下道基行 / SHITAMICHI Motoyukiで「だけ」と一致するもの

褒められるとのびるタイプです

2020年10月23日 09:33 下道 基行 */?>
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( ↑クリックすると読みやすくなります。)

さて、
新聞記事とは関係ないが、気になる事を少々。


最近、私設図書館が増えている。
《瀬戸内「」資料館》も個人ディレクションの図書館であるといえばそうなので、違いを考えてみたい。

個人が○○図書館を作る場合、その多くは”自らの蔵書”を元に図書館を作る。
つまり、「この本、面白いよ」とか「この本は貴重なので共有したい」がベースにあるのかもしれないが、これでは”図書館”としては少々自分勝手ではないか…。多分、個人で”図書館”を作る深層心理としては、蔵書の共有だけではなく、もうひとつ、パブリックスペースのような”人々の集う場”を作りたい!という希望があるのではないか。読み聞かせのために子供達が集まったり、サークル活動やトークイベントや勉強会など、そういう文化的な施設としての”図書館”。
本を並べて”図書館”と名付ける事で、人々が繋がる”場”を作りたいのかもしれない。”図書館”というのは様々な機能やイメージを持っている。

少し話はずれるが”自らの蔵書”でいうと、最近、美術作品展にも、本や資料の展示が併設される展示を見ることがあるが、それは「私はこの本を読んでこの作品を作りました」という趣旨のものが多い。その場合、その作家のファンであれば楽しいが、展示を体験しにきた人には蛇足であることも多いのではないか。

では、《瀬戸内「」資料館》の場合だが、
まずは、資料館の本棚に、僕の蔵書は一切入れないようにしている。
アーカイブしようとしている「瀬戸内の風景や歴史が記録された書籍など」をゼロから探して収集している。
なぜなら、これまで瀬戸内にそこまで興味を持ったことがなかったのもあるが、
僕の好きとか嫌いとかを抜きにして集める事が重要であるし。できる限り網羅するために本を探すのを日課にしている。
ただ、収集するジャンルなどアーカイブの背骨の部分は僕が決定し、特色があると思うが、”自らの蔵書”をこの図書館のベースにしようとは考えたことがない。”自らの蔵書”は僕の中に咀嚼され入っていて、それが別の形になって出ていれば良い。場を作ろうとは思っているが、それ以上に記録物の「収蔵庫」「アーカイブ」をタイムカプセルとして作りたいと考えている。

なんか、”自らの蔵書”を見せる展示や手法が気になったので書いてみました。
こういう色々な別のジャンルの近い事例と自分のプロジェクトの違いを意識化しながら、少しづつ独自のあり方を探るので、他人の批判ではないです。。

家族の生き方/直島の事情 2

2020年10月 1日 08:57 下道 基行 */?>


直島に住んでみて見えてくる、この半年で見えた事を引き続き書きます。


まずは【食】の問題。
想像しやすい事としては、島は物価が高い。スーパーの食材は選択肢が少なく値段も高い。島だからしょうがないが、船で15分の対岸では250円のビールが200円、食材も豊富。薬や文房具や電化製品など手に入りにくいものも多いが、通販は早いし独自のルールで便利。ただこれの対応として、島民たちは15分の対岸の巨大スーパーへ二週間に1回とかで大量の買い出しに行く。ここでは、3000円以上で生鮮食品以外は無料で翌日島へ届けてくれるサービスをやっている。
あと、愛知の時は、週末に外食で様々な選択肢があったしよく利用していたが、直島の場合、飲食店やおしゃれな居酒屋もあるがほぼ全て観光客用で、島民はあまり利用しない。あるアート関係者は「昔の静かな直島は好きだったが、数年前に行ったら原宿竹下通りみたいな店が立ち並んでいて興ざめした」と話していたが、それもうなづける。悪くいうと味的にも値段的にも「海の家」的な存在の店が多い。店構えもある意味”竹下通り”的な店もある。カフェは多数、たこやき屋、タピオカ屋、タコス屋、カレー屋とか。つまり、観光客のための飲食店であり、日常生活者のための存在にはならない。ただ、観光客はそれでも並ぶ。そういう外に向いた飲食店しかない状況は事実。それを責めようとは思わないが、650円で定食が食べられる店とか、こだわりのあるラーメン屋とか、行きたいなぁ、と二週間に一回くらいは思ってしまう。あと、観光業に流され、古い街並みの残る場所がどんどん変化していくのは大丈夫?と気になる。


もう一つ、小さな田舎の島の問題は【家】事情。
まずは、空き家がない。あるにはあるが大家さんが家具や荷物そのままに放置している家が多く、なかなか貸してくれない。島内は、貸していない空き家だらけなのだ。(若い移住者や役場はその対応を行なっているが。)その中で、貸している家の家賃としては、かつては一軒家で2万3万円と安く借りられたというが、近年、島がアートの観光で盛り上がるようになって、大きく変化してしまっている。カフェやカレー屋や民宿をしたい都市からの移住希望者は後を絶たないし順番待ちの状況。(近所のうどん屋も毎週末大行列ができているしそれを見たら商売人は反応するよな。)なので、借りられる家の家賃は、対岸の岡山側よりも高級かも。さらに付け加えると、光熱費は島値段でかなり高い。(綺麗なワンルームで光熱費込みで5万とか。)しかも、幸運に一軒家を借りられても、借りられた家も直さないと住めない家も多いし、虫や雨漏りと戦わないといけない物件も多い。直島が好きで移住した人で、もっと好きになった人で、仕事もある若い人は、綺麗な家に住むためには、自分で土地を買って家を建てるしか方法はない。それは高価だし最終手段であるが、この島で都会的な生活をしたいならその選択肢しかない。人気の島、需要は高く、供給が追いついていないので、自動的にそうなってしまう。そういう意味では、福岡とか京都とか愛知とか千葉とか、地方都市の郊外とかの方が家も綺麗で破格の安さの物件だらけだろう。直島は離島なのに特殊と言える。

つまり、直島は小さな島で、自然もあるし古い文化もあるが、観光客が多く、移住希望者も多く対岸も近くかなり都会的であり、つまり、家賃や光熱費や食費など、ランニングコストがかかる島でもある。だから、直島の観光業で働く人々も、往復500円の船代(1ヶ月1万円以上)かけても、対岸から通う人も多い。

基本的に、僕は、定期的な収入が見込めない生活をしているので、これまで家賃やランニングコストを最小限に抑えられる努力をしてきた。だからこそ、制作を続けられてきたし、このコロナかでも影響は少なかったと言える。都市部で、家賃8-10万円とかで住むというのは、安定的な定期収入が見込めないとできない、だから、みんな自分の時間を売って仕事やバイトをやり続けないと、制作しながら生きられなくなる。まずは、家賃やランニングコストを最小限に抑えられるのが、制作をしながら生活していく第一歩ではないかとも思える。
(僕の場合、2008-2009年フランスレジデンス、帰国後2009-2010年友人宅を転々として、2010−2011年東京のレジデンス滞在、2012-2019年妻の実家。そして直島と、この十年以上家賃を普通に払ったことがなかった。)
だから、直島が子育てにぴったりで、自分のプロジェクトもあるので、移住の可能性をぼんやりと検討した時。まずは、家賃がほぼ無料である事は大前提だった。そこで妻が島の役場での仕事を得ることができて、そのことで家の紹介や住宅支援を得られて、格安で綺麗な家に住める条件を見つけたのはターニングポイントだった。それがないと移住を考えることすらなかっただろう。(どうしても直島に住みたい移住者は小都会並に高い家賃でボロボロの家に住んでいる現状。)そして、引っ越してみて、直島の子育てや家の事情が見えてきた。そして、僕らが綺麗な家を安価で借りられたことが非常に幸運であったことをあとで知る。
だだし、妻の役場の仕事も3年のみ。住宅も手当も3年のみ。2023年3月まで。その頃娘は5歳だろうか。なんとかその後、新しく仕事や家を見つけて、あと3年、娘が低学年まで暮らしてみるか。僕のプロジェクトがどのくらい続くか。まぁ、なるゆき次第だろう。笑

ご近所さんから「下道さんは福武財団で働いているのですか?」という質問が多いので、一応書いておくが。僕自身、直島のプロジェクトだけをやっている訳ではない。他の様々なプロジェクトが同時進行で進んでいる。その様々な仕事で生活費や制作費をまかなっている。その拠点であるスタジオを、愛知から直島に移動させた。移動の利便ではなく家族との生活を考え。島のスタジオを資料館として”生きた”プロジェクトにしようというのも初の実験。ここは、常にゆっくり考え進めていく場所/基地であり、ここから関東や関西、国外へと移動し仕事をしている起点だ。島という他への移動が少し不自由な場所だが、コロナで移動が出来ない時期だし、より、ゆっくりと深く考える時間を過ごせているのは幸運だったと言える。

2020.10.1

家族の生き方/直島の事情 1

2020年9月29日 11:41 下道 基行 */?>

なぜ、直島での【子育て】を選んだか、書いておく。

僕ら家族が暮らしていた愛知県の郊外は完全に車中心の生活だった。
保育園が終わって公園へも車、公園から家へも車。買い物へも車。駅までも車。
公園の周りも、家の玄関の前も、車が多いので娘と出るのが怖いくらい。つまり、家ー保育園ー公園ー買い物ー駅、と言った場所を車で繋いでいる生活。つまり、それらの間の世界は車で繋がっていて、路上がないみたいな途中との接触が少ない。空き地も柵がしていて子供も入らない。もちろん娘がまだ幼いのもあるが、ここで「作られた遊んで良い場所」以外ってどこにあるんだろうか。

人間関係でいうと、保育園への送り迎えの時、他の子供の親とは会釈するレベルで、集まりがあっても、なるべく距離をとる人だらけだった。それぞれ暮らしいている場所が広範囲で仕事や生活のレベルもバラバラだからだろうが、「他人に関わりたくない」というオーラを出す親が多い。保育園は必要だから子供を預けけて、横の関係やそれ以外は期待していないのだろう。

で、直島は。
人口は3000人だけど、その割に子供は少なくない。保育園では1クラス10人程度で前の保育園と変わらない。ただ、小さい島なので、親はそれぞれがどこの誰かわかっているし、挨拶や会話もある。さらに、放課後に校庭や園庭で他の子供と年齢を超えて遊ぶ機会も多いし、その時は他の親と話す機会もある。まぁ、家族も先生もそれぞれの素性がある程度筒抜なわけでそれによって、「他人と関わらない選択肢が難しい」のだろう。人と関わるのが嫌な人は地獄かも。笑
島では車が少ないし、車の入れない路地が多いので、一緒に歩いて散歩をする機会が多い。そして、そうすると近所のおじいちゃんおばあちゃんが、子供がいるととても親切にしてくる。子供にお菓子、家族にはとれたての魚や野菜などをくれたり、色々と。
どちらにしても、「他人に関わりたくない」タイプの人間は都会の方がオススメであるが、僕も妻も人と話したり関わるのが好きな方なので、島の生活での人との距離感は都市よりも向いていると言える。ただ、距離が近い分、情報は筒抜だし、色々と関わらないといけないことも多い。

島には、海や山が近くにある。つまり、「作られた遊んで良い場所」以外の場所が当たり前のようにたくさんある。そして昆虫や植物(海の生物や植物)の量がすごい。。これも嫌いな人は無理だろうが、幼い頃に色々な生物に触れることは重要だと考えているので、これも移住した理由の一つ。娘は変な場所に住み着いたカニを発見して「カニマンション」と読んで夏場は毎日パトロールしている。子供は意図しない場所を遊び場にする天才なはず、公園やゲーム機みたいな「作られた遊んで良い場所」ではない場所を自分で発見して欲しい。(いや「作られた遊んで良い場所」ですら新しく遊びを発見するだろうが。ね)
実は直島は山は豊かではない。それはかつての工場の公害や元々水が豊富ではない場所が関係している。ただ、海が本当に豊かだし美しい。波が穏やかで身近。見てよし食べてよし。保育園の帰りに、海でヤドカリや貝を探したり、魚を釣ったり。自然に囲まれていると季節を感じる感受性が高まる。


島に住んでみて思うのは、
幼い娘の記憶に、この風景や経験は残るのだろうかということ。僕自身もそうなのだけど、大人になって持っている過去の記憶って、幼稚園くらいからうっすらあって、小学校低学年くらいから強くなる。だから、2歳の娘にとって今の経験は潜在的なものになるだろう。それはそれで良いけど、どのくらいまでここで子育てをやるのが良いだろう、少なくとも。そんなことを考える。だから、幼稚園の後のこともよく考える。いつまでこの島に住むのだろうか、と。
島の小学校はどうなのだろう?
きっと、娘が小学校に上がると、僕ら自身が動きづらくなるだろう。根が生えてしまう。
僕らは移動をどんどんやってきたし、それによっていろんな発見をして、仕事をしてきたし、そういう意味ではまだまだ根を生やしたくはない。いつも「次はどこに住もうかなぁ」と考えている。とは言っても、一箇所には3年から10年は住むけど。
娘が小学校に上がる=家族で定住、かもしれない。では、小学校上がるまで島で、そこから別の場所へ?と想像してみる。僕自身は小学校低学年の時の経験がすごく今影響があるなぁと思うことが多いので、自然の多い環境で育てるのは良いと思っている。逆に直島以上に田舎でも良いくらい。

そんな悩みの中で、島の小学校のことを、島民の移住者の先輩から聞いたのが。
「小さい島の学校だから伸び伸び育つか?というとそうでもないよ。1学年1クラスしかなくて20人しかいなくてクラス替えもなくて。そういうずっと同じクラスメイト。場合によってはコミュニケーション能力が低下する傾向がある(話さなくても伝わるから)。さらに、友人関係がうまくいかないと逃げられる場所がない。さらに、みんな一緒な感じも強くて保守的な部分もあり、外からの異物に敏感。」と。
確かに。逆に、人数の多い小学校なら、同級生の誰かと上手くいかなくても、クラス替えがある。すごく変わっている性格や個性的でも、ほっといてくれる。
これは全てに当てはまること。東京のような様々な場所から来た人が入り混じっている場所だと、人と人の関わりが希薄な分、「ほっといてくれる」から、多様性は生かされる。逆に、島や小さなコミュニティだと、いい意味でも悪い意味でも、「ほっといてくれない」傾向がある。閉ざされた場所では保守的になる傾向もこれかも。まぁ全てはバランスだから、合うか合わないかは人それぞれ。
ただ、直島は風通しが良いので他者には寛容な方、さらにアートも身近だから異物にもアレルギーは少ないかも、そして移住者や観光客が多いしかなり都会的な島だと思う。日本中探しても中々ない珍しい島。

かつて、僕も妻も、小学校低学年で転校した経験がある。
僕は岡山のど田舎から、岡山の都会へ。妻は東京から愛知の郊外へ。二人とも、低学年の時の体験を強く持っているし、今への影響を感じている。ぼんやりと、小学校低学年までは重要だと思っている。
それなら、娘も「低学年まで田舎、そのあと都市へ」それも良いかもしれない。
それにしても、色々と考えてしまう。
しかし、自分たちで今のところは選択できるというのは本当に幸せだ。
まぁ、考える時間はまだある。
なるようにしかならない。成るように成る。

2020.9.29

瀬戸内「百年観光」資料館映画館

2020年9月27日 19:54 下道 基行 */?>
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瀬戸内はこれまでたくさんの映画の舞台になっている。
(もっと過去を辿れば、詩や物語の舞台にもなってきた。)
それらは観光とも密接に結びついている。
瀬戸内の風景が登場する映画を上映する小さな島の映画館を作ってみた。
展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》の展示終了後に、空間を映画館へと変化させて。
壁の展示はそのままに。
《瀬戸内「百年観光」資料館》→《瀬戸内「百年観光」映画館》。

新型コロナウィルス流行によって、展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》は、展示期間の2ヶ月間、毎週土曜午後だけ無料で開けることになった。展示を開催することすら危なかったので、財団やスタッフの尽力に感謝するほかない。展覧会がオープンしてみると、客層は、普段より少ない観光客、ただ同じくらいの島民の来館があったのは嬉しかった。さらに、島民の方の様々な記憶と結びついて話の広がるイベントとなった。
当初、展覧会のイベントとして、様々なゲストを交えてのトークイベントを企画していたが、ウィルス流行もあって見直しを行った。その中で出てきたのが、トークイベント開催の予算(ゲストへの謝礼や交通費など)を映画上映に当てるアイデアだった。
島民限定イベントとして。島外には告知しないシークレットイベント。全てはウィルス拡大防止への考慮がまずあった。この上映企画は資料館が島民との距離を縮める目的と、ウィルス流行によって息苦しい毎日を送っていた島民の人々の一つの”楽しみ””息抜き”になれば、そして島民の方がこの資料館に関わる機会と考えた。

展示が終了した後。空間内の本棚を片付け、暗幕を張り、椅子を並べ、スクリーンを設置。映画のセッティングために、スタッフで『二十四の瞳』の頭の部分を流してみた時、60年以上前の瀬戸内の風景がそこに広がった。僕もスタッフもその場に立ち尽くし映画を見入ってしまった。そして「このイベントは面白くなるかもしれない」と思ったし、この展示の企画の延長線にある企画だと確信。

9月7日(月)13:30~ 「二十四の瞳」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子 台風で9/21に
9月12日(土)13:30~ 「喜びも悲しみも幾歳月」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月14日(月)13:30~ 「釣りバカ日誌1」 監督:栗山富夫 主演:西田敏行
9月19日(土)13:30~ 「男はつらいよ 寅次郎の縁談」 監督:山田洋次 主演:渥美清

全4回の映画上映は全て満員状態。といっても、席の間隔を1メートル開けているので20人程度で満員なのだが。映画内の古い瀬戸内の風景をみんなでドライブしているかのような楽しい時間。会場には笑いが起こり、感動に浸り、なかなか良い機会となった。映画という大衆文化の強さを再確認。僕は、毎回、来客の「楽しかった」という言葉そして無事帰ってくのを見守り、なんだかライブハウスやシアターのスタッフになったような気持ちであった。(自分の作品を見せているわけではないシチュエーションは珍しいので。)4回上映が終わった後には「またやってほしい」という声も聞かれ、この資料館は映画館としてのもう一つの新しい顔も持ったわけだ。それがなんだか心地よい。(ちなみに、当初は屋外上映会を検討していましたが、映画を個人ではなく上映会で借りる場合、指定した時間と場所のみで上映可能で、雨で延期などになると、もう一度支払う必要が出てくるので、雨の多い時期ですし屋外上映会は泣く泣くやめた経緯があります。でも、資料館自体のの色々な可能性を見れたので良かったですね。)

古い映画なんてネットで見れるから意味ない、とか考えてしまうこともあったのですが。やはり良いですね。映画館。このイベントは、展覧会とセットで、トークイベントを行うように、続けていきたい。


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瀬戸内「百年観光」映画館

2020年9月21日 20:56 下道 基行 */?>


瀬戸内「百年観光」映画館

瀬戸内を舞台にした映画を上映する。
小さな島の小さな映画館を始めます。

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会場:瀬戸内「   」資料館
直島町2310-77

日時:
9月7日(月)13:30~ 「二十四の瞳」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月12日(土)13:30~ 「喜びも悲しみも幾歳月」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月14日(月)13:30~ 「釣りバカ日誌1」 監督:栗山富夫 主演:西田敏行
9月19日(土)13:30~ 「男はつらいよ 寅次郎の縁談」 監督:山田洋次 主演:渥美清

対象:直島在住もしくは勤務の方
料金:無料 ※ご予約が必要です。
予約:お電話でご予約ください。
    080-2911-4135(公益財団法人 福武財団: 月~金曜 10:00~17:00)
参加希望日、代表者のお名前、人数、ご連絡先をご教示ください。
※提供いただいた個人情報は、本イベントに関するご連絡以外には使用せず、終了後は適切に破棄します。

※当日満席の場合、ご予約のない方は入館いただくことができません。予めご了承ください。
※原則、お一人様一回のみご参加いただけます。
※新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、受付での検温、マスクの着用、手指のアルコール消毒にご協力ください。

直島

2020年7月23日 05:41 下道 基行 */?>
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夕飯を食べていると、曇りガラスの向こうの空が赤く染まっている。
食事をやめて、家族で外へ出てみる。
本村の船着場には、夕方になると地元の人々が五人ほど集まってしゃべっている。
防波堤に腰を下ろし、太陽が熱が弱くなり、海を撫でた風が心地よい。
また、Hさんが直島の夕焼けや朝焼けの美しさを話してくれる。
どの季節にどの島のどのあたりから太陽が登り沈むか、そんな話。
波のない瀬戸内の水面は鏡のように夕焼けを写して、空の中にいるようだ。
海のそばに住む人だけの特権? いやいや、きっと田植え前の田園風景でみるのもきっと綺麗だろう。

都市部に住んでいた時より、明らかに、毎日の気候の変化、風景の変化、季節の変化を感じている自分に気がつく。毎日毎日。
少し前まで、娘は大量発生した毛虫に興味津々で、でも今は、カニを探し用水路を覗き込む日々。昨日、セミの抜け殻を初めて見つけて不思議そうに観察していた。
僕はというと、スタジオへの行き帰りを少し遠回りして、山の上から海を眺めることが多い。遠回りといっても、左回りで8分のとこを右回りで15分かけるだけだが。小さな島なので。


地元番組で放送。

2020年7月16日 08:20 下道 基行 */?>

https://youtu.be/iTwXULUGEgA

瀬戸内「百年観光」資料館。
地元で放送されました。動画で見れます。
微妙にニュアンスが違うんだけど。ま、こんなのが始まっています。

前回は写真集をアーカイブし始めましたが、今回は過去のガイドブックなどを取集。記録物を集めながら、瀬戸内の図書館をゼロから作っています。観光をテーマにしたのは、京都だけじゃなくて、直島でも”オーバーツーリズム”ってのが起こっているんだと思うんです。とくに瀬戸芸の三年に一度は。3000人の島に観光客75万人。それを考えるきっかけです。観光学の研究者でもないので、穴だらけの展示ですが。。僕としてはガイドブックも記録物だと見ていて、今と100年前が地続きで感じられるのを意識しました。地元の人や研究者の指摘もどんどん受け止めて変化しいく柔軟さで。
最近、個人の蔵書から小さな図書館を作るケースが増えていますが、このプロジェクトはゼロから収集しながら展示にしながらアーカイブを作ってるのが少し特徴かも。本を収集したりやカテゴリーを考える時は、自分の作品だとかを考えず、万人ウケも考えず、島民や旅人がふと訪れ、本を手に取り体験できることを第一に想像しています。資料館と言いながら図書館を作る【きっかけ】は、僕自身が旅しながら撮影をする時、絶対にその土地の図書館や郷土資料館に立ち寄理、郷土資料を探すようにしていて、沖縄の島々の図書館はそれぞれの島の図書館は個性を持っていて、撮影に疲れた時に休息と読書の時間をあたえてくれるし、そういう存在を目指したいと思った。(では、プロジェクトタイトルをなぜ瀬戸内「 」図書館にしなかったのか?は、一言で言うと、感覚的に妙にしっくりきすぎるからあえて外した。つまり、すでにそういう私設の図書館はあるし、近年まさに色々な個性的な新設の図書館もオープンしているし、本棚一つでも「図書館」と名ずければ「図書館」になる使いやすさは(「美術館」と言う言葉と同じで、)、だから逆に、誰もあまり使わない資料館という名前を選んだ。ただの天邪鬼かもしれない。あと、今回でいうガイドブックだけではなくポスターのように、本だけではなくて「物」も扱いたいし。あと、変な男が作っちゃった○○資料館とか○○博物館とかそういうアウトサイダーなプライベートミュージアムへの憧れもあったり。)

今、プロジェクト二年目。移住して4ヶ月目。できる限り続けていく中で答え?を探します。1回1回の展覧会はアートでもなんでもない普通の興味なんだけど、それらを積み重ねてアーカイブすることで、島に妙にとんがった郷土図書館/資料館が作られていくこと自体を俯瞰してみているところも同時に進んでいる感覚。その辺りが、今、自分の中に出来上がってしまっていた作品のあり方をぶっ壊しながら進んでいて、これが何なのか?よくわからないけど、面白いのが生まれそうな時って、そういう感じがあるので、突き進むしかない。福武財団のスタッフの方々もこの「何なのかよくわからない」のを絶妙にサポートしてくれていて、島民の方も徐々に歩み寄ってくれている。

来年とかは別のテーマ展示になってるので、この機会に是非。8月末まで毎週土曜日のみ開館

オンライン

2020年7月15日 04:21 下道 基行 */?>


明日から、北海道の小学校に下見に行く。
これはあるプロジェクトへの参加がきっかけ。
小学生とのワークショップを新しく作る。何が発見できたり、共有できるか。
でも、こんな時期だし、距離は密に取れないし、何をしようかなぁと考えている。
世界は何が変わったのか?変わっているのか?
ふと、美大でオンライン授業をやっている友人たちの話を思い出し。その記憶と山下道ラジオで話しいていた内容がごちゃ混ぜになって。ぼんやりと考えている。


学校がオンラインになって、未来に変わること、を少し想像してみる。

クラスで、声が大きい生徒が目立たなくなり、
逆に書き込みが上手い生徒が一目置かれるようになる。とか? 
すると、ただただ声が大きくて、喧嘩っ早いような、ジャイアンのようなタイプは死滅するかもしれない。近い未来。
ジャイアンのいない世界か…。悪くない。でも、僕の中にもジャイアンはいるから少し寂しい。
でも、ジャイアンの存在がホントに煙たかった生徒は嬉しいだろうな。

インターネットは、使い方が上手ければ、名もなき匿名の小さな声が、大きな社会にインパクトを与えられる。今まで大きな障害に邪魔されていた声が直接人々に届き動かす。それは、インターネットの面白いところであり、世界は変わった。(でも、まだそれに気がつかない世代が社会を牛耳っている。でも、それももう少しで終わる。ジャイアンは徐々にパワハラで消える。)
オンラインの授業はその感じの小さな世界になる。授業中には先生の風刺画が紙飛行機で飛ぶのではなく、SNSやネット書き込みになる。名もなき匿名の小さな声が、無能な「先生」を登校拒否に追い込む事だってできる。そんなの簡単。親だけではなく、外の世界と繋がって攻撃だってできる。

あと、一緒の年齢で横並びで授業受ける必要もなくなる?
年齢を飛び越えて、オンラインで受けられる枠があると面白いね。
高校の授業を、学校へ行く理由がわからなくなった中学生が受けたり。勉強し直したい老人が受けてたり。

ただ、そのように発しられた「名もなき匿名の小さな声」ってのも、その事を理解した新しい人種の発した声であって、ある意味、現代的な「大きな声の出し方」を知っているに過ぎないのかもしれない。
違うかな?
それは、目には見えない現代のジャイアンを生み出す?
でも、冷静に相手を書き込みで論破するなら、そのジャイアンは清い?そんなのジャイアンじゃない?陰湿な書き込みで相手を攻撃するのは、それは、、、ジャイアンではない?
あれれれ、なんか、話がわけわからなくなってきたぞ。。。
もう少し書き進めようか?
いや、こんなの、ネット上ですでにかかれまくってるのだろう。。

もう、寝よう。。。
おやすみなさい。。

”帰国展”について

2020年6月24日 11:32 下道 基行 */?>

そうそう、昨年のヴェネチアビエンナーレ日本館2019の企画「宇宙の卵」からちょうど一年。
ようやく、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)で、”帰国展”が今日、オープンしました。
東京駅から徒歩5分。皆様是非。


この展示について少し書く。
”帰国展”という奇妙なシチュエーションと向き合った展示になっているとでも言おうか。。
ベネチアに行かずにベネチアを体験はできない、けど、”帰国展”というタイトルの元で、思考し制作した展示となっている。
(つまり、、、この展示は直接的な鑑賞表現を制作したのではなく、過去のプロジェクトをどのように残すか、に重点を置きながら取り組んだ展示になっている。逆に一年前の、ヴェネチアの日本館での展示の際は文字情報極力無い状態で、プロセスはカタログに納め、説明を排除した展示を行った。)

美術家と作曲家と人類学者と建築家とキュレーター(とデザイナー)で、日本館に向き合い、その一年後にさらにこの”帰国展”と向き合った。(その展示の間で2冊のカタログも制作)
2018年から1年間かけて、日本館での五人のコラボレーションに集中してきたし、それが日本館やベネチアビエンナーレという会場でようやく完成した。日本館での”出来事”は、作品自体は僕たちの手は離れているけど”出来事”であり”ライブ”だった。(このヴェネチアが決まってすぐに日本での”帰国展”を行うことも決まっていた。)
ただ、この五人のコラボレーションである「宇宙の卵」は、ヴェネチアや日本館という場所があったからこそ出来上がった作品であり展示。日本館という建築が持つ穴から降る自然光や重厚な大理石の床の素材やジャルディーにという場所性、ヴェネチアという土地など、それら全てと関係を持って制作は進んでいったし。別の場所なら全く別の形になっていただろう。その過去のコラボの出来事を、別の場所にどうやって持っていくべきか?そのことでメンバーで頭を悩ませた。アーティゾン美術館のために最初から作られたのならまだしも、やはりこれは”帰国展”なのである。

まずは、日本館でやったことを解体して、アーティゾン美術館の空間を考え、もう一度別の形で組み直すこと、も考えた。これは、空間が変わるのだから、形を変えてもう一回”ライブ”を作るという考え方。ただ、その場合、どこまでいっても、アレンジを変えた再演になってしまうし、日本館を超えるような”表現”にはならないように思えた。
そういった思考の結果、アーティゾン美術館の空間内には、日本館の展示を再現して、ベネチアの作品をそのまま入れる、という方向へと思考が変化していった。多分、日本館でやったことを再現はできない、そこから考え始めることにしたのだ。

ある出来事をその出来事を体験したようには伝えられない。ではどのように過去の出来事と向き合うか?
と、これは、戦争や災害のモニュメントの話と同様であり、作品「津波石」やプロジェクト「宇宙の卵」とも深く関わる問題だし、考え続けた結果がこれになった。

展示は出来上がった。
多分、この展示を見る多くの人は、それが作品でああり、表現であり、ライブだと思うかもしれないが。これはライブ音源の CDアルバムみたいなものかもしれないが、さらにその先を考えている。過去の出来事をどのように残し伝えるか、それが可能か不可能か、を考えた作品であり、それをさらに考えるための装置になっている。美術館へ来る人の多くは「本物はやっぱり素晴らしいなぁ」をしにくるのだろうが、僕らの展示は本物がそこにないことから始まっている。ただあえて疑似体験は持ち込んだが。
ひねくれている? はい。そうかもしれないです。
ベネチアには来れなかったけど、応援してくれたり、期待してくれていた人に、見てもらえる機会だから、そういう人に何が見せられるかもあった。メンバーで全力で作った表現であるので、是非楽しんでみていただけたら嬉しい。(上の階で、鴻池さんが作品表現をパワフルに展示内で展開しているが、それと対比させながら、この奇妙な展示をみていただけたら、少し僕らが何をやりたかったのかが伝わるのかもしれない。)

このような二年以上にわたる思考を、異なる専門性をもつメンバーと行いながら、大きな展示を2つも(さらに2冊のカタログも)作れたことに本当に感謝している。

そして、メンバーはこれを経て、すでにそれぞれの新しい道に進んでいて、それにとても刺激されている。

【勝手にyoutube動画書き起こし】

2020年6月17日 08:41 下道 基行 */?>

【勝手にyoutube動画書き起こし】

NHKスペシャル
「2000年への対話 第1回 日本人はいまどこにいるか 井庭 崇×宮崎 駿」


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井庭崇:
(アニメーションの「美術担当(背景画担当)の才能」について質問)

宮崎 駿:
例えば、美しい夕焼けを描く、なんていう時に。
(記憶の中に)自分がどんな夕焼けを持っているかによって決まるんです。
それは本当に面白いですけど。
持っていない人間はどっかのアニメーションのような夕焼け描くんですよ。あるいは、テレビで見たような夕焼けを描くんですけど。自分が郷里で育って、郷里で何度もその夕焼けをみてきた人間ってのは、特有の夕焼けを持っているんですね。
(略)
経験の違いではなくて、才能ですね。笑
だからその、どういう形であれ、風土性を持っている人が美術(背景画担当)になるべきだと思っているのですね。風土性を持っていれば、何らかの形で世界に対する手がかりになるんですよ。だから一番ダメなのは、多分、アニメーションが好きでずっとアニメーションの美術に憧れて、アニメーションの映画ばかりをずっとみてきた人が、一番学んでいないんだと思うんですよ。


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僕自身が背景画担当とかには興味はないんだけど。
どんな創造性のある仕事においても、こういう、過去の記憶のストックをどのように蓄積されていて、どのように引き出せるか、が、重要なポイントだと思う。
そう言うと。「学生の時に、たくさん作品を見ました。それも記憶のストックです!」と主張する人もあるだろうし、それもそうなんだけど。大人になって学ぶのはロジックとかが多くて。
作品とかと出会う以前の幼い頃の記憶や出会い。そういうもの影響力の巨大さを感じることがある。


と、
ここまで書いて、ふと思ったのは。
だから、
瀬戸内の島へ移住しようと思ったのだな。と言う確信というか。
僕の娘は2歳になるのだけど。
彼女が大人になったらほぼ忘れてしまうだろうこの今の数年に、どんな環境でどんな出会いや体験をできるのだろうか、と最近考え続けていた。その時間はどんどん過ぎ去っていく。そして、それは、住んでいた都市部への疑問になっていた。
愛知では、保育園へ行っても、他の子供や家族との繋がりはほぼない(それちがいに挨拶しても、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、保育園の後に、車が多いので遊ばせる場所も公園だけになるし、公園でも挨拶すらしない人々(挨拶程度で、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、家族や親しい友人家族以外ほぼ会話がない環境、路上も遊ぶには危ないし、自然のような場所も車で行かないとない。

一年前に直島へ滞在した時に、近所の子供達が年齢や性別を超えて元気に遊びまわる光景や、夜になると秋祭りの太鼓の練習が聞こえてきたり、海が近くて小さな森もあって、車のこない路地がたくさんあって、小さな島だけど、多分彼女には十分すぎる大きさだろうし、こういう環境の方が。まず、彼女が小学校に上がるまでは、本気でこういう環境へ移ってみても良いのでは、と思った。そしてすぐに家や仕事の事も考えると、色々な条件が「今の僕らの家族に」ぴったりだった。(「アートの島」にアーティストが住む必要はないかもしれないし。多分、直島へ住むことは全ての人々にすすめられることではないかもしれないし。「今の僕らの家族に」ぴったりだった、だけで、もっと田舎の可能性だってあっただろうし。これも偶然の出会い。)

直島へ移住して3ヶ月。
最近、娘は上手に挨拶をするようになって、ご近所さんにめちゃくちゃ可愛がってもらっている。
全力で「可愛いねぇ」と言ってもらって、たまにプレゼントとかももらってくる。
保育園の後も、校庭や公園で色々な子供達と遊んでいるし、日が暮れるまで外で遊びたがる。
公園に行こうと散歩に出ると、路地にしゃがみこんで昆虫や植物をじっと眺めて動かないくて、目的地であった公園にいく必要がなくなってくる。
もちろん、家ではyoutubeとかをみているけど。

ま、直島は僕自身の仕事へのチャレンジでもあり、家族のチャレンジでもある。
ま、そういう事を再認識した。


2020年5月18日(月) 曇り 直島

2020年5月18日 09:26 下道 基行 */?>

昨日、日曜日の島には、急に岡山や香川の外からの観光客や釣り客が増えた。
徐々に、コロナの流行が収束に向かおうとしているようで、
人々は急激に日常に戻ろうとしているようだ。
昨日の朝、家の入り口の扉を開けると、目の前の普通の道路脇に、テントをはって堂々と食事をする一家がいた。息子は上半身裸だ。
僕の日常に「日常から離れてきた特別な時間(=観光)」がドカンとぶつかってきた瞬間だった。これが直島か。うむ、なるほど。
田舎にいながら、「都市部では急激に人の移動が増えたのでは」と想像していたら、
今朝のニュースでまんまとその予想は当たったようだった。
僕は観光地に住んだことがないが、この島はどんどん観光客が溢れていくのだろうし、僕の日常はどうなっていくのだろう。恐ろしくもあり楽しみでもある。新しい観察の対象であり新しい日常だ。

僕は、手書きの手帳を愛用していて、そこにスケジュールを書くことがもうこの十年くらい続いていた。
それは、ただ、スケジュールを書き込むリマインド的機能だけではなく、
新しく入った展覧会予定を未来に書き込みながら心の準備と興奮を感じたり、終わったイベントに感想を書き込みながら、経験を反芻して満足感や反省に浸ったり、そう言う存在だった。
ただ、今年の手帳は白紙に近い。
それは、ヴェネチア後に国内の仕事が減るのではないか?ということを手帳を眺めながら感じ、島へ移住する気持ちも加速させたし。さらに、入っていた少しの展覧会やイベントもことごとく延期や中止になったし。この2ヶ月間、手帳を開かなかったし、書き込みもしなかったし、そういう気持ちにもならなかった。ある意味で手帳は、自分のペースを確認する道具であり、いつも身に付けて見ていた腕時計であったが、今回はそれを外したまま、忘れていたような2ヶ月だった。

ただ、
先週から再び、予定が再開したり増え始め、急に忙しくなり始めた。
今日、久しぶりに手帳の出番と、引っ張り出して書くことになった。
「よし!仕事だ!やったるで〜!」と言う興奮とともに。
虫の鳴き声を初めて聞き夏休みの終わりを感じるような感覚でもある。

もちろん、前のような日常感覚にすぐには戻らないが、震災の後と同様に、都市部では巨大な正常性バイアスがまた動いているし、一瞬にして前の日常に戻ろうとするのだろう。
リモート飲み会も、いつもは集まれないメンツで集まれて最高だったけど、居酒屋でガヤガヤしたいし。展覧会やトークイベントに浸って静かに脳みそぐるぐる回したいし。嬉しいけど怖い。
7月4日から、ウチの資料館もオープンする。嬉しい。今回は 瀬戸内「百年観光」資料館 と題した展覧会を始める。瀬戸内と直島の百年の観光の移り変わりを考える場所を作ります。過去100年間のガイドブックを集めている。まずは観光客以上に、島民の人にも是非遊びにきて、過去を思い出したり未来を考えたりするゆったりとした時間が作れたら嬉しいし。僕にこの島や瀬戸内の過去の体験を教えて欲しいなぁ。そう言う機会になると嬉しいなぁと思います。毎週土曜、僕が開けます。無料。

当たり前にあった文化や体験の素晴らしさを貴重に感じられる瞬間がまさに来ようとしている。
忘れまじ、この夏を。


春に池で海水浴 続々

2020年5月 9日 05:34 下道 基行 */?>

目に見えないウィルスによって、世界中が同時に翻弄されてる中で、

僕は家ではなく移住したばかりの直島というコミュニティに閉じ込められている。

徐々に外からの観光客がいなくなり、逆に島民たちの生活が見えてくるようになった。

時計が過去へと逆戻りして、数十年前のような小さな島での日々で、
瀬戸内の静かな光や音がキラキラと鮮やかで、それを体全身で受け止める。

家族の新しい登場人物「幼い娘」の存在は、人々との優しい距離感を生み出し、
心のスピードを徐々に減速させていってくれる。

鮮やかに感じているのは、視覚や聴覚ではなく、時間の感覚かもしれない。

時間の流れは子供の頃には戻れない、あの頃のようにゆったりは流れない、ただ、時間の粒子の輝きが子供の頃のようだ。
懐かしいとかそういう感覚は、今の風景に過去の風景を合わせて眺める行為だけど、そういうことではなく、今、この目の前の時間があの頃の感触を持っているようだ。


2011年、東北地方で震災があり、原発事故が起こり、突然、日常の見え方が崩れた。

それは「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにして、それらを疑い続けて生きていくことが、この出来事を忘れないための抵抗だと今も思って生きている。

2020年、今。
2011年と似たような、日常の見え方が崩れる感覚。再び「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにしている。しかも、日本だけではなく、世界中で。(例えば、2011年、関東の電気が福島から来ていたことを初めて知った人も多かったし、2020年、世界中のマスクが中国で生産されていて中国が輸出規制をできることを世界中の人々が初めて知っただろうし。)

ただただ、2011年みたいに、この出来事を心に刻んで忘れない、とか、疑い続ける、という感覚を今の状況では感じていない。
何だろう。その違いは。

2011年に、急に日常が視覚化されさらにガラガラと崩れたように感じるたのを例えるなら、日常が線路の上を走る電車や、道路の上を走る車、に乗って生活していた感覚が崩れた感覚。でも今感じる日常は、すでに、空気の中を進む飛行機や海の上を進む船の感覚に変化したよう。 つまり、引かれた線の上を走る「直線的」で内側や中心からアクセスする感覚ではなく、「空間的」で外側から世界中にアクセスできる感覚、いや内側に外側を感じるような感覚。かな?

とにかく、
時は進む。

2011年にこの国も根底から変わる可能性があったし、その疑問の扉は一瞬開いたが、何も変わらずその扉は閉じて、元の日常が支配し始めた。

2020年、コロナの状況の中、この国が根底から変わろうなどと考えていないこと、そんな希望さえ持つことがバカらしいことが露呈し続けている。
つまり、未来の日常をも、「何も変わらない過去」が支配し続けている。
変わることを期待した2011年、期待することすら馬鹿げていることを十分に理解できた2020年。
そんな感覚。
でも、この国を脱出する必要はない、まずは感覚的/身体的に内側に空や海を持つ事。
もうそれぞれが変わっていき、生きる力を身につけるしかない。

(ただ、外海は結構荒い。笑 「海は世界と繋がっている!」なんて誰しもが考えるが、向き合ってみると、その道が困難である事を同時に感じさせる存在でもある。だから、瀬戸内は穏やかな想像力(妄想力)が膨らむ。のかも。
愛知の海でサーフィンをする時、度々死の恐怖を感じたが、瀬戸内の海に浮かんでいると同じ海だと思えない。)


2020.5.9

2020年5月 8日 09:56 下道 基行 */?>


同じような似たようなイメージやテーマを、別の作家がほとんど同時に作っていることってあると思う。それはお互いがお互いを知らずに。でも、最終的には、どちらかが先にそれを発表してしまうだろうと思う。
何かを作る上で、そういうことって、いろんな場所で起こる。
僕の中では今までに数回起こっている。先を越された方もその逆も。
まず、写真シリーズ作品やドキュメントなどは、制作に何年もかかるから、お金を貯めては取材をしながら、徐々に形になっていく。それに従って、先に同じような作品が発表されることへの恐怖もいつも追いかけてくる。
表現者だけでなく研究者もそうだけど、そういう見えない他者と競争しているような感覚は少なからずあるのではないか? 時代が表現者に与える影響は多いから、誰よりも数百年早い孤高の発見者ではないはずだ。

僕自身、いつもそういう出来事に怯え、胸を締め付けられるたびに、宮本常一がどこかで書いていた言葉を思い出す。(どこに書いていたか思い出せないが、こういうことだったと記憶している。。)
「同時代に、同じような似た研究をしている人はたくさんいる。自分が発見したと思った道には、すでに通った先人がいたりするものだ。ただ、誰かが通った道に見えても、その脇にはまだまだ新しい道を見つけられるだろう。」と。

今の時代、面白いアイデアやタイトルを思いついてドキドキするのだけど、それを実行に移す前に、google検索をかける。検索ワードをタイプしながら、似たような存在がすでにこの世に存在する恐怖がふつふつと芽生える。で、自分のアイデアが凡庸である事を知る。
ただ、そこで辞めないで、自分の道を進めば良い。進むしかない。それを極めれば、それはその人の道になるから。

(だから、誰かに似ているとか、パクリだとか、そういう事を言われて傷つかないようにしたい。けど傷つく。でも、無視して進むしかない。それか、発表する前に似ているのなら、ちゃんと本人同士が先に話すのが良い。根本には相手へのリスペクトが大切。)

春に池で海水浴

2020年5月 1日 12:25 下道 基行 */?>
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瀬戸内の直島に移住して1ヶ月がすぎた。
コロナウィルスの影響で、タイミングが数週間ズレてたら移住できなかったかもしれない。
島内では観光客は日増し少なくなり、美術館などが全て閉まってからは、ほぼいなくなった。
美術館は人気だし、世界中から観光客がやってくる。ある意味それは小さな京都みたい。常に様々な場所に観光客がいる島は、もう20年くらいこういう風景が当たり前だったようだ。
静まり返った風景を「アート以前の島に戻ったみたいだなぁ」と島民は言う。
もちろん、生活を観光に依存していた人々はとても苦しい時期だ。散歩をしたり釣りをしたり浜辺で子供と遊んだり、そう言う光景が増えた。島では夕方のスーパー以外3密にはなかなかならない。
時たま、関西や関東ナンバーの車とかの見知らぬ人や外国人が島をうろうろしていたりする。明らかにこういう観光客は「車で田舎まで行けば問題ないだろう」と思っているのだけど、”田舎”にも人は住んでいるし、小さな島の住民にして見れば、高齢者も多いし「都市部から人が来なければ、こんな自体には、、、」という悪い想像をしてナンバーを見ては身構える。できれば、車で海とか山だけ行くのなら良いけど、スーパーとか生活圏には来ないで欲しい。 
「この島へ移住」って、前向きな挑戦も色々考えたからこそ決断したのだけど、そんな中で”諦めたこと”だってある。その一番は「サーフィン」かな。これは遊びだけど、1-2週間に1回の大切な心と体のリフレッシュだった。「ギャンブルよりはましかぁ」と家族も理解してくれて、細々と続けてきた。笑。
瀬戸内の島に波は立たない。家から海が見えるのに。。。
もし行きたくなったら、フィリーと高速道路を使って高知か徳島。片道3-4時間はかかる。絶望的だ。だけど引っ越しの時、こっそりサーフボードは持ってきた。。。台風とか?_もしかしたら? と淡い期待を持って。

最近、都心部では、コロナの状況で、仕事がなく自由な時間が増えたのか人々が、人の少ない”だろう”場所や自然を求めて、周辺の地域へ押しかけ逆に混雑を招くことが問題になっている。別荘地もそうだし、ビーチやサーフィンもそう。湘南に人が押し寄せて、さらにメディアも煽り、サーフィン協会から自粛のアナウンスが出て、様々な人気のビーチや駐車場が閉鎖される始末。日本中のローカルも(やっているだろうど)自粛ムード。
でも、海の中って、基本的には”都市近く”の”相当有名なビーチ”で”休みの日”とかで”混雑”しないと『3密』にはならないし。今の時期、「人々の移動」は絶対に自粛!!!しつつ、も、それぞれの地元で散歩したり、体力づくりしたり、釣りしたり、様々な楽しいアクティビティとかは各自が気をつけたら良い地域とかもいっぱいあると思う。
全国一律にする必要がどこまであるのか?グラデーションがあっても良いのでは?
サーフィンもパチンコもそうだけど、この時期、叩ける奴らはネットで袋叩きにあうのとかも見てて疲れた。
「こんな時期に娯楽?娯楽は敵だ!」って言うのは、戦時中みたいで正直怖い。
 
で、島の話。
瀬戸内海の島では、絶対に波が立たないし、今は夏じゃないし、誰もビーチにはいないし、絶対に海には入らない。観光客もいないのでなおさら。 島にサーファーはいない。(ウィンドサーフィンは一度流行ったらしいが。)
春日和で浜辺に人が増えても、海の上は絶対にゼロ。つまり、『3密』の逆。絶対に誰とも接触をしない場所。さらに、僕のこの行為をみて、わざわざやってくるサーファーもいないし、サーフィンを始める島民もいない。と言うことだ。
昨日の夕方、こっそり、サーフボードとウェットスーツを車に積んで五分。浜辺へ行ってみた。
誰もいない海。少しだけ暖かい水に滑り出し、パドリングしたり、穏やかな水面にぷかぷか浮いてみたり。
時間も忘れて。時間や会話や人工的な物から切り離される。思った以上に素敵な時間。
朝とか夕方にちょくちょく通おう。波はなくても、体力づくりやパドリングやドルフィンスルーの練習にもなるし。ただ、波がないと30分くらいで飽きる。でもまぁ、それもちょうど良い。(良い波を自粛していないサーファー、ではなく、春に近所の池で海水浴しているバカと思ってください。)
こういう機会だからこそ、ベストじゃなくてもやってみる事、そこから発見できる事もあるだろうし。

(ただ、外に干したウェットスーツを早朝取り込むも、近所の人に、「干していたのは何?ウエットスーツ?何んで?」と。。。島の噂は早いのだ。)


山下陽光氏の《途中でやめる》のメルマガで連載をしていたので、コピペしておきます。
メルマガの読者を意識しているので、こういう文章になっています。がお時間あれば。


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連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】①


本連載を書くにあたり、山下陽光氏が付けてくれたタイトルが、それを読むとすでに活動のネタがバレてしまっているので……、少し過去から遡って、無理に遠回りしながら、この件を連載として書きたいと思う。さらに、この陽光氏のメルマガを僕は読んだことが無いけど、日記のような結構ラフな文章だと思うので、僕も、だらだらと書きながら、校正もせずに、のせていきます。その方が、このメルマガのグルーブ感にもあうと思うので。
では、始めます。

幼い頃、僕は、瀬戸内海の見える小さな自然豊かな集落で育った。小高い山に登ると日々変化する海と島々がキラキラと見えた。通っていた小学校は1クラスのみで信号も1箇所のみのド田舎。小学校の帰り道、小さな駄菓子屋があったが、子供は”買い食い”を禁止されていた。少年の僕はそのルールがどうしても嫌だったみたいで、「学校帰りの山や路地で無料で食べられる物を記した【地図】を作って学校で配布する」という抵抗に出たそうだ。(ある意味”0円”マップ。)そこには様々な山の木の実などが多く記されていたという。ただ、この昔話の結末というのは、クラスの友人たちがその地図で喜びました、おしまい……というものではなくて、実は…その地図内には○○さんちのスイカや農家の畑の野菜も記されていたため、先生が発見するや否や、ウチの親とで謝りに回ったという結末……。この僕の記憶には無い地図の話は、最近になって母親からこの話を聞いた。

で、その昔の自分の話を聞いて、脳の接続で思い出したことがあって、それを次に書くと…。
台湾で農業をやっている地元の友人のアーティストがいて、彼は、ちょっと前に、”ある古い本”を手にしてそれを読み込んで「都市で手に入る植物とその料理」を農業雑誌に連載していた。その古い本というのは、日本が台湾を植民地にするにあたって書かれた本で、台湾全土の植物を調査し、名前や種類や”どのように食べられるか”まで記した物。その中には「味=★☆☆☆☆、苦いが食えなくない」みたいな項目まであって面白そうに彼が見せてくれた。(2009年頃の記憶でうる覚えだが…。)これは当時の日本が台湾を戦時の食糧庫としての価値を考えていて、稲作を持ち込んだりした頃に書かれたものだろうと思うが。その100年くらい前の調査を記した古い本を手に、今の町の風景を見比べながら、今では”観賞用”になった街路樹や様々な”見向きもされない”植物を「食べ物」として再考するプロジェクト(ったと記憶している)があったなぁ、と思い出した。

まぁ、そうそう、僕は、今まさに。”戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクで落札しまく”っているんだけど、今から書こうとしているこの話は、【自分で地図を描く】体験であるだろう。そして、それはただただ自分が思いついた【新しい地図を描く】ということではなくて、【見向きもされない古い地図を発見することによって始まる】のかもしれない。ということ……。

そこから三十年が経った数年前。
突然メールで、「ある瀬戸内の島に研究所を作って欲しい」という依頼を受けて、僕のプロジェクトは動き出す、……のだけど、それは次回!!!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】②


今、瀬戸内海。フェリーの中で、この文章を書いている。
なぜなら、島への移住を決めて、4月から住む家を見に来たから。
新しいプロジェクトをよりディープに動かすために。子育ての環境とかも考えて。
妻と娘と猫と一緒に、島で暮らすことを選んだ。

そういえば、全然話が変わるが、
二年くらい前に、アーティストたちと人類学者たちの対談があり、参加をしていた。(その背景には、人類学者が旅をフィールドノートで記述し論文にまとめる従来の流れから、映像で記述しアウトプットすることが増え、表現やアートというジャンルとの接点が日増しに増えていること、逆にアーティストがある地域に入り込み調査をしながら作品を作る傾向を強め人類学への興味関心が増えている傾向が挙げられるだろう)、その中で、人類学者がプレゼンで映像を空間で見せることを”インスタレーション”という言葉を多用して話していたことに違和感を持った会場のアーティストがそれを指摘した際に、逆に「では言わさせもらいますけど、最近のアーティストたちは”リサーチ”という言葉を簡単に多用しすぎなのが学者としては気になるし、あなたたちがやっているのは”サーチ”ですから!」と反撃を受けたことを記憶している。(まぁ、それぞれの言葉の意味が様々なジャンルを横断して使われ、誤訳されて行くのは逆に面白いことだが、アーティストも心して”リサーチ”という言葉を使わないとと、気を引き締める機会であったが。)そう、リサーチという学術的な「調査」という言葉がアート界では和製英語のような存在で広まっている。そこには”地方での芸術祭”の影響、アーティストの作品の作り方が大きく関係しているのではないかと思う。

現在日本では、行政主導で芸術祭などが花盛りで。オリンピックに向けてお金もどんどん降りている。「現代美術で村おこし」という奇妙な現象がこの20年ほど現在進行形で進んでいる。
現代のアーティストたちは、アトリエで作品を作るのではなく、【依頼された土地を”リサーチ”して】【数ヶ月の滞在で】【地元の記憶などをテーマに】【フィクションなどを手法を交え】【作品を制作する】ことが多くなっている。(もちろん、それも一部だが。)
で、僕自身はというと、過去に芸術祭に参加もしてきたが、最近は特に制作しながら意識しているのは……、【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】こと。そういう創作活動をしてみたいと考えている。そう、天邪鬼なのだ。

そんなある日、ある関係者から突然メールで(メールは突然なものだが)、「ある瀬戸内の島にラボ/研究所を作って欲しい」という依頼を受ける。
さらにその内容は《瀬戸内の風景》に関するラボラトリーのような存在を、《長期》でプロジェクトとして企画運営して欲しく、まずは3年を提案された。その時僕は、幼い頃に瀬戸内で過ごした風景を思い出した。そして、生まれたばかりの娘をどういう環境で育てるか悩んでいるタイミングだったので、移住するのも面白いのではないか、と妄想が進んだ。さらに、この企画は行政主導の”芸術祭”からの依頼ではなく、一つの企業からの依頼であることも面白いと思った。
そして何よりこれは。【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】。ことを実現するチャンスだと感じた。
つまり、
【自分で場所を決めて”サーチ”して】=瀬戸内は広い。島を自分で決めてアプローチもできるかも。
【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】=最低3年は決まってる。し、移住もいいかも。
【地元の記憶には簡単には手を出さず】+【すぐにフィクションなどに逃げず】+【作品を制作しない】=地元の人や旅人が使える図書館のような場所をゼロから作れないかな。
空間内にはまず何もない本棚を用意する。1年に1回か2回、あるカテゴリーを決めて、瀬戸内を調査しながら本や物を蒐集し、展示しアーカイブされ、本棚になっていく。トークイベントや勉強会やメンバーを集めて。最終的には、地元の人や旅人たちが立ち寄る図書館になって行く。でも、物も集めるかもしれないから、図書館ではなく、資料館かもしれない。編集者のように”図書館”を作る。

そう、この話は、瀬戸内のある島に、ゼロから図書館を作るプロジェクト。そして、島へ家族と移住するプロジェクトでもある。
そして……。
次回へ続く!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】③


こんにちは。
瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男(と陽光くんに名付けられた)。下道基行(シタミチモトユキ)です。
陽光くんとは「新しい骨董」というグループを組んでいて。肩書きは美術家/写真家と言われることが多く、今回、直島では”資料館館長”という肩書きも加わりました。みなさま、自己紹介が遅くなりましたが、どうぞよろしくお願いします。
瀬戸内海の島にゼロから図書資料館を作る長期プロジェクトを始動するにあたり、家族で島へ移住を決め、アーティストから資料館職員に転職するくらいの勢いで、愛知県で引っ越し作業中。

さて。
これまで書いてきたプロジェクトの名前は《瀬戸内「 」資料館》と名付けました。「」には毎回テーマを変えて入れていきます。第一回は《瀬戸内「緑川洋一」資料館》。その第二弾を、《瀬戸内「旅の本」資料館》にしようと考え準備を始めていて、だから、ガイドブックを買いまくっている。ということ。
この《瀬戸内「旅の本」資料館》の構想としては、「戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく」って、1920年くらいから2020年まで100年間の瀬戸内のガイドブックが空間に100冊くらいが時系列にバーーーと並んでいるイメージを持って進めている。テーマの一つは《瀬戸内の「観光」を再考する》。資料館の立地は香川県の直島の港の側で、旅人にも地元の人にも愛される資料館にしたい。(新刊で販売されている書籍は著者や出版社へのリスペクトも込めて、新品で購入するようにしている、ことを書き加えさせてください。。)

例えば、僕の勝手なイメージ。
何気なく直島へ来た旅行者が、ふらりとこの資料館に立ち寄る…、するとガイドブックが並んでいて「やったー!このガイドブック、旅行前に買おうと思っていたんだぁー」とか言ってパラパラめくっていると、その横に数年前のガイドブックが……、さらに横には……とずらりと過去のガイドブックも並んでいて、手に取り開いていく……。行くつもりだったカボチャのオブジェやカフェ飯屋もタピオカ屋もない世界へ……。徐々にタイムスリップしていく……。そんな仮説的な図書館。

今、ヤフオクやメルカリで買いまくっている「るるぶ」等は、今も本屋で毎年更新されながら大量に売られているガイドブック。数年前の「るるぶ」やガイドブックって、お店も変わるし、情報も古くなるので、すぐに使えなくなってしまうことが多い。だから、人々はどんどん捨てるし残らない。公共の図書館にもあまり残されていないし、価値が少ないからbookoffとかでもなかなか手に入らない。もしヤフオクで見つけても、価格も100円程度で、誰とも競り合わない。ある意味、今、ここは独壇場。
この捨てられているガイドブック=情報を、蒐集し、並べてみることで、過去から新しい発掘、いや未来を想像してみよう、というだ。
民俗学者の宮本常一たちは1960年代高度経済成長期に、生活スタイルが変化し、古い道具を人々が捨てていく中で、それに危機感を持ち、道具の蒐集を行った。なんか、そういう感じで、捨てられる情報を蒐集して、そこから何かを見つけることをやってみたいなぁと。

この100年のガイドブックが並ぶと、どのような発見が起こるのだろうか?

