批評/review

《 下道基行 ―架橋への誘い 》 柳沢秀行

 2019年5月から11月に開催される第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展への参加が発表されたのと同じ頃、下道基行に、やはり2019年秋の有隣荘での展観をお願いした。会期の1年半ほど前、2018年春頃のことである。

それ以前から下道とは、大原美術館で何かやれないかと、ゆっくりと助走するようなやり取りが続いていた。それゆえ、依頼した時点ですでに、下道が大原美術館でやろうとすることの方向性は見えていた。なにより下道には、常に自分のやりたいプロジェクトが明確にあり、そして発表の場と、プロジェクトの進捗状況に応じて、適切に成果をアウトプットする力がある。それゆえ、ヴェネチアの大舞台と並走する準備でも、有隣荘を安心して託することができると考えたのだ。

すでに2014年頃から、下道は、沖縄を中心に南西諸島の島々を訪ねてのリサーチを続けていた。その対象は、ヴェネチアでの展観の核となった「津波石」が主たるものであったが、有隣荘では、同じ島々を巡りながら、こちらもすでに彼が着目していた沖縄のガラスが焦点となることが想定された。

下道が取り組む、沖縄のガラスを巡るプロジェクトには、二つの特徴がある。一つが、韓国や台湾、中国本土から、九州および南西諸島の浜辺に流れつくガラス瓶によって、それらの地の地政学的な関係の深さを可視化すること。もう一つが、再生ガラスから透けて見える沖縄の近代史への言及である。沖縄では明治期からガラスを再生しての生活雑器の生産が始まっていたが、第二次世界大戦後、駐留するアメリカ軍関係者が廃棄するコーラの空き瓶を再生資源として、米軍関係者のニーズに沿って、彼らの生活スタイルに応じた器形が大量に作られるようになった。

すでに下道は、海岸で拾い集めたガラス瓶を、現在の沖縄ガラスの職人によってグラスや瓶として再生させる「沖縄ガラス」のプロジェクトに取り組んでいたが、有隣荘での展観が決まると、いかにして有隣荘の空間で、同じ島々を舞台とする津波石とガラスのプロジェクトを融合させるか、そしてガラスへの注目を、さらにブラッシュアップした形で表現できるのかという模索が本格化した。最終的には、「漂泊之碑=津波石+沖縄ガラス+渚三彩」と作家本人が記すように、融合も、新たな表現も見事に達成されることになる。このうち、「渚三彩」は有隣荘での新たなトライであったが、まずはその経緯を書き留めておきたい。

 最初に大原美術館内を一緒に回った時から、下道の関心は「窓」にあった。大原美術館内の特徴的な窓となると、1930年に建設された本館の2階から倉敷美観地区の街並みを一望する丸窓か、江戸時代の蔵を、1960年代に芹沢銈介の監修下で改修した工芸・東洋館のいくつかの窓となる。こうした館内のいくつかの窓を前にして下道とあれこれと語りあったが、いずれの窓もサイズが大きく、なにより意匠が明確なだけに、そこに手を加える妙案はなかなか思いつけなかった。

またしばらくして倉敷を訪ねて来た下道と、今度は有隣荘内へと下見に入った。この時には、すでに下道から、南西諸島の海岸に漂着したガラス瓶を拾い集め、それらを再生して窓ガラスを作りたいというプランを明かされていた。すでに、沖縄のガラス職人と食器類の制作を行ってはいたが、なにより「窓ガラス」が関心の焦点となっていたのだった。有隣荘は、洋室、和室のいずれも大ぶりのガラスばかりで、混じりけのない透明ガラスであっても、それらに見合う窓ガラスを作るのは容易ではない。そうこうしているうちに、2階の窓のうち、南に開いた小さな窓をしばらく見ていた下道から、「これならできないか」と声が漏れた。それから二人で窓枠を外し、さらに板ガラスが取り出せるのかを確認してみた。既存のガラスは木枠からなんなく外れ、その瞬間に、漂着したガラス瓶を混合した板ガラスをここにはめ込むプランが具体的に動き出した。

それから、この時、改めて有隣荘の独特な瓦の色彩が、下道にインスピレーションを与えたようだ。

下道によると、漂着した瓶の多くは、中国産白酒の透明、韓国焼酎の緑、台湾や日本のビール瓶の茶色だそうだ。この3色を混ぜ合わせると茶色が強くなるゆえ、すでに取り組んだ「沖縄硝子」も、自ずと緑がかった茶色の器になってしまう。それに対して、釉薬や焼成温度に応じて、緑やオレンジの色のばらつきがある有隣荘の瓦屋根を見ているうちに、 漂着瓶が持つそのままの3つの色を活かせないかと考え始めたという。

