるが、アーティストは住んだことがない。(川俣さんが一度住もうとしたが。)さらに、ベネッセアートサイト直島や福武財団は、長期的に直島の風景や人と関わってきた成功や失敗など多くの経験や知識がある。
←旅を辞めて、定住してみよう。定住して作る方法。ゆっくりで作る方法。(コロナ禍が重なった。)
●直島は日々世界中から観光客が溢れている。彼らは写真を撮りSNSにアップし続けているし、情報に溢れているが、逆にそれによって「ローカル」や「生活」が見えなくなっている。
←さらに、島民自身が外から向けられる直島を内面化し始めている。
●移住者は、直島で「カフェ」「飲食店」「写真館」「ゲストハウス」「サウナ」「フェス」「島暮らし○○」「直島○○」などの、それぞれの夢やビジネスや自己実現をしたい人たちが集まってくる。夏の海水浴場や海の家のような状況が日常。来る人も多いが去る人も多い。日々何かが壊されて作られ、都会のような新陳代謝。競争は低いので、やったもの勝ちで、意識や質は低い。
←意識の底上げ。栄えやおしゃれではなく、本来のクリエイティブを通しての学び。
●近代に三菱の銅の製錬所が作られた。そして、現在、アートツーリズムが「生活の風景」を破壊していること。ある意味国や世界の縮図のような部分がある。
←この小さな島で観察し考えることは世界につながる。
●近代産業も観光業も、基本、前(生産)を見ている。
←アーカイブは過去であり墓場。光ではなく影、生ではなく死を扱う場。彼らの捨てるゴミ箱を漁る日々。しかし、それでオブジェは作らない。積層させていく。
●観光業は盛り上がっているが、自然などはそこまで豊かではない。”アート”のブランド力が観光のエンジンであるが、多くの人々は、無意識にそのアートブランドを消費して暮らしている。新しい産業を生み出そうなどと考えている人などはいない。逆に、島の半分以上を占める三菱関連の人々はアートがなくても安定した生活ができるので、アートと距離を持っていて、現状維持的。 歴史的に見ても保守多数。
【ビジョン】
●資料館は、直島の島民や地域の人々にとっては、1年に1回の地元の企画展が開かれる展示場(museum)であり、「地域の郷土資料館/郷土史図書館」(archive/library)。
アートを鑑賞しに外からくる人にとっては、直島やこの地域の「郷土資料館/郷土史図書館」(archive/library)であると同時に、「アートプロジェクト/作品」(artwork)として受け取れる存在にする。つまり、”寄り”で一つ一つの本や資料を手に取る人には「郷土資料館/郷土史図書館」になり、”引き”で全体像を見る人には「アートプロジェクト/作品」になる。本や資料を手に取らない人々を強く意識しながら表現の域に持っていく。その”寄り”と”引き”の両方を意識。
●圧倒的な情報量を目の前にして、思考停止にさせない存在の作り方
●日本の”地域アート”での制作で陥りがちな、プロセスやネタ探しとしての「リサーチ(実際にはサーチ)」ではなく、リサーチ自体がアウトプットになること。
●美術とは別のジャンルの研究者(民俗学や産業考古学や社会学など)や、さらに、地元の美術館や博物館との越境が行われ、双方向での刺激が起こる。
●リサーチのアウトプットとして、アカデミックな論文や映像以外のアウトプットとしてのこれまでにない「視覚化された資料庫」の表現。
●近年美術館で増えてきている「見える収蔵庫」(収蔵作品展として一部見せていくのではなく、収蔵庫自体をガラスケースにして見えるようにする発想)ではなく、「資料庫自体が表現」であ理、全ての収蔵物が基本手に取れるし、過去の調査発表展示は棚から出して再展示可能。
●直島に関する書籍の収蔵は、国会図書館の次に多くなる。(現在、岡山県立図書館と香川県立図書館に接近)
●直島出身の写真家中村由信に関する資料(写真プリントやフィルムはしっかりとした写真アーカイブへ)は、日本一を目指す。(東京都写真美術館の図書館とはすでに同等)
●インターネット上にHPを作り、資料の検索などができるようになる。
●地域出版社としての資料館。
【手法】
●かつての民俗学者や郷土史家がそうであったように、その土地に移り住み、学校の教員などを生業にしながらその土地を調べて、小さな資料館を作るように。その土地に住み、住民との関係を作りながら。
●1年に1テーマで調査を行い、その成果を展覧会にする。それはその後、空間内の棚に収蔵される。これを一つのルーティーンにして継続。徐々に収蔵庫が成長。この一つの調査発表展/企画展は、収蔵庫から出して何度でも再展示・復元できるようになっている。
●先に棚や空間を作らず、必要に応じて、空間は動きながら、広がっていく。有機体。
●政策としては、自分で写真を撮影することはメインでは行わず、できる限り搾取構造を減らしながら、地元の人々の協力を借りて、寄贈/寄託などで収集を行う。(調査発表展/企画展で借りたものを展示しながら保存したいという意思を伝えることが多い)
●”地域アート”で制作する作家が口にする「リサーチ」のほとんどは「サーチ」である。さらに、自分の制作のための”ネタ”や”補強”のための「サーチ」がほとんど。資料館では「サーチ」をメインの制作として考え、アカデミックな「リサーチ」の成果の論文とは別のアウトプットの可能性を作る。
●自分の創造/創作を極力に避け、集めて並べ、蓄積していく。しかし、短期間で、大量に収集し、並べたり積んだりして、視覚化することを避け、自然な流れで資料を蓄積していくこと。その先に自分だけの表現のビジョンを見て。
●直島には、すでに国際的で有名な美術品や美術館で溢れている。さらに、移住者は世界中からくる観光客に向けて、直島で「カフェ」「飲食店」「バー」「写真館」「ゲストハウス」「サウナ」とか「島〇〇」「直島〇〇」などの夢やビジネスや自己実現をしたい人たちが集まってくる。夏の海水浴場の海の家のような状況。日々何かが壊されて作られ、都会のような新陳代謝。
そこで自己実現やビジネスを表面的に徹底的にやめてみる。いや半分やめる。セミパブリックな存在としての作品。自分のこれまでに培った能力を無償で島内に解放する「子供の塾」や「研究会」をルーティーンで行う。これは資料館との関わりしろや協力関係を増やす意味もあるが、物として残すのではなく人の中に育てていく感覚。さらに、「三菱関係」「福武関係」「移住者」など隔たりのある関係性を繋ぐ。「研究会」は新たなコミュニティであるが、さまざまな世代から地元の情報を常に手に入れる「検索サイト」でもある。
●プロセスは分け合うもの。学びを島民と分け合う。
リサーチとアーカイヴ
日本で、作品制作で「リサーチ」が”当たり前”になって久しい。(でも、誰でも何かを調べてたはずだった。でも、2011年以降から特にこの「リサーチ」と言うの言葉自体が作品制作で普及した?)
そして、最近では、作品制作で「アーカイヴ」をよく聞くようになってきてる…。
でも、それ……、「リサーチ」と「アーカイヴ」ではなく、「サーチ」と「記録(もしくはただ本や物を並べただけ)」ではないのか……、よくそう思うことがある。
「アーカイヴ」では、近年美術の学芸員の中で注目され、研究が活発化している動向は非常に面白い。
しかし、作家が自分の表現したい作品の強度を増すために、「サーチ」をするのは当たり前で、「そのプロセスや資料を展示の一部として並べる」展示行為も、その「サーチ」を作品内に閉じ込めらないのであればスマートではないのではないか?と個人的には思う。
もちろん「アーカイヴ」自体を手法として制作する場合も、「記録(もしくはただ本や物を並べただけ)」ことが多いように思う。
(作品制作プロセスだけを取り出して、別の形でアーカイヴする手法を考える、とプロジェクトをやったことはある。参考まで。https://www.travelingresearchlaboratory.com/)
じゃあ、下道の作品制作はどうなんだ?と言われそうなので書くと。
学術的な「リサーチ」や「アーカイヴ」を(自分なりに)理解/尊重した上で、本来の「リサーチ」や「アーカイブ」を行う学問の人たちができない(論文などのアウトプットではない)、美術的な道筋/アプローチでその内容/事象を別の形/ビジョンとして提示すること。を作品内で一つ目指している。
アーカイヴを強く意識しているのは、《瀬戸内「 」資料館》であり、これはアーカイヴ自体を作品化する挑戦だ。
ちなみに、『torii』のシリーズで東アジアの神社跡の撮影を2006年からやっているが、それと同時に収集している旧植民地の鳥居の写った葉書の収集も10年以上になっているので、世界で3番目のコレクション/アーカイヴになっていると思う。
でも、作家だけではなく、一般的に、すでに、「調べる」くらいの意味で「リサーチ」は使われ定着していくだろうし、「保管(庫)」「保存(所)」くらいの意味で「アーカイヴ」は使われる。厳密な意味は消えていくのだろうし、ここはもうこだわる必要がないのかもしれない。
美術大学の客員教授として
2024年4月より、京都芸術大学(旧造形大)の客員教授として働くことになった。
「下道くん、美大の先生とかには絶対ならない!って豪語してたのに!」と古い友人に言われた。確かに。その理由/言い訳をここで書いておこうと思う。
まずは、2018年、子供が産まれて「育てる」ことへの興味が生まれた。その自分の変化に対して正直に動こうと思い、さらに「我が子が可愛いという当たり前」と「育てることに興味を持ったこと」をごっちゃ混ぜにしないで、作品化というか意識化して活動に変化させてみたいと思い、コロナ禍で、島の小学生の表現の塾を始めた。あえて「他人の子の教育に関わる」ことを始めた、現代美術をベースに、本気で。毎週毎週放課後に子供たちと集まる日々。そしてそれは、国立新美と行う中高生の表現の塾へとつながった。半年間10人と向き合う。これらは明らかに「育てる」ことへの興味が「ミッドキャリアの作家が大学の先生になる」という自分自身の未来を嫌悪しながら、自分らしい教育との関わりを試行錯誤してきたと思う。これらが3年目に入り(まだまだ始まったばかりだが)、自分の教育への興味が徐々に自覚的になってきたのかもしれない。小学生→中高学生ときて、僕の教育への興味は大学生でも可能かも、と繋がり始めた。(これって、専門性の話だと思う。)このタイミングでちょうど声をかけてくれたのが、アーティストの鬼頭さんで、それが京都芸術大学(旧造形大)だった。
次に、実は2017年くらいに、一度だけある大学の准教授にならないかとお誘いを受けたことがあった。「美術」「現代美術」に特化した学部ではなかったのも良かったので前向きに考えた。その時に「准教授になるのなら長くその地方に長く住むことになるし、その土地と付き合うことや制作の仕事の仕方が変わるだろうなぁ」と想像してみた。しかし結局、その仕事は無くなってしまったが、自分なりに深くそのことを想像してみた経験が残った。それは直島移住に繋がっているし、今回の京都での大学の仕事をすぐに受け入れられたのも、学科が「美術」「現代美術」だけに特化していないことが自分と大学を結ぶ一つの点であるとその時考えたからかもしれない。
その”「美術」「現代美術」だけに特化した学部で先生業をする自分への疑問”の根本には、僕はかつて美術大学の油絵学部(現代美術も含む)に在籍しながら、僕よりももっともっと美術家や現代美術家になりたい!と強いモチベーションを持って頑張っている同級生たちをみてきたし、その中で僕は民俗学や陶芸や出版物にハマって方向がずれていったし、大学卒業後にすぐに美術業界ではなく出版業界を目指すようになった。旅をしながら、写真を撮って文章を書いて、雑誌に持ち込んだり、雑誌の編集者募集に出したり、雑誌に持ち込んだ写真シリーズが、本になってデビューした。調べて旅して写真と文章にまとめる。しかし、そのデビュー作の本/作品を見て興味を持ってくれた人々は、結局「芸術(美術・建築・デザインなど)」や「現代美術」の人々で、その後、出版業界ではなく美術業界を舞台に活動することが多くなっていった。(でも、出版社への持ち込みは続けていたが全くうまくいかず、デビュー作以降は出版社から出版することは叶わず、自分で出版レーベルを立ち上げて、出し続けている…。)僕は自分の”流れ”をそう考えているにすぎない。
長くなったが、つまり、美大で「現代美術」を目指す生徒たちを教えるのは自分の仕事なのだろうか?と強い疑問がある。それは僕自身が”アカデミック”に「現代美術」作家を目指す生徒ではなかったからと言える。中心ではなく周縁に漂う存在(しかし、現代美術は新しい現代の美術なのでその拡大する周縁が中心になるとも言える)。
最後に、ではなぜ、京都芸術大学(旧造形大)の客員教授か?について書く。
1、客員であること
現在進行中の直島でプロジェクを続けていく中で、日常は島での生活である。先生をするために別の土地に移住することは「今は」考えていない。その中で、専任ではなく客員として、月1回程度京都へ通うというのは、小さな島にいる身としてとても風通しが良く感じた。京都や関西の展示を見れたり、関西で活動する友人たちにも会える。距離感と日数感が今の生活にちょうど良いバランスであった。
2、色々な学部の院生を担当すること
上に書いたが、”「現代美術」を目指す生徒たちを教える先生”になることにある種アレルギーがある。が、今回のこの依頼は、平面や立体、映像や写真、さらに陶芸などを専門とする院生を見て回る。それはバランス的に良いと感じている。
3、極端なまでに”実践的”な教育を行っている
今回、鬼頭さんにこの仕事を誘われた。彼の担当する絵画の生徒たちは、大学生や院生のうちから、マーケット/ビジネスを意識している。今の美術業界でそれを意識しないわけにはいかないが、ここの大学はそれがより実践的に行われているように見える。(だから嫌う大人も多いのも知っている。)
でも、声をかけてもらって、アトリエを回ってみて思ったのは、『僕の学生だった頃は「自分と向き合い、制作をやめず続けること、それが作家になること!」みたいな(全然間違っていないが)モラトリアムすぎる空気が多すぎたなぁ」「その空気感は嫌いではないけど、マーケット/ビジネスの意識や作家の仕事の現実とかを学生のうちに伝えるのって、今として当たり前だよな』と。いや、学生たちが作品の内容ではなく、マーケット/ビジネスに飲み込まれるのはどうかと思うが、かつての美大が社会と切り離されすぎていたと正直思ったし、ここは僕の知らない方向性の美大。その先で生徒はそれに反発してもいいわけだし。そういう意味で、超モラトリアムだった自分がモラトリアム的に「現代美術」を学生に教えるのではなく、今の自分自身にとってこの大学と関わるのは色々と「考える機会」や「新しい出会い」になるような気がした。
最後の最後に、直島も4年目。3年間の町民住宅を出なくてはならず、昨年度から自分たちで家を借りたが、島の地価が高騰してて、家賃は6万円近く(さらに島の電気ガス水道はかなり高く)、 2008年くらいからずーっと家賃のかからない生活をしてきたので、このベースの出費でバランスが大きく変わってしまった。だから、金銭面ももちろん助かるのは書いておかないと嘘になる。しかし、この仕事のお金がないと生きていけないようなバランスにはならないように頑張らないととも思っている。
お金のために教育に関わるというのは、まだ僕の中では、違和感があって。だから、「しまけん」も「新美塾!」もこの「客員」も、自分の活動のため、新しい冒険だと思っているし、参与観察なのかもしれない。(これは綺麗事でしょうか?)
インプロビゼーション(即興)としての教育
最近やっている子供の表現の塾は、即興だと思っている。
毎回使うための同じ教科書がある訳じゃない。そういうのを作るためにやっているわけではない。毎回子供たちの取り組みや成果をみながら、こちらも変化していく。(もちろん、流れや全体への意識は持っている。)それはかなり意識している。それを今までは「セッション」と呼んでいたが、曽根裕さんのインタビューを見ながら、「インプロビゼーション(即興)」とも言えるなぁと思った。
::::::::::::::
曽根裕: ー(中略)ー 毎日がインプロビゼーション(即興)。瞬間ごとに行う判断や考えることも含めて即興性です。それは作る行為でも同じです。人前でやったらパフォーマンス、作るためにやったら彫刻です。音楽でいえば即興音楽みたいな感じなのです。起きてから寝るまで、考えることも含めて生きている。昔はもっとビルディングロマンスというように、ひとつのセッティングを作りあげて、自分の歩んで行きたい方向性みたいなものに対して、一個一個作品を記していくようなイメージがあったけれども、最近はもうちょっと即興音楽みたいな性質に変わってきましたね。
曽根裕インタビュー ART ITより
https://www.art-it.asia/u/admin_ed_feature/7gpfwcrxgjthxmoidabf/
::::::::::::::
僕の制作の場合は、即興性が弱い傾向にあったと思う。幼い頃から性格的にもそうかも。会話ですぐに反応できないとか。制作は、散歩や旅をしながら風景写真を取り集めていくので、その瞬間瞬間は即興性はあるが、そこからゆっくりと意識的な積み重ねが重要なので、あまり即興性を意識していなかった。作品制作では非常に時間がかかる傾向があると言える。でも、展覧会とかは作品は同じですでも空間自体が変わるので、即興の感覚がなかったわけではないが。これまで、制作も生活も、予定を立てて、動いてきた。今年、3年後、5年後の目標を立てるのがルーティーンとしてある。
でも、子供が産まれて、自分の思い通りにいかないことだらけになった。予定をぶっ壊される毎日。ルーティーンを壊されるのが大嫌いだけど、子供だから仕方がないと諦めることを覚えた。それは新しい細胞のように自分の中で膨れ上がっていく。その中で、曽根さん曰く「毎日がインプロビゼーション(即興)」が僕の中にも産まれてきたのかもしれない。子育てはインプロビゼーション(即興)の連続! その新しい筋力を活かして、しまけんも新美塾が始まったのかも。
あ、そういえば、さらに、4月から京都芸術大学(旧造形大)の客員教授になりました。こちらも、「毎日がインプロビゼーション(即興)」でいきたいと思います。よろしくお願いします。
久しぶり台湾 はじめまして基隆
韓国の次は台湾へ。またグループ展の準備。楽しくなりそう。
台湾は2006年から2010年あたりにシリーズ「torii」の取材で頻繁に通っていた。その後、2013年に国立台湾美術館の「アジアンアートビエンナーレ2013」に参加して以来、プッツリと関係が途絶えていた。そのままコロナ禍にもなり、今回、11年ぶりの台湾だった。地下鉄が新しくなってて驚いたが、駅を降りると前と変わらない台湾が広がる。物価が高くなった、それは日本が停滞しているだけ。
また、台湾で旅を始めよう。
島の子供の研究室 しまけん
暖かい日が続くし、まだ春休み。いつも放課後だったらいけない場所に行く。30分山道を歩いて島で一番漂着物のある浜辺まで行き、漂着物で遊びを考えました。タラの芽も取って。
しまけん
韓国で展示オープンの翌日、日本に帰国。その翌日月曜日から普通に島生活。
月曜日といえば、島の子供の研究室=しまけん。
今日は、暖かくなってきたので外へ出ることに。
彼らは、海でビデオテープを拾った。しかし、その中に海の生物が住んでいて、海に還すことに。あと、動物の骨を拾って、「持って帰る派」と「土に埋める派」に別れているのを遠くから眺めた。
先々週、ある子が山でカセットテープを拾ってきたので、その土だらけのテープを綺麗にしてラジカセもゲットしておいた。今回、みんなでそれを囲んで再生してみる。山から発掘されたのは、松田聖子の歌声だった。
しまけん、最近はフィールドワークしながら、時空を超える挑戦やってます。
作品の制作と消費の関係性
昨日、韓国のグループ展の搬入から帰宅した。
今回の韓国では「沖縄硝子」という作品を出品している。展示タイトルも「Nothing to Waste(無駄などない)」というのでゴミをテーマにした作品が多い(ゴミから機能のないオブジェを作るのはアート化させる定番ではあるが、この「沖縄硝子」は沖縄の浜辺に流れ着くアジアからの漂着瓶を琉球ガラスの職人さんと一緒に新しい食器として生まれ変わらせる”新しいサイクル”がテーマ。)。
この作品は2015年くらいから動き始めたプロジェクト作品なのだし、これまでもいろいろな場所で展示を行なってきた。今回も、地味に色々と新しい変化を加えて展示をしてみた。一つは「琉球ガラス」のアンティークを収集して、「沖縄硝子」の隣に置いて、図面を書いたこと。非常に良い展示になったし、何よりこの作品自体に広がりと深みを感じられる機会となった。
たまに自分の中で起きることだけど、このプロジェクトは継続していて徐々に成長してきて、今回、本当の意味で「作品化/シリーズ化」した手応えを感じた。一人で異国で5日ほど設営しながら密かに感じた喜びだった。
そういえば、少し話はずれるが、
以前友人の美術家に「下道は”ひとり芸術祭”をずっとやってるよね」と言われたことがある。それは「普通、芸術祭の場合、招聘された作家はその土地を調べて、その土地のために新作を作って展示するが、下道の場合は呼ばれてもない場所に行き、勝手にプロジェクトを始めて、作品を作っている」という意味だった。その通りだなぁと思う。
確かに、「戦争のかたち」も勝手に日本全国旅行を始めているし、「Re-Fort」も「torii」も誰からも頼まれていない。でも、沖縄をフィールドとしたシリーズ「漂泊之碑」(「津波石」や「沖縄硝子」)は沖縄の小さな企画に呼ばれた時に始まったし、「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレで考えて作ったし、「bridge」もギャラリーαMで作ったから、《瀬戸内「 」資料館》もだし、これは誘われた企画への新作としての応答だった。
《依頼されてからその企画/場所のために作る》というのが苦手なわけではないと思う。多分、普通の現代の美術家と作品制作のプロセス感覚/時間感覚が違うのだと思う。それはキャリアの始め方に関わることかもしれない。僕の場合、デビュー作「戦争のかたち」は雑誌「spectator」への持ち込みで3年連載になり、それをさらに出版社から写真集になり、その後展示へと展開されていった。通常、美術作家はこのようなプロセスを通らない。つまり、僕の場合、”古風な物書き”の作品完成へのプロセスや手法の”癖”のように残っている? でも、ジャーナリズムだと思ってる部分もあるので、そういう物書きの方法であるのは間違っていないと思っている節もある。連載から1冊の本を作るような時間の長い使い方が合っているのだと思う。(さらに、それは消費するスピードにも関係すると思う。)
・今の現代美術家 = 芸術祭/美術館/画廊から企画 → その土地や環境を調べて → 新作を作る(→芸術祭/美術館が終わると撤収)