例えば、直島だけに、フォーカスを当ててガイドブックを読み進めると。
1990年代の「るるぶ 山陽瀬戸内」や「るるぶ 香川」で、直島を探すと、”その他の島々”というあたりのコーナーに、白黒ページで少しだけ載っている。まずは海水浴場やキャンプ場のみ。そして徐々に美術館も記載され始める。ページも1ぺーじの半分くらい。それが急に、2000年代から徐々に”アート”という言葉が目立ち始め、カラーページになる。さらに2010年には瀬戸内国際芸術祭が始まり、カラーで数ページの特集が組まれるようになる。さらに、最近はこのインターネット時代に様々な出版社から”アートで島旅”的なガイドブックが続々出版されている。
そんなこの島で起こっている20−30年の急激な「観光」の変化が見えてくるだろう。

島で図書館のようなものを始めようと思った時に、まずは、島の2件の小さな図書館を調査することから始めた。なかなかこじんまりとして素敵なのだが、まず誰にも使われていない状況が目に付く。そして、本棚にどのような本が並んでいるかを見てみる。その時代ごとの流行りの小説やある意味”島民の娯楽”のために本を購入していた傾向がみえる。色あせたトレンディードラマが並んでいるような本棚は循環を止めている。そしてインターネットの波が押し寄せ、誰にも使われなくなっている。
そういう意味で、みんなが使える図書館を始めようと思うと。まずは、ありとあらゆる種類の本を購入して並べていく必要があるだろう。もちろん、今流行りの本もいるし、もっと時間の尺度の長い専門書や絵本など色々な取り揃えが必要になるだろう。(もちろん、これは空間の話ではなく本棚の話。空間によって”みんなが使える”ことも考えられるのだけど。今は本のセレクトの話を書いている。)
ただ、前回書いたように、僕は天邪鬼タイプの人間で、さらにわざわざ作家として図書館をゼロから作るのなら、”みんなが使える”という”公共”方向で”浅く広く”ではなく、超片寄った蒐集を行い特化した本棚を作りたいと考えている。司書でもない男が勝手に作る”アウトサイダーライブラリー”。目指せシュヴァルの理想宮。もちろん、テーマ自体が「瀬戸内」なので、すでに特化している図書館ではあるが、さらに、極端な…。そういう意味で、毎回テーマを決めて蒐集し展示を行うのだけど、そのテーマで日本で一番蔵書が多い図書館にしたいと密かにチャレンジしている。
例えば、第一回の瀬戸内「緑川洋一」資料館では、瀬戸内の写真を生涯撮り続けたこの写真家の書籍を集め、展覧会も開催したし、本棚/アーカイブも作ったのだけど。日本で一番!の「緑川洋一」の蔵書を作りたい!と考えた。現在のチャンピオンは、(国立国会図書館以外では)東京都写真美術館の図書館であり、僕は密かにここを超えることを目指した。で、今回の「瀬戸内のガイドブック」に関しては、高松市図書館も多いが、何と言っても日本交通公社(JTB)がやっている「旅の図書館」がチャンピオン。日本一の旅行業者が運営する「旅の図書館」であり、『るるぶ』もJTBが出しているわけで、なかなかの強敵。ただ、「瀬戸内のガイドブック」に関しても、すでにうちの方が蔵書は「旅の図書館」に匹敵する。なぜなら、「瀬戸内」に特化しているから。
つまり、今の所、ホームページはないが、「緑川洋一」「瀬戸内のガイドブック」を探し求める人にとっては日本一行ってみたい場所にはなっている(はず)なのだ。
では、次回。




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】④

”リサーチ”という言葉を使ったことはあるだろうか?
本来、学術的な調査の意味で使用されるべき”リサーチ”という言葉が単に”調べる”くらいの意味で誤読されて使われている話を一昨日書いた。では、”アーカイブ”という言葉はどうだろう。最近色々な場所でよく聞くようになった。アーカイブというのも、「保存する」とか「残す」とか「集める」とかその程度の意味で使われているかもしれないが。本来、アーカイブというのは、収集する者のこだわりや取捨選択を排除して、徹底的に集め保存することを言う。だから、そのアーカイブという存在は、蒐集者の意図を超えて、未来に様々な人々が様々な利用価値を見つけ使えることを含んでいる。
僕は、プロジェクトで本棚のカテゴリーは自分で取捨選択して考えるが、そのカテゴリーの中で蒐集する本に関しては個人的な取捨選択はせず、できる限り全て集めるつもり行っているのが《瀬戸内「 」資料館》の特徴だろうか。
《瀬戸内「旅の本」資料館》に関しても、同様に、旅行ガイド本を徹底的に集めている。そして、前回、それらの集められた旅行ガイド本から「直島」だけを探しながらこの30年を見ていくと感じられる事を書いたが。多分、発掘できる大枠としては「観光」ということにはなる。つまり、僕の興味としては、「直島」「アート」という検索ワードであったが、別の人は別の検索ワードでこの本棚から何かを発掘できるだろう。例えば、、、「映画」の専門家と「瀬戸内の映画と観光」を考えるとか? この旅行ガイド本を、色々な興味のある人々と読み解き、色々な発掘をしてみたいなぁと考えている。
ま、つまり、このプロジェクトの中には、「作家の意識的な編集」と「作家の意図を排除したアーカイブ」の両方を持たせながら、自分の範囲を超えた存在にしていきたいなぁ…と妄想している。
(そういう意味では、今回陽光くんがやっていた”0円ショップ”も蒐集する人の意図を排除しているからこそ、他の人が新しい価値を発見することができるのかもしれない。)
よって、”瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく”っているのだ。そして、すでに、「るるぶ山陽瀬戸内」「るるぶ香川」に関しては、すでに買い占めていしまい。大海に釣り糸を垂らす釣り人のようなに、新しい出品を待つ状態になっている…。

と。なんか難しい話になってきたので、
次回は、直島へ移住を決めた理由を話して、最終回としたい。




連載【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】最終回  ー後日加筆ありー


昨年、このプロジェクト、《瀬戸内「 」資料館》の準備のために、直島に滞在制作していた時。ぼんやりと、家族でこの島へ移住してしまうことを想像した。本当に島へ移住するためには絶対に外せない条件を考えたら、次のような事を思った。それは、島の生活が、【自分の新しい表現活動の実験場になること】【家計を支える方法があること】【子育ての環境が良いこと】【猫も一緒に住めること】【家賃がかからないこと】【東京にも出やすいこと】など。

【自分の新しい表現活動の場になること】
瀬戸内の島々を調査してみたいし、その拠点になる。
さらに、このプロジェクトを行うために与えられた空間/物件が、ただの展示空間ではなくて、本当に僕自身の研究室(のよう)になると、もっと僕自身に館長らしさが生まれ、空間も資料館らしさが出て最高だろうなぁと思った。そのためには通える近さに住むのが良いと。(いや、逆にこの空間の近所に住めば、自宅の側にスタジオ/仕事場を持つ夢の環境を手に入れられる?実際は展示を準備し続ける公開制作として。)さらに、空間の地元に住めば、アートのための旅人だけではなく、地元の人が近づいてきて、通ってくれるような場所にするにもそれが必要なのではないか?そんなことを感じた。

【家計を支える方法があること】
家族での"共働き"の可能性も考えている。し、島でその可能性が見えて、家族で挑戦しようと踏み切れそうだ。
これまで、2001年に大学を卒業をして、東京で仕事をしながら、細々と表現活動を始め、2005年に写真集を出版、さらに、2010年くらいから幸運にも”アーティスト”としてデビューの場が与えられ、その後も展示の機会や表現の場が徐々に得られる環境にあり、(大学卒業から)20年くらい経った今。震災後くらいから、展示やプロジェクトの仕事が増えて、年間に5個くらいの企画を持っていると、徐々に大学卒業後からお世話になっていた仕事場に出られる機会が難しくなり、ギリギリながら”アーティスト”として「だけ」で生活をしていくことになり。そこで結婚し子供が生まれ。生活はギリギリながらも、東京を離れ、実家に寄生したりすることでなるべくランニングコストを抑えつつなんとか家族とサバイブしてきた。
そして、年齢としては40歳を超え、経歴に書く活動も年々増えた、(それは本当に幸運で恵まれている) が。それはつまり、、、「下道?あぁ、あの作品の作家ね」と、”ある程度認知”され、”中堅”というキャリアに押し上げられたというタイミングなのだ、今。それは、デビューできて、さらに活動を続けた20年があり、幸運なことなのだけど。”中堅”になり、国内で認知された瞬間に、(言い方が非常に難しいが、、つまり)”若手のように仕事を誘われなくなる”ようになるだろう、と感じる。そしてその予兆をこの年末になんとなく感じた。(そこには僕の作家スタイルが「コマーシャル」ベースではなく、「プロジェクト」ベースであることも関係しているかもしれないが。) キャリアや略歴は一つの”信用”を得る大切なものだが、それを持っていても、仕事がなければ、収入はゼロなのだし。(いや、企画展で展示をしても、いつも収入的には非常に厳しいが。)
で、生き方のギアを入れ替えよう、と。本気で実験。
(もちろんアーティストとしてのキャリアアップの方向性も考えられるが、まず)アーティストとして「だけ」で食べていく、とかではなく、共働きや副業やそういう可能性や、もっと根本的にいろんな生き方を、もう一度挑戦してみよう。と。(←山下陽光の影響かも)

もちろん、加えておくと。表現活動をさらに洗練して作り続けることは、大前提で考えている。それが自分の”仕事”だと思っているから。だから、発表や新しい挑戦の場所はいつでもウェルカムなのだけど。
(まだその渦中にいるので、なかなか書くのが難しい話だが、書いてみた)

【子育ての環境が良いこと】
島は地元のコミュニティがかなり強い。で、僕は幼い頃にそういう”田舎な”環境で育って、大人になって、東京や愛知など都市部で暮らしてみると、しがらみのない都市部ではなくコミュニティが小さい地域に住むと色々と面倒なことも多いけど、人と人の付き合いがやはり深いと感じることが多い。人と人との付き合いを大切にする土地で子育てをしてみたいなぁと漠然と考えていたから、そこも挑戦してみたい。なんとなく、都市部では子育ての環境っていうのもサービスとして提供されている気がするけど、田舎ではちょっと違うと思っている。持ちつ持たれつ。(←KOSUGE1-16の影響かも)
ただ、直島は「アートの聖地」なんて呼ばれていて、なんだかそれは引っかかる。それに付随しての観光業も盛んなのも引っかかる。でも、小さな地方の島なのに、外国人が島内でよく目にする環境、それは面白いかもしれないし、その客層が独特で少し変。上品?な客が多いとでも言おうか。多分その理由は、この島へ来る観光客は美術館が目当てであること。島の美術館全てを見て回るとそれだけで6000円くらいかかるので、アートや文化への理解と興味のある人々しか来ない。治安がなかなか良い。で、夜になると、このど田舎の飲み屋は外国人だらけだったりするが、逆に、秋の夜に、フラフラ集落の路地を歩いていると、秋祭りのための島内に笛や太鼓の音が聞こえてきて、急に古い日本のローカルな風景を感じる。昨年滞在制作をしながら、このどこにもない環境に、子育てが結びついた。
今後、瀬戸内国際芸術祭を中心とした「アートで観光」はすぐに過去になるのではないかと思う。ただ、この島はアートの関係の仕事だけで回っているわけではない。で、今のこの島のバランスはかなり特殊で面白い。もちろん、海や山はすぐ目の前。車はほとんど走ってなくて静か。瀬戸内の島の風景は日々の気象状況で激減するような、繊細な季節な気象を感じる風景というのは、都市部では感じにくい。島内の保育園や学校もなかなか充実している。
これらは子供が育つ環境としては、面白いのではないか?と。
ま、今から、住んでみないとわからないが。

【家賃がかからないこと】
2008年からもう10年以上、実は、家賃を払ったことがない。難しいようだが無理ではない。それは色々な人や隙間に寄生していきてきたから。例えば、8万円くらいの家賃が0円になったらそれだけで結構暮らせる、いや死なないし。逆に、浮き沈みのある職業で、常に毎月8万円とかを払っていたら、何かあった時にすぐにマイナスに転落する可能性がある。頑なではないが、できれば、家賃をほぼ払わない生活を目指したい。島では、まずは三年それに近い生活が可能になりそう。

【猫も一緒に住めること】
だって、大切な家族ですから。

【東京にも出やすい】
いやいや、島から東京までは4時間半かかるから、これは無理だ。ただ、年間3回くらいしか東京へは行かないから問題ないかも。その時にみたい展示とかも見れれば。友人たちもそこまで東京だけにいるわけでもないし、。いつも考えてしまう項目だけど、もう、要らないかなぁ…。まぁ直島は岡山や高松に15分とか30分程度で行けるし。ネットもあるから。


という感じ。で書いてきましたが。
多分、簡単にいうと、
根底には、自分たちの生活を大きな何者かに極力依存させられたくない、という感覚が強いだろう。「たくさんお金を稼げるし持ち家があって貯金しているから、何かが起きても安心」なのではなく、人との繋がりを大切にして、家賃などのランニングコストを抑えることで、逆に「何が起きても動じない」生活を確保する。さらに、「いつでもどこかへ動けるような気持ち」を持つ。これは、震災以降から変わってしまったこと。疑い続けてやる。
だから、なんか、これまで、移住、移住、書いたが、引いてみれば、ただの移動ですね。これは。なんか、移住という言葉には「田舎へ」とか「上京の反対」の感じがするので。
下道、直島に、移動しまーす。


ということで、
下道基行でした。

《瀬戸内「 」資料館》の写真もあるので見てみてください。
http://m-shitamichi.com/setouchi

《瀬戸内「旅の本」資料館》は今年の夏頃、オープンします。
オリンピック見たくない人、是非、ゆっくりと島へ遊びに来てくださーい。

拙文、失礼しましたー。


2019年12月15日 09:54 下道 基行 */?>

基本、グループ展は、学芸員が文脈やテーマで選んだ複数の作家を同じ空間内に壁を作り並べる。
今回の日本館の展示では、学芸員が選んだ作家や作曲家や学者や建築家が、同じ空間内で話し合いをしながら一つの空間を作っていった。そのために、多くの会話がミーティングやチャットや旅やイベントの中で行われた。見えない学芸員の仕事は、参加者同士の丁寧な関係作りを意識したキュレーションだった。

今後、近い未来、学芸員による”コレクティブ”を語る”壁のない””グループ展”が多く行われていく「かも」しれない。コラボレーションや壁がない展示は何だか言葉として美しいし。でも、それはかなり難しいだろう。普通、各作家の作品を守りながら並べていく従来のグループ展の脳では、作家同士にダイレクトにぶつけ共同作業を行わせることはなかなか困難であるし、作家として想像するだけでゾッとする。たくさんの事故が起こるだろう。(ま、その事故を引きで記録して、「共同は難しい」と批評的に語るのも出来なくもないが、それは悪趣味ではないか。)

そういう意味で、今回の日本館の展示は、作家さんの展示として強いものかは分からないが、面白い独特のバランで成り立っていると思っているし、少しだけど新しい。そして学芸員の言葉を借りると”ポジティブ”なバランスで成り立っている。そして、このバランスは意外と難しい。

個展オープン。

2019年10月18日 00:11 下道 基行 */?>


IMG_9226.jpg

大原美術館の向かいに立つ大原家別邸「有隣荘」での展示が始まりました。
沖縄でのシリーズ、さらに新作が少し。すごく良い形で発表できています。
秋の素敵な時期に倉敷の街並みを散歩しつつ、ぜひ。


漂泊之碑
下道基行
2019年10月18日(木)~11月4日(月・祝)※会期中無休
10:00~16:30(16:00入場締切
会場 :大原美術館 有隣荘(大原美術館本館向かい)
料金 :
有隣荘入場券 一般:1,000円、学生:500円
セット券 一般:1,800円、学生:1,000円
※セット券にて、有隣荘と大原美術館(本館、分館、工芸・東洋館)をご覧いただけます。

あぁ、また、このシリーズね。と、思われた方。。今回がもっとも良い出来です。ぜひ。。

渚三彩 Three-colors glaze on the beach

2019年9月14日 07:51 下道 基行 */?>


ガラス.jpg

size: 300×300×9mm

浜辺に漂着した様々な国のガラスを砕いて並べて「板ガラス」を作っている。
2015年から食器を作り始めて以来、どうしても作りたく思っていて、ようやく着手でした。

沖縄の浜辺で拾うガラスで最も多いのが台湾の”PAOLYTA"保力達"という名のドリンク剤の《茶色》の瓶。
さらに、次に多いのは中国の白酒(中国の焼酎)の《透明》の瓶。
あとは、風の向きと関係するが、韓国の焼酎の《緑》の瓶も多い。
そう思って見てみると、浜辺に流れ着くガラスは、3色《透明》《緑》《茶色》がほとんど。
(《緑》=ビールなど、《茶色》=ドリンク剤系、ウィスキー系なども)
それらを窯で混ぜて再生せず、3色を残すために、板の上に並べてそのまま焼くフュージングという手法で今回は制作。バキバキに割れるのでひびを継いでいる。
今回はタイトルを「沖縄ガラス」から「渚三彩」(なぎさんさい、とリエゾン/駄洒落)に変更し別シリーズにした。
理由は沖縄だけではなく福岡の海岸も歩いて瓶を収集したから。福岡で行きつけの海岸は漂着物研究家石井忠さんの歩いた浜辺。さらに、制作協力は倉敷芸術科学大学のガラス工房と凄腕のガラス作家さんたち。
たくさんの協力の元、2014年から始めた浜辺の漂着瓶からのガラス製作も最終段階に入ってきている。
公開は2019年10月18日、大原美術館/有隣荘での個展。さらに11月に韓国ソウルでグループ展。
漂着したガラス瓶は別の形になって再び旅を始める。

まだ試作品ですが、とても美しく、日々、窓に立てかけて眺めている。

小さな実験

2019年7月13日 22:43 下道 基行 */?>

Facebookとtwitter から少し距離を置いた。
アーカイブは消さず、「辞めます」と日記に書き込んだ。
全然何も考えず、突然思いついて実行してみた。

今日、別の用事で陽光くんに電話したら「辞めたみたいだけど、何かあったの…?」と心配され。
そうか、突然やめると、何か嫌な思いをしたのでは?と心配されるのか…。理由を考える。
きっかけがあるとすると、うーーーん、、、例えば。先日、中国に旅に行った時に、せっかく知らない土地にいるのに、面白いことがあった時にすぐにtwitterにアップしていた自分がいて、さらに、その後の旅の中でバス移動の時とかに、その記事への反応が気になってtwitterをよく開くようになったこと。とか。
見てしまうし、あげてしまう。だから、断ち切ってしまう方が良いのではないかと思った。やっていても付き合えるのなら良いが僕の場合何かを奪われている感覚が最近強かったので。

さらに、最近、このホームページに日記を始めた事も理由の一つ。
誰が見ているか、わからないが、たまに草抜きとかをやっている自分の庭のような場所。
先日、沖縄に行った時、「ホームページで日記始めたね。見てるよ」と一人から突然言われた。
あぁ、見る人は見るし、見ない人は見ない。それで良いのかもと思った。
みんなが同時に見て、同時に反応し、反応される、それは時として静かな過剰な期待になってしまう。僕の場合。
幼い頃、見せてもらえないテレビ番組や買ってもらえないゲームや雑誌があって、クラスの話題についていけない事があったが、今思うと何の問題もなかった。それに近い事が起きるのではないかと思う。つまりシェアできない事が増えるが、さほど問題がない程度のこと。
少し孤独な作業が欲しいのかな。人にではなくただ自分と向き合う方向性。人からの反応への過剰な期待に煽られている自分。 孤独に書いて、それを誰かが覗き見るだけ、の方が今は良いのかな。娘の事とか、サーフィンのこととか、SNSにはあげないようにしていたが、この自分の場所なら何か書いてみようかな。
とにかくとにかく、Facebookとtwitter をやめてみた。
小さな実験。

TCAA

2019年7月10日 09:49 下道 基行 */?>

Tokyo Contemporary Art Awardという第一回の新しい賞をいただくことになった。これについて少し書いておく。
この数カ月間、美術手帖のサイトのトップページに記事がバンバン出ていたのでご存知かもしれないが。笑
東京都が、いや元ワンダーサイトが、いや、名前が変わったばかりの東京都のアーティストレジデンスTOCASが(くどくてすみません…)、新しい賞を作った。風間サチコさんと共にいただけたのは何より嬉しいし心強い。
(色々とご意見もあるかもしれないが、)僕自身は2010年から1年間、ワンダーサイトに滞在し、何よりたくさんの世界中のアーティストと出会えたことは本当にその後10年近い年月の原動力になっていたし、財産だと思っている。
今回のこの賞は、「中堅」に与える賞だという。だからと言って、今までの活動に対しての”頑張ったで賞”ではなくて、今回の審査員のスタジオビジットや相談をしやすい環境作りやこの賞を企画し支えるのがアーティストレジデンスのTOCASであることからも、「中堅」の海外での活動やさらなる活躍のために送られる応援、”あなたならもっとできるで賞”だろうと思った。で、僕に何ができるのだろうか悩んでいる。いや、悩んでいる暇はない進め。
今年は、5月に娘が生まれて、数週間の旅から帰るたびに劇的に成長する彼女に驚きながら過ごしている。「生きる」「生かされる」と言う感覚が揺さぶられて仕方ない。
「中堅」と言う言葉は重い。2010年くらいから若手としてポツポツ仕事が増えてきたが、2013年くらいからようやくバイトをやめて作品づくりのみの生活になったが、そこから5 年程度で、もう中堅。ま、中堅なのだ。
少年時代から大学生まで、溜め込まれていた”世の中に出るための準備”が一気に吹き出していくのを「若手」とする。(音楽でもそうだけど、デビューアルバムはいつも美しいのかもしれない。そこには様々な言葉にできない混沌と様々な過去の影響がないまぜになって発散されるから。)そこで幸運にもデビューできて少し認知されると、今度はそれを自ら乗り越えながら進んでいくだろう。その途中に「中堅」があるのか? いや、振り返る暇などまだない。
今、僕が何を書いても、「リア充」だ「自慢」だと言われるだけなのだろうけど。笑。いや、全然笑えない。今、沖縄那覇の1800円のゲストハウスのドミトリーのベットの上で、発表の予定もない作品の構想を悶々と考えている。韓国資本らしく、スタッフの青年が政府同士のいざこざで起こったお客のキャンセルを嘆いているのを聞きながら。
もちろん恵まれているとは思う。こんな時間を与えてくれる家族や応援してくれる人々。ただ正直、なぜ生きているか分からないほどの生活が目の前にある。詳細は書かないが本当だ。安定を求める気持ちをぐっと抑えながら、不安定極まりない状況下を、道無き道を手探りで進む日々。後戻りなどできない一本の道を、自分の感覚を頼りに。
そして、なんか、注目されることで、色々と人に好き勝手言われて、心が少し落ちることもあるけれど。足を引っ張られてる暇はない、進むしかない。杭は出てしまった。叩かれたら凹んでしまう心がここにはあるのだけれど。自分の前のこの世界を自分で全力で楽しみながら駆け抜けるしかない。娘が免疫を作るためによく高熱を出しているが、僕も熱を出して免疫を作っているのだろう。


TCAAはすでに2回目の公募を開始した。
TCAAは、選んで賞金あげて終わりではなく、色々と相談にも乗ってくれるし、並走してくれると思う。
もし、興味のある方は是非。

ご報告まで。

沖縄 ガラス

2019年7月 9日 18:41 下道 基行 */?>
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沖縄に来ている。
2014年から始まったガラス製作のため。
1年に1,2回のペースで琉球ガラスの職人さんの工房にお邪魔しいる。今年も。
普通、展示の滞在制作でやってきたら、展示が終わったら、その土地との関係は切れがちだけど、
僕の場合、2015年の展示の時点でスタートラインにも立てなくて、悔しいので毎年通っている。
これは、地域芸術祭や参加作家の一過性を否定したいのではなく、
僕の場合、短時間でのスマートな作品へ落とし込めず、全然終わりが見えないだけなので、
本当に自慢にも何にもならない。本当にいつも悩んでいる。
無理に関わり続けるなんてホントお互いに良くないし。
でも、この島になんとなく顔見知りや行きつけがずいぶん増えたのは嬉しい。これは自慢かも。

補足 14歳

2019年7月 8日 23:54 下道 基行 */?>


[14歳と世界と境]について文章を書いた。
http://www.nmao.go.jp/publish/news232.pdf
文章は5ページ目にある。このプロジェクトに興味を持ってくれる方にはオススメ。


ただ、さらに、
そこでは書ききれなかったことやよく質問を受けることを少しここに書いておこいうと思う。
上の文章を読んでからの方が読みやすいです。

【無料である事の難しさ】
この1ヶ月で札幌と沖縄で朗読会を行なった。
どこかの会場で[14歳と世界と境]の本を僕が読んだりみんなで読む。
本は電気がいらないので、どこでも気軽にできるのは良い。
友人がスペースに呼んでくれたり、今後は河原とか公園でもやりたい。
朗読会というのを、生まれて初めてやってみているのだから、これが正解かはわからない。でもなぜ朗読会を行うのかというと。実は朗読会をしたかったわけではなく…この本を作りたい気持ちや本を旅させたい気持ちが、朗読会という形になった…のだ。
なぜなら、「この本は無料」だから。無料でもらえるものは無料の扱いを受ける可能性が高いから。だから、「イベントに自分で予約をして来てくれる人」に「僕がサインを書いて手渡しをする」ことによって、お金ではない何かを交換したいと考えている。実は今回沖縄ではたまたま誰かの誘いで朗読会に来ていた人がいて、その人は本を会場に忘れて帰っていた。ま、自分にモチベーションがなくて、無料となると悲しいかなそうなってしまうのだ。300部しか作っていない。会場の椅子に置いて帰ったり、家に帰って本棚にポンと置いてそれでおしまいではなくて。一人目だけでも、なるべくモチベーションのある人に手に取ってほしい、と。その気持ちは薄れていくにしても、回っていくうちに何人目かの誰がこの本自体から感動してモチベーションがまた現れるかもしれないし、自信作だし1人目くらいはしっかりと渡したいな、と思っている。そういう理由。
あと、他の理由としては、プロジェクト「14歳と世界と境」を香港の美術館で発表した展示の中で、この本の制作を思いついて、展覧会内で制作を行うことになった。そこで、展覧会の中で1冊ではなくて300冊の本を作る理由として、「これはパフォーマンスの道具です」という言葉で語った。それは「この本を人に配る方法」を決めた瞬間だった。本を使った下道のパフォーマンスとしての朗読会でもある。ただ、パフォーマンスも朗読会も未経験だったものとして、「この本を人に配る方法」を模索している。というわけです。


【なぜアジアなのか?】
もう一つ、「このプロジェクトは欧米ではやらないのですか?なぜアジアなのですか?」という質問への気持ちをかくと。
この本は、僕がシリーズ「torii」で、韓国をはじめとしてアジアの国々を何度も旅をしたり滞在制作をした時の経験や疑問から始まっている。それは、人と人はもちろんすべて分かり合えるわけではないを前提にしながらも、ただ、歴史などの”学校教育”の違いによって、政府同士でもないただの個人と個人のただの夕食のテーブルに時折登ってしまう、分かり合えないような関係性にもどかしさを感じること、そのようなそれぞれの国家によって植えつけられる”教育”を飛び越えて、いや、◯◯人と▷▷人という立場、さらに大人と子供という立場をぐるりと入れ替えて、お互いのことを考えられるような体験を作ってみたいと思ったのがきっかけ。
この本は、政府の悪口などは一切書いていない。トランプ?安倍?キム云々?そんなの一切書いてない。ただの14歳の世界の話。だから、政府に疑問を持とう!という方向性ではなくて、小さな世界の話をシャアする事で人々の気持ちを揺さぶってみようと考えている。子供の感覚から大人が影響されるような。
中国では他の国のニュースや新聞を持ち込む事は難しいそうだ。ただ、この本には何も政府を転覆を広めるための言葉は一切書いていないし、それを望んでいる方向すらない。だから、普通に自分の幼い頃を思い出して、誰しもが読めるただの本に仕上がっている。だから中国の人も普通に読んでほしいなぁと思っている。ただ、根っこには、学校教育の問題への疑問がある。でもそれは、自分自身の日本の歴史や道徳やその他学校教育に対する疑問でもある。14歳の言葉を隠喩として使って国家や政府の悪口を言いたいわけではなく、14歳の世界観に触れる事で、国境を飛び越えられる共有感覚があるのではないかという希望。
14歳は大人の常識を受け入れなくて最後に抵抗する時期。この頃の疑問に大人は答えられるのだろうか?


【マレーシアのWS】
そういえば、実はマレーシアでもこのプロジェクトは行われた。ただ、ちゃんとした新聞連載にはならず、新聞社の方針が強い状態での掲載になった。奥付の中に協力者の名前などは入れているが、あとがきの文章内に、マレーシアの文字が入っていないが、これはミス。台湾は括弧書きで書いていたし。

という事で。
ちょっとtwitterとか色々疲れるのでやめました。
facebookもやめたいのだけど、メッセンジャーをものすごく使っているから、やめられえない。。
だから、たまに「ここに」日記を書く方向は続けようかな。
少しオープンな日記帳みたいな。たくさんの人に読んでもらう必要はない。
自分の頭を整理しながら言葉にしたい。

以上

14歳の小さな風景/旅する小さな物語

2019年7月 8日 21:18 下道 基行 */?>

14歳の小さな風景/旅する小さな物語


 時が過ぎ、忘れられられてしまうような些細な日常を、記録しながら世界を旅して本にまとめてみたい。そんな活動に憧れていたのは大学時代に出会った『忘れられた日本人(宮本常一著、一九七四年、岩波書店)』を読んで以来だろうか。

 かつて、そんな表現活動に最も適しているのは「旅をしながら、雑誌に連載してプロジェクトを進め、最後に一冊の本にまとめる」という手法だった。大学卒業後に、旅をしながら制作した作品を手に様々な出版社を回った。そして一度だけ、雑誌連載と本の出版を経験した。ただ、僕が大学生の頃にはまだまだ元気だった雑誌や書籍はインターネットの台頭によって次々に出版が難しくなり、さらにスマホの普及で誰しもが日常を記録しアウトプットするような時代の急激な変化を肌で感じながら、表現手段を常に模索してきた。そんな中で、2012年に自分自身で小さな出版社を立ち上げ自ら本を作り販売を始めた。さらに、もう一つ、地域に根ざした芸術祭や展示への参加が増え、2013年よりそれらの枠内で、それぞれの土地の人々のインタビューを行い、それぞれ別の土地の新聞内に同じ連載を行なっていくことを始めた。それが「14歳と世界と境」というシリーズ。

 具体的には、様々な場所の中学校で特別授業を行い、授業の中で生徒たちに「あなたの日常にある境界線を探してきてください」という課題を出した。数日後、2回目の授業内で、彼らは日常の中から見つけたそれらについての文章を書く。彼らが書いた文章は、地元新聞の協力を得て紙面上に小さなコーナーを作り週1回の連載として発表した。彼らの小さな世界の境界線の話は国際問題などの大きなニュースと並んで発表される。

このプロジェクトは、あいちトリエンナーレ2013、アジアン・アート・ビエンナーレ2013(台湾・新聞連載は実現せず)、岡山芸術交流2016、光州ビエンナーレ2018(韓国)その他、香港や、今年(二〇十九年)はフランスで行う予定で進行している。生徒たちの文章を少しここで紹介したい(引用は原文のまま)。


・男女に違いがあるため、私は男の子と存分に遊べない。小さい頃はこんな感じはなかった。以前、ある男の子とすごく仲良くしてたが、いつも周りから付き合ってるみたいと言われたから、一緒に遊ぶのも気をつけるようになった。
(香港の14歳/将来の夢:看護師)

・僕は今まで犬を2匹飼ったことがある。一匹は、2年前にあの世に行って、一匹は1年前に連れてきて今飼ってる。今飼ってる犬を見るたびに死んだ犬のことが思い浮かぶ。死んだ犬によくしてあげられなかったから、今の犬にしてあげること全てが、死んだ犬を差別してる気にもなる。だけど死んだ犬は死んだ犬だし、生きている犬は生きている犬だ。死んだ犬に申し訳なさとして、今いる犬によくしてあげて、できることをしてあげるのが正しいと思う。
(韓国の14歳/ 将来の夢:小説家)

・僕は家で生物を飼うのが好きです。魚は飼ってもいいんだけど、この前に蛙を飼ったら、「汚いから飼っちゃダメ」と怒られました。なので、虫やカエルなどはこっそり裏の外で飼っています。
(日本の14歳/将来の夢:親の仕事を継ぎたい)

 中学生の心はいつも揺れている。その理由のひとつは、大人の社会の”常識”をまだ受け入れられない境界線の時期だからなのではないか。ただ、彼らはすぐに大人になり、”常識”を身につけていく。彼らの言葉にはまだ「常識に対する疑問や反発」がある。そして、彼らの小さな世界の境界線の話は、大きな世界の境界線を越えて世界を繋ぐ力を秘めているのではないか…。僕はこのプロジェクトでそれをすくいあげて形にしたいと思っていてる。

 2019年3月、香港の大館現代美術館でこの14歳のプロジェクトの展示をした際に、このプロジェクトを本にまとめることになった。日本語、中国語(繁体字)、韓国語、英語の4ヶ国語で読める本。300部制作。ただ、”販売はせず”、”朗読会を開き無料で配布する”ことを計画している。読み終わったら人から人へと手渡され、本が旅をする仕掛けを考えた。その理由は、中学生の文章を自分が売り物にすることへの疑問があったし、何千部も本を印刷してその本がどこかの誰かの本棚に並べられて眠ってしまうよりも、印刷は少部数でも特定の誰かが所有しないシステムを考えた方が本がより生きてくるのではないかとも考えたから。特定の空間に結びつくことがない図書館の蔵書や美術館の作品みたいになってほしいが、果たしてうまくいくだろうか。まずは、香港から50冊が旅立った。
もしかすると、ある日、あなたの元に誰かからこの本が巡ってくるかもしれない。その時は少しの間を共にしていただけたら。

(「国立国際美術館ニュース232」掲載)

公園

2019年6月10日 21:40 下道 基行 */?>

僕はお気に入りの公園と河原を近所に持っている。
ボォっとしたくて、本とコーヒーを入れた魔法瓶を片手にそこに向かうんだけど。
平日の日本の公園や河原って、仕事や家のないおじさんしかいなくて、つまり居場所のない人の集まる、居心地の良くない場所だなぁと感じることが多い。
外から見たら俺もそう言う風景の一部に見えているんだろうなぁって思いつつ。
こう言う場所が好きだからゴロゴロと時間を使いに行く。

2009年、フランスにいる時。公園や河原はキラキラしていた。
自由を感じる贅沢な場所だった。
帰国して、お金がないけど時間だけあるときに、自宅の近所の公園にふらりと行って愕然とした。
その居心地の悪さに。
ただ、それでも、探せば、素敵な公園や河原はある。
なんの変哲も無い公園や河原。でも、整備された遊具とか花壇とかではなく、なんとなく、草原のようだったり、素敵な木が木陰を作っていたり、なんと言うか、こちらの持つ時間が入れる余白のある感じ。
でも、そう言うところには先客もいる。
ただ、そう言う良い場所を知ってるそう言う人は、その素敵な余白を知っているのか。社会から虐げられている負のオーラではなく、自分でその自由を満喫している人も少なくない。
フランス語で言うならヴァカボンドか。
ぼぉっとしていて、小学校が終わる時間になると、子供たちがワァーっとやってきて空気がまた変わる。

感じたことを少し文章にして整理してみたい

2019年6月 9日 22:20 下道 基行 */?>
P1322637.JPG
photo: ArchiBIMIng

先日、ヴェネチアビエンナーレ日本館での展示がオープンした。
内覧会を体験してきたので少し書いてみようと思う。

感想を、本当に馬鹿みたいに素直に書くと、
”美術に関わる人や美術を愛する人の熱量を肌で感じた”時間だった。
いや、本当に贅沢な体験だった。
その贅沢というのが、オープニングとかの華やかさ…、という意味ではなく、人々の熱量や空気感が。
僕たちの展示の会場から出てきた人が「あなたたちの展示!素晴らしいわ!!」と全身で伝えてきてくれたり、たくさんの熱い質問を投げかけられたり。なかなか、日本では体験しない感じ。僕たちの作った作品/装置/体験を様々な形で受け止められ返された、心に残る3日間。(噂では聞いていた、関係者を集めての夜な夜な行われるディナーパーティーなどは開かず、設営や下見からずっとそうだったのですが誰かの部屋に集まり、みんなで料理をしてワインで語り合う合宿のような日々を過ごしましたが、これもこの上ない贅沢だった。)

僕たちの展示自体、それぞれ個人の制作物をベストな状況で見せる、というのと同時に、一つの15m×15mの空間でコラボレーションや共同作業を形にするか、そこに結構神経を使って制作もしてきました。展覧会を見た人から、その繊細に進めてきた展示に込めた様々な箇所がかなり伝わった上で質問や反応されていたことにまず驚いたし、さらにほかの国々の作家との間に同時代性の問題意識などを感じられたり、特に作家同士の会話では言葉を超えて伝わる感覚もあったし、美術という”仕事”の奥の深さを引いた目線で自分の肌で感じたことは得難いものだった。

展示の内容自体は、それぞれ個人が作り出した映像と音と物語/文章が空間内で混ざり合って一体化したもの。それぞれが別々の存在として独立してグループ展のようにも感じたり、逆に一体化して一個の映画のようにも感じられなくもない状況。ただ、映画のように一本のタイムラインに、映像と音やテロップが一体化したものではなく、それぞれがそれぞれの時間を持ちながら干渉しあって一体化している状態で観客はいつ来ていつ見て帰っても体験できるものになっているだろうし、建築家がメンバーにいる事で展示空間である建築物により深く関わりを持ち、”ここだけ”の体験になっていたら嬉しい。

キュレーター(服部浩之)と作家(下道基行)と作曲家(安野太郎)と人類学者(石倉敏明)と建築家(能作文徳)のコラボレーション自体がキュレーションの中心になっている。そのキュレーションのその実態は、未来に起こるかもしれない化学反応による新しいクリエイティブのための人選(種まき)と対話と共同作業(水やり)。それは個展やグループ展とは違う場所に力点があると思う。僕が2015年から制作してきたシリーズ「津波石」を起点に、様々な形で一緒に津波石を見に旅をして、作曲家はその旅で聞いた鳥の囀りから作曲をはじめ(ゾンビ音楽という自動リコーダー演奏器自体は彼がずっと行ってきたこと)、人類学者は津波石の存在する周辺の島々で神話を集め、建築家は日本館と言う建築と建築家に敬意を払いながら建築空間と対峙し、日本館という一つの空間内で新しい作品/体験として組み上げるというものだった。個人的にシリーズ「津波石」自体は、すでに完成間近であったが、人類学者の石倉敏明さんと2度石垣島や多良間島を二人でフィールドワークできた体験はこのシリーズ「津波石」を作る過程の中で、僕自身の考え方に大きな変化と新しい挑戦の余地を与えたし、日本館の空間内で建築家の作ったスクリーンに投影され、安野くんの音と石倉さんの文章と混ざり合った瞬間に、”作品”は新しい何かへと変化したように感じた。

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photo: ArchiBIMIng

今回、ヴェネチアの日本館で展示することが、日本代表のような立ち位置になってしまうことや、帝国主義的な磁場がある場所であること、僕のようなアウトサイドな作家がそのような舞台に立つこと自体、正直、本当に自問自答し続ける1年だった。今でも。
(さらにいうと、コンペでは僕ら以外のプランは見ごたえのあるプランもあった。僕たちのプランが採用されたのは、様々な”タイミング”の問題であり、幸運だったとしか思えない。例えば、「これまでの数回、中堅の個展が続いていたこと」もあっての、僕らの実験的なプランが採用されたのでは無いか?)
今回の日本館での展示は、今この国を代表する作家の個展やキュレーターが論文的につなぐグループ展ではなく、誤解を恐れずにいうと”様々な種の周縁の者たちが集まり一緒にバンドを組む”ような実験的な現場だった(メンバーの皆様すみません…)。
日本館の空間の中ですべての要素が一つになった時に、「(ほかの完成の形もあったかもしれないけど)これ以上ない一つのベストは出せたな」と感じたし、他のメンバーの顔にもそれが見えたように思った。自分の手を離れ、新しい作品が生まれてきた瞬間でもあった。バンド的に言うとみんなの音が一つになったグルーブ感。まとまらないで崩壊する可能性だってなくはなかった。奇妙なグループ展にも個展にも見えてしまうようなまたその逆のような、新しい展示のあり方や体験を日本館で実験する機会。なかなか理解されづらいだろうが。それは、美術館ではなく、レジデンスの学芸員としてずっとキャリアを積んで、これまで様々な新しい作家同士の出会いや化学反応を起こすことを喜びとし、これまで自らの仕事をしてきた服部くんにまんまと乗せられ、まんまと何かが生まれたな…と、その時同時の感じた。(賛辞として)
正直、鑑賞した人から「展示良かったよ」と言われると、自分だけの作品ではなく、バンドの一人のメンバーとして、それを受け止めるみんなに伝えるだろうし、この感覚は初めての体験かな。僕=津波石映像はなんだろう、やはりベースかな。だから「このベースライン最高」と言われると自分だけの喜びかもしれないし、もし誰かに「歌詞が良かったよ」と言われると、ボーカルに伝えるように石倉さんに「褒められてますよ」と伝えるだろう。

さらに、展覧会にはオープンに合わせて、制作や思考のプロセスを入れたカタログを制作した(デザイナー:田中義久)。映画のパンフのように鑑賞後に手にしてほしいと、会場では安く買えるようにした。これも重要な展示のパート。さらに、この展覧会終了後にも、もう一冊出したいと思っている。これは、今回のこの日記のように、展示が始まった後から始まる思考や、展覧会中に様々な人によって語られた事をさらに受け止めた上で言葉にしてく作業を計画しその為に、展覧会終了後に発行する文章メインのカタログ第二弾も出版を進めている。
帰国展として行う2020年アーティゾン美術館(新ブリジストン美術館)にもご期待ください。ヴェニスの展示をそのままは持っていけないので、かなり別の展示になると思います。
両方見ていただけたら、なお嬉しい。
本当にメンバーやスタッフや協力者、内覧会に駆けつけてくれた方々に感謝です。

youtube書き起こし

2019年6月 7日 13:21 下道 基行 */?>

【赤瀬川原平インタビュー [横浜市民ギャラリーあざみ野] 10:43-】

●トマソンの面白さについて

” 一般の人はそれを見ていないわけですよね。
(それは)「最初の観客」であって。
ということはね。
作者に限りなく近いんですよ。
絶対に作者にはなれないんだけど。笑 ”

https://www.youtube.com/watch?v=80hNQKGL3t0

大学の先生を少々

2019年4月26日 21:57 下道 基行 */?>

先輩から聞いて心に残っている話がある。そこから、日記を書き始める。
それは、アーチストには、ざっくり2種類のタイプがいるのでは?という話。
①「誰からも頼まれていないのに作るタイプ」
②「場所や企画やネタが与えられてこそ作るタイプ」
という。
そう考えると、
①は、それをやらないと生きていけない、先へ進めない。という製作と生きることが一体化している。
②は、それをやらないと生きていけないわけではないが、ある意味でドライに自分のことを見ていて、仕事としてプライドを持ちながら製作している。
かもしれない。
さらに、
①が作る作品は、言葉にできないのパワーを秘めていることがある。つまり(しかし)、ロジカルではないことが多い。
②が作る作品は、ロジカルに製作が進められることが多い。全てが言葉で語れてしまう作品も多々ある。それが良いか悪いかは置いておく。

で、おそらく。普通に美大に行って、アーチストになる人の多くは、②ではないか。下手すると、①はアウトサイダーアートとの違いが難しい場合もあるし、美大の美術学科とかではなくても生まれてくる。
①は、製作するモチベーションが終わると活動も終わる可能性がある。
②は、自分のスタイルが確立できていれば、外からネタさえ提供されれば、ボケられる。つまり、飽きられない限り、活動は仕事として続けられる。

限りなく100%に近い①の作家を何人か知っているが。色々なアーチストが①と②とが綺麗に分かれているわけではなく、①的傾向の強い作家であっても②は持っているだろうし、その逆もある。

では、美術大学の先生はアーチストが多いが、大学で教えてもらうなら、どちらが良いだろうか?
やはり②?

