昨日、韓国のグループ展の搬入から帰宅した。
今回の韓国では「沖縄硝子」という作品を出品している。展示タイトルも「Nothing to Waste(無駄などない)」というのでゴミをテーマにした作品が多い(ゴミから機能のないオブジェを作るのはアート化させる定番ではあるが、この「沖縄硝子」は沖縄の浜辺に流れ着くアジアからの漂着瓶を琉球ガラスの職人さんと一緒に新しい食器として生まれ変わらせる”新しいサイクル”がテーマ。)。
この作品は2015年くらいから動き始めたプロジェクト作品なのだし、これまでもいろいろな場所で展示を行なってきた。今回も、地味に色々と新しい変化を加えて展示をしてみた。一つは「琉球ガラス」のアンティークを収集して、「沖縄硝子」の隣に置いて、図面を書いたこと。非常に良い展示になったし、何よりこの作品自体に広がりと深みを感じられる機会となった。
たまに自分の中で起きることだけど、このプロジェクトは継続していて徐々に成長してきて、今回、本当の意味で「作品化/シリーズ化」した手応えを感じた。一人で異国で5日ほど設営しながら密かに感じた喜びだった。
そういえば、少し話はずれるが、
以前友人の美術家に「下道は”ひとり芸術祭”をずっとやってるよね」と言われたことがある。それは「普通、芸術祭の場合、招聘された作家はその土地を調べて、その土地のために新作を作って展示するが、下道の場合は呼ばれてもない場所に行き、勝手にプロジェクトを始めて、作品を作っている」という意味だった。その通りだなぁと思う。
確かに、「戦争のかたち」も勝手に日本全国旅行を始めているし、「Re-Fort」も「torii」も誰からも頼まれていない。でも、沖縄をフィールドとしたシリーズ「漂泊之碑」(「津波石」や「沖縄硝子」)は沖縄の小さな企画に呼ばれた時に始まったし、「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレで考えて作ったし、「bridge」もギャラリーαMで作ったから、《瀬戸内「 」資料館》もだし、これは誘われた企画への新作としての応答だった。
《依頼されてからその企画/場所のために作る》というのが苦手なわけではないと思う。多分、普通の現代の美術家と作品制作のプロセス感覚/時間感覚が違うのだと思う。それはキャリアの始め方に関わることかもしれない。僕の場合、デビュー作「戦争のかたち」は雑誌「spectator」への持ち込みで3年連載になり、それをさらに出版社から写真集になり、その後展示へと展開されていった。通常、美術作家はこのようなプロセスを通らない。つまり、僕の場合、”古風な物書き”の作品完成へのプロセスや手法の”癖”のように残っている? でも、ジャーナリズムだと思ってる部分もあるので、そういう物書きの方法であるのは間違っていないと思っている節もある。連載から1冊の本を作るような時間の長い使い方が合っているのだと思う。(さらに、それは消費するスピードにも関係すると思う。)
・今の現代美術家 = 芸術祭/美術館/画廊から企画 → その土地や環境を調べて → 新作を作る(→芸術祭/美術館が終わると撤収)
・古風な物書き(下道も)= 自分でテーマを見つけて作り始める → 少し出来始めたら”雑誌連載”を行う → それを繰り返しながら最終的に完成し出版 (もちろん、最初のきっかけが雑誌連載のお誘いの場合もある。しかし、連載しながら完成を目指す。出版したらその本は何年もかけてう売られていく。)
もう一つ、僕の場合、依頼されてできた新しい作品も、”連載のスタート”と考えて別の機会にそれを継続していく。「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレでスタートしたが、それから5年以上世界のいろいろな場所の芸術祭(光州ビエンナーレなど)を経てある程度完成した。しかし、その中で岡山芸術交流で岡山を舞台に作った時のトークイベントで、ある関係者に「他でやったことを使いまわしてる」というコメントを受けたし、そのような指摘は少なくない。ただ、僕の場合「連載」と考えていて、それは、その場所その場所で同じことをしているのではなく、「未来の完成のための積み重ね」であるのがおそらく理解されていないように感じる。(いや、「ウチの企画だけの新作を!」という気持ちが強いのだろうか。)
そういう意味で、最新作の《瀬戸内「 」資料館》は(と言ってももう5年やってるが)、島で島民と調査したさまざまな成果を展示や出版にまとめながら、資料館(の棚/アーカイブ)をつくるプロジェクト。それは、完全に直島雑誌の編集長になった感じ。いろんな連載を島民とやりながら毎回誌面を作り、それを継続させていく。でも、これはビジュアルアートなので、その集まってきた一つ一つではなく、それらの集合する先/アーカイブの見え方を意識的にた物に落とし込もうとしている。
このおプロジェクトは今の美術界?の制作の時間や消費する時間への疑問をダイレクトに行動に移している。(が、1発アイデアの作品が歴史的な名作になることは多々あるのは理解している。自分はそれができないからこうしているにすぎない。)
もう一つ、書きたいことを書くと。
一昨年デンマークで中規模個展、今回韓国で1空間を作ってみながら、ちょうど今、中規模で良い個展作れる、気持ちも作品とスキルが揃ってるし、いいタイミングだから、国内で中規模の複数のシリーズを同時に見せる個展をやってみたいなぁと妄想している。(もちろんそこでは新作の挑戦も行うだろう。)
でも、周りを見ると、同じ世代の作家たちが、この数年中規模の美術館で個展をしているが、その呼ばれている彼らを見ていると共通して「毎回新作」作家であり、《依頼されてからその企画/場所のために作る》作家たちであるように思える。やはり、呼ばれた場所/美術館で、その場所だけの新作を作れないといけないのか?と悶々とすることがある。これは作家の制作のスピードの話。
「毎回新作」の場合、毎回その場所の特性を読み解くので、その土地に合っていても、他の土地では見せにくい作品になることをよく見る。つまり、その企画でその機会にしか見せられないということ。それは芸術祭の影響も強いだろうし、それは、やはり消費のスピードが速くなっているように思う。