・古風な物書き(下道も)= 自分でテーマを見つけて作り始める → 少し出来始めたら”雑誌連載”を行う → それを繰り返しながら最終的に完成し出版 (もちろん、最初のきっかけが雑誌連載のお誘いの場合もある。しかし、連載しながら完成を目指す。出版したらその本は何年もかけてう売られていく。)
もう一つ、僕の場合、依頼されてできた新しい作品も、”連載のスタート”と考えて別の機会にそれを継続していく。「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレでスタートしたが、それから5年以上世界のいろいろな場所の芸術祭(光州ビエンナーレなど)を経てある程度完成した。しかし、その中で岡山芸術交流で岡山を舞台に作った時のトークイベントで、ある関係者に「他でやったことを使いまわしてる」というコメントを受けたし、そのような指摘は少なくない。ただ、僕の場合「連載」と考えていて、それは、その場所その場所で同じことをしているのではなく、「未来の完成のための積み重ね」であるのがおそらく理解されていないように感じる。(いや、「ウチの企画だけの新作を!」という気持ちが強いのだろうか。)
そういう意味で、最新作の《瀬戸内「 」資料館》は(と言ってももう5年やってるが)、島で島民と調査したさまざまな成果を展示や出版にまとめながら、資料館(の棚/アーカイブ)をつくるプロジェクト。それは、完全に直島雑誌の編集長になった感じ。いろんな連載を島民とやりながら毎回誌面を作り、それを継続させていく。でも、これはビジュアルアートなので、その集まってきた一つ一つではなく、それらの集合する先/アーカイブの見え方を意識的にた物に落とし込もうとしている。
このおプロジェクトは今の美術界?の制作の時間や消費する時間への疑問をダイレクトに行動に移している。(が、1発アイデアの作品が歴史的な名作になることは多々あるのは理解している。自分はそれができないからこうしているにすぎない。)
もう一つ、書きたいことを書くと。
一昨年デンマークで中規模個展、今回韓国で1空間を作ってみながら、ちょうど今、中規模で良い個展作れる、気持ちも作品とスキルが揃ってるし、いいタイミングだから、国内で中規模の複数のシリーズを同時に見せる個展をやってみたいなぁと妄想している。(もちろんそこでは新作の挑戦も行うだろう。)
でも、周りを見ると、同じ世代の作家たちが、この数年中規模の美術館で個展をしているが、その呼ばれている彼らを見ていると共通して「毎回新作」作家であり、《依頼されてからその企画/場所のために作る》作家たちであるように思える。やはり、呼ばれた場所/美術館で、その場所だけの新作を作れないといけないのか?と悶々とすることがある。これは作家の制作のスピードの話。
「毎回新作」の場合、毎回その場所の特性を読み解くので、その土地に合っていても、他の土地では見せにくい作品になることをよく見る。つまり、その企画でその機会にしか見せられないということ。それは芸術祭の影響も強いだろうし、それは、やはり消費のスピードが速くなっているように思う。
なおしま美術学院
島内で中3の母親から「娘が高松の美術系の高校に受験で、デッサンがいるのですが教えてくれませんか」というお願いがあり、月曜日放課後のしまけんをしている後ろでモチーフを組んでデッサンをやりますか、となった。デッサンは見る/観察の基本だから、絵が好きな子にとって絶対にやってみて面白いしためになると思う。そうは言ったものの、受験というのは合格というゴール/目標がある。3ヶ月くらい週1でやって。結局合格できたからよかった。ひとりだけの美術予備校。笑顔を見れて報われた。
韓国、展示の下見
全州という百済の時代の都で今は光州から1時間の地方都市。展示の下見で一人。コロナによって途切れていた感覚を取り戻すように、知らない土地に触れる緊張や刺激を久しぶりに味わう。
新美塾!がこれまでのワークショップと違う点
(鬱陶しい自分語りが続きます。なぜなら、今、新美塾の記録集や記録展を作っているので、頭の整理です。他の企画とどう違うのか?とか、自分は何を大切にしているかの整理。でも、他人の自分語りが嫌いな人はご遠慮ください。作家が何かを作り、語るプロセスとして興味のある方はどうぞ。)
新美塾!がこれまでのワークショップと違う点をあらためてまとめる。
なぜなら、少し長い程度のWSだとか学校と名乗った連続WSと勘違いされるから。
・中高生が対象で10-15人が《半年間》参加する
←普通のWSの場合、数時間か1日、長くても3〜5回程度。(新美塾は1ヶ月に宿題が2回、オンラインが2回、オフライン集合が1回。それを6ヶ月間継続する。さらに日常的にラジオを作ったりグループラインで会話してたり。参加者の中で”日常化”するようにデザインしている。)
←普通のWSは小学生や大人が対象のものが多く中学生を対象にしたものは少ない。
←期間が長い場合、大人数で行われ、それぞれの顔が見えなくなりがちだけど、新美塾は全員の名前や個性が覚えられる人数にしている
・全ての内容を一人のアーティストが美術館と長期で作る
←「塾」や「学校」を名乗るWSやイベントや展示が多いが、そのほとんどが、いろいろな種類の複数の表現者を呼んで組み合わせたもの。1回ずつはWSでありトークであり。それをいろんな種類で構成していて、それを「学校」と呼んでいるに過ぎない。現代美術と建築家と音楽家、、などの1回ずつの連続。科学者とスポーツ選手と小説家と、、、などの1回ずつの連続。その場合、アーティスト(先生?)と参加者の関係性は生まれにくく、スタッフやチューター的な存在がそれを補うことになるが…、これは「塾」や「学校」という名前のWSやイベントや展示でしかない。
←新美塾は一人作家とスタッフ三人が最初から最後まで考えながら、関係を作り、それを何年も継続すること。
・内容や最終的な出口は最初から決めず、参加者の個性を変化する
←普通内容や最終的なアウトプットを決めてから動く。さらに何年も続けてやる場合ならなおさら。
・卒業式は参加者スタッフ共に泣ける
←一人一人と半年間付き合うからこそ、起こる様々な出来事がある
・ほぼ1年間通して動いている。
←7月〜12月は参加者が参加するカリキュラムが行われ、1月〜3月は記録集/記録展など後処理やまとめ。4月〜6月は新期募集の準備と方針決定。基本的に1年間を通して、一人のアーティストが美術館と一緒に動いている。
・卒業生ともつながっている。
←新美塾ではグループラインを活用する。それは集合場所やミッションの締切などの情報交換や、グループラインを使ったミッションの発表も行う。さしてを塾を卒業した子たちとのグループラインはそのまま残している。(もちろん、退出したい人は出ることもできる。)卒業生の中には新美に展示を見に来るようになった子も少なくなく、来るときはメッセージがきて、スタッフが対応する。スタッフからその子の最近が共有される。さらに、直島の下道家にも家族で遊びにきたり。あと、進路や美術に関する疑問や相談などにものる。あとはインターン的に働きたいとの声を多く寄せられるのでそこも検討中。など、交流は続くので、本当に学校のようだなぁと感じる。
表現の塾をやる理由を別の角度から考えてみる
日本の中学校や高校の学校教育は、大学に入るための受験のための、答えを導き出し点数をかせぐための特殊な競争。大学入学をゴールにして作られた高いハードル(とその合格後の放任)は、中国の科挙の影響があるという専門家もいる。階級などに関係なく全ての市民に開かれた関門であるのと同時に、関門を通過すること自体が目的化してしまう危険性を孕む。(中国や韓国や日本の大学受験のシステムはこの影響が少なからずあり、しかし中国は近年受験が目的かする学校教育の見直しをすでに行なっているらしいが、韓国や日本はある意味昔のままだという。)
日本の義務教育は、(大学の先の)日本社会で”一人前”として動ける社会人を育てるためにデザインされた理不尽な訓練のようでもある。それぞれの子供の特別な能力を認めつつも、実際はそういう”それぞれの個性/尖った部分”を削り取って、全員同じように丸めていくようでもある。さらにいうと、こういう教育を受けていた子たちが、大学に入って突然の放任的で専門的な教育に戸惑うことは多い。それは美術大学もそう。石膏デッサンしてたのに、大学で急に抽象画を描けみたいな。多くの大学生が、答えを探す競技から解放されたにも関わらず、学校/社会に認められる答えを探し続けることしかできない傾向は、大学で講師をするときにも強く感じる。
そういう自分自身の経験や問題意識は、僕の今実践している「島の子供の研究室」や「新美塾」に確実につながっていると思う。多分、僕がやっている塾は”表現の楽しさを学ぶ”という簡単な言葉で括られるだろうが、その根本にあるのは、中学高校で植え付けられる「学ぶ=勉強=答え探し」という柵(しがらみ)を取り外す”オルタナティブ”場所(でもあるかもしれない)を作ることでもある。その学校との距離的な立ち位置は”塾”に近い。でも基本的に中高生にとっての”塾”は、大学に入るための「勉強=答え探し」の更なる強化訓練場。だから、その真逆な場所を、あえて新美”塾”とつけたい。(新美塾というタイトルやロゴは、美学校を意識している。オルタナティブな表現の塾の先輩。赤瀬川パイセン。しかし、中学生高校生向けの美学校を作る計画。ま、誰も気がついてはくれないが。)
その新しい塾は「自分で考え自分で見つける学びの楽しさ」という(学校や塾も言うような)本来の教育の姿かもしれないが、その中で僕ができる専門性を言葉にすると「美術」か「表現」になる。さらに、僕の場合、日本の学校や社会への順応を強いるシステムが始まる中学生をメインのターゲットとして、全く別の角度の「学び」をぶつけてみたいと思う。こういう活動は義務教育/学校の中や関係性内では完全に柵を取り払えないから、義務教育/学校の外側でデザイン設計し作る必要がある。だから新美塾のように美術館が主導するのは一つの正解かもしれない。もしくは個人か企業か。
さらに、今の時代に僕自身がこれらのプロジェクトに力を注いでいる他の理由は。
一つ別の問題意識としては、多くの美術作家がミッドキャリアあたりから、仕事の質や単価は上がるが仕事の量が極端にへるという状況の中で、美大の教授になる作家が多く、僕の同じ世代たちもその辺りにいるが、その中堅アーティストの生きる道として、別に美大の教授(さらに美術予備校の教師)だけがあるわけではなく、他の道を作ってみたいのかもしれない。自分のために。つまり、アーティストが大学を含む学校制度や大学の先生になることへの疑問。美術家を取り巻く制度や慣習への批評的なアクションとして。だからこれを、美術館内で考えるのは間違っていない。美術館の開き方を変えるのだ。これは美術家の生きる道を問い直すことでもある。もちろん、美大で専門的に美術を学ぶ意味はとても大きい、しかしもっと前から、学校教育とは全く異質な「表現の塾」を作ることは別の意味で面白いはずだ。
さらに進める。”現代アート”とは社会批判や制度批判を多様に含むが、その多くの作品は、(美術館の中)問題の外から発する「ただのプレゼンテーション」でしかないことは多い。うまくいって意識は変われど、社会自体は変わらない。それは福島の時に痛いほど分かった。福島をテーマにアートをやっても、この国の方針は1ミリも変わらないし、さらにもっと実践的なデモでも変わらなかったわけで。
今回僕が意識している美術教育や美術館(WSなどの教育普及活動)などへの制度を問い直すとき、それを作品にこめて美術”作品”にしてしまった場合は、問題の内部に半分いながらの制度批判をする「ただのプレゼンテーション/問題提起」になっていることも多い。 僕は今の時代に対して「ただの制度批判のプレゼンテーション」ではなく、小さく確実に実際に社会を変えてみたいと思っていて、これらの実践を行なっている。3時間程度で終わるアーティストのワークショップでは”作る楽しさ”は伝わるが、上の書いたような意識を変えるためにはそれではあまりに短すぎる。半年間の準備と半年間の塾を作った。もちろんこれは、美術の枠内を射程にしているので作品制作の延長であるとも考えている。
(さらに、もう一つ。コロナ禍で移動が困難になりオンラインが発達し、戦争でガソリンが高騰し飛行機の値段が倍になり格安航空便が減り、そんなかなで従来の美術館のシステムに疑問を持つ。「外国や外から大きな作家を呼んで、大きな作品を輸送して、大きなコストをかけて展示を作り、何万人入りましたという物差しで成功を図る。」のではなく、「そういう莫大なお金を少し減らして、その一部でも美術館の地元の人や学生たちに開くプロジェクトに当てたら良いよね。」と言うのがわかったはず。なのに変わったかな?そう言うのを口では言っているけど、本当に変わってきてる? 新美塾はその新しい扉を開こうと教育普及と挑戦しているわけだけど…、少しでも風穴は開いたのかな?)
しかし、全く実践的ではないただのポーズの「(アートのロジックを入れた)ただの制度批判のプレゼンテーション/問題提起」の方が美術界では話題になり評価される。現代は炎上が重要な問題定義の方法であり、アクションなのは理解できる。僕の作っている塾は、参加した学生や保護者やその周辺から変わっていくだろう。足元から小さく変化を作る方法を選んでいる。時間のかかる方法。それはみんな分かっているけど、口にはするけど、やったことを見たことがない。だから始めた。3年目。少しでも風穴は開いたのかな?届いてるのかな?
何はともあれ、参加者との経験を第一に全力で動いている。その先に、今度は関係者に届くように、昨年は記録集と記録動画を作った。来週からは、記録展示を作って1ヶ月発表してみる予定。さて、反応は出るのか?それとも、暖簾に腕押しか…。新美塾、第1期生と2期生の生徒や保護者からは熱い期待やエールが届いているし、スタッフとの意思が共有できてるし、とても励まされる日々。
館長という肩書き
2019年末くらいまでは、外で制作の仕事をして、終わって帰る家/場所での日常は、休日であり次の旅や制作への準備期間だった。つまり、普通にオンとオフ。
それが、移住した小さな島での日常でコロナ禍も重なり大きく変化した。オンとオフが、オフとオンに。さらにオンとオンに。
小さな島に移住して、立ち上げた《瀬戸内「 」資料館》はある意味で架空であり、島での肩書きをその”館長”と名乗り始める。もう一つの肩書きは”娘のパパ”であり、島ではその二つの肩書きを持ち、日常を送り始めた。島という小さなコミュニティでは、都会の”誰でもない存在”はなくなる。(この監視社会に耐えられない移住者は少なくない。でも、僕自身、引っ越してから気がついたが、そんな小さなコミュニティで育ったから大丈夫なのかも。)生活や日常の中すらもフルタイムで、島で古い資料を収集する資料館の”館長”、そして”娘のパパ”としてたち振る舞う。それは、今までとは別の新しい人格のようだ。コロナ禍で外の仕事が徐々になくなり、逆に島での日常が仕事場というか、別の人格に生まれ変わったような、オンとオフがひっくり返ったようだった。
さらに、ここ”アートの島”では”設置された有名な作品”が日常なので、僕自身、”今を生きるアーティスト”として見られている奇妙な生活でもある。だからあえて”アーティスト”ではなく”館長”という架空の肩書きを自分に課しているのだろうと思う。つまり、アーティストとして自分ではなく作品が人に見られる存在から、小さなコミュニティで「娘のパパ」という肩書き同様に「資料館館長」という顔を日常化しているのは、僕自身が人に見られる存在になっている訳で、僕の手を離した作品という存在よりは、僕自身の存在/立ち振る舞い(もしかすると生き様みたいなの)が重要な気がしてきている。
おそらく、僕が”アートの島”に移住するとを自分で決断したこと、そして住み続け島民たちとさまざまな出来事や影響が起こり合っていること自体がとても重要で、《瀬戸内「 」資料館》というのはある意味でかなりパフォーマティブな舞台でありその残骸、いや、僕はミュージシャンやパフォーマーではないので、やはりこの過程やプロセスをどのように記録しながら収集し編したものを未来に投げ込むかを考え続けているのだが…。
そして今、ついにコロナ禍が収束。再び、非日常としての旅や制作の依頼が増え始めている。また外での制作の仕事がどんどん動き始めている。つまり、オンとオフが、コロナ禍で反転しオフとオンになって、今度は、小さな島での日常と制作、そして、非日常としての旅と制作、とが両方動く”オンとオン”になっていきそうな気配。
これはつまり外から与えられる役割をどのくらい意識的に内面化するか、さらに自分から新しい役割を作り名乗っていくかの話。「写真家/美術家」としての自分に「娘のパパ」としての自分が増えて、さらに「資料館館長」の自分。さらには「島の子供の研究室のリーダー」「写真研究会」「新美塾の塾長」などなどなどなど。これって大変だけど、結構楽しい。
東京などの外での仕事を終えて、家に帰る時、住む場所が島であるのは、独特の感覚である。境界線は海であり船であり。船に揺られ潮風を感じながら、「写真家/美術作家」から「館長(もしくはパパ)」へと切り替わる自分に気が付く。
さぁて、仕事仕事。
窯工研 新年部会
窯工研も2021年2月に立ち上げたので、ようやく3年。コロナ禍で廃墟のへんこつを部室にしてスタートし、2022年に能作さんの設計でリノベがなされ、開放的な今の部室になり、またそれも馴染みつつ。毎週月木で朝から夕方まで、ダラダラと部室を開け、そこにふらりと部員がやってきて作陶をしたりおしゃべりしたり、すごくいい空気が流れています。(へんこつを日常的に定点で写真をアップするようになった。)
これまで旅ばかりで、ある意味定住を意味する「場作り」というのを少し避けて通ってきたが、子育て移住とコロナ禍が重なり、直島という場所で「場作り」(の実験)を行うことになったのは本当に偶然だった。元々この島に文化的素養があったことも上手く運ぶ後押しとなったが、やっぱり直島には美大時代「ムサビ窯工研」で一つ後輩で直島で家族で暮らしていたなっちゃんの存在が大きい。美大の敷地の隅っこに立つボロボロの小屋の部室で、個性的な部員たちとのゆるゆるとした日常は青春。そこで授業にも出ずに陶芸に明け暮れ、作った食器で鍋やら飲み会やら。夏の合宿とその後の窯業地巡り。そんな昔の空気が全然別の小さな島の大人たちの中で別の空気感として漂い始めている。これは「作品」と呼べるような新しく大げさな存在ではなく、どこにでもあるような、でもどこにもない、頑張って続けないと手に入らない場所が根付きつつあるように感じる。
(直島窯工研はプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》内の研究会として位置づけることで福武財団の所有する環境を利用できている。それは学校の中の部室のようにある意味で守られた環境にある。つまり、こういうことをどこかでやる場合、場所を運営するのだから、社会の中では基本”お客さんからお金を集めるシステム”が必要になるがそれが少ない環境が作れているのも言及しておく。)
直島写真研究会
2024年1月より、「直島写真研究会」をはじめたいと思います。
月1回2時間程度、瀬戸内「 」資料館のへんこつに集まり、それぞれが撮影した写真をプロジェクションや紙で見せ合って語り合ったり、色々な写真集を共有して話したり、写真が好きな人々が自由に集まれる学びの場。時間は18:30-20:30くらい、毎回みんなで日時は決めていきます。食べ物持ち寄りで飲み物でも飲みながらゆるりと。基本的に直島町民や直島に通っている人が参加し、直島やこの周辺の風景を撮影した写真を見せ合えると良いなぁと思っています。(もちろん、別に外の写真でも可です。)
なぜ、基本直島町民が参加できるか?というと、僕自身の目標としては、写真が上手い下手ではなく、写真の面白さを、今の直島やこのエリアの風景を日常的に記録し見せ合うことで学び合うことに興味があるから。2022年に直島で掘り起こした1950年代に直島で活動した「直島どんぐり写真クラブ」のように。僕らが直面している激変する直島の今を記録しその中で学び、さらに未来の人々がこの今を発掘することを想像しているからです。(僕自身が未来人の発掘者になって今の写真を埋めとくことを想像している。ただもちろん、写真研参加者が写真を撮影する時にアーカイブを意識する必要は全くない。引いて活動で考えると、という話だ。)
僕自身この島で写真との関わり合いを考え、写真研のアイデアもぼんやりと温めていたけど、今回ついに始動する原動力になった要因は、直島の写真家の故中村由信さんやその友人たち「直島どんぐり写真クラブ」のおじいちゃんたちとの出会いもそうですが、今の直島にも写真が好きでここで活動している人が結構いることです。(近所には鳥を撮影しているおばちゃんや夕日を撮影しているおじちゃんもいるけどそういう人が参加してくれるかはまだわかりませんが)同世代では、写真を自らの”仕事”と考えて活動している写真家の小林正秀さん(直島の宿に勤務)や、編集者の岡本雄大さん(直島の工場に勤務)、島で写真集を扱う本屋をやっているアンドリューなどもいて、専門性を持ってかなり深い部分を話し学べる土壌がある。(きっと他にもいると思います。)
でも、これは教室や学校ではなく研究会なので、僕や彼らが先生ではないし講義もない。みんなでいろんなことを共有する場所。ビジネスではない。写真の素人であっても学びたい気持ちがあれば大丈夫。僕も素人として学べることはたくさんあると思っている。
資料館内で日常的に現在活動中の研究会は「窯工研究会」「島の子供の研究室」「直島鍰風景研究室」「なおしま美術学院」なので、この「直島写真研究会」で5つ目。「窯工研究会」はもう3年やっててかなり定着しているので、昨年は淡路島の焼き物作家さんに協力してもらいみんなで窯を作って焼く楽焼”合宿”を行いました。「島の子供の研究室」は直島諸島をフィールドワークした成果を地図にまとめて販売してます。
「直島写真研究会」も活動が定着してきたら、勉強会から飛び出して、みんなで写真展を見に行ったり、展示をやってみたり、本を作ってみたり、できるといいなぁと思っています。
ダイエットのためにギターを買いました。
あけましておめでとうございます。
と、ここに誰かに挨拶を書いてみましたが、一体この日記を誰が読んでいるのでしょうか、誰に読んでほしいのでしょうか。この日記は色々と思ったことを今後も書いていきますが、他人に影響を与えるために書いているわけではなく、自分のまわりに起こっている事やふと思ったことを備考録(覚えておく為)として書いています。だから、旧twitterみたいに、呟きだけど、誰かにいいねを押してもらいたいみたいな気持ちはなく、ただの独り言でつぶやきです。ただし、しっかりとみんなが見ることもできる場なので、緊張感は持って書いています。ゴッホの手紙みたいに100年後に読まれるかもしれませんし。
そういえば、年始に中古の小さなアコギを買いました。手持ち無沙汰で昨年はお菓子を食べたりネットサーフィンしたり色々無駄なことをしてしまっていたので、少し音に変えて空気に漂わせてみようと。全ての悪は手持ち無沙汰であり、その解消にはギターではないかと。
今年もよろしくお願いします。
クリエイティブな人?
