ニューヨークの個展の話

山下道ラジオ 第162回 NY編

ニューヨークに2週間滞在した。その間に現地から毎週月曜のルーティーンワークの『山下道ラジオ』を録音した。友人によると一つの《神回》になったという意見も。

で、帰国した後、直島で「ニューヨーク見聞録」というトークイベントを開いた。海外に少し滞在して、その話を人を集めて話すなんて古臭いイベントをやることになった理由は、コロナ禍でさらに原油高で遠い海外旅行が行けない状況やアートに興味を持つ島民が多いことなど。あえて「見聞録」と古臭いタイトルをつけた。以下の日記はその「ニューヨーク見聞録」のために書いた原稿だ。

僕の置かれている状況を包み隠さずに話すために、
さまざまな 「アーティストの分類」ができるがあえてこう2つに分類して話を進めたい。

「プロジェクト型」と「コマーシャル型」。

「プロジェクト型」=フィールドワークをしたり、地域とコミットしながら、プロセスを重要視しながら作品を作るタイプ。
「コマーシャル型」=絵画や彫刻などスタジオやアトリエで制作され、場所などと強くコミットしないタイプの作品。

この二つは実は国内では
「プロジェクト型」=芸術祭に呼ばれやすい。美術館の企画展にも呼ばれやすい。=販売しにくい
「コマーシャル型」=ギャラリーと契約して展示をすることが多い。=販売しやすい

もちろん、プロジェクト型で売れる作品を作る人はたくさんいるし、コマーシャル型でリサーチベースの作家もいるが、あえてこう2つに分けて書いている。(業界の人からはいろいろ言われそうだけど、業界を知らない人にもわかりやすくするために、あえて書きます)

僕は「プロジェクト型」に属するだろうと。
プロジェクト型は展示や世界の芸術祭には呼ばれやすいが基本販売に向かない。つまり、美術館や芸術祭で活躍している作家が売れているとは限らない、ということだ。そしてその逆、美術館や芸術祭で活躍していないが売れている作家はたくさんいる。(もう少し踏み込むと、芸術祭などの土地や場所やテーマに合わせて新作を求められて作品を作った場合、その作品を他の場所で発表したり販売するのは難しい作品になる傾向があることも「プロジェクト型」が売れにくい原因の一つだろう。それなのに、企画展や芸術祭の謝礼というのは作品の販売価格から見て低すぎる現状である。)
僕の場合、「プロジェクト型」ではあるが、ある地域を長期に渡り調査するがアウトプットはその土地とくっついていないので、いくつかの作品は美術館に収蔵されたりしているが、残念ながらコレクターからはほぼ興味を持たないし、コマーシャルギャラリーからのお誘いをいただいたこともない。僕自信がコマーシャルやビジネスの才能もないし外からの期待もないのだろうと諦めつつ、だから、数少ない強く応援してくれる人々によって、こうして自分で(家族と)サバイブしながら、自分の作りたい作品が継続的に作れるだけでも本当にとても恵まれたことなのだとは常に感じている。

僕自身、最初から目標やそういう作家像があったわけではない。作品を売って生きていくというよりは、まずは自分がやりたいことに向かって進み、他の仕事をしながら自費で調査を始めて制作しながら、それを本にまとめて販売したり、助成金や美術館や芸術祭から制作費や謝礼をもらいながら、作りたい作品を作っていたら今の流れになっていった。それは、振り返ると、研究者などの生き方に近いのかもしれないなぁと思う。ビシネスではなくて研究費を得て、本を書いて、死なない程度に生きながら研究に専念するような。(続けているアーティストがみんな売れているのではなく、こういう生き方もあるし、アーティストの生き方も生き方も様々だということ。)
自分で作った物をバンバン売って商売をしている感覚はない。ただ、画家の友達のように、コマーシャル型の作家が自分の物を売りながら生きている状況に憧れもあるが、その辛さも知っているし、諦めのようなものもあった。なぜなら、売れる物を作ることに頭を悩ませる暇があるなら、面白い調査発表をして成果を出すことの方が優先したい。売れるものを作るのもかなりの才能と努力がいる。両立などは考えもしなかった。でも、僕は現時点で国内ではとても恵まれていると思っているし、家族と生きられているし、最低限では生きられている。

さらに踏み込まなくてもいいところを踏み込んで話すと、
40歳を超えて、作家にも家族ができる。するとやはり安定が必要にもなるし、美大の先生の職に就くことが多く、これも研究者と立場は似ている。しかし、かつての美大の教授のように研究だけをやってられないのが今の大学(特に私大)であり、安定とやりがいと引き換えに作家としての活動ができなくなる人も多いのはよく見る。僕は学部卒であるので教員になれるかは疑問だし、美大の先生で美術作家を生み出す仕事に自分には向いていないのではないかと思っている。逆に島で子供に小さな塾を作り、東京で中学生の塾を始めた。これはそれに対する自分なりの抵抗の一つかもしれない。