それに、陶磁の三彩は、透明釉、それに鉄を加えた茶、銅を混ぜた緑をベースに発色するが、その三彩の技術は、中国から、シルクロードや海上の道を通り、中央アジアやヨーロッパへ、あるいは逆方向の日本へと伝播している。そして、そうした文化の交流をたどったのが、大原美術館の礎となる作品を収集した児島虎次郎であり、有隣荘の釉薬瓦の採用も児島の意見を入れたものである。児島は、優れた同時代西洋の作品のみならず、歴史を遡っての文化の交流の様相を確かめるためにエジプトや西アジア、そして中国の古美術品をも収集した。より直接には、有隣荘の屋根瓦は、児島が中国で目にした釉薬瓦が着想源になっている。そのような児島の思いの表れの一つである有隣荘を舞台にして、異なる漂着瓶の色彩を、そのままに同居させるガラス窓を作ることは、確かな意味を持つというインスピレーションを得たのだ。

この下道の着想を受け、私とすれば、ガラス加工なら、これまでも中川幸夫、松井智惠のお二人の展観に際しても、難しい課題を見事に解決してくださった倉敷芸術科学大学教員の磯谷晴弘さんに協力をお願いできれば可能であろうという目算があった。それに窓ガラスの大きさからしても、そう問題ないだろうと踏んでいた。しかし、下道と二人で磯谷さんを訪ねて協力を請うと、これは技術的にも手間の問題でも今までとは比較にならない難題だという指摘を受けた。それでも前向きに取り組む返事をいただき、早速に対応できそうな卒業生にあたってくださったようだが、やはり難しさに尻込みされる状況となった。最終的には磯谷さんと、同大教員でガラスを塊状に固めるパート・ド・ヴェールの専門家である張慶南さんがともに制作にあたってくださることとなった。私からすると、エキスパート中のエキスパートである二人が直接手がけてくださるのは願ってもないことだったが、それでも「蓋を開けてみるまで、できるかどうかわかりませんよ」と釘をさされた。プロだからこそ想定できる、それほどの難題だったのだろう。それからお二人は、下道と丁寧に検討を進め、結果、見事にリクエスト通りの複数枚の板ガラスを完成させた。それでも完成後に、「異なるガラスを無理にあわせているのだから、展示中、自然に崩れることもある」と伝えられた私は、展覧会期中、このガラス板の状態を毎朝ひやひやしながら確認することとなる。

 こうして狙い通りのピースが倉敷で完成し、有隣荘内での展示については、構成も展示する作品も、下道からするすると滞りなく出てきた。その詳細や、「津波石」「沖縄ガラス」「渚三彩」の各プロジェクト内容については、図版ページも参照いただきたいが、展示が完成してみると、実に巧みに、個人住宅の空間と導線を活かしたものとなった。

まず玄関奥には、海岸に流れ着いたままの瓶が、有隣荘創建時に、この邸宅のために作られた丸テーブルの上に置かれた(pp.12―13)。それをイントロダクションにして、順路の最初となる洋室は「沖縄ガラス」に充てられた(pp.14―35)。ここでも、有隣荘オリジナルの花台や机の上に、沖縄の職人の手によって成形されたコップや水差しが並んだ。そして改めて、それらの素材を示すように海岸に流れ着いたままの瓶が、流れ着いた実景を捉えた写真とともに、立派な棚に収められた。そのうえ、壁には素材となる瓶を海岸に並べて撮影した下道による写真作品(pp.18―19、p.35)も飾られた。

この部屋で下道が最も丁寧に手をかけたのが、中央に置かれたテーブル上の、このプロジェクトについての海図をベースにした説明図である(pp22―31)。説明と書くと野暮な感じで、実際は、テーブルクロスのように広がる紙上に、端的な言葉と図が、美しくレイアウトされている。この一枚によって、韓国や台湾、中国と南西諸島の地政学的な関わりのありようが示され、周囲に配された素材や製品としてのガラスの存在意義が立ち上がってくることとなる。

下道によれば、このプロジェクトのタイトルが「沖縄硝子」であるのは、すでに良く知られる「琉球ガラス」に対してのリスペクトであり、近代日本において、「沖縄県」と位置付けられた、この地の今を考えたゆえであるという。下道は、米軍関係者がリリースする廃棄瓶を再利用し、そして再生産品を彼らの元へと送るというサイクル自体が、すでに現代美術的だと捉え、それゆえに、非実用のオブジェではなく、先の大戦直後から生じた循環の形を継承しながら、現代的にそのサイクルを少し修正することを考えた。具体的には、現代の「琉球ガラス」が、東アジアからの観光客の土産になっていることから、東アジアから漂着する瓶が、そうした東アジアへの土産に入り込む余地を考えたのだという。