実は、明らかに①寄りの僕は避けていたのだが、
今月の1ヶ月だけ、「映像実習」という授業を教えることになり、家から車で20分にある芸術大学に通っていた。この授業を受け持つある方がどうしても滞在制作で1ヶ月大学に通えないので代わりにできないか?という流れで。

(続く)

過去方向に再出発

2019年4月26日 00:36 下道 基行 */?>

instagram&twitterを停止してみる。
facebookは連絡手段としてだけ残してみる。
twitterではなく、この自分のサイトに日記を始めよう。
instagramではなく、自分だけのスナップをアップするサイトを作ろう。
リュックに荷物とカメラを入れて旅に出よう。
電車に揺られてインドの最南端を目指す。
自分の目で見に行こう。
本を片手に。

旅をする本

2019年3月22日 08:02 下道 基行 */?>
53439554_10157028344014709_5666914055185498112_n.jpg 念願の出版社からの初めての写真集「戦争のかたち」が出版できたのは2005年。3000部。初版印税なし。もちろんこちらが印刷などを支払う必要はなく、赤字にも黒字にもならなかった。たくさんの人に見てもらえたし、たくさんの反応が返ってきたし、素晴らしいデビューをさせてもらった。それから10年、その写真集は、ようやく3000部を全て売り終わり在庫もなくなり、めでたくこの本はSOLD OUT(再販はなし)となった。担当編集者の方に久しぶりに連絡を入れ挨拶をした。 2005年からの10年、「日曜画家」「torii」と新作を完成させて、出版社を回ったが出版には至らなかった。小さな出版社を立ち上げISBNを自分で取り自費出版という形で模索を始める。「日曜画家」は会社のコピー機を安く使わせてもらい友人たちに製本作業を手伝ってもらって、2010年に袋とじの本を作った。ナディフなど本屋さんに直接持ち込みをしておいてもらうと意外とすぐに完売。何度か再製作したが、あまりに大変で割に合わなすぎるので”SOLD OUT”となった。(秋山伸さんに初めてお会いした時にこの本をとても褒めてもらった記憶がある。) 次にシリーズ「torii」は同期の武蔵美のデザイナー橋詰くんや富山の印刷会社さんと一緒に、初めて自分の作りたい本を作りたい人と全力で作りたいように作って販売した。2012年。とても貴重で興奮する経験だった。150万円くらい自腹で払って作った(のちに岡山県からの支援があった)から、自分で本を売れる場所を開拓していった。たくさんの人が買ってくれたし、光栄にも賞をいただいたりして、1年くらいで制作費は返済し、その後はちょこちょこウチの家計を助けてくれているし、現在は在庫も少なく完売は近い。その後、「torii」と同様に、自腹で「Dusk/Dawn」と言うシリーズを写真集にもした。同世代の優秀なデザイナー木村さんと激論しながら作ったハードコアな本は、素晴らしい完成度で挑戦的な内容。ただ、いまだに売れ行きが伸びず、家の一角に段ボールの壁として幅を利かせている。いつか売れ始めるだろう。笑。最後、シリーズ「bridge」の本は、これまた同世代のデザイナー丸ちゃんとのコラボで、60mの蛇腹の本。二人で制作し製本し、全て折半することにして、話し合っていくと1冊20万円でエディション5冊の本になった。4冊売れて残るはあと1冊のみ。これもすでに利益を出している。

と、ここまでは自分が頑張ったとかという思い出話ではなく前置きで、話はここから。
なんと言うか、一冊づつ、作り方や売り方や存在のさせ方、さらにはコラボレーションの時間や経験を考えながら、本づくりを行って来れた事は、展覧会を作るのと同時並行して、素晴らしい制作の経験。毎回感動するし、成長させてもらう。
写真を撮り作品を作る僕には、本はいまだに大切な表現の一つだ。ただ、時代は常に変わっているし、こう言う時代に生まれてしまった。大学生の頃、初めての一人暮らしで、吉祥寺のビレバンに行って雑貨や本に囲まれた生活に憧れたり、本を買ってきて本棚に並べ、CDを並べたりして行くことが自分の知識や豊かさが増えていくような感覚だったが、その感覚はインターネットやスマホによって一気に壊れていった気がする。2009年、本棚の本を図書カードを付けて、旅に出してみた。そう、今も本棚にはお気に入りの本があるけど、読み終えてから一度も開いていないし、だから、たまに友人が泊まりにきたら欲しい本はあげることも多いし、もう、自分自身が写真集をこの何年も買っていないことに気がついて、自分もそれを作ること自体に疑問を持っている。

今回の「14歳と世界と境」は、美術館の展示として、ワークショップを行い、地元新聞で連載記事を作り、本を作った。さらに展覧会終了後に、本の朗読会を開き、本を無償で配った。「読んだら次の人に渡して欲しい」と言うルール付きで。香港の人々からは「そんなルールはすぐに破られて、本の旅はすぐに終わるだろう」と指摘が多いが。そう。ルールのあるのは良くないし、すぐに無視されて、売られたり、所有されたり、忘れられるし、そう言うのを僕はコントロールできないししたいとは思わない。ただ、中学生の文章は僕は本当に素晴らしいと思うし、この彼らの文集を売って商売にする気もないし、上に長々と書いたように、いっぱい印刷していっぱい売る気持ちもないし。読みたい人の手に渡り、読みたそうな人の手に渡って欲しい。図書館と言う空間のない図書館の蔵書みたいに。
思い出してみる。1冊目の写真集は3000冊、10年で売れた。3000冊を手にした3000人。きっと誰かの家の本棚に置かれていて何年も開かれないのだろうか。
今回の14歳の本は、300冊のみ。多分、期待として、最低1冊の本は3人くらいにはまず手渡されるかもしれない、そうすると900人。これは写真集「torii」や「Dusk/Dawn」と同じ冊数になる。さらに、10人の手を解すると3000人。そう、最初の本「戦争のかたち」くらいの人々が色々な場所で無料でこの本を読むことになる。そのくらい行けないかなぁ。ま、これは僕の勝手な希望であり、実験。でも、本当に内容は良いと思う。とりあえず、50冊が香港に旅立ちました。

「無料」と言うのは、人をいい加減にさせたり、逆に、無理強いさせたり、するだろう。けど、この本の文章に感動したり、心が動いたら、次へ先へ本は進むかもしれない。
そして、このインターネットの時代に、4カ国語の本を作る。google翻訳、あるよね?って言われるけど。それは意味の理解を助けるけど、中学生の書いた、たどたどしいけどみずみずしい文章を訳せるだろうか。いや。たくさんの翻訳の方に関わってもらって、贅沢な体験だった。なんでもインターネットでグローバル、ではない。今、逆のことが起こっているし。この本はインターネット的だけど、古い時代からやってきた。だから、インターネット以上に境界線を越えるかもしれない。

知り合いの方に、「宣教師みたいですね」と言われました。すると、この本は経典か何か。。。うーん。確かに、無料にするとそうも言えるかも。妻に話すと「中二教」とか馬鹿にされた。。笑 ま、いいのではないか、「中二教」の経典で。普通の中二に教えられる世界のあり方。でも、これは、何かありがたいことを教える完成された存在ではなく、揺れ動く中二の境界線の話。正しい事は書かれていない。
どっちが先にレーダー打ったとかやりあって、顔も見えない距離で傷つけ合ってる隙間を縫って、顔が見える人から人へすり抜けて、ね。
すみません。ついつい、最近、前へ前へ制作をしすぎてて、思考が追いつかず、頭がパンパンになていたので、文章化してクールダウンさせています。
ふーーー、、、もう昼か。
では。

ぐうたら

2018年10月18日 07:02 下道 基行 */?>


自分ももうすぐ40歳になるのに、ひとり南の島の安宿の布団に寝転がり、深夜テレビをつけてごろりとしてる。テレビの向こう側では、たまたま大阪西成の知人の活動がドキュメンタリーとして放送されていて、土地に何年も根を張り続けてきた活動に敬意を感じ見入ってしまう。

こちらは、根無し草の生活が続いているのだ。この10年間、1週間なんてサイクルもほぼ存在しない。数週間、何もないとかもざらだ。幼い頃から学校教育とかでたっぷりと仕込まれた”日本人の大人として社会人としての生き方”を、逸脱し続けることは容易ではない、不安がないと言うとウソになる。でもそのストレスを吹き飛ばす幸せを感じることもたまにあるし、なんとか生きている。この自分でも想像もしなかった実験のような生き方をもう少し続けていこうと思っている。

 ”私は思う。人間は本来怠け者、横着者なのだ。だいいち文明というのは、物質的な豊かさのためでもあるが、ひとつは楽をしようとして進歩してきたのではないだろうか。必要は発明の母というが、怠惰は発明の父といってもいいのではないか。 私たちの社会では、楽をしたいために、先人が頭をふりしぼって努力してきた。それなのに手段であったはずの労働だけがいつのまにか目的となり、それが美徳になってしまった。
『ぐうたら原始行』関野吉晴/1974年”

今回の旅に持って来た本にはそんなことが書いてあった。

そう言えば、小学生の頃に文集に書いた「夢」の事を思い出す。夢は8個書いてあって、その中に「ふつうのかていでよい」というのがあった。「普通の家庭で良い」。普通とはなんだろうか、今でもふと考える。
”私たちの社会では、楽をしたいために、” 先人たちは、常識的な生活を生み出し、なるべく考えなくても悩まなくてもいい生活や慣習を作り上げて来た。そういう”普通”というのは強固だ。でも、その叩き込まれた”普通”に疑問を持ち考えて実行し続けていく先に、自分にとっての本当の”普通”がある。
のかな?笑


(2018.10.18 少し秋を感じる那覇)

県美コネクション展 岡山県立美術館

2018年4月19日 15:15 下道 基行 */?>

岡山県立美術館の「県美コネクション展」にシリーズ「Dusk/Dawn」が出品されています。
会期は2018年4月20日(金曜日) から 7月1日(日曜日) まで。
http://okayama-kenbi.info/exh_20180420/exh-30th.html

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 岡山県立美術館は昭和63(1988)年、瀬戸大橋、岡山空港とともに岡山県の大型プロジェクトの一つとして開館しました。アクセスのよい市街地に位置し、本県のみならず中・四国そして世界の人や物が行き交う文化の拠点として、さまざまな事業に取り組んでいます。県立であることの意味を鑑み、常に“岡山ゆかり”を念頭に活動してきました。このたび開館30年の節目を迎えるにあたり【ゆかり=つながり=コネクト】をキーワードに、全館を使用してこれまで培ってきた「ひと・もの・こと」を収蔵作品とともにさまざまな関連事業を行うことでご紹介します。“岡山ゆかり”であることがいかに豊かな文化を内包するものであるか、改めてお気づきいただけることでしょう。

2017年12月31日 13:35 下道 基行 */?>



個展 solo exhibition
[ 風景に耳を澄ますこと ]
[ Open yourself to the landscape ]

黒部市美術館、富山
Kurobe City Art Museum, Toyama, Japan
2016 7/23-10/10




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pjoto : Ryohei Yanagihara





風景に折重なる不可視の物語

 風で飛ばないように物を抑える石、ちょっとした段差を解消するために挟まれる石、境界線をつくる石、隙間に敷き詰められた石、屋内においてはきっと漬物石にもなっている。昨年の夏、下道基行(1978−)は黒部市美術館付近の海沿い地域において、住民が浜辺の丸石を拾ってきて様々な用途に使う風景を見つけ、人々の生活の中で使われる「石」に興味を持った。以来、このさりげない石の風景を考察してきた。
 周辺地域一帯はフィールドミュージアムにも認定されており、黒部川による大規模で美しい形状の扇状地が広っている。ここは山と海の距離が近く扇状地の扇端部分が短く海に到達しているために、付近の海は砂浜ではなく丸石が転がる「石浜」になっているのも特徴だ。また一本の川筋になるまでは、長雨や雪解の度に幾筋にも分かれ網目状に広がっていたので「四十八ヶ瀬」と呼ばれ古くから交通の難所としても知られていた。そのようなことで地域の大半は土を掘れば丸石がゴロゴロとでてくる。生活の中でも石が身近で、海や川原の石が信仰の対象として利用されてきたり、民家や田畑の石垣として積み重ねられたり、当たり前の生活の中でさりげない石の風景が形作られてきた。下道の石への着眼によって石と地域の人々の密接な営みや、その背景にある何万年もかけて形作られてきた地形や風景との関係に気がついた。

 日本で古くから石は、信仰の対象、石器や石斧、石臼や漁具の錘などの民具、あるいは道標、さらには建築、土木的資材として、その他様々な用途が与えられてきた。下道が深く関心をよせる民俗学では人々と石にまつわる様々な事例が明らかにされている。石の崇拝について中山笑等の学者達と問答した書簡をまとめた柳田國男『石神問答』 が明治43年に出版されて以降、様々な研究が行われてきた。それらの業績によって、人と石についての営みが実に多様であることが分かり、石に対する想像力がいかに豊かであるかを知ることができる。野本寛一が述べるように、日本人は古くから「石を心と結びつけ、信仰と結びつけ、生活の中心に、心の核心に、場の中心に据えてきた 」ことは確かなのである。
 折口信夫が「石に出で入るもの」の中で「石に宿る」という感性について説明している。内部空間について「うつぼ」を上げ「這入る所のない様に閉ざされて居ながら、何時か物の這入る様に用意されているもの 」とした。うつぼ木のような神聖な木と同じく用語例からは証明できないとしながらも「一番適切に、我々の頭に来るのが、石 」であると述べた。磐座、石神、多くの事例にあるように、人々は霊魂や神の依代として石を器のように捉えてきた。
 また、鑑賞において代表されるものに日本庭園の枯山水がある。それは世阿弥の『風姿花伝』における「秘すれば花」に表れるように、秘められた姿を第一の美としそこに実体を見出すという幽玄思想に導かれた 。敷き詰められた小石に大海を見て、石組みに山や滝を見るというように、石は、見えない風景を見るための装置として人々の心の景色を受け入れてきた。

 《石》(2016年)は、対象を中心に据えた構図になっていて物質としての存在が非常に強く押し出されている印象を受ける。一つ一つの形や質感が丁寧に伝えられていて、まるで意思を持ってそこに佇んでいるようだ。幾つもの石を見ていくうちにこの丸い石は、山の岩のかけらで、ひいては星のかけらだというような、広大で宇宙から俯瞰するような視点と何万年もの時間の奥行きを喚起させる。その姿形からは、昔人が石には霊魂や神が宿るとも考えたように、何ものかを内包していてもおかしくはないと思わせる。ミルチャ・エリアーデは、彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシ(1876−1957)にとっての石は聖性顕現であると述べたが 、下道にとっても石は、果てしなく捉えがたく厳かな鉱物であることが伝わってくる。
 一方で、幾つもの石の風景を行き来し、石の置かれた状況や背景に目を向け、切り取られた画面の外へと続く風景を想像してみる。そうすると、ある地方の極めて日常的でさりげない一場面だということに気付くことができる。宇宙まで思いを飛ばされたと思えば、変哲もない日常風景がありありと浮かんでくる。この石の器の大きさこそが、信仰の対象として祭られながらも単なる日用品として使われてきた所以であろう。宇宙的で形而上的そして日常的、作品においてはそのような両極性を捉え「石自体がもつ奥行き」と「日常のさりげない風景」の均衡を保持し、かつ同時に提示しようという試みが窺える。
 また下道は、石にはそもそも決まった役割というものがないために人がそれに役割や価値を与えていると考えていた。例えば、海辺や川辺で石を拾う人たちは、用途に合わせて微妙に重さや形を選別し、丁度いい石を拾い持ち帰る。その時、スイッチが切り替わる様にただの石に役割が備わる。富山市北代縄文広場で限りなく原石の形を残したまま使用された石器類が展示されていた。形をざっくり言えば、どれも手のひらに入る丸い石だ。「敲石」は微妙に縦長で握りやすそうで、「凹石」は敲く物の受け皿とされるようにやや平たく使用後に中央部分が窪んだ痕跡もある、まん丸に近い形の「磨石」もあった。縄文人がわずかな違いを選別、選択し使用した石である。手に取った石の横にも、迷った結果に使用されなかった石があったはずできっと今もどこかに転がっている。時代を特定させにくいモノクロ写真による提示は、下道が捉えた石とその営みが現代のことでありながら遠い過去のことであるかもしれないと想像することを促している。

 《石》のリサーチにおいて黒部市吉田科学館学芸員の久保貴志と朝日町埋蔵文化財施設まいぶんKANの川端典子に現地案内の協力を得た。考古学を専門とする川端は何万年、古生物学を専門とする久保は何億年という時間の中で研究を行う。彼らとの会話の中から、下道の視点は彼らの対象と比較すると、人々の営みを、圧倒的な解像度をもって捉えていることに改めて気がついた。民俗学者達が各地の集落の口承伝承や民話を内側から根気強く調査したように、下道も現地に足を運び、綿密に観察し収集していくことで制作が行われる。少年時代は近くの貝塚や古墳を独自に調査していたと教えてくれたが、考古学の発掘作業のように風景を掘り下げ想像していく。表層では「もの」を捉えながらも、その背景にある出来事や記憶や物語について丁寧に考察し、それらを編集してから作品として提示する。そのような下道作品は時として考現学 の系譜に位置付けられてきた 。福住廉が今和次郎や吉田謙吉の考現学の調査に芸術との共通点を見出し「観察者とはしたがって科学と芸術が重複する地帯を闊歩する者を指している 」と述べたが、それは下道の姿勢にも当てはまるように思う。

 さて、《石》に見られたような両極的、あるいは多角的な視点は、これまでのシリーズを俯瞰しても見ることができるし、個々の作品の中にも見ることができる。日本各地に残る掩体号やトーチカ等の旧軍事施設跡を取材した《戦争のかたち》(2001−2005年)、植民地時代に建てられ現在も国境の外側に残る様々な鳥居の姿を見つめた《torii》(2006-2015年)等のように歴史的な出来事が背景にあるものや、大きな自然や時の歳月が作用するものがある。一方で、あぜ道や溝に架かる木板や鉄板等の橋のようなものを撮り集めた《bridge》(2011年)、境界を動物や人が跨ぐことでできた道のような痕跡《crossover》(2012年)、蓋がない器にお皿やティッシュなど適当なもので代用する日常の記録《ははのふた》(2012−2015年)等のように日常の中のささやかな行為によって作り出されたものや、作家のプライベートな事柄に起因するものがある。これらの両方について等価に好奇心の視線が注がれ、それぞれにとっての美しさが見出されてきた。
 さらに一つ一つの作品の中に、消える/残る、移り変わり、漂泊、移動、記憶、痕跡、境界、価値や意味等の様々なコンセプトが常に複数内包されている。例えば朝鮮大学の鉄条網、コミュニティを隔てる川の水などを採集した《境界のかけら》(2012年−)は様々な境界を採取したもの。境界を取り巻く人々の歴史について想像される。さらに、採取されたかけらは意識する者だけに見える社会の境界であり、本当はただの物質でしかないのかもしれないと考えたとき、価値や意味についての思索が生まれる。この様に、作品に重ねられたレイヤーからは、鑑賞者が考えを深めるほどに様々な気づきが引き出される。
 また、写真、映像、現物の展示、文章、資料等、多面的な方法で展示が構成されることで、下道が発見し観察していく過程における心の高鳴りのような感覚や思い巡らす様々な事柄を共有できる。
 
 本展においては、幾つかのシリーズで「用」の持つ力についての考察を改めて試みようとしている。その関心は初期作品にまで遡ることができることからも常に向き合ってきた主題であることが分かる。
 《torii》は、国境の外側の鳥居の姿を取材したものである。この鳥居は大日本帝国の政策によって建てられたものであり戦争が終ってもなお、姿を変えながらその土地に残っている。鬱蒼とした森の中に微かに見える姿、見晴らしのよい草原に佇む姿、その他、施設の門に転用されていたり、民家が押し迫り電信柱のように電線が引かれアンテナが立てられていたり、横たわった鳥居がベンチとしても使用されている。同じ文化を共有し同じ価値を共有するコミュニティの中で初めて機能する意味がその外側に残された時、意味の喪失を目の当たりにする。これらが植民地主義の記憶を象徴するような遺構であることは明らかである。その一方で、誤解を恐れずにいうならば、それらは写真の中に美しく佇んでいるし、日常的な雰囲気を感じられるものもある。《torii》を初めて見た時、文化的な意味や価値観の違いを知り互いの差異を認め合うという、どちらかかといえば、多文化主義的な印象を先に受け止めたことを覚えている。作品に対する考えは、世代あるいは鑑賞者それぞれの意識によって異なるだろう。しかしこのような様々な解釈を許容しているのは、作家が中立な立場をとり、現在のありのままの姿の鳥居と向き合おうと試みているためである。それは《石》に表れていた均衡の保持と類似している。より一方向に引き付けられやすいプロパガンダ的な題材であるだけに、自由な視点で向き合あうことが容認されて初めて美しさや日常性というその他の要素が見えてくる。
 下道は《戦争のかたち》においてモニュメント化されていない軍事施設跡が菜園や民家の物置のように使用されて日常に埋没している様子に関心を抱いた。そしてその姿を美しいと思ったそうだ。それはきっと《torii》にも共通している。これらは機能性が喪失し、長い歳月と変化する環境の中で意味や価値の転覆が起こったものである。下道は「権力的に与えられた意味を市民の生活が無意識に読み替えひっくり返す」こと、例えば、台湾台中市の公園にある鳥居が倒された時の力より、ベンチにして座ってしまうことで権力的なモニュメントとしての意味を剥ぎ取る、人々の日常生活や「(転)用」の力に強く惹かれている 。
 それを自身の行為の中でも模索している。《Re-Fort PROJECT》(2004年-)は、砲台跡の歴史を理解しながら現代にふさわしい使用を検討し試みるもの。例えばそこで、缶蹴りをしたり、花見のようなイベントを開催したり、リノベーションして暮らしてみたりしてきたように、積極的に日常的な行為に転用するところに意味がある。その他には、沖縄のガラス職人たちが戦後、駐留米軍の使用したコカコーラやビールの瓶を再利用して色ガラスを制作したことに着想し、浜辺に漂着したガラスを再利用してコップ等を制作しているプロジェクト《漂白之碑》(2014年-)。第2次世界大戦の戦闘機の機体を再利用し作られた沖縄の民芸品を購入し展示した《ジュラルミン製の皿》(2014年)がある。

 転用する日常の行為、つまり「用」が本来の意味を取り去ること、下道はそれを一方的に美化するのではなく、広い視野を持ちその現象や効力を考察している。しかし私たちは、そのことがいかに風景あるいは記憶や歴史を前進させて来たかということについて、気が付かない訳にはいかない。
 そして、これまでの作品中に表れた日常的な転用の行為は、戦争や侵略というコントラストの強いものと隣り合わせになることでより鮮明になっているのではないか。日常性は相対的に意識され 、社会へ向けられることでより前向きな、いわば「生」への意味合いを帯びる。それは、下道が東日本大震災を契機として制作した《bridge》を通して、改めて日常風景に目を向けていったことにも繋がるだろう。そこで見出されたのも人々による手作りの転用の風景であった。《石》もこの延長上に置くことができる。加えて、もともと意味を持たない石は、価値や役割を与えて使うということが明確に表れる。そのような根源的な視点そして石の持つ宇宙的な時間を重ねることで、これまで近現代を中心に考察してきた「用」の元に時間軸や普遍性についての強度が備わることは明らかである。

 下道は、過去を遡りながら未来へと向かう。ある時はささやかな石の営みを発見し、ある時はその石の記憶や歴史を感じ、そのようにミクロとマクロを行き来しながら風景に折重なる不可視の物語を見つめている。何億年という石の時間に比べれば米粒のような私たちの営みは、されど確実に日常の積み重ねによって風景を、世界を、前進させている。

尺戸智佳子(黒部市美術館学芸員)


柳田國男「石神問答」『柳田國男全集15』株式会社筑摩書房、1990年(初出:『石神問答』聚精堂、1910年)
野本寛一『石の民族』株式会社雄山閣、1975年、p.284 
折口信夫「石に出で入るもの」『折口信夫全集19』、株式会社中央公論社、1996年、p.44(初出:『郷土』第2巻第1〜3号合冊「石」特集号、1932年7月25日発行)
前出書、「石に出で入るもの」、p.45
重森三玲『枯山水』株式会社河原書店、1965年、pp58-69
ミルチャ・エリアーデ「ブランクーシと神話」『エリアーデ著作集第13巻 宗教学と芸術』(中村恭子他訳)株式会社せりか書房、1975年、pp252-253
今和次郎によれば「現代風俗或は現代世相研究に対して採りつつある態度及方法」、「時間的には考古学と対向し、空間的には民俗学と対向するものであって、文化人の生活を対象として研究せんとする」もの。(今和次郎「考現学とは何か」『モデルノロヂオ(考現学)』株式会社学陽書房、1986年復刻版、pp353-355、初版:春陽堂、1930年)
「「再考現学/Re-Modernologio」phasa3:痕跡の風景」展、青森公立大学 国際芸術センター青森、会期2012年2月18日〜3月25日、「路上と観察をめぐる表現史−考現学以降」展、広島現代美術館、会期2013年1月26日〜4月7日
福住廉「観察者の歴史と戦後美術の歴史−現代美術の民俗学的転回へむけて」『路上と観察をめぐる表現史 考現学の現在』株式会社フィルムアート社、2013年、p.203
下道基行、筆者とのメールのやりとりから、2016年5月24日
三井善止「日常性と哲学」『哲学の立場:人間・自然・神』玉川大学出版部、1990年、pp.45-54を参照。


Invisible tales layered within the landscape
Chikako Shakudo

Stones used as weights to prevent an object from flying away in the wind, stones strategically placed to level out a bump in the ground, stones used to fill a small gap, and the stone that must be used inside when making pickles. In the summer last year, Motoyuki Shitamichi (1978- ) became interested in these stones after he came across many such landscapes in the coastal areas around Kurobe City Art Museum, in which the local people had gathered and used stones from the beach in their daily lives. Since that time, he has observed the casual manner in which these stones are used within the landscape.
The surrounding area, with the large and beautifully shaped alluvial fan created by the Kurobe River, is designated as a field museum. Due to the short distance between the mountains and the sea, and the fanned edge of the delta being short, the shoreline does not consist of sandy beaches, but rather, is characterized by pebbled beaches made up of small round stones. The area is also known as the Forty-Eight Riffles. Before the arteries of the river unite into one, numerous riffles fan out in thin mesh like branches, particularly after long spells of rain, and with melting snow; and this characteristic of the area has long been recognized for making transportation difficult.
For these reasons, digging the soil in the area will reveal numerous stones. Stones are also an integral part of the life of the people of the area. Stones from the riverbed and seashore have been used as objects of worship, and they are also used to build stone walls around homes and in fields. This landscape of stones has come to be due to the casual use of stones in ordinary everyday life. When Shitamichi turns his attention to these stones, it also leads us to notice the intimate relationship between them and the local people, and the landscape and topography that has been in the making for over hundreds of thousands of years.

Since ancient times in Japan, stones have been used as objects of religious worship, implements and stone axes, stone mortars, fishing weights, or as signposts. They were also used as building or engineering materials. In folklore, which Shitamichi is deeply interested in, numerous examples entwining people and their use of stones have been uncovered.
Since Kunio Yanagida compiled the notes from dialogues with scholars such as Emu Nakayama in Ishigami Mondo published in 1910, various studies regarding the worship of stones have been carried out. According to these publications, we can see that there is a wide diversity in the relationships between people and stones, and that the imagination people exhibit towards stones is incredibly rich. As Kanichi Nomoto states, there can be no doubt that from ancient times, Japanese people have “…tied stones to their heart, to their religion, placed them at the centre of their lives, and the core of their soul, and the focus of their very foundations.”
Shinobu Orikuchi discusses the sensibilities of dwelling in a stone in Ishi-ni ideiru mono. He points out the concept of utsubo in terms of internal space. According to Orikuchi, “The space is closed as if nothing could be accommodated by it, yet at the same time, it is as if the space has at some time or another, been specifically prepared to accommodate something.” Though he states that he cannot provide evidence of this concept with terminology such as the word utsuboki, used to refer to a sacred tree, “…the most suitable object which comes to mind is a stone.” With numerous examples of dwelling places of Gods and stone deities, people have provided the foundations for rocks to be used as a dwelling or representation of a God or spirit.
An example that can be given as an appreciation of this is the karesansui, the dry landscape rock garden in a traditional Japanese garden. As shown in the concept of if it is hidden, it is a flower in Zeami’s Fushikaden, there is both profound and mysterious beauty in the concealed form, and the prospect of that hidden beauty revealing its true self. Just as we have the ability to be able to see the ocean in small stones spread in a garden, or a waterfall in a rock arrangement, rocks have been given a special place in the hearts of people as a device used to view a concealed landscape.

stone (2016) consists of compositions which focus upon a main object, and we get the impression that the existence of each as a substance is being strongly thrust at us. Each and every form and substance is carefully conveyed, as if each has its own will, and is lingering in that spot. Looking at several of these stones evokes a feeling of brevity at the depth of time, the weight of hundreds and thousands of years. This round stone could not only be a fragment of a mountain cliff, but also a fragment from a planet, and we are viewing it from the immensity of the universe. Just as people once believed that Gods and spirits dwelled in stones based on their appearance, we too come to believe that it would not be so strange if some being were dwelling inside. Mircea Eliade stated that for the sculptor Constantin Brancusi (1876-1957), rocks were a holy manifestation. However for Shitamichi, we get the impression that the stone is a majestic and dignified mineral, eternally difficult to grasp.
On the other hand, if we go back and forward between the scenes of numerous stones, and pay careful attention to the background and circumstances, we can imagine the landscape extending from these seemingly cut-out screens. In doing this, we see that each is an incredibly routine and casual scene from a certain area. Though our imagination has flown to the universe, thoughts of an unremarkable daily life vividly come to mind. The very size of this stone is what led it to be an object of worship, while at the same time it was the reason that it also came to be used simply as a daily utensil. In the metaphysical, in the cosmos, in space, and in the mundane, his works capture this polarity, each stone maintaining a balance between the depth of the stone itself, and the common and mundane daily landscape.
In addition to this, Shitamichi believes that a stone itself has no role, rather, it is people who give the stone its role and value. For example, people gathering stones at the riverbed or seashore choose these based on ever so slight differences in weight and size, bearing in mind what the stone will be used for, and then choose the perfect stone to take home. Just as a switch is turned on or off, what was once just a stone is endowed with a purpose. At The Jomon Village in Toyama Kitadai National Historic Site Prefecture, stone tools, which maintain the original shape of the stone, are on display. To give a rough approximation of the size of the stones, each would fit into the palm of your hand.
There are beating stones, slightly longer, that seem easier to grasp, stones with a pit, flatter with traces of an indentation in the center, as if they have been used as saucer for a Beatingr stones, and almost perfectly round stones that must have been used as grinding stones. People in the Jomon Period chose and used these stones based on ever so slight differences. There must also have been stones that they picked up, and did not use for some reason. Those stones are surely still lying around somewhere even now. The display of black and white photographs makes it difficult to pinpoint the era, encouraging us to imagine whether the stones and their activities which Shitamichi has captured, are part of the present age, or from a time in the distant past.

In researching stone, we enlisted the assistance of Takashi Kubo, curator of the Kurobe Yoshida Science Museum, and Noriko Kawabata from the Asahi Town Center for Archeological Operations to provide guidance in the local area. Kawabata specializes in archaeology, and deals with time spanning over tens of thousands of years. Kubo specializes in paleontology and hundreds of millions of years. In conversations with these two specialists, and comparing Shitamichi’s viewpoint with their interests, again we realize that he has captured the life of the people with overwhelming definition. Just as folklorists assiduously research the folktales and oral traditions of the villages in each region, Shitamichi also visited the area, closely observing and gathering information to create his works.
He informed us that when he was a child, he personally investigated nearby shell middens and burial mounds, and we can imagine scenes much like an archaeological dig. While he captures objects on the surface, he also carefully considers the stories, memories and events of the landscape, and after editing these, presents them as a work of art. Such works can be seen as a study in modernology, and have at times been given this pedigree. In their research in modernology, Ren Fukuzumi, Wajiro Kon and Kenkichi Yoshida have found a common denominator with art, stating that “…the observer is, therefore, someone who strides through overlapping regions in art and science.” This could also apply to the stance of Shitamichi.

The polarity in stone, and the diversified viewpoints, is visible in each individual piece of work, and can be seen even if previous series of works are overlooked. Works with historical events as their background, such as bunkers (2001-2005) which covers the ruins of former military bunkers still visible in various parts of Japan, and torii (2006-2015) which observes the forms of torii (gateways to shrines) built outside of Japan during the Colonial period, also document the vastness of nature, and enormity of the passage of time.
On the other hand, bridge (2011), a collection of works capturing bridges made from wooden planks and steel plates suspended over ditches and paths in rice fields; crossover (2012) showing traces of paths made when people or animals step over boundaries; and Mother’s Covers (2013-2015), a record of tissues or plates used as substitutes for lids; were made showing the tiny behaviors within everyday life, originating in the daily affairs of the private life of the artist. The gaze of curiosity has been poured into these in equal value, and the beauty within each of them discovered.
Furthermore, within each of the works, multiple concepts are included: to disappear or remain, transformation, wandering, movement, memories, traces, boundaries, value, and meaning. For example, in Fragments of borders (2012- ), he collected water from rivers which separate communities, and the barbed-wire entanglements of the Korea University. It is possible to imagine the history of the people whose lives were hemmed in by these borders. Further, the fragments of the borders collected are social boundaries, visible only to those people who are aware of them. If we think of them as simply being a substance, speculation regarding their value and meaning is born. In this way, various realizations are derived from the layers in each work as the viewer’s understanding of them deepens.
Also, as the exhibits are composed using diverse methods including photographs, film, actual objects, texts and documents, it is possible to share the sense of Shitamichi’s fast-paced process of observation and discovery, and ponder various matters together.

This exhibition attempts to re-examine the strength of yo(purpose) in several series of Shitamichi’s work. His interests can be traced back to his initial works, and it can be seen that these interests remain the main subject that he continually confronts in producing his works.
torii is a collection of works covering the forms of torii outside the borders of Japan. These torii were constructed as Empire of Japan policy, and even now, though the war is long over, they remain where they were built, changing their forms. The barely visible torii still standing in the dense forest; the torii lingering on grassy plains in full view; the torii that has been converted into a gate to an institution; the torii being used like a telegraph pole by the house built near it, complete with electrical wires and an antenna; and the torii which has been toppled over and is now being used as a bench. When the original meaning of an object has been pushed away by a community that shares the same culture and values, we can see with our own eyes the loss of the original meaning. It is clear that these are remnants that symbolize the memory of the Colonial Period.
On the other hand, if I am to write without being misunderstood, these torii all linger beautifully within the photos; and in some we can sense the atmosphere of daily life. When I first saw the torii series, I remember feeling an impression of multiculturalism first, rather than recognizing and trying to understand the differences in cultural meanings and values. The thoughts that people hold towards the works will no doubt differ greatly depending on the consciousness of the viewer, and the generation to which they belong. However, what leads to the tolerance of various interpretations is the fact that the artist takes a neutral viewpoint, and is attempting to interact with the torii in their current form. This is similar to maintaining the equilibrium as seen in stone. Precisely because the subject with its one directional propaganda is so fascinating, we can tolerate approaching it from a free point of view, and it is then that we first other elements such as the beauty, and the ordinariness of it.
In bunkers, Shitamichi embraces his interest in the circumstances which have been forgotten in the ordinary. In this series he captures ruins of military facilities that have not been monumentalized, and are used either as vegetable gardens or as storage for private homes. He thought their appearance to be beautiful. This concept is also common in torii. These subjects have lost their original function, and through the passage of time, and changes in the environment, their value and meaning has been overturned. Shitamichi is incredibly attracted to the strength of change and purpose, as well as the ordinary aspects of daily life. For him “…meaning which was forced through authoritarian means, has unconsciously been turned upside down by the citizens in their everyday life.” For example, the fact that people now use the fallen torii as a bench in a park in Taichung, in Taiwan, has completely stripped it of its meaning as an authoritarian monument. There is far more power in this than the strength required to actually topple the torii.
He also searches for this in his own actions. While grasping the history of battery ruins, in Re-Fort PROJECT (2004- ) he attempts to examine an appropriate use for these in current times. For example, he has played kick the can there, organized a blossom viewing event, and even attempted to renovate a building and live there, believing there is meaning in the daily act of changing something proactively. In addition to this, while considering glass artisans in Okinawa re-used coca cola and beer bottles of the United States forces stationed there to make colored glass, he came upon the idea for a project to re-use glass that had drifted ashore to make objects such as cups in The monument of “float” (2014- ). He also purchased and exhibited Okinawan handcrafted goods that had been made using World War II fighter aircraft in Duralumin Plates (2004).

The ordinary act of converting an object, is in other words, removing its original yo(purpose). Shitamichi does not just beautify an object one-sidedly, but also examines the effects and phenomena with a broad perspective. However, we must recognize how far these acts have caused history, memory and the landscape to progress.
In works to date, the day to day act of putting an object to another use appears side by side with war and aggression, providing a sharp contrast. This relative awareness of the mundane, and being able to turn towards society, bears the implication of a positive existence. Through bridge, which Shitamichi produced after the Great East Japan Earthquake, he once again turns his gaze to the everyday landscape.
What he discovered in that, was a landscape of people converting objects by hand. Stones can also be thought of as an extension of this. Moreover, it becomes expressly apparent that stones which originally have no meaning, are given a role and value, and are used for a specific purpose. Together with this fundamental viewpoint, layered with the vastness of time the stone has seen, the intensity of time and universality can be added to purpose, which has to date been examined centering on modern times.
Shitamichi moves towards the future while travelling through the past. At times, discovering the workings of stones, at other times, feeling the history and memories of stones. While going back and forth between the micro and macro, he gazes intently at the invisible tales layered within the landscape. Compared to the hundreds and thousands of years of time stones have seen, our existence is but a grain of sand in time. Even so, with the accumulation of the ordinary, we are moving the landscape, and the world, forward.

Curator
Kurobe City Art Museum


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pjoto : Ryohei Yanagihara



「鑑賞体験」から「発見の実体験」へ

机の上に、やや手のひらに収まりきらないくらいの大きさの石がある。これは、展覧会カタログの付録の石である。見た目に反して、ずっしりと重い。ダンベルに丁度いいかな、、、私の元にやってきた黒部の石との今後の行方について、頭の片隅で考えを巡らす。
2005年のデビューから、およそ10年を経た下道の個展は、これまでとこれからを感じさせる内容となっていた。代表作である写真作品の《torii》、プロジェクト作品の《漂泊之碑》、新作の《石》からなる作品の3シリーズが展示され、展覧会初日には、沖縄の浜辺に漂着していたアジア諸国の瓶を素材に再生されたガラス食器を、実際に使うイベントが行われた。
新作の《石》は、展覧会場の地域でリサーチをして作られた新作でありながら、展示としてはささやかなものとなっており、代わりにカタログが《石》の作品のみを収めた写真集の様な形態がとられている。また、冒頭で述べたように、石をカタログに付けることで、購入者は、実生活の中に、「石」そのものを持ち込むこととなる。下道は、黒部の風景の中で発見した、人々が無意識にしている創造的な行為である、石に色々な価値を与えている様を、写真という記録媒体での展示と、カタログの付録として実体験として提示している。
また、会期中に2日間に渡って行われた「「太古の風景に耳を澄ます」大人のための本気のあそび体験ツアー」では、古生物の学芸員と考古学の学芸員との協力体制のもと、縄文土器の素材となる地層をリサーチし、その土を使って、縄文時代に作られていたであろう方法で、縄文土器を作られた。下道の制作に共通する「社会学的な客観性」と「個人的な物語性」とを、参加者自身それぞれが接合する。「風景に耳を澄ます」媒介者としての働きが、より一層強くなるのが、実体験となるワークショップやイベントである。
通常、カタログやワークショップは展覧会に付随する形をとっているが、本展では、それぞれが展示と同じヒエラルキーを持っている点が、下道の活動の在り方を反映するものとなっている。作品展示、写真集的なカタログ、ワークショップ等の直接的な体験、という3つの手法によって本展は成り立っている。
地方創生が国の重要政策として位置づけられ、大手広告会社が外部の目線で地元の人が気づかずに眠っている魅力を再発掘しリブランディングすることが盛んに行われている現在、目的が違うのでそもそもの違いがあるが、同じく外部の目線で拾いあげる下道の活動は、そのような強引なやり方ではなく、日々の生活、日々目にする風景の中から、自らが発見するスイッチを気づかせてくれる点において、大きな勢力に対する、ある種の対抗として働くものでもある。中学生とのコラボレーションや「新しい骨董」での活動など、活動領域を広げていっている下道の多角的な活動が現れている展覧会であり、動き出している今後の展開が期待されるものであった。

中尾英恵 (小山市車屋美術館 学芸員)

2017年12月28日 09:49 下道 基行 */?>



[ 津波石/Tsunami Boulder ]


Video work


2015−


津波によって海から陸へ流れ着いた岩を八重山—宮古諸島で撮影している。
I am taking video about the boulder that tsunami took from the sea side to the land in Yaeyam-Miyako islands.


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【津波石♯05 / Tsunami Boulder ♯05】
■Film
No. 05
Date : 23/06/2016 15:54-
Duration : 00:07:14:21
Location : Tarama-Island, Tarama-son Miyako-gun Okinawa Japan
Shooting direction : North-northeast
■Boulder
Place: 24°40'41.2"N 124°41'36.6"E
Name: Tougarila-tounvala
Meaning of name : Tougarila =name of place and local god, tounvala =boulder
Function: a landmark



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【津波石♯04 / Tsunami Boulder ♯04】
■Film
No. 04
Date : 21/6/2016 14:23-
Duration : 00:09:00:00
Place: Irabu-Island, Sawada Irabu Miyako-city Okinawa Japan
Shooting direction : North
■Boulder
Location: 24°50'06.6"N 125°09'01.0"E
Name: Chibitauri-zi
Meaning of name : Chibi=behind, Tauri=inclined, Zi=rock
Function: migratory bird colony, a fisherman’s landmark



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【津波石♯01 / Tsunami Boulder ♯01】
■Film
No. 01
Date : 15/06/2016 11:33-
Duration: 00:02:35:10
Place: Shimoji-Island, Shimoji Miyako-city Okinawa Japan
Shooting direction : North west
■Boulder
Size: —
Location: 24°49'08.2"N 125°08'26.6"E
Name: Ocoskubi-zi
Meaning of name : Ocoskubi =big kimono sash belt (obi), zi=rock, Ocoskubi-zi =The rock that do up big belt
Function: a object of folk religion, a historyic spot



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【津波石♯11 / Tsunami Boulder ♯11】
■Film
No. 11
Date : 02/11/2018 12:32-
Duration : 00:02:26:08
Place: Tarama-Island, Tarama-son Miyako-gun Okinawa Japan
Shooting direction : East
■Boulder
Location: 24°40'29.8"N 124°41'22.5"E
Name: -
Meaning of name : -
Function:-







2014年からはアジアの国々との境界線近くに位置する宮古・八重山諸島を旅しながら、津波によって海底より運ばれ、陸地に漂着した岩を探し、映像で撮影している。

 このプロジェクトを着想したきっかけとして、東日本大震災で陸地に打ち上げられた船の存在を知ったことが挙げられる。これらの船の多くは保存される事なく解体されていった。しかし、もしそれらの船が100年後、復興した街の中に残されていたら、それらにはいったいどのような意味が付与されうるのか?このような問いを抱きつつあった矢先に「津波石」と出会った。島々に残された巨大な岩たち。津波によって、海中から陸もしくは渚へやってきた巨大な岩たち。あるものは津波にまつわる教訓を語る語り部として、あるものは崇められるご神体として、また、あるものは渡り鳥たちのコロニー(繁殖地)として、様々な意味や価値を与えられながら存在している。

 映像シリーズ「津波石」は、動く事のない巨大な岩を定点観測し、それぞれ異なる数分の動画で記録し、ループ再生によるインスタレーション作品。映像自体に音声はないが、コラボレーションとして音声を外部からの別のループとして関係性を持つこともある。

※津波石は宮古・八重山諸島だけではなく、東北などの他の地域、さらには世界各地に点在しています。個人的に様々な津波石を調査していますが、シリーズのコンセプトとして宮古・八重山諸島で制作をしております。


There are many Tsunami boulders in Yaeyama Islands (Okinawa Japan). many villages in these islands were devastated by tsunami many times in the past. Tsunami carried boulders into the land from the sea.