ー アーティストにしろ何にしろさ、人間って何かをするときは、必ずあるヴィジョンを持っているんだよ。それを現実化できるのは技術を持っている人。そのヴィジョンっていうのは自由でさ、別になんだろうがいい。どのプレーヤーも自分のヴィジョンを持って自分のサッカーをつくり上げようとしてるんだよね。ピッチだけじゃなくて、上からフィールド全体も見ながら、あらゆることをやってるんだよね。作家ごとにやり方が違うだけでさ。ー
小林正人
(美術手帖『小林正人と鬼頭健吾。知己の二人が語る「二人展の特別感」』より)
なんの職業にしてもクリエイティブな仕事をする人がいる。アーティストでもサッカー選手でも料理人でも。美術館主催で企画している「新美塾!」でも中高生に(アーティストになるのではなく!)そういうクリエイティブな仕事をする人になる種や芽を植えようと試みている。でも、そういう「クリエイティブ」って言葉は今、自分も使ってしまうし世の中に氾濫しているけど、すごくぼんやりしていて、言語化できていなかったりする。(なんでも「アート」で「クリエイティブ」な時代な訳だけど、それを言葉にして線引きしてみたい訳。)でも、この小林さんの言葉は一つのその解答だなぁと思った。これこれ。
自分だけの自由なヴィジョンを持っていて、それを実現するために技術を獲得し、自分をも俯瞰しながら、作り上げる人。つまり、目の前の与えられた仕事をこなしているのではなく、自分だけのヴィジョン(新しい視点を持った目標)を持ってそれを実現させるために、自分の技術や能力をさらに前進/開発して、さらに世界や業界や過去や未来を俯瞰してみながら、それを作り上げること。いや、これだと作家やプロの話になってしまうので、もっと小さく日常的な言葉にすると、与えられた仕事をこなしてお金をもらって買い物をして生きているだけではなく、その自分の手にした仕事(行い)の中に自分だけの目標やクリエイティブを常に持っているか、ではないか。
(今年もよろしくお願いします。)
2023年の活動
今年もお世話になりました。
少し自分の頭の整理と備考録のために、2023年の大きな活動を書き起こしてみます。
最近の活動(2020年以降)は、これまで通りに”外”で行う展覧会やトークなどの発表の活動に加え、住む場所/直島で「日常生活内ルーティーンに組み込んだ制作と発表活動」をもう一つ動かしていて、それが3年経ち定着してきている。(2019年までの愛知県にいるときは、前者は同じだけど、後者はただの生活/準備/休息だった。)今は外と内(ハレとケ)との両方が制作で発表の場として回っています。これは意図的に活動スタイルを大きく変化させたから。今まで「制作=旅」であったのを「制作=日常生活」に舵きりした。これはコロナ禍で旅ができないなどもあるが、直島でそのような制作スタイルに変化させようと決断したのは2019年であり、2018年の娘の出産が一番のきっかけだ。
直島も4年目。この「日常生活ルーティーン内に組み込んだ制作活動」としては、《瀬戸内「 」資料館》のメインである年一回の調査発表展に加えて、3ヶ月に1回の展示替えする小企画「直島表現図鑑」を開始(それは数年後に大きな企画として合体予定)。さらに毎週月曜「島の子供の研究室(しまけん)」や毎週月木「窯工研究会(焼き物サークル)」(や「直島写真研究会」)部活動もおこなっているし、さらにさらに、直島中学の美術部顧問になったり、美術系高校を受験する中3に週一でデッサンを教える「なおしま美術学院(なおび)」を、ビジネスとしてではなく資料館内の活動としておこなっているので、日常が大忙しである。これは、全ては資料館というプロジェクトのためであり、その館長としての活動と言える。
逆にコロナ前までメインだった外での活動、美術館でのグループ展が若干減少傾向にある。だだし、ニューヨークの小さなギャラリーに所属するなどの新しい展開も動き出す。ここから2年間はこのようなバランスで進みながら、徐々に外で発表できる作品を制作発表していく計画です。
さらに、”教育”に関わる機会/求められることが増えてきました。これは子供も授かり自分としても興味が突然湧いてきているので、新しい水脈として、求められれば、応えたいし挑戦したいと思います。
●グループ展『潜在風景』
アーツ前橋
2022年11月19日 – 2023年3月5日
40歳前後の写真家たちが集まるグループ展に参加。さまざまなスタイルの写真家と一緒に発表できたことで自分のやってきたことを俯瞰。
●個展『Floating Monuments』
Alison Bradley Project
2023年1月19日 – 3月1日
ニューヨークのギャラリーで個展。小さなギャラリーだけどチェルシーにあり様々な関係者と交流できたし、作品がジョージ・イーストマン美術館に収蔵されことになった。地元の日本人の作家さんたちとも交流。
●グループ展『Before/After』
広島市現代美術館
2023年3月18日ー6月18日
リニューアルオープンの展示に収蔵作品が出品。ありがたい
●グループ展『KANTEN』
apexart
2023年3月24日 – 5月20日
ニューヨークの非営利ギャラリーのグループ展に参加。
●個展『瀬戸内「直島部活史」資料館』
瀬戸内「 」資料館
2023年9月9日 – 12月23日
直島の資料館の今年の企画展。地元の教育委員会の協力など島の人々と関わる。
●グループ展『つなぎ 現代アートコレクション展』
つなぎ美術館
2023年9月10日 – 11月19日
10年前に滞在制作し収蔵された作品と久しぶりに対面。
●出版『直島島島図鑑』しまけん
瀬戸内「 」資料館
2023年9月
3年目の「島の子供の研究室(しまけん)」。子供たちと直島を調査したものが地図として出版。ようやく一つ形に。
●直島表現図鑑01 イワタコンフェクト
2023年6月10日 –
直島表現図鑑02 田中春樹
2023年10月6日 –
資料館で始めた企画。毎回、直島のクリエイティブなおじいちゃんやおばあちゃんを紹介する。2回目までが終了、来年も3人ほど紹介予定。再来年に大きな展示に。
●『山下道ラジオ第200回』
2023年10月29日
毎週月曜日に収録して放送しているラジオ。3年以上やってついに200回。
●『新美塾!第二期生卒業式』
2023年12月17日
中高生むけの表現の塾。国立新美術館の教育普及チームと一緒に作っています。2年目が終了。来年もやります。
新しい冒険、新しい制作
知らない世界を旅をしながら、まだ見ぬ世界に他者に出会いたい。
新しい世界を風景や人々と出会い翻弄されることから得ることは、より自分を深く知ることであり、自分の中に新しい細胞が生まれ自分が少し変わっていく、自分の新しい身体を獲得していくような、楽しさだったように思う。そんな気持ちで遠い遠い異国の風景や人々の中へと移動し続けていた。
その中で作品を制作し、本や展覧会を開くようになって15年になった2018年、僕と妻の間に娘が誕生した。子供を授かるというのは、意外と簡単ではなく望んでも得られないし、絶望することもあるだろうと諦めかけた頃、妊娠が分かった。
生まれてくる娘にどのような名前をつけようか、その時から自分の中で新しい思考が生まれた。生まれ、日々一人では生きられない小さな娘を妻と交代で世話しながら、僕の体の中に新しい細胞が生まれ動き始めたようだった。娘は日々成長する。原始人が言葉や道具を使うように、そして絵や文字を使うように日々進化していく。僕の中で生まれた細胞の一つは「育てる」ことだったのかもしれない。しかしそれは簡単には「教育」とは置き換えられないだろう。僕が無知の他者に何かを教えるのではなく、小さな生き物から僕自身が新しい「学び」をもらっているというか、自宅で「知らない世界を旅をしながら、まだ見ぬ世界に出会」っているような日々というか。つまり、僕の冒険への興味は遠い世界から自宅内に移ったのかもしれない。しかし、娘も小学生や中学生になればどんどん僕から離れ自分で生きていくようになるだろう。それまでの冒険は自宅で良いかのも、と。僕は今のこの冒険をもっともっと楽しみたいので、都市部から小さな島に移住した。(これをただの親バカとも言うが。。)
移住して数ヶ月後、今度はコロナウィルスのパンデミックが起こり、実質的に移動ができない世界に変わって、物理的に自宅に閉じ込められた。(さらに戦争が始まり航空便は高騰し、友人たちが暮す香港が急激に中国化し教育も大きく変わったり、さまざまな世界との距離感が急激に変化していくようだった。)そんな中で、僕自身、もう遠い世界を旅するのではなく、興味は、半径数キロ圏内、小さな島の中の族や人々の中で大冒険をすることシフトした。飛行機を宇宙船を飛ばして、遠い遠い世界を見なくても良いのではないか?と。
小さな島を掘っていき、過去と未来を繋ぎ、遠い異国に繋いでみたい。
十分可能だと思っている。まだ形は見えないが。
へそまがりの愚痴
そういえば、直島でプロジェクトを始める前に、下見をしながらアイデアを練っている時、
「写真館をやるのがいいのではないか?」と一瞬考えたことがある。
直島写真館。
普通に島で写真館をはじめて、ゆっくり時間をかけながら、島民の家族の写真を写真館として撮り続け、それが未来に島のアーカイブになっていくようなイメージ。凡庸なアイデア。だけどストレートなアイデアだと思った。
でも、調べてみると、すでに近所に住む女性が直島で写真スタジオを作ろうと計画していることが分かった。さらに、他にも島内には写真家やカメラマンを名乗る人が複数人いるようだった。
なんとなく、そのアイデアを凍結し、そこから別のアイデアを練り始め、人々から写真などを収集して保管しいていく今の資料館へと思考は変化していった。(その後、彼女の写真スタジオのアイデアが停滞している間に、もう一人のフォトグラファーが新しく移住してきて写真スタジオを始めようと今まさにうごいている。)
今、直島へは「何かが自分ではじめたい人」「何かアートが好きで何かやりたい人」が集まってくる。
「アートの島」直島の魅力に憧れて、ビジネスのチャンスを夢見て。
そして「直島アート○○」とか「直島○○」の取り合いをしている。小さな島なので早い者勝ちである。先にその名前と業種を取ってしまえば、ある意味で「成功」である。都会のような競争はない。
さらに、飲食やホテルなどの観光業は日々新しい業者が加速度的に蠢いているザワザワしている。人々の生活の積み重ねでできていく風景がどんどん変わって、生活感を失っていっている。いや、その新しい移住者がスクラップ&ビルドすることはこの島が細胞分裂しサイクルし生きているということなのかもしれない。
でも、僕はその中で、この島で自ら新しい何かを作ることを極力辞めてみようと考えた。まず、日々みんなが捨てるものや忘れられたものを集めることにした。そして、タイトルにも”直島”をつけなかった。美術館(アート)ではなく資料館にした。へそ曲がりなのだ。
「アートの島」ブランドをみんなで消費している今。それもそれぞれの人生だし僕が批判できることは何もない。それでいい。ただ、僕個人として、直島の好きな部分はいっぱいあるけど、小さな島で競争がない中で小さな牌を取り合って島内がビジネスでいつもザワついている、この現状は生活してて息が詰まるし、何か心配になる。
この現状に対して僕ができること/やろうとしていることは、「直島写真館」ではなく、結局考えた末に「直島写真研究会」を始めたように。つまり、お金のために専門性を奪い合うのでなく、専門性を持った上でそれを解放させて知識や体験を共有することで個々に学びが起こること、それを日常的に継続して行うこと、個々の参加者がそれぞれの仕事や生活の中でその学びがつながり広がること。もちろん僕も参加者一人として、これをしたい。この島での僕の活動である資料館や館長という立場は、それを可能にしてくれることに移住して1年くらいして気がついた。だから、僕は自分の専門性をここではビジネス(お店や学校)にしないで、「研究会」「部活動」として展開し、みんなと共有する実験場をしているのかもしれない。そこから僕自身が得られる学びも驚くほど多いから。(そして、その活動名には”直島”とつけるようにしている。なぜなら「直島○○」を私物化していないから。)
(もっと……付け加えるなら、僕自身が「アートの島」によって引き寄せられた漂着物の一つであることは自覚している。さらに僕の生業は”アート”であり”作品”を作ることで(も)あり、島での僕の行い自体が仕事でありビジネスでもある……が、僕自身がこの福武財団や直島の関係者からもらった機会を手に、今まさに家族や自分の人生を巻き込んでこの島で挑戦しているのは、僕も含め世界中の芸術祭で”アーティストたちが飛び回り””滞在地域をネタに作品を作る”ことを仕事にする現状に対して、(このコロナ禍も経て)疑問と批評性を持ち、その芸術祭的システムに乗らないで、”アート”を生業にする自分が”作品””作品制作”を通して、一体何が出来るかをみて見たい(し見せたい)のかもしれない。《瀬戸内「 」資料館》は直島に埋め込むタイムカプセルとして作っている。でも、出来る限り、可能な限り、ゆったりとした日常の時間の中で、ビジネスや搾取ではなく、地域と”物々交換”のような関係性をある意味で突き詰めて考えたいし作りたいと思っている。(だから、僕自身、アーティストというよりは郷土史家の意識でこの地域にいるし、資料館には外から観光客が来るより、移住してきた三菱の社員さんがふらり直島の勉強に来たり、直島の何かを調べに人が来ると、手応えと喜びを感じる。しかし、資料館も引いてみればやはりビジネス。いつまでこれを続けていけるのか。。それは日本中の美術館や資料館や図書館が持つ問題と同じであり、そこも考え、新しい道を見つけたい。))
新しい骨董の100円ショップ開店!
売れば売るほど損をする…、そんな全く新しいシステムの店が生まれました。
ショップの設計は黒川紀章氏、大理石のカウンターの100円ショップをここだけかと。
家がない!?
島に空き家はあるが、都市に引っ越した大家さんや家族の荷物がそのまま放置された状態の家ばかり。それを綺麗にして貸せる状態にするプロジェクトを島内でやっている人々もいるが、最近では大手のデベロッパーが外から入ってきて、島内に協力者を見つけて、札束積んで、大家さんを口説き落として買っていく。移住を考えている個人には到底家は回ってこない。そんな状況だ。コロナ禍で知らないうちに一気に空き家が買われてた。コロナ前は1軒屋が1か月2−3万円だった家賃が今は5−6万円に。数百万だった売り家も価格は上がりっぱなし。日々、知らない移住者と出会うし、新しい飲食店ができる。1軒作って地元にコネができたらどんどん家を漁っていく。島中がビジネスにざわついている。活気があってよろしい! (でも、未来はどうなるの?)
この新聞記事は、その動きに早くから気がついた島民が町と連携して、空き家バンク/不動産的な動きをしてきたが、そこを通さずに、デベロッパーが大家から買っていく様子を書いている。しかし、島内でも良い物件はそういうのが得意な人達が抑えてしまい、共有されない傾向もあるとかないとか……。マジで家がない!? 資料館館長役を織田裕二でドラマ化。いかがでしょうかー!?
なぜ直島に住むのか?
直島移住=「子育てや家族の時間」+「(参与観察的)プロジェクトの日常化」
移住4年目。
子育てについては以前に書いたので、今回はもう一つのモチベーションを書いてみる。
僕は近代以降の直島の歩みに大きな興味を持っている(つまり民俗資料の民具の収集には基本興味はない)し、それを調べることにモチベーションを持っている。
もちろん、古い直島を掘り起こしたいのだけれども、現在アートによる観光化がここの風景を日々変化させている今にも同時に興味を持っている。誰も触れてこなかった地層を一枚一枚剥がしながら、この島の何かを調べていくことと、それを視覚化しアーカイブしていくことに興味を持っている。風景の中に眠る情報、そして人の中に眠る情報を掘り当てるのだ。
そんな中で大きな道標なのは道端に打ち捨てられた物たちと、島の老人たちの語り。彼らは島の辞書のような存在であり、彼らからはgoogleでは決して検索できない情報を引き出せる。しかし、銅製錬や観光ビジネスに忙しい島民たちの多くは、誰も彼らに検索ワードを放り込んでないようだ。島のgoogleは検索し放題の状態。しかし、時間がない。
僕がこの島で新しいプロジェクトを行うことに魅力を感じたのは、この島が”アートの島”であるからではなく、この島が前だけ向いて走っていることや、アートが劇的に島の環境を変えている真っ只中にあること。数少ない”後ろ向き”な島民と”後ろ向き”に歩みを進める日々なのだ。この今のビジネス的評価でいえば”後ろ向き”な活動は、遠い未来を向いているし、未来価値を上げていく存在を見ている。ビジネス真っ只中の今のこの島で。
今日のへんこつ
山下陽光氏を囲んでおでんパーティー。
瀬戸内「 」資料館トークシリーズvol.5
山下陽光がやってきた。
今日のへんこつ
窯工部と町民感謝祭、ティータイム
今日のへんこつ
しまけん中。
こたつ、みかん、文字
京丹後でのトークを終えて、京丹後の作家さんや人々と交流。車に密かに積んでいたサーフボード。翌日は今年最後のサーフィンを日本海でやって、そのあしで鳥取県立博物館のグループ展をみにいく。ちょうどオープニングで参加作家のトークやイベントを体験できた。その後、オープニングを労うパーティーは焼肉屋で行われ、深夜までワイワイと美術談義に花が咲く。あぁ、コロナ禍は本当に終わったんだと生きて越えられたんだと、以前の当たり前の風景に幸福を感じ、懐かしい顔ぶれや素晴らしい先輩作家との深い時間を味わう。こんなにゆっくりと語り合う時間が生まれるのは鳥取という都会から遠く離れた土地だからか。
翌朝、鳥取の港で生きたカニを買ってクーラーボックスに入れる。鳥取から中国山脈を超えて一気に3時間で宇野へ爆走、そして直島。たまに助手席でゴゾっと動く生き物とはドライブ感覚。家に帰ると妻と娘は風邪気味。生きたカニを見せて驚かし、その場で捌いて、カニ汁とカニ飯にして夕食に食べた。島にきて魚が捌けるようになったのは人間として大きな進歩。
久しぶりの気ままな車の旅を終えた翌日、娘は風邪をひいき幼稚園を休んだ。カニ雑炊を朝食に作り、その後こたつで絵本を読んであげていると漢字に興味を示す。裏紙を使って、はじめて漢字を教える。象形文字。なんだか洞窟や岩に刻まれた線刻文字のようだなぁと写真、この日記を書く。島の日常がまたはじまる。島は寒い。旅の中の華やかで特別な時間、島の穏やかでキラキラとした時間、どちらも美しい。
直島ではできないこと
直島に移住して、本当に辛いのはサーフィンできないこと。瀬戸内は波がない。いやいや、ちょっとくらい……、と3年間、台風の日も島で波をみたし、一度だけ嵐の中でダメもとでボードを持って海に入ってみたがやっぱり無理だった……。
サーフィンを始めたのは2010年。その頃東京に住んでいて友人に九十九里に誘われた。しかしすぐに福島の事故などもあって千葉の海へは行かなくなり、さらに愛知県に移住。2014年くらいから徐々に一人で愛知県のサーフスポットに通うようになる。月1-2回しか行けないし、全然上手くならないがリラックスとデトックス。
今週は仕事で愛知に来たので時間を見つけて伊良湖へ。直島に移住してからは半年に1回程度。ピンポイントで時間ができるので、ほぼ波のコンディションなど選べないので、ボードは常に2本車に積んでおく。今日は小波用のボードが調子がいい。
観光地直島
秋になった直島には今日も観光客が溢れている。
観光業に従事する島民から「2018年(2019年は瀬戸芸は特別なので)の直島に戻った」と聞く。2020年春コロナ禍に入った時、彼らは「30年前の直島に戻ったようだ」と話していたがそれも一瞬で過去になったようだ。島が活気付いている。
僕は「家プロ」がある本村集落に住んでいるので、島への観光客の反応は敏感に感じとれる。中国人観光客が多かった2018年とは違い、今は中国人がかなり少なく逆に欧米や韓国の団体客が目立っている、とか。そんな中で、観光客ではなく移住希望者も宿や飲食店をやりたいと押し寄せている。僕が知っているくらいだから問い合わせは町役場にはかなり多く来ているのだろう。でも、島に空き家はない。あるなら自分もMハウスから引っ越したいし、島民たちも常に探している。そういった個人の奮闘を飛び越えて、プロの都会の開発業者が上物ごと土地をどんどん買い占めている。ある業者に至っては、放置されていた(景観的にも重要な)旧家ばかりを買い漁っているそうだ。
30年以上前に始まったベネッセによる直島の観光開発は大成功したわけだが、今では誰も未来の(アートの次の)島の産業を想像もせず、”アート”と”観光”をひたすら消費し続けているようにみえる。数年後、この島はどうなっているのだろうか……。
そういえば、先週久しぶりに尾道に行ったが。尾道も観光客が増え、10年前くらいからは商店街などの風景がかなり変化した。ただやはり、この集落は高低差や街並みや港などの独特の地形や歴史や風土が深く根付き、ちょっとやそこらの開発ではその魅力は壊されないような強さを感じた。それに比べ、直島も美しいがその魅力は他の瀬戸内の島々と比べると、建築やアート、近代工業やホテルやビーチなど近代以降に人工的に作られたものが多い。だからこそ、直島の未来はとても心配になってしまう。
まぁ、そんな中で、僕ができることは、島民の人たちと日常を送りながら、せっせと島の過去を収集し地域のアーカイブを作ること。いやそれは観光地化した今、新しく過去になるものも含めて。これは写真的だと思う。中村由信が写真の中に残したように、未来大きく変化した島で島民が開封できるだろうタイムカプセル。僕は今目の前のビジネスではなく、過去と未来を行き来しながら、自分は自分の仕事をするのみ。あと、子育てに励むのみ。
直島表現図鑑 Naoshima Creator’s File 02 田中春樹
直島表現図鑑 Naoshima Creator’s File 02
田中春樹
2023.10/7-12/16
瀬戸内「 」資料館 ギャラリーへんこつ
本村
ようやく、コロナ禍が過ぎ、島に秋祭りが帰ってきた。
2019年、直島に一時滞在していた時、この秋祭りの練習の風景を見て、直島への興味を深めた(移住を決めた)。しかし、移住してすぐにコロナ禍になってしまい、これがはじめての秋祭り。
この2ヶ月毎晩、神社から太鼓の練習の音が集落に響いていた。
ようやくこの日が来た。
祭りといっても、旅先で訪れた青森のねぶた祭りに度肝を拭かれるような体験とは全く違い、
「○○さんの息子、頑張っているなぁ…」とか「○○さんの娘さん、見ないうちに大きくなったなぁ」みたいな祭りの参加の仕方をしている自分に少し驚きつつ、観光客にとってもハレの場である直島の、地域住民にとってのハレの2日を堪能する。
そして、祭りが終わると、また日常。寒い寒い島の冬の足音が。
直島と虫
直島にMハウスと呼ばれる家がある。移住者が最初に借りる山っぺりの平家。
Mはムカデのことだ。
ここで移住者は試される。1日1匹超巨大なムカデと戦い続ける日々だから脱落者も出る。
うちの家族はというと、移住当初にこのMハウスに住む可能性も高く、家族で覚悟はしていたが、別の海っぺりのかなり新しい町営の一軒家をあてがわれ3年過ごした。とにかく島民が羨む新しい家で、ムカデ遭遇も1年に1匹くらいだっただろうか。(僕は一回顔を這われたが。)
3年がすぎて、妻が役場の仕事を終えたのでその家を引っ越すことになった。
直島の空家の取り合いは過酷だ。古くからの島民すら家を探している中で移住者が空家の大家さんを説得して、食い込んでいくのはかなりハードルが高い。ただ、僕らは1年前から探している噂を流し、ようやく「下道さんところなら」と改装業者のつてで古い2階建ての一軒家を借りることができた。近所の人がたまに家を見にきて「どうやって見つけたの?買ったの?」と質問されたくらいだ。
さて、この2軒目の家は山っぺりに立っている。かなり森に食い込んでいる。さらに、20年ほど人が住んでいなかった。Mハウスを超えるMの巣窟である可能性は高かった。近所の人に聞くと。
「直島の山っぺりの古民家の人はほとんど蚊帳で寝ている。頻繁にMが出るから。チャックで全部閉まるテントタイプの蚊帳を早く買った方が良いよ。」と教えてくれた。さらに
「Mの出る時期は春と秋。3ヶ月ずつ。暑い夏場や冬場は出ないけど、半年は出るので覚悟。家の周りを一周「ムカデ博士」を巻くのが効果的」だという。あと、「お正月飾りのしめ縄を焼いた灰を家の周りに等間隔でまく」という呪いめいたものも教えてくれた。1年の半分をMと戦う覚悟が必要だ。5さいの娘はこの家を「新しい古い家」といった。新しく引っ越したが、前の家からすると50年は過去にタイムスリップしたようだし、残念ながら古民家みたいな良さもない。しかし、直島で家は見つからないので仕方ないのだ。直島は子育てにもとても良い環境、しかも僕のプロジェクトもまだまだ進行中でなんとか住み続けたい。
4月から「新しい古い家」住み始めて、妻にネットで買える蚊帳をいくつか提案したが、なかなか決められないでいた時、1匹目のMが出た。想像を超えたデカさだった。太さは小指程度で大きさは10センチを超える。何年生きてきたんだと敬意さえ持てそうな立派なMだった。妻はすぐに翌日4人用の蚊帳を注文し、初めての家族の蚊帳生活がはじまった。娘はキャンプに来たみたいにはしゃいでいた。すぐに室内はバルサンをたいて、さらに屋外には「ムカデ博士」を家の周囲に隙間なく巻いた。手持ちの武器として用意したのは「凍結スプレー」と「火箸」。そこから間も無く、Mの猛攻撃が始まった。「ムカデ博士」のおかげで室内にはあまり入ってこないが、家の周囲の「ムカデ博士」手前で死んでいるMが毎日1匹以上。毎日それを火箸で挟んで捨てる作業。妻が夜中にうなされて起きていたが、Mの夢を見たという、完全にノイローゼだ。と笑っていたら、僕もその翌日、1メートルくらいのMと戦う夢を見た。家族揃って脳内までMにやられてしまった。
梅雨になった。Mは突然いなくなった。その代わりに…、
直島の中でM以上に島民を恐怖におとしいれている虫の噂が流れてくる。それは「羽アリ」と呼んでいる虫で、これもある時期だけに大量発生し、M以上に気持ち悪いと評判だ。
「羽アリは、梅雨時期の晴れた日の夕方に家の電気をつけていると、どこからともなく家の中に入ってくる。この時期に島内に3回程度、Xデーはやってくる。電気をつけていると大量に入ってくるのでガサガサ音がするほど。羽がポロポロと落ちて本当に気持ち悪い。対処方法は夕方から夜になることに、電気を消して寝るのみ。」というこれまた恐ろしい話。
夜真っ暗闇の島の山っぺりのうちの家は夜中に電気をつけていると虫が寄ってくる。まるで虫を集める装置のように。そして梅雨の晴れ間の夕方、パラパラと羽アリは室内に入ってきたのが分かった。妻に「今日が噂のXデーだと思う。寝よう、寝よう!」いうが全然理解してくれない。そのまま、普通に電気をつけて生活し、21時ごろ妻が娘を連れて寝室の2階み向かっていった時、ぎゃーー!!!と悲鳴。すぐにいくと、階段の壁に大量の羽蟻がうごめいている。すぐに電気を消したがもう遅かった。家の電気を全て消して、蚊帳に入るが、天井からガサガサ、パラパラと音が聞こえ続けている。朝起きると、床には死骸が散乱していた。うん、確かにM並に気持ちの悪い虫だ。
ムカデ、羽アリ、の時期が過ぎると、いや、その間に1週間くらい毛虫が大量に発生する1週間もあるし、みみずが出てくる時期もあるが。
夏になった。暑い夏。蝉が狂ったように鳴き始める。
うちの家は山っぺりなので、夜、虫を集める装置のようになることが分かった。毎日窓にバンバンセミやカナブンがぶつかってくる。網戸に虫はくっついてくる。ある夜中、小さな灯りをつけて寝ていると、ガリガリガリガリ何かをひっかく音がする、妻が気がついて怖がっている。「凍結スプレー」を手に蚊帳を出てカーテンを開けると巨大なカナブンが。ま、カナブンは大丈夫。ポイッと逃しておしまい。
ここまで暮らしてみて、Gを見ないと、妻は疑問に思ったらしく。近所の人によるとMはGを食べるからMハウスにはGは出ない、と聞き。不幸中の幸だと思ったが、お盆を過ぎた頃から、余裕でGもで始めた。1日何匹も。妻は期待した分、落ち込んでいた。
しかし、僕自身、これまで、ムカデ、毛虫、羽アリ、蝉、カナブン、とさまざまな虫にの猛攻撃を受け続けてきたからか、なんだか前よりもGが大丈夫になっている。
島の季節は驚くほど、ビビットに変化する。都会なんかでは感じられないほどに美しく素晴らしい。
その季節の変化を一番に感じるのは、空気感や木々でもあるが、やはり虫かもしれない。
実は今朝、朝娘を幼稚園に送りにいった時、昨日までは全くいなかったトンボが大量に発生していた。
さらに、この時期、巨大グモの季節。
秋が近づいている。
山の上の神社から子供たちの太鼓の音が聞こえ始めた。秋祭りの練習だ。
季節の音もこの島の美しさの一つ。
2023.9.4
(岡山駅から宇野港へ)予定の直島行きの船に乗れない
岡山駅経由で直島にくる来島者が船に乗れない/乗り遅れることが多いのでそのパターンを書いておく。直島島民にとってはあるある。
《よくあるパターン》
①岡山駅で宇野線に乗り換えようと思ったが、岡山発宇野行が1時間以上なかった。
→想像以上に便が少ない…。
②岡山駅発宇野港行きのバスに乗って、渋滞に巻き込まれて、時間を逃す。
→乗り換え案内アプリでバスがおすすめされることがあるので要注意。時間に余裕がある場合は良いが渋滞で30分以上遅れることもある…。
③宇野線の岡山発で茶屋町駅で乗り換えを忘れて高松方向に進んでしまう。
→宇野線の岡山発宇野行の多くは茶屋町乗り換え。ここを乗ったままだと高松の方へ進んでしまい、途中で気がついても茶屋町へ戻る便も少ないのでかなりのタイムロス。
④フェリーと高速船の乗り場を間違える。
→5分前とかにフェリー乗り場に来てみるとフェリーがいなくて高速船だと気が付くが別の乗り場までダッシュするが間に合わない。
⑤宇野発直島行の船の時間ではなく、直島発宇野行をみて行動してしまう。
→これは移住したばかりの時によくやってしまう。
《注意する点》
①バスを信じない
②船は逃すと1時間以上待つことを知った上で時間に余裕を持つことを覚えておく
③フェリーか高速船かを意識して乗り場を調べておく
④蛇足だが、昼くらいにフェリーに乗る場合、「直島で刺身定食でも」と思うと店がどこも開いていなくコンビニ飯になることが多い。宇野駅周辺の方が飲食店は多いし充実している。直島は飲食店は不定休が多く、開いている店もすぐに満席になり長蛇の列。ガイドに乗っていても期待しない方が良い。(ちなみに直島は水揚げしていないので魚は玉野からくることも書いておく。)
お守り
朝、娘が幼稚園のバックにキーホルダーをつけたがるので、新しくつけてやると。
「キーホルダーが1個じゃないと、先生に怒られるから……やっぱりやめとく……」
と言い出しだ。
まぁ、みんな一緒にしておかないと面倒なこともあるのだろうし、ジャラジャラ10個くらい付けてくる子とか出てくるのかなぁとか、でも色々妙なルールが多いなぁとか、考えていると。横から妻が、
「今、2個ついてるけど、1個は神社で買った”お守り”だから大丈夫じゃない? もしなんか言われたら、『お守りはキーホルダーなんですか?』と聞いてみたら?」と。
”バナナはおやつに入るんですか?” 論法で乗り切ろうとしてて……。でもそれ無理じゃない?