で、この前提で、こんな僕にニューヨークの個展の話がきたのだ(話にようやくNYに接続する)。

ちなみに、僕にこのギャラリーの企画を持ってきてくれたのはまだ若いエイミだった。彼女はNY在住の博士課程の学生であり研究者でありキュレーター。優秀だし多忙だ。アメリカと日本の関係や植民地主義など、そして日本の独自の芸術祭に興味を持った研究者であり、若きキュレーターである。彼女の修士論文は”日本の地域アート”についてで、2016年には小エビ隊として働いた経験もある。実は、2年ほど前、彼女は僕に最初は別の企画を持ってきた。その展示企画は、今年の夏に実際にNYで開催される小規模区の展示で。NYの小さなNPOのギャラリーで植民地主義をテーマにした日本の若い作家を集めた小さなグループ展に参加してほしいというものだった。その流れの中で、彼女から「せっかくなら「torii」の作品を別のギャラリーでも展示しませんか?」というもう一つのオファーをもらったのが今回の個展の話だった。つまり、グループ展と個展の二つの依頼。僕としては、NPOのギャラリーでの彼女の個人的なキュレーションの展示が2つあるのだと少し勘違いしていた。ギャラリーの図面を見ても2つの展示空間もとても小さいし、エイミも熱意があるし面白そうだからオファーは受けるが、実験的な企画で、正直、ニューヨークの展示ではあるけど、この展示に参加することで何か大きなチャンスを得る可能性は低いと思ったし、正直、彼女の企画に”作品を貸し出す”という気持ちだった。

ただ、ニューヨークの個展の準備を出発半年前、2022年の秋くらいからバタバタと始める中で、「あれ?この個展は少しイメージが違うぞ? コマーシャルギャラリーだし、個展だし、新しい展開かもしれないぞ…」と気が付いた。なぜなら、エイミではないギャラリースタッフからやたらと契約書や保険や書類が多いしきっちりしている。そんな時、向こうから「今の時期、シッピングが非常に高価なので、下道はNYには来ず、ZOOMで遠隔で展示を作ってほしい」と連絡が来たので、とりあえずいろいろな提案をして実際にNYに行けるように交渉した。実際にNYに設営やオープニングに立ち会えるようになり、さらに1週間滞在を延長して友人の家に泊めてもらいながらNYを吸収するタイミングにできる準備をした。その中で、もう一度このギャラリーについて、調べようとネットで検索したが、できたばかりのギャラリーでよくわからないので、NYに住む日本のアーティストや関係者に質問していくと、僕が想像していた方向性とは違っていたことが分かってきた。

ギャラリーのオーナーは日本の写真を専門してNYで活動してきたディーラー。これまでは日本の写真のコマーシャルギャラリーのニューヨーク支部の販売を手伝っていたが、その日本のギャラリーが撤退した後、1年半前に自らギャラリーを始めた。ただ日本の写真が本当に好きでとても詳しいし、販売の実績も十分あるようだ。日本人の写真家を中心に紹介していく予定で、若手では僕が初めてのようだ。ただし、本人はギャラリーなどはするつもりはなかったようで、自分は販売専門で、展示の企画は若いキュレーターに任せる方針をとっているのが非常に変わっている形態だ。

実際に今回NYに行ってみると(前回は2008年、NPOのギャラリーでのグループ展のために数日の滞在だったが。)、ギャラリーの立地は、ビルの8階の1部屋と小さいが、チェルシーのコマーシャルギャラリー街のど真ん中のビルの中に入っている。アメリカのいや世界のアートのコマーシャルの中心の小さな部屋。さらに、なんと、今回の個展のために、アメリカの美術雑誌ARTFORUMに個展の一面広告を出している。その時の他の1面広告の日本人は塩田千春さんの巨大な個展などだからどのくらいの気合いかが伝わってくる。ギャラリーは売る気満々だ。(当たり前だ、僕の旅費や作品の輸送だいや額装代などすでに100万を超える出費だし、この家賃を払いながら1ヶ月半個展を開催するのだから。)
値段や契約の交渉を何度も行う。周囲の友人知人からは「アメリカは言いたいことを言わないと損。顔色なんてうかがっている暇はない」と言われ、一人頑張る。相手には「ミッチー!あなたはこの経歴と作品を持っているんだから自信を持ちなさい!インターナショナルな作家として挑戦してみましょう!」と言われる。これはコマーシャル、ビジネスへの挑戦なのである、しかも日本を飛び越えて突然始まったアメリカでの。
僕の世界に新しい小さな窓が突然開いて外に海が見えた、ような感覚だった。
ただ、そこから外に出られるかはまだわからない。


一体どうなる…。

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