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[第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館展示帰国展 Cosmo- Eggs| 宇宙の卵 ]
アーティゾン美術館、東京
ARTIZON MUSEUM, Tokyo Japan
2020

IMG_4510.JPG IMG_4512.JPG
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『宇宙の卵』 ヴェネチアビエンナーレ日本館2019 《Cossmo-Eggs》 Venice Biennale 2019 Japan pavilion 2019 cosmoeggs02.jpg cosmoeggs01.jpg cosmoeggs03.jpg cosmoeggs04.jpg cosmoseggs08.jpg cosmoseggs05.jpg cosmoseggs06.jpg

A collaborative project by an artist, a composer, an anthropologist and an architect to explore co-diverse co-existence.
11 May – 24 November, 2019
The Japan Pavilion at the Giardini
artists: Motoyuki Shitamichi + Taro Yasuno + Toshiaki Ishikura + Fuminori Nousaku
curator: Hiroyuki Hattori

photo: ArchiBIMIng



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[高松コンテンポラリーアート・アニュアルvol.07 ]
高松市美術館、香川
Takamatsu Art Museum, Kagawa Japan
2018

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photo by Daisuke Aochi

2017年12月19日 12:04 下道 基行 */?>

津波石


あなたがいつどこからやってきたかたずねることはしません
ただ、その静かでおごそかなまなざしに、耳をすまします

鳥たちはあなたのまわりをせんかいし祝福し、あなたの頭上に巣をつくり
よりそうことで、深いアンドをえています

人はあなたのその堂々としたたたずまいに驚嘆し、意味を付与し、祈り、
モニュメントにし、記念撮影をします

ただそのすぐあとに、鳥たちも人も、歴史といういとなみも消え去り
漠然とした、時間以前の時間があなたのまわりをふわふわとただよいます

はげしい風と波があなたの体にごうごうとうちつけ
太陽があなたの肌をじりじりとやきこがし
そのからだを削りとるでしょう

しかしただ、その静かでおごそかなまなざしが、世界をじっとみすえるだけ

世界?それは人によってつくられるようなシステムでも、ちっぽけな平面的な広がりでもなく、とほうもない時間以前の時間のひろがり、人々の祈りが、
あなたを規定するまえのひびきあい

あなたがいつどこからやってきたかたずねることはしません
ただ、その静かでおごそかなまなざしに、耳をすまします

川瀬慈

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Anthro-film Laboratoryという企画で、大阪の国立民族学博物館で映像「津波石」の発表と討論を行なった。
”Anthro-film Laboratoryは、文化人類学、映画、アートが交叉する実践のなかで、言語に依拠するだけでは伝達されえない知や経験の領域を探求し、人文学における新たな知の創造と語りの新地平を切り開くことを目指します。” という川瀬さんが企画する研究会。
映像を見た翌日、川瀬さんから「詩」を頂いた。映像からインスピレーションを受けたという。

フィールドワークとカメラ

2017年11月12日 11:14 下道 基行 */?>


ーカメラとスコップー

 僕は旅をしながら写真を撮影して作品を作っている。ただ、文章も書くし、物も集めて展示もする。写真家と美術家の間というよりは、いろいろな境界線の上から別々の価値観のものを繋ぐことを制作としているように思う。
 大学では油絵科に在籍していたので、現代美術というのに触れる機会は多かったが、卒業後に絵筆からカメラに制作する道具を持ち替えた。カメラは独学だった。撮りはじめて2年ほどたった頃、写真の学校に通ってみた事はあった。そこで出会った若き写真家たちには、デジタルの波が押し寄せ、“写真”という存在が激しく揺らいでいる時期でもあったので、何を写すか以上に、カメラ/写真という道具をどう扱うか、ということに関心が集中しているように感じた。ただ僕はと言うと、ストレートに“記録として”カメラを選択したばかりだったこともあり、自分だけが何か時代遅れの場所からやってきたような、場違いな所で居心地の悪さを感じた。
 幼い頃、瀬戸内の小さな海沿いの町に住んでいた。考古学者になりたくて近所の貝塚にスコップを手に穴を掘りに行ったことや、隣の空き地にでっかい大きな穴を友人と掘ったこともある。スコップで地面をザクザク掘ると色々な時代の地層や思いもよらない物とぶつかる。カメラを手に旅をして風景写真を撮影するようになって以来、僕にとってカメラはスコップに近い道具なのかもしれないと徐々に感じるようになった。目の前の風景には時折様々な人々の生活の蓄積が地層のように見える事があり、そこのある時代だけを視覚化するにはカメラは良い道具かもしれない。視覚化するには、ただ写真を撮るだけではなく、集めて選んで並べる必要がある。一枚の美しい写真を撮影することが大切に思われがちかも知れないが、「撮って集めて選んで並べる」この行程がとても重要だと思う。
 現在僕は、デジタルとフィルムの3種類のカメラを使っている。6×7、4×5、デジタル一眼レフ。これは全くの我流だし、今まで人に話した事すらなかった。ただ今回「フィールドワークとカメラ」というお題が与えられて考えてみると、色々な作品シリーズを作る度にカメラの種類を毎回変えてきていた。改めて作品を順に追いながらカメラと旅と表現について自分なりに書いてみようと思う。

・ シリーズ『戦争のかたち』(2001-2005年)
 ある日、東京郊外で戦争の廃墟を見つけた。それが数ヶ月後に壊されて駐車場になっていた。シリーズ『戦争のかたち』は、日本全国に残された、砲台/掩体壕(飛行機の格納庫)/トーチカなどが様々な場所で新しい機能として使われていたり、今の風景に混ざっている様子を撮影したシリーズ。雑誌『Spectator』での連載後、リトルモアより写真集になった 。
※写真1(キャプション)トーチカ/北海道 シリーズ『戦争のかたち』より
 僕はこのシリーズの為にはじめてカメラを購入した。写真をやっている友人に建築物を中心にした「風景写真」を撮りたいと相談すると、価格とクオリティと機動力を考え、【中判カメラ】Pentax67を勧めてくれた。このカメラは、フィルムが35mmカメラよりも大きいサイズで写真の粒子が細かく引き延ばしても美しい。Pentax67は中古品がかなり多く出回っていて安価だ。デジカメはCCDが本体に内蔵されているのに比べ、フィルムカメラはどんなに古いカメラでもフィルムさえ新しい物を入れれば、更新されて行くのは良い。
 中判カメラとフィルムをリュックに入れて日本中を巡った。道なき道を彷徨うこともあるので自動車では機動力が悪くバイクが適していた。写真もバイクも風景とコンタクトする為のメディア。その頃、別の仕事をしていたので、1年に2回2週間くらいの休みをもらい、取材旅行を重ね、このシリーズは2005年に完成した。
 フィルムは、ネガとポジ、そしてカラーと白黒などいろいろなもので実験してみた。ドイツ写真の大御所ベッヒャー夫婦の給水塔の写真への憧れもあり、白黒のフィルムやタイポロジーも挑戦してみた。ただ違和感を覚えた。白黒写真とコンクリートの建造物の相性はとても良く、建物の機能美をよりシャープに切り取るのに効果的だった。ただ、“今の日常風景の中に突然ニョキッと現れる軍事的遺構が見えてくる風景”や“戦争の為に作られた超機能的な建物が機能を失い、新しい機能を与えられて残された建造物への興味”をより拾い集め並べる為に、白黒ではなく、徐々にカラーのネガフィルムで撮影し暗室で焼く方法になっていった。暗室作業は絵画をアトリエで描く作業に近く、自分の見た風景ともう一度出会い直す、大変に特別な経験で、これがなければ写真にハマらなかっただろう。今だと貸カラー暗室もフィルムも減少しているしデジタルでもしっかり撮れるから別の表現になったかもしれない。記録の道具の感覚や表現は日々変化している。
 白黒写真は「いつの時代かわからない」時間の止め方をする。それは、色が欠如している分、人々それぞれに想像する余地が多く残されているからかもしれない。使い方によっては記憶色にもなる。カラー写真はより情報量が多く説明的とも言えるかもしれないが、僕は当たり前な感じの日常のごちゃごちゃした雰囲気が気に入っている。
※写真2(キャプション)掩体壕/宮崎県 シリーズ『戦争のかたち』より

・ シリーズ『torii』(2006-2012年)
 シリーズ『torii』は日本国内の遺構を巡ったシリーズ『戦争のかたち』の旅の延長線上で“日本国外”に残された日本植民地時代の建物を見に行ったりして、日本の外側に残された建造物を調べ始めたことに始まった。実は、『戦争のかたち』を写真展にした時、写真に“ユルさ”を感じた。それはレンズや撮影方法やプリントの問題だった。『torii』ではより硬質で均一な写真を作り、大きく引き延ばした展示や自分が好きな写真集らしい写真集を最終イメージとして目標を定め、【大判カメラ】を購入することにした。このカメラは箱状で蛇腹が付いていて、カメラの後ろから暗幕を被ってのぞいて写すようなカメラ。特徴は、フィルムが中判カメラよりもさらに大きく、粒子の細かい美しいプリントが仕上がること。そしてあおり機能で建物の水平垂直で撮影できること。あと、カメラ自体が非常に大きく機動力がない(手持ちは非常に難しい)ので、自然とゆっくり風景と向き合って撮影することになる。撮影の行程は、まずはカメラを組み立て、三脚を立てて、暗幕を被り、構図を見て、ピントを合わせ、フィルムを入れて、風景を見つめ、待ち、シャッターを切る。カメラの大きさや機動性は仕上がる写真の印象とも非常に関係があるといえる。手持ちのカメラや小さいカメラでは、写真もラフに写りやすいが、この大判カメラは、三脚に乗せて写し描写力もあるため、写真もカチッと硬めの印象になる。それは、レンズや水平垂直などの理由もあるが、カメラが写す人の気持ちを反映する道具であることも関係している。感動しながら写された写真からはその感動が伝わってくることもあるし、大きなカメラで風景の美しさや時間の体積を感じながら、ゆっくりとシャターを切る感覚も写真には写るものだと思う。
※写真3(キャプション)サハリン ロシア シリーズ『torii』より

・ シリーズ『日曜画家』(2006-2010年)
 シリーズ『torii』と同時進行で進めていたシリーズ『日曜画家』。国内の、特に関西近辺に散らばっている祖父の絵を探し、その飾られている風景を撮影した、とても私的なシリーズ。このシリーズは、当初『torii』と同じ【大判カメラ】で撮影を始め、途中で【中判カメラ】に変更した。写真4と5を見て比べると何かが分かるかもしれない。写真4は大判カメラで撮影した初期作品、写真5は中判カメラで撮影した後期の作品。
※ 写真4(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
※写真5(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
 シリーズ『日曜画家』は、祖父の記憶を探す事とともに、風景絵画をカメラでリフレーミングし入れ子状の風景写真にすることをコンセプトにしていた。写真4は『torii』の鳥居と同様に、“主人公”である祖父の絵画を中心に置き、引きの構図で硬質に空間を捉えようとしているが、この手法だとなんだか面白みに欠けるなぁと徐々に思うようになり、中判カメラに持ち替えた。硬質な写真からラフで柔らかい画面づくりへシフトダウンさせた感じ。ただ、Pentax67よりもより軽量で手持ちの撮影のしやすい中判カメラMamiya7Ⅱを購入。中判のカメラは非常にボケ感が美しいという効果があるが、手持ちで撮影するのと、写真の “硬さ”も変わってくる。これは僕の個人的な思い込みかもしれないが、思い込みも写真は吸い込むようにして画面に定着してしまう。
 そう考えると、フィルムカメラでもデジタルカメラでもどちらでも良い。ダサい服装だと気持ちが乗らないように、自分がかっこいいと思うカメラであることも重要かもしれない。そして、フィルムカメラを旅に持って行くと、常にフィルムの残り枚数や本数を考えておかないといけないし写したイメージも見られないのデメリットは大きいが、一枚一枚への「気持ち(緊張感)」は自然と増して行くメリットもある。だから、最近でも納期のないふらりとした旅などはフィルムカメラを持って行く。撮った写真は撮影してから1年後近く放置してから暗室で焼いてみて、作品が動き始めた事もある。フィルムはそういった小さなタイムカプセルのような体験ができる。

・ シリーズ『bridge』(2011)
 このシリーズ『bridge』は2011年3月11日の震災の数日後、あぜ道に架けられた木の切れ端が橋のようになっているのを見て、「美しいなぁ!」と思い、【デジカメ】で写したのがはじまり。小さいけど感動が乗って写真をシャッター切るとき“手応え”がある。やはり撮れた写真にも強さがあった。そう考えると、カメラマンとしてプロの方々は被写体に対して「褒め上手」な人が多いなぁと思う事がある。つまりはじめに感動がない状態で、色々な被写体に写真で向かっていける。
 このような “橋のようなもの”はいつもでどこでも見てきた気がする。でも、震災の直後だったからこのモチーフと出会ったのだと思う。たぶん、いつも近くにあった日常や人々がいつか消えてしまうという当たり前のことに急に気がつき愛おしく感じられるような体験をその頃多くの人にあったのだと思う。そしてその気持ちは再び徐々に薄れていく。
※写真6(キャプション)シリーズ『bridge』より
 これらを撮影した時、今和次郎さんが関東大震災直後にみつけた廃材で建てられたバラックのスケッチと勝手に接続した。そして、その時、この橋みたいなものなら、被災地にもでき始めているのではないか?と想像してみた。
“不在であったり欠落してるから生まれてくる人間の営みや創造”。これは自分の中で選んでいるモチーフに共通する物かもしれない。つまりマイナスとプラスがぶつかっている場所でもある。マイナスだけでもプラスだけでもない。
 僕はすぐにホンダのハンターカブというオフロードも走れる中古カブを買って、日本全国をこのどこにでもある橋をさがして旅にでた。港街で船にかけられた小さな板切れの橋や田園風景の中の橋、そして津波の被害のあった町も巡った。
※ 写真7(キャプション)シリーズ『bridge』より
 写真でシリーズを作る方法というのは様々あると思うが、僕の場合は「主人公」を見つけること、そしてその対象へのカメラの選び方と向け方にある。『torii』はカメラを基本的に水平にしすべてにピントが合うようにして、建築物を撮影するベーシックな撮影方法を取っているが、前に書いた通り『日曜画家』ではそのルールを途中から破り、手持ちでよりボケ感を使って水平などを意識せずスナップのように撮影している。そして『bridge』はというと、僕が立ったままの位置からカメラを構え、足下にそれが落ちているように見下ろす形でフレーミングしている。地平線は入れないようにし、主人公と周囲の関係性は少し入れている。カメラの向きを上げて地平線を入れると、「これって京都だね」とかその土地の個性がでてしまうので、逆に「どこにでもある」感じを出したいと考えてこのようなフレーミングをした。被災地でこのような橋を見つけて撮影して展示しても、テーマ的にそこが被災地である事は分かる必要はないと想像もした。
 シリーズ『bridge』では、2011年8月からの展示開催中も僕はどこかを旅をしながら、色々な場所から展示場所に“橋のようなもの”の風景写真をデータで送り続け、展示会場ではスタッフがそれをプリントアウトし、壁に一列に貼って行った。
※写真8(キャプション)シリーズ『bridge』展示風景より(photo by Ken Kato)
 その旅の途中、山口県の周防大島の、宮本常一さんの資料が集められた周防大島文化センターに行った。ここには宮本さんが撮影したものすごい量の写真がファイリングされていて、お願いすると見せて頂けるのだが、これが非常に素敵な経験だった。愛用のカメラはオリンパスペンという【ハーフサイズ】のカメラ。ハーフサイズというのは、35mmのフィルムをカメラ内で縦割りに半分にして撮影するので、36枚撮りだと72枚撮影できるというもので、画像は粗いが、独特の風合いがあり、小型でとにかくサクサク撮れる機動力がある。今だと携帯のデジカメくらいの感覚で撮れる。宮本さんがそのカメラを手に、車や電車の移動中にもいつもシャッターを切っている様子がファイルから見えてくる。写真自体は構図が美しいとかではなく、眼に飛び込んで来るものをヒョイヒョイとつり上げるようなまなざしが映り込んでいて、実に軽快だ。メモ書きよりも軽く、でも記憶にひっかける釣り針のような。ただ、何気なく写された風景の背後も透けて見える。土地や歴史への読み込みと、時間軸の深い尺度を持っているように感じる。そして人々の生活や時間への朗らかでまっすぐな感動が伝わってくる。


ー記録と表現のバランス感覚ー

 ここまで、僕自身の作品と共に、「撮って集めて選んで並べる」の「撮って集める」部分を書いた。最後に、「選んで並べる」部分について書く。
 集めてきた写真を選んで並べることで、それによって見る人にダイレクトにも細やかにも発見や感動が伝播する可能性を生み出す事ができる。例えば、1枚の写真だけでは、その写真のどこに興味のフォーカスが合っているかすら見えてこず、見る人は「何を写した写真なのだろう?」と考えるかもしれない。その後に2枚目を並べ3枚目を並べることで、徐々に撮影者の“まなざし”が見えてくるかもしれない。ただ逆に、1枚の写真を小さなサイズでぽつんと展示するだけだと、見る人が様々な想像をできるかもしれない。沢山並べると説明的になりすぎるかもしれない。いろいろな写真があるが、写真を表現にする場合にサイズとサイズというのは重要だ。
 写真はデジタル化しようが基本的に記録メディアだ。僕は、目の前のモノを「記録」する重要性/面白さを感じていて、それと同時に編集し自分自身の「表現」にする重要性/面白さを感じている。バランス感覚が表現者それぞれにあるように思う。
 僕は元々絵を描いていたので、今和次郎さんのように写真ではなくスケッチで記録しても良いのではないかと考えることもあるが、やはり写真を使う事が多い。それは自分がフォーカスした物だけではなく、気がつかなかったものなどが入り込む余地がある事に豊かさを感じるからかもしれない。

(建築雑誌 2014年12月号掲載)

2017年4月 6日 14:21 下道 基行 */?>







1

 正直に書くと、”自分なりの方法で世界を知りたい”のだと思う。




2

 行っている表現活動は、基本的に風景や環境を写真や動画で切り取り蒐集し、並べること。




3

 子供の頃、学校の帰り道の山の斜面に貝塚(貝殻の層)があった。それに興味を持ったのは、何千年も前の人々の生活の断片が、地層として目の前に見えている奇妙な感覚だった。人々の生活や自然の累積である目の前に存在する風景や現象は、時に自分の持っている時間や空間の感覚を大きく超えて、繋がって見えることがある。私の興味や制作自体は、自ら何かをつくりだすという感覚よりは、すでに目の前にある世界から何かを見つけたい/発掘したいという感覚に近く、美術大学では絵画を専攻したが、徐々に写真やその他の表現方法を手にするようになった。日常や旅先で疑問や感動を感じ、それに対して自分なりに意味や価値やバランス感覚を発見して、新しく提示したいと思っている。



When I was a child, on the way home from school I saw a shell mound on a mountain slope. I felt strange sensation when I faced with such layered fragments of lives from thousands years ago. Landscapes and phenomenon made through accumulations of human life and nature bring me a comfortable moment that goes beyond my imagination, though I do not surely understand. I had a desire to find and discover something in the world right in front of my eyes rather than creating something by myself. Then, I gradually inclined to photography and other artistic practice, although I majored in painting at art school. Feeling questions and excitement in everyday life and on my trips, I would like to express and present by finding my own meanings and values.


4

 2011年、日本の北東部沿岸を地震による大津波と原子力発電所の事故が襲った。私は東京の自宅のテレビでそれを眺めていた。モニターの向こう側から流れる散々たる風景を自分の住む町から数百キロの場所で実際に起こっている現実として知り、自分の中の記憶に刻む為に震災から3ヶ月後のその一体をボランチアをしながら旅をした。ある町は何もかもがすっかりと消え去り、建物や車や家具や道路や様々な残骸は瓦礫として町だった場所の真ん中に高々と積まれていた。私はどうする事もできず、ただただ通り過ぎる事しかできない自分を痛感するほかなかった。
2011年以前、私は自分の中に教育されえた”歴史”や“近代”を疑い、観察と研究と制作(旅と読書と編集)を続けるの中で、自分なりのバランス感覚を開発しながら、歴史と風景と向き合い、問い直すことを制作の柱にしてきた。ただ、被災地での経験から少し変わった。それは“近代批判”をすることよりも、さらに長い時間感覚の中で、目の前の風景から、人間と自然との関係をもう一度考え直しながら、人が日常的に持っているプリミティブな想像性をもう一度“肯定”してみたいという興味の中で制作をはじめた。

2011年以前の主な作品=「戦争のかたち」「Re-fort project」「torii」
2011年以降の主な作品=「bridge」「ははのふた」「漂泊之碑」「津波石」「新しい石器」


5

 結局のところ、自分一人で考えたことなど高が知れているし、”作る”能力もないのも理解している。それでも制作し続けている。それは、自分の想像を超えてくる何かに出会いたいのだと思う。(それは、大自然とか宇宙というよりは…、人の営みへの興味。さらに、様々な人との協働作業など)
つまり、”作る”のだけど、結局のところ、”見たい”のかもしれない。”見たい”から”作る”。





・・・執筆中・・・




風景に折重なる不可視の物語

2017年3月26日 19:01 下道 基行 */?>


 風で飛ばないように物を抑える石、ちょっとした段差を解消するために挟まれる石、境界線をつくる石、隙間に敷き詰められた石、屋内においてはきっと漬物石にもなっている。昨年の夏、下道基行(1978−)は黒部市美術館付近の海沿い地域において、住民が浜辺の丸石を拾ってきて様々な用途に使う風景を見つけ、人々の生活の中で使われる「石」に興味を持った。以来、このさりげない石の風景を考察してきた。
 周辺地域一帯はフィールドミュージアムにも認定されており、黒部川による大規模で美しい形状の扇状地が広っている。ここは山と海の距離が近く扇状地の扇端部分が短く海に到達しているために、付近の海は砂浜ではなく丸石が転がる「石浜」になっているのも特徴だ。また一本の川筋になるまでは、長雨や雪解の度に幾筋にも分かれ網目状に広がっていたので「四十八ヶ瀬」と呼ばれ古くから交通の難所としても知られていた。そのようなことで地域の大半は土を掘れば丸石がゴロゴロとでてくる。生活の中でも石が身近で、海や川原の石が信仰の対象として利用されてきたり、民家や田畑の石垣として積み重ねられたり、当たり前の生活の中でさりげない石の風景が形作られてきた。下道の石への着眼によって石と地域の人々の密接な営みや、その背景にある何万年もかけて形作られてきた地形や風景との関係に気がついた。

 日本で古くから石は、信仰の対象、石器や石斧、石臼や漁具の錘などの民具、あるいは道標、さらには建築、土木的資材として、その他様々な用途が与えられてきた。下道が深く関心をよせる民俗学では人々と石にまつわる様々な事例が明らかにされている。石の崇拝について中山笑等の学者達と問答した書簡をまとめた柳田國男『石神問答』 が明治43年に出版されて以降、様々な研究が行われてきた。それらの業績によって、人と石についての営みが実に多様であることが分かり、石に対する想像力がいかに豊かであるかを知ることができる。野本寛一が述べるように、日本人は古くから「石を心と結びつけ、信仰と結びつけ、生活の中心に、心の核心に、場の中心に据えてきた 」ことは確かなのである。
 折口信夫が「石に出で入るもの」の中で「石に宿る」という感性について説明している。内部空間について「うつぼ」を上げ「這入る所のない様に閉ざされて居ながら、何時か物の這入る様に用意されているもの 」とした。うつぼ木のような神聖な木と同じく用語例からは証明できないとしながらも「一番適切に、我々の頭に来るのが、石 」であると述べた。磐座、石神、多くの事例にあるように、人々は霊魂や神の依代として石を器のように捉えてきた。
 また、鑑賞において代表されるものに日本庭園の枯山水がある。それは世阿弥の『風姿花伝』における「秘すれば花」に表れるように、秘められた姿を第一の美としそこに実体を見出すという幽玄思想に導かれた 。敷き詰められた小石に大海を見て、石組みに山や滝を見るというように、石は、見えない風景を見るための装置として人々の心の景色を受け入れてきた。

 《石》(2016年)は、対象を中心に据えた構図になっていて物質としての存在が非常に強く押し出されている印象を受ける。一つ一つの形や質感が丁寧に伝えられていて、まるで意思を持ってそこに佇んでいるようだ。幾つもの石を見ていくうちにこの丸い石は、山の岩のかけらで、ひいては星のかけらだというような、広大で宇宙から俯瞰するような視点と何万年もの時間の奥行きを喚起させる。その姿形からは、昔人が石には霊魂や神が宿るとも考えたように、何ものかを内包していてもおかしくはないと思わせる。ミルチャ・エリアーデは、彫刻家のコンスタンティン・ブランクーシ(1876−1957)にとっての石は聖性顕現であると述べたが 、下道にとっても石は、果てしなく捉えがたく厳かな鉱物であることが伝わってくる。
 一方で、幾つもの石の風景を行き来し、石の置かれた状況や背景に目を向け、切り取られた画面の外へと続く風景を想像してみる。そうすると、ある地方の極めて日常的でさりげない一場面だということに気付くことができる。宇宙まで思いを飛ばされたと思えば、変哲もない日常風景がありありと浮かんでくる。この石の器の大きさこそが、信仰の対象として祭られながらも単なる日用品として使われてきた所以であろう。宇宙的で形而上的そして日常的、作品においてはそのような両極性を捉え「石自体がもつ奥行き」と「日常のさりげない風景」の均衡を保持し、かつ同時に提示しようという試みが窺える。
 また下道は、石にはそもそも決まった役割というものがないために人がそれに役割や価値を与えていると考えていた。例えば、海辺や川辺で石を拾う人たちは、用途に合わせて微妙に重さや形を選別し、丁度いい石を拾い持ち帰る。その時、スイッチが切り替わる様にただの石に役割が備わる。富山市北代縄文広場で限りなく原石の形を残したまま使用された石器類が展示されていた。形をざっくり言えば、どれも手のひらに入る丸い石だ。「敲石」は微妙に縦長で握りやすそうで、「凹石」は敲く物の受け皿とされるようにやや平たく使用後に中央部分が窪んだ痕跡もある、まん丸に近い形の「磨石」もあった。縄文人がわずかな違いを選別、選択し使用した石である。手に取った石の横にも、迷った結果に使用されなかった石があったはずできっと今もどこかに転がっている。時代を特定させにくいモノクロ写真による提示は、下道が捉えた石とその営みが現代のことでありながら遠い過去のことであるかもしれないと想像することを促している。

 《石》のリサーチにおいて黒部市吉田科学館学芸員の久保貴志と朝日町埋蔵文化財施設まいぶんKANの川端典子に現地案内の協力を得た。考古学を専門とする川端は何万年、古生物学を専門とする久保は何億年という時間の中で研究を行う。彼らとの会話の中から、下道の視点は彼らの対象と比較すると、人々の営みを、圧倒的な解像度をもって捉えていることに改めて気がついた。民俗学者達が各地の集落の口承伝承や民話を内側から根気強く調査したように、下道も現地に足を運び、綿密に観察し収集していくことで制作が行われる。少年時代は近くの貝塚や古墳を独自に調査していたと教えてくれたが、考古学の発掘作業のように風景を掘り下げ想像していく。表層では「もの」を捉えながらも、その背景にある出来事や記憶や物語について丁寧に考察し、それらを編集してから作品として提示する。そのような下道作品は時として考現学 の系譜に位置付けられてきた 。福住廉が今和次郎や吉田謙吉の考現学の調査に芸術との共通点を見出し「観察者とはしたがって科学と芸術が重複する地帯を闊歩する者を指している 」と述べたが、それは下道の姿勢にも当てはまるように思う。

 さて、《石》に見られたような両極的、あるいは多角的な視点は、これまでのシリーズを俯瞰しても見ることができるし、個々の作品の中にも見ることができる。日本各地に残る掩体号やトーチカ等の旧軍事施設跡を取材した《戦争のかたち》(2001−2005年)、植民地時代に建てられ現在も国境の外側に残る様々な鳥居の姿を見つめた《torii》(2006-2015年)等のように歴史的な出来事が背景にあるものや、大きな自然や時の歳月が作用するものがある。一方で、あぜ道や溝に架かる木板や鉄板等の橋のようなものを撮り集めた《bridge》(2011年)、境界を動物や人が跨ぐことでできた道のような痕跡《crossover》(2012年)、蓋がない器にお皿やティッシュなど適当なもので代用する日常の記録《ははのふた》(2012−2015年)等のように日常の中のささやかな行為によって作り出されたものや、作家のプライベートな事柄に起因するものがある。これらの両方について等価に好奇心の視線が注がれ、それぞれにとっての美しさが見出されてきた。
 さらに一つ一つの作品の中に、消える/残る、移り変わり、漂泊、移動、記憶、痕跡、境界、価値や意味等の様々なコンセプトが常に複数内包されている。例えば朝鮮大学の鉄条網、コミュニティを隔てる川の水などを採集した《境界のかけら》(2012年−)は様々な境界を採取したもの。境界を取り巻く人々の歴史について想像される。さらに、採取されたかけらは意識する者だけに見える社会の境界であり、本当はただの物質でしかないのかもしれないと考えたとき、価値や意味についての思索が生まれる。この様に、作品に重ねられたレイヤーからは、鑑賞者が考えを深めるほどに様々な気づきが引き出される。
 また、写真、映像、現物の展示、文章、資料等、多面的な方法で展示が構成されることで、下道が発見し観察していく過程における心の高鳴りのような感覚や思い巡らす様々な事柄を共有できる。
 
 本展においては、幾つかのシリーズで「用」の持つ力についての考察を改めて試みようとしている。その関心は初期作品にまで遡ることができることからも常に向き合ってきた主題であることが分かる。
 《torii》は、国境の外側の鳥居の姿を取材したものである。この鳥居は大日本帝国の政策によって建てられたものであり戦争が終ってもなお、姿を変えながらその土地に残っている。鬱蒼とした森の中に微かに見える姿、見晴らしのよい草原に佇む姿、その他、施設の門に転用されていたり、民家が押し迫り電信柱のように電線が引かれアンテナが立てられていたり、横たわった鳥居がベンチとしても使用されている。同じ文化を共有し同じ価値を共有するコミュニティの中で初めて機能する意味がその外側に残された時、意味の喪失を目の当たりにする。これらが植民地主義の記憶を象徴するような遺構であることは明らかである。その一方で、誤解を恐れずにいうならば、それらは写真の中に美しく佇んでいるし、日常的な雰囲気を感じられるものもある。《torii》を初めて見た時、文化的な意味や価値観の違いを知り互いの差異を認め合うという、どちらかかといえば、多文化主義的な印象を先に受け止めたことを覚えている。作品に対する考えは、世代あるいは鑑賞者それぞれの意識によって異なるだろう。しかしこのような様々な解釈を許容しているのは、作家が中立な立場をとり、現在のありのままの姿の鳥居と向き合おうと試みているためである。それは《石》に表れていた均衡の保持と類似している。より一方向に引き付けられやすいプロパガンダ的な題材であるだけに、自由な視点で向き合あうことが容認されて初めて美しさや日常性というその他の要素が見えてくる。
 下道は《戦争のかたち》においてモニュメント化されていない軍事施設跡が菜園や民家の物置のように使用されて日常に埋没している様子に関心を抱いた。そしてその姿を美しいと思ったそうだ。それはきっと《torii》にも共通している。これらは機能性が喪失し、長い歳月と変化する環境の中で意味や価値の転覆が起こったものである。下道は「権力的に与えられた意味を市民の生活が無意識に読み替えひっくり返す」こと、例えば、台湾台中市の公園にある鳥居が倒された時の力より、ベンチにして座ってしまうことで権力的なモニュメントとしての意味を剥ぎ取る、人々の日常生活や「(転)用」の力に強く惹かれている 。
 それを自身の行為の中でも模索している。《Re-Fort PROJECT》(2004年-)は、砲台跡の歴史を理解しながら現代にふさわしい使用を検討し試みるもの。例えばそこで、缶蹴りをしたり、花見のようなイベントを開催したり、リノベーションして暮らしてみたりしてきたように、積極的に日常的な行為に転用するところに意味がある。その他には、沖縄のガラス職人たちが戦後、駐留米軍の使用したコカコーラやビールの瓶を再利用して色ガラスを制作したことに着想し、浜辺に漂着したガラスを再利用してコップ等を制作しているプロジェクト《漂白之碑》(2014年-)。第2次世界大戦の戦闘機の機体を再利用し作られた沖縄の民芸品を購入し展示した《ジュラルミン製の皿》(2014年)がある。

 転用する日常の行為、つまり「用」が本来の意味を取り去ること、下道はそれを一方的に美化するのではなく、広い視野を持ちその現象や効力を考察している。しかし私たちは、そのことがいかに風景あるいは記憶や歴史を前進させて来たかということについて、気が付かない訳にはいかない。
 そして、これまでの作品中に表れた日常的な転用の行為は、戦争や侵略というコントラストの強いものと隣り合わせになることでより鮮明になっているのではないか。日常性は相対的に意識され 、社会へ向けられることでより前向きな、いわば「生」への意味合いを帯びる。それは、下道が東日本大震災を契機として制作した《bridge》を通して、改めて日常風景に目を向けていったことにも繋がるだろう。そこで見出されたのも人々による手作りの転用の風景であった。《石》もこの延長上に置くことができる。加えて、もともと意味を持たない石は、価値や役割を与えて使うということが明確に表れる。そのような根源的な視点そして石の持つ宇宙的な時間を重ねることで、これまで近現代を中心に考察してきた「用」の元に時間軸や普遍性についての強度が備わることは明らかである。

 下道は、過去を遡りながら未来へと向かう。ある時はささやかな石の営みを発見し、ある時はその石の記憶や歴史を感じ、そのようにミクロとマクロを行き来しながら風景に折重なる不可視の物語を見つめている。何億年という石の時間に比べれば米粒のような私たちの営みは、されど確実に日常の積み重ねによって風景を、世界を、前進させている。

尺戸智佳子(黒部市美術館学芸員)

柳田國男「石神問答」『柳田國男全集15』株式会社筑摩書房、1990年(初出:『石神問答』聚精堂、1910年)
野本寛一『石の民族』株式会社雄山閣、1975年、p.284 
折口信夫「石に出で入るもの」『折口信夫全集19』、株式会社中央公論社、1996年、p.44(初出:『郷土』第2巻第1〜3号合冊「石」特集号、1932年7月25日発行)
前出書、「石に出で入るもの」、p.45
重森三玲『枯山水』株式会社河原書店、1965年、pp58-69
ミルチャ・エリアーデ「ブランクーシと神話」『エリアーデ著作集第13巻 宗教学と芸術』(中村恭子他訳)株式会社せりか書房、1975年、pp252-253
今和次郎によれば「現代風俗或は現代世相研究に対して採りつつある態度及方法」、「時間的には考古学と対向し、空間的には民俗学と対向するものであって、文化人の生活を対象として研究せんとする」もの。(今和次郎「考現学とは何か」『モデルノロヂオ(考現学)』株式会社学陽書房、1986年復刻版、pp353-355、初版:春陽堂、1930年)
「「再考現学/Re-Modernologio」phasa3:痕跡の風景」展、青森公立大学 国際芸術センター青森、会期2012年2月18日〜3月25日、「路上と観察をめぐる表現史−考現学以降」展、広島現代美術館、会期2013年1月26日〜4月7日
福住廉「観察者の歴史と戦後美術の歴史−現代美術の民俗学的転回へむけて」『路上と観察をめぐる表現史 考現学の現在』株式会社フィルムアート社、2013年、p.203
下道基行、筆者とのメールのやりとりから、2016年5月24日
三井善止「日常性と哲学」『哲学の立場:人間・自然・神』玉川大学出版部、1990年、pp.45-54を参照。


Invisible tales layered within the landscape
Chikako Shakudo

Stones used as weights to prevent an object from flying away in the wind, stones strategically placed to level out a bump in the ground, stones used to fill a small gap, and the stone that must be used inside when making pickles. In the summer last year, Motoyuki Shitamichi (1978- ) became interested in these stones after he came across many such landscapes in the coastal areas around Kurobe City Art Museum, in which the local people had gathered and used stones from the beach in their daily lives. Since that time, he has observed the casual manner in which these stones are used within the landscape.
The surrounding area, with the large and beautifully shaped alluvial fan created by the Kurobe River, is designated as a field museum. Due to the short distance between the mountains and the sea, and the fanned edge of the delta being short, the shoreline does not consist of sandy beaches, but rather, is characterized by pebbled beaches made up of small round stones. The area is also known as the Forty-Eight Riffles. Before the arteries of the river unite into one, numerous riffles fan out in thin mesh like branches, particularly after long spells of rain, and with melting snow; and this characteristic of the area has long been recognized for making transportation difficult.
For these reasons, digging the soil in the area will reveal numerous stones. Stones are also an integral part of the life of the people of the area. Stones from the riverbed and seashore have been used as objects of worship, and they are also used to build stone walls around homes and in fields. This landscape of stones has come to be due to the casual use of stones in ordinary everyday life. When Shitamichi turns his attention to these stones, it also leads us to notice the intimate relationship between them and the local people, and the landscape and topography that has been in the making for over hundreds of thousands of years.

Since ancient times in Japan, stones have been used as objects of religious worship, implements and stone axes, stone mortars, fishing weights, or as signposts. They were also used as building or engineering materials. In folklore, which Shitamichi is deeply interested in, numerous examples entwining people and their use of stones have been uncovered.
Since Kunio Yanagida compiled the notes from dialogues with scholars such as Emu Nakayama in Ishigami Mondo published in 1910, various studies regarding the worship of stones have been carried out. According to these publications, we can see that there is a wide diversity in the relationships between people and stones, and that the imagination people exhibit towards stones is incredibly rich. As Kanichi Nomoto states, there can be no doubt that from ancient times, Japanese people have “…tied stones to their heart, to their religion, placed them at the centre of their lives, and the core of their soul, and the focus of their very foundations.”
Shinobu Orikuchi discusses the sensibilities of dwelling in a stone in Ishi-ni ideiru mono. He points out the concept of utsubo in terms of internal space. According to Orikuchi, “The space is closed as if nothing could be accommodated by it, yet at the same time, it is as if the space has at some time or another, been specifically prepared to accommodate something.” Though he states that he cannot provide evidence of this concept with terminology such as the word utsuboki, used to refer to a sacred tree, “…the most suitable object which comes to mind is a stone.” With numerous examples of dwelling places of Gods and stone deities, people have provided the foundations for rocks to be used as a dwelling or representation of a God or spirit.
An example that can be given as an appreciation of this is the karesansui, the dry landscape rock garden in a traditional Japanese garden. As shown in the concept of if it is hidden, it is a flower in Zeami’s Fushikaden, there is both profound and mysterious beauty in the concealed form, and the prospect of that hidden beauty revealing its true self. Just as we have the ability to be able to see the ocean in small stones spread in a garden, or a waterfall in a rock arrangement, rocks have been given a special place in the hearts of people as a device used to view a concealed landscape.

stone (2016) consists of compositions which focus upon a main object, and we get the impression that the existence of each as a substance is being strongly thrust at us. Each and every form and substance is carefully conveyed, as if each has its own will, and is lingering in that spot. Looking at several of these stones evokes a feeling of brevity at the depth of time, the weight of hundreds and thousands of years. This round stone could not only be a fragment of a mountain cliff, but also a fragment from a planet, and we are viewing it from the immensity of the universe. Just as people once believed that Gods and spirits dwelled in stones based on their appearance, we too come to believe that it would not be so strange if some being were dwelling inside. Mircea Eliade stated that for the sculptor Constantin Brancusi (1876-1957), rocks were a holy manifestation. However for Shitamichi, we get the impression that the stone is a majestic and dignified mineral, eternally difficult to grasp.
On the other hand, if we go back and forward between the scenes of numerous stones, and pay careful attention to the background and circumstances, we can imagine the landscape extending from these seemingly cut-out screens. In doing this, we see that each is an incredibly routine and casual scene from a certain area. Though our imagination has flown to the universe, thoughts of an unremarkable daily life vividly come to mind. The very size of this stone is what led it to be an object of worship, while at the same time it was the reason that it also came to be used simply as a daily utensil. In the metaphysical, in the cosmos, in space, and in the mundane, his works capture this polarity, each stone maintaining a balance between the depth of the stone itself, and the common and mundane daily landscape.
In addition to this, Shitamichi believes that a stone itself has no role, rather, it is people who give the stone its role and value. For example, people gathering stones at the riverbed or seashore choose these based on ever so slight differences in weight and size, bearing in mind what the stone will be used for, and then choose the perfect stone to take home. Just as a switch is turned on or off, what was once just a stone is endowed with a purpose. At The Jomon Village in Toyama Kitadai National Historic Site Prefecture, stone tools, which maintain the original shape of the stone, are on display. To give a rough approximation of the size of the stones, each would fit into the palm of your hand.
There are beating stones, slightly longer, that seem easier to grasp, stones with a pit, flatter with traces of an indentation in the center, as if they have been used as saucer for a Beatingr stones, and almost perfectly round stones that must have been used as grinding stones. People in the Jomon Period chose and used these stones based on ever so slight differences. There must also have been stones that they picked up, and did not use for some reason. Those stones are surely still lying around somewhere even now. The display of black and white photographs makes it difficult to pinpoint the era, encouraging us to imagine whether the stones and their activities which Shitamichi has captured, are part of the present age, or from a time in the distant past.

In researching stone, we enlisted the assistance of Takashi Kubo, curator of the Kurobe Yoshida Science Museum, and Noriko Kawabata from the Asahi Town Center for Archeological Operations to provide guidance in the local area. Kawabata specializes in archaeology, and deals with time spanning over tens of thousands of years. Kubo specializes in paleontology and hundreds of millions of years. In conversations with these two specialists, and comparing Shitamichi’s viewpoint with their interests, again we realize that he has captured the life of the people with overwhelming definition. Just as folklorists assiduously research the folktales and oral traditions of the villages in each region, Shitamichi also visited the area, closely observing and gathering information to create his works.
He informed us that when he was a child, he personally investigated nearby shell middens and burial mounds, and we can imagine scenes much like an archaeological dig. While he captures objects on the surface, he also carefully considers the stories, memories and events of the landscape, and after editing these, presents them as a work of art. Such works can be seen as a study in modernology, and have at times been given this pedigree. In their research in modernology, Ren Fukuzumi, Wajiro Kon and Kenkichi Yoshida have found a common denominator with art, stating that “…the observer is, therefore, someone who strides through overlapping regions in art and science.” This could also apply to the stance of Shitamichi.

The polarity in stone, and the diversified viewpoints, is visible in each individual piece of work, and can be seen even if previous series of works are overlooked. Works with historical events as their background, such as bunkers (2001-2005) which covers the ruins of former military bunkers still visible in various parts of Japan, and torii (2006-2015) which observes the forms of torii (gateways to shrines) built outside of Japan during the Colonial period, also document the vastness of nature, and enormity of the passage of time.
On the other hand, bridge (2011), a collection of works capturing bridges made from wooden planks and steel plates suspended over ditches and paths in rice fields; crossover (2012) showing traces of paths made when people or animals step over boundaries; and Mother’s Covers (2013-2015), a record of tissues or plates used as substitutes for lids; were made showing the tiny behaviors within everyday life, originating in the daily affairs of the private life of the artist. The gaze of curiosity has been poured into these in equal value, and the beauty within each of them discovered.
Furthermore, within each of the works, multiple concepts are included: to disappear or remain, transformation, wandering, movement, memories, traces, boundaries, value, and meaning. For example, in Fragments of borders (2012- ), he collected water from rivers which separate communities, and the barbed-wire entanglements of the Korea University. It is possible to imagine the history of the people whose lives were hemmed in by these borders. Further, the fragments of the borders collected are social boundaries, visible only to those people who are aware of them. If we think of them as simply being a substance, speculation regarding their value and meaning is born. In this way, various realizations are derived from the layers in each work as the viewer’s understanding of them deepens.
Also, as the exhibits are composed using diverse methods including photographs, film, actual objects, texts and documents, it is possible to share the sense of Shitamichi’s fast-paced process of observation and discovery, and ponder various matters together.

This exhibition attempts to re-examine the strength of yo(purpose) in several series of Shitamichi’s work. His interests can be traced back to his initial works, and it can be seen that these interests remain the main subject that he continually confronts in producing his works.
torii is a collection of works covering the forms of torii outside the borders of Japan. These torii were constructed as Empire of Japan policy, and even now, though the war is long over, they remain where they were built, changing their forms. The barely visible torii still standing in the dense forest; the torii lingering on grassy plains in full view; the torii that has been converted into a gate to an institution; the torii being used like a telegraph pole by the house built near it, complete with electrical wires and an antenna; and the torii which has been toppled over and is now being used as a bench. When the original meaning of an object has been pushed away by a community that shares the same culture and values, we can see with our own eyes the loss of the original meaning. It is clear that these are remnants that symbolize the memory of the Colonial Period.
On the other hand, if I am to write without being misunderstood, these torii all linger beautifully within the photos; and in some we can sense the atmosphere of daily life. When I first saw the torii series, I remember feeling an impression of multiculturalism first, rather than recognizing and trying to understand the differences in cultural meanings and values. The thoughts that people hold towards the works will no doubt differ greatly depending on the consciousness of the viewer, and the generation to which they belong. However, what leads to the tolerance of various interpretations is the fact that the artist takes a neutral viewpoint, and is attempting to interact with the torii in their current form. This is similar to maintaining the equilibrium as seen in stone. Precisely because the subject with its one directional propaganda is so fascinating, we can tolerate approaching it from a free point of view, and it is then that we first other elements such as the beauty, and the ordinariness of it.
In bunkers, Shitamichi embraces his interest in the circumstances which have been forgotten in the ordinary. In this series he captures ruins of military facilities that have not been monumentalized, and are used either as vegetable gardens or as storage for private homes. He thought their appearance to be beautiful. This concept is also common in torii. These subjects have lost their original function, and through the passage of time, and changes in the environment, their value and meaning has been overturned. Shitamichi is incredibly attracted to the strength of change and purpose, as well as the ordinary aspects of daily life. For him “…meaning which was forced through authoritarian means, has unconsciously been turned upside down by the citizens in their everyday life.” For example, the fact that people now use the fallen torii as a bench in a park in Taichung, in Taiwan, has completely stripped it of its meaning as an authoritarian monument. There is far more power in this than the strength required to actually topple the torii.
He also searches for this in his own actions. While grasping the history of battery ruins, in Re-Fort PROJECT (2004- ) he attempts to examine an appropriate use for these in current times. For example, he has played kick the can there, organized a blossom viewing event, and even attempted to renovate a building and live there, believing there is meaning in the daily act of changing something proactively. In addition to this, while considering glass artisans in Okinawa re-used coca cola and beer bottles of the United States forces stationed there to make colored glass, he came upon the idea for a project to re-use glass that had drifted ashore to make objects such as cups in The monument of “float” (2014- ). He also purchased and exhibited Okinawan handcrafted goods that had been made using World War II fighter aircraft in Duralumin Plates (2004).

The ordinary act of converting an object, is in other words, removing its original yo(purpose). Shitamichi does not just beautify an object one-sidedly, but also examines the effects and phenomena with a broad perspective. However, we must recognize how far these acts have caused history, memory and the landscape to progress.
In works to date, the day to day act of putting an object to another use appears side by side with war and aggression, providing a sharp contrast. This relative awareness of the mundane, and being able to turn towards society, bears the implication of a positive existence. Through bridge, which Shitamichi produced after the Great East Japan Earthquake, he once again turns his gaze to the everyday landscape.
What he discovered in that, was a landscape of people converting objects by hand. Stones can also be thought of as an extension of this. Moreover, it becomes expressly apparent that stones which originally have no meaning, are given a role and value, and are used for a specific purpose. Together with this fundamental viewpoint, layered with the vastness of time the stone has seen, the intensity of time and universality can be added to purpose, which has to date been examined centering on modern times.
Shitamichi moves towards the future while travelling through the past. At times, discovering the workings of stones, at other times, feeling the history and memories of stones. While going back and forth between the micro and macro, he gazes intently at the invisible tales layered within the landscape. Compared to the hundreds and thousands of years of time stones have seen, our existence is but a grain of sand in time. Even so, with the accumulation of the ordinary, we are moving the landscape, and the world, forward.

Curator
Kurobe City Art Museum

2017年3月26日 13:12 下道 基行 */?>



[ 新しい石器/New Stone Tools ]


photographs(73pieces)+mixed media


2016


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写真集+浜辺の石(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo book+Stone from beach (Kurobe City Art Museum)



海沿いを車で走っていた。
灰色に淀んだ空、そして降り積もる雪は、風景を白黒の写真のようにしている。目を細めると、ずっと遠い昔にタイムスリップするかのようだった。
ある集落で車を止めて浜辺に降りると、丸い小石の浜は、波が寄せる度にカラカラと寂しげな音を立てていた。
無数の石の中から、ふと目についた石ころを拾い上げた。小さな木星のような石。砂のような色がだんだん模様になっている。(薬石と呼ばれる石。微量の放射線が出ていて、地元の人はお風呂にいれるのだという)
浜辺には色や形、様々な石が転がっている。そのひとつひとつが別々の場所で何億年も前に生まれ、地層からはがれ落ち、コロコロと転がりながら膨大な時間をかけ、この欠片になり、今も目の前で波によって少しずつ削られ、この手の中にある。小さな石が持つ時間感覚の巨大さに畏れを感じてしまう。

浜辺から歩いて、集落の細い路地に迷い込む。
やがて様々な家の軒先で浜辺の石ころが使われていることに気がついく。ある石は海風から物が飛ばないように重しに、ある石は隣の家との境界や石垣に、ある石は美しかったからだろうか軒先に飾ってある。意識してみると路地は石ころだらけでおかしかった。
ちょうど取ってきたばかりらしき石が玄関に置いてある家を見つけ、玄関のチャイムを押してみる。怪しそうに出てきたご主人に「すみません…。この石は何に使うのですか?」と質問してみると、突然の質問に驚きながら「えっと…、漬け物石ですが……」と教えてくれる。
僕も幼い頃海の近くに住んでいたが、こんなにも石を利用している風景は始めてみたしとても面白い…、というようなことを伝えると、「石なんて、浜辺にいくらでもあるからね。みんな浜辺から持ってくる。でも、年々浜辺が痩せててね。あそこに防波堤が作られてからは海がよく見えなくなったけど、昔はここからも一面広い浜辺が見えてね、漁から帰ってきた船や地引き網で、いつも賑やかだったよ」
ご主人に連れられて、裏の倉庫の隅に行くと、昔の漁の錘(重り)であろう縄でしばられた石がゴロリと転がっている。その様子は、賑やかに活躍していた石が元の石に戻り、沈黙しているかのようだった。

この浜辺の近くからは、旧石器時代の石器や縄文時代の集落の跡等、古くからの人間の営みの痕跡が見つかる。さらにヒスイが寄せる浜もあり、古代には勾玉が作られた。今でもここで作られた勾玉は日本全国、遠くは朝鮮半島などでも発掘されるという。大昔もこうやって人々は石を探して浜辺を歩いていたのだろう、その頃から石は今のような石のままだったのだろう。




ある日、
洞窟に暮らしていた古代人たちが、いつも襲われていた猛獣に偶然石を投げつけた。石に武器の意味を見つけた人々はまたある日、投げつけた石が岩とぶつかり砕けて、先が尖っている様子を発見した。石の加工がはじまり、道具はゆっくりと時間をかけてさらに進化していった…………。
と、特急電車の中でこの文章を書いている。ポケットには、拾ったばかりの木星のような石ころ。僕は今、椅子に座った状態のまま、人間が力一杯投げた石ころの2倍以上の速度で移動している。車内は夜なのに明るく、座席は気持ちのいい角度に動くし、前の座席には収納式のテーブルやネット状の物入れまでついていて、後ろの席からは音楽プレーヤーの音が漏れてくる。
周囲を見渡すと、目につくあらゆる物には、それぞれ既に意味があり、僕たちは疑う事なくそれらをその意味で使い生活している。
そう考えると、石は今でもただの石であり、それだけでは意味や価値はない……ということが、ある意味ですごい事なのではないかと思えてくる。それぞれの石に価値を与えるのはそれを拾い上げた人間であるということ。
小さな惑星のような石ころは、宇宙の欠片であると同時に、その内側に無限の宇宙を閉じ込めているのではないか。

下道基行


I was driving my car along the coast of the sea. The dark gray sky, with the falling snow covering the ground makes the landscape appear to be a black and white photograph. As I survey the scenery through squinting eyes, I feel as though I have slipped back into a time long past. I stop my car at a village and make my way to the foreshore. Each time a wave surges to the shore, the small round pebbles on the beach rattle cheerlessly.

From the countless stones, I pick up one that grabs my attention. The stone has the appearance of a tiny Jupiter, its sandy colors making a pattern. (It is a stone known as yakuseki. Containing a small amount of radiation, the locals add such stones to their bath water.)

Stones of various shapes and colors lie on the beach. Each stone came into being hundreds of millions of years ago at some distant place. Each one flaking away from the earth’s layers, rolling through time to become the fragments they are today. Even today these stones are being eroded away by the waves before my very eyes. One of these stones sits in my hand. I am overawed by the enormity of the passage of time that this small stone has seen.

I walk away from the beach and find myself in a narrow lane in the village. It is not long before I notice that the stones from the beach have been used around many of the houses. Some stones are used as weights to keep objects from blowing away in the wind. Others are used to mark the boundary with the neighboring house, or as stone walls. Another, perhaps because it was beautiful, is simply used as a decoration. It seems quite funny when I realize that the lane is full of stones.

I find a house that has a stone sitting at the front door. It looks like it has just been brought up from the beach. I ring the front door bell. The owner answers the door, looking at me suspiciously.
“Excuse me. What are you going to do with this stone?” I ask.
“Well, I am going to use it when I make pickles,” he answers, surprised by the sudden question. I explain that even though I used to live near the sea when I was a child, I have never seen a landscape using as many stones as this, and I find it fascinating.
“There are more stones than you could possibly want for on the beach,” he said. “Everybody brings them home. But the foreshore is slowly disappearing year by year. Since the pier over there was built, we can no longer see the sea, but once we could see the beach spread out before us, even from here. It was always bustling with activity from boats returning from fishing, and people using dragnets along the shore.”

The man took me to a nook near his shed at the rear of the house. Stones that must have been used as weights for fishing were lying around, tied together with rope. It was as if stones that had once bustled with life had now returned to their natural state, once again silent.

Evidence of human activity from ancient times, such as the ruins of a village from the Jomon Period, and stone implement artifacts from the Paleolithic Age, can be found in areas neighboring the beach. There are also beaches where jade is washed up, and in ancient times it was used to make comma-shaped beads. Even now, those beads can be found all over Japan, and even as far away as the Korean Peninsula. In days gone by, people must have also walked these same beaches searching for stones in much the same way as people do now, and the stones from those times are the same as stones here now.


One day, the cave-dwelling ancients just happened to throw stones at one of the wild animals that always attacked them. Then another day, the people who thought to use stones as a weapon, discovered that the stone they had thrown had hit a boulder and split, and now the edges of the stone were sharp. The process of manipulating stones began, and slowly with time, tools evolved.

I am writing this essay on the train. I have the Jupiter-like stone in my pocket. I am at this moment, while sitting in my seat, travelling at a speed twice as fast as any man could possibly throw a stone. Though it is dark outside, the train carriage is brightly lit. The chair reclines to a comfortable angle. There is a small stowaway table, and a pocket on the back of the seat in front of me. I can hear music spilling over from somebody’s music player behind me.

As I look around me, each and every item my eyes rest upon already has a meaning or role, and we do not doubt that, using each item as was intended in our daily lives. To think in this way, a stone is simply a stone. In this sense, it has no meaning or value. However, in many ways, a stone can be an amazing object. What provides each stone with its value, is the person who picks it up. This small, planet-like stone is both a fragment of the universe, and also has an infinite universe trapped within it.

This book comes with a bonus stone.
Or perhaps this stone comes with a bonus book.
What stories will the stone whisper to you?
The answers are within you.


Motoyuki Shitamichi





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写真展+礫石器(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo exhibition+Stone tools (Kurobe City Art Museum)



富山県の黒部市美術館は海の近くにある美術館で展示をする事になった。
近くの浜辺に歩いて行くと、生地という小さな漁村で石ころの風景に出会った。
この地域では古代から人々が住んでいて、竪穴式住居跡からは多くの礫石器(石ころのまま使用された石器)が出土する。
展覧会では、それらの石の風景の写真と近所の博物館から借りた実際の礫石器を並べて展示。
さらに撮影した写真で写真集を作り、生地の浜辺の石ころを付録として挟み込んだ。(石ころを本で包んだ)
石のサイズは「大」「中」「小」「なし」から選べる。美術館のカタログとして販売。(完売)
付録の石は意味がない。でも、写真集を購入した人が生活の中で石を開封し新しい意味を見つけるかもしれない。生地の集落の人々のように。


I came Kurobe City Art Museum for research of exhibition. This museum had been built near the sea.
I walked around beach, and I met one landscape of stone in a small fishing village. Their landscape is people living with stones from beach.
People live in this area from ancient times and many stone tools are excavated from the pit style dwellings.
At the exhibition, I exhibited photographs of the landscapes of those stones and the actual stone tools that was excavated by an archaeologist, and I made a photo book with these photographs, and wrapped a stone in this photo book. You can choose the size of the stone from "Large" "Medium" "Small" "None". Sold as a museum catalog.