ま、いっか。
『Naoshima Creators File 直島表現図鑑』 始まる
すっとやりたかった島の人々を紹介していくシリーズ展示がついに始まる。1回目は、創業60年、惜しまれながら閉店したイワタコンフェクト!店長さんへの館長のインタビューと漫画家まつざきしおりさんの漫画!このコラボで島のクリエイティブなおじさんおばさん紹介しまくります!
《Naoshima Creators File 直島表現図鑑 》とは?
直島の表現者や表現活動を紹介するシリーズ。 直島の生活の中から生まれてくるクリエイティブな人々(表現活動)を紹介しアーカイブを作ります。メインは直島にずっと住んでその活動を行っているクリエイティブなおじちゃんおばちゃんたちです。 このシリーズの目的は、ギャラリーでの展示発表だけではなく、消えていく島の記憶を記録し収集し残すことに主眼をおいています。ここでいうクリエイト/表現とは、”ものづくり”に似た意味でありますが、その伝統的で職人的なイメージ以上に独創的と土着的に着目し、さらにゆるくて素人的であることもどんどん肯定的に捉えてみたいとも思っています。
蛇足の説明:僕の作り方としては、2010年のブレイカーズプロジェクトで大阪西成でやった「Sunday Creators」や2006年「日曜画家」など、町の人々の日常から生まれるクリエイティブをテーマにしたシリーズの直島版なのかもしれません。
島の子供の研究室-しまけん! 直島諸島調査第3回
今回は、直島諸島の屏風島と喜兵衛島と牛ヶ首島。
島での車事情
ベルギーに移住した友人Mから車を格安で譲ってもらった。トヨタIQは、前から見ると普通車だが、横から見ると極端に長さが短い297cm。ほぼ2人乗りだけど、頑張れば4人ギリギリ乗れる構造。
今まで2週間に一度、買い物で直島から車でフェリーに乗ると往復で軽ワゴンでも3500円くらいするので、地味に痛い出費だった。フェリーは軽自動車や普通車ではなく、「車体の長さ」で値段が決まる。3m未満や3m−4mという感じ。トヨタIQは普通車のくせに3m未満という最安値で船に乗れるので、かなり直島向きの強い味方だ。
オンボロの軽ワゴンとトヨタIQと2台になった下道家。でも、島では2台持ちは当たり前。しかも、結構多くの島民が、1台を対岸の宇野港の月極を契約して置いておく。そうすれば、フェリーは人のみで宇野港で乗り換えられるというわけだ。
以前、EVトゥクトゥク(電動3輪)が出始めたころ、これは直島最強の乗り物ではないか?と購入を考えたことがある。結局、値段が80万円くらいするので諦めたが。EVだとガソリンがいらないから安いしエコだし、3人乗れるし超小型だし、速度リミットが40kmだけど島内は最高40kmだし、これ以上はない。値段が下がって島で流行ったら良いのに。
今日のへんこつ
今日はHNKさんにカラミの瓦を資料提供。
直島の「地域おこし協力隊」
(これは家族の総意ではなく個人的な意見である。これが将来誰かの参考になればと思い記述しておく。)
下道家の直島町への移住は、以下のように行われた。
1、2019年の資料館のプロジェクトのための下見の時に、直島に移住していた大学の後輩と会い、直島の住みやすさについてと、「地域おこし協力隊」の募集の話を聞く。
2、プロジェクトのための下見の時に、観光客への直島ではなく、このローカルの魅力を感じる出来事があった。
3、直島へ移住する利点として、「長期プロジェクトを誰もやったことがない作品にするため」「ご近所関係や自然など子供を育てる環境として」「「地域おこし協力隊」になれば住む家も見つかり家賃がなくなる」などを感じた。愛知の家に戻り、家族に相談。
4、「地域おこし協力隊」について調べる。大学の後輩への聞き込み。他の地域で協力隊として活動する知人への聞き込み。
5、妻が「地域おこし協力隊」として受かり、2020年3月移住。
6、海が見える新しい家を無料に住み始める。
7、3年の任期を終えて、島内で山の方の引っ越し、さらに生活を続けている。
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「地域おこし協力隊」は、2009年に総務省が制度化。都市部から地方に移り住み、地域の魅力発信や新しい活性化をサポートする移住促進の取り組み。任期は3年以内。支援は480万円上限。と正式には。
で、簡単にいうと、日本全国の地方自治体で「地域おこし協力隊」の募集があり、都会から地方へ移住してみたい人が、1ー3年程度お金や家を支援されながら住んでみて、さらに、3年満期終了する際は100万円程度の準備支度金が支給されて、その地域に根付く。といいな。という、そういう制度。
しかし最近では、(Youtubeなどでご存知の方も多いかと思うが)都会から地方に移住したい若者と、若者に期待する地域の住民のトラブルは絶えないし、根付かないことも多い。
実際に色々な現役の地域おこしの人が「協力隊を終えて何をしたいか?」を答えた記事などを見ると、多くの人は「ブックカフェ」や「ゲストハウス」などがずらりと並んでいる印象。田舎でオサレな古民家ブックカフェ、地域住民との交流の場になって、ってまぁ夢だわな……。でも多分、地域の方が欲しいものと、都会から移住した人が田舎でやりたいことのズレは大きいのだろうな。
(あと、あるコメンテーターがこの話で指摘していたが「都会から移住する人の経験や考えが甘く、経験値やコミュケーションでの問題解決能力があれば、その田舎のおじちゃんおばちゃんとも喧嘩などせず話し合えて出口を見出せるのでは?」という意見もあったが、それもなくない話だろう。でも、地域側にも責任はある。)
この制度の見えない落とし穴の一つは、町役場が内容や賃金を決められる、ということにもあるだろう。
つまり、地域によって自分の活動以外に町役場から求められる仕事の量や資金の使い方が全くバラバラだということ(さらにそれをそれぞれの役場が共有していないということ)。
「地域の魅力発信や新しい活性化をサポートする」という意味を、その自治体がどう考え期待しているか。都会からくる移住者は自分でこの地域に入り込んで地域に何か新しいカフェやゲストハウスやらを作って地域新聞やwebを作って発信するなどキラキラしたアイデアを想像しているが、町役場はそんなことは望んでいなくて役場の今までの普通の仕事を手伝ってほしい、とか。ま、町は町のための雇用者、移住者は自分の新しい仕事を作りたい、その思惑は合致するのだろうか。
例えば、僕の知人の人の地域では、「朝に役場に行って、ポンとハンコを押すだけ(もしくは午前中だけ観光課にいれば)、あとは自分の好きな場所で好きな活動をして良い」という協力隊の人に何人か会った、それは普通なのだけどかなり良心的なケース。ある岡山の友人はこの制度を利用してアーティストを自分の地域に移住させて、アーティストインレジデンスのような環境を生み出していたし、他のアーティストの友人は林業の地域に移住してそれを利用しながら新しい作品づくりをおこなっている(ほとんど役場に行く必要のない自由な地域を選んだらしい)。
直島もかつてはそういう”緩い”感じであったらしいが、徐々に内容は役場に都合の良い方向に変化している印象を受ける。今では8時30分~16時30分きっちり役場で働く、仕事は町の観光課の仕事や移住促進の仕事を担当する、役場の労働者である。しかも、賃金は時給1000円程度、月にフルタイムで役場で労働して雑務をして18万円程度、時に残業もある。(年間で240万円程度。役場の観光や移住の雑務で毎日クタクタな状態になる。)
つまり、地域行政によっては扱いやお金は様々である、ということ。
よく条件を確認しておかないと、「都会の若い労働力を田舎暮らしを餌に最低賃金で働かせたい地方自治体」の場合もあるし、このよく分からない不明瞭な制度のせいで、地方行政と都会移住者のそれぞれの”期待”の食い違いが多く発生しているのは事実だろう。逆に地域側から見れば、起業と称して田舎暮らしを夢見る自称アーティストやデザイナーたちは旅気分だし、どっちもどっちか?
もちろん、直島は都会からの移住者には基本的に優しいいし住みやすいし、住民は本当に親切だし、田舎の良さも十分にあるし、観光客も絶えないから商売もしやすいし、本当に素晴らしい場所である。
僕ら家族の移住の目的は、この観光的に恵まれた環境に入り込んで商売を始めたいというのではなく、この島の環境が生まれたばかりの娘を育てるのに良さそうだということと、僕自身のこの島でのプロジェクトをより良いものにしたいとということ、さらにいうと、そこに家族の新しい仕事を模索する可能性も期待せず見ていて、妻が協力隊になってくれた。だから普通の協力隊の移住者の期待とは少し違うのかもしれない。
直島はブランド力があり、移住したい若者が多い。だから、結構厳しい条件でもありがたく若者は集まってくるのかもしれない。直島にカフェやゲストハウスをするためにまずはこの制度を使って地域に入り、その後夢を実現させる。それなら、僕たちの場合いろいろと協力隊の現状を調べてみた中でもなかなかハードな条件のこの島の協力隊も良いプロセス/経験かもしれない。それは個人個人が判断することだ。直島へ移住するには空き家もないしハードルは高いし、この3年間で地域と関係を作り少し入り込めるだろうし、これを自分達の意思で利用することは良いと思う。
妻は、職場で一緒に働いている人々は素敵な人が多かったと言っていた。ここに書いているのは僕の見聞きした個人的な見解だ。僕の思いつきで家族を直島に移住させたし。妻が協力隊として新しい挑戦をしてくれたから、町営の海の見える素敵な家を無料で3年住むことも出来たし。でも、3年間フルタイムで、働きなれない地域の役場の仕事をやり続けた妻が徐々に疲れていく様子を見るのはとても辛かった。彼女は「途中で辞めたくない」という強い気持ちで先月ようやく3年間やりきった。だから今年からは直島での生活や子育てを一緒にもっと素晴らしいものにしたいと考えている。移住3周年を終えて、4月新しい生活が始まっている。今年は島の運動会や祭りもあるだろう。今から楽しみだ。
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直島町地域おこし協力隊員募集要項
直島町は、香川県高松市の北方13km、岡山県玉野市の南方3kmの備讃瀬戸最狭部に位置する大小27の島々からなる町です。金と銅の製錬などで栄え、現在では製錬に加え、環境やアートの町として知られています。特に現代アートを楽しもうと、国内外から多くの観光客が集まってきていますが、少子高齢化や人口減少もあって、地域の将来を担う人材が不足しています。そこで、島外からの人材を受け入れて、地域に活力を与え、魅力ある町にするために「地域おこし協力隊員」を次のとおり募集します。
1.募集人員 1名
2.活動地域 直島町内
3.活動内容 ←ここの内容は毎年若干の変化あり。
⑴ 空き家・空き地対策に関する活動
⑵ 移住促進に関する活動
4.募集対象 募集対象者の条件は、次のとおりとします。
⑴ 応募時に3大都市圏をはじめとする都市地域等に居住しており、任用後、直島町内に生活
拠点を移し、住民票を異動できる方
⑵ パソコンの操作(ワード、エクセル、イラストレーター、フォトショップ等)、情報発信
ができる方
⑶ 活動内容を積極的に企画・提案・実行できる方
⑷ 地域住民と協力しながら、地域の活性化のための活動に取り組める方
⑸ 応募時点で、年齢20歳以上の方
⑹ 性別は問いません。
⑺ 地方公務員法(昭和25年法律第261号)第16条に規定する欠格条項に該当しない方
※ 「3大都市圏をはじめとする都市地域等」とは、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県、
岐阜 県、愛知県、三重県、京都府、大阪府、兵庫県及び奈良県の区域の全部、政令指定都市
及び「過疎、山村、離島、半島等の地域」に該当しない市町村。
(詳しくはお問い合わせ下さい。)
5.雇用形態及び期間
⑴ 直島町の会計年度任用職員とします。
⑵ 任用期間は、令和3年4月1日から令和4年3月31日とします。ただし、活動に取り
組む姿勢・成果等を勘案して、最長で任用日から3年まで延長します。年度単位で更新
とします。
6.勤務日及び勤務時間
⑴ 勤務日は、原則週5日で月曜日から金曜日とします。
⑵ 勤務時間は、1日当たり7時間を基本とします。(8時30分~16時30分)
⑶ 休日は、土曜日、日曜日、祝日及び年末年始(12月29日から翌年1月3日まで)
7.報酬
⑴ 時給1,011円(参考月額141,540円【月20日で計算】)
(この額から社会保険料の本人負担分等が控除されます。)
⑵ 上記勤務日及び勤務時間以外の時間に勤務した場合は、町の支給基準により、時間外
勤務手当を報酬として支給します。
⑶ 期末手当を2.55月分(初回任用時は1.64月分)、6月・12月に分けて支給し
ます。
⑷ 通勤に要する経費を町の支給基準により、費用弁償として支給します。
※ 1年目の合計年額240万円程度
8.待遇・福利厚生
⑴ 社会保険料(雇用保険・厚生年金・健康保険)に加入します。
⑵ 家賃については、月額3万円を限度に町が負担します。 転居に係る費用・生活備品・
光熱水費等については、各隊員が持参、または個人負担となります。
⑶ その他、活動に必要な経費について、予算の範囲内で町が支給します。
9.応募手続
⑴ 申込受付期間 令和2年10月1日(木)から令和3年1月29日(金)まで(必着)
⑵ 提出書類 所定の応募用紙に住民票を添付の上、直島町まちづくり観光課に郵送又は
持参して下さい。
10.選考の流れ
⑴ 審査方法
(第1次選考) 書類審査の上、結果を応募者全員に文書で通知します。
(第2次選考) 第1次審査合格者について面接審査を行います。日時等は第1次審査結果を
通知する際にお知らせします。
※選考日:令和3年2月中旬頃
島民の常識
島民の常識
・人口約3000人の島なのにセブンイレブンがある。
・島民からすると、直島=”アートの島”ではなく”三菱の島”。
・お店を開きたい移住者は多いが、空き家がない。
・海や漁師はあるが直島で魚は水揚げされていない。
・対岸の宇野港の月極に車を1台置いている。
・レストランやカフェはたくさんあるが、島民が普段使いできる店は……。
・議会が直島町役場にあり、小さな独立国家のようだ。
・人の出入りが激しいので、小さな島にしては都会的。移住しやすい。
・コロナ前2019年は完全にオーバーツーリズムが起こっていた。
・国立公園なのでキャンプができない。
・幼稚園も学校も役場も体育館も公共建築はすべて有名建築。
・島は一人の人が様々なことを掛け持ちするのが当たり前。宿や店もやるし、デザインも商品も作る。
・ゴシップがtwitterよりも早い。
・島の冬は都会よりも寒い。
・ご近所さんからいろんな食べ物をもらう。
・流行りに敏感な移住者。小さな島にサウナが5軒ある!