このような提示の仕方が、下道が歴史学や文化人類学的な視点を持ったリサーチャーでありながら、なによりもアーティストであることを強く印象づける。自らの課題設定に対して入念なリサーチを行い、その結果得た認識は、書物として提示しても十分な密度を持っている。しかし下道は、それを文字として示すのではなく、モノへと置き換え、空間へと置き換えて表現する。その認識と展示のバランスや、アウトプットの手際の素晴らしさは、まさにアーティストと呼ぶしかないのである。

 そうした空間造形の能力の高さは、続く1階和室での「津波石」プロジェクトの提示でいっそう際立って示された。二つの和室を分ける襖を全て取り払い一体的な空間としたうえで、大きな部屋側の床の間には「津波石」の映像を投射した(pp.40―41)。その際、庭に面した障子も可能な限り開くことで、庭に据えられている大きな石もが、床の間に投影される津波石と同じ視界に入るような心憎い配慮がなされた(pp.42―43)。共通点は、単に大きな石ということだけだが、質量を伴い、すぐそこにある巨石を目にすると、映像の中にある津波石の存在感が、それまでとは異なって見えて来る。

この1階和室に下道が挿入したのは、この津波石の映像と、それに相対する面にある棚に、ひっそりと置いた小さなガラス片だけだった(p.36―39)。漂着したガラス瓶を混合して成形された、その小さなピースは、それに先立つ洋室での「沖縄ガラス」を引きつつも、観客が次に訪れることとなる2階の空間で展開される「渚三彩」への伏線となっている。まさに、既存の建築や庭園を活かして、そこに自ら加える手数をぎりぎりまで絞り込み、それだけに自作を有効に機能させて簡潔に構成された素晴らしい展示となった。

 こうして、展覧会タイトルに掲げた「漂泊之碑」の下に、「沖縄ガラス」「津波石」のプロジェクトが接合されてくるが、2階和室でも、本当に限られた手数で作品空間を構成しながら、ここで鮮やかに「渚三彩」が、それまで見て来た「沖縄ガラス」「津波石」と関連しあいながら示されることとなる。

その2階に展示物として置かれたのは、倉敷で制作された白に緑、濃茶の異なる瓶が混じった板ガラス5枚だけであった。

今まで数多くのアーティストが、有隣荘での展示を手がけてきたが、これほどはっきりと床の間を空虚にしたのは下道が初めてである。床の間や棚など、そこに何かを飾るという建築からの要請がかかりやすい場所で、いかにその制約を外すか、あるいは、いかに活用するのか、と多くのアーティストが素晴らしいトライをしてきたが、下道は、2階の床の間には何も置かないどころか、無視するかのように何物をも関わらせずに、そのままにした(pp.50―51)。ただ、空間の焦点であり、それだけに鑑賞者の意識が向かいがちな磁場である床の間を空っぽにしたが、それ以外の棚には、異なるガラスが混じったことによる三彩の板状のガラスを巧みに配した。そのようにして立ち現れた空間は、その制作の難しさを知る者からすれば、ここにあるピースたちが、その大きさとなっているだけでも感嘆するのだが、制作過程を知らない観客にとっては、色の混じった小さなガラス板がいくつか置かれているだけの場である。しかし、その配置に注意すれば、透過光により見るピース(p.45)、水平に置かれ上部からの光だけで表面を見るピース(pp.48―49)、そして床の間の脇には、垂直方向に立ち上げられ、その厚みは感じさせてはいるが、やはり正面から、ただうす暗い光の中で見るピース(p.47)と、光のコンディションにより、それぞれ異なる姿を示すように配置されている。そのうえでの、南側の小窓に嵌め込まれた板ガラス(pp.52―53)である。いわば、この1枚から、有隣荘での展示構成が着想されたのであり、この1枚のガラスがこの展観の核となるピースなのだが、それをさりげなく、しかし空間の主人公へと確実に据えるためにも、床の間を空にし、そこに何かあることを建築が要請する棚などに小さなピースが置かれているわけである。

そして言わずもがな、窓とは境界である。内と外とを分断する場でもあり、一方で、異なる世界へと通じる境目でもある。

「torii」など、これまでの下道の仕事を見れば、彼が、境界や、その境界の曖昧化や再設定、そしてその境界の揺らぎである文化の相互浸透に強い関心を持つことは明らかだ。さらに相互浸透した痕跡が、長い時を経るなかで、機能転用される様相にも彼の感受性は鋭く向いてゆく。

「津波石」は、波がたゆたう曖昧な境界により隔てられていた陸と海が、津波により暴力的に境界が変更され、そして明らかに海とすべきゾーンから陸へと越境してきた巨岩が、長い時を経ることで、やがて鳥の巣となり、信仰の対象へと機能変化することに着目している。「沖縄ガラス」も、アメリカ兵が消費した空き瓶が新たな器となるように、素材の転用、器形の変容という歴史上の史実に、国や地域の境界を越え海岸に漂着した廃棄瓶を器として再生させるという自身の発想を、重ね合わせたものとなっている。