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写真集+浜辺の石(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo book+Stone from beach (Kurobe City Art Museum)



黒部市美術館展覧会レビュー
「風景に折重なる不可視の物語」尺戸智佳子(黒部市美術館学芸員)
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[ 新しい石器/New Stone Tools ]


photographs+mixed media


2017


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対馬と韓国の南部の島々を車でめぐり、石の浜辺と集落の石の風景を撮影。韓国での企画展内にて写真集+石で販売。

2016年1月 3日 00:08 下道 基行 */?>



[ 旅するリサーチラボラトリー ]


2014-




近年、アートの現場において、アーティストによるリサーチをもとにさまざまな作品が制作され、フィールドワークという言葉も本来の学術的な枠を越えて定着しつつあります。このラボでは、フィールドワークをベースとした作品を制作・発表しているアーティスト、mamoruと下道基行が、デザイナー丸山晶崇や公募により選出したリサーチ・アソシエイトと「旅するリサーチ・ラボラトリー」を結成。作家や研究者だけではなく、独自のフィールドワーク的手法とアウトプットを実践している方々を訪ね、インタビューを行い、フィールドワークと表現の可能性について検証していきます。またリサーチの過程自体を1つの旅とし、その間に集中的にグループ内でテーマに関する考察を行い、同時にアウトプットの実践として成果物を作成し、広く発信していきます。
 
mamoru(サウンドアーティスト)
下道基行(美術作家/写真家)
丸山晶崇(デザインディレクター)
芦部玲奈(アートマネージャー)

ホームページ:https://www.travelingresearchlaboratory.com/


2015年 podcast 第1回

2015年 podcast 第2回

2015年 podcast 第3回

2015年 podcast 第4回

2015年 podcast 第5回

2015年 podcast 第6回

『Time sharing』沖縄

2015年4月24日 09:39 下道 基行 */?>


下道基行は、記憶の共有のされ方を問いながら、歴史環境と他者との出会い、そして自らの主観がせめぎあう地点から生まれる痕跡を収集し続ける。大局的な立ち位置を俯瞰しつつ、日常を越えたスケールでの移動を繰り広げながらも、実際の彼の行動は出会う他者からの個別の働きかけに応じるものだ。そうして、物語の叙情に流されることもなく、イデオロギーの煽情に翻弄されることもなく、異なる立場や文脈を持つもの同士が、ちょうど均衡する手応えを探ったところで立ち止まる。共有されるべきモニュメントから固有の意味を引き剥がし、人々の中に流通する物事の生きた記憶の欠片を拾って歩くのだ。そして再び、それを新たな機能と因果の中に置き直すのである。
  彼の手法は、場所を超えた共時性、時間を超えた場所の変化、個別なものと共有可能なもの、相反する条件を複合的に組み合わせることに特色がある。そして、それを精錬されたシンプルな軌跡に落とし込んで提示するのだ。彼の初期の活動として知られる「戦争のかたち」シリーズでは、日本全国にちらばるトーチカや掩体壕などの戦跡を撮影した。遠い歴史が別の機能を与えられている風景の再現だけでなく、現地の人々の聞き込みなどから、生きたノイズのある記憶の温もりのようなものを手掛かりに旅程を進む。あるいは、Re-Fortプロジェクトのように、場を再利用し人が交流できる出来事を生み出したりする。それがカウンターモニュメントと異なるのは、戦争の記憶の再認識を促すわけではなく、別の目的を持ったプロジェクトの進行の場としてしまうことである。大きな構造である歴史の集積と、小さな関係性に基づく記憶を辿る作家の二面性は、ときには「A面―B面」として形容された。(註10)『torii』写真集では、記号同士の視覚性は強まり、一種の類型学の体を成している一方、日本の外のかつての外郭を辿る旅であるが故に、よりプロセスの不透明さと不確実さは増すことになった。作家が進む時間に伴い、撮影日記から垣間見えるのは、国境線の移動によって同じ場所に居ながらにして異文化の浸透を余儀なくされた人々が、混在し共生する物語でもある。近年作家はプロセス重視的なあるいは私的な領域の作品が強くなってきているのであるが、美術館や国際展などの公的な場所で発表する機会が増えていることへの反動であろうか。
 今回沖縄では、検索システムと実際の出会いから生まれる文脈を相互に辿りながら、物質の収集というアプローチを作家は採用している。境界をはさんでせめぎ合う他者の歴史が閉じ込められた民具やガラス瓶、海水を、地域の実際の生活に近いところで収集した。写真撮影という手段を取らなかったのは、出会いのあり方や体験の強度がより重視されているからだろう。一瞬で撮影され、消費され、複製される画像情報よりも、物質と文字によって間接的に体験を置き換えることを望んだのだ。よって収集物はスーベニールのような趣を持つ。それは、全体の一部しか示唆せず、不透明であり一回性の体験そのものの「額縁」として永続的に記憶を下支えする。 (註11) こうして集められた収集物は、作家個人の体験認識的な小宇宙を構成する「驚異の部屋(Wunderkammern)」のようでもある。
 大きな構造の欠片が溶かされ混ざり合ったモニュメントは、宙吊り状態のまま、可変することを前提に空間に設置されている。冷蔵庫、保存ケース、標本箱、といった装置によって、人々の間で取り交わされていた生々しい温度と物質一枚隔て、我々の前に提示される。まるで時間の断絶とずれを保存するタイムカプセルのようである。彼が旅人であるいうことは、複数の場と状況を組み換えながら、現実世界に対応していくことであり、それは、写真集編集や標本採集、多様なフォーマットを駆使し横断しながら、アウトプットを続ける表現上の活動に似ている。いかなる場所も、いかなる媒体(メディア)も相対的なものに過ぎず、周囲や前後の作品と相対的な関係によって決定される。収集すること、共働すること、そしてそれを提示すること、それは、日常の中に隠されたある一瞬の断面を探すことだ。そしてあまりにも日常と地続きの行為であるがゆえに、フレームで時間と場所を切り取り、ずらしながら、アートと社会のささやかな段差を作ることが必要だったのかもしれない。

土方浦歌(キュレーター)

10.服部浩之「A面とB面、そしてそれらを結ぶ余白の物語」作家HPからhttp://m-shitamichi.com/
11.津上英輔「Souvenir ―観光体験の額縁」西村清和編『日常性の環境美学』勁草書房、2012年、p.244


Motoyuki Shitamichi pursues a way of sharing common memories, collecting the traces where the subject encounters grand history and the environment, and they are intermingled each other. From a distance he thinks in a unique perspective to general situation but in fact he reacts responding to every agencies that he encounters. Then, without any romanticism or any message of ideology, he takes a neutral stance between those with opposing and contentious views. He eliminates the particuler meaning of the monument and picks up the pieces of living memory that circulates in people. So doing, he replaces them with new functions and causal relationships.
It is his distinguished approach to combine conflicting criteria of synchronicity over different locations and changing times in the same location, to establish whether something is to be shared or belongs to individuals. He presents such tracks in refined and simplified composition. In his early career, the bunkers series consisted of photos taken in the ruins of military architecture, bunkers and pillboxes that remain throughout Japan. Not only did he reproduce the landscape to give it another function, he engaged with the local people, and completed his itinerary with the sounds and warmth of the people.
On the other hand, the Re-Fort project was a compilation of the recollections that people shared during a meeting in the same war ruins. His attempt differs from the Counter Monument: he does not evoke the beholder by a visual memory of war, he alters the progression of the event according to others’ memories. This dual aspect artist, tracing both the grand structure that is integrated into history, and tracing private relationships with others, is often described as "side A and side B".(n.10) In torii photo-books, the symbolic visual aspect looks stronger. It is the typology, and therefore the journey following the former contour of the outside of Japan, that is supposed to increase the sense of uncertainty. In the artist’s diary, with the progression of time, we can glimpse the narrative story of people who lived around the national border where they were forced to coexist with different cultures who had penetrated the border. In recent years, because the artist has had increasing opportunities to exhibit in museums and internationally exhibitions, it seems slightly distinguish since he works in the private field and process oriented activities.
During the sojourn in Okinawa, his research did not include photography even though he is primarily known as a photographer. He did online research and tried to create context by collecting materials. He sampled seawater, collected glass bottles and duralumin from living scenes. In local residences, he sampled fragments of historical evidence on the opposite side of the border. He did not adopt the approach of taking photos, probably because he wanted to emphasis the intensity of the experience. Photos are taken in a moment, the image data, once copied and reproduced is wasted rapidly, and the experience of the event is fleeting.
He wanted to represent the experience in this indirect way by material and words. These collected objects have the character of souvenirs. It suggests only a part of the whole and preserves the memory permanently stored as a frame that capture the moment of the transition experience.(n.11) Thus, the collection constitutes a microcosm of personal experiences like a ‘Cabinet of curiosities (Wunderkammern)’.
Monument fragments of big structures were mixed and suspended in the air, refrigerators, storage cases, specimen boxes and other devices separate the beholders from objects that used to actively be exchanged among people. It is like a time capsule where we save the distortion and disconnection of time.
He is a constant traveler. He experiences the real world as he edits photo books and samples specimens: he makes full use of his experiences as he would make full use of various formats. Any location or any medium (media) is also only a relative aspect for him that is determined by the relative relationship with a stretch of time. In his collections, he looks for hidden details in everyday life to portray. He engages these acts without delimiting his surrounding life, therefore it is required to frame one scene of everyday life and displace it to another site. Furthermore, he needs to make a modest gap of the stages between art and society.

Uraka Hijikata(curator)

10. Hiroyuki Hattori, "A-side and B-side Story of what is in between the two sides", Artist HP
http://m-shitamichi.com/
11.Eisuke Tsugami,"Souvenir-frame of the experience in tourism" , Kiyokazu Nishimura(edit), Aesthetics in daily Environment, 2012, p.244

『モニュメントが生まれるとき』

2015年3月13日 10:52 下道 基行 */?>
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2013年1月
広島県広島市

原爆ドームの大通りを挟んで向かい側の、柵で囲まれた大きな円形の工事現場が音を立てている。この場所は数年前まで広島市民球場が建っていた。柵の外側を一周してみると、思ったよりも小さい球場のサイズが伝わってくる。柵の向こうにライトスタンドの一部がぽつんと残されているのが見えた。このスタンド跡を町はモニュメントとして残してその周囲を公園にしようと計画したが、様々な市民の声があがり計画は中止となったままだという。それにしてもこの町はモニュメントだらけだなぁと思った。曇り空から光が射した瞬間、シャッターを切ってみると、どっち付かずの曖昧な風景がそのまんま写った。
 広島を後にして東京に向かう新幹線。隣の席でおしゃべりをしていたおばさん二人は、高速で通り過ぎる車窓の向こうに富士山を見つけ、目を輝かし、カメラを縦や横にして写真を撮りはじめた。数分後、写真に満足したのか、急にまた元の話に戻った。富士山はまだ同じ様に見えている。
 速いスピードで変わって行く風景を前にして、消えてゆくコトやモノを「残したい/伝えたい」と、人はモニュメントを作る。写真を撮ることもそうなのかもしれない。でも、過去をモニュメントとして捕まえた瞬間から、逆に忘却が加速する気がするのはなぜだろうか。生暖かかく漂っていた過去が、急に標本のように冷たくなってしまうように。美しさや驚きや悲しさや忘れたくないこと…そんな曖昧だけど大切な感情や瞬間を誰かと共有し残したい時、僕らは何ができるのだろうか。


母の友 2013年 05月号掲載

個展 Re-Fort Project 6「海を眺める方法」

2015年1月29日 14:25 下道 基行 */?>
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2月7日より、名古屋にあるギャラリーNで個展を開催します。
内容はシリージ『Re-Fort Project』の第6弾『海を眺める方法』。共同企画に服部浩之さん、協力として画家の秋山幸さん。この作品は2013年『六本木クロッシング2013』の半年前に制作しまし、同展に出品した『戦争のかたち』と『Re-Fort アーカイブ』ともに出品しました。
ギャラリーNは、建築家の谷尻誠さんが設計したスケルトンな花屋。この少し変わった室内を使って、名古屋を中心に若手作家が実験的な活動をしてきました。今年で8年目。
2013年に制作発表した『海を眺める方法』は、昨年は山口市のN3 ART Labで発表を行い、今回はさらに編集を加え展示を行います。1度見た方も新しい発見があると思います。
作品としても1度だけの発表で”新作”として消化してしまうだけでななく、ミュージシャンでいうとアルバム制作をしてライブを行なって行くように、色々な場所へ移動させながら、場所によって編集を変え、いろいろな場所と人々に見せて行けることは重要だと思っています。僕としても一回一回、挑戦と発見がありますし。
今回は、はじめて、ドローイング制作しています。ムサビ油絵卒業以来の絵を描いています。販売も行ないます。是非。

個展
Re-Fort Project 6「海を眺める方法」
下道基行
2月7日(土)~ 2月22日(日)
会場:florist_gallery N 名古屋市千種区鏡池通3-5-1
営業時間:18:00 - 21:00 ※今回は映像展のため夜間のみの展示となります。
定休日:水・木曜日
入場無料
問:052-781-0081
http://www.f-g-n.jp/
協力:秋山幸

※2月7日(土) ギャラリートーク 19:00~
http://www.f-g-n.jp/

建築雑誌 12月号 

2014年12月 7日 08:12 下道 基行 */?>

建築雑誌 12月号 に文章を寄稿しました。
「フィールドワークとカメラ」という題です。

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建築雑誌 12月号 
特集= フィールドワークとツール

Fieldwork Tools

特集 フィールドワークとツール
 フィールドワークを建築誌で特集するならば、〈フィールドワークの「対象」〉から分類して考えるのが一般的なアプローチと言えるのではないだろうか。集落調査、都市空間における行動領域調査、山谷地区の調査、団地の暮らし方の聞き取り調査、東京のスリバチ地形の調査など、どのような「対象」をフィールドとして選択するか、という「対象」の多様性を扱うことでフィールドワークの現在を考えるという内容となる。本特集では、編集会議での議論の結果、「対象」からアプローチする方法をあえて取らないということにした。われわれが替わりに選んだのは、〈フィールドワークで用いられる「ツール」〉に着目するというアプローチである。
 あらためて考えてみるまでもなく、フィールド(環境)から何かを読解し、それを描写、記述していく過程においては、必ずなんらかの「ツール」が介在することになる。読解の段階で「ツール」が介在するケースもあれば、描写や記述の段階で「ツール」が介在することもあるはずだ。あるいは「ツール」自体がメディアだとするならば、「ツール」を使いこなしていくことで、身体そのものの感覚が変容していくこともあるかもしれない。「ツール」の特性を凝視することから、環境と身体との関係性について、今までとは違う考察を試みようというのが狙いだ。
 今号の企画打合せにおいて、たびたび人類学者のティム・インゴルドが話題にのぼった。インゴルドは、人間が環境をうつしとる行為を「線描(drawing)」と「記述(writing)」という二つに分けて定義しているが、これを用いて、「線描(drawing)」とは環境に身体が反応して断片がうつされていく〈運動〉であるとし、一方で「記述(writing)」とは環境が体系を内包しながらうつされる〈運動〉であると考えた。そうすることで、「フィールドワーク」というものを、ツールを基点に、より分析的に扱えるのではないかと思ったのである。この私的な考察を用いて、本特集記事を分析し、右ページにマトリクスとして掲載した。私個人の感覚的な整理の枠を出ない部分もあるが、本特集を読み解く海図のようなものとして活用していただけたらと思う。
 各論考を読み解いていくと、「ツール」は、単に環境を読解、記述するための道具という合目的な存在に留まらず、身体を環境に同化させていくためのインターフェースとなっていることがわかる。「ツール」を使い続けることで、「線描(drawing)」から「記述(writing)」に位相がずれる現象が、それぞれの取組みのなかで起こっていることがよくわかる。フィールドワークの「ツール」に着目するという、一見、カタログ的で短絡的なアプローチに思われるかもしれないが、本特集が、建築学にとらわれず、フィールドワークそのものを科学し、フィールドを構築する学として建築を再び組み立て直していくための、なんらかのきっかけになれば幸いである。
(藤原徹平)
会誌編集委員会特集担当
栢木まどか(東京理科大学)、黒石いずみ(青山学院大学)、篠原聡子(日本女子大学)、南後由和(明治大学)、藤原徹平(横浜国立大学)、真壁智治(エム・ティ・ビジョンズ)
[目次]
特集|フィールドワークとツール
フィールドワークとツール
2 会誌編集委員会 主旨
4 原広司 環境をうつすこと─身体と環境の間・集落調査・写経
10 佐藤浩司 民家調査の現在
12 柳澤田実 身体・線・とりとめのない日常
14 千葉学 地図と自転車
16 槻橋修 「記憶の模型」によるフィールドワーク
18 真壁智治 フロッタージュというツール
22 飴屋法水×朝吹真理子 環境の触り方、言葉の探し方
28 伊藤毅 古地図
30 西川麦子 コミュニケーションツールとしてのラジオ
32 加藤文俊 ツールを考えること
36 乾久美子 「小さな風景からの学び」での試み
38 下道基行 フィールドワークとカメラ

連載 
住むことから考える東京2020④
42 石川初
運動競技のランドスケープ
海図の切れ端─現代建築批評再考⑥
44 石塚直登
『球と迷宮 ピラネージからアヴァンギャルドへ』
マンフレッド・タフーリ
次代を拓く建築展⑥
45 暮沢剛巳
「メディアとしての建築」という問題提起
震災復興ブレイクスルー⑫
46 阿部俊彦
気仙沼内湾地区の「まち」と「海」の復興コミュニティ拠点
未来にココがあってほしいから─名建築を支える名オーナーたち⑫
48 犬木登+犬木幸子
セキスイハイムM1
エムワン
犬木邸
住むことから考えるU-35⑫
49 稻用隆一
東京の状景
岩瀬諒子
ツタンカーメンの種子
尾内志帆
パンを介したつながり
EDITORS' CAFÉ⑫
50 会誌編集委員会
編集後記

ガラスの旅 Glass journey

2014年11月13日 17:28 下道 基行 */?>
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沖縄と八重山諸島を旅した。
台風19号の後だということもあり、美しいビーチはゴミの山だった…。ペットボトルや発泡スチロールが多く、その他にも漁業の道具やビーチサンダルや生活用具など。台湾、中国、韓国、東南アジアなど、様々な国から色々な物が流れて来ていた。
旅のなかで、島々の海岸を漂着物を見ながら歩くことを日課にすると、すぐに風景の風景の見え方が変わっていった。まずは、漂着物が多い海岸とそうではない海岸があることに気がつく。理由は様々あるが、季節風や観光の為の清掃や海岸の地形などが関係するようだ。もうひとつ気がついたのは、実は少なくない人数が、頻繁に海岸の漂着物を見て何かを集めてまわっていること。朝、浜辺に新しくできた漂着物のラインには必ず新しい足跡が残されている。西表島のある海岸で出会った人は、海岸に打ち寄せた藻を集めて干していて、「肥料として畑に蒔くとトマトが美味しくなる」と話す。その他、漂着物の中で種子やおもちゃを集めている人や漂着物を組み合わせてお土産物を作っている人々や様々な人々にも出会って、いろいろな話しを聞く事ができた。全く知らない世界と住人がいることに気がついた。
数ヶ月前、福岡県の玄界灘の海岸を歩き続ける漂着物の第一人者石井忠さんにお話を聞く機会があった。「漂着する木は、かつては集めて薪にしたり、海辺の社は寄木や寄船で造営されることもあった」と話されていた。さらに、「見つけた物が大きすぎる場合、石をのせて印を付けたり、隠したりするが、再び戻ると無くなっていることがある。」と悔しそうに話されていた。
海の幸は、漁で取れる魚介類だけではなく、浜辺に寄せる物も生活の資源になるし海の幸だ、ということを感じた。そして、そう考えるとペットボトルや発泡スチロールが簡単に再生できないのは非常に残念に思えてくる。
沖縄には様々な国から様々な物が流れつく宿命をもった地理。船も人も文化も流れてくるし、文化も侵略者も…。ニライカナイという沖縄の思想には、海の向こうから神が豊かさをもたらしまた帰るとされる。沖縄という土地は様々な善くも悪くも「寄せるもの」を受け入れ、付き合って来た(編集してきた)歴史がある。武器ではなく、生きる力で戦って来たように感じる。

沖縄には琉球ガラスの工房が沢山ある。琉球ガラスの歴史は、明治時代に長崎や大阪からやってきたガラス職人によって始まったが、戦後は、進駐軍が使用し廃棄されたコーラやビールの瓶を材料に再生ガラスとして彼らのお土産用の器が作られ始め、現在に至る。現在でも多くの工房は、コーラの瓶にかわり泡盛の空き瓶を回収して再生し食器を作っている。
「海に流れ着く様々な漂着瓶でガラス食器が作れないか?」そんなことを思い、海岸に流れ着くガラス瓶を集めるようになった。漂着する瓶から再生ガラスを作る。調べたり相談してまわると、そこにはふたつ大きな問題が出てきた。「ガラスは種類によって膨張係数が違うので、色々なガラスを混ぜると必ず破れること」と「工房のガラスの窯の坩堝に外から持ち込んだ色々な見知らぬガラスを入れることは大変な労力のいることで、やってくれる職人はいないのではないか」ということ。
普通に使用するのにむずかしい食器は職人は作らない。使えない食器、などあり得ない。ただ、形成した後、ガラスが破れてしまうことも含めて興味が湧いて来た。そして何よりガラスに関わる人が口を揃えて「破れるからやった事はない」と聞いていると、逆に作ってみたい気持ちをかき立てられた。
制作協力をお願いできる職人さんを捜した結果、奇跡的に興味を持って協力して頂ける方に出会うことができた。素敵な出会いの連鎖だった。
拾い集めたガラスボトルは、ハンマーで砕いた。炉の中に入れ、1日かけて溶かした。翌日、職人さんの指導で溶けたガラスを吹いて食器を作る。熱せられ赤々と光るガラスにはいくつものスジが見え、職人さんは「これは混ぜたからだし、普通より吹いた時にも丸くなりにくいな」と話した。
出来上がった食器を除冷を行いさらに翌日、工房に行く。制作した食器は破れていなかった。「混ぜ合わした様々なガラスの相性が偶然良かったのかも。奇跡的」と。少し亀裂が入る事を期待していたこともあり、少し複雑な気持ちで見ていると、「これから数ヶ月後に突然破れる事もあるよ」と職人さんは言った。
ガラスは固まっているように見えて、非常に流動性のある存在だという。陶芸は土と言う生ものを焼くことで固める感覚があるが、ガラスは少し逆の感覚を受けた。漂着したぼろぼろの瓶は窯で焼かれ新しくより生なものに生まれ変わったように、緊張感がある。
出来上がったグラスに光に当てると、置いた台に、様々な瓶の混ざりあわないガラスの層が影として見えて、非常に美しい。何より、実際に見えないが、このコップの中に様々な場所や時間が混ざりあっているということが、不思議な気持ちにさせる。
出来上がったグラスの中の2つを自宅に持ち帰り、家で乾杯した。洗っている時に、コップの中に少し亀裂がピキッと入った。嬉しいような悲しいような気持ちになった。

Glass journey

I traveled around the Yaeyama islands following the typhoon 19. The beautiful beach was covered in a mountain of garbage such as bottles and polystyrene foam, fishing tools, beach sandals, and the various objects of everyday life that came flowing from Taiwan, China, Korea, and Southeast Asia.
In the itinerary of my journey, I planned to walk routinely. Watching the flotsam in the coast, I immediately began to perceive the landscape differently. First, I noticed that there are some coasts with a lot of flotsam and others with little. The reasons were various: the effects of the monsoon and cleaning up the beach for tourism purposes, as well as geographical features. Also, I noticed that people frequently walked around and collected things from the seaside. Every morning, the beach was left with fresh footprints in the new line of flotsam. People I met at the seaside in Iriomote Island collected algae that washed up on the shore and dried it. They said that “it makes tomato delicious if you spread it in the field as fertilizer.” In addition to that, I met people who were picking up the seeds and toys, and people were making souvenirs by combining and attaching flotsam. I heard various stories and encountered people who live in the world that I have never known.

A few months ago, I had the opportunity to meet and listen to Mr. Tadashi Ishii: a leading scholar in flotsam who has investigated around the Genkai coast in Fukuoka. He stated that “trees, washed ashore and collected, used to be used as firewood. The seaside shrine was also constructed from broken ships and drifting woods.” He continued, “If I find objects that are too large, I mark them by placing a stone or hiding them, but I find them gone when I go back again.” He told me this in a regretful way, I thought. The blessing from the sea means that it is not only seafood that can be taken in (via fishing) but also those things that come to the coast. I felt that it was very regrettable that the polystyrene foam and PET bottles cannot be recycled easily.
Okinawa’s geography had a destiny whereby various things have flowed into it from various countries. With ships also flowed culture, invaders...
In Okinawa, the legend of Niraikanai states that God comes to bring blessings from the other side of the sea and then returns. The land of Okinawa also has a history that has accepted the “things posting,” and edited them not by weapons but by the vitality of the people in a peaceful way.

In Okinawa there were a lot of Ryukyu glass workshops. The history of Ryukyu glass was begun by glass artisans who came from Nagasaki and Osaka in the Meiji era. After the war, they began to produce glassware souvenirs using glass discarded by the army who had occupied the area. Still in present day, many of the workshops are recycling glass from empty bottles of Awamori instead of Coke bottles.
I wondered whether it would be possible to make glassware by recycling materials from the bottles washed ashore. Two important problems emerged after I examined and consulted on this possibility. I was told that “because of the large variety and different expansion coefficient of glass types, mixing the glass always causes it to break.” Also, “it takes a great effort to put glass of various origins into a crucible of kiln glasses brought from the outside. Therefore, no craftsman wants to try it.”

It is reasonable that a craftsman does not make dishes that are difficult to use in daily life. There cannot be a table where that table cannot be used. However, what I found most interesting was the process; including the possibility for the glass to break after it had been formed with success. All those involved in glass production say, “never try it, as it will break.” In reverse, I had the feeling that I wanted to try. As a result of looking for a craftsman who could cooperate with me throughout the production, I was able to meet a person who was interested in my attempt and helped me miraculously. It was a nice bond to encounter. I crushed gathered glass bottles with a hammer, put them in a furnace, and dissolved them over one day. The next day, I blew glass melted under the guidance of craftsmen. Heated and shining brightly in red, several streaks appeared inside the glass. The craftsmen said, “Since different types of glass were mixed, it becomes difficult to form round when it blows normally.”
The following day, after cooling the formed glasses, I went to workshop and found them not broken. I thought, “It is a miraculous coincidence that these different types of glass have good chemistry.” I had expected some to have cracks, and for me to be disappointed. Nevertheless, the craftsman said that “there is probability that they will be broken by chance after a few months.”
Glasses can seem to be solidified but consist of very fluid substances. Pottery solidifies by burning raw soil, but I felt that the glasses differed. The bottles washed ashore and worn, then burned in the kiln, were reborn, as if something like new life were emerging and bringing with it a vivid tension.
When I looked upon the completed glass, there appeared to be a very beautiful shadow, projected through layers of components that were completely melted. More than anything, it was actually invisible. Various locations and various times were mixed inside this cup, and this brought me mysterious feelings.
I brought home two of the glasses and toasted with them. A little crack began to appear in one of the cups when I was washing it. I felt a little sad but a little happy.

November 17, 2014


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泊にて

2014年11月13日 17:24 下道 基行 */?>


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ここの地名は“泊(トマリ)”という。
沖縄県那覇市泊3-4-13。フェリーターミナルが角を曲がったすぐの所にある。汽笛の音が時々この空間まで聞こえてくる。少し歩くと漁港があり市場が賑わっている。空にはカモメもとんでいる。港の隅には古い外人墓地がある。鮮やかな色の造花と芝生の緑と白い十字架。中国やフランスやスウェーデンやアメリカなどの色々な国籍の人々の名前が並ぶ。その敷地内に『ペルリ提督上陸之地』という石碑が立っている。ペリーは浦賀の前年、この泊に上陸した。石碑には『琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む。1853年6月6日、大美御殿における招宴席上のペルリ挨拶』とある。アメリカが、すでにこの時期に沖縄の地理的重要性に目を向けていたこと、そしてこの島が今でも様々な国の間で揺れていることにまっすぐに繋がるように感じる。

“泊”の意味は、【船が停泊すること。また、そのところ。】とある(『日本語大辞典』小学館)。ただ、船だけでなく「旅人が宿泊する」ように、漂う人や物がある場所に「(寄せて)停止する」というイメージを思い浮かべることもできる。
泊という地名は、ここの他にも沖縄県内にも他にもあるし、国内に多く存在していて、そのほとんどは港町や海沿いにある。北海道の原発の町も泊だし、青森や富山…、今は国内ではないけどサハリン(旧樺太)を旅した時にも、トマリという日本語の音だけがロシアの寂れた港町の名前に残されていたりもした。
“泊まる”は、“止まる”などの「停止する」意味合いだけではなく、その後、船や旅人が再びどこかへ「漂泊」をはじめる、「再び“漂う”可能性」「変化し続ける可能性」を文字の中に帯びている。色々な漂泊と定着が幾度と無く繰り返してきた人や物の往来の時間が地名から想像される。

今回、僕はこの泊に流れ着いた。ペリーのように計画的ではない…が、ただ偶然でもあり必然でもある漂着。そして、ここから沖縄本島や徳之島や八重山諸島、さらに台湾との国境の海上まで旅をした。様々な過去や人や風景に出会い、強く心が動かされた。この小さな島々は、様々な境界線が交わっていて、外から寄せてくるモノたちに常に翻弄され、逆にしたたかに利用しながら力強く漂っている。緩やかに混ざりあいながら変化し続けるこの場所に停泊しながら、たくさんの旅のはじまりの予感を感じた。

梅香堂について

2014年11月12日 17:56 下道 基行 */?>


西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。
そこはかつて昔の船着場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。
運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。

梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。
船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。
停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。
「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。

梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。
定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。
僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。

今はまだそれから2ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。最後に『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。

「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」

以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて


下道基行

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(フリーペパー「FLAG」掲載)

ふたつの個展『漂泊之碑』 沖縄/大阪

2014年11月 3日 20:04 下道 基行 */?>

”漂泊之碑”


過去はどのように編集され継承されるか。
そこに関わるモノの存在と、形状と意味の変容。
さらに閉じ込められた過去を開封する方法と体験。

『沖縄』と『大阪』にて同じタイトルで別々の新作個展を開催します。
2カ所の”船着き場”で“新しいモニュメント”をテーマにした連作。
沖縄では、沖縄本島や八重山諸島を旅し「揺れる境界」を、
大阪では今年閉廊した梅香堂にて「消えること」「残すこと」をテーマに。
シリーズ『torii』などの写真シリーズからコンセプトを繋ぎながら、
今回はカメラを主に用いず「蒐集」と「編集」を行ないます。


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個展
『漂泊之碑  沖縄/泊』
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2014年11月09(日)—12月2日(日)12:00-19:00 (水曜休み)
沖縄コンテンポラリーアートセンター
沖縄県那覇市泊3-4-13
企画展『隣り合わせの時間』(キュレーション:土方浦歌)連続個展形式内にて


泊について

ここの地名は“泊(トマリ)”という。
沖縄県那覇市泊3-4-13。フェリーターミナルが角を曲がったすぐの所にある。汽笛の音が時々この空間まで聞こえてくる。少し歩くと漁港があり市場が賑わっている。空にはカモメもとんでいる。港の隅には古い外人墓地がある。鮮やかな色の造花と芝生の緑と白い十字架。中国やフランスやスウェーデンやアメリカなどの色々な国籍の人々の名前が並ぶ。その敷地内に『ペルリ提督上陸之地』という石碑が立っている。ペリーは浦賀の翌年、この泊に上陸した。石碑には『琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む。1853年6月6日、大美御殿における招宴席上のペルリ挨拶』とある。アメリカが、すでにこの時期に沖縄の地理的重要性に目を向けていたこと、そしてこの島が今でも様々な国の間で揺れていることにまっすぐに繋がるように感じる。
“泊”の意味は、【船が停泊すること。また、そのところ。】とある(『日本語大辞典』小学館)。ただ、船だけでなく「旅人が宿泊する」ように、漂う人や物がある場所に「(寄せて)停止する」というイメージを思い浮かべることもできる。
泊という地名は、ここの他にも沖縄県内にも他にもあるし、国内に多く存在していて、そのほとんどは港町や海沿いにある。北海道の原発の町も泊だし、青森や富山…、今は国内ではないけどサハリン(旧樺太)を旅した時にも、トマリという日本語の音だけがロシアの寂れた港町の名前に残されていたりもした。
“泊まる”は、“止まる”などの「停止する」意味合いだけではなく、その後、船や旅人が再びどこかへ「漂泊」をはじめる、「再び“漂う”可能性」「変化し続ける可能性」を文字の中に帯びている。色々な漂泊と定着が幾度と無く繰り返してきた人や物の往来の時間が地名から想像される。
今回、僕はこの泊に流れ着いた。ペリーのように計画的ではない…が、ただ偶然でもあり必然でもある漂着。そして、ここから沖縄本島や徳之島や八重山諸島、さらに台湾との国境の海上まで旅をした。様々な過去や人や風景に出会い、強く心が動かされた。この小さな島々は、様々な境界線が交わっていて、外から寄せてくるモノたちに常に翻弄され、逆にしたたかに利用しながら力強く漂っている。緩やかに混ざりあいながら変化し続けるこの場所に停泊しながら、たくさんの旅のはじまりの予感を感じた。
僕の今回のミッションは、この場所で新しい何かを生み出し見せること。それは、「僕自身が人と出会う時」や「作品に人々が出会う時」に良い意味で摩擦を生むことだと考えている。
今回の漂着や旅や出会いを内包した展示自体を“漂泊之碑”として表現しようと思う。流動的で可変性のあるモニュメントとして。

下道基行





企画展『隣り合わせの時間』
2014年10月12日-2015年2月17日(1作家1ヶ月程度の連続個展形式)
参加作家:黃沛瀅(台湾)、クォン・オサン(韓国)、青野文昭、下道基行
キュレーション:土方浦歌
日本、台湾、韓国からの若手作家四名が、沖縄を中心に移動しながら、地域住民との共働による滞在制作を行います。その各々の取り組みを、那覇市内の同じ場所で順次作家を変え発表していきます。
展覧会HP http://2014timesharing.jp/




漂泊之碑06.jpgのサムネール画像


個展
『漂泊之碑  大阪/梅香』
下道基行
2014年11月22(土)—30日(日)13:00~19:00
ASYL(元梅香堂)
大阪府大阪市此花区梅香1-15-18

今年閉廊した大阪のギャラリー梅香堂にて、「消えること」「残すこと」をテーマに作品制作を行ないます。シリーズ『torii』などの写真シリーズからコンセプトを繋ぎながら、今回はカメラを主に用いず「蒐集」と「編集」を行ないます。


【スペシャルトークイベント開催!】
2014年11月30日(展覧会最終日)
ゲスト:桂英史、服部浩之

■桂英史(かつら・えいし)
1959年長崎県生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科教授。専門はメディア理論、図書館情報学。近年、国内外で新しい公共文化施設のプランニングに携わっている。主な著書に『東京ディズニーランドの神話学』(青弓社)、『インタラクティヴ・マインド』(NTT出版)、『人間交際術』(平凡社新書)などがある。監修者として携わった「美しい知の遺産世界の図書館」(河出書房新社)が、2014年10月に出版された。
■服部浩之(はっとり・ひろゆき)
1978年愛知県生まれ。2006年早稲田大学大学院修了(建築学)。公共機関である青森公立大学国際芸術センター青森(ACAC)に学芸員として勤務する傍ら、Midori Art Center(MAC)というスペースを独自に運営している。青森を拠点としつつ国内外のいくつかの都市や地域を往来するかたちで、建築的な思考をベースに様々なプロジェクトを企画運営し、場をつくり日常生活を創造的に拡張する試みを実践している。数多くの展覧会の企画にキュレーターとして関わっている。


■梅香堂について
西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。そこはかつて昔の波止場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。
梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。今はまだそれから10ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。
「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」
以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて

下道基行

芦屋市美術博物館特別展

2014年8月17日 19:36 下道 基行 */?>
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『Art trip vol.01窓の外、恋の旅。/風景と表現』
芦屋市美術博物館
2014年9月27日 ~2014年11月30日

この度、芦屋市立美術博物館では「art trip vol.01窓の外、恋の旅。/風景と表現」展を開催いたします。
古来より、いつの時代も人々は、花見や紅葉狩りなどで季節を楽しみ、名勝地や景勝地の風景を愛で、海や川、空の色合いの美しさや山並みの雄大さといった自然美や都市の情景など、生活の中にある風景を享受しながら、四季折々の風景を楽しみ、日々の暮らしに彩りを添えてきました。そのような居心地のよい風景は、天災や人災などで一瞬にしてなくなってしまうことがあります。故郷や思い出の景色、ありふれた日常の風景は、失って初めて大切さを知ることになるかもしれません。
本展では、「風景」をテーマに、芦屋ゆかりの画家である小出楢重や吉原治良、村上三郎や写真家のハナヤ勘兵衛らの作品とともに、国内外で活躍する下道基之(美術家/写真家)、林勇気(映像作家)、ヤマガミユキヒロ(美術家)ら若手作家3名と、日本を代表する詩人の谷川俊太郎の作品を展示します。
絵画や映像、写真の作品とあわせて文学の一つである詩を展示し、美術と詩の関係をさぐりながら、近現代の風景表現の流れを見ていきます。そして、我々をとりまく環境と改めて向き合いながら、かけがえのない存在である風景の力を感じていただきたいと思います。

開館時間: 午前10時-午後5時(入館は午後4時30分まで)

休館日: 月曜日(ただし祝日の場合は翌火曜日休館)

観覧料: 一般500(400)円、大高生300(240)円、中学生以下無料
○11月15日(土)・16日(日)「関西文化の日」はどなたでも無料で展覧会をご覧いただけます。

http://ashiya-museum.jp/exhibition/exhibition_next/6595.html#more-6595

2014年 1月5日 朝8時前

2014年1月 5日 13:22 下道 基行 */?>


2014年 1月5日 朝8時前
コーヒーのフタをポンと開けて中を覗き込む。
豆がだいぶ減ってきていてる。あと10杯分くらいだろうか。
先日、内祝に後々田さんからもらったコーヒー豆だ、と気がつく。
急に悲しくなってくる。
豆は早く飲まないと古くなってしまうし、飲んだらどんどんなくなってしまう。
2杯分少し少なめに取る。椅子に座って、ミルをまわしてコーヒー豆をひきながら、涙がこぼれてくる。
良いにおいが漂う。

温かいコーヒーを手に机につく。

昨日見つけた、ちょうど4年前に書いた日記を貼付けてみる。


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書類つくりに追われている。
息抜きに、書くことにする。


展示中の梅香堂について。

ここは去年の秋にオープンした。
梅香堂は、和菓子屋ではない。
トタンのバラックのような倉庫を改装した秘密基地のような場所で、寝るとこもシャワーもトイレもピカピカのが付いていて、アーティストが一人滞在しながら制作し展示もできる、町ともマッチしている(駄洒落)、「過去からやって来た妙に近代的なシェルター」のようなスペース。
川の側に建っていて、台風が来たらそのまんま川にどぶんと行ってしまいそうな、そのまま、海まで流れて行きそうな…、それいいね、旧ユーゴの監督の映画みたい。

で、
オーナーは、今まで美術館などで学芸員として一線を走ってきながら、50歳を前に突然の転身(ドロップアウト)して、この大阪の画廊ひとつない超下町に、このスペースを作ってしまった。
長野でそば打ちをはじめるように…?
いやいや、何か違う…。「アートってなんや!?それ儲かんのか!?食えんのか!?」そんな大阪の下町に、「なにかよく分らない『場所』」を作ったのだ。
最近、町の人もおそるおそる近寄って来ている。
おかしなキャラの常連も増えて来てる。
なにか、はじまりそうな空気が満ちている。
窓から見える川には鴨がプカプカ浮いている。

僕はというと、
「新しいことをはじめた」
ここのそんな新鮮な空気を大きく吸い込んでいる。

[書類作成(戦場)にもどる]をクリック


2010/01/04 01:11


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2010年年始、ちょうどこの日記を書いた頃、まだオープンしたばかりの梅香堂で、僕は展示させてもらっていた。
さらに、日記内で書いている「書類」というのは、アーティストインレジデンスTWSへの応募書類。
推薦状の一枚は後々田さんに書いてもらった。
本当に素晴らしい推薦状を書いてくれた。
お陰で合格し1年間東京で本当に素晴らしい出会いと経験をすることができた。

その半年くらい前に僕は後々田さんと出会った。
2009年夏、僕は山口での花火打ち上げのプロジェクトを終えて、そのまま、偶然にも大阪の梅香に住み始める事になった。理由は、その夏行なわれた「水都大阪」というアートイベントの為の作家や関係者様の臨時の宿の管理人として働く為。2ヶ月の期間限定の住み込みの季節労働。管理人仕事を始めてみると、昼間はお客さんもいないので、シーツを洗ったりしつつ、大阪の梅香という下町を散策するのが日課となる。梅香は工場で働く労働者の住む下町で、消毒されていないノイズが多くて本当に散歩していて楽しい。それを『昭和』とか「懐かしい」で片付けるのにはおしい程、「大阪らしい汚さと活気」を持っている町。(後々田寿徳・リレーコラム「大阪の優しさ」http://www.nettam.jp/topics/column/88/

「梅香に変わったスペースを作っているおじさんがいる」
最初はそんな情報だったと思う。
それが、梅香堂と後々田さんとの出会いだったと思う。

梅香堂はまだ、オープン前で、真新しい本棚に本を入れるのを手伝った。
「傷だらけの天使」のサウンドトラックが流れていた。「ここはこの人の秘密基地なのだ」と思った。
宿に来るお客さんを連れて、よく梅香堂に遊びに行くようになった。飲みながらたくさんの話しをするようになった。お金がないといいながら、いつもおごってくれたのはいつも心苦しかった。後々田さんは多くは語らなかったが、梅香堂をつくるにあたった経緯をぽつりぽつりと話してくれた。
「嫌なことをしていることを感じないように麻痺させながら生きて行くのが嫌になったんだ。あと10年遅かったら、もうこんなスタートは切れなかっただろうなぁ」
と大学教員を辞め梅香堂を始めた事を話していた。
後々田さんは、福井での学芸員生活→ICC学芸員→東北芸工大教員→梅香堂と、7年周期ぐらいで、今の場所に疑問を感じて、それを無視せず、変化し続けてきたのかなぁ、、と想像する。だからか、梅香堂は古ぼけた雰囲気でまったりとしているけど、どこか刺激的で新鮮だった。
そして、福井県美での経験も、ICCでの経験も、東北芸工大での経験も、あったから、梅香堂はあのような唯一無二の存在として、様々な年代の人が集う奇妙な場所になったのは間違いない。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『『大阪人』に紹介いただきました』   2010/10/01 13:13


『月刊 大阪人』11月号「特集満開此花区」に、梅香堂をご紹介いただきました。ありがとうございました。

関西以外で販売されているのかどうかわかりませんが、本屋さんに立ち寄った際にでもご笑覧いただければ幸いです。

此花メヂアさんも紹介されています。

最近、こうしたメディアへの露出がちょこちょことあるのですが、それにふさわしい活動をしているのか、と問われるとお恥ずかしい限りです。

梅香堂は家族をはじめ、友人知人の方々などの有形無形のサポートによってかろうじて続いているような状況ですが、今後ともご支援お願い申し上げます。

昨夜は下道君来堂。いろんなプロジェクトでほんとに忙しそう・・・。

先日KOSUGE1-16の土谷君とも話したのですが、日本ではアーティストは忙しくなればなるほど持ち出しが増えて、貧乏になっていきます。

彼や下道君のようなプロジェクト型のアーティストは、作品が直接お金に結びつくことが難しいためです。

日本のアート業界は、展覧会やイヴェントでアーティストを「消費」していくだけで、こうしたアーティストを「サポートする」という意識が低いように思います。

私にもっと力があれば、彼らのようなアーティストをサポートしていきたい、といつも思いますが、現実は厳しい。話を聞いてあげること(反対にいつも愚痴ってるような・・・)くらいしかできないのが残念です。

ただ、美術館などに勤めていたころとは異なり、最近はアーティストとのいろんな意味での「距離」が小さくなってきた、と感じます。つまり、彼らの気持ちがよりわかるようになった気がします。

単にビンボーになったから?かも知れませんが、それだけではない。社会的な立場が近くなったからだと思っています。

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梅香堂がオープンしてすぐに展示をさせてもらった時、
オルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを自称する梅香堂がはじめて販売した作品であり作家になったのは光栄な事だ。
「美術館で雇われた学芸員だった頃は分からなかった…」と話しながら、小さな自分のスペースで、若い作家が厳しい環境で制作をしている事を良く理解してくれて、控えめながら懸命に営業を行なってくれていた。
その後、岡山や水戸や東京まで僕の展示に足を運んでくれて、
「展示はむずかしいな…下道くん…」
とあの口調で、いつもしかられ。。時々褒められ。。
出がらしのお茶と酒を飲みながら。
そして、いつもお別れのときは、見えなくなるまで見ていてくれる。

2013年末、今回は、梅香堂4周年記念に、4年ぶりに2回目の展示をさせてもらった。
展示のオープニングの夜中、後々田さんの姿を探して1階に降りると、ひとりでぽつんと椅子に座って展示を眺めていて、
「いい作品だな、感慨深いなぁ…」
とはなしてくれて、とてもうれしかった。

本当に大切な人を失ってしまった。
残念でならない。。
俺の展示、途中だぞー!

僕は、大学を卒業するまで、学校とか先生という存在を無視したり反発してきたとおもう。自分でえらぶ事をせず、なのに、ひかれたレールには乗りたがらないたちの悪い生徒だった。
大学を卒業して、引っ張られていた糸やレールが全部外されてみて、はじめて「自分は何がしたかったのか」「何をしていくのか」を徐々に考えるようになって、自分や人と向き合うようになった。本当に遅すぎるしバカだ。
その後、自分也にあまちゃん也に歩み始めたが、本当にいろいろ甘かった。
そんな僕にいろいろな事をわざわざ教えてくれる先輩が何人もいてくれたのは幸福だった。それでも気がつかない僕を時にしかってくれた。
「誰に影響を受けましたか?」とか「誰が師匠ですか?」みたいな事をたまに聞かれるけど、僕は自分のせいで、学校では師匠と呼べる関係を作る事ができなかったが、卒業後10年で何人かの師匠というか先輩というか先生というかそういう人に出会えた。
後々田さんもそんな存在だ。
永久欠番。

最近でもたまに教えていたみたいだし、名古屋だったし、行っとけば良かったなぁ。
http://prj.smt.jp/~r2012b/?p=30

不思議なのは、後々田さんの死は、多くの人たちによって今からの未来に対して、生かされていく気がしている。
僕の中でも、既に現像され定着し始めている。
ただ、もっともっと会いたかったな。。
もっと褒めてもらいたかった。しかられたかった。。
いろんな話しをしたかったぁ。。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『死者のブログ』 2010/09/15 18:18


以前、Yangjahさんとホームページの話になった時、私が独自ドメインを取ってブログなども統合したら?と話したところ、「無料ブログは、書いていた本人がもし亡くなっても、その運営会社がある限り残り続けるのでよい」と言われて、「なるほど、確かに」と思ったことを想い出しました。

独自ドメインやレンタルサーヴァーは、維持費を支払い続けないと消滅してしまいます。亡くなった個人が運営されていた場合、そのご遺族などが維持し続ける例は多くはないでしょう。

「たかがブログなんて」と思う方もおられるでしょうが、個人のアーカイヴとしては貴重なものであり、一般人がその方を偲ぶ唯一のものである場合もあると思います。

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これを書きながら、後々田さんの日記を読み返している。
ここからもまだまだ学ぶ事があるな。前進。
文章化するというのは、自分の中で定着させる作業で、思い出があふれてくるのと、同時に過去になっていく感じとで、泣けてくる。後々田さーん。。

http://gogota.iza.ne.jp/blog/


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『虫のいろいろ』   2010/08/12 23:26


小学校四年生の姪っ子の夏休みの宿題(生き物観察)のために、老父が庭から大きな芋虫を採ってきました。

姪っ子たちは「キモい〜」と大騒ぎです。

この芋虫、実は一昨日妹(姪の親)が見つけて、「キャー、でっかい芋虫がいる〜」と叫んだため、老父が裏庭に捨てに行ったやつらしい。

黒々とした長さ5cmを超える芋虫。頭が大きく、紫色の斑点をもつ彼は、おそらくアゲハチョウの幼虫でしょう。この幼虫は鳳仙花(妹たちが苗を持ってきたらしい)の葉を食べていました。

アゲハの幼虫は食べる葉を選びます。たとえば山椒の葉など。ですから産卵する場所は限られている。

そんな話を老父としたら、「そういえば毎年、庭に大きなアゲハチョウが来る」と話していました。私も見たことがあります。

ひらひらと縁側にまで入ってきて、「おや、母親の生まれかわりかな」なんて思ったことを思い出しました。

彼は昨夜台風の中、裏庭から庭まで戻ってきたのか。

虫に人格を投影する精神は、小泉八雲の指摘を待つまでもなく、われわれに共通する心性なのでしょうか。

空き瓶に入れられ、鳳仙花やレタスの葉を必死にかじっている彼を、小四の姪っ子は「意外とカワイイ〜」と、ながめていました。

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僕もよく虫とか蛙とかに人格を投影しますが、この文章、日本人っぽいし、優しいなぁ。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『5月9日に思う』    2011/05/09 22:34

今日、5月9日は、二年前に大阪に引っ越してきた記念日です。

もちろん梅香堂はまだ廃屋のような倉庫で(今でも外見は変わらない?)、大阪に知人などもほとんどいませんでした。

その後半年かけて倉庫を改装し梅香堂をオープンしたのですが、もうそのころの記憶が薄れつつあります。まさに「無謀」な計画でしたし、そもそも「計画」すらなかったとも言えますが、とにかく二年間大阪で生きてきました。

私を物心両面で支えてくれた家族、ご援助下さった大家さん、大工さん、作家のみな、関係者の方々、多くのお客さん、そして私のパートナーとそのご家族に、心より感謝申し上げます。

もう歳ですので、この二年間で成長?したことはあまりないと思いますが、決定的に知った─痛感したことがあります。それは「はじめて作家の気持ちが理解できた」気がしたことです。

かれこれ四半世紀もこうした業界にいながら、なぜ今さらそんなことを言うのか。それは私がいわゆる「サラリーマン」だったからです。何だかんだ言っても、実際に「アートでお金を稼いでいる」人は今の日本にどのくらいいるのでしょうか。私が経験した学芸員、大学の先生は「アートでお金を稼いでいる」人ではありません。行政などの補助金や助成金を受けるのも、お金を稼いでいることにはならないでしょう。

つまりこの国で「アートでお金を稼ぐ」ことの困難さを、ほんとうに知ったのです。そしてそれは同じ立場にある作家たちと共通するものであることも。

正直に言って、梅香堂をいつまで続けられるのか、今の私にはわかりません。ただ、この二年間は楽しかった。ちょっと大げさですが、幸せな二年間でした。できうるならば、どんなことをしてでも続けて行きたい。

吹けば飛ぶようなスペースですが、今後ともご支援、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『前谷康太郎展終了・ありがとうございました』     2011/07/04 00:45

本日を持ちまして、前谷康太郎 「(non) existence」展は終了いたしました。

お忙しいところ、また暑い中、おいでいただきました多くのみなさまに、前谷君ともども心より御礼申し上げます。

前谷君はまだまだ無名と言うべき若いアーティストです。しかしながら彼はアーティストにとって、必須の才能を持っている。

それは「人の言うことを聞かない」こと。すなわち、「頑固」であるということ。これは大切です。

頑固者にあれこれ言い続けることは大変ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

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(爆笑)

2013年7月 4日 15:23 下道 基行 */?>



[ 14歳と世界と境
十四歲與世界與邊界
14세와 세계와 경계
14 years old & the world & border]





かつて中学校区の境だった「川」の向こう側を異国のように感じていた。
高校生になるとすっかりその川は境界線ではなくなった。
目の前の世界には大小さまざまな境界線が消えていは生まれている。
今では色々な国境を越えて表現の活動するようになったが、中学校の頃の川の風景を今でもたまに印象的に思い出す。

最近私は、中学校2年生である14歳の子どもたちに「身の回りの境界線を探す」という特別授業を行い、彼らの発見した境界線の話をその地元の新聞に掲載するプロジェクトを行なっている。
14歳はまだ世界も広くなく、大人と子どもの間を揺れる年代。そんな彼らが持っている「境界線」とは一体どのようなものなのか、そんな興味からはじまった。そして彼らが日常を観察しどんな風景を持ってくるのか、いつも楽しみにしている。
特別授業で集めた文章は、地元の新聞の協力を得て「14歳と世界と境」という小さな連載になる。様々なニュースと共に14歳の小さな世界の物語は新聞を舞台に発表される。


From 2013 onwards, I started to do workshops in different places, in various secondary schools in different countries. I asked students to observe and search out the “surrounding boundaries” in their lives, and then write texts about them in class; this was serialised in local newspapers.