・4月ー10月山の近い家は毎週(毎日?)ムカデが出る。みんな蚊帳の中で寝ている。
・知り合いだらけ、運転中すれ違うたびに挨拶。
・年中観光客だらけで地価が上がり続け、古い風景が少しづつ?失われている。
・黒いレンガの存在
・福武さんはヘリで登場するという噂。
・安藤さんがたまにいる。
・常に船の時間に縛られて生活している
・船の島民割引が往復で観光客と10円しか差がない。
・宇野20分、高松1時間(高速船30分)。
・高松へ船を降りるといきなり大都会!? 逆に岡山は町が遠い。
瀬戸内「 」資料館 ー移住3年が過ぎて、さらに3年住む決意ー
【これまでの活動内容】
・企画展 =1年1本。島民と共同で地元を調査して、展示と出版物にまとめ、さらに最終的に見えるアーカイブにまとまっていく。この活動と日常によって資料館の展示収蔵室は形成される。過去を未来へ。
・研究会 =常に資料館に人が集う空気を作る。横のつながりや新しい関係性をうむ。さらに、ここから新しい調査や実験や活動が生まれてくる。
・出版 =企画展同様に島民と共同で地元を調査して、新しい直島の地図を作っていく。
・島民ギャラリー =毎回クリエイティブな島民の活動を紹介し、アーカイブしていく。消えていく個人の活動を記録し収集。2023年スタート。年間3人ほど紹介
【問題意識】
《社会的な問題意識》
・島に郷土資料をもつ図書館がない。
・島に博物館が存在しない。その多くは香川県の博物館が持っているというが活発な活用されているかは不明である(島で見せたり活用できる可能性)。民具を集めた郷土資料室は小学校内に存在するが保存も活用も良くない。島民が写真や道具を教育委員会に寄贈するケースもあるが、やはり保存や活用はかなり良くない。あと、博物館が扱える民俗資料というのは近代以前の民具などが大半で新しいものが扱えない。
・島の産業である直島製錬所の歴史の資料館はない。エコや金の製造などの華々しい部分がメインである。他の地域の製錬所(別子)などはいろいろな歴史を伝えている。別に悪ことを暴露したいのではなく、島で普通に語られているが、記述されていないことを残しておきたい。
・観光によって直島のブランド価値が向上し、観光客も好調なのもあり、現在古い島民たちが外の開発業者などに土地を売っている。さらに、古い風景や資料などが無惨に捨てられていっている。
《アートも含めた問題意識》
草間彌生の赤や黄色のカボチャなどの多くのパブリックアートで有名な島。この島は1990年代から国際的なアートや美術館を島内に作り、徐々に世界中から観光客が来るようになって島は潤っている。私もコミッションワークの依頼を受けたのですが、このアートによる開発と大量に流れ込む観光客に疑問をもち、この土地にローカルの資料館/アーカイブを作るプロジェクトを提案して、さらに自分の意思で家族で島に移住した。
この地域の近隣の他の島々は人口減少が激しい中で、この島は学校や文化施設が充実し移住者も増えている。過疎化に対して何も出来ず、古い風景と共に滅んでいくのではなく、新しく産業を生み出し変わっていくことは素晴らしいことだ。ただし、私が気になるのは、消費や消費者のスピードが早すぎることだろう。20年前は限られたアートが好きな人々がゆっくりと宿泊して美しい風景を堪能する贅沢な時間を過ごす場所だったのが、今はinstagramなどSNSにアップされているアートや店に行列を作って写真をとって回って、数時間で帰っていくような人の波が押し寄せている。さらにそういうお客を目当てにビジネスしか考えていない業者による無秩序な開発が起こっている。アートによる開発が古い風景を壊している、そうとも取れるこの状況に対して、アートとして何が可能なのか。もう一つは、パブリックアートのように”設置して終わり”の作品や建築のあり方への疑問かもしれない。
その疑問への答えとして、旅人だった私はこの島に定住してもう3年以上日々暮らしているし、自ら制作する(カメラで写真や動画を記録することすら)ことを可能な限り放棄し、コロナ禍の中で観光客のいなくなった島で島民との関係を作りながら古い写真などの資料を収集し、それを展示しながらアーカイブを作るプロジェクトをやっている。しかし、その傍らで鑑賞者は駆け足で目的地を巡り、開発者たちは古い風景を壊され続けている。現在プロジェクトは4年目ですが、アーカイブを作る活動に終わりはないだろう。どのように継続できるのか、いつまで継続できるのか。
この島の国際的なアートに比べて、私の表現はビジュアル的には弱い。しかし、このプロジェクトは今を生きているし、視覚的にも徐々に成長する。時間をかけることでしか、発生しないものを作りたいと考えている。
【2025年への到達目標】
島内には存在しない郷土図書資料館をアーティストのプロジェクト作品として制作。直島の歴史的資料を島内に残し、視覚的に魅力的なアーカイブを形成し、資料を活用し見せていく施設。県の行政主導ではなく、地域側から世界へ発信する活動としてのローカルアーカイブとしての資料館。島民との協働で出来上がる。島の教育委員会とも協働できる関係を築き、島の小学生が郷土資料を調べ、島民が新しい視点の島の掘り起こし企画展を楽しみに見にきて昔話に花を咲かし、未来を考える場。外からくる観光客が島の歴史にふれ、論文を書く学生にも活用される。
もちろん、主催する福武財団の内部としては、新しい現代美術の作品や美術館を持ち込み開発するだけではなく、島の歴史に寄り添い、島の歴史を残していく一つとして重要な”語れる”活動になるだろう。
結局、アートのオブジェや映えを目的としたお客が満足できる施設にもなりえることは挑戦するが、もし可能なら、学生は完全無料にしたり、企画展(1年の2-3ヶ月)以外は毎週土-月曜日開館で無料で入館できるセミパブリックのような存在にしたい。
【こぼれ話】
昭和37年11月、民俗学者宮本常一氏がはじめて直島を訪れた。当時の直島町長の三宅親連氏は彼を直島に招き、直島に「瀬戸内海博物館」を作りたいから一度島をみてほしいということだった。(「私の日本地図12」宮本常一著、35-36頁)その計画はどのように変更され消滅したかは定かではないが、三宅町長は、北部に三菱マテリアル、南部に観光開発を進める、今の直島の骨格を作り上げた人物だが、実現しなかった構想の中に「瀬戸内海博物館」という瀬戸内海の郷土博物館を直島に作るアイデアがあった。
この資料館は、時を超えて、瀬戸内「 」資料館へと接続するはず。直島の島民のものとして。「瀬戸内海博物館」構想の新しい形として、直島町にも受け入れられる存在になりたいと考えている。
新美塾!2022の記録が公開
新美塾の記録集のPDFが読めるようになった。
さらに、記録動画のダイジェストもアップされた。
新美塾!2022
《WEB》
頭の整理に、思い出せる範囲での「新美塾!」を作るのに影響を受けた経験を書き出してみる。
基本的に、下道の作品ラインの「A面」として、「戦争のかたち」「torii」「津波石」がメインに見えつつ。ただ、それの別の「B面」的な水脈として、個人の作品ではない方向/協働を介するある意味弱い表現への挑戦や興味が続いていて、それは「新美塾」に接続したのかもしれないと思う。さらに瀬戸内「」資料館はさらにその先の「A面」と「B面」の両方を持つ存在を目指している。
以下は「B面」的な水脈。
【影響のある自分の活動】
・「Re-fort project 5」2009
=2004年の1回目から中崎透など様々なとコラボ。第5回目は、中崎透、服部浩之、会田大也、山城大督との共同制作。自分だけの作品がそうではなくなる瞬間を受け入れることの面白さを感じる経験。
・「梅香堂」での体験 2009-
=手作りの小さなレジデンスでの滞在制作。若いアーティストたちの溜まり場。学び舎であり駆け込み寺。小さな表現の学び舎。場所を作ることについて考える。
・「見えない風景」2010
=自分が先生ではなく、大人/自分よりも面白いのを子供が作り逆転するようなWSの制作
・「超訳 びじゅつの学校」2013
=美術館を部室にして作家を部長にして客は何度も通う、というコンセプトは参加して刺激的だった。ブログなどの継続性も作ったが、結局、作家たちが手を離し自動で動く装置にはならなかったのも印象に残っている。本当にその空間や活動を生きたものにするための本当に必要なシステムとは?という疑問。
・「14歳と世界と境」2013
=色々な国の中学生との共同作業。中学校の環境や教育に疑問を感じる。
・「14歳と凹と凸」
・「旅するリサーチラボラトリー」2014
・「Asia Seed」rooftop institute (香港)2016
=最も影響を受けた活動。rooftop instituteはアートと教育をテーマにした活動で主催の女性二人は同年代の現代美術の作家でもある。まず、1ヶ月滞在制作で香港の作家とWSを制作。20人の香港の高校生(100人が応募してきた)がこのWSを体験し、その中の5人を選び1週間の日本のアート旅を企画。すごい体験だった。いろんなことがWSや旅を通じて目の当たりにした。制作するのが作品で手放しに無数の人々に鑑賞される体験ではなく、制作するのはWSや旅で体験するのは高校生たち。
・「宇宙の卵」2019
=ベネチアビエンナーレ日本館での共同作業やそのための旅。「Re-fort project 5」以来の関係が続く服部くんと、「Re-fort project 5」のさらに先を目指すような体験。自分の作品が壊れてセッションが起こっていく感覚、巨大な経験。
・愛知県立芸大の山本高之の授業を1コマやることに。
=山本さんが1ヶ月不在ということで、急遽芸術学専攻の学生向けの「現代アート実習(映像)」の授業を代わりにやることに。課題を作り5人くらいの生徒と継続的に1ヶ月で6回で映像を制作して鑑賞をする。結構楽しい経験に。
・「山下道ラジオ」2020-
・「島の子供の研究室(しまけん)」2021-
・国立国際のコロナ禍でのワークショップ
=コロナ禍で子供たちが家でできる課題をアーティストは一人1課題を考える依頼だったが、答えられなかった。いくら考えても、他の作家のようないいアイデアが生み出せなかった。それは多分、コロナ禍を経験することで、作品的な聞きの強いWSではなく、弱い課題を継続的にルーティーンでやっていくことへ、興味が強くなったではないか。
【影響のある自分以外のアート活動】
・会田大也 Ycam, あいちトリなどのラーニング
・ナデガタインスタントパーティー「パラレルスクール」
・Kosuge1-16
・mamoru&山本高之 鳥取でのスクール
・アーティストインスクール(北海道) タノタイガ、Kosuge1-16
・「バイトやめる学校」山下陽光
・コロナ禍でのトムサックスの活動
・オラファエリアソンのスタジオ活動
【影響のある自分以外のアート以外の活動】
・school of lock
・ブルーハーツ ファーストアルバム
・ハイローズ 「14歳」
などなど
新美塾! PR動画完成
1分半のPR動画です。
《リンク》
新美塾! 記録集
新美塾!の記録集が完成しました。販売はなし。関係者に配布予定。
新美塾!は、美術館に展示……ではなく軽音部の部室を作る!そんな意気込みで作ったプロジェクト。
多分、これは自分なりのコロナ禍への反抗というか……。普段通り旅もできないような時代に少し自分の制作を置いておいて、本気で近所の小中学生の美術教育に向き合ってみようと、それが今自分にできる仕事ではないかと本気で思い込んでやってみた。それがほんの少しだけ形になった。
コロナ禍で、展覧会や美術館の成功を測る方法が入館者数であることの疑問や、輸送費をかけて作品や展示を作り動かす困難さに直面したり……、そんな中でふと足を止め、日常的に少ない人数とゆっくり時間をかけて付き合う”手作りの表現の学び舎”の実践を試してみるのはどうだろうと。
さらに、この時期にArtist in schoolのお誘いで北海道の小学校で何かを行う下見を行って構想していたことがパンデミックで何もできなくなったり、給食時間がバラバラに黙食しているのに悲しい気持ちになったり、甥っ子もそうだけど日本中(世界中)の学生が数年間部活も遠足も普通にできないまま卒業したり(不登校になったり)、集まれないのを利用して香港が一気に中国化されて友人の子供の教育環境が激変したり……。コロナ禍での社会全体から閉塞感と監視やコントロールが増している感覚が、本当にやばいなと感じていて。
さらに、2019年のヴェニスの後から、個人の制作と共に、共同で何かを作り上げることに興味を持ってい動いてきた活動の延長に”手作りの学び舎”の構想は生まれていて、それらは移住した直島の日常の中で《瀬戸内「 」資料館》の活動内に注入してきたが、旅ラボでMIMOCA(丸亀)の展示にぶち込もうとしてみて失敗したり、色々と試行錯誤と妄想は膨らませていたが、ちょうどそこに国立新美術館の教育普及チームが企画を手に飛び込んできてくれた…。新美の教育普及の思惑と挑戦、それと僕の最近の実践が合致して、(さらに面白い学生が集まって)思いもよらない、すごい勢いで転がっていってできたのが新美塾!という訳です。長くなりました。。詳細は写真の下に書きました。
最近、「下道さん!津波石の次の新作は?」とたまに言われるのですが、津波石のフィールドワークはコロナで中断せざる得なくなったままです。でも、コロナ禍という時代の変化にそれ以前の制作を同じようにできるはずもなく(思考も変化し)、それをうけて取り組んできた”新作”は《瀬戸内「」資料館》(2019-)であるがそれは動かせない作品(しかも福武財団のコミッションワーク?でもある)。その傍で密かに思考し制作してきたのがこういう手作りの表現の学び舎だった、というわけです。
こういう人と付き合う”教育”はとても大変だけど、本当に楽しい。反応が作品と違う形で返ってくるからやりがいも大きいし充実する。でも……、だから……まだ、程々にしないといけないのかもしれない。この3年本気で向き合って少しだけ気がついた。
少し孤独な旅人に戻ろうかなと。もう少し、自分を世界を孤独に掘り下げてみようと。
「中高生向けの表現の塾をつくる」
新美塾!は国立新美術館(新美)ではじまった”表現の塾”だ。
参加するのは、表現するのが大好きで学びたい!けど、まだ将来どんな職業に就きたいのかよく分からない、という中高生たち。
例えば、絵を描くのが好きだけど画家になりたいわけではない……とか、面白いことを考えて人を驚かせるのが好き……とか、建物や風景を見るのが好き……とか、料理人になりたいけどもっといろんな表現に触れてみたい……とか、クラシック音楽をやってきたけど現代美術に興味がある……など、さまざまな個性の生徒たちが集まった。このコロナ禍で学校の行事や会話すら不自由ななかで、表現することが密かな生きる力になっているような彼らと向き合った半年間のプログラム。
2021年11月、僕へ新美の教育普及チームからこの「ユースプログラム」を一緒に作るお誘いがきた。
その企画は、アーティストと美術館と中高生が一緒になって作る新しい挑戦が描かれていた。企画書は、欧米の美術館ですでに行われている「ユースプログラム」を参考にしていた。その時、僕ははじめて海外の美術館での「ユースプログラム」の取り組みに触れた。これまで様々な美術館や芸術祭の教育普及チームと作ったとワークショップ(WS)は、作家が講師となって催される数時間のイベントであり、どちらかというと展覧会の補佐的な印象だった。それに比べて欧米型のこの「ユースプログラム」は、美術館の展覧会事業から独立して活動し、参加者と継続的な関係や場所作りを特徴としていた。例えるなら、学校に軽音部の部室を作るようなイメージだろうか。
僕自身、これまで旅をしながら作品を制作していた。その傍らで色々な国の中学校で特別授業を作りインタビューするプロジェクトや、このコロナ禍の数年は移住した瀬戸内海の島で「子供の表現の塾(毎週水曜1時間半)」を継続している。この美術館での新しい試みは、単発のイベントという形ではなく、少ない参加者と日常的に深く関わる活動として強く可能性を感じた。表現好きの中高生が美術館に毎週通うような新しい部室や塾にならないか…そんな妄想が止まらなくなった。そこから美術館とのイメージのすり合わせ可能性の共有を始め、数ヶ月してようやく「中高生の参加者と半年間関わり、オフラインとオンラインを混ぜながら、表現の課題や鑑賞体験を行う」骨格ができていった。
次に、従来の美術館のワークショップの参加者の層だけではなく、このような”表現の塾”を本当に必要としている中高生の手に届ける方法を考えた。具体的には、学校内に貼ってもらって、さらに担任に勧めてもらえるなどの届け方や、チラシにスマホで見れる「表現が好きな生徒募集!」の短い動画をQRコードで印刷したり。チラシとポスターは関東の中学校や高校に送られた。
僕自身、高校1年生の頃、美術教師に地元の画塾のチラシを渡され勧められたことがある。画塾に行ってみると、いろいろな学校から表現の好きな生徒が集まってきていて、急に世界が広がった経験をした。きっと、自分の中だけで、表現の熱を温めながら疎外感を感じている中高生はたくさんいる。表現がないと生きられない生徒がたくさんいるはず。そういう生徒を知っている教師がこのチラシを手に彼らの壁を突破してくれることを願って広報のアイデアにも時間を割いた。
嬉しいことに、実際に応募してくれた生徒の中には「先生にチラシを渡され勧められた」という美術館WS未経験者もいたし、予想を大きく上回る応募人数に僕もスタッフも手応えを感じた。それと同時に参加したい気持ちに全員に応えられなくて申し訳なくも思った。最終的に12歳から18歳の13人と共に第一回の「ユースプログラム」新美塾!は始まった。
実際に半年間行われたルーテーンとしては、2週間に1回のペースで”奇妙な通信教育キット”《ミッション》が参加者に届く。これがメインのコンテンツだ。毎回その封筒を開けると『インスタントカメラで毎日4枚ずつ日常を撮影してみよう!」や「自分だけの新しい箸を作ってみよう!」など《ミッション》と塾長の僕からのメッセージが書かれている。その課題をそれぞれが日常生活の中で行い、最終的にオンラインで発表しあう。《ミッション》を作る中で一番大切にしたのは、「技術力」ではなく「観察力」にフォーカスすること。彼らが自分自身の日常を深く観察して、さらに自分だけの小さな発見をみんなに共有する楽しさを感じる。2週間に1回このオンラインの《集会》を開き《ミッション》の成果を見せ合う。さらに月1回、展覧会を見に行ったり、アーティストやデザイナーに会いにスタジオビジットのオフラインの《集会》が開かれる。最終的には10回の《ミッション》、そしてオンラインとオフライン合わせて13回の《集会》が行われた。さらに、それぞれの自己紹介や関係性をつなぐルーティーンとして毎週収録して共有する13人とスタッフだけの《ラジオ》(17回放送)、そしてそれぞれがこの半年書き込んだ《手帳》はボロボロになった。
半年間のプログラムを終え、最終日ささやかな卒業式が開かれた。その中である中学生は「新美塾で自分は確実に変わったと思う。でも何が変わったかはまだわからない。」と語った。この美術館のプログラムは、きっと普段の学校のクラスや家庭では出会えない人と出会って、表現を通して自分の小さな日常を見る目や将来を考える思考が少し変わったのではないか。でもその本当の成果を感じられるのはまだまだ先の話かもしれない。もしかすると、卒業生の中からアーティストが出てくるかもしれないし、クリエイティブな料理人や大工や登山家など新しい仕事を生み出す人が出てくるかもしれない。それが今から楽しみだ。
下道基行 (「新美塾!記録集より」)
今日の「へんこつ」
窯工研、春の夜の部会。
島の子供の研究室-しまけん! 直島諸島調査第2回
いつも対岸に見ている島。そこには全く別の風景、歴史が広がっている。
自分自身はじめてのフィールドワークを子供たちと一緒に共有してみる。学びや発見や体験の共有。
僕の心や目に小学4年生が宿る。
表現という木
表現が生まれる構造を木に例えて描いた(ある本を参考に自分の解釈で)。
表現されたアウトプットや作品を「花や実」に例えると、鑑賞者は普段「花や実」だけを見ているということになる。でも、「花や実」は木の先端の一部であり、それを深く理解するためには木全体を見る必要がある。この木全体はひとりの表現者の例えだ(芸術家はさまざまな表現者の中の一つ)。
まず、地上には目に見える存在があり、地下には目に見えないバックボーンがある。表現の根本でもある地下の「根」は、幼い頃からの経験や成長過程の興味や疑問などたくさんの方向に底力として表現を複雑化させて支える。普段の生活ではマイナスに感じている自分のコンプレックも地下の「根」として考えるとそれが深いほど表現の強さの一つの要素であることがわかる。その「根」を地上に持ち上げてたくさんの「葉や枝」や「花や実」をつける支柱となるのが「幹」。その「幹」は、発想力や技術力かもしれない。発想力と技術力はどちらかだけでは良い木が地上に伸びていくことはできない。(例えば、発想力が弱く技術力だけを強くつけていくと職人的になるかもしれない。やはり発想力や柔軟性がなければ色々な仕事に対応できない。)「根」を自分の日常や自分自身と向き合いインプットする場所だと考えると、逆に出会った人や他者からのコミュニケーションを通してインプットする力は「葉や枝」に例えられるのではないか。
普通、アートの塾というと”画塾”のように絵を上手くなるトレーニングを思い浮かべる。もちろん、デッサンや絵を描く行為から学べることは非常に多い。ただ、新美塾!では中高生(しまけんは小学生)を対象としているので、より新しい「根」を増やすこと、さらに”新しい美術の塾”という現代美術的な塾であるのなら一定のメディアを学ぶのではなく、横断的にメディアを扱える「幹」の部分の発想力や柔軟性を伸ばすことを重視しようと考えた。
「新美塾!記録集」より
制作における社会事象への反応とフィールドの変化
作品を作る時、新しいテーマに出会う時、自分自身の潜在的な興味が関係している部分が関係しているのは確かだろう。例えば、幼少期の考古学への興味や美大時代の民俗学の影響などなど。
ただ、さらに事件のように起こる社会的な事象や身の回りの出来事によって、環境やテーマは大きく変化してきた。ただし、僕の場合それが「東日本大震災があって福島をフィールド/テーマに」というふうに直接的に”ネタ”になるというよりは、その出来事を自分の日常内で受け止め、別の形へと変化させ、それが次へとつながっていった。それを少し書き留める。備考録。
:::::::::::::::::::::
―2001年 米同時多発テロー
( 2001年大学卒業 )
2001年ー2005年
《日本の内側》
「戦争のかたち」=日本全国をバイクで旅しながら戦争の遺構を調査撮影、その延長で台湾や韓国へと。「日曜画家」「Re-Fort Project」
2006年ー2012年
《日本の外側 東アジア》
「torii」=日本の国境線の外側を旅しながら日本人によって作られた鳥居を調査撮影
―2011年 東日本大震災/福島ー
( 2012年結婚 )
2011年ー2013年
《自宅の近所》
「bridge」「ははのふた」=自分の日常の周りから、無名で小さな創造物を探す
「14歳と世界と境」=日本やアジアの中学生のインタビューで新聞連載を作る
2014年ー2019年(コロナまで)
《日本の境界線上 沖縄》
「津波石」「沖縄ガラス」=日本の内側と外側の後に、その境界線上の沖縄へ興味が移行する。
( 2018年娘生まれる )
― 2020年 コロナウィルスパンデミックー
2020年(コロナ禍)ー
《瀬戸内海の島》
「瀬戸内「 」資料館」=生まれ育った瀬戸内の島に移住して、旅をせず住みながら地域のアーカイブを作品として制作
「島の子供の研究室ーしまけん!」=毎週水曜日、島の小学生に表現の塾を行う
《仮想空間/オンライン》
「山下道ラジオ」=2020年3月から毎週水曜日に収録しyoutubeで放送中のラジオ。山下陽光氏と。
「新美塾!」=国立新美に関東の中高生むけの表現の塾を作る。半年間13人と向き合う。
2023年(コロナ後)ー
新たな制作活動へ
:::::::::::::
2001年に大学卒業して間も無く、アメリカ同時多発テロ事件を目の当たりする。住んでいた東京の郊外で60年前に捨てられた戦争の過去の遺物に出会い、日本全国を旅して集める。「戦争のかたち」デビュー。
その10年後、2011年
東北で大地震と原発事故が起こり、住居を東京から愛知に引っ越し、そこで新しい家族の風景を撮り始める「ははのふた」。そして、沖縄の宮古島などで「津波石」に出会い撮影を始める。
そこから9年後、2020年、
コロナウィルス流行という世界同時に大変な状況に巻き込まれていき、その中で福岡に住む友人と毎週月曜オンライン接続して日常を話す「山下道ラジオ」。生まれ育った瀬戸内の島に移住し、その島の郷土図書資料館を作るプロジェクト「瀬戸内「」資料館」を行う。資料館内で毎週月曜木曜の「直島窯工部(島民の陶芸部)」を開始し、さらに島の子供に表現の塾「しまけん」(毎週水曜)をはじめ、国立新美で「新美塾!」(半年間の中高生向け表現の塾)に発展。それらの毎週月曜木曜日水曜日のルーティーンを今も続けている。
まぁその中で次の活動を始めるぞ!って、頭の整理でした。
NY日記?