そして、それらと密接に関わりながら進行してきたのが「渚三彩」のプロジェクトである。海を越え、そして同じガラスとは言え、成分の違いにより互いに異なる収縮率を抱える瓶たち。それが一つに混じり合って生み出された板ガラスが、改めて境界の象徴たる「窓」に嵌め込まれたわけである。

この窓の前に立つ者は、同じ面積で並ぶ、3つの色彩の斑模様のガラスと、窓外に広がる倉敷の街並みを同時に目にすることとなる。視線を遮断する三彩のガラスと、透明ガラス越しの実景との間で視線を漂わす時、見る者のうちに静かに沸き立つ思いや想像はどのようなものだろうか。それは各人多様であるのは当然だが、そのうちの一つには、きっと遠い島々の浜辺に異郷から漂着した瓶が流れ着いた光景があるだろう。あるいは、1枚のガラスに内包されている色目ごとの境界を凝視した者が、各々の瓶が最初に海へと打ち捨てられた、台湾や韓国、中国などそれぞれ異なる場所へと、想像を飛躍させることもあるだろうか。もちろん、そうしたイメージが浮かぶ際は、ここに至るまで巡ってきた有隣荘の各部屋に1枚だけ示されていた瓶の散らばる浜辺の写真のイメージが手助けとなることもあろう。1階和室で津波石の映像と、リアルな巨石との取り合わせが、この2階の三彩ガラスと窓外の実景を同時に見る体験への伏線となっていたかもしれない。いわば、ここに至るまでの展示全体が、この2階の小窓の前に立つ体験の意味を増すための、大きな装置であったとも言えるのである。

下道は、西洋を範としつつ、東アジア各地と深く関わり続けた日本近代について、特に先の大戦へと至る日本による統治の歴史を重要な契機としながら、考古学や文化人類学的な視点やアプローチにより探求を続けて来た。その日本の中でも、南西諸島は、「近代日本」の境界内に組み込まれる以前から、長い歴史のなかで、その境界が何度も引き直されて来た地である。その境界変更の作業は、多くの場合そこに暮らす人々に言葉にできぬほどの苦痛を与えて来たが、一方で異なる文化との自発的な、あるいは強制的な交流によって、その独自の文化が育まれることとなる。そして、そうした長い歴史においての交流は、接続も断絶も、海という重要なファクターの上に成り立ってきた。津波石は、そうした海や、海岸に打ち上げられて以来、晒され続けている風雨や陽光いう自然の力を体現し続ける存在としても見ることができる。

もう一つ大切な事は、ガラスを取り上げたことだ。異なる地域のガラスを混ぜ合わせると、それぞれの膨張率の違いから、非常に割れやすいものとなる。それゆえ、「沖縄ガラス」プロジェクトで制作した食器は、経年変化により亀裂が入ることが多いという。ただ下道は、それをとても重要であり、だからこそ興味深いと受け止めている。なぜなら、東アジアの諸地域のガラスをひとつに混交することは、沖縄のチャンプル文化的と、先の大戦で色濃く掲げられた八紘一宇的な汎アジア主義的な思考にも通じると考えたのだ。だからこそ、強制的に一つになることを強いられたガラスが不安定で割れやすいことは、たんに沖縄の置かれた状況のひとつの比喩となるだけではなく、これからの時間に向けて、いかにこの現状を受け止めるのか、そして何がより良い方向性なのかを考えるために、とても大切なきっかけになると考えたのだ。そうした思考の契機を提供するためには、こうした循環のトレースは、下道独自のアート表現であることにとどまらず、オープンソースとして、様々な視点から活用されることも願っているという。

物質としての世界は形態と色彩によって形作られるが、下道はそこに潜む時間と、まとってきた意味を丁寧に見出し、そしてを、改めて形態と色彩、そして言葉によって、その本質はそのままに今に生きる私たちへと、存在や事象の意義を翻訳して提示し得る稀有な存在である。有隣荘での展観は、彼の力量を見事に物語っているが、中でも三彩の窓のある景色は、即物的にはいつもと異なる景観を生み出し、より、思念的なレベルでは、人と自然の往還をも射程に入れた南西諸島の歴史と、それを抽象化しての境界を巡る思考を促す重要な鍵となる。そして、そうした想像と思考の相乗的な羽ばたきに踏み入った者は、時に強力に設定され、時に見え難く隠蔽された境界を自覚し、分断されたあちらとこちらとを架橋する強靭でしなやかな精神のありかたをも知るだろう。

公益財団法人 大原美術館
学芸課長 柳沢秀行

[漂泊之碑/Floating Monuments]
有隣荘/大原美術館
Yurinsou, Ohara museum of art
2019

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