從2013年起,我開始在各地,乃至各國的中學舉行特別講習,要求同學各自觀察並找出自身「周遭的邊界」,並在課堂上寫成文章,在地方報紙上開了一個小小的連載。


2013년부터 여러 나라에 있는 중학교에 방문해 특별수업을 진행했다. 수업 시간에 14세인 학생들에게 “일상에 있는 경계선을 찾아오세요”라는 과제를 내고 글로 써 오라고 부탁했다. 그들이 쓴 글은 지역신문의 협력을 통해서 지면에 작은 코너를 만들어 연재기사로 발표되었다.


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大人になると色々な事が当たり前になってしまってしまう。でも14歳という中学生の場合、いろいろな事に疑問を持ち、日々新しい世界といつも接している。大人と子どもの間の年代で、大人の世界への疑問や不安が揺れる境界の年代。この年齢を過ぎると徐々に社会に順応する”大人”と同じようになって行きます。
大人の世界の様々なニュースの中に、子どもたちの抱える境界線の話を紛れ込ませる……ことによって、文章を書いた中学生たちは、学校の授業が大きな世界と繋がっていることを感じるかもしれません。そして、自分の声が公の場所に発表されいろいろな人の元に届くと言う、特別の機会を得る事のではないか。
さらに、新聞を読む大人たちは、中学生の言葉に触れる事で、自分が子どもだった頃のビビットに世界をとらえる感覚に引き戻され、時に考えさせられたり、笑ってしまったり、心を揺れ動かすのではないか…。




2018.9.7 -
「光州日報」全13回連載 (週1回)
「光州ビエンナーレ2018」


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【第一回】 【The 1st Session】
二つの足で自由に友達と一緒にどこにでも行けるはずなのに、保護者抜きで光州の外に飛び出てみたことがない。ユースクエアというところにバスターミナルもあって、時々行ってバスを見るといろんな考えが浮かぶ。不安もあるけど光州から飛び出してみたい気持ちも大きい。(パク・セウン/将来の夢: 服に関連する私が一番したい仕事)
今私はクリスチャンなんだけど、教会に行けば悪口も言わないし行動もちゃんと正すのに、学校に来たり友達と会うと悪口も沢山言うし、行動もそこまで気にしない。だからといって、友達と一緒だと悪い子になるってわけじゃなくて、ただ単に教会(キリスト教)と学校(世界)の間に境界線があるのかもしれない。 (ポム・ユンソ/好きな所:親しい人と一緒にいるところ)

It seems like my two feet can bring me anywhere and walk freely with my friends, but frankly, I’ve never been outside of Gwangju without any guardian accompanied. There is a Bus Terminal at U Square, and I can think of several ideas when I see buses there. I’m worried, but still want to go outside of Gwangju. (Park Se Eun / Dream job: anything related to clothes and something that I want to do the most)
I’m a Christian. I act politely and I don’t swear at church, but when I go to school or hang out with friends, I swear a lot and don’t really care about my behaviors. It doesn’t mean that I become mean when I’m with friends, but I just think there is a border between the church (Christianity) and school (the world). (Beom Yoon Seo / Favorite place: anywhere with my close friends)



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【第六回】【The 6th Session】
僕にとってものすごくつらい学校の最後の授業のチャイムが鳴ると、もっとつらい塾が僕を迎える。出ていく学生の足音とともにもっとつらい塾が終わると、塾の先生は山のような宿題をプレゼントといって渡してくれる。ため息とともに宿題が終わると、ようやく甘い眠りが私を迎える。 (ジョ・ヒョク/将来の夢:生物学者)
部屋ではうんこできないけど、トイレじゃうんこできる。(ジョン・スンファ/将来の夢:料理士(シェフ))

At school, which is quite difficult for me, after the bell of the last class rings, the academy, which is even more difficult, greets me. When the tutoring ends with the sound of footsteps of students going out, my tutor gives out tons of homework as present. After I finish doing the homework with a sigh, sleep as sweet as honey welcomes me. (Jo Hyuk / Dream job: Biologist)
I can’t poop in rooms but I can in toilets. (Jung Seung Hwa / Dream job: Cook (Chef))






2016.9.26 - 2016.11.19
「山陽新聞朝刊」全10回連載 (週1回)
岡山市立富山中学校
「岡山芸術交流2016」


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If you climb onto the banks of the Hyakken River, you can see 180 degrees of sky. The view of the sunset colors is so beautiful here, so I always go there to watch the sunset. My day ends only when I see this sunset. (Kasumi Takashima/Favorite place: rooftop)
My favorite time is when I'm listening to music. I often watch music videos and music programs, and as I listen, I think "wow, they're so cool."When I grow up, I want to be on the other side of the screen, playing in a band that I formed that makes many other people think "wow, they're so cool."
(Yosei Tokuyama/Dream for future: form a band and become famous)

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I like raising living things at home. I'm allowed to have fish, but when I brought home a frog the other day, I got scolded and was told that I "can't keep it because it's dirty."So, I secretly keep bugs and frogs outside, behind the house. (Y.F./Dream for future: I want to succeed the family business)


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I cannot eat pork. So, neither my mom nor I even notice the pork section at the supermarket. Even if some food looks very delicious, as soon as I find out that there is pork in it, I draw an imaginary line between me and that food. I have seen more pork dishes since coming to Japan, so my lines are increasing every day. (Hiraru Takeuchi/Favorite place: area around Etiler, Istanbul)

Since my legs are fat, there is a limit to where I think it's acceptable to show them, in both my school uniform and my own clothes. (K.M./Dream job or future goal: pharmacist)


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When I'm traveling through dreamland, I hear my mom's voice. If it's a scary dream, I get up immediately, but when it's a fun dream, I can't decide whether to get up or not. On Saturdays, I continue my dreams. (Takeru Katayama/Dream job or future goal: work that uses machines)

I am currently an isolated nation. Once I come home, I rarely go out again. When I go from home to school, I do it while thinking I don't want to leave home. I feel like I go to school for sankin-kotai (alternate residence duty where lords were forced to alternate their residence between Edo and their own domains). One day, the black ships of Commodore Perry will come and demand that I open up. When they come, things will become busy. That's why I'm enjoying the peace and quiet of isolation for now. (Yuki Toratani/Farthest place I've visited: Osaka)




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2013.6.26 - 2013.11.6
「中日新聞夕刊」20回連載(毎週水曜日)


川を挟んだ二つの中学校で特別授業を行なった。
「あなたの身の回りにある”境界線”を教えてください」
という宿題を出し、書いてもらった。
それぞれの中学生の文章を地元新聞に連載した。
これらの中学校を隔てる川は”境川”と言う名で、かつて尾張と三河を分けていた。


I make additional classes "14 years old & the world & borders" at 2 junior high school on the banks of the Sakai river in Aichi prefecture.
I give homework to students about "Please look for borders around your neighbor and ordinary" .
Students wrote this each other, and I make running stores titled "14 years old & the world & borders" in news paper by story students wrote.
Aichi prefecture was divided 2 small "countries" by The Sakai river 150 years ago.


連載01w.jpgI have never been overseas. Why do people choose to leave Japan and go abroad? I think it may be because overseas countries are wonderful and beautiful. There is danger overseas too, but I would like to see some beautiful things. (Takumu Takahashi / Dream for the future: to work in a Space-related job)

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My room is shared with my younger brother and is separated only by a pink polka-dot curtain. I walk through my brother’s room, past the curtain and enter my own world. There, I am surrounded by the things I like. Once I go back past the curtain, my brother’s things are everywhere. (Yuka Takakura /Dream for the future: Bridal Coordinator)

(2013.6.26 中日新聞 chunichi newspaper)





連載02w.jpg
On my way home from school with a friend after a while we come to a pedestrian bridge. This is where we go our separate ways, so once I cross the bridge I am all alone. (Suzuki Katsunori/Place I want to go: Singapore)
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My house is a two-family house. Between our house and my grandmother’s house there is a small connecting bridge with a door at the end. When I get fed up of being scolded about studying I run across the bridge and throw the door open. Then I am embraced by my grandmother’s soft smell and warmth. (Sawada Serina/Dream for the future: Working with animals)

(2013.7.3 中日新聞 chunichi newspaper)





連載03w.jpg
I transferred schools from a different prefecture. Now, I have lots of friends but at first hardly anyone spoke to me. I think that is because I just couldn’t get across the line I had put up between myself and my friends. One day a friend approached me and the barrier inside me melted away. (Shimomura Yuiko/Place I want to go: I want to speak and make friends with people from many countries.)
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I am often mistaken for a boy when I am in my own clothes. (Takeya Yukiko/Dream for the future: Veterinarian)

(2013.7.10 中日新聞 chunichi newspaper)





連載04w.jpg

Every time we go up a year level at school our classroom goes up a floor. When I was in the first and second year it was really hard to go up to the top floor. Now, it is natural to go to the third floor. I feel I am growing up one floor at a time. (Nagaya Rumi/Favorite place: By the classroom window)
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If my mother, who died when I was three, was still alive I think my life would be very different. I wouldn’t have come to this town, I would be a different person, my friends would be different and the view I see would be different. (Name withheld by request/Dream for the future: School teacher)
(2013.7.17 中日新聞 chunichi newspaper)





kariya.jpg
あいちトリエンナーレ2013 アーティスト派遣事業の様子
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中学生の頃、学校区を分けている川の向こう側が異国のように遠く感じた。 年齢を重ねていくと世界は拡大していく。その川もすぐに境界線ではなくなった。 目の前の世界には大小さまざまな境界線が消えていは生まれている。

『14歳と世界と境』は、愛知県内の中学生に特別授業を行い「身の回りの境界」について考えてもらい、
実際に授業内で中学生が書いた文章で、中日新聞にて小さな連載(全20回)を作ります。

かつて”尾張”と”三河”を分けていた「境川」、その両岸の中学校にて授業を実施。(そのことは授業では触れません)
新聞連載の記事には、毎回両岸の2人の中学生の言葉を選んで掲載します。(間に引かれた点線は川をイメージ)

川や海や壁や道や服装や…色々なものが、国やコミュニティや人々の気持ちや…色々なものを隔てています。
大人と子供の狭間のような14歳の世界観を通して、
もう一度自分たちの世界とそれを”隔てるもの”を見つめてみたいと思っています。





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「岡山芸術交流」展示風景一部



マレーシア新聞記事w.jpg
In Malaysia



展示「あいちトリエンナーレ2013」 exhibition"Aichi Triennale2013" >>>

念願の年賀状

2013年5月21日 12:35 下道 基行 */?>

2009年頃に一度、post photoというのを作った事がある。まぁ写真のついたただのお礼状なんだけど。

2009年は、今思うと結構大きな転機だった。2008年11月に貯金を使い果たした状況でフランスより一年ぶりに帰国し、あまりにお金も活動もなく、フラフラとしていた中、4月からある写真系の高月給の会社で働く事が内定した。ただ、ちょうどその時、尊敬する人から10日間クロアチアの取材にカメラマンとして同行してほしいと頼まれる。迷い、内定の会社に「5月に10日程休みをほしい」と頼んだが、「どちらかを選んでください、こちらは別の候補の方もいますし」と言われ(あたりまえだ…)、結局クロアチア10日を選んだ。月30万程度の良い職を得て一年間生活を改善し復活する計画はなくなり、帰国後また放浪生活がはじまる。そんな放浪のなかで、様々な人と出会う。

結局、このとき、別の方の舵を切っていたら、本当に全く違った今になっていただろうと思う。そんなことは少なくないが。
クロアチアから帰って、色んな場所に転々としていろんな人と会う。いろんな話をしゃべり聞くようになった。なにかモノ作りというよりは、運び屋のような感じ。さらに料理を作り、洗い物をするようになった。泊めてもらったり親切にしてくれたお礼のような感じで始めたようなものかもしれない。そして、お礼状を作った。

今年もいろいろとあって、年賀状を始めてみようと思いたって、ようやく入稿する事ができた。数日後から恐ろしい宛名書きが待っているが、今日はなんだか清々しい。

根本は変われないんだけど、たぶん2007年くらいまでの自分とは大きく変わった部分はあるのだと思う。少なくとも、料理の腕は格段に上がって、人に食べてもらえる程度にはなってきたし。別の町の話、別の家のレシピ、ネットではない情報の運び屋、混ぜ屋か。



友人の展示に行き、いろいろと知らない事を教えてもらう。またしゃべる。

家に帰って、小さなお祝い。明日の飯の仕込み。
毎日ご飯がおいしくて。


ブログを書いて反芻。

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2012-12-17 02:49

「超訳 びじゅつの学校」十和田市現代美術館

2013年2月19日 09:20 下道 基行 */?>


美術館にいろんな部室が生まれ、何度も入れて自分も何かをつくったりできる。そんな展示です。
メイキング・シチュエーションな感じです。。
僕は雪の道を参加者(部員)とともに撮影しながら春まで空間やグログを続けようと思います。
ブログはこちら
http://towadaartcenter.com/blog/choyaku/


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超訳 びじゅつの学校

2013年2月16日(土)− 4月14日(日)

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開館時間= 9:00-17:00(入場は閉館の30分前まで)
休館日 = 月曜日(月曜が祝日の場合はその翌日。)
観覧料 = 企画展(超訳 びじゅつの学校フリーパスチケット)
      +常設展セット券=900円。
      (フリーパスチケットは会期中何度も使えます)
      企画展・常設展の個別料金は一般各500円。
      団体(20名以上)100円引き。
      高校生以下無料
主催  = 十和田市現代美術館
企画協力= 影山裕樹(OFFICE YUKI KAGEYAMA)
アートディレクション=加藤賢策(東京ピストル)
特設ブログ=http://towadaartcenter.com/blog/choyaku/

この冬、十和田市現代美術館では、青森・十和田にゆかりのある素材や環境を利用しながら、「再入場自由・誰でも発表が可能」という仕組みを大胆に採りいれた、これまでにない「びじゅつ」の学校をスタートします。
フリーパスチケットを購入してこの学校に入学すると、会場内に設置されたオープンスタジオを自由に使えるとともに、興味のある「部活動」にいくつでも参加することができます。また、多方面で活躍する作家を「部長」として招聘し、従来の「美術」の枠組みにとらわれない様々な活動を展開します。「部長」や「部員」がつくった作品は会期中を通して展示され、増殖していきます。
空間構成は、十和田市内を活動の拠点にしている架空の人物、藤森八十郎(風景編集者)が担当。「超訳 びじゅつの学校」の「校長」として、日々部員たちの活動の様子をブログで紹介したり、会場の風景に手を入れていきます。
ここで生まれた部活は、その後十和田市内の様々な場所へと広がっていきます。美術館を触媒としながら、まちへと広がり、人をつなげる「超訳 びじゅつの学校」。展示を見に来る「目撃者」となるか、はたまたどっぷりと巻き込まれ「当事者」となるかは、訪れたあなた次第です。

《校則》
一、 誰でも500円で入学可能。展示を見るだけでもOK
一、 美術館が部室になる! 会期中何度でも訪れよう
一、 自分がつくった作品が展示される!?

《主な部活》

胸にしまっていた
物語を語ってみよう。
ものがたり部 
部長:戌井昭人

クローゼットは
宝の山だと考えよう。
被服部 
部長:山下陽光

下を見て歩こう。
写真を撮ってみよう。
観察部 
部長:下道基行

素材に向き合い、
手を動かしてみよう。
花かざり部 
部長:藤森八十郎

樹木を知ろう。
樹木部 
部長:山本修路

常識を超えてみよう。
わら部 
部長 中利


青い森の小さな美術部
部長:奈良美智

トークイベント「何に着目すべきか?」

2012年4月19日 18:22 下道 基行 */?>
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トークイベントに参加します。
I participate talk event at Asakusa.


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「何に着目すべきか?」

"Approaches to What?"


フランスの社会学者で著述家であるジョルジュ・ペレックの言葉に導かれながら、本をめぐる対話の場を設計した前回の『何に着目すべきか?』。アサヒ・アートスクエアで行なう第二回のテーマは、「価値の再発見 / LOST & FOUND」。現在さまざまなジャンルで、個人的でありつつも、大きな視点を併せもちながら、書籍や音源のアーカイブを目的とした復刻、復刊や、歴史的な言葉の引用などの動きがみられます。いまは失われてしまったもの。あるいは、一般的には忘れられつつあるもの。それらの再発見や、それがもつ価値へ愛ある新たな視点からの光を照射すること。今回の『何に着目すべきか?』は、そんな忘れ去られた言語・知識・音楽・概念・レシピ・道具といったものに着目し、その新しい意味を模索する機会にしたいと考えています。
会場では各出演者のトークをお聞きいたただきながら会場内で販売されているアルコール類・ソフトドリンク類やお食事をご自由にお楽しみいただけます。また会場もオープンな構成にしており、入退場も自由です。どうぞお気軽にお越しください。

■日時 2012年4月21日(土曜日)午後3時~午後9時
※終了時間は当日の進行により若干変動することがございます。ご了承ください。

■会場 アサヒ・アートスクエア

■入場無料(予約不要、定員なし)
※会場内でのご飲食、有料の商品やサービスにつきましては別途料金がかかります。

■出演
第1部:15:00-17:30(予定)
白井宏昌(建築家) /NOMAZON(仮想ブックショップ) /柴田隆寛(編集者) /室賀清徳(アイデア編集長)/ミヤギフトシ(アーティスト)
第2部:18:00-20:30(予定)
奥村雄樹(アーティスト)/加藤賢策(デザイナー)/森大志郎(デザイナー)/上崎千(批評家)/富井大裕(アーティスト)/水野大二郎(批評家)/下道基行(アーティスト)

"What's really going on, what we're experiencing, the rest, all the rest, where is it? How should we take account of question, describe what happens every day and recurs every day: the banal, the quotidian, the obvious, the common, the ordinary, the infra-ordinary, the background noise, the habitual?"
- Georges Perec, Approaches to What? (1973)
For this event "Approaches to What?", we will produce a collectively built library in the art institution, Asahi Art Square and transform the institution into temporary emancipated space that aims to be something in-between school, kitchen and library. While reading a book from the collective library, you will sit around a table and talk together with guests and other participants. This dialogical practice is an exercise to alter the relationship between artist/spectator, teacher/student, author/reader, seller/buyer and host/guest.
Date: 3 September 2011 (Saturday)
Place: Asashi Art Square, at Asakusa, Tokyo
Access: http://asahiartsquare.org/?page_id=14
Opening Time: 13:00-21:00
Entrance fee: Free
Guests:
Kensaku Kato (Designer), Ayumu Saito (Editor), Daijiro Ohara (Designer), Hiroshi Eguchi (Utrecht), Satoru Ito (Architect), Ayako Osanai (Designer / Curator), Mitsuru Koga (Artist), Yasuhiro Fukubayashi (Librarian), Koichi Yanagimoto (Community Director), Yoshiyuki Morioka (Morioka Shoten), Akihiro Nishizawa (Branding desinger), Akihiro Kumagaya (Designer), Kunio Nakamura (6 Jigen), Tomoki Imai (Photographer), Takeshi Yamagishi (Photographer), affice (Curator), assistant (Architect), Shigeyuki Ujihara (Kawaguchi Media Seven), Futoshi Miyagi (Artist), Katsutoshi Yuasa (Artist), Masato Takahashi (Architect), Kazuto Kobayashi (Roundabout/Outbound), Makoto Tanijiri (Architect), BOOKLET (Press & Library), ET AL., ETC. (Strategies)
Contributors:
Kiyonori Muroga (IDEA), Motoyuki Shitamichi (Artist), Yo Ooe(Bioclothical Labo)Daijiro Mizuno (Fashion researcher), Kozo Kadowaki (Architect), Hiroko Myokan (Curator), Yasuo Totsuka (Designer), Lucas B.B. (Editor), Erika Kobayashi (Illustrator, Manga artist, Novelist), Nakako Hayashi (Editor), Jitsuko Takei (PAPIER LABO.), Yuu Takehisa (Curator), Hiroyuki Hattori (Curator), Fumio Inoue (CAMP), Daishiro Mori (Designer) / Takahiro Shibata (Editor)

A面とB面、そしてそれらを結ぶ余白の物語

2012年4月 3日 20:32 下道 基行 */?>

 下道基行は旅するアーティストだ。文字通り各地に滞在し生活するなかで作品を制作する「旅人型」という意味もあるが、それ以上に「旅」に喩えることで、その創作活動は非常に捉え易くなる。旅は、ある明確な目的地を設定しそこに到達することを最終目標とするタイプのものと、具体的な目的地は定めず移動すること自体や移動の過程での街・人・ものとの出会いなどを求めるものの、大きく2通りに区分できるだろう。下道は作品の質に応じてこの「旅」の両極を探求し作品として提示する。ここで、レコードやCDのA面曲/B面曲という構成を範として、前者のような明確な目的地(対象)を目指す活動/作品を「A面」、後者のように具体的な目的は明瞭でなかったり、何らかの目標へ向かう過程で発生する副産物的なものに着目するプロセス自体に重点を置く活動/作品を「B面」と定義すると、下道はときにA面を目指す過程でB面的な作品を生んだりと、A面/B面を往来することによりバランスを保ち、自身の両極を横断する活動を補完しているように思われる。
 また「旅」での蒐集物が彼の作品を形成する主要素となる。その探求蒐集は多岐に渡り、全国各地に点在する戦争遺構を撮影した《戦争のかたち》、現在の日本の国境の外側に存在する鳥居を捉えた《torii》、祖父が描いた絵画の行方を追いその絵と設置された空間を写す《日曜画家/Sunday painter》、無名の創造者が日々つくり続ける創作物を蒐集する《Sunday creators》、どこにでもある境界をつなげる一枚の板など最小限の構造物を「橋」と定義し各地でスナップした《bridge》など、一見散漫な興味のもとバラバラなものを追っているように思われる。しかし下道が鋭い観察眼と好奇心をもって発見し愛でるように蒐集するものには、下記三項目の共通点がある。

1)極めて個人的でささやかな発見により価値を与えられるもの
2)人の行為によりかたちや機能を与えられたもの
3)その成立の背景に何らかの物語や記憶を備えているもの

 以上の前提のもと論考を進める。下道が注目されるきっかけとなった2005年に出版された彼の著書『戦争のかたち』は、日本全国に多数現存するするトーチカや砲台跡、掩体壕など軍事目的で建造された戦争遺構の現在の様子を捉えたものだ。ある掩体壕は住居として人が暮らしていたり、ある砲台の台座は花壇になっていたりと、かつて与えられた軍事機能を完全に剥奪され鮮やかに転用された新しい風景として存続し定着している状況を捉えることで、戦争が起こっていたほんの少し昔と現在は地続きでつながっているということを可視化したり、あるいは必要から生じる人間の創意工夫のちからや生活力を明示するなど、その風景を提示することで背後に存在する様々な歴史や物語を私達に想像させる。
 また、現在規定されている日本の国境線の外側にかつて日本人の生活が存在した痕跡を示すように現存する鳥居を写真で蒐集したのが《torii》というシリーズだ。これらは必ずしも日本の征服の歴史を示すものではなく、移民として日本人街が形成されるなど、様々な理由で日本人が暮らした場所やその生活の存在を証すものだ。ある鳥居は周囲をキリスト教の墓標に囲まれ表面を純白に覆われた状態で残っていたり、別のものは鳥居本体がその場に倒されベンチのように利用されていたりと、現在そこで生活する人の手により全く新しい機能や価値を与えられ、新たな風景を形成している。
 《戦争のかたち》や《torii》で蒐集される「戦争遺構」や「鳥居」は、ともに永い年月をかけてひとつの場所に鎮座していることもあり、どんな変換が施されようがその存在感は非常に強力だ。そしてこれらは特定の場所に位置するその強烈な存在を求め捉えるという極めて「A面」的な作品だ。どちらもその対象は決して著名なモニュメントではないが、存在の強さはあり、それを目的として探求することでモニュメント化をする正統的な写真の作法により作品化されている。

 一方で「B面」の代表的な作品は《RIDER HOUSE》だろう。これは《戦争のかたち》の制作のために北海道を旅した下道がバイカーのための宿「ライダーハウス」に宿泊したことで、その面白さを発見し蒐集したものだ。宿ごとに形成される独自ルールや空間があったり、そこに滞在する多様なバックグラウンドをもつ人々に出会ったりと、その状況自体が下道には興味深く感じられ、戦争遺構の撮影の裏側で、ライダーハウスで出会う人やその生活をスナップ的に撮り溜めていたそうだ。《戦争のかたち》のための旅の裏側を捉えた《RIDER HOUSE》の写真群は、その当時の下道の日々やライダーたちの生態が想起されるものがあり、その裏側的魅力に惹き付けられるまさにB面的作品となっている。
 ACACでは、青森での滞在制作による新作《crossover》と昨年制作した《bridge》を再構成し両者を接続することで、ここ最近の「B面」的な活動に焦点を当てる展示となった。これらに共通するのは、人の何らかの行為により意味やかたちを与えられたものということだ。《crossover》は、元々道路などなかったところを人や動物が往来することにより、そこだけ植物が途絶え土が顔を出して通路らしきものが生まれるなどの行為の痕跡によってかたちになる道を発見し撮影していたことに由来する。その延長線上で、雪の青森を散策するなかで、スーパーと道路の境界に設置された敷地を仕切るちょっとしたバーなど、あちらとこちらを隔てる小さな境界線を人が跨いで超えることにより足跡が残り姿をあらわす道を捉え蒐集したものだ。雪に半分埋もれたバーを人が超え横切ると、そのバーの両側に足跡が残る。足跡が残ると他の人もそこを横切るようになり、やがてその道らしきものはより鮮明な道になる。人の行為の痕跡が刻まれることで、そこに意味や機能が与えられていくのだ。
 下道は、バーが中央にくるようにその真上にカメラを構え、痕跡による道を捉え蒐集した。これらの道は、所在が明確なものを探し求めていくというよりは、生活する過程で発見されたものだろう。実際それは降雪の具合や除雪によってある日は存在していたが別の日には消滅しているという、あちこちに存在の可能性はあるが、それを求めて捉えるというのはなかなか困難な、絶えず変化する存在だ。この日々の生活において偶然出会う道を切り取り拾い集める行為も、極めてB面的ではなかろうか。
 また、下道は発見し蒐集したものを公開する作品化の方法にもとても細やかに神経を遣う。写真は額装やマウントにより壁に掛けて見せるのが常套手段だが、彼はその写真が捉えるものの質により提示法を決定する。移動の過程で発見した「道」をデジタルカメラで撮影するというスナップ感覚の強い《crossover》は、計11点を123.5x83cmの大きさでモノクロプリントしギャラリーAの回廊状の床にスプレー糊で直貼りするスタイルをとった。そして壁面にはスライドプロジェクターで、人がバーを超える瞬間を正面から捉えた35mmのポジフィルムによるスライドを小さく投影した。
 その奥の展示室には《bridge》が設置されている。これは2011年3月~8月にかけて下道がバイクで日本全国を巡るなかで、どこにでも目に入るあちらとこちらをつなぐ最小限の構造物を「橋」と定義し蒐集したものだ。例えば、水路を挟んだ田畑のあぜ道に渡された一本の丸太や、車庫と道路の段差を解消すべく道路にちょこんと据えられたレンガやコンクリートブロック、あるいは岸壁と船をつなぐ渡し板など、その役割は千差万別だが小さな隔たりをつなげる最小限の構造物を彼は「橋」と呼び、必要が生む日常生活におけるささやかな創造性により変容される風景に面白みを発見した。計280点の「橋」はA4サイズの紙に撮影日とともにプリントされ、展示室壁面の四周を一列に横切り、さらに展示室からはみ出して通路やトイレも横断しひたすらひとつのライン上にスプレー糊で貼られている。展示室中央に設置されたテーブルには、彼が発見した道をプロットした青森市の地図と、約半年かけて「橋」を撮影しながらバイクで巡った旅路をマジックでなぞった日本地図が設置されており、《crossover》と《bridge》を同列に並べる思考が明快に見てとれる。下道は写真を主なメディウムとするが、それだけでなく地図など旅のプロセスを想起させるアイテムをオブジェとして陳列することで、私達鑑賞者がその「道」や「橋」の写真一枚一枚の背後にあるストーリーを想像できるように立体的に提示しようと試みる。こういうプロセスに価値を置く空間の構成法や、デジタルカメラだからこその物量や即興性を敢えて選択することも極めてB面的な態度と言えよう。フォトジェニックな「道」や「橋」を数点選んで大きく引き延ばして額装し整然と壁に並べるのではなく、床に直接貼る事や、壁に延々と貼り続けるという、一見「ゆるい」とか「強引」と思われるような手法をとり、写真以外の通常は余剰として切り捨てられてしまうものを敢えて併置することで、その余剰も含めてその発見の背後にある記憶を探求することを奨励する。

 B面的世界の面白さは、下道の名前にあやかるなら、高速道路を一直線で目的地に向かうのではなく、変化する風景を感じながら寄り道を重ね下道をのんびりと移動する過程で、思いもよらぬ様々な発見をすることにあるだろう。確かに明確な目標を据えそれに向かって一心不乱に突き進むことも重要だが、時には少しその道を外れ遠回りをするゆとりを持ち、意図しなかったものを吸収していくことも不可欠ではないか。下道はこのA面/B面の両面をしなやかに接続することでバランスをとり、その表現の強度をゆるやかだけれども着実に醸成している。

服部浩之(国際芸術センター青森学芸員)


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”A-side and B-side
Story of what is in between the two sides”


SHITAMICHI Motoyuki is a traveling artist. In a literal sense, he is a “traveler-type” artist who creates works while staying and living in different parts of the country, but what is more appropriate to his case is that we can grasp his creative activity more clearly when we compare it to “traveling.” Types of traveling could be roughly grouped into two kinds: one is that the final goal of the traveler is to reach the destination he has planned, and the other is that the traveler does not decide on his destination and appreciates being on the road, seeking encounters with town, people and things in the process of movement. Shitamichi pursues these two poles depending on the nature of his work. If the former type of activity/work with the definite destination (subject) is defined as “A-side” (of a record or CD), the latter type is defined as “B-side,” in which the target is not specific or the process itself is valued of observing unexpected by-products he finds as he goes towards a certain target. It seems that Shitamichi travels back and forth between the A-side and the B-side keeping a balance in order to supplement his activity of crossing the two poles. For example, he produces B-side type of pieces in the process of aiming for the A-side.
His accumulation of things that he has collected in “traveling” constitutes the main element of the formation of his works. His search and accumulation are wide-ranging: In “Bunkers” (fig.1), war ruins scattered throughout the country are photographed, “torii” depicts torii (shrine gate) that remain outside present borders of Japan, “Sunday painter” (fig.2) shows places where his grandfather’s paintings are, which he traveled looking for, and the space with them., “Sunday creator” (fig.3) displays the collection of things produced continuously by nameless creators, and in “bridge,” snapshots he took at different places show items of minimum structure like a piece of board connecting boundaries found everywhere, which he defined as “bridge.” At first sight, he seems to be pursuing disconnected things in a distracted way, but there are three points in common as in the following concerning those which he has collected with his sharp observing eye and curiosity.

1) They are made valuable through small personal discoveries
2) They are given a form and function through one’s acts
3) They have some sort of story or memory in the context of their formation

I’d like to discuss the subject from the above-mentioned assumption.
“Bunkers” (fig.4), which was published in 2005 and acted as a trigger to draw attention to his work, captures the present state of war ruins such as a pillbox, artillery battery, and aircraft bunker built for military purposes. Some bunker is now used as someone’s dwelling, and the base of some artillery battery has been transformed into a flower garden. Thus, by capturing situations which continue to exist as revived scenery remarkably transformed after being totally deprived of the military function, he visualizes the fact that the wartime of only some yeardecades ago and the present time are connected adjacently, or he expresses clearly human originality, creativity and vitality that arise out of necessity. Presenting the landscape, he makes us think of a diversity of histories and stories behind the scenes.
The torii series contains photos of existing torii, which suggest that Japanese people once lived outside the present borders. They are not necessarily intended to display Japan’s history of conquest, but they provide a sign that Japanese people lived there for various reasons like Japanese emigrants who formed a Japanese quarter. One of the torii left with the surface painted snow-white is surrounded by Christian gravestones while another torii is pulled down and used as a bench. They are thus given totally new functions and values by people living there today and make new landscape.
As “war ruins” and “torii” collected in “Bunkers” and “torii” respectively have stayed at the same place over many years, their powerful presence appeals to us whatever conversion might be made. Each is definitely an A-side type of work, because he intentionally searched for and captured its great existence located at a specific place. Although none of them is a well-known monument, they have the power of existence, and are made into artworks following the orthodox rule of photography, that is, to make the subject into a monument by pursuing it as the target.

On the other hand, his important B-side type of work is probably “RIDER HOUSE” (fig.6). When he made a trip around Hokkaido for the production of “Bunkers,” he stayed at a “rider house,” a lodging for bikers, which he thought was interesting and began its collection of pictures. What interested him was, for example, that each rider house had its own established rules or there were encounters with sojourners from different backgrounds. As the situation itself was interesting, he took snapshots of people he encountered at rider houses, took pictures of their lives and saved them up behind his job of photographing war ruins. Groups of such photos of “RIDER HOUSE,” which captured the hidden side of the trip for “Bunkers,” show us vividly of Shitamichi’s daily life at the time as well as the riders’ lifestyle. This is exactly B-side type of work attracting us by its behind-the-scenes appeal.
For the exhibition at ACAC, “crossover” (fig.7), a new residency production in Aomori and “bridge” that was produced last year and reconstructed anew have been combined, so that his recent B-side type of activities are in spotlight. What the two works share in common is that certain acts of people have given them a form and meaning. As to crossover, it has stemmed from his experience in the past when he found a road and took a photo of that road, which was formed by traces of people’s acts─people and animals walked back and forth along the path where there was originally no road, and grass stopped growing. The surface of the earth began to appear and finally a road-like strip of ground was left there. As an extension of this approach, he collected, while walking through snowy places in Aomori, such a road as formed by footprints around a small bar set up on a lot between a supermarket and the street or at borderlines between two different parts of land which people stepped across. When people step across a bar partly buried in snow, their footprints are left on both sides of it. When other people see those footprints, they begin to cross it there, and as a result, what appeared to be a path becomes a real road. Meanings and functions are given through the engraved traces of people’s acts.
In order to position the bar in the center, Shitamichi held his camera right above it, and photographed roads formed by traces and collected them. Rather than searching for the specific site of such a road, he must have discovered them in the process of daily living. Though it is possible that they exist all over the place, it is difficult to actually look for them, because their conditions are constantly changing: they appear someday but disappear some other day depending on the circumstances of snowfall and snow removal. This act of cutting out and collecting those roads, which he happens to encounter in his everyday life is quite a B-side type of work.
As to his way of exhibiting what he discovered and collected, he pays attention to the smallest detail. Although, on most occasions, photos are framed or mounted for display on a wall, he decides on how to display them depending on the quality of the subject that he has captured in the photo. For “crossover,” in which “roads” discovered in his travel are photographed by his digital camera like snapshots, eleven pieces in total are printed in monochrome of the size 123.5x83cm and pasted directly on the corridor-shaped floor of gallery A with spray glue. And a projector showed 35mm positive film slides, which captured the moment when a person seen from the front stepped over a bar, in a small size on the wall.
In the inner part of the exhibition room is “bridge” (fig.8). This collection contains what he defined as “bridge,” those of minimum structure, which can be seen everywhere connecting this side and that side. Shitamichi noticed them while traveling around all over the country on his motorcycle from March through August 2011. They are, for example, a log put across a waterway between the footpaths of fields, bricks and concrete blocks placed quietly to remove the level difference between a garage and the road, or a board to moor a boat alongside the quay. Though their roles present an infinite variety, he calls the minimum structure connecting little gaps “bridge,” and has found delight in an amusing quality in the landscape transformed by modest creativity coming out of necessity in our daily life. A total of 280 pieces of “bridge” is printed in size A4 along with the shooting date. They are arranged in a single horizontal row on all four sides of the wall in the exhibition room, and go further across the passageway, washroom, etc. pasted with spray glue on a line of the same height. On a table placed on the center of the exhibition room are a map of Aomori city with a plot of roads discovered by him, and a map of Japan with marked traces of his motorcycle tour to photograph “bridge,” which took him about half a year. Here, his intention of putting “crossover” and “bridge” in the same category is explicit. The medium that Shitamichi mainly uses is photography, but by displaying items like maps, which remind us of his trips as object, he tries to present his works from all angles so that viewers can picture a story behind each photo of “road” and “bridge.” His way of spatial composition to value this sort of process and his choice of quantitative and improvisatorial merits of a digital camera show a great deal his B-side type of attitude. What he would not do is to select only photogenic “road” and “bridge,” enlarge them, put them in frames and arrange them on the wall in neat order. His way, on the other hand, seems to be “loose” or “aggressive” at first glance, because, for instance, he pastes his works directly on the floor or continues pasting them on the walls on and on. By boldly putting what is usually thrown away as a surplus along with photos, he encourages us to search for our memories hidden behind surplus parts including such discoveries.
The fun that the B-side type of world presents to us is not to rush to the destination on a superhighway, but, to make various unexpected discoveries while moving around lazily along small roads (let me share his name Shitamichi: shita=under, michi=-road with him), stopping off at different places to enjoy changing landscape. No doubt it is important for us to push forward intently to the definite goal, but it is also indispensable for us to have time to make a detour to experience and absorb what we did not intend to do. Keeping a balance by smoothly connecting the A-side with the B-side, Shitamichi is intensifying his expression slowly but steadily.


HATTORI Hiroyuki (curator, Aomori Comtemporary Art Centre)

exhibition[この素晴らしき世界 What a Wonderful World]

2012年3月11日 22:43 下道 基行 */?>


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[この素晴らしき世界:アジアの現代美術から見る世界の今]

2012年3月24日(土)〜5月13日(日)
広島市現代美術館

この世界はいったいどこへ向かおうとしているのか
7名のアジア出身アーティストが描きだす、"私たちの素晴らしき世界“

アジア諸国の昨今の急激な経済成長は、世界がいまだかつて経験したことのないほど多様な変化をもたらしています。再開発、高層ビルや新築物件の建築ラッシュ、市場の活性化に伴う海外資本の流入によって街の姿は一変し、人々の繁栄の証ともいえる華麗なる都市の変化を謳歌しながら、一方ではその影に潜む諸現象――古き良き時代の光景の喪失、自国文化衰退の危機、経済格差が生み出す貧富の差の拡大、そして環境破壊にも気づいています。また、未曾有の経済的発展が引き起こす世界のパワーバランスの変化により、民族やジェンダーへの関心が高まり、過去や歴史に対する認識の違いや領土をめぐる争いも表面化しています。

私たちのこの世界はいったいどこへ向かおうとしているのか。今一度この問いと向き合い、未来の世界のあり方を考えようという試みである本展は、変動を続けるアジアを出自とし、世界で活躍する7名の作家を取り上げ、ユーモラスでウィットに富んだそれぞれの「世界」の表象を紹介します。現実だけでなく理想をも表象した作品は、希望に満ちた素晴らしき世界へ向かうヒントを与えてくれるでしょう。

出品作家

Shilpa Gupta/シルパ・グプタ:1976年生まれ、インド
Kuo I-Chen/郭奕臣(グォ・イツェン):1979年生まれ、台湾
Michael Lee/マイケル・リー:1972年生まれ、シンガポール
Motoyuki Shitamichi/下道基行:1978年生まれ、日本
Tintin Wulia/ティンティン・ウリア:1972年生まれ、インドネシア
Jun Yang/ジュン・ヤン:1975年生まれ、中国
Chu Yun/储云(ツゥ・イュン):1977年生まれ、中国

http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main/www.html

What a Wonderful World: Visions in contemporary Asian art of our world today
March 24-May 13, 2012
HIROSHIMA CITY MUSEUM OF CONTEMPORARY ART


The Wonderful World According to Seven Artists From Asia

The rapid economic growth that has occurred in Asia in recent years has brought about a variety of changes the like of which the world has never seen. Due to a surge in new construction, including redevelopment projects and high-rise buildings, and an influx of foreign capital that accompanied market activation, many Asian cities have undergone drastic changes. While extolling these magnificent cityscapes as tangible proof of the region's newfound prosperity, people have also become aware of a variety of problems lurking in the shadows, including the disappearance of attractive landscapes from bygone eras, the threat to national culture, the widening disparity between rich and poor, and the destruction of the natural environment. In addition, the shift in the balance of global power that has arisen from unprecedented economic growth has triggered a greater interest in ethnic and gender-related issues, and highlighted disparate views of history and territorial conflicts.

Where exactly is the world headed? In this exhibition, which aims to address this question and consider what lies ahead of us, we present the work of seven internationally-active artists who have each developed a distinctive view of the "world" that is infused with humor and wit. Their work, which not only reflects reality but also idealism, provides us with a key to a world that is filled with hope and wonder.

Artists

Shilpa Gupta (Born in India in 1976)
Kuo I-Chen (Born in Taiwan in 1979)
Michael Lee (Born in Singapore in 1972)
Motoyuki Shitamichi (Born in Japan in 1978)
Tintin Wulia (Born in Indonesia in 1972)
Jun Yang (Born in China in 1975)
Chu Yun (Born in China in 1977)

http://www.hcmca.cf.city.hiroshima.jp/web/main_e/www.html

「再考現学 / Re-Modernologio」

2012年2月 8日 19:30 下道 基行 */?>

昨年12月より、大雪の青森の国際芸術センター青森で滞在制作を行っています。
青森出身の今和次郎の展示が青森県立美術館、そして東京でも開催されていますが、
今回僕が参加するグループ展『再考現学』は、「考現学」的視点を持つ若手アーティストが選ばれ、青森で滞在制作を行ったグループ展になっています。
僕は、大雪の青森市内をとにかく歩き、”道のようなもの”を撮影した新作『crossover』。さらに、昨年7月にαM galleryで制作した用水路に架けられた”橋のようなもの”『bridge』と、10月にベトナムハノイで制作した『connect』、この震災後にスタートさせた3つのシリーズが繋がり、人々が生活の中で生み出す『行為のかたち』をテーマに展示します。
静かな雪に閉ざされた国際芸術センター青森へ、ゆっくりした時間を過ごしに、是非お越し下さい。

I participate in group exhibition "Re-Modernologio".
This place Aomori is big snow this year.
This museum/Residence is at big snow mountain, and so quiet.
I walk around and took photos about snow roads "crossover".
please come here, and spend good slow time with our works!

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「再考現学 / Re-Modernologio」
 phase3 : 痕跡の風景
国際芸術センター青森
 2012年2月18日(土)~ 3月25日(日)
 10:00 am - 6:00 pm 入場無料/無休

■参加アーティスト
佐々木愛(シュガーペインティング・ドローイング)
下道基行(写真・インスタレーション)
アマンダ・ベランタラ(サウンドアート)
ジュー・チュンリン(アニメーション)

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"アーティストの活動を媒介に、人間の生の痕跡を風景の中に見出す。"

今年度国際芸術センター青森では、青森県出身の考現学者、今和次郎が提唱した「考現学」を年間を通じたキーワードとし、考現学的態度や視点をもつアーティストの活動を「再考現学」展として、ご紹介する展覧会を開催してきました。第3回目となる本展、「再考現学 phase 3:痕跡の風景」では、考現学を都市の中で人間の生活の痕跡を見つけ、観察し、記述することと捉えました。しかし当然のことながらこうして見つけたモノたちの消化の仕方、提示の仕方は、考現学者のそれとアーティストでは異なると思います。

再考現学的視点で世界を観察するということ、それは街の中にあるいは風景の中にある種の新鮮さを見つけることであり、そこには現代に対する鋭い視線、そして人間の活動についての深い関心があるということはいうまでもありません。それは着目した「何か」を媒介に今そこにある現実の実感のようなものを確かめることでもあるかもしれません。

一方着目された「何か」は、取り上げられることで別の何かを示唆し、別の現実を提示しうる可能性を持つでしょう。アーティストの場合、彼らはその着目した何かを作品としてもともとある文脈からずらした場所と仕方で提示することで、社会あるいは現実の見方を変化させる可能性を持ちうるといえるのではないでしょうか。そしてそれこそが単なる風景が人間の根源的かつ、やむことなく続き、抑えがたい欲望としての創造の起点となりえた事実、そしてそれを人間だけが昇華させえた「芸術」という形へと続く道筋の始まりのようなものであるのかもしれません。
本展で、アーティストが風景の中から見つけた人間の痕跡を、アーティストの活動を媒介に、再び作品として現れたものが提示されるでしょう。
また同時開催として現在の青森での生活がベースとなっている方の写真作品による展覧会「ヴィジョン・オブ・アオモリ」を開催します。雪深いACACでの最後の「再考現学」展をお楽しみください。

※「考現学」とは:青森県出身の建築家今和次郎(1888-1973)が提唱した学問。現代の社会現象を場所・時間を定めて一斉に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。ドローイングを用いたフィールドワークを特徴とし、のちの生活学や風俗研究の先鞭となった。


"Re-Modernologio" phase3: Traces of Landscape
Aomori Comtemporary Art Centre
Exhibition : 18 February, Sat. - 25 March, Sun, 2012
Open hour : 10am - 6pm
Admission : Free

Artist :
SASAKI Ai (drawing, painting / Osaka, Japan)
SHITAMICHI Motoyuki (photo / Okayama, Japan)
Amanda BELANTARA (sound art / USA)
JOO Choon Lin (animation, installation / Singapore)

台湾から帰国

2011年11月23日 21:37 下道 基行 */?>

ベトナムから帰国して、大阪→名古屋へ一週間。
その後、台湾に鳥居の取材に行ってきました。

もう何度も台湾へは来てしまっているし、前回は展示を作るために滞在して友人もできた。
最近、台湾へはじめて旅行した時の様な驚きは減っている分、居心地の良さが増えている気がする。

けど、たぶん、休日を使って目的地/観光地を急いで巡る様な旅は、自分の場所を離れ旅先に自分の居場所のない/地に足がつかない場所を求めている感覚はある。それはまた自分の場所に帰る喜びを得るための目くらましのようなものかもしれないし、言い換えると見慣れた居場所から一時期離れることが旅なら、もう一度見慣れた居場所に帰ることを前提に成り立っているのだろう。
ただ、この自分の居場所ではない/旅先に、友人や行きつけのお店ができると、少し自分の居場所を与えてもらっている感じがある。それは、日本の別の都市であっても、台湾であっても、ベトナムであっても、フランスであっても、ふらりと近くを通りかかった時に、ふらりと会えて、食事をして、互いの近況を話したり、くだらない話ができるコトや場所。ただ、通り過ぎるだけではないということかもしれない。

そして、また成田空港に帰ってきた。
やはり東京には自分の家はなくて、それは2008年にフランスから帰国したときと同じ状況が続いている。

ただ、空港まで向かえにきてくれた友人がいて、それもフランスから帰国した時と同じ光景で、そこには新しい家族が増えていて、見るたびに成長していて、いろんなお互いの近況の話しをして、夜に友人が美味しい食べ物を持ってふらっと遊びにきて……、それが物質的な意味ではなく言えるなら、こういうところの総称が自分の居場所/ホームなのかもと思ったりする。
そして、僕もそういうところがとても必要だし、それをより素晴らしいところにするってのが、まぁ、なんだろう、、なんだろうね。

2011-11-23 11:23

ハノイ/記念日

2011年10月20日 21:34 下道 基行 */?>

町の中心部から泊まっている家まで、線路沿いを帰るのだけど。
夜になると線路沿いの車道の脇にいろいろな露店が並ぶ。
露店と言っても自転車の荷台に山々と何かをつんで、そのまま道に止めて待つという感じ。
ある日は金魚と水の入った袋がつるされた自転車が沢山止まっていたり、かごにフルーツが積んである自転車が並んでいたり。売り子さんは大体女性で、あのベトナムっぽい円錐型の笠をリアルにかぶっている。たぶんこの時間帯やこの線路沿いの道は、ハノイの市街地から郊外へ帰宅する人が立ち寄り易いのだろう。

昨日の夕方は、花屋さんがならんでいる。花自転車たち。宝塚歌劇のフィナーレみたいに着飾ったチャリ達。そして、なぜかいつもにもまして、お客さんがたくさん群がっている。薄暗いヘッドライトに照らされた人々お表情はなんだかうれしそう。
今日は何の日なんだろう???
部屋に帰ってこちらの美大生の女の子に「What day is today? because many people bought flowers.」と電話してみると。笑いながら、「明日が女性の日だ」と教えてくれた。
今日は女性の日かぁ、おめでとうございます。
未だにルールが把握できず、たまに帰宅するとタンクから溢れている水道を、気がついたら元栓ごと止めてくれる、隣人のおばちゃんに花束を送ろうかと、マモルと話す。
埃っぽいハノイの路上がその日は時に鮮やか。

2011-10-20 10:53

ハノイ/地図

2011年10月17日 21:33 下道 基行 */?>

シーボルトが日本地図を秘密裏に国外に持ち出そうとしたように、地図はかつて最高級の国家機密だった。地図を作るというのはそう言う事なのだと思う。
石丸元章はかつて『平壌ハイ』でその国の”食こそ国家機密だ”と書いていたいたが、それに激しく同意しつつ、それは横に置いといて、今日は地図について少し書く。

ハノイに来て観光マップを購入して使ってみたが、道の描き方がいい加減で細かく書かれていない。
普通に大通りを観光するだけなら事足りるかもしれないけど、路上の物をマッピングするにはほぼ使えない代物。やはり社会主義国だから、こんなに曖昧なのか。。
こちらの友人に大きな本屋を案内してもらったが同様のモノしかない。それを見ていた怪しげなオヤジが「マップある!来い!」と怪しげな路地の店で骨董系地図を見せてくれたが、やはりない。
国際交流基金の方に聞くもたぶんない。
google mapが一番詳細が載っているみたいだがそれでも不十分。
結局、google mapをモノクロでプリントアウトして10枚くらいをはり合わせて地図をつくる。そして、それを下地に通った道や見つけた道をペンで書いていく。カフェやランドマークや撮影場所。徐々に15日間で自分の見ているこの町が立体的に見えてくる。通っていない道は薄いままだから自分の行動範囲が見えてくる。
前回、αMの個展のときは、バイクで移動しながら、日本地図(道路マップ)の通った道をマジックでラインを入れていって、ガススタの領収書を貼付けていった。
αMの時は展示を行いながら移動をしながらで、展示が終わる時、ギャラリーに帰ってきたから、この地図を見せる事は無かった。
ただ、この地図は重要なリサーチの”知ってく過程”の詰まった存在で、僕の制作スタイルには重要な存在なのだと思う。
こう書くと、GPSでも同じ様な事はできる…とか河原温もそんなことを…という声も聞こえてくるけど、今回の作品制作の場合、それがあまり意味をなさないドライすぎてアート的なポーズにしかならないと思っている。今回一番重要な事は、ハノイでの一度きりの展示。いろんな国の人が同じように感じられる作品もできたらいいんだけど、今回はハノイの人に見てもらえて感じられる展示を行いた
い。
絵画や彫刻や写真プリントのような、モニュメンタルに残る作品を作らない場合。この”地図”は”この町の自分だけの秘密を知り/作る過程”として、展示は消えても、作家として残せる価値のある存在なのかもという話。この展示がハノイの人がもう一度ハノイを感じる何かになればうれしい。

2011-10-17 16:51

ベトナム

2011年10月 5日 21:28 下道 基行 */?>

ベトナムハノイ5日目の朝。
元隣人マモルと二人でこちらへ招聘され、滞在制作中。
ベトナム人アーティストのマミが今回3人展を企画し、予算が降りて無事こちらへ来た。
3人ともトーキョーワンダーサイトで同じ時期に滞在した繋がり。
トーキョーワンダーサイトでの1年滞在は、日々の生業をしながら自分の展示等をしながら、さらに東京の家自体がアーティストとの共同生活&作業場だという、結構過酷な日々だったけど、色々な外への広がりと内への疑問を与えてくれた、濃厚ですばらしい日々だった。1年間なのに、終わる頃には、何だか学友とともに大学の寮生活を終えた様な感覚。
今日のベトナムは、少し雨で、とりあえず到着の歓迎?バタバタを終え、生活がはじまった感じ。

街角の路上のプラスチックの椅子を並べただけのお茶屋さんに腰を下ろし、3人でグループ展の内容をねる。
前回のハノイに来た時驚いたのは、この町の生活力や圧倒的な風景や生活爆音。
僕の興味は、基本的に新しくモノを作るのではなく、目の前の現実を角度を変えてフォーカスしているだけに近い(写真だし)。マモルの作品も、ほとんど作品らしいモノとしての作品は生み出さず、日用品を使って音にフォーカスするような作品。今回はたぶん、作品らしいモニュメント的オブジェのいらない展示を探りたいと思っていたし、それがこの3人展示のコアになるのではと考えていた。
お茶屋さんで、マミにその話をすると、「everything is already there」という言葉がでてきた。”既にそこにあるもの”。1番好きな大竹伸郎の本のタイトルを連想させる言葉。今回のテーマだろうと思っていた言葉。それが彼の口から出てきた。おもしろい。
その後もカフェやお茶屋さんで話している状態が続いている。
展示は今月末28日から。

昨夜は、滞在している家と近所のベトナム焼き鳥屋でビールを呑みながら、マモルと話す。
人びとの生活のノイズだらけの町で、自分たちの些細な視点/行為は意味をなすのか…ただの外国人観光客の視点になってしまうのではないか……そんな沢山のこと。

とりあえず、毎日お腹はいっぱいです。
ありがとうベトナム料理。
あと、台湾もそうだったけど、海外滞在で現地に友人がいるのは本当に素晴らしい。

2011-10-05 12:47

@台湾

2011年9月22日 21:24 下道 基行 */?>

朝10:30分から設営、手伝ってくれる若いアーティストに作品について聞く。
手伝ってくれているひとり、海馬は雑誌に連載を持っている。彼の連載はとても面白い。
雑誌の種類は農家やガーデニングをする人が読む植物あ農業のもの。彼はその中で、都市生活で役立つ食べられる植物や料理やそのほかの情報をイラストと共に紹介している。まぁ、坂口恭平的に言うと都市的狩猟かな。彼のおもしろいとこは、食用植物の参考資料が植民時代に日本人の研究者によって書かれた本だと言う事。この本は、未知の南国台湾での、リアルサバイバルの為の研究された書かれた資料であり、それが現代の都市に置き換えられ利用される事は興味深い。
その資料の味などは”優良可”に分けられていて。昨日、食堂で海馬は少し変わった青菜の炒め物を注文して、おもむろにその本を取り出して、「これこれ」と見せてくれた、やはり味は"優"だった。"可"ってどんなだよ!?と盛り上がる。結論は「可=if you are hungry, you can eat it」。
みんな大学生かと思ったら、みんな卒業生ばかり、そして多くが今年もしくは来年から兵役らしく。
彼の連載も兵役によって、途中で終わってしまうかもしれないそうだ。
彼はこれらをまとめて本にしたいらしいが、悩ましい。

夜は大学構内でお月見BBQをする。台北芸術大学の敷地は山の上にあり夜景が美しい。東北芸工大ににている。ただ、違うのは、夜遅くまで生徒がわいわいと騒いだりBBQしたり、何かの練習をしたり、活気がある事だ。日本の大学は、構内での飲酒禁止や時間厳守など、制限が増えてきていて、なんというかこういう空気は近年劇的に失われているんじゃないかな?