ニューヨーク滞在はすぐに過ぎていった。時差ぼけの頭で日々バタバタと忙しい2週間だった。こっちに住む日本人アーティストの後輩やその友人たちに日常や生活や情報を垣間見せてもらったり。全然、観光的な写真を撮ってなくてアップするものがないが、朝起きた窓からの普通の朝とか、一応少しアップします。楽しかったなぁ。
ニューヨークの個展の話
ニューヨークに2週間滞在した。その間に現地から毎週月曜のルーティーンワークの『山下道ラジオ』を録音した。友人によると一つの《神回》になったという意見も。
で、帰国した後、直島で「ニューヨーク見聞録」というトークイベントを開いた。海外に少し滞在して、その話を人を集めて話すなんて古臭いイベントをやることになった理由は、コロナ禍でさらに原油高で遠い海外旅行が行けない状況やアートに興味を持つ島民が多いことなど。あえて「見聞録」と古臭いタイトルをつけた。以下の日記はその「ニューヨーク見聞録」のために書いた原稿だ。
僕の置かれている状況を包み隠さずに話すために、
さまざまな 「アーティストの分類」ができるがあえてこう2つに分類して話を進めたい。
「プロジェクト型」と「コマーシャル型」。
「プロジェクト型」=フィールドワークをしたり、地域とコミットしながら、プロセスを重要視しながら作品を作るタイプ。
「コマーシャル型」=絵画や彫刻などスタジオやアトリエで制作され、場所などと強くコミットしないタイプの作品。
この二つは実は国内では
「プロジェクト型」=芸術祭に呼ばれやすい。美術館の企画展にも呼ばれやすい。=販売しにくい
「コマーシャル型」=ギャラリーと契約して展示をすることが多い。=販売しやすい
もちろん、プロジェクト型で売れる作品を作る人はたくさんいるし、コマーシャル型でリサーチベースの作家もいるが、あえてこう2つに分けて書いている。(業界の人からはいろいろ言われそうだけど、業界を知らない人にもわかりやすくするために、あえて書きます)
僕は「プロジェクト型」に属するだろうと。
プロジェクト型は展示や世界の芸術祭には呼ばれやすいが基本販売に向かない。つまり、美術館や芸術祭で活躍している作家が売れているとは限らない、ということだ。そしてその逆、美術館や芸術祭で活躍していないが売れている作家はたくさんいる。(もう少し踏み込むと、芸術祭などの土地や場所やテーマに合わせて新作を求められて作品を作った場合、その作品を他の場所で発表したり販売するのは難しい作品になる傾向があることも「プロジェクト型」が売れにくい原因の一つだろう。それなのに、企画展や芸術祭の謝礼というのは作品の販売価格から見て低すぎる現状である。)
僕の場合、「プロジェクト型」ではあるが、ある地域を長期に渡り調査するがアウトプットはその土地とくっついていないので、いくつかの作品は美術館に収蔵されたりしているが、残念ながらコレクターからはほぼ興味を持たないし、コマーシャルギャラリーからのお誘いをいただいたこともない。僕自信がコマーシャルやビジネスの才能もないし外からの期待もないのだろうと諦めつつ、だから、数少ない強く応援してくれる人々によって、こうして自分で(家族と)サバイブしながら、自分の作りたい作品が継続的に作れるだけでも本当にとても恵まれたことなのだとは常に感じている。
僕自身、最初から目標やそういう作家像があったわけではない。作品を売って生きていくというよりは、まずは自分がやりたいことに向かって進み、他の仕事をしながら自費で調査を始めて制作しながら、それを本にまとめて販売したり、助成金や美術館や芸術祭から制作費や謝礼をもらいながら、作りたい作品を作っていたら今の流れになっていった。それは、振り返ると、研究者などの生き方に近いのかもしれないなぁと思う。ビシネスではなくて研究費を得て、本を書いて、死なない程度に生きながら研究に専念するような。(続けているアーティストがみんな売れているのではなく、こういう生き方もあるし、アーティストの生き方も生き方も様々だということ。)
自分で作った物をバンバン売って商売をしている感覚はない。ただ、画家の友達のように、コマーシャル型の作家が自分の物を売りながら生きている状況に憧れもあるが、その辛さも知っているし、諦めのようなものもあった。なぜなら、売れる物を作ることに頭を悩ませる暇があるなら、面白い調査発表をして成果を出すことの方が優先したい。売れるものを作るのもかなりの才能と努力がいる。両立などは考えもしなかった。でも、僕は現時点で国内ではとても恵まれていると思っているし、家族と生きられているし、最低限では生きられている。
さらに踏み込まなくてもいいところを踏み込んで話すと、
40歳を超えて、作家にも家族ができる。するとやはり安定が必要にもなるし、美大の先生の職に就くことが多く、これも研究者と立場は似ている。しかし、かつての美大の教授のように研究だけをやってられないのが今の大学(特に私大)であり、安定とやりがいと引き換えに作家としての活動ができなくなる人も多いのはよく見る。僕は学部卒であるので教員になれるかは疑問だし、美大の先生で美術作家を生み出す仕事に自分には向いていないのではないかと思っている。逆に島で子供に小さな塾を作り、東京で中学生の塾を始めた。これはそれに対する自分なりの抵抗の一つかもしれない。
で、この前提で、こんな僕にニューヨークの個展の話がきたのだ(話にようやくNYに接続する)。
ちなみに、僕にこのギャラリーの企画を持ってきてくれたのはまだ若いエイミだった。彼女はNY在住の博士課程の学生であり研究者でありキュレーター。優秀だし多忙だ。アメリカと日本の関係や植民地主義など、そして日本の独自の芸術祭に興味を持った研究者であり、若きキュレーターである。彼女の修士論文は”日本の地域アート”についてで、2016年には小エビ隊として働いた経験もある。実は、2年ほど前、彼女は僕に最初は別の企画を持ってきた。その展示企画は、今年の夏に実際にNYで開催される小規模区の展示で。NYの小さなNPOのギャラリーで植民地主義をテーマにした日本の若い作家を集めた小さなグループ展に参加してほしいというものだった。その流れの中で、彼女から「せっかくなら「torii」の作品を別のギャラリーでも展示しませんか?」というもう一つのオファーをもらったのが今回の個展の話だった。つまり、グループ展と個展の二つの依頼。僕としては、NPOのギャラリーでの彼女の個人的なキュレーションの展示が2つあるのだと少し勘違いしていた。ギャラリーの図面を見ても2つの展示空間もとても小さいし、エイミも熱意があるし面白そうだからオファーは受けるが、実験的な企画で、正直、ニューヨークの展示ではあるけど、この展示に参加することで何か大きなチャンスを得る可能性は低いと思ったし、正直、彼女の企画に”作品を貸し出す”という気持ちだった。
ただ、ニューヨークの個展の準備を出発半年前、2022年の秋くらいからバタバタと始める中で、「あれ?この個展は少しイメージが違うぞ? コマーシャルギャラリーだし、個展だし、新しい展開かもしれないぞ…」と気が付いた。なぜなら、エイミではないギャラリースタッフからやたらと契約書や保険や書類が多いしきっちりしている。そんな時、向こうから「今の時期、シッピングが非常に高価なので、下道はNYには来ず、ZOOMで遠隔で展示を作ってほしい」と連絡が来たので、とりあえずいろいろな提案をして実際にNYに行けるように交渉した。実際にNYに設営やオープニングに立ち会えるようになり、さらに1週間滞在を延長して友人の家に泊めてもらいながらNYを吸収するタイミングにできる準備をした。その中で、もう一度このギャラリーについて、調べようとネットで検索したが、できたばかりのギャラリーでよくわからないので、NYに住む日本のアーティストや関係者に質問していくと、僕が想像していた方向性とは違っていたことが分かってきた。
ギャラリーのオーナーは日本の写真を専門してNYで活動してきたディーラー。これまでは日本の写真のコマーシャルギャラリーのニューヨーク支部の販売を手伝っていたが、その日本のギャラリーが撤退した後、1年半前に自らギャラリーを始めた。ただ日本の写真が本当に好きでとても詳しいし、販売の実績も十分あるようだ。日本人の写真家を中心に紹介していく予定で、若手では僕が初めてのようだ。ただし、本人はギャラリーなどはするつもりはなかったようで、自分は販売専門で、展示の企画は若いキュレーターに任せる方針をとっているのが非常に変わっている形態だ。
実際に今回NYに行ってみると(前回は2008年、NPOのギャラリーでのグループ展のために数日の滞在だったが。)、ギャラリーの立地は、ビルの8階の1部屋と小さいが、チェルシーのコマーシャルギャラリー街のど真ん中のビルの中に入っている。アメリカのいや世界のアートのコマーシャルの中心の小さな部屋。さらに、なんと、今回の個展のために、アメリカの美術雑誌ARTFORUMに個展の一面広告を出している。その時の他の1面広告の日本人は塩田千春さんの巨大な個展などだからどのくらいの気合いかが伝わってくる。ギャラリーは売る気満々だ。(当たり前だ、僕の旅費や作品の輸送だいや額装代などすでに100万を超える出費だし、この家賃を払いながら1ヶ月半個展を開催するのだから。)
値段や契約の交渉を何度も行う。周囲の友人知人からは「アメリカは言いたいことを言わないと損。顔色なんてうかがっている暇はない」と言われ、一人頑張る。相手には「ミッチー!あなたはこの経歴と作品を持っているんだから自信を持ちなさい!インターナショナルな作家として挑戦してみましょう!」と言われる。これはコマーシャル、ビジネスへの挑戦なのである、しかも日本を飛び越えて突然始まったアメリカでの。
僕の世界に新しい小さな窓が突然開いて外に海が見えた、ような感覚だった。
ただ、そこから外に出られるかはまだわからない。
一体どうなる…。
制作におけるプロセスと完成以降の体験
半年前のこと、島でやっている小学生の塾「島の子どもの研究室(しまけん)」で、島の小高い山に登ったことがある。以前より個人的に島にはいくつかの山頂がありそこには木が生い茂り、誰も登ってない様子が気になっていたのだ。その中の行きやすそうな山を調べて、実際に子どもたちと3人でみんなで登ってみたのだ。植物をかき分けて1時間くらいかけてみんなで山頂に。そこからはみたこともない方向から瀬戸内海や島々がばーーっと見えて感動した。僕も初めて登った。みんなで宝箱を見つけたような興奮に包まれた。その延長として、今年の夏は、彼らと近所の島々を調べてまとめて展覧会を開こうと動いている。(さらにその展示がアーカイブの一部になっていく。)
多分、僕がこの数年(ベニス後でありコロナ禍で)大切にしてやっていること(のひとつ)はこういうことだと思う。”弱い表現だけど、しっかりとした学びが双方向にある体験を作ること”。双方向とは、絶対に僕が教えるのではなく、自分自身も学びがある方法、ということ。
ではでは、数年前までの制作のことを、山登りに例えるとどうなるかというと。まずは飛行機でネパールに行って、現地で山登りに詳しいシェルパを雇って、世界一の山頂を目指していた、といった感じだろうか。もちろん例え話である。一人で高みを目指していた。
何が言いたいかというと、これは制作プロセスと達成や目標の話であり、コラボレーション(協働作業)と作品制作との関係性についての考え方の変化の話だ。
どの山に誰と登るか。さらにはその体験をどのように人に伝えるか。
つまり、制作プロセスの体験を誰と分け合うか。そして作品の到達する方向性や完成度や体験どう決めるか。それらを同時に考えているということ。
2001年から作った「戦争のかたち」は、一人旅をベースに写真を撮影しながら徐々に作品を制作した。その制作のプロセスや旅でさまざまな事件やそれからの学びが起こっていった。それ自体がすごく刺激的で重要であったが、カメラを手に一人で旅をしているので、その部分は旅の日記として残していきながら、出版物/写真集としての完成物の中に入れて混ぜていった。しかし、写真の展示を作る場合はその長い日記を見せることは難しい。それは少しもどかしいことでもあった。
次の「torii」のシリーズの場合も、一人旅をベースに写真を撮影しながら徐々に作品を制作する方法をとったが、前作ではできなかった写真だけでしっかりと見せられる写真シリーズを目指した。その制作のプロセスでさまざまな事件やそれからの学びが起こっていく。もちろん日記も書く。でもその経験をも写真の中に少しでも含ませられるように意識していた。もちろん、写真集の中には日記も掲載したが、プロセスを意識的に削ったり結晶化するという意味では、大きな違いがあった。
ただし、やはり基本的には、この二つの経験では、何かを調べたり見つけたり出会ったたり、そういう学びが一人の中で発生してしまう。(そこで「Re-Fort Project」という共同作業が生まれてきて、さらにそこでコラボしていた服部くんの企画でさらなる発展系の日本館への挑戦へと、プロセスでの共同作業は発展していく先に僕の今はあるのだけど、それは少し置いておいて。)
僕の目指してきた最終的な作品というのは、基本、作家の手から離れて、自動再生機のように人々に体験をもたらせるもの。つまり、どこかに置かれて、多くの人々に鑑賞されるもの。それは、文学でもアート作品でも写真作品でも多くはそうだろう。置かれたものが人々に語りかける存在というのは簡単そうで難しい、だから必死に考えて頑張ってきたが、逆にそういうものに対して常に疑問や嫌気もある。それは、ここで言っている作品はアーカイブに委ねすぎているし、パフォーマンスやライブの清々しさに比べてかび臭い。(これは後々田さんの言葉。)それゆえに、油絵の筆跡のように、作家はその制作プロセスをパフォーマンスの記録のようにその作品内にうまく残しながら、シンプルで複雑な表現を目指してきた。し、逆にいうと、プロセスの中での学びの残り滓のようなものであることもあるし、僕の二つのシリーズでのプロセスの残し方はやはり筆跡の意識を持っていたと思う。
山登りの例え話。これはどういうことかというと。
例えば、多くの画家が絵を描く場合、一人でアトリエで一人で完成させるだろう。(=山に一人で登る) 次に、大きな作品の場合に手伝いを雇ってみんなで完成させるだろう。(=高い山に誰かと登る) でもその手伝いの人々は誰なのか?(=どこに登るかではなく誰と登るか) 例えば、その手伝いを職人などの専門職にお願いする場合、と、作家から学びたい生徒や弟子やインターンにお願いするのでは、体験が別のものになる。後者の方が後輩への学びの場になっている。しかし、「作家から学びたい生徒や弟子やインターン」の場合、どちらかというと、作品制作の手伝いの中から自分で学び取る姿勢になることが大きいのではないか。さらにいうと、作家が完成度の作品を目指していく作業を手伝わせているという意味ではどちらも大差はない。
恐らく、僕の最近の興味と実践としては、「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」と「完成した作品から受けられる体験や学び」を二つ同時に考えながら、意識的に新しくデザインするということであるのかもしれない。
多くの作家は「作品制作のプロセスの段階で発生する」存在を自らの筆跡として残すことを考える。しかしそうではなく、「作品制作のプロセスの段階で発生する」「体験や学び」を「完成した作品から受けられる体験や学び」と別のベクトルで考え構築するということを考えたいのだ。
ここで、一つ言っておきたいのは、作品制作でプロセスの体験自体に重点を置きすぎた場合に「完成した作品から受けられる体験や学び」が”弱く”なってしまうことが多いということだ。しかし、そこを妥協したくないし、今の段階で両立を目指している。それ自体が今の興味であり実験であり、完成した時に見えてくる新しさになるだろう。
例えば、「宇宙の卵」では制作時におけるプロセスでの協働と学びを見事に完成させたし、僕も多くを学べたと思うが、出来上がった作品からの受けられる観客の体験や学びは強くなかった。その両立のために、「瀬戸内「」資料館」では「プロセスの段階で発生する体験や学び」を重視しながら出来上がる作品が出来上がるが、さらにその先に長い年月をかけてさまざまな協働作業と完成が何度も起こっていき、それらが積層した状態を完成と考えていて、その完成予想図を持っているし、それによって、プロセスでの体験や学びをおこしながら、客観的な「完成した作品から受けられる体験や学び」を発生させようと考えている。
そうやっているうちに、一つ一つの調査や制作をより、いろんな人との共有していくことに興奮を覚えている。その一つが子どもたちとの調査と展示作りだと思っている。
軽視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 重視「完成した作品から受けられる体験や学び」
重視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 軽視「完成した作品から受けられる体験や学び」
という形であったのを、以下のようにする。
重視「作品制作のプロセスの段階で発生する体験や学び」→ 軽視「完成した作品から受けられる体験や学び」×多数→ 重視「完成した作品から受けられる体験や学び」
例えば、資料館では複数の協働作業やコラボレーションから展示や出版物を作っている。
・地元の主要産業の調査=「直島からみ風景地図」=地元男性二人とコラボ
・地元の食の調査=「直島すっぽんぽん新聞」=移住組の女性三人とコラボ
・地元の過去の産業の調査=「直島無人島地図(仮)」=地元こども4人とコラボ
他にもスタッフとの協働や部活動で協働など、
一つ一つの行動の完成したものを”軽視”している訳ではないが、それだけではしっかりと新しい作品形態にならないアウトプットであるが、それらを積み重ねていき、積層する形態を作っていくことで、より複雑に「完成した作品から受けられる体験や学び」を産もうとしている。つまりは、一つ一つのアウトプットがプロセスの一部である。
島の子供の研究室 しまけん!
しまけんで、直島、いや直島諸島を冒険を始めた。
日記が停止していた理由
FBやTwitterやらSNSで日記や悩みや愚痴やらを全く書かなくなって久しい。
この自分のホームページのessayコーナーのみに書くようになって数年が経つ。
昨年の10月くらいに、ここに愚痴や悩みやらを書き散らかしたまま、そのまま筆が止まっていて更新が止まっていた。いや本当は書きたいことがあったが書けなかった。何人かの友人や知人から心配をされ、声もかけられていた。
実は、自分のホームページの形式(ムーバブルタイプというの)が古くなりすぎて、昨年10月に突然、更新のためのログインすらできなくなって、手も足も出ない状況だったのだ。
すぐにwebに詳しい人たちに相談をしてみたが「この形式に未来はないので新しくするのを勧めるよ」と、さらにやり直すには数十万円はかかるだろう…と言われ、好きな庭いじりができなくて、草ボウボウの庭を眺めるように落ち込む日々を送っていたのだ。
そんな中、(もう3年以上、週一の愚痴発散の)山下道ラジオで、そのことをクダを巻いたところ、ひょんな繋がりから、「私でよければ、お手伝いしましょうか?」との連絡があり救われた。サイトが動かなくなって、4ヶ月。ようやく新しいサイトが徐々に出来上がり、今日に至るわけだ。
ご心配なく。笑
元気にやってますので。
でもさ、この1年、少し愚痴っぽくなっているのは、全力で時間も労力もかけて作った2019ベネチアや2020東京の帰国展、さらに2021丸亀でのグループ展とが、全く業界内外から全く反応が返ってこないことにがっくりきているんだと思う。「torii」を超える新たな水脈をガンガン挑発的に見せているつもりが、業界内外から思うような反応が返ってこない、暖簾に腕押しの数年。中堅の壁か? 結構すごいバランス感覚だと思うんだけどなぁ。涙
でも、まだまだ、本気で暖簾に腕押しします。数人の理解者さえいてくれたら、進めます。
SNSは告知のみで、ここには今後もガンガン言いたい事や愚痴とかいろいろ書いていきますが、
今後ともよろしくお願いしますー。頑張るぞー
愚痴、直島、焼酎
(毎日がハッピーで充実しているのだけれど、あえて書きます。)
最近、脳が、思考が、停止してしまっていた。
メールが返せないし、溜まる一方で、思考が進まない状態。
瀬戸芸で《瀬戸内「 」資料館》の新作はオープンしたのに、この場合、展示のオープンは制作の終わりではなく、始まりを意味しているわけで。今週、オープン間もない展示会場で、資料館の棚作りをDIYしてて、ドライバーで指に穴を開けてしまった。血が出た。
なぜこうなってしまったのか。
なぜだろうか。
書いてみて整理してみたい。
今までは、3年前までは、
例えば2ヶ月に1つ展覧会が入っているとする。すると1年で6本。
でも、実際は大体、個展とグループ展合わせて、年間10本くらいはしているのでそれ以上しているが。一つ一つを進めて終わらせながら、先へと進めていった。1年が終わること、「今年も頑張ったー」と一息ついて、打ち上げをやった。
展覧会や芸術祭は期間限定なので、1年や半年前から準備が始まって、3ヶ月前くらいからバタバタと本腰が入っていく。そして、オープンすると重荷を下ろすように軽くなって、ぱたっと終わり、次に向かう。
しかし、、、
最近、子供が産まれて子育てもしっかり参加したいので、移動ばかりの生活をやめて、家族で島に移住して、毎日ルーティーンワークにしていった。(その直後にコロナ禍になった。)
それから、すでに2年半が過ぎた。
毎日、小さな島でルーティーンが続く。9時に子供を幼稚園に送り、その後、資料館/スタジオへ、17時に保育園に迎えにいくと仕事終了、8時に風呂に入れて9時半には寝かしつけて。その基本のルーティーンに加えて、資料館では月曜日木曜日は9-16時で「窯工部」、水曜日は17:00-18:30で「子供の塾」。さらに、土日は幼稚園が休みなので、子供が家にいるので、どこかへ遊びに出かけたりと、基本仕事はできない。
と、
こういう毎日のサイクルが完全に固定していて、さらにコロナ禍でそれが強固になって、ずーっと小さな島に閉じ込められているような感覚。3ヶ月くらいに一回展示の下見などで都市に行く。ひさしぶり感。コロナ禍で人混みに逆に緊張する。そういう生活に息苦しさをベースに感じるようになってきている。旅に行きたいのにいけないからもある。さらに、島から車で船に乗ると3500円かかるので、島の外にすら、なかなか出れない。サクッと行きたい文房具屋や飲食店にも行けない。1日の船の時間に全ての行動が制限される。(例えば、1時間ほど大きなホームセンターで買い物をしたいとする。船は9時と11時と13時と15時と17時だとして、子供を9時に送っていき17時に迎えにいく必要がある場合、13時から1時間MTGが入っただけで、ホームセンターへふらりといくのは断念せざる得ない。)
でも、ここまで疲れてしまったのはさらに別の理由があるかも。
実は、
最近の僕の最新作、現在進行形の制作中の作品/プロジェクトは《瀬戸内「 」資料館》と《新美塾!》。これらは、これまでと作品形態が全く違うことに挑戦している。これまで、沖縄のフィールドワークからの作品から一転。瀬戸内海の島に定住して、写真も撮らないし、旅もしない、ある意味”場づくり”的で”ラーニング”的で実験的。旅して撮り溜めて編集して発表して終わり!準備してオープンして終わり!ではない方向へとどんどん進んでいる。こう言う作品形態には、人間関係の構築があるので、種まき、水やり、などが日常的に必要である。なんというか、子育てと一緒で、ずーーーーーーっと終わりがないのだ。(こう言うことを”作品”としてやって、終わりがあるなら、それはそれ風の作品なのだろう。)
ま、毎週毎週、島で子供に塾をする、島に部活動を作る、というのを始めたもう一つの理由が、周囲の同年代の作家が「美術大学の先生」になってきていることへの反抗かもしれない。ゼロから自分で島で学校のような学びの環境を作ってみようと。だから、数時間のワークショップで終わりではなく、ルーティーンで毎日毎週で長くガッツリやってみたいのだ。
さらにさらに、
今まで通りに、(ありがたいことに)、作品を展示する仕事も入ってくる。
そう言う今まで通りの感じで、展覧会に参加しながらも、それに加えて、終わらない作品形態を実験し続け(それは終わりも完成も見えず)、その二つの予定をやりくりする。娘は超可愛いし、毎日劇的に成長するから見届けたいし。そう言う、いろんな状態が重なりまくって、終わりも”打ち上げ”もなくて。なんだろう、この今までに体験したことのない、バラバラの生活サイクル/時間の感覚を一度に強引に体に投与するような。
僕はその道を進まないように生きてきたからかもしれない。
もちろん、人間関係や大きな意味での制作やフィールドワークに終わりはないのかもしれない、でも、「制作して発表する」ということの取り組み方が自分の中で変わっていっていて、それによって今、心身疲れてしまったのかもしれない………
あ!
すみません!
メール返しますー!
もう少々お待ちくださーい!
依頼を受けるか基準をバカ正直に書いてみる。
仕事を依頼してくれるということは期待される部分があるということなので普通に嬉しい。
ただ、こちらとしても数ヶ月や1年などをかけてそれに取り組むし、それが”仕事”であるのなら。
仕事の依頼が来たときに、こういうことが1つ以上含まれていたら、前向きに心が動く、いや普通に嬉しい。そういうことを馬鹿正直に書いてみる。
・一緒に仕事をしてみたい人である。
・展示してみたい空間である。
・制作してみたい場所である。
・新しく挑戦してみたいと感じる内容だった。
・内容は響かないが、交渉をして良い機会にできそうな感じがする。
・物凄いリスペクトがあり、熱意がある。
・しっかりとした対価が支払われる。
本当なら複数ほしいが、一つでも強烈なら前向きに進めることが多い。
こういう中で、「しっかりとした対価が支払われ”ない”」が「制作してみたい場所である」とかが、世間でよくあるパターンで、これが”やりがい搾取”というケースに分類される。それはそれで良い場合もあるので、ケースバイケース。
ただ、「一緒に仕事をしてみたい人である」で「制作してみたい場所である」で「しっかりとした対価が支払われる」で「物凄いリスペクトがあり、熱意がある」とかはほぼ出会わないし奇跡中の奇跡かもしれない。
逆に、
こういう依頼が来て、頭を悩ませる。
いや、それは人それぞれなので、これは僕の基準で、こういう依頼だと、少し身構えるという話を書くと。
・僕の事や作品をよく知らない人である。
・魅力的な仕事をしてきているように感じない人である。
・全く魅力の感じない場所/空間である。
・制作日数が少なすぎる。
・製作費や謝礼が(ほぼ)ない。
想像してみてほしい。
「僕の事や作品をよく知らない人」から、「全く魅力の感じない場所」での制作依頼は、「制作日数が少なすぎ」て、メールには『薄謝ですみませんが、、』と書かれ、明らかに赤字である。
基本、求められるのは嬉しいのであまり断らないように前向きに考えたい。でも、リスペクトもないのに、空間を埋めるコンテンツくらいにしか思っていないケースはさらにお金がないの三拍子が揃いやすく、断るしかないし、怪我しかしない。
ま、一言では言えないし、問題は根深いので一概には言えないが。
もやもやするので、書いておく。
(「下道も偉くなったのぅ…」みたいな話で片付けないでほしい内容なので書き留めました。)
小さな手作りの学校
この一年以上、小さな手作りの学校を自分でやろうと、ない知恵をしぼっている。ま、時間だけはあるので。
これまでは、いろんな遠い場所を旅して、新しいビジュアル的な体験/視覚芸術作品を作ろうとしていたが、
コロナ禍の島での子育ての中で、制作やプロジェクトの方向性を少しシフトチェンジしている。
自分にとって、高校までの学校の経験というのを厳しめに書くと、
近所に住んでいると言うだけでバラバラの個性や性格の同じ年に生まれた子供があつめられ、興味もモチベーションもないことを色々とさせられる場所。(中学校などはさらに授業を妨害する生徒もいるわけで。数少ないモチベーションのある子まで邪魔される。)
先生はそういう子たちを数十人とかを同時に動かしながら同じ目標まで一緒に連れていく努力をする。社会で協調性を持って、一人で労働者として働けるまでに子供を仕上げる(工場のような場所)。(いや、個性を尊重して伸ばしてくれる良い先生もいた。でも現代、やる気のない生徒に「やる気がないならやめてしまえ」はパワハラになるし、みんな同等にケアしないといけない。そのせいで先生すら脱個性でモチベーションを失い工場の機械になっていく。)
個人的に高いレベルや教科以外の興味には対応しにくい特性もある。これまで、より高度な受験に対応できない学校に代わって、進学塾が発展した。今後は、それぞれの個性を伸ばすのも対応できない学校に代わって、勉強以外の塾/フリースクールは発展していくだろう。さらに、日本の学校は、お金がなくなり、どんどん保守化し、国際力を失っていくし、人間性や個性を伸ばせない方向へ。反面教師としては十分効果的な存在ではある。
つまり、学校は近代の歪みに満ちているのは明確で、近代の歪みと人々の生活と環境や風景に興味を持っていた僕がこの辺りに興味を持つのは真っ当な流れかもしれないなとも思う。さらに、この疑問に対してイメージの力で批判とか愚痴を言うのではなく、アクションを起こして実際に小さな変化を生み出してみたいと考えるようになった。自分でできる範囲で、家庭菜園を作るみたいに。
本当なら、学校は、
興味やモチベーションのある生徒が来る場所で。目標はバラバラでその子の個性に合わせて変化していくカリキュラムで。新しい仕事を作っていける生徒を輩出できたら最高だけど。
でも、もし、そんな学校を作るなら、ものすごく学費の高い学校になってしまい、結局、お金を稼げて意識の高い「親」のいる子供だけの特権になってしまうだろう。(逆に、今の日本でも、親は貧しくなるばかり、貧富の差が激しくなり、実力ややる気以外のヒエラルキーが社会に蔓延る。)
いや。でも。できる範囲でやってみても良いんじゃないかな。と思って、はじめてみる事にしたのだ。
今、僕自身、子育てをしていることもあって、「教育」に今までになく興味やモチベーションがあるし、まだ脳もそこまで硬くない状態なので、今のうちに自分のプロジェクトとして「教育」について関わってみたいと考えている。
その手探りで手作りの学校が、「しまけん!(小学生向け)」と「新美塾!(中高生向け)」なのかも。生徒は「しまけん!」が4人、「新美塾!」が13人。17人の個性と向き合うだけでも結構な仕事量と充実感。いつも脳のどこかで彼らのことを考えている。
「しまけん!(小学生向け)」は、僕の小さな島での実験として、無料で行なっている。生徒は逆指名性。僕が選んで声をかける。こんなの都市部ではできないだろう。さらに、「新美塾!(中高生向け)」は国立の美術館の企画で、無料。だけど、美術館の教育普及チームと本気で作っているし、無料なのに美術館独特の知恵と贅沢さがある。
問題があるとすると、すごい労力がかかっているが、稼ぎにはならないということ。それ以外はベストができている。今は収入にならないけど、時間があるから、今のうちに、こういう実験や実践をしておくことは、将来に何かの道になるだろうと、思っている。
でも、相当な負担がかかる。しかも、その逆に、すごい達成感もある。
だから、これまで仕事の中心になっていた「自分の作品を作る」「展示を作る」というモチベーションが、一気に色褪せていく。
その場所で専門性が出てきた瞬間に、野に下る癖なのかもしれない。
また目の前に、新しい荒野が広がっているのだ。
足を踏み出せ。
デンマーク日記
ヨーロッパは3年ぶりだろうか。デンマークのオーフスに来た。人口30万人なので首都コペンハーゲンとは比べられないほどのんびりした中規模都市。有名大学があって学生が多く、お洒落な店は全然ないが、夕方からバーや公園でビールを楽しむ学生や人々。清潔感があって、雪解けの春のような爽やかなエネルギーの満ちたこの街がすぐに気に入った。
オーフスには二つ現代美術館がある。僕が展示するのは、(オラファー作の屋上展望台が有名な)大きな美術館「アロス・オーフス美術館」ではなく、そこから歩いて5分の小さくてかわいい美術館「オーフス現代美術館」のほう。今回は海外での初個展の設営のために、一人異国に来た。大きな方の美術館は、現代的な巨大なホワイトキューブとコレクションを有するのに対して、こちらは平屋で焚き火もできる庭があって、展示室とカフェが緩やかに繋がっていて展示のためにくるというよりは公園に遊びに来るような感じ。照明も天窓から自然光を取り込んでいて、空間も人もリラックスしている。歴史も100年以上あるから、人々は愛着を感じているようだ。
今回は、度重なる展示期間の延長、コロナ禍の移動のストレスに加え、輸送費や保険などが厳しくてたくさんの作品を手持ちで運ぶことや、ロシアを迂回して飛ぶ飛行機と高騰するサーチャージ、さらに現地でのワークショップがなくなるなど、出発前には大きく気持ちが落ちていました。(逆に家族や友人たちから「北欧、いいなぁ〜。」と羨ましがられすぎて、ストレスを溜めていた。)ただ大変なストレスを抱えつつもこちらに来てみると、美術館やスタッフ全体からリラックスした空気にすぐに感染した。デンマークではマスクは誰もしていない、コロナ禍の日本に閉じ込められている2年以上の時間から少し未来の世界へタイムトラベルしたような感覚で、目が覚める思い。
展示空間は広くはないですが狭くもなく。何より自然光が美しい空間に励まされ、元気が出る。スタッフはさなまざな国出身の多国籍チーム。展示前なのにみんなリラックスしててそれにも励まされる。設営準備中でも人々は公園やカフェに来るようにこの小さな美術館に来る。僕の小さな作品たちには十分な小中規模の個展。内容は一昨年の都現美のTCAAのような作り方を実践。僕がこれまでやってきた、ある意味バナキュラーな旅、東アジアの境界線上という限定されたフィールドで思考しつくられた作品たちを別の地域の観客たちはどのように受け取るのか。今回はオーフス現代美術館の企画展は、韓国との交換プログラムがベースで、韓国のキュレーターのヘジュさんが誘ってくれた。ここまで僕の活動を深く理解してくれている彼女に感謝しかない。
なんて言えばいいのだろう。公共施設を回し予算を使うたために作られるモチベーションが強くない企画とかもそうだけど、作品を地球の反対側までお金や労力をかけて運んで展示して、1回1回作っては壊しを繰り返す展示とか、そういう自分が関わっている環境の後ろめたい部分?に疑問を感じる最近。数年前の現美のオラファー展を見た時にそれは考えさせられたけど、別にオラファー展にその解決はなされていなかったし。ユーモアを武器にモチベーションを取り戻そうと力みすぎるとパワハラになってしまうのではと急ブレーキ。誰のため?自分のため?これ誰がやりたいの?誰が見たいの?自己顕示欲?承認欲求?美術の歴史のため? その自分が置かれた場所に疑問を持ち、実践していきいたいと考えている道がここにも続いている。その疑問への答えを探す船のように、小さな直島に自ら閉じ込められ住みながら進めている小さな地域のアーカイブ/美術館を作るプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》は(2つの瀬戸芸を越えて)最新作として、さらにゆっくり強くなっていくはずだと信じている。さらに、はじまった「新美塾!」も未来。
色々大変な思いの末の異国での日常が始まった昨日。展示空間はまだ空っぽ。さらに、明日から連休らしく、みんな休む気まんまん。でも、ここまできたら、なるようにしかならないので、ベストを尽くすだけ。なるようになるし、なるようにしかならない。
小さな島(直島ではなく日本だろうな)から少し連れ出してくれた友人に感謝。
いや、まぁ、やはりこれは羨ましがられる機会というわけなのだろうかな。
自分のベストで。
2022.5.25
「入口のライターはなんですか?」
瀬戸芸が始まり5月のゴールデンウィーク、直島にはすごい人数の人が押し寄せている。
時間帯によっては、フェリーに乗れない人も出てきている。
コロナで海外からのお客さんがいないし、美術館などでも人数制限があるとはいえ、「ゴールデンウェーク」の「直島」は想像以上。なるべく家から出ないようにしていたが、外はお祭り騒ぎなので、なんだかソワソワしてしまう。
瀬戸内「 」資料館にも多くの人が訪れている。そんな中で、スタッフへの一番多い質問は「入口のライターはなんですか?」だという。それに対して製作者として、その”返し”を簡単に考えてみると。
『浜辺の汚いゴミを”標本”のように集めて並べるだけで、ステンドグラスとして美しく転化してみた』
ということだろうか。シンプルに。
瀬戸内「 」資料館との接続としては、コンセプトの根底にあるのは、
オブジェや絵画をうまく作るだけがアートではなく、ただただ「調べてまとめる」とか「集めて並べる」だけ。でもその面白さがビジュアル的に形になって伝わればと思っている。「調べて自分なりの発見を視覚化して人に発表する」その楽しさ。それは僕だけができる特殊能力ではなく、子供でもできるはずでそれが「しまけん」であり、カラミ調査であり。
ファサードの可能性 2
・ゴミのステンドグラス
瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、元パチンコ屋のリノベーション建築だ。
瀬戸内「 」資料館は、そこに寄生する形でプロジェクトは展開している。
建築として、パチンコ屋当時の面影を伝えるのは、入り口のガラスでできたファサード。
瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、直島観光マップに記載されている。
しかし、普段はオープンしていない。企画展が行われている時だけ開く。
そんな建築内で資料館で、日々仕事をしていると、レンタサイクルに乗った観光客が日々やってきて、開館していないことをぼやいたり、鍵のかかった入り口の扉をガタガタと動かして閉館を再確認している。
そのファサードに新しい作品を作ってみた。
漂着ライターのゴミのステンドグラス。光を通して美しい。
漂着物の標本のようなイメージ。資料館の新しい目玉。
海に流れ着く漂着物の100円ライターを浜辺で拾った。
でも、こういう漂着物は誰しもがオブジェにして”アート”にしやすいから”気をつけている”。
漂着物にはすでに偶然性や”味”や”物語”がある。それをパーツに立体物を作れば”アート?”になりやすい。僕も漂着物には魅力を感じるし、異国の南の島から流れ着いた椰子に思いを馳せる。でも、それで作品を作るなら、注意する。(見る人によっては微妙な差かもしれないが)漂着物を加工してくっつけて魚やロボットや何かしらの立体物にするようなことはしたくない、そのままに”並べる”だけで、よりシンプルでより深い作品にしてみたい。方法は、まず、漂着物ならなんでもいいからいろんな物を並べるのではなく、
・一つの漂着物だけを選ぶ
・並べ方や置く場所を選ぶ
・並べる順番は意味を与えない、偶然に任せる。
・なるべくシンプルに。なるべく複雑な意味を内包する。
それだけだけ。
ここには、瀬戸内「 」資料館のコンセプトである、”集めると並べる”のみの、標本的な見せ方、そして、パチンコ屋のイメージや大量消費社会に対する疑問などなど、いろんなコンセプトがあるのだけれど、ま、一言で言えば、”映え”を狙ってみたかった。
いやいや、”映え”というとSNSに振り回されているように聞こえるが、通常閉館しているこの施設は、いつも観光客が中には入れないが、そういう人が見たり参加できる要素を通りに向けて作りたかった、ということかもしれない。
・「このギャラリーはいつも開館していない」
この建築で、ファサードの可能性や重要性を考える上で外せない理由は、「このギャラリーはいつも開館していない」ということ。閉館しているからファサードの重要性が高まっている。これは建築家の理由ではなく、使う側としての理由だ。(僕は通常開館したいが。)
地元民たちは「宮浦ギャラリー六区はほとんど開いていない」という。宮浦ギャラリー六区が、いつも開館していない理由をよく聞かれるので、そのことにつういて書いてみたい。
宮浦ギャラリー六区は、元々、ギャラリーとして作られたので、作品あっての空間で、ただの空っぽの空間しかない。その中で企画展が開かれた時に開館するために作られているから、企画展が行われていないときは閉館している。当然といえば当然。だからと言って、美術館のように常に新しい企画をここで展示し続けられるか?といえば、ここを管理運営する福武財団は、”このギャラリーを企画展で回し続ける”ためのギャラリストや学芸員はいない。つまり、宮浦ギャラリー六区は、通常、ハードのみが存在している空き家状態で、たまーに展示でオープンしている状況にあった。ただし、直島観光マップには他の施設同様に掲載されているので、観光客は回ってくる、しかし、基本的に閉館状態。というわけだ。(建築家の作品として外観を鑑賞する、という見方もできるが。)
瀬戸内「 」資料館は、僕は、そこに寄生することになった。
しかし、この企画の構想段階では宮浦ギャラリー六区ではない場所が想定されていたが二転三転してここに流れ着いたし、資料館の企画は宮浦ギャラリー六区という建築家によるギャラリー建築と合わないと直感で感じていた。(その理由は以前に何度も書いたのでここで書かない。)
結局、僕は移住し、通常は空っぽだった宮浦ギャラリー六区に、テーブルと椅子、空っぽの本棚を置き、毎日ルーティーンワークを始めた。月曜日から金曜日、9:00-17:00は、館長が作業をしていて、ふらりと立ち寄る島民と話したり、島民と何かを一緒にやったり、自分の仕事をしたり、アーカイブや企画展を構想し制作し始め、すでに3年目である。
移住までした理由は、やはり子育ての環境が第一だったが。自分が島で資料館を作るのなら、その土地の日常を見ながら、ゆっくりと時間をかけて積み上げていくべきだと思ったからで。それは、これまで”置いて終わり”のプロジェクト作品をこれまで何度も見てきたし。プロジェクト型の作品はそのコンセプトの中に”継続性”と結びつきを持ち、従来の作品形態の”置いて終わり”や”完成”を嫌う部分もあるはずだが、結局多くのプロジェクト作品はその”継続性”を産まず、そういうコンセプトやデザインだけが残された、”置いて終わり”の作品ばかりであることへの疑問。そんな中で、僕自身、これまでの数年かけて旅をして写真シリーズを作ってきたが、さらにその先の新しい作品として、プロジェクト型の作品、本当の”資料館”であり”アーカイブ”を作るのであれば、間違いなく、”継続性”について考え、できる限り僕がそこにい続けることが作品にとって重要になると、なんとなく感じたし、それは移住の一つの理由であった。
話が大きくそれてしまったので軌道修正する。
では。
宮浦ギャラリー六区が、瀬戸内「 」資料館として、いつも開館している施設になることができるか?
について書きたい。
なぜなら、僕としては、瀬戸内「 」資料館を近い将来、本当の直島の資料館にしたいと考えている。(作品として資料館的な体裁ではなく、作品であり普通の資料館として。)僕としては、瀬戸内「 」資料館は図書館でありミュージアムなので、公共の施設として島民にも活用してほしい。企画展の時だけではなく、銭湯のように通常営業したい。つまり「鑑賞者が入館料を払って見れる」と「島民が無料で利用する」の両方、つまり言い換えると「現代美術の作品として見れる」と「普通の図書館として利用できる」の両方を持つものにしたい。さらには、当たり前のことだけど、継続していくためには、最低限赤字を出さない、ということが普通に大切だと考えている。(素晴らしい理念のもと、過去の遺物を収集した民俗資料館が運営できず休館や埃をかぶっている光景をよくみるし、そうじゃない民俗資料館の在り方を提示したいし実験したい。)
この施設を客に開くには、作品を管理する受付や監視をする人や光熱費が必要となる。(あり得ないほどどんぶり勘定で)簡単な計算をしてみると、1日人を一人雇い、他の費用も考え、例えば、10000円/1日コストがかかるとする。そうすると赤字を出さないためには、入場料500円だとすると、毎日20人の入館者が必要となる。監視の人が2人必要なら毎日の入館者はもっと必要になる。こういう簡単な計算なしで、スタートして継続できなかった資料館は全国にどのくらいあるのだろうか、僕の作る資料館がそうならないためには、こういうこともある程度考えておきたい。
宮浦ギャラリー六区の空間はとても小さい。空間内をゆっくり歩き回っても数分。入り口から全てを見回すことができる。さらに、僕には島内の他の作家のようなネイムバリューもない。そこに500円払って入館するか?
現在は、年間1-2本の企画を資料館内で行い、その1ヶ月や2ヶ月のみ集中的に開館している。さらに今回のような3年に1回の芸術祭の期間もあいている。
では、さらに、通常営業をするためにできることは?
今、すでに挑戦しているのは。
・受付と監視を1人でできる動線。
・空間を小さく感じさせない。(密度を増し、さらに裏のへんこつにつなげて展開を作る)
今後やっていきたいこと。
・Webサイトを作り、蔵書の検索やイベントなどを見られるようにしていく。
・さらに、空間内の密度や展開を増やす
さらに先の可能性。
・週1や週2で開館していく
・アーカイブを継続的に続ける
・島民によっての資料館になるために地域と連携していく
どちらにしても、ファサードは資料館の顔。
今まではギャラリーとして、いろいろな可能性を持った無機質な雰囲気だったが、
もうそろそろ、瀬戸内「 」資料館としての個性をむき出しにして、宮浦ギャラリー六区に閉じ込められた中身ではなく、殻を破る挑戦の時期がきたのだろう。
とにかく、元パチンコ屋の宮浦ギャラリー六区が残している当時の建物の部分はファサードだけであり、さらに、瀬戸内「 」資料館は内部(入口ホワイトキューブ以外)は撮影禁止にしているので、このファサードをどう使うかは、作家に投げられた一つのミッションであり遊べる場である。
旅する部屋
娘は自宅待機。
でも、子供は外に出たがる。
コロナとか自宅待機とか言っても3歳児は理解できないし。
歩いて数分の誰もいない浜辺に一緒に行くくらいは良いと思う。でも、外に出るとそこは小さな島で気を遣う。
結局娘は症状もなく、幼稚園も来週から通常に開くみたいだし。(僕はPCR陰性。)
家族三人でずーっと家にいるのも悪くないが、ドライブに出たくなる。
そこで、「よし!秘密基地作ろう!」と娘を駐車場の軽バンに連れていく。
後ろの荷台部分を掃除して、マットをひいたり机を作ったり、Ipadやスピーカーを置いたり、お気に入りのぬいぐるみも連れて行くと、子供部屋みたいに。
家族三人でフェリーに乗ってドライブへ。
娘は基本車を降りない方向で。
時々、妻が買い物をしている間に、駐車場に停めたその子供部屋で遊ぶ。
また、場所を移動して、また遊ぶ。
窓の外の風景が変わるだけで自宅とは全然違うし、
小さな島から出て、ご飯もテイクアウトで車内で食べるだけでも気分は変わる。
旅する子供部屋を得たような1日だった。
芸術祭の未来?