何より人がいい。台湾。
あまりメディアに出ていなかったけど、東北の震災の時の世界一心配して支援してくれたし、
少しどこかでお礼を言えるといいんだけど。


レジデンスでは、ジーザスは姿を消し、代わりにクロアチア人のメディアアーティストが滞在?
彼女は台湾で結婚している様子。昨日は深夜にラウンジで爆音でピピロッティリストの新作を一緒に見ることに。全編ドイツ語を楽しそうに英語に訳してくれるが、その英語がよく理解できない。ただ、映像のみで分かる部分は多い。
その後、彼女はクロアチアの弟とスカイプ。弟はお世辞にも上手いとは言えないギターをひいてくれる。途中でつまったりする感じが妙にほっこり。弟を見る姉のまなざし、万国共通。


(続く)

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ピピロッティリスト インタビューより

しきたりは私の研究分野です。わたしたちが、自己防衛や生き延びるため、また、ある程度、平和で秩序のある生活を保つために、どのしきたりが必要なのか、必要ではないかといったことを調べています。
一方わたしたちはあまり考えずに、しきたりに従います。それは、時間がないといった理由だったり、しきたりを破るという意欲がなかったり、想像力がなかったりするためです。勇気の問題です。

映画ではしきたりは、新しく作り出すものでもあるということを指摘しています。私たちは何世代にもわたって今の世界を作り上げてきたわけで、今ある社会は前からあったわけではありません。


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2011-09-22 11:07

再定住のための移動/migration for reinhabitation

2011年9月 2日 21:26 下道 基行 */?>

東京のシェアハウスを出ました。
東京を完全撤退移住!みたいに思われてしまうといけないので、
今回東京を離れる理由を書きます。

9月19日〜9月末 台湾(グループ展の為の滞在)
10月1日〜11月末 ベトナム(滞在制作)
11月末〜2月上旬 青森(滞在制作)
2月上旬〜 別の制作

有り難い事に、9月より色々な場所に滞在しながら制作することになり、9月から来年3月までは東京の拠点/家がそこまで必要なく。シェアハウス自体その為に短期用に滞在していたので、東京の荷物をまとめました。安くても5万円程度の部屋を借り続けるには、この作品滞在制作スタイルと合わない。もちろん東京に拠点を残したいし、滞在制作はなんとか生活は出来るが、東京に無人の部屋を借り続けるまでの余裕はない。
旅人のような出で立ちだと言われる。ただ、今年のこのバタバタした生活を越えて、来年4月から新しい生活を始めたい!と、ずっと思ってきている。
2007年、パリに行くため、彼女と井荻の家を出て、それ以来、移動の多い日々。
やはり、沢山の友人のいる関東で、友人を家によべるような生活をはじめたい。それが探している生活/家かなぁ。

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人々が再定住することーすなわち、将来の長い期間にわたって、自分の住んでいる場所にコミットしているかのように生活し考えることーを要求されている。これはある程度原始的なライフスタイルに戻ることであるとか、あるいはユートピア的な地方主義に回帰することを意味するのではない。それは、簡単に言えば、コミュニティに参画し、地域で生活するだけでなく、地球社会から学びそれに貢献することも可能になるような、サステナブルで洗練された経済的実践のありようを探求することを意味する。
『惑星の未来を想像する者たちへ』ゲーリー・スナイダー、p310、山と渓谷社

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ゲーリー・スナイダーをそこまで知っているわけではないですが、
今の自分のスタイルを”ノマド”と言われてしまうし、言い返す言葉もないけど、移動/移動の生活のみに未来を見ていない。前から言ってるけど、自分の生活/家を見つけたい。そしてそれは、物質的な家ではなく、東京という土地でもなく、人との繋がりがとても重要な気がしている。なんだか”人/繋がり”とは胡散臭い言葉だけど、
人との繋がりを生む事の出来る場所/拠点が再定住先ということかな。
もちろん住み心地やいろんな条件もあるけれど。

では、一曲。
1978年、生まれた年ですね。

ゴダイゴでガンダーラ。


2011-09-02 10:20

山口を出て、10時間、走りっぱなし、夜になった。
兵庫県加古川。
プレッシャーとストレスと問題を積んだまま、考えっぱなし。
HONDAのCT110は、バッテリーが6Vだから、ヘッドライトが薄暗い。
前を走るワゴンのナンバーがやけにぞろ目が多い。治安が悪いのかと考える。
突然、バイクはブルンルッ…と遺言。動かなくなる。キックしてもウンスン。足が痛い。
初めての街で途方に暮れる。
バイクを押しながら彷徨う。
閉店後のバイク屋にバイクを残し、終電で宝塚の実家まで帰る。
バイク修理、修理代、また兵庫まで行くこと…、またいろいろと問題が増えた。

昨晩、青森で服部くんとトークを行った。
コレは、3月αM Galleryで行う予定だった[Re-Fort PROJECT]トーク。震災で中止になったもの、
リベンジ企画/中崎的にいうとパラレル企画。
ハッピーなトークではないのは分かっていたし、少し覚悟を持って行う。
1ヶ月近い旅の時間の中で、まとまりはじめていて、話せる時というか、向き合える時は、きているのかもしれない。
ちなみに、コレまで、[Re-Fort PROJECT5]DVDは、秋田、東京、岡山、山口で上映を行い、見にきてくれた人と会話を行ってきた。実は覚悟のいる作業だったりする。

[Re-Fort Project]は、軍事目的に作られ捨てられた日本全国に残る廃墟化した建造物を一時期のみ再利用し、イベントを行う。この行為は、僕が写真集『戦争のかたち』を作るために全国の軍事遺構の状態を探してまわるにあたって疑問に思ったことがきっかけとなっている。写真では伝わらないことや、場所性、記録ではないもの、発見する/出会うこと、保存か共存か、記憶をどのように残していくか、モニュメント化アンモニュメント化、などをテーマに実験的に行ってきた。
戦後、機能を完全に失った建造物に新しい機能を与える、そしてそこに実際に行く為の動線/きっかけを作る。

ただ、このプロジェクト、元砲台で缶けりをしたり、花見をしたり、不法占拠してパーティーを行ったりと、”戦争”という言葉に対して、コントラストの強い(ただ現代の日常的には当たり前ではある)行為/利用を行っているため、嫌悪感を持つ方もいる。

今回、[Re-Fort Project 5]の3月に行うはずだったが中止になったトークイベントをもう一度、震災後として踏まえた上で話せる機会が行えたことは良かった。やはり”戦争遺跡で不謹慎”という向きのコメントも出てきた。ただただ来てくれた人が「面白いトークと映像だった」という感想だけでは終わらなくて、それぞれが疑問を手にするような、着地点の美しくないトークイベントになったことは本当に良かったと思うし、そうでなくれば、ウソになるし、その曖昧なものを曖昧なままでテーブルの上に出しコミュニケーションしていくことにとても大きな意味はあるはず。
触れなくても生きていけるし、無視できる所を触れようとしているのだから、いろんな意見は出るはずだ。
僕の産み出すものも、その揺れている部分そのもので、モニュメント化されない/twitterのような短い言葉で格言するようなものではない/上手く言い表せない/そんなもの何だと思う。
分かり易いものも作りたいし、ひっくり返してニンマリお客の反応を見ていたいし、どうだ!とかいたいけど、そんな作品ではないのかもしれない。

現実はこんがらがっていて、その糸を解く為に奮闘する人もいれば、僕みたいにこんがらがった状況をそのままの形で視覚化する人もいる。
というか、こういう人がいてもいいはずじゃないか。
短い格言的な言葉の持つ強さは弱いものだし危険じゃないか。
分かった気持ちなんかになりたくない。
でも全部分かる事なんてできない。
なんじゃないか。

勘違い/読み違い/誤解を恐れず話すと、

少し被災地に行ったからって、何も語れないのは行ってみてよく分った。
津波で多くのものを失ってしまったマチを見て、僕はたぶん、風景の中に存在している人の生活や営みを発見するのが好きなのだと思った。
仙台から八戸まで海岸を下道で走った。そのなかで撮った写真は2枚のみだった(内陸での日常や[bridge]は除く)。一枚はバス停に置かれた椅子、一枚は小さな用水路の橋のようなもの。
自分が写真機で記録しないといけない風景なのか?今まで自分は写真機を持って何と向き合おうとしてきているのか?肉眼レフ(中平卓馬語録)でいいのではないか?自分自身に刻み込めばいいのではないか?…、いろんな事を考える。


これもこういうと勘違いされてしまうかもしれないけど、
”生”と”死”はテーマのひとつだと思う。”生”と”死”(”残るもの”と”消えるもの”)が隣り合わせで存在する事をなるべく意識しながら、そのなかで”生”をとらえたいと思っているのだと思う。ただ、こういう事をしうと”死”に引っ張られたコメントばかりになりそうだ。”死”は基本見えなくて恐いものであって触れたくないものだからかもしれない。ただ、僕自身、今生きているし死を意識しないと生きる意味は生まれないのかもしれない。
”戦争”という言葉も。ただただ”死”を連想するものかもしれない。ただ、『戦争のかたち』という作品でもやっぱり僕は”生”にフォーカスしたいんだと思う。おじいちゃんから聞く言葉は”生”を感じたし、目の前にはカラーの今の風景があった。”死”や”失った記憶”と隣り合う、”生”や”営み”を写したいのか。まだ言葉にならないな。

話は少しかわるが、
考現学を見つけた今和次郎は、元々民俗学をしていたが、大正時代の関東大震災の直後の、多くのものを失った土地に生まれ始めた”バラック”を見つけた。廃材を集めて立てられた家。人びとの営み。それを写真やスケッチに残した。
僕の今開催している展示は、この今和次郎の同一線上のあるのではないかと考える。小さな手作りの橋のようなもの[bridge]を撮影しながら、日本を旅している。小さな小川や用水路を渡る/隔たりをこえる為の橋のようなもの。どこにでもあるもの。
ただ今回、津波で多くのものを失ってしまったマチには、”バラック”という形はほぼ存在しなかった(見方によってはバラック的補修された家はあるものや山の方に仮設住宅はあった)。目に映るものは、重機で集められた4階建てのマンションくらいの瓦礫の山。家の粉々になったものや廃車の山。

東北の多くのものを失ってしまった巨大な風景を目の当たりにして、もちろん人の営みはあるのだけれども、初めて体験するにカメラを取り出す事すらできずにバイクで走り抜けて行く事しか出来ない。(もちろん立ち止まったりはするし、ただただ走り抜けている訳ではないと思う。)

ただ、”その現場に立った/実際にその風景を出会った人”と”そうでない人”は考える能力に差が生まれると思った。
ただ、その現場に立った人の言葉の持つ正論力を、その現場に立たない/立てない/立ちたくない人へ向ける必要はない。
暴力的な正義がそこらじゅうで拡散する。

3月11日、東京にいて地震を感じて、地下鉄に閉じ込められて、展示が中止になり、そこから数百キロ先で起こっている信じられない状況にテレビやネットから流れてくる情報で向き合う事しかできない。偏ったいるだろう現状報告や情報に惑わされる自分。
そのあとは、数ヶ月でやってくる速すぎる日常への逆戻り。

あそこはどうなっているんだろう?
なんかとんでもないことが起こっていたよね?
あれはなんだったんだろう?

僕自身は、そこに立ち、考え、話せる範囲/違う形としても、表現していくべきだとおもう。
みんな違う風に世界が見えている。そして、その違いの中で、自分なりにこの世界と向き合いたい。

つか正直、金欠の現実と向き合っている。

以上。

今日は、建築家の蟻塚学さんとACACでトークです。
今、客入りのラウンジで猛スピードで書きました。
隣の大学では、くまだまさし(吉本芸人)がお笑いライブをやっています。
くまだまさしに客を取られないか心配です。
調べてみると、お笑いライブではなく、ワークショップをしているらしい。なるほど。。


2011-07-31 12:22

トークイベントふたつ

2011年6月21日 03:26 下道 基行 */?>

TWS 渋谷での展示もあと一週間を切りました。
6月25日15時〜17時に、TWS 渋谷にて、トークイベントを行います。
さらに、会場で下道企画のインタビュー集を配布致します。

インタビュー冊子
[traveling] 2011年4月

mamoru
田村友一郎
亀井佑子
下道基行(聞き手)


レジデンスTWS 青山に1年間、滞在し生活をともにした4人のアーティスト。
滞在が終了する今年の4月、下道基行は一人一人にインタビューを行った。
”今だから聞きたい/聞ける事”、”なぜモノを作るのか?”など。
今回6月25日、TWS渋谷で行われるトークイベントにて、
インタビューをまとめた冊子を配布致します。是非お越し下さいませ。

協力:TWS


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トークにゲスト出演す。
狩野君の素敵な本の発売イベントにゲストで参加、”移動と編集”について話します。
下道も、昨年水戸芸術館での展示中に販売され完売していた、自作写真集『日曜画家/sunday painter』を何冊かつくり販売します。
是非お越し下さい。

■狩野哲郎『New Plants by Tetsuro Kano』 発行記念アーティストトーク
出 演:狩野哲郎(アーティスト)
ゲスト:下道基行(アーティスト)
日 時:2011年6月26日[日] 17:00ー19:00
会 場:NADiff a/p/a/r/t 店内
入場無料(予約不要)※30名様以降は立見となりますのでご了承ください。

恵比寿NADiff店内にて、waitingroomにて開催中の個展の関連イベントとしてトークをさせていただきます。 
無料のイベントとなっておりますので、よろしければぜひお立ち寄りください。
※個展会場とトーク会場は別会場となっております(徒歩約10分)。 またイベント開催当日はwaitingroomの休廊日となっておりますが、トーク終了後19:30ー21:00までの間展示をご覧いただけます。

RE FORT PROJECT 5について (2つの日記)

2011年4月 2日 21:00 下道 基行 */?>

『jataniさんのコメントに対して自分なりに書いてみる』

” @jatani  花火のDVDをみたよ、花火はたしかに打ち上がったけど、そこにいた私たちはまるで人のコマで花火しかうつってないように感じた。あそこにいたみんなはどう感じたのか知りたい。あの日の何を編集したの?どこまでがRe:Fort5?”

あそこにいた人はこの映像をどのように感じるだろうか。
自分だけの時間じゃなくて、あの時間に他の人が何を見ていたかをこのような形としてみてみて。編集された形として。おそろしいけど、僕ももう一度聞いてみたいと思う。

よし
自分の思っていることを書きたい。
直接、jataniさんへの答えになっていないかもしれないけど。。
何を編集したかったかについて。
(僕は、実際のところ、いまだにすべてを明確に判断できていない。)


まず、Re-Fort Projectは、放置された建物や歴史を、少しの時間/期間だけ、新しい機能を上に載せ転用/可視化して、また元の何もなかった状態に戻す。それが中心にある。

How to use?
How to know?
(「戦争のかたち」の後半は「戦争のかたちの使い方」というコーナーになっている)
かな。


ただ、RE FORT PROJECT 5では、

日食で空を見上げた時。
花火を打ち上げた時。
花火の音を体で感じた時。
花火が見えた瞬間。
花火を撮った瞬間。
ヘリコプターが近づいてきた時。

僕はひとつの高揚感いや緊張感のようなモノを感じていた。
それは映像に映し出されている/しまっている。


花火のドン!という音。
花火や日食が一瞬であることの緊張感。
写真/ビデオでそれを狙うと言う事。
ヘリコプターが近づくパタパタという音、そこに仲間が乗っているということ。


砲台や戦争とリンクさせる為に仕掛けたであろうトラップ/落とし穴に、自分自身が落ち/巻き込まれていった。そして言葉にできない大きな違和感が残った…。


僕自身は、このRE FORT PROJECT 5(Re-Fort Project自体)を、人を感動させる為に作ろうとはしていないのだと思う。(いろんな意味で心を動かしたいとは思っているが。)

たとえば、写真本「戦争のかたち」内の韓国へ行った日記もそうだけど、旅先で日韓問題に巻き込まれていく自分たちをそのままの形で見たいと思った。
もちろん、編集されたものは事実ではないが、自分が巻き込まれている事をどれだけ描けるかだと思っている。そのことは大切な部分のひとつだと思うし、そこで出来上がってきたものはさらに自分に問いかけてくる気がしている。

実際、RE FORT PROJECT 5は、「海峡のこっちとあっちでのろしを上げてコミュニケーションを取りたい」という自分の発想があって、現場へ行った時に、花火をあげることになった。その後、5人のメンバーになり話し合いを重ねる中で、ただ花火を上げるのではなく、前日も遠足を行おうとか、日食の昼間にしようとか、展示にする為に見にきた人達にビデオを持って撮影してもらおう、などという構想になっていった。

Re-Fort Projectの作品は今まで、その現場のみでイベント/ライブでしかなかったから、空間やDVDを想定しての映像作品としての編集/再構成ははじめてで、たぶんこういうライブを展示にしようとすると、事実とは違う違和感が生まれてくるきがする。

じゃあ
限りなくシンプルにするか、
混沌としたまま出すか、
それを補う為にいろいろな意見をインタビュー形式で入れてバランスをとるか。
どうなんだろう。

ただ、
表現は再現ではない。と思う。
最近たまにインタビューを受けるんだけど、インタビューアーによって拾う言葉が違うなぁと感じる。気持ちのいいことばかり書く人もいれば、「この人は僕をこんな風な人間として書きたいかぁ」を感じる事もよくある。僕は、それに違和感を感じることもあるんだけど、そんなとき、基本書き直したりはあまりしない。なぜなら、彼はそのように僕を見ようとしているわけだし、インタビュー自体表現なわけだし、人によって見える風景は別だと思う。


この作品についてもっと人に聞いてみたいと思う。

あと、12日にもαMで「Re-Fort 5について」のトークを行うので、話したいし聞いてみたいと思う。
今、展示では、11台のカメラをひとつずつすべてほぼカット無しで流し続けています。
このDVDになっている映像は、一つ一つ一人ずつの映像は細切れに編集されています。
たぶん意味合いや見え方聞こえ方はかなり違うと思う。


jataniさん、いつも投げかけてくれてありがとう。
作家は出来上がってしまったものと、向き合う期間が長い。これも既に二年経過してるんだけど、普通に引きずっています。だから、みんなに分り易い説明が欲しくなったり、たまに逃げたくなったりするもけど、いつも違和感が何なのかをいつも問うていかなきゃいけないし、きれいに答えられるものでもないし、さらされなきゃいけないし。こんな空気の読めない能天気な自分が作品を発表していっていいのかと不安にもじばじばです。
とにかく、もう一度、トークでも話してまた書きます。

朝だー

下道

2011-03-09 06:55


::::::::::::::::

『Re-Fort PROJECT について書きます』


どのように話していいのか。
自分が話せる事は、自分の中にある話だったり、
Re-Fort Projectを始めた経緯だったり、考えだったり…だと思うので、
誤解を恐れずに書きます。

ただ、このRe-Fort Projectは、「これはこういう意味なんだ」と明確なメッセージを誰かに伝える為のものではないと考えています。いろいろな人が違う意見をもったり感じたりしていいとも思っているから、揚げ足の取り合いではなくて、意見は丁寧に受け止めたい。あと、ただ、jataniさんのようなその時感じた事や彼女自身が考えた意見ではなくて、”馬鹿騒ぎ”や言葉や妄想だけが一人歩きしてほしくなはいとも思っています。
あと、僕自身ができた人じゃないことも、話す言葉も文章がいろんな誤解を生むことも、知っていて書きます。

これは、プロジェクトに関わった人達の総意ではなく、
このプロジェクトをはじめ、続けてきた僕の意見ですので。

【”きっかけ”について】

2005年写真集「戦争のかたち」を発表した。
2003年くらいから、その前身でもある写真連載「戦争のかたち」を旅系カルチャー紙「Spectator」で連載させてもらった。(それはメディアに写真がでて、展示とは違う人びとへの浸透の仕方だった。あと、自分で文章を書くということで、戸惑いながらも、沢山の経験をさせたもらった。)

元々、僕は絵を描いていたんだけど、真っ白のキャンバスの上に自分から何か新しく生み出すのではなくて、”既にそこにあるもの”を観察するスタイルに変化していって、それが戦争の遺構/遺構の残された風景との出会いによって、旅をしながらカメラで写すというスタイルで作品化/視覚化していくことになった。新しいアクションではなく、観察と編集。
じゃあ、僕は何を表現したかったのか、これらの戦争の遺構を対峙しながら考えていったから、それは今だから言えることも多い。一つとして戦争を後世に伝えたいという使命感とかではないとおもう。

(あともういちど書くと、これは本当に誤解され易い言い方かもしれないけど、)

例えるなら、アメリカの動物学者だったモースが、明治時代に電車の窓から見える斜面に貝殻の集積を見つけて、そこを掘り返してそこに人が暮らしていた痕跡(貝塚)を見つけたみたく、僕は東京の郊外で昭和初期に作られた軍事施設の跡を見つけた。それは知らなかった時代/世界と出会ってしまった。
もう少しくわしくいうと、その軍事施設跡は近くに二つあった。ひとつは柵で囲まれた”戦争遺跡”(と名前/意味の付いたもの)、もう一つは廃墟のまま建っていて、これをどのように残すか/使うかを市民の方が検討していたんだけど、数ヶ月後に跡形もなく壊されてコンビにと駐車場になっていた。
この公園内に残された”戦争遺跡”と壊されていった”廃墟”とでは、なんというか全く違うリアリティを持っていて、目の前にその存在感を感じたのは、”廃墟”とそれを取り巻く風景、そしてそれが失っていく変化だった。(それは壊された跡も含めて)

そして、旅をするようになって、日本全国に残るこれらの遺構や風景を見ていくと、
その機能を失って、転用されていて、風景と妙な馴染み方をしていて、忘れられていることに、自分なりのリアリティを感じるようになった。立て看板を立ててモニュメント化した遺構への興味はどんどんとなくなっていった。逆に”壊される前に撮影しよう”とともに”モニュメント化される前に撮影しよう”とも思うようになった。
たぶん、モニュメント化する理由も意味も分るし、肯定的ではある。ただ、自分はモニュメント化によって、終わってしまう/停止してしまうモノ/コトについて、もっと考えていかないといけないのではないかと思うようになった。それは、戦争のかたちの後半「戦争のかたちの使い方」とその後スタートする「Re-Fort Project」、さらには「Re-Fort Project」と同時期に始めたもっとプライベートな作品「日曜画家」になっていった。
祖父の絵の行方を追っていく「日曜画家」シリーズは、戦争という大きな歴史との対峙ではなく、自分なりの風景や遺構に対する同じ興味を別の形で作りたかった。(もちろん「戦争のかたち」も歴史を大きな物語としてではなく、僕自身が出会った今目の前で起こっている現実として表現を目指したもの)

How to remain? How to use? How to know?
どう使うか?どう残すか?どう知るか?

あまり話していないし、発表していないんだけど、
この時期、ヨーロッパに軍事遺構の現状を見に一人で旅行した。
その時、こういった建物は、水族館になったり、クラブやオフィスや家として普通に使われながら、その建物の一部に歴史についての紹介も書かれていたりした。逆に、とても強いモニュメント(戦勝記念館的なもの)になっているものもあった。
歴史は変化していく、ただ、日本ではこれらの建物をどのように扱っていいのか、それはまだまだジレンマのなかにあったりする。
そして、遺構の権利の関係にも興味があった。なぜなら、戦後、軍から土地が地元に返還された時、その土地の上に多くの軍事施設の跡は放置されたままだった。(例えば飛行場だった場所には、戦後も飛行機の格納庫の跡が残されていた)それらは、地元の人にとっては、壊すのにもお金のかかる国(軍)が勝手に残して行った、どうしていいか不明の存在でしかなかった。つまり、建物の管理はグレーゾーン/曖昧なまま存在し続けていた。人びとがそれらを日常の中で使っていくことやその風景は、何かしっくり来る気がしている。
これが、「Re-Fort Project」をはじめるきっかけ。


【言葉によるモニュメント化】

これらの遺構は、近年、”戦争遺跡”という名前が付けられ、ある意味言葉で柵に囲まれてきている。これらの遺構には、明治の遺構も昭和の遺構もいれられているけど。
”戦争”とはいつのことか?
イメージはあっても、この言葉を日本の歴史に当てはめて使う場合、違和感が生じる。

Re-FortのFortとは要塞や砲台を意味する。砲台や要塞の作りは、古い時代の城などの流れを汲んでいるし、東京のお台場はそういった古い時代の城でもあり砲台でもある。
明治時代の砲台は、”戦争遺跡””負の遺産”と呼ばれるものもあれば、最近ドラマになった『坂の上の雲』の時代の遺構でもあって、”近代化遺産”という言葉でも語られる。これは、このころの日本は近代化を目指して…、といういいイメージの言葉でもある。
Re-Fort 5で花火を上げた山は古城山、昔の門司城あとでもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/門司城
あと、この場所は戦国時代15世紀には戦闘はあったが、近代要塞としてこの砲台自体の実戦はなかった。(幕末にはここの別の砲台での戦闘はあった)
ただ、日本で”戦争”という言葉は、太平洋戦争(大東亜戦争/先の大戦)の末期のイメージがすべてになっているのではないか。

ちなみに、下関の町の海岸のみもすそ公園には砲台のレプリカが設置されていて、みんなが記念撮影するスポットになっていて、100円を入れると、驚かない程度に「ドン!」と機会音がなる。この場所が幕末に実際に戦闘があった砲台をイメージして作られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みもすそ川公園

では、Re-Fort Project 5で、砲台から花火を上げた事、さらに、前日に実際に砲台をみにいく遠足をしたり、クイズ(内容は砲台の距離や土地の歴史について)を行ったり、明るい雰囲気でそれらを行って、ユースホステルに泊まって、ビールを飲んだり…。これらの土地の歴史は実際に勉強として、まじめな姿勢でのみ、行わなければいけないのだろうか。勉強会、歴史散歩として、砲台の歴史を勉強する企画し、それで人びとを集めないと、土地の歴史に触れる事は出来ないのだろうか。
もちろん、”戦争”という言葉に対して、とてもデリケートに扱って行かなければいけないのは分っているけど、「砲台で花見」や「砲台で花火」というイベントがただ”馬鹿騒ぎ”として扱われて、”不謹慎”として終わっていいのだろうか。
かつての砲台としての機能はなく、記憶が薄れて行く中、今の方法で砲台があった事を少しだけ視覚化したり、知るきっかけをつくることは”不謹慎”なのだろうか。
第2回目は砲台跡で花見やカラオケを行った。砲台の上はステージになった。では城跡で花見をするのは?


【どのように触れるか】

今、テレビで流れている地震の映像を横にしている。
僕や一人の人間が語れたり、想像できることは、たかがしれているし、話してはいけないこともある。逆に集団の中で、知らない間に巻き込まれていくこともある。
ただ、終わってしまった事を、ある一定の曖昧な共感/共有の中に置いてしまっていいのだろうか。Re-Fortも自分もその恐れはいつもある。失敗を露呈もしている。
知らずに行う/行ってしまうのは簡単だけど、知った上であえて行うのは本当に難しいと思う。なぜなら、どこまで知っても知りすぎるこということはないし、いろいろな方向からの意見はあるから。

とにかく、うーーん、今は。。。

とりあえず、
戦争に無関係の建物や風景へのアプローチもやりたい。風景のレイヤーの一つが戦争という時代/1945年だったけど、そうじゃないレイヤーも使ってみたい。
僕の最近の作業の「見えない風景」や「Sunday Creators」はそういう繋がりから生まれてきているし、いい作品なんだけど、インパクトは強くないし、地域系アートの風景/記憶系を跳ね返すだけのヌケはまだないかもだけど。

また、書ける事が見つかったら書きます。
長々と読んでくれてありがとう。
この日記は、非公開にしたまま、何度も何度も書き直しました。なので、3/13の日記ですが、4/2にアップします。


あと、このブロブの下のコメント欄は、自由に書いてください。Re-Fort Projectのコミュニケーションの記録の場になればとも思っています。(あまりに非常識なコメントは削除する場合もありますが)


では


下道基行

2011-03-13 15:01

Sunday Creators

2011年3月30日 20:45 下道 基行 */?>

お元気ですか?

大阪での企画展「絶滅危惧風景」無事/大好評にて終了しました。
皆さんありがとうございました。
僕は『Sunday Creators』と題して、西成/新世界で趣味で色々と創作している人びとを探し展示を行いました。これは、自分の祖父の絵を追ったシリーズ『Sunday Painter/日曜画家』を、プライベートではなく街という空間に置き換えたプロジェクトでしたが、本当に大阪のおじさんやおばさんのパワフルさに助けられました。
以下は、展示でハンドアウト用に書いた文章/エッセイです。
見てない方は是非。

昨日今日は、部屋の大片付け。散らかった資料やチラシやノートやメモをファイルにとじる。あぁ、やはり自分はファイリングが好きなんだと思う。二日目。。
あと、少し落ち込んでたから、去年今年とやってきた自分をメモやチラシやらで再確認して、過去の自分に負けてられんなと思ったりもするわけです。ビバファイリング。

では、文章をどうぞ↓

::::::::::::::::::::::::::::::::

●秋葉さん(98歳/男性)

 昼間っからアルコールの匂いをぷんぷんさせたおっちゃんを交わしながら、動物園前商店街を元赤線“飛田”方向に進んでいく。路上や垣根に泥酔のおっちゃんが倒れている光景や、通りすがりに意味不明の言葉を投げかけられたりするここのカオスっぷりにも、リサーチ数ヶ月で慣れてしまった。
入り組んだ小さな商店街の通りのひとつに秋葉さんちはある。木造二階建ての通りに面して掲げられた看板には薄らと『玉突き』という文字が見える。少しあけられた家のドアの中をのぞく。いつもの定位置で、秋葉さんはTVを爆音にしたままウトウトしている。98歳。
なかに入ると、今日書いたという8文字熟語(?)を見せてくれる。「萬感追憶 故郷之夢」「秋之食欲 大試食会」「岡山桃太 郎黍団子」…。日々目にしたり思いついたありとあらゆる言葉を8文字でチラシの裏に墨で書いている。

元ビリヤード場だった飴色になった板張りの床や家具。壁にはかつてきゅーを並べた棚もそのまま残っているが生活で覆い隠されている。
かつて、この街は労働者に溢れ、そして彼らの歓楽街として栄えた。この街自体は、その頃の活気をうっすらと残している。
「今度階段からおちたら、お父さん、ホンマおしまいやからねぇ」
と娘さんが言う。秋葉さんは数年前階段から落ちた。それ以来ビリヤード台の置かれていた一階フロアには、巨大なベッドが置かれるようになった。秋葉さんは、完全復活を遂げて、周囲を驚かせた。ベッドの周りや部屋の至る所に、アキバさんが書いた俳句や日記や絵が積み重なって山の様になっている。
秋葉さんに出会えたことは、この展示「Sunday Creators」の大きな転機となった。過ぎていく小さな日々の営みの蓄積やコラージュ、そして老いていくこと含め、秋葉さんのこの部屋はこの街そのもののようだと感じた。
「俳句は、小学4年の時に、先生が教えてくれたんや。そうやなぁ〜、4文字熟語は、満州におる時には、やっとったからねぇ。書かない日もあるけど、だいたい毎日今でも書いとる。」
話はよく満州の時代の話になる。工作員をしていた頃の遠い世界の長〜い話。この街をリサーチしていて、ふらりと寄ってしまうと、2、3時間帰れなくなってしまう。ただ、なんというか、時々「きみらはこんなことも知らんのんか?」的な挑発もされるので、負けじと話し返すが、こちらがトークのペースを握れたためしはない。というか、耳が遠いこともあって聞き返しても半分くらいはスルーされる。しゃべりや知識において、30歳程度の僕とスタッフ数人集まっても、98歳では歯が立たない。
気がつくと夜になっている。帰ろうと腰を上げると、娘さんがこっそり近所のうどんの出前を取ってくれている。
「ここのうどんやさん美味しいのに、主人が不器用やからかなぁ、お客さんあんまり入っとらへんで…」と娘さん。きつねうどん絶品。元ビリヤード場でテーブルを囲む。そのテーブルにも長い物語がある。食べながらも話すので、時々秋葉さんの口の中からうどんがピョコッと飛び出す。


●高木さん (70歳/男性)

その時代に生まれていたわけではないので知らないが、”飛田新地”の夜は江戸時代のようだ。実際は大正時代の街並なのだが、遠い昔の日本らしさを感じる。夜は妖艶。元遊郭、元赤線、アムステルダムでいうとレッドライト地区。高木さんちは、そんな飛田新地のはずれのマンション。
「高木さーん、制作の調子はどうですかぁ?」と、高木さんの部屋に通う僕とプロジェクトスタッフは、いつの間にか原稿を取りにきた雑誌の編集者のようになっていた。高木さんは、いつものように、こたつに座り、黙々とスーパー玉出のチラシでこよりを作っている。伝統工芸の職人さんのような鮮やかな手つきだが、もちろん趣味だ。街では”元大工さん” と言われているが、”元建設業”が正しい。
「商店街に今はブルーシートがはってあるとこ、昔あそこにお寿司屋さんがあったんや。ほんで食べに行ったら、5円か50円で出来た五重塔が置いてあって、「お客さんが作って持ってきてくれたんや。」言うんです。気になって、五重塔をABCと模型屋に色々見に行ったんです。そしたらキットで5万円とか、結構高こうに売ってましたわ。昔から手を動かすんが好きやから、船とか、模型なんか作っては子どもや誰かにやるんです。お金に余裕があったら五重塔も作ろうかなぁと思いましたけど、そんな余裕ないでしょ。(笑)
雑誌の五重塔の写真や四天王寺に行った時に写真撮ったりして。一番最初は爪楊枝で作ろうとしとったけど、爪楊枝じゃ折れてしまうんです。次に2番街の「餃子の王将」に食べに行ったとき、「割り箸置いといてくれぇ」言うたら、「なにするんや」って聞かれたけど、「なんでもええから置いといて!」言うて、洗って置いといてもらったんで作ったんです。それはそんとき住んどった三洋荘にあげたなぁ。ことぶき食堂のとこにもあったでしょ。
普通のちらしやと厚すぎてダメなんです。薄いんは玉出とJoshin電気のちらし。だから溜めとくんや。玉出はいろただけでもう分るんです。玉出のちらし、色も模様も、きれいでしょ。
今度、通天閣もつくりましょうか。
ほら、ここの窓から、通天閣みえるでしょ。夜チカチカ光ってんのが見えてきれいでしょ。」
高木さんの作品との出会いは、デイケアセンターのバザーで販売されていたチラシの五重塔をそこの職員の方に見せてもらった時だった。リサーチの帰り道、商店街の食堂の硝子ケースの中に食品サンプルと並んでディスプレーされた高木さんの五重塔を、ひとりが発見したときの感動っぷりはすごかった。店員さんに聞くとやはり高木さんはここの常連だった。その後、街のあちこちで五重塔は発見された。
「なぜ、高木さんはモノをつくるのですか?」と、NHK『プロフェッショナル』の茂木さんのように、聞いてみた。すると、「暇やからねぇ〜」と軽やかに返事が返ってきた。
時々、この街のおじさんたちの”超当たり前の言葉”に、僕は心を強く打ち抜かれる。


::::::::::::::::::::::

最後まで読んでくれてありがとう。
最近ゆっくり動き始めました。
やるぞーーーーー

なんだか、友人中崎もむくっと起き出したようです。
http://tohru51.exblog.jp/16100626/

2011-03-30 21:15

ポエムではない

2011年2月 8日 20:44 下道 基行 */?>

そういえば、
幼い頃、家の近所の山に恐竜の化石を求めて、穴を掘りにいった。
結局、できたのは大きな穴だけだった。

小学2年生の時に、はじめて、ひとりで、学区を越えた。
越境。ボーダーなんてなくて、いつの間にか隣の学区になっていた。そこで犬を拾った。

囲われた箱から出て行きたい。
でもそれは、別の世界へ逃げたいのではない。
違う世界と自分とを繋がりを見つけることなのかも。
この世界との向き合い方。

退屈でペラッペラに感じている目の前の風景を、ザクザク穴を掘る。
その穴を、落とし穴にして、人を落としてみたい。
忘れていたころに、自分が落ちて怪我する。

さて、作業、作業。

2011-02-08 14:23

2010年12月24日 23:53 下道 基行 */?>




[ 消える/残る Lose/Remain ]


2010.7.16 - 10.31






u_3.jpg

岡山市内の出石の民家を改装して作られた夏3ヶ月限定のゲストハウス”かじこ”。
このゲストハウスに寄生するように、いくつかの作品を滞在制作した。
その中の一つが『消える/残る』。
これは、大阪の下町でゲストハウスの住み込みの管理人をしていた経験「移り変わる街」の中で「残るものと消えて行くもの」をテーマに書いた1000文字程度のテキストの作品。

このテキストは、ゲストハウスの玄関に置かれ、去る人はこれを一枚手にする。
紙に印刷され三角形に織り込まれているために、これを手にした人はすぐに読まずにポケットやバッグに入れることになる。つまり、このテキストはゲストハウスから離れた別の場所で”時間差”で読むことになる。

フィルムカメラで旅行中に撮影した写真は、帰国後、現像プリントするまでもう一度出会いない。そして、時間を経て、もう一度出会う旅の風景はすでに誰かの書いた物語のようだったりする。
その場で手にするモノと、失った後に手にするモノ。そんな時差を作品内に作りたかった。

消える/残る0.jpg


【消える/残る】

ある年、夏限定のゲストハウスで住み込みの管理人をしていたことがあった。
そして、夏が終わり少し涼しくなってきた頃、ゲストハウスを閉じる為に、大掃除をすることになった。壁や柱には宴会の時の飾り や落書き、掲示板は近所のおすすめの店や面白い人情報、ノートにはたくさんの日記や感想…。数ヶ月間の滞在者たちの痕跡をひとつひとつ片付けていくたびに、ゲストハウスは徐々に夏の始まりの姿へと戻っていった。
このゲストハウスは、大阪の下町の街角に建つ元タバコ屋だった激渋の一軒家。建物だけでなく街自体も、昭和の時代からすべて時間を止めてしまったような貴重な場所である反面、治安が悪く街の高齢化で空き家が目立つようになっていた。このようなゲストハウスを一時期運営して、外からやってくる若い人達にこの街に入ってくるとや興味を持ってもらうのがこの宿のひとつのテーマだった。
部屋の片付けもほぼ終わり、ひとりぽつんと引っ越し作業をはじめたその時、ガシャンガシャン…、土間のシャッターを外から動かしている音した。驚いて外に出ると、かつてここでタバコ屋をやっていたおばあちゃんがそこに立っていた。
「おにいちゃんかぁ、まだここに暮らしてくれてるんやなぁ…。ありがとねぇ…」
タバコ屋をやめて数年、今は少し離れたところに娘さんと元気に暮らしているらしいが、たまにこの家が気になってやってくるのだ。
「2 階で寝てはるの?あそこ床の間もあるから良いやろう…、この家の木材は私の親の山から持ってきた良い木やから、丈夫でしょう」
おばあちゃんは愛着のあるまなざしで家を眺めながら話す。僕は、この宿でおこったこの数ヶ月のこと、今日でココを出て行くことを話した。おばあちゃんは、話が分っているのかほんやりとそれを聞きながら、お礼を言い深々とお辞儀をして、家の方へ帰っていった。
おばあちゃんのタバコ屋だったこの家には、今でも店舗スペースだった土間や、柱に貼られた神社のお守りとか、壁に残ったキズや、生活の痕跡がたくさん残されている。そんなザラザラした家のノイズを、僕は気に入っていたし、ある程度そのままにして過ごした。
そして今、僕がここに来て数ヶ月で、たくさんの人と過ごし残していった痕跡が、おばあちゃんの残した空間内でコラボしている。
この町自体にもそんないろんな生活のノイズに溢れている。宿泊客がこの町の良さとして「昭和っぽい」「懐かしい感じがする」と言っていたが、それはただのレトロとかノスタルジーではなくて、おそらくこの町の風景のなかに残っているざらついた生活感や人と人との繋がりの風景、そして窓から入ってくるおばちゃんや子どもの会話や音…、そんなノイズなのではないかと思う。それは逆に言うと、日本の色々な場所でそんなノイズは消えていって、フラットで生活感のない風景が広がっているということなのだろう。
この町が持っている生活感はここが工場地帯の住宅地として誕生した経緯のなかでゆっくりと育ち、それを残しながらも今、ゆっくりとその機能を終えようとしているように感じる。近所の駅の裏の停滞し澱んだ運河は埋め立てられ新しい道路や公園に変わろうとしているし、新しいビル建設も川向こうまで迫ってきている。この町もそう遠くない未来に新しく生まれ変わっていくのだろう。それは仕方のないことなのかもしれない。ただ自分も含め今回この場所に少しだけやって来た人は、この街の何かに気がつき、それが失われていくことは残念に思ってしまうだろう。
”外からの人 ”が地元の人が気がつかずに壊してしまうモノに気がつくことは多い。例えば、外国人観光客が見つける日本らしさとかも面白いし、たぶん今回あなたがこの街で見て気になったものに地元の人は気がついていないかもしれない。ちなみに、僕は岡山出身なのに、この ”かじこ ”に泊まってこの地域をじっくり見たことで、改めて岡山の街の美しさを感じることができた。それは岡山を離れて長くなり外からやってきた感覚だったからかもしれない。あと、外からの人が集う ”宿 ”は、ただ寝る場所にしてしまうこともできるし、外から移動してくる人たちが交わり何かを落として拾っていく場所としても使うことができる。それは、宿と来客者の意識しだいだろう。

日が傾きはじめていた。片付けの手を止めてぼけっとしていると、町の路上花壇からはキンモクセイの香りがしていた。
窓から豆腐屋のカランカランという音が聞こえてきた…、やばい、はやく片して出て行かねば、起き上がって引っ越し作業をはじめた。
すっかり片付いた部屋の中で、夏のはじまりとは明らかに変わった自分がいた。

下道基行

2010年12月24日 20:34 下道 基行 */?>



[ 見えない風景/Walk with your eyes ]


「見えない風景」は2010年に大阪で制作し、その後日本各地で行なっているワークショップ/遊び。
路上観察と散歩とスナップを混ぜたような、でも”カメラ”を使わない写真的体験。
言葉の地図を各参加者は制作し、最後にみんなで交換して散歩と、視覚の交換がそこで生まれてくる。






『見えない風景』の遊び方
2017(2010-)

How to play ”Walk with your eyes”
2017(2010-)

映像製作:studio ICE



ー山口/山口編ーYCAM 2014.8/130


ー大阪/野田編ー
国立国際美術館
2010.10/23 - 10/24


ー山形/芸工大編ー
東北芸工大学校内
2012.5/11 - 5/21
2013.5/24 - 6/3
2014.5/19 - 5/26
2015.


ー新潟/沼垂編ー
水と土の芸術祭2012
2012.9/22 - 23


ー広島/皆実編ー
広島市現代美術館
2013.2/16


ー愛知/岡崎編ー
あいちトリエンーレ2013
2013


ー山口/山口編ー
YCAM
2014.8/130


ー千葉/佐倉編ー
佐倉市美術館
2015.3/8


ー兵庫/芦屋編ー
芦屋市美術館
2015


ー愛知/名港編ー
港まちポットラックビル周辺
2016


ー神奈川/葉山編ー
神奈川県立近代美術館葉山館
2016


ー東京/清澄白河編ー
東京都現代美術館周辺
2017


ー香川/丸亀編ー
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館周辺
2017


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見えない風景ー大阪/野田編ー
国立国際美術館
2010.10.23 - 10.24


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開催場所の国立国際美術館にやってきた参加者は、入り口で一枚の紙を手渡される。

”左手に竹の植木ピアノ教室→→→右手に小さな空地、奥の壁にオレンジの花→→→アニメのポスターが貼られたタバコ屋だった建物を左折→→→仲良しリス&キツネ→→→……”
それは、ある公園までの”言葉の地図”。
参加者は、美術館から外へ、大阪の福島区野田の下町の迷路の様な路地を”言葉の地図”片手に彷徨い、【目的地】と書かれた公園にたどり着く。どこにでもある様なその公園には、主催者の下道基行が既に待っている。

「こんにちは。私の”言葉の地図”はいかがでしたか?
今日は、みなさんに、この街で”言葉の地図”を作って頂きたいと思います。
みなさんの視点で街の些細なランドマークを見つけ、それを繋いで、あなたの”言葉の地図”を作ってください。」

人によって街の見え方は違うはずだ。街には無名のランドマークが溢れている。特にこの街は生活臭というか未消毒というかノイズがとにかくすごい。パワフルだ。

参加者は、各自散歩をしながら、明日には消えてなくなりそうな些細なランドマークを拾い集めて、”言葉の地図”が作っていく。さらに出来上がった地図を交換すると、他の人の視点の街を旅することができた。


発端は、大阪のある古いビルが壊されたという何気ない会話からはじまった。
写真を使わず、激しく変化する街の今日をスナップのように知覚する2日だけのプロジェクト。


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photo:SAEKI Shinryo
Design:Hashizume So

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水と土の芸術祭2012 2012.9/22 - 23

新潟では、新潟市立中央図書館がワークショップのスタート地点。 そこで、ワークショップのチラシのデザインから少し考えて、A4二つ折りに。 ワークショップ終了後には、参加者の作った言葉の地図や写真やアーカイブを、チラシを表紙にして製本、さらに中央図書館に収蔵してもらうことにしました。これでこのワークショップは保存されさらにこの本を借りれば図書館から体験することも可能に。
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↓ ↓ ↓

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中学生が書いた言葉の地図で散歩。

僕らが旅に出る理由

2010年10月10日 20:36 下道 基行 */?>

最近、大阪から部屋に戻ると、部屋が何かくさい。
クンクンすると、排水溝の匂いみたい。
ただ、少しの時間部屋にいると、すぐに臭くなくなってくる。
なんか人間ってすごいなぁ、と思いながらも、少し外に出てまた帰ってくると。
また、「くさっ!」て、なる。

これって旅に出る理由っぽいなぁと思った。
やっぱり、旅は非日常を求めているんだけど、逆に旅や移動のいいところは、帰ってきたときに日常が少し当たり前じゃなく新鮮に見えるとこにもあるんだろうな。
だから、部屋作業で煮詰まって、少し散歩にでるもの同じ。あと、移動ってのもいいよね。
旅先で何かに出会うってのもあるんだけ、いつも成田空港とかに帰ってきて、電車で東京へ向かうときって、「あぁ日本ってきれいだなぁ」って思うんだよね。

昨日はそんな話もしました。


あと、先日友人と盛り上がったのは、
アーティストに、移動費を免除したり安くしたら、面白いねって話。
新幹線、高速道路、飛行機など。アーティストが楽にいろいろと動き回れたら面白そうだよね。
どうでしょう。文化庁長官。(今度TWSに来るらしい)


2010-10-10 11:43

2010年10月 5日 12:46 下道 基行 */?>



[ Re-Fort PROJECT ]


2004 - ongoing


①reseaching fort remains that were abandoned after 1945.
②discussing new uses for the remains (considering new functions).
③actually using them with various people.
④returning the remains to their former state.




①戦後放置された砲台の廃墟を探す
②新しい使い方を話し合う(新しい機能の与え方)
③実際にいろいろな人と使ってみる
④元あった状況へ戻す


モニュメントにして公園にするのが過去を残し知る方法なのだろうか?
どのように過去と出会い触れて考えることができるか?
残されたモノたちを実際に見に行ってみる導線を作ってみたらどうだろうか?
過去(戦争という過去)の知り方/学び方が画一化/パッケージ化しているのではないか?
そんなコトを考えて、2004年このプロジェクトを始めた。
毎回いろいろな人とコラボしながら不定期で行なっているプロジェクト。


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[Re-Fort PROJECT 7]
海を眺める方法Ⅱ
How to look over the seaⅡ

2015.7.30
北海道トーチカ
Bunkers in Hokkaido

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Bunker→Camera obscura
トーチカ→カメラオブスクラ。
敵が上陸してくるかもしれなかった海を眺め続けるトーチカ。入り口を塞ぎ、銃眼にピンヒールをあける。トーチカの中には海の風景が反転して映し出され、それを真っ暗な中でスケッチした。


カメラ・オブスキュラ(camera obscura)

ラテン語で〈暗い部屋〉の意味。正しい読みは〈カメラ・オブスクラ〉。暗い部屋で,小さな穴を通して壁に外の景色が映し出されるという光学的原理はよく知られている。紀元前に中国の墨子やギリシアのアリストテレス(※1)によって知られていたといわれ,11世紀のイブン・アルハイサムの研究報告やレオナルド・ダ・ビンチの非公開のメモなどにも,その光学的考察の記述が見られる(※2)。はじめは字義どおり,暗い部屋の中で日食の観察や絵の下描きのために用いられたが,16世紀ころになるとピンホールの代りに凸レンズが装着され,17世紀に入ると現在のカメラの原型といえる暗箱型のカメラ・オブスキュラが完全な遠近法による絵を描くための“道具”として普及する。

『世界大百科事典 第2版』より


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[Re-Fort PROJECT 6]
海を眺める方法
How to look over the sea

2014.
竜飛崎海軍望楼跡/画家:多田友充
Tappisaki Navy Lookover/painter: Tomomitsu Tada
東京湾要塞劔崎砲台跡/画家:秋山幸
Tokyo Bay Fortress Tsurugizaki Fort/painter:Miyuki Akiyama

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明治時代にこの海の要所を敵の船から守る為に、見晴らしの良い小高い山の頂上には沢山の砲台が作られた。今では、金属製の砲台やコンクリート製の海軍望楼などは残されていなく、大地にただ残された円形の跡が残っているのみだ。今回はその跡の上から画家に海の絵を描いてもらう事にした。



その先の眺め


皆既日食で薄暗くなった白昼の空に花火を打ち上げ、その風景を眺め、響き渡る音に聴き入ったのは2009年の夏だった。花火は北九州市和布刈(めかり)公園の高台にある砲台跡地から打ち上げられ、我々は関門海峡を挟んだ下関側の戦争遺構跡がある火の山公園の展望台で、ビデオカメラを手にその様子を眺めていた。震災が起こる以前だったが、少し不吉な暗さをもつ空に美しい花火が散る様を眺めるのは、かつてあった、そしてこれからも世界のどこかで起こるかもしれない戦争について想いを巡らせ、日常生活が何らかの要因で突然途絶えてしまう可能性があることを意識するには充分な経験だった。下道基行を中心に僕も含め5人のメンバーが主催した《Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる》の概要を書き出すとこんなところだろう。あれから既に5年が経過していた。

戦後放置された軍事施設の廃墟を探し出し、その新しい使い方を話し合い考え、そして実際になんらかの方法で使ってみて、また何事もなかったように元の状態に戻す、というのがRe-Fortの一連の流れだ。

日本の海岸線には、戦争のためにつくられた建築が役目を終え、姿を変えつつもまだ多数残存している。これらの建築の多くは実際に戦闘で使用されたことはほとんどなく、外敵の侵入を防ぐための監視の場、あるいは抑止力として機能していた。外敵を見張るために遠くまで眺められる必要がある軍事施設は、常に見晴らしのよい場所に設置された。この戦争建築がそもそも本質的に備える特性に着目したのが、《Re-Fort PROJECT 6─海を眺める方法》だ。兵士に替わって画家が、武器を絵筆に持ち替え、海を眺めその先にみえる風景を描く。絵画は風景を記録する方法として重要なメディアである。
この作品では、鋭い観察眼を持って風景を眺め独自に解釈して出力する専門家としての画家が風景を描く様子を、さらにその後ろから私たち鑑賞者が眺める構造となっている。兵士たちは海の先に存在するかもしれない外敵を必死に探していたのだろうか。あるいはその美しい風景にときに目を奪われていたのだろうか。眺めるための場所で、その当時とは異なった目的で異なった方法で眺めている画家の背後では、ほんの少しかつて様子を想像することができるかもしれない。遠くを眺めるための望遠鏡も戦争のために発展し利用されたのではと想像してみたり、女子中高生が着るセーラー服が元々水兵の服であったことが思い出されたりすると、意外と私たちの生活と遠くない地点に、戦争は常にあるということが見えてくるだろう。
戦争をきっかけに、眺めるという行為の本質的な可能性を問う本作を前にし、私たちはその先に如何なる未来を描出することができるだろうか。

服部浩之(キュレーター)




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[Re-Fort PROJECT 5]
-When Sun is hidden, we hold fireworks.-
ー太陽が隠れるとき、僕らの花火が打上る。ー

2009.7.22
下関要塞/Shimonoseki Fort

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There were fort on top of that mountain and abandoned after 1945. This fort, made in Meiji era, to prevent an enemy ship clearing the straits. Set off fireworks in the daytime on the day of solar eclipse from the circle fort remained on the top of the mountain. People who gather through an announcement watched the fireworks across from the straits.
関門海峡、明治時代にこの海の要所を敵の船から守る為に、見晴らしの良い小高い山の頂上には沢山の砲台が作られた。日食になった2009年7月22日、円形の台座だけを残す砲台の廃墟から、地元の花火師さんにお願いをして花火を打ち上げてもらった。告知で集まった観客たちは対岸やいろいろな場所からそれを眺めた。


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[Re-Fort PROJECT 4]
-大人たちのSeven days war-
-Our Seven days war-

2007.8.5-8.13
旧陸軍富津試験場跡/Futtu testing ground

Stayed at the ex-proving ground for cannons on the beach for one week. we worked with architects and musicians to made up the event.
千葉県の海岸に残る砲台の試験場跡で着弾を観測していた廃墟。若き建築家とともに、一週間で廃墟をリノベーションし生活をした。最後の土曜日にイベントを行なった。


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[Re-Fort PROJECT 3]
-東京湾要塞島缶けり大会-
- Kick the can on the fort island on Tokyo Bay-

2006.6.18
第二海堡/No,2 Fort / Chiba prefecture

東京湾にうかぶ人工の要塞島の廃墟。ここは釣り人の聖地だった。ただ地震が起きると沈む心配があり立ち入り禁止が決定した。僕らは釣り船に乗り、缶けりをしにこの島へ向かった。


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[Re-Fort PROJECT 2]
-竹橋フォークジャンボリー2005-
-Takebashi Folk Jamboree2005-

2005.4..11
千鳥ヶ淵高射砲台跡/Chidorigafuchi Anti-aircraft gun / Tokyo

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花見シーズンの北の丸公園の砲台跡をブルーシートで場所取り(スクワット)して、ヒッピー風仮装で集まった。砲台の台座は歌を歌う台にした。僕らは戦争もフォークも知らない。


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exhibition[六本木クロッシング2013]

森美術館 Mori Art Museum
2013


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exhibition[Re-Fort Archive]

αM Gallery
2011.Mar


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インタビュー掲載

2010年9月29日 00:58 下道 基行 */?>
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『じぶんを切りひらくアート』
違和感がかたちになると

8月26日発売!

石川直樹、下道基行、いちむらみさこ、遠藤一郎、志賀理江子、山川冬樹、高嶺格、三田村光土里 著/高橋瑞木+フィルムアート社
編/菊地敦己 デザイン/四六判/264頁/2,000円+税/ISBN 978-4-8459-1049-6
8月26日発売!

マイクロポップ、芸術起業論以降、アーティストたちが目指す “切実さのかたち”と“場”
アートが絵画や彫刻といったモノをつくり出すことだけではなく、ひとの思考そのものを具現化する行為であることが自明である今日、造形技術に長けていたり、美術館で作品を展示するひとだけがアーティストと呼ばれるわけではありません。
本書で登場する8人のアーティストは、閉塞した制度、あるいは慣習に違和感を抱きながら、自ら表現の「場」を開拓し続けてきました。ポスト・バブルの文化的に豊かだった90~00年代とは違って、今の時代にアートをはじめとしたカルチャーの担い手として生きていくには、それなりの覚悟が必要なのです。
---
彼/彼女たちに共通して言えるのは、自分の内部に耽溺せずに、外部との接触や摩擦を引き受け、自分の可能性を試し、既成の枠にとらわれない、世界との新しい結節点(ノード)を具現化しようと試みているところです。だから、アートは自分からはじまる。自らの責任において、既成の枠にとらわれない自由を求める意思があること、そしてそれを行動に移す勇気があること。そして、そうした彼らの生き方や考え方は、閉塞感に満ちた時代に生きるわたしたちに勇気を与えてくれるのではないでしょうか。──高橋瑞木(編者まえがきより)
---

■「みんな自分の生活が不安だし、まずそこから。
切実な部分を正直に出せるのもアーティストだと思う」
──いちむらみさこ
■「僕らがモノをつくらなくても、地球は回ってる。
だけど、それらすべてが尊い光だってことを受け入れなくちゃいけない」
──遠藤一郎
■「生き方を含めたアウトプットをどうするか。
アーティストとしてやっていく、ということは、そういうことなのかもしれない 」
──下道基行
■「どんな状況でも、その環境の中で自分にとって愛しいと思える点を見つけていくことが、
何かをつくるうえでは大切なことだと思います」
──三田村光土里
■「僕は単に記録っていうより、
記録を突っ切って主体性とか主観とかを排除して、世界の方にゆだねていきたい」
──石川直樹
■「イメージへの強い愛があって。
どうしようもない写真との関係、絶対に切れない関係」
──志賀理江子
■「僕の夢はふつうの「歌手」になること。
そのちっぽけなゴールへ至るために、遠回りの旅をしているんだと思う」
──山川冬樹
■「人間の底が知りたいんです。
ボトムを。すべての人に向けて表現したいんです。
大多数に向けてではなく、少数派だけにでもなく」
──高嶺格

展示予定

2010年6月 1日 12:15 下道 基行 */?>


7月    
個展『(予定)』kajico(岡山)
三宅航太郎、蛇谷りえ、小森真樹などで、今年の7月、古い民家を改装した期間限定のゲストハウスをおこなうそうだ。ただ、泊まるだけではなく、何かが起こる場としての宿らしい。そこで展示します。
瀬戸内国際芸術祭へ行かれる方は是非!
http://kajicomemo.exblog.jp/

8月14日〜9月27日
個展『日曜画家/Sunday Painter』水戸芸術館(茨城)
ついに『日曜画家/Sunday Painter』完結! 個展です! 

10月
『(予定)』倉敷市立美術館(岡山)      
『(予定)』岡山県立美術館(岡山)

去年の今日の日記

2010年4月20日 00:04 下道 基行 */?>

成田空港から朝一に出る便に乗る為に、東京と空港の中間あたりに住む友人の家に泊めてもらった。
ちょうどその日、彼の奥さんは妊娠中で体調が優れないと2階で休んでいた。
旅行自体は、ある尊敬する人のクロアチア取材にカメラマンとして同行するという仕事だった。
夜、友人が、大学の頃からの親友でさらに久しぶりということもあって、案の定深夜まで呑んでしまった。
2階に奥さんの様子を見に行っていた友人が階段を転がるように降りて来て「もしかするともうすぐ生まれるかもしれない…」と酔いがふっとんだ顔で言った。妊娠中の彼の奥さんの陣痛が突然はじまったらしい。僕はのんきに「めでたいね」とコップに酒をつぎ乾杯をしようとしたが、彼はそれどころでもない様子で(当たり前だ…)、完全に落ち着きを失っていた。友人と僕は徹夜を覚悟した。1時間くらいたって奥さんが2階から大きなおなかを抱えて降りて来て「なんかまだ大丈夫そうだから、少し眠って」と言った。仕事のこともあったので、彼がそわそわしている横で少し仮眠をとった。
どのくらい寝ていたのか、彼が慌ただしく動いているので目が覚めた。「今破水した…」。時計を見ると僕ももうでないと行けない時刻になっている。3人で車にとびのった。

車内は今にも生まれそうな雰囲気の奥さんと彼の緊張感が充満していた。ただ窓の外は春の朝の千葉ののどかな田園風景が流れて、僕はと言うと、車に揺られながらボケボケとして頭と身体で、幸せがはじまるような温かさを感じて、なぜか少しうるっときていた。

結局、病院の近所の駅で降りた。そこは空港からは遠かった。空港の待ち合わせ場所に予定時間を20分遅れ、汗だくになって走った。目はうつろで、口からは酒の匂いを漂わせ、「友人の奥さんが朝破水して…車で病院へ…」と明らかに嘘っぽい言い訳をする…、なんと胡散臭く不安なカメラマンを雇ったものだと思ったろう…。

日本からの飛行機は、もちろん何もなかったように普通に離陸した。病院に駆け込む彼らを想像した、友人の息子が無事生まれたかが気になったが、今日から2週間パソコンも携帯も持っていないので知ることはできそうになかった。
ウィーンを経由してクロアチアの首都ザグレブでトランジット3時間、イトウさんは今飛行機の中で読んでいた本について話した。「愛」や「自由」や「平等」って言葉を日本人は本当に理解できるのか…日本語に訳された時のズレや、そのような話だったと思う。そして僕はそれらの言葉を「美術」という言葉に置き変えながら聞いた。ザグレブから乗った小型の飛行機はドゥブロヴニク郊外の空港に夜22時に到着した。
小さな空港で、飛行機から直接滑走路を歩いてゲートに向かう。夜の匂いがした。そして湿気を含んだ風に少し爽やかな花の匂いが混じっているように感じた。

空港から出ると、最終便だったのか、何もない空港側には何台かタクシーが止まっているだけだった。ぼくらはそれらのひとつに乗り込んだ。今回の取材は、ある雑誌の記事の為にここドゥブロヴニクでカメラマンとして同行するというものだったが、取材終了後、足を伸ばしてボスニアまで行くことになっていた。何と出会うかは決めていない。
車内にはカセットテープでマンドリンの軽やかなメロディーが流れている。
「これはイタリアの音楽ですか?」ときくと
「いや、この辺の音楽だ。イタリアは対岸だからね。良く似てるんだよ」と運転手のオヤジは、観光慣れしているのか、聞き取りやすい英語で言った。
タクシーは一山越え、海岸の斜面をうねりながら走る。
「きみたち、どこに行くんだ?」
「クロアチアはドゥブロヴニクに1週間、そのあとボスニアのモスタルとサラエボに行こうと思っています」
「モスタルもサラエボもきれいな町だ。本当にとてもいい所だ」
そういうと、少し沈黙が流れた。
「でも、ここの町その町もね、戦争で破壊されたんだ。今から行くドゥブロヴニクも本当にひどかった…。美しい町だったのに…。たぶん、君たちは、この旅の中で、何度も『なぜ?』『なぜ?』…、って疑問を持つだろうよ。」
オヤジは静かにそういった。

「アドリア海の真珠」と呼ばれるドゥブロヴニクは、十数年前、セルビア人の爆撃によって破壊された。この内戦でたくさんの人が死んだ。ただ、ドブログニクの人々は、戦後、全力で街を戦前の姿に戻すため奮闘し、今はもう戦争の傷痕を見ることすらないまでになっているらしい。本で読んだ。

「あぁ、この橋渡ってまっすぐ行くとすぐにボスニアの町があって、そこも本当にいい所なんだよ。時間があったら行ってみたらいいよ」
やけに隣の国の事を懐かしそうにほめるオヤジ。
「あ~、そうかぁ…、隣の国のことほめまくってるけど、内戦が終わるまでは同じユーゴスラビアって国だったんだもんなぁ…」
とオヤジに分らないように、ひとりが日本語でつぶやいた。

タクシー運転手はもう陽気な顔で家族の話をはじめている。
英語の会話は、聞く意識を働かさなければ、言葉としての認識が薄れ、カセットテープの異国の音楽や車のエンジン音と同様に、すぐに環境音のようになる。
窓の外を、小さな港町がいくつも通り過ぎていく。
海も辺りもは既に闇に包まれ、山と海に挟まれた港町は、天の川のようにうねりながら眼下で煌めいている。そのひとつひとつの明かりが、ひとつひとつの人の生活なのだとふと思った。


(未発表「クロアチア日記」1日目より)


ちなみに、このドゥブロヴニクって街は、「紅の豚」のモデルのひとつ。
そういえば、トールと作ったこの千葉の友人の結婚式ムービーのラストもこの映画の加藤登紀子の曲だったね。偶然。


旅中には知らなかったんだけど、
友人夫婦の元気な男の子は、この日無事生まれた。
だから今日は誕生日ということ。
カイジ。
1歳のお誕生日おめでとう。

2010-04-20 00:04

2010年2月23日 22:33 下道 基行 */?>


[ RIDER HOUSE ]


2005


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RIDER HOUSE
ライダーハウス/北海道オリジナルの旅小屋
写真・文/下道基行
2005年[spectator]掲載


あれは2004年の春、過去に本誌で連載していた「戦争の遺構」の撮影のために北海道を1人バイクで旅している途中の出来事だった。
「相席いいですか?」
阿寒湖から少し行った国道沿いにあるそば屋で食事をしていると、30代前半の男性に声をかけられた。
バイクのヘルメットを片手に少し日に焼けた顔の彼は、何年間か勤めた会社を辞め、趣味のルアーフィッシングを楽しみながら、2ヶ月以上も1人で旅をしているのだという。
バイクの旅の道中は1人で過ごす時間が圧倒的に長く、そのため食事や宿泊も1人で済ませることが多くなる。そんな孤独な旅人どうしが偶然どこかで出会うと、お互いの近況や旅の情報を交換し合うことになる。久しぶりに話をする相手も見つけた歓びからか、彼は過去に釣り上げた自慢の魚の写真をテーブルいっぱいに広げ、過去に自分が体験した旅のエピソードについて楽しそうに話した。僕は、同じ北海道のなかで、全く違う目的を持って旅する彼の話に興味を持ち聞き入った。
やがて、旅先の宿についての話題がおよぶと、長旅を続けていくうえで便利な施設のひとつとして北海道特有の「ライダーハウス」について説明をしてくれた。
ライダーハウスとは、文字通り「バイク乗りのための家」のこと。北海道を旅したことのある人なら、ライダー歓迎などと書かれた看板や奇妙なかたちの小屋を見たことがあるかもしれない。しかし、その実体を知る人は少ないのではないか。
ちなみに僕も、初めて北海道を訪れた前回の旅で、道路沿いに建つ何軒かのライダーハウスを目にしたことはあったが、宿泊した経験は一度もない。バイクを「機動力があり安価な足」としてしか考えていない僕にとって、お世辞にも綺麗とは言えない外観で、敷居の高さを感じるライダーハウスに宿泊することは少々勇気のいることで、なんとなく通り過ぎていたのだ。
北海道をバイクで旅しているにも関わらず僕がライダーハウスを利用したことがないことに彼はとても驚き、その役割やシステムについて熱っぽく話し始めた。
ライダーハウスは、バイク乗りだけではなく、徒歩や自転車で旅を続けている人も利用することができる「旅人のための簡易宿泊施設」の呼び名である。無料もしくは無料に近い金額で宿泊できることから、長期に渡って北海道を旅してまわりたいと考えている旅行者からは重宝がられ、その数は北海道内だけで100軒を超えるという。
食事の会計を済ませると、彼は今連泊をしているというライダーハウスを僕のマップに印を付けてくれた。僕は彼がいることの安心感もあって、その夜ライダーハウスを訪ねてみることにした。

●遭遇・初体験
屈斜路湖畔に建つ「みどりや」は、おみやげもの屋の一階部分を改装したライダーハウスだった。
半分まで閉じられたシャッターをくぐると、かつて店舗として利用されていた室内は、すべてが取り払われた土間の上に20畳ほどの床がベニヤ板で底上げされる。部屋の中には、緑色のマットとテーブルそして裸電球以外は何もなく、隅にそば屋で出会った彼のであろう寝袋が一式だけ広げられていた。
2階に住む管理人(※1)のおばちゃんに宿泊料の700円を手渡すと、共同のキッチンや近くにある温泉の話など、一通りの施設の説明を受けた。無料も多いという話を聞いていたので、一泊700円と言う値段が高く感じられた。
しかし実際に泊まってみると、徒歩数分の場所にある湖畔にせり出すように作られた無料混浴天然露天温泉は大自然を体感できる絶対に旅館の風呂が勝てるような代物ではなかったし、上に住む管理人のおばちゃんは「作りすぎたから」なんて夕飯や朝飯を持ってきてくれる。
「ライダーハウスは、地元の人の厚意で運営されていることが多い。数百円取るところもあるがそれは電気水道代などの設備・運営費として最低限のモノだ」と、そば屋で出会った彼が夜話してくれた。

ここがとても安価な旅人宿だということは分かったが、「本当に厚意だけなのか?」「なぜ無料で運営できてるのか?」「なぜ北海道で誕生し根付き、どのような歴史を辿ってきたのか?」など詳しい知識を、彼は具体的に持ち合わせていなかった。
僕はこの日本の北端の町で出会ったこの小さな旅文化について、利用しながらもっと深く探ってみたいって思った。

●「カニからハチへ」(ライダーハウスの起源とは?)
国内旅行は1970年代に、大きく変化する。その発端は、国鉄によって行われた「DISCOVER JAPAN(日本再発見)」キャンペーン(※2)だ。背景には大阪万博(70年)や高度経済成長により、マイカーの普及や国内航空路線の充実によって旅行客を奪われた国鉄の集客の思惑があった。さらに、創刊からのファッション要素に加え旅の要素を大きく取り入れた、雑誌「アンアン」「ノンノ」などの影響も大きく、若者達の国内旅行ブームが社会現象となった。その中、若者達が電車でバックパックを下げ横歩きしている姿は、北海道を中心に「カニ族」などと呼ばれた。(※3)
1980年代に入ると、今度はバイクブームが始まる。1978年に世界の耐久レースシリーズを意識して「第1回鈴鹿8時間耐久レース」が開催され、国内のバイクレースも飛躍的に発展し、バイク産業の激しい競い合いは「HY(ホンダ・ヤマハ)戦争」とまで言われた。さらに、バイクレースを扱った漫画「バリバリ伝説(※4)」(83年)や映画「汚れた英雄(※5)」(82年)など多くのメディアも取り上げ、ブームはさらに加速した。
しかし 、 80年代のバイクブームは都市部での暴走族の最盛期として大きく取り上げられる傍ら、国内旅行文化として70年代と比べ語られることは少なく、「ライダーハウス」についての文献もほとんど皆無に近い。

ライダーハウスの成り立ちとして、 北海道で旅する者の間で語り継がれるエピソードがある。それは 「かつて、雨に降られた旅人が困っているのを見た地元の人が、家の納屋を貸したのが始まり」という話だ。
実際に、 道内でも老舗のライダーハウス「白鳥の宿」(室蘭)は、80年代前半に駅の軒下などに寝袋だけで寝ていた旅人が多くて商店街の青年部が町の空き物件を改装し旅人に開放したらしく、 バイクブーム当時に誕生したライダーハウスの多くは、若い貧乏旅行者への厚意からは始まっていたのだ確かなようだ。この時代、北海道へはかなりのライダーがツーリングに訪れ、ライダーハウスが誕生し口コミで次々と増えていった。以前までの「カニ族」が形を変え、北海道を襲来したライダーたちはブンブンというエンジン音から地元の人に「みつばち族」「ハチ族」などと呼ばれ、現在でも「みつばち村」「ハチの家」などライダーハウスの名前にその名残を見ることができる。その頃のライダーハウスは「雨風が防げる小屋」といった極シンプルなものだったようだ。


●「電車の宿」(ライダーハウスの種類 )
苫小牧から少し東南へ行った門別からさらに内陸へ30キロほど山道を登ると、振内という集落にたどり着く。見過ごしてしまいそうなこの小さな町に、僕のお気に入りのライダーハウス「すずらん号」がある。
1987年の国鉄民営化にともない、この町で生活の足として利用されていた富内線は全国の他の赤字路線同様に廃止された。奇しくもその時期はちょうどバイクブームと重なり、駅舎の跡地はこの町を鉄道が走っていた記念にと鉄道記念館が建てられ、さらに国からいただいた2台客車は、そのままプラットホーム跡に横付けされライダーハウスへと転用された。
ライダーハウスとなった客車内部は、網棚やトイレや天井の扇風機などは元の機能のままで利用しながら、椅子は大半が取り外されフラットな自由空間に作り替えるなど、想像以上に仕組みが面白く、使い勝手も良い。料金は580円で有料だがシャワーがあるのもうれしい。 ハイシーズンの雨の日には、床一面に寝袋がしかれ泊まるスペースが無いくらいの人気だ。

僕が実際に訪れたことのあるライダーハウスの数は30軒程度、おそらく総数となると100軒を超えるだろう。
現在ライダーハウスと名の付く仮設泊施設の料金は0円〜1000円とばらつきがあるが、これは各ライダーハウスの運営のスタイルの違いからである。
例えば「元祖ライダーハウス」とも言える、商店街の空きテナントを利用したものや、空いた土地に町が小屋を建てたものは、無料または光熱費や施設費として数百円程度を払う非営利的なタイプだ。他には、定食屋で食事したり買い物をしたら店舗の2階に泊まって良いタイプや、バイクや旅好きのオーナーがやっている民宿に近いタイプなど、運営者の多少の利益も関係している半営利タイプも多く。さらにはライダーハウスの看板を掲げつつ運営者が厚意のふりをして飲食をさせ、お金を請求するという話しも旅人から聞いた。
運営のスタイルは多様化し、暖房やシャワーなどの設備も充実した場所も増え、単に「親切心で運営されている質素な小屋」だけでもないようだ。

● 「沈没者の発生」(ライダーハウスの問題点)
「うちでは平成元年にサイクリングロードの休憩所としてはじめて以来、管理は地元の老人の方に任せていまして、いろいろと交流がありました。宿泊者ノートにもたくさんの思い出が描き込まれていて、管理人との交流を求めてくるリピーターさんもいたようです。昨年閉鎖になってしまったのは単純に町として維持していくのが難しくなったためです。本当にライダーさんには大切に利用されていたのですが・・・」( 「富野休憩所」※去年閉鎖)
取材を続けるなかで、「自分たちの土地で、いい思い出をつくってもらいたい」という住民の気持ちがライダーハウスを支えることを直に感じた。しかし、90年代以降のライダー数の減少と近年の不況を理由に、閉鎖するライダーハウスは少なくない。
ライダーハウス内に置かれた宿泊ノートの旅人達のコメントを見ると、旅の思い出や落書きの他に「管理をされている方、ご苦労さまです。一泊させていただきました」などという感謝の気持ちも多く書き込まれている。さらに「昨日泊まった○○って言うライダーハウスは最悪だった。布団はないし、汚いし・・。みんな行かない方がいいぞ。」などという描き込みにはわざわざ矢印がされ、他の旅人によって「ライダーハウスはおまえみたいなヤツが泊まるところではない!おまえみたいな奴は金を払ってホテルでもとまれ!屋根があるところを提供してくれただけでも感謝しろ!」などと書かれているなど、想像以上に旅人達も減少していくライダーハウスへの危機感を持っていて、「何とかここを残していきたい!」という気持ちは強く根付いているようだ。
さらに一方では「町に足を止めて欲しい」という気持ちが仇となってか、住み心地が最いいライダーハウスは沈没者(長期滞在者)の住処になっているところもある。ライダーハウス利用者の中でこの沈没者達は「主(ぬし)」と呼ばれ、長期連泊するだけならまだしも、ひどい場合は他の旅人を寄せ付けないくらいにライダーハウスを私物化し問題になることもある。さらには、そんな「主」への苦情から、連泊を禁止したり有料化に踏み切るケースもあるというのだ。
今でも営利目的ではないライダーハウスは、駐在の管理人を雇われているわけでもなく、スペースや貴重品など管理で旅人に委ねられている部分も多い。それはある種の適当さで、地元の人々が旅人を信頼しながら運営してきたライダーハウスの特性だろう。そして旅人もそれを知って自分たちでルールを伝え合って来たのだ。
しかし、一部のマナーを守れない旅人によってこのバランスは崩れ、せっかく地元の人の厚意で開設されたスペースが、有料化され管理人を常駐させるようになり、多くの規則が決められるようになると、今までライダーハウスの姿は失われていくのではないだろうか。

●「新しいライダーハウス」
ライダーハウスを旅していく中で、ニュータイプのライダーハウスの噂を耳にした。
場所はなんと九州の阿蘇。4年前にオープンしそれ以来1日も客が途切れることなく大盛況だいう。実際に訪ねてみると、バイクで日本1周を果たしたここのオーナーはまだ20代後半と若く。旅行で経験したこと特にライダーハウスでの体験を元に、「九州のちょうど中心に旅の拠点になるようなライダーハウスをつくりたい」と、旅でとても気に入った阿蘇の鄙びた小さな温泉地を選び運営していた。しかしライダーハウスを全く知らない町の人の「バイク=不良」と言うイメージを払拭し、説得するのにはかなり時間がかかったそうだ。
そして、地元の町と共に生きるライダーハウスを模索しつくりあげていくなかで、独特のルールが誕生した。
まず初めてそこを訪れると、いろいろと描き込まれた手作りの町のマップが1人1人に渡され、オーナーから直々に10分程度の説明を受ける。(初めて利用する人だけ)
例えば、騒音などで町の人に迷惑にならないように無料で貸し出してる自転車。光熱費や設備の維持費として1泊1000円で、連泊していくごとに100円ずつ安くなる料金システム。コンビ二もあるがこの町にはたくさん他にもいい店があり、是非利用して欲しいとつくられたマップや情報。ライダーハウス内には風呂がないが町の中には安くてとてもいい共同浴場(町湯)がたくさんあることと注意。小さなライダーハウスでよく問題になるが、宴会の音がうるさくて他の人が寝れないなどのトラブルを避けるために、飲食談話は談話室、寝室(女性用部屋もある)は寝るだけのスペースと完全にわけてあることなど。
それらは別に窮屈なものではなくて、町との共生や それは北海道と同様にライダーハウスを維持していくために重要なことで、実際に彼が 旅(ライダーハウス)の経験を元によく考慮してつくられた最低限のルールだった。北海道ではライダー同士が暗黙の了解というか見えないルールを伝えていく環境が時間をかけ整っているが、ここにはいろいろな旅人がやってくる。だから管理人が率先してルールを伝えているにすぎないのかもしれない。
常に日本全国から旅人が集まり、週末にはさらに九州全土から休日に旅の気分を味わいにやってくるリピーターも多い。地元の若者も集まってくるし、次の旅へ資金をためながら住み着いている旅人もいる。町をレンタサイクルで走っている時や共同浴場にいる時などに触れる、町の人の友好的な態度からもこのライダーハウスがすでに町にとけ込み共生していることを十分に伺える。
独自のルールは旅人を縛る窮屈さは全くなかったし、地元とのコミュニケーションをとりながら運営されていく姿は、もしかすると時代とともに形を変え残っていく新しいライダーハウスのスタイルなのかもしれない。



ライダーハウス原点は、「雨風を防ぐだけの何もない小屋」である。
地元の人の厚意で開いたスペースに作られたライダーハウスは、旅人達の宿や情報交換の場所、さらにはライダーハウスや旅のルールや感謝の気持ちを確認し合う場所として、20年以上もの間残ってきた。
ここでは旅行者と宿との間に「お金とサービス」の交換ではなく、「感謝と厚意」という目には見えない人間関係が双方を繋ぎバランスを取っているのである。

数年前、話し相手の誰もいない静かなユースホステルで、色あせた70年代の宿泊ノートを見つけた。そこには、旅の情報そして人との出会い騒いだ様子、さらには人との出会いがなかった者達が書いた「よかったら誰か手紙を下さい」「ペンパル募集」といった出会いへの欲求などが沢山書き込まれ、その時代の若者達が新しい出会いや経験を求め、国内を彷徨った熱い空気が充満していた。
僕は暇つぶしに何冊も読み進めていくなかで、過去の幻影を追い廃墟を探検するかのような錯覚に陥った。若者たちの国内旅行ブームは遠い過去の物となり、数十年で旅の感覚は大きく変わってしまったのだ。

今や、世界中の情報が目の前に溢れ、人とので合いも出会いは自宅で簡単にできてしまう(錯覚の)なかで、旅への感覚が変わらない方がおかしい。旅の中でも様々サービスが溢れ、お金と携帯電話さえあれば、他人との会話がほとんど無くても旅は成立してしまう。
旅は知らないモノを見つける冒険ではなくなり、また帰るであろう個人的日常を一瞬忘れさせてくれるご褒美に過ぎず、旅の中にこそ贅沢を求めてはいないだろうか。

都市部だけでなく、旅行者の中にも、過剰な個人主義の中で公共意識は薄れ、人間関係が希薄になっている。それは、独自のルールを持つ九州の例や「主」などの出現など、ライダーハウスへも少なからず影響をあたえているのではないだろうか。
しかし、ライダーハウスが全滅する事なく残っているのは、旅人と地元の人々との気持ちの交換が今でも成り立っているからだ。
今後も、一見何もないこの宿泊施設は、ここが人との出合いや発見が溢れる貴重な旅の拠点であることを知る人々によってしっかりと残っていくことだろう。

::::::::::::::::::::::::



(※1)管理人…ライダーハウスで旅人から宿泊費を集金したりや掃除などの仕事をする人。運営する人(オーナー)と管理人が違う場合が多く、ここでは「管理人」と統一する。

(※2)ディスカバージャパン…新企画「いい日旅立ち」がはじまるまで6年間も続いたキャンペーン。アメリカの農商務省が行った「ディスカバー・アメリ」を参考にしたらしい。

(※3)帯広市が運営する人気のライダーハウス「大正カニの家」は、その名の通り元々かに族のために作られた簡易宿泊施設がライダーハウスに変化したもので、ライダーハウスの原型と言える珍しい例だ。

(※4)通称「バリ伝」。1983年から8年間、で連載された、漫画「頭文字D」著者しげの秀一の本格的デビュー作。同時期の週刊少年「マガジン」にはもう一つバイクを扱った人気連載「あいつとララバイ」もあった。 

(※5)草刈正雄・木の実ナナ主演、角川春樹監督のハードボイルド・バイクレーサー・アクション映画。

《参考資料》
・『TUORING MAPPLE 北海道』(昭文社)
ライダーが使いやすいように計算され作られているライダー御用達のマップ。スタッフが実際に取材して得た、いろいろな情報書き込まれていて非常に便利だ。

・『0円マップGO!GO!北海道』三栄書房
ライダーハウスやキャンプ場など安く北海道を旅する情報が多く掲載されたガイドブック。利用しやすいが、お土産物や食事の店情報は広告的な部分もあるのだろう、あまり当てにならない。

・『振り返れば地平線』(佐々木譲著)集英社文庫
旧友との約束の地「開陽台」を目指す北海道ライダーを描いた小説。82年に出版された当時のバイクブーム時代の雰囲気を伝える貴重な資料と言える。

・『旅行ノススメ』(白幡洋三郎著)中公新書
・『anan』(no.1〜74)

《注意事項》
・布団がある場所もありますが、基本的には寝袋持参。ロッカーなどはないので、貴重品の自己管理。
・他人との共有スペースです。当たり前のことですが、他人への思いやりを持って行動すること。
・ライダーハウスを管理されている方への感謝を忘れないこと。出ていく際は、軽く掃除、整頓しましょう。
・道内には素晴らしい無料のキャンプ場も多いので、晴れた日はキャンプもおすすめ。

※記事内の「白鳥の宿」は閉鎖してしまいました。(2015年更新)


夜(BGM)

2009年12月23日 17:35 下道 基行 */?>

友人三人と、茄子紺の小さい車で、香川を目指す。
夜中に出発して、満天の星空の下、月が並走する。
i-podから音楽が流れ続ける。
2人とも寝てしまい、ひとりハンドルを握りながら歌う。
瀬戸大橋を越えているとき、朝日が神々しく輝き出した。
涙が…、嘘、出ていないけど、とても感動した。


今日家で作業中、たまたまyoutubeをサーフしていてこの曲が出て来て、そんな日の情景が蘇った。
これも、HOMEーMADE STORY、音楽版だね。自分だけの些細な情景。


たくさん、素晴らしい些細な日常を、情景を、通り過ぎている、気付かないうちに。で、ある日何かのきっかけでそれが再生される。
そんな作品を作る。


2009/12/23 17:35

中之島

2009年12月 9日 21:19 下道 基行 */?>

国立国際美術館に向かう途中、中之島の川沿いの道を歩いた。
今年の夏、水都大阪の為に何度も自転車で走った道。
途中、ダイビルというレンガ作りのデコラティブな柱が印象的な建築が、人気がなく柵で囲まれているのが気になる。ボケッと立ち止まって見ていると、少し離れたところで、熱心に建物を撮影しているサラリーマン風のおやじさんが目についた。近寄って話しかけてみると、
「この建物、もうすぐ壊されるんですよ…。若い頃、この建物で働いていたから、来てみたんです…」と寂しそうにシャッターを切る。
なんか薄汚れたレンガ作りでロンドンっぽいいい味が出ている、装飾もごちゃごちゃしてて気持ち悪くてかっこいい…。
「僕もこの建物、気になっていたし、こういう建物が残ってるから中之島ってなんか、東京にはないいい風景だなぁって思ってたのに残念ですねぇ…というか、腹が立ちますね…」と俺。
「関東大震災のあたりに建てられたらしくて、大阪一のビルってことでダイビルって名前になったらしいです。立派な建物なんですけどねぇ…」
二人で何かしんみり。

お別れを言い、国立国際に向かう。
おやじさんは、垣根の中に足を突っ込んで、まだ熱心にシャッターをきっていた。
なんか、分るよ、おやじ。。

長い時間かけて残っていたモノは、一瞬で壊せる。残ってきた労力の遥かに少ない労力で、一瞬で消せる。そして、壊してしまったモノは、二度と見ることはできない。建物だけの問題じゃない、風景自体の問題。当たり前だけど、そういうことだ。
どうせ、壊す側の主張は、この辺りが一等地でこの古くさいこじんまりしたビルでは、モッタイナイからでしょう。
「町として需要な歴史が詰まった建物をつぶすのはモッタイナイ」 VS「一等地にこんなに低い建物モッタイナイ」
友人が住んでいた阿佐ヶ谷住宅もそうだった。勝者は大体後者の方。

帰りにジュンク堂へ行く。
本屋が入っている真新しい高層ビルの前の広場に、かつてココに建っていた旧毎日新聞の重厚な石造りの建築物の入り口部分の壁がポツンとモニュメントとして残されている。取って付けたような寒々しい保存だ。
「だから、こういうことじゃないんだよ…アホ…」


2009/12/09 21:19

みっちゃん

2009年9月13日 11:02 下道 基行 */?>


最近行きつけになっている飲み屋で、たこ焼きバー「てっちゃん」というのがあって。
ここの駄洒落好きのマスター?のあだ名がてっちゃんです。店は表の路上でたこ焼きを焼く普通のたこ焼き屋の奥に立ち飲み的な簡易バーカウンターのついたもの。料理はたこ焼きのみ。陽気なてっちゃんの人柄もあって、雰囲気がすごくいいし、なんかウケるんです。

「てっちゃん」っていうのは、よくあるあだ名だけど、関東では[て]にアクセント、大阪では[ちゃ]にアクセントじゃないかな?そんなことを感じる。
このあたりのスナックや喫茶店の名前には「○っちゃん」というのが多い気もする。看板からは分らないけど、たぶん全部[ちゃ]にアクセントなんだろう。

たこ焼きバーでは常連さんの顔見知りもでき、
ついには、「みっちゃん」というあだ名をもらいました。
[ちゃ]にアクセントの大阪風のモノです。

「下道(君&さん&呼び捨て)」「みっちー」「みち」で呼び方が決まっていたので、なんか新鮮です。
もうひとつ顔ができたような。

ちなみに、
フランスにいるときは、はじめのころ紙に「MICHI(ミチ)」と書いたのに、あっちの発音で[CHI]は[チ]じゃなくて[シ]なので「ミシ、ミシ」と呼ばれてました。あ〜これはフランスっぽい。


2009-09-13 11:02
(大阪でゲストハウス管理人していた時)

ものすごくちっちゃい○○

2009年9月13日 10:40 下道 基行 */?>

昨日朝、玄関から外へ出ると、通りをとぼとぼと歩いていた、ものすごくちっちゃいおばあちゃんと鉢合わせになる。
若干気まずくて挨拶をすると、彼女も立ち止まる。
含み笑いを浮かべ。

婆:「おはよう(「よ」にアクセント)」
  「にいちゃん。$%に*;%$てんでぇ」

道:「えっ??」
滑舌が悪い訳ではない、たぶんちっちゃすぎるからか少し機械的なエフェクトのかかったような声…、聞き取れない…。

婆:「おにいちゃん、$%に*;%$てんでぇ」

道:(ダメだ二回聞いても聞き取れない。。いいや適当に)
  「そうなんですよ。ここに2ヶ月だけ住む事に…」

婆:「ちゃう、ちゃう」
道:(あ…外した…)

そのちっちゃいおばあちゃんは、口元を指差し
婆:「にいちゃん。口の横に。何か。ついてんでぇ。」


道:「あっ。。歯磨き粉です…ありがとうございます…」

婆:「女の子に笑われるでぇ〜(笑)」

おばあちゃんは、ものすごくゆっくりとしたスピードで立ち去って行った。

2009-09-13 10:40
(大阪でゲストハウス管理人をしていた時)

HOME-MADE STORY 1

2009年9月 1日 01:13 下道 基行 */?>

ワークショップ「HOME-MADE STORY1」では、参加者それぞれの家(HOME)で宝物を探してもらいました。プライベートで些細な秘密(STORY)の発表会です。

まずは、事前にその宝物が家に置かれた普段の状態を写真に撮ってきてもらいます。そして、ワークショップのはじめに、実際に家で見つけた宝物そのもの(持参できるものだけ)をそれぞれテーブルの上に出してもらい、みんなで鑑賞します。
次にワークショップの概要を説明し、各自モノに詰まったストーリーを書き出してもらいます。ここでゆっくりと考える時間をとり、最後の発表に向かいます。発表は大きなモニターにタイトルがあらわれた後、ランダムに映された各自の写真にその場で声を入れていきます。参加者はモニターでそれぞれの写真を見ながら、同時に声でそのストーリーをたどります。発表後、最後にみんなで感想や意見等を交換して終了しました。

このワークショップは、日常に隠れている自分や色々な人の記憶を、もう一度見つめ意識することを試みました。それは普段誰にも話さない些細なストーリーです。それはおそらく今後、何気ない日常の風景やモノ、さらには誰かのつくった作品等と対峙する際、少し踏み込めんでモノの観察するための、大切なきっかけのひとつになるのではないかと考えています。


IN 秋吉台国際芸術村


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プール日和(1と2)

2009年8月31日 21:10 下道 基行 */?>

「あれ?下道くん、焼けてない?」
今日朝、お隣に滞在中のコスゲさんグループ宅をお邪魔するとそんなことを言われる。
「ふっ、そう、昨日、ひとりで、近所のすごくレトロな市民プールに行って、2時間ほどプカプカ水に浮いていたんです。」
(えっ、こんな忙しい時期に…と思ったに違いない…)


子供がパラパラしかいない平日の昼間に、屋外市民プールに行ったんです。ひとりで。

仰向けに水に浮かぶと、聞こえる音は水の音だけで、視界には青空に夏の雲がゆっくり動いていて…。嗚呼…。溶けそう…。
でした。
鼻に水が入って、ツーーンとして、立ち上がると、子供の歓声が、ワーーーーッと聞こえて。
すぐ隣の少し上を、オレンジの電車が、ガーーーーッと通り過ぎる。
電車の窓から見えるこのプールを思い浮かべてみる。
たぶんびっくりするくらい夏っぽいんだろうと。
ふと、監視員と目が合う。
子供用のプールに身長180の三十路が立っている。水面は膝。たぶん怪しい。
また泳ぐ。。


俺の父親がこの辺りに小中学校くらいの頃住んでいた事があって、この市民プールはその頃からあったらしい。でも、少しはなれた所に、別の屋内プールができたので、このプールは、今年8月いっぱいで閉鎖。
屋内の近代的なプールと、この屋外の学校のプールみたいなプール。
全然違う種類のモノじゃない?
運動用と夏休み用。
(英語なら)スポーツとサマー。
そんくらい違うでしょ。
また、日本からひとつの風景が消えるんです。
便利になることで、微かな重要な何かが消えて行くんです。

2009-08-25 19:04

昼寝から目覚めると夕方になっている。
4時過ぎ。
今日は近所の市民プールが閉鎖になる日、4時半までだー!
カメラを持っては走って行くと。数十メートル先から子どもの歓声が聞こえて来て、少しほっとする。
入り口で「今日はもう終わり」と言われ
「今日、このプール最後ですよね。写真写しに入っていいですか?」と聞くと
「おー、撮って撮って、ほんま今日で終わりやから〜」
と、無料で入れてもらう。

プールの中はいつものように子どもで溢れていて、監視員の茶髪のにいちゃんねいちゃんもプールに飛び込んだり騒いでいる。
数枚写真を撮ってみるが、写真じゃない気もする。
蛍の光が定時に流れる。
みんな帰る様子はない。

監視員のひとりが拡声器で
「長い間ありがとうございました」
というと、少しずつ子どもたちが帰っていく。

オレンジの電車が横をガーーーーッと通り過ぎる。
人がまばらになったプールに、残念そうに数人子どもがプールに飛び込む。

2009-08-31 21:10
(大阪)

管理人仕事

2009年8月20日 01:51 下道 基行 */?>

パリで出会った文筆家の人が言っていたんだけど。
「最近やりたい事を書き出してみたんだよ。伊豆に行くとか、小さい事から。俳優になって映画にでたいって、非現実的なものまで。そうしすると数十個はあって、ちょっとづつそれにやったよってバツをつけていきたいんだ」

誰かの本でも「若い頃にやりたい事を100個書いてみた」ってのがあったけど。その人は「美人なモデルとヤる」とかいろいろ書いてた。
そういうのって単純におもしろいよね。

俺は、「サーフィンを始める」とか「35までに本を2冊あれとあれでだす」とか、つまらないものから、いろっっいろあるけど。
この話を書くのは、今回、山口滞在中に、おしゃれカフェで働いたり、大学で臨時講師やったり、ラジオに出演したり…、色々経験させてもらって、それはただ「アーティストの下道です。こんなことをやってます!」とか、それを紹介します、ってことではない気がしてる。単なる営業じゃないというか。
今管理人しているのも、いろんな人に出会って「俺はこんなことやってて、面白いでしょ!名刺あげるから…、よろしく」とか、そんいうんじゃなくて。なんか、吸収したいというかね。
村上春樹が他人の本を翻訳をする理由のひとつが、自分にないモノや、その技術(?)を吸収するため、みたいな事を言っていたけど、そういう気になる人と同化しながら自分的に編集するのって必要だし、自分の場合、攻め攻め状態だとできないきがする。
なんだろう、いろんな可能性を持っていて、その可能性を幼い頃から360度から徐々に狭めて行く事が、大人だったり、プロフェッショナルなことみたいに、思っていたけど、意外とそんな事でもないんじゃないかなって、実体験で感じる事は多くて。
岡本太郎が、晩年本気でスキーを始めたり…、趣味といえばそうだけど、生きてる可能性ってのは、広げる事も狭める事もできるんだなと思う訳ですよ。
もちろん、狭くした中の美味しい所もあるし、狭める中での深めかたもある、でもただ狭めて行くことの危険性ってのを感じるって話です。

今日は今さっきまで、ここに一郎君がダラダラしにきてました。
現場アートに関わってないけど、いい時間かもね。
こういうあつい系の日記を書くと、「シタミチがんばってるね」っていわれるけど、がんばってるのは体でも頭でもなく、ただ何かを解放しよう肩の力を抜こうとしてるだけなんで。その言葉はフィットしません。

あ、そう今日
宮本常一の未完の全集「宮本常一著作集」の31を買いました。シンプルでぐっときます。高いけど徐々に欲しい所から集めて行きたいですね。
これもやりたい事のひとつ。

では、明日。
まだ、山口余韻があるね。夏だね。

2009-08-20 01:51
(大阪)

HOME-MADE STORY

2009年7月13日 03:22 下道 基行 */?>

日常に隠れている物語をみつけよう!
今回のテーマは、『自宅で宝探し』。あなたの家だけの宝物を探してきて下さい。ワークショップではみんなの宝物が持っている思い出や記憶にまつわる物語を集めてムービーを作ります。

[秋吉台国際芸術村]
http://www.aiav.jp/home.php

祖父の絵を旅するシリーズ「Sunday Painter」のイメージから今回のワークショプ企画はスタートしました。
テーマは、自分自身の制作テーマのひとつ『日常に隠れている物語』『物語を内包するモノや風景』。
「HOME-MADE STORY」は、それをボク自身が探して集めるのではなく、それをみんなに集めてもらい、編集&アーカイブしていこうと思っています。
何気ない日常をくらす人が持ち寄る、無名の物語をアーカイブします。


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Re-Fort PROJECT vol.5

2009年7月 7日 00:05 下道 基行 */?>

地味にもうかれこれ4年目の活動になるRe-Fort PROJECTがまた、夏に帰ってきますよ。
今回のメンバーは、言い出しっぺの下道ほか、
会田大也、中崎透、服部浩之、山城大督と、かなり強力で素直なアート陣が集まり、熱い夏になりそうです。是非参加してください。
(詳細は下↓)


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Re-Fort PROJECT vol.5
日食に花火/前夜はビール呑み砲台 

太陽が隠れるとき、ぼくらの花火が打ち上がる。


7月21-22日 夏合宿@下関〜北九州
7月22日 花火打ち上げ@打ち上げ;北九州市めかり公園、鑑賞;下関市火の山公園
8月1日-23日展覧会『戦争のかたち』@ハブ
8月8日-31日展覧会『Re-Fort PROJECT Vol.5』@MAC

Re-Fort PROJECT vol.5 メンバー(会田大也、下道基行、中崎透、服部浩之、山城大督)

※プロジェクト詳細情報

■7月21-22日
夏合宿!日食に花火/前夜はビール呑み砲台
21日夏合宿 参加費 6,000円(宿泊/食事込)※宿泊地 下関市火の山ユースホステル
※「夏合宿」からの参加だといっそう花火も夏も楽しめますよ!(遠足、ユースホステル、バーベキュー、ひと夏の...)また22日の花火打ち上げは午前中に予定しております。遠方からご参加の方は「夏合宿」からの参加をおすすめします。
22日打ち上げ花火 参加費無料(会場;火の山公園)

スケジュール
[7月21日]
14:00 火の山ユースホステル集合
14:30 関門トンネルを歩いて門司に渡り、めかり公園内の砲台跡を目指す。
18:30 門司港より連絡船にて下関にわたる
20:00 火の山ユースホステルにて前夜祭
[7月22日]
09:00 火の山公園の砲台跡へ向けて出発
10:55 花火鑑賞&撮影


展覧会par t1 『戦争のかたち』
8月1日(土)- 8月23日(日)12:00-27:00(火曜定休)
会場;ハブ(山口市道場門前2- 4 -19 2F TEL.083- 932- 5166)
料金;無料(飲食店のため要一品オーダー)

展覧会par t 2 『Re-For t PROJECT Vol.5』
8月8日(土)- 8月30日(日) 19:30-24:00
会場;Maemachi Ar t Center (MAC)
料金;300円(ドリンク付き)
*オープニングパーティ 8月8日19:30-

プロジェクトに関するお問い合わせや宿泊のご予約はMAC(服部、会田)まで
e-mail; maemachiartcenter@gmail.com
ユースホステル宿泊ご希望の方は、7/18までになる早でご予約ください。


今年の春、山口県下関市の火の山公園に登った。
この公園内には明治時代の砲台跡がある。僕たちは夏に砲台を使ったイベントをできないかボンヤリ企画して、ロケハンに来たのだ。
きれいに整備された園内には、戦争の遺構がゴロゴロと点在しており、その奇妙な存在感が遊具や花壇とのコントラストを