先週、瀬戸芸が始まった。
なのに平日昼間から家にいる。傍には娘、そして妻。
つまり自宅待機をしているのだ。
京都で開催予定だったイベントも中止に。
週末にはやはり多くの観光客が島にやってきた。
翌日の月曜日は美術館が休みで少し静かになったが、
火曜水曜も平日だが通りには観光客の姿があった。
で、
昨日、島内で17名の陽性が発表された。
一昨日、娘の園で別の学年に7名陽性(クラスター?)の連絡。
娘は陽性者の誰かと給食の席が一緒だったらしく濃厚接触の疑いとの連絡。
しかしPCRは受けられないので何もわからないまま、休園、全園児が自宅待機。
観光業や芸術祭自体に関わる人も多いので、この久しぶりの書き入れ時、
子供が預けられず、バタバタとしている人も少なくない。
ま、うちは、娘はいつものまま元気だから心配ご無用。
しかし、役場で働く妻も僕も大事を取り、自主的に自宅待機をしている。
ただ、調べると、別に濃厚接触の家族には特に制限はないが。
国や県はPCRを受けられるハードルを上げているので、
全国で実際には目に見えない感染者はもっといるだろう。
これは陽性者を増やさない策なのだろうか。
それとも、もうすでにコロナはインフル程度と考え、
深く調べる必要性はない方向にカジきりしていくのか。
僕自身としては、もう日々感染者数を追わなくなったし、
いつかかかってもおかしくないと思っている。
疑いがある誰もがPCRを受ける必要もない気がするが、
濃厚接触とわかっても受けられないのは困る人もいる。
だから普通に、受けたい人はいつでも簡単に安く受けられる環境になってほしい。
選択できるのが重要ではないかと思う。
もし僕が、この小さな”島の新聞記者/ジャーナリスト”なら、
この状況を今、こう書くだろう。
「芸術祭開始早々、島で感染者増大か!?」と。
沖縄だって、観光客が増えると途端に感染者が増大するわけで、
観光客のせいにする必要はないが、可能性はあると考えられる。
”実行委会長を務める香川県の浜田恵造知事は4日の記者会見で、前回の実績や感染状況などを踏まえた試算を基に、「県外からの来場者の発症見込みは多くて1日当たり2人程度だ」と述べた。「風通しの良い屋外で作品を鑑賞する上、屋内でも大声を出すことは想定されていない。来場者のクラスター(感染者集団)の発生は考えにくい」と説明した。”
(「毎日新聞」4月13日)
直島だけでなく、高齢者の多い小さな島で何も起こらなければ良いが、やはり心配だ。
島内のバスなどは観光客で一杯だし、それを島民も使うし、
島民の運営する飲食店には時間帯には行列ができているし、
観光業を営む島民も多いので接触は避けられない。
小さな島々を観光客が巡る芸術祭。
コロナの中で何が浮き彫りになるのだろうか。
関わっているアーティストとして、運営している人々の頑張りに泥を塗る気は全くない。
美術館以外に”芸術祭”があるから国内のアーティストたちに発表の場が増えているのも事実。
さらに、コマーシャルギャラリーやマーケットに乗れない作家たちにとってもそう。
しかし、”芸術祭”というフレームに疑問を持ち、変化していく真っ只中に自分達は立たされている。
僕は、コロナ禍において、転ばぬ先の杖で、全てのイベントを中止にしていくタイミングは終わったと思っているし、瀬戸芸をおこなっているのは賛成。ただ、何かが起こった時にどのように対処していくか、によって未来は大きく変化していく局面だろう。
瀬戸芸初日
(執筆中)
瀬戸内国際芸術祭の1日。
4月14日は、学生の春休みも終了した平日だし、雨で寒いし、コロナも治まっていないし、観光客の姿はまばらだった。
資料館のプロジェクトにとっては、久しぶりに外からのお客さんに見てもらえる機会が素直に嬉しい。だからと言って「展覧会オープン」の特別な日かというと、何か変な感覚。なぜなら今日も、展示空間の裏では「窯工部」の人々がワイワイ集まっているし、夕方からは小学生向けの塾「しまけん」も動いていて、これまで2年(プロジェクト的には3年)の毎日毎日積み上げてきた日常の延長でしかないのかもしれない。
資料館は芸術祭や展示のために作るオブジェ的な作品形態ではない。「準備期間→完成→オープン」や「準備期間→完成しなかった→オープン(作業を見せながら)」とは全く違い、準備期間と完成が分けられないのにオープンしている。前回の2019年瀬戸芸では空っぽだった空間内の棚にもだいぶ埋まって重みが出てきた。しかし、作品の完成(完全な完成はないが)はまだ遠い。そういう状況でのオープンだ。
・資料館の変化
この1年くらいで資料館のプロジェクトは大きく動いた。もちろん地元を調査して展示を作りアーカイブを作ることは進行中だが、そのほかが大きく動き始めている。
一つ目は、展示や収蔵庫/アーカイブの機能を「宮浦ギャラリー六区」に集約させ、それとは別に裏の廃墟だった元焼肉屋「へんこつ」に島民との活動や財団スタッフの課外活動を展開すること。空間の拡張。
2021年3月に始まり1年経った「直島窯工部」は、島民やスタッフや移住組などが徐々に集まり、コロナ禍で家に篭もりがちの人々が作陶をしながら交流(日常の愚痴や他愛もない会話)を楽しむ、重要な場所になってきている。僕も含め移住組の同年代の部員にとっては、日常の多くが子育てや家族のために時間をさく中で、大学の部活動のような「窯工部」はそれぞれ自分自身のための時間を取り戻す場になるのかもしれない。それはさらに横へとつながりながらコロナ禍での小さな島で大きな意味を持っているのではないかと思っている。そして、「宮浦ギャラリー六区」では手狭になった「窯工部」を元焼肉屋「へんこつ」へ移動させるべく、大掃除とDIYが行われた。「宮浦ギャラリー六区」とお隣の元焼肉屋「へんこつ」の廃墟は徐々に接続していく。「へんこつ」自体は財団が管理する建物で、財団としてはゆるゆると使いたい思惑もあり、スタッフの課外活動「なおラボ」や「寺子屋」も動きつつあるが、雨漏りがひどく、焼肉屋の匂いもきつかったので、大きく活用はされない状況。「窯工部」や「なおラボ」や「寺子屋」など財団や島民の課外活動やさらには資料館のアーカイブに関わるような”野良”研究所的な部室的な場所を「へんこつ」を中心に動かしていく方向性が徐々に見えてきて、「へんこつ」の本格的な修理が始まることに。つまり、
瀬戸内「 」資料館=「六区」+「へんこつ」
・「六区」=展示/アーカイブ/収蔵庫/プロフェッショナル →外のお客さんが直島を知る(有料)/島民の図書館(無料)
・「へんこつ」=課外活動/”野良”研究/島民交流/勉強会/塾/憩いのば/食事会/レジデンス →島内のさなまな人々が集まり会話し学ぶ場所。ここでできた”野良”研究がアーカイブにさらに接続する
となる。
実は、密かに困っていたのが、これまで、「宮浦ギャラリー六区」で自分の作品/プロジェクトを行なっていて、外にPRする際に常に「宮浦ギャラリー六区」という(サイトスペシフィックな)建築家の作品に包まれてしまい見えにくくなってしまっていた。どうしても、それを消すことはできないジレンマがあった。島内のマップや瀬戸芸の作品紹介もまずは建築家の名前があり、その下に僕のプロジェクト名がくる。(美術館で展示した場合に、まず建築家の名前は来ないが、ここは特殊でそれを外すことができないのだ。)
ただ、「宮浦ギャラリー六区」を消す方向ではなくて、どんどん増幅して「へんこつ」も合体して、DIYで使いやすいように増幅して、ブリコラージュ的に、生命体のように変化していくイメージが徐々にできてきた。ある意味”スマートさやわかりやすさを放棄して、必要に応じて変化し増幅し、実験もどんどん行なって、カオスとなって進んでいく場”で良いのではないかと思うようになってきた。それは、初めの2年間、ずっと「宮浦ギャラリー六区」という建築家の作品に閉じ込められていたことへの反発かもしれない。”戦うより、もうどうでもいいや、やっちゃえ、カオスになっちゃえ”と。その場合、誰の建物かわからなくなると同時に、僕の作品であることも曖昧になっていくだろう、それを受け入れるということになる。
そういう意味では、資料館は僕の作品だけど、映画みたいにキャプションで、僕は「総指揮」みたいな感じで良いのかもと思えてきて、ではそこに「アドバイザー」「メインスタッフ」「空間設計」「デザイン」「スペシャルサンクス」なども書かれるようになっても良いかもだし。僕のものではなく、みんなのものとして手放しても良いのではないかと思うようになってきている。(その場合、さらに、この資料館を財団の物から島民のものへと”セミパブリック”?”半公共”にしていく必要も出てくるだろう。)
・資料館の作品性
僕にとってこのプロジェクトは、この2年を家族も巻き込み移住してやっているし、僕の中では、やはり、この20年、メインで長期で制作してきた写真シリーズ作品の流れの最新作であるという認識である。つまり、
「戦争のかたち(2001-2005)」→「torii(2006-2012)」→「津波石(2014-)」→「瀬戸内「 」資料館(2019-)」
さらにいうと、これまでの制作プロセスは、一人で旅を繰り返し制作してきたシリーズ作品に対しては、定住型。
「戦争のかたち(日本国内)」→「torii(日本国境外)」→「津波石(日本国境周辺)」
国内調査が国外へそして、沖縄という境界線上へ向いていき、ついに、生まれ故郷の近所の島に移住し、コロナ禍において移動を制限され、→「瀬戸内「 」資料館(故郷定住)」と流れきた。
制作スタイルも、
「戦争のかたち(旅/フィルム写真)」→「torii(旅/フィルム写真)」→「津波石(旅/動画)」→「瀬戸内「 」資料館(定住/アーカイブ・場作り)」
という感じで変化してきている。ただ、この流れの中に「Re-Fort Project(2004-)」が入るともう少しわかりやすい。このプロジェクト作品で2004年からやってきた”いろいろな人との協働としての作品”が、2019年のヴェネチアの「宇宙の卵」展でさらに加速して、そっちの流れと、写真シリーズ作品系の流れが瀬戸内で合流する形で、「瀬戸内「 」資料館」は動いている。個人の作品ではなく、個人の作品とは呼べない存在と向き合ってきたことや、いろんな人々と一緒に作って思いもよらない形になることを受け入れることを楽しめる土壌がここでさらに別の形態になってきているのかもしれない。
そして、もう一つ書いておかねばなのは、「戦争のかたち」「torii」はある意味で自分で始めて一人で完成させた作品に近いが、例えば「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレ2016のキュレーションがないと始まらなかったしその後の韓国や香港などのキュレーターや通訳など多くの協力者/並走者がないとできなかったし、今回の「瀬戸内「 」資料館」でも、福武財団による継続的なサポートや三木あき子さんによる並走、さらに建築の能作文徳さんやデザインの橋詰宗さんの力など、さまざまな能力の結集であることはさらに新しい。
作家の作品性を否定する動きが”地域アート”の中でもてはやされ始めているが、作家の作品性自体が変化し続けていることに僕は興味を持っているし、”なんでもあり”ではなく、(現代美術において中心ではなく周縁にいる)自分としても「作品」(英語では”Art work”であるが)として、批評性や評価軸の上で仕事を成立させることを放棄する気持ちはない。
・シリーズ作品の完成のタイミング
「瀬戸内「 」資料館」の完成とは?と考える。
「戦争のかたち(2001-2005)」「torii(2006-2012)」「津波石(2014-)」などの作品の制作プロセスとして、まず、①何かに出会い、疑問や興味を持つと、その対象を調査し撮影し収集を始める。(ここで途中で興味を失う対象も多々) 次に、②旅や収集を重ねて、さらに調査を進めていくと、ぼんやりしていた興味が自分の中でシンプルになっていく、その時、撮影/調査対象がはっきりして(写真で言うと風景の中に主人公が決まる)、シリーズ作品として流れとコンセプトができてくる。 ③さらに旅や収集を重ねて、ある量感やバリエーションやバランスが整っていく(主人公の決め方、シンプルに仕方、バランスと量感、あたりが僕らしさかも)。で、④ある時、それらすべてのバランスがある一定を超えた時、「あ、発表できるな」となる。その時、アウトプットの形が自ずと見える。ただし、⑤その後も、作品のバランスは流動的で、継続的に撮影/調査対象と向き合い続けるので、基本的に終わりはない。
と、簡単に書くとこんな感じ。
では、「瀬戸内「 」資料館」の今の状況は?完成のタイミングは?と言うと。
②から③へと移行し始めたあたりかと思う。
ただやはり「瀬戸内「 」資料館」にも完成はないかもしれない。なぜなら「瀬戸内「 」資料館」はアーカイブであるので継続的な収集が必要であり、プロジェクトを生き物だと考えると新陳代謝(展示や館長やスタッフの交代)しながらの継続が必要だと考える。そう言う意味で、まずは10年(あと6年程度)の継続は必要ではないかと思う。(その数字の根拠は僕のネタがそのくらいあるのと、僕が興味を持続し継続的にしっかり関われるだろう年月。)
さて。
朝5時からこの日記を書いているが、ただの覚書である。それともう一つ、瀬戸芸が動き始めた今日、何か、「瀬戸内「 」資料館」が自分のシリーズ作品の延長として、自分の作品になるという一つの手応えを密かに感じたからかもしれない。
写真ワークショップ 2
島での写真ワークショップが終了した。
僕が写真を教えるとか先生生徒ではなく、僕自身も宝箱を開けるような楽しい体験だった。
島の6歳から10歳までが参加し、内容はフィルムカメラで1日3枚づつ日常や家族を写真に撮り、現像した後みんなでそれをノートに貼って写真集を作る、というもの。なんかこう内容の企画は、今まで考えなかったしやろうと思ったこともなかった。作家としては、誰でもやりそうな事や、すでに誰かがやって有名になっているようなことは基本的はやりたくないし、そういう意識で活動を続けてきた。だから、今まで距離を取ってきた内容かもしれない。「写真を撮って写真展とか写真集とかを作ろう!」みたいな。
ただ、意識的に考えたのは対象年齢。カメラを意識的にギリギリ取れる6歳からさらに大人になりすぎない10歳という年齢だけ、新しい実験ができたかもしれない。この選択は間違っていなかった。なぜなら、「写真家に写真が教えてもらえる」という期待が彼らにはない。「上手に撮ろう」という気持ちすらあまりない。体が反応して写してみた、それに近い。さらに、フィルムカメラなので、何が写っているか確認もできないので、より、いい写真を撮ろうなどと考えない状態だっただろう。まず、一人1個のインスタントカメラを渡して1週間撮って、みんなで集合したとき、実はストロボをうまく使えていなくて、ほとんどの子が夜部屋で撮った写真が写っていない事態が発生した。ただ、それも、撮ったけど写っていなかったという新しい体験になっていたように感じた。でもそれだと残念なので、もう一個みんなに配って、もう1週間延長した。
彼らは日常から、彼らの眼差しを拾い集めてきた。それをみているだけで、子供の目で旅をしているような新鮮で楽しい体験になった。こういう、一方的に何かを体験させるのではなく、こちらには新しい経験が生まれるのはWSとして成功だと思う。
たまに文章を書いてみたり。いい感じ。
あと、写真を撮ってみるだけではなくて、貼り方を考えて、ノートに貼って、写真集にしたのも、結構成功したので。WSを開催した会場で写真集の展覧会をささやかに開くことにした。結構いい展示になっていると思う。
写真WS 記録2
photo by なおしまキッズポート
写真WS 記録1
photo by なおしまキッズポート
直島クロスワードパズル
直島で密かに行っている私塾「しまけん」。
小学3〜5年生と一緒に調査や表現の楽しさを何かの形にするプロジェクト。
毎週彼らと向かい、彼らが得意な部分やそうではない部分を見つめつつ。みんなで何かの形を作る方法を模索した結果、なぜか、偶然直島を調べて作った「直島クロスワードパズル」が生まれた。それを「広報直島」に売り込み、コーナー化がついに実現!「広報直島」は島全域に配られる島内の最強メディア。「直島クロスワードパズル」は問題がゆるいのと、島民しか答えられない回答が多いのが特徴。昨夜、家のテーブルにそれを置いておいたら、妻が早速やっていたようなので、クロスワードは誰でも参加しやすいし、制作面ではリサーチからのアウトプットとしても有効かも。
僕も子供達もクロスワードに興味もなかったし作ったこともなかったが、今では立派なクロスワード職人になってきてきてる。クロスワードを作りきっかけは、みんなでつくる媒体としての試行錯誤が、「直島ウソ新聞」→「答えのないテスト」→「問題が難解で答えが超簡単なテスト」という流れの先に生まれた。詳しく書くと、まず彼らに日々の発見をノートに書かせていて、それから直島の日常をフィクションにした「直島ウソ日記」を書かせて、その流れで「直島ウソ新聞」を作ろうとしたが失敗。その後、「テスト」というフレームが子供達の共通の興味/言語だなぁと思い、面白いテストを作って誰かにやってもらおう!と「答えがないテスト」や「問題が難解で答えが超簡単なテスト」などを作ってみてすごく盛り上がったが、結局誰もやってもらえないことが判明、作るのは難しいし楽しいがやってくれる人がいないので失敗。そこから、「直島島民しかわからないクイズ」を考えるようになって、テストではなくてクロスワードパズルが良いのでは?となった。経緯。
クロスワードパズルは作ってみると、まず、答えから考えるわけで、直島につながる文字を考えて、完全に6×6のコマを埋めるのがすごく難しく時間もかかる。でもそれが全てが埋まった瞬間には歓声が上がるほど嬉しい。そこから、クイズを作っていく。そんなプロセスも面白い。さらに、先日、クイズに出てきた場所に実際に探検しに行ったり、島への関心は上がっていくきっかけになっている。
他のプロジェクト「14歳と世界と境」は中学生と地元新聞をジャックするプロジェクトだったが、今回は小学生と島内紙をジャックする。連載に向けて子供達と編集会議。これは僕の作品とかではなく子供達のアウトプット、だから僕の名前はない。でも、それを見て「ミッチーの名前がない!?なんで?」と気遣ってくれました。「ミッチーは縁の下の力持ちという役目なので」と。
新しいメディアを作るのではなくて、すでにある場所に余白を見つけて寄生するっていうのは、新しく作るよりも交渉とか関係を作るのも大変だけど、それも含めて自分らしいやり方のひとつだし、それが小さな形になったなぁと思います。広報直島の担当者の方々の協力に感謝です。そして、島の方が、島の子供の作るこのコーナーを楽しんでもらえると嬉しいなぁと願うばかり。来月の仕込みしないと。
瀬戸内「」資料館のことをいつも考えている。それは作りかけのシリーズ作品のことをずっと頭のどこかで考えながらすごいしているのに近いなぁと最近思う。僕の作るスタイルがシリーズ作品ばかりなのは、大きな何かをドンとおいて終わりのような作品ではなく、じわじわじわじわ要素が増えながら形が徐々に出来上がっていく感覚。写真シリーズの場合、旅先や日常で1枚の写真が撮れて始まり、その旅が次の旅につながりながら、展開し、枚数が増えて、徐々にコンセプトも自分の中で言語化できていく。瀬戸内「」資料館はまだ言語化できていない部分もあるので、まだ完成は先かもしれないが、その時は突然やってくるだろう。
「直島クロスワードパズル」は額に入れて展示するわけでもないので、瀬戸内「」資料館、全体への影響は資料館の本棚に並べられると厚みが2ミリくらい増えるくらいにしか変化しない。収集した本屋購入した本を一冊ずつ選んで並べていっても、ほとんど変化はない。作品を作って置くという行為には程遠い、気が遠くなるような蓄積がこの資料館の力になると考えているので、このシリーズの完成形が見えるにはまだあと3-5年くらいは最低必要なのかもしれない。
ファサードの可能性
『シナモン500円弁当アーカイブ展』
コロナ以降、直島で安くてホカホカのお弁当を始めたカフェ”シナモン”。
500円(税込+ドリンク)で毎日毎日やるのはなかなか体力がいるはずだ。
今では、人気メニューの日は行列&即完売がなじみの風景に。
お腹が減ってはアートもできぬ!
資料館ではシナモンに毎日書かれる段ボールの弁当の看板を収集中。
コロナかでの”島の日常の記録物”として。
↑
第2回 2022年1月末
第1回 2021年1月末
↓
自由な筆さばき
shit painting by my cat
写真ワークショップ
写真のワークショップをした。のは初めてだ。
参加者は5歳から10歳。となかなか若め。
今日はその一日目。
僕自身、写真家で(も)ありながら写真を写すことに自信がない(特に人物は無理)。写真を教えられる/教えたいと全然思っていない。そんなこともあって、写真家だから写真ワークショップをこれまでに何度か求められることもあったがしてこなかった。ただ、そういう中で、写真”的体験”をカメラなしで行うワークショップとして『見えない風景』というのをこれまで2010年から継続的にやってきていて、僕のカメラ感覚の共有体験としてのワークショップはこれ以上はないっと思っているのもやらない理由だったりしたが。ただ、今回は幼い子供が対象ということもあり、『見えない風景』ではなく、”普通の”写真ワークショップに踏み切って見たのは時間の流れがあったのかも。それは、彼らがスマホやデジタルカメラにネイティブだから。つまり、僕が手にしている(た)カメラと彼らが感じているカメラは似て非なるものになった。彼らと僕の持つカメラ感覚や意味の違いの部分をうまく抽出できたら、それは僕のワークショップ(写真を教えるのではないワークショップ)になるのではないか。ま、そういう期待。彼らと一緒に、フィルムカメラ(27枚どりインスタントカメラ)を使うことで、日常が”自分だけのものであること”や”有限であること”を強く感じる体験になるのではないか、さらに写真というメディアが映えるイメージを作るものではなく、過去と未来をつなぐ存在であることをより感じられるのではないかと期待して、(インスタントカメラを使った普通に日常を撮るワークショップという誰でも考えるしできることを)やってみることにした。写してもすぐに画像が見れない時間差、そして、他愛もないある日常のスナップを写真集にして保管し未来に開封される(だろう)タイムカプセル感(これに子供達は気がつかないだろうが、いつか。)。 テーマはシンプルに「自分だけの風景をとる」「近い人を毎日撮影する」「フィルムカメラで1日4枚1週間」だ。わかりやすいのが一番。これも新しい挑戦。
アイデアのベースには、『ようこそ先輩』の荒木経惟「イイ顔を撮ろう」(2002年1月27日)の記憶があった。その影響が今更結実した感がある。2002年といえば、ようやくデジカメが普及し始めた頃、200万画素の時代(現在は2000-3000万画素)。荒木の授業は母を撮るような内容で、「メメントモリ」が根底にあったように思う。人物写真などを決して撮らない僕としても、今更だからこそ、ようやく子供とフィルムカメラで何か特別な時間を作れる気がしたのかも。
開催場所はキッズポートという児童館的な子供のための島の新しい場。参加者が幼いこともあるし、工作が得意な子が集まるので、まずは内容を説明した後、インスタントカメラに愛着をもつために、ポスカで色を塗ったり絵を描いたりしてみることに。すると、見に来ていたお母さんがたから「この感覚懐かしい!」と声が上がる。確かに、高校生とかの頃、プリクラとともにインスタントカメラを自分で色付けして持ち歩く友達いたかも(さらにプリントした写真は無印のクリアアルバムに入れたっけ。)。意図せず、この世代を超えた妙な一体感を得ること。。
さて、意気揚々とカメラを手にそれぞれの日常へ帰って行った子供たち。何を捕まえてくるのでしょうか。
みるのが楽しみ。
ひとつ小言を書いておくと、参加者が顔の知っている移住組ばかりだったことは少し気になったかな。
基本的に、島の移住組は教育や文化的な意識の高い人たちではあるが、チラシは小学校全校生徒にばら撒かれたはずだから、何人かはじめての子がいても良いのに。。
なぜでしょうか? 島では文化イベントに無料で慣れてしまっているから? カメラや現像などの費用もあるので2000円(実際は3500円くらいかかるから安いのだが)がハードルになった? もし無料に慣れているのであれば、それも結構問題じゃない? 1日数時間のワークショップではなく、毎日写真を撮り計2回もあるのが面倒?
しかし、都市の美術館でワークショップをしても常連さんばかりだったりするし、原因はそれだけでもないだろう。
でも、僕の作るワークショップは時間もかかるし、絵や工作が上手いとか興味があるとかそういう人ではない人にも響く内容を考えているので、なんというか残念ではある。やはり『14歳と世界と境』(は『ようこそ先輩』を一つのモデルにしているが)のように、学校のクラスにお邪魔して生徒全員とかにやらないと、本当の意味がないと思ったりする。が、これは根が深い難しい問題だ。
小言が多いっすね。おやすなさい〜。
ことよろ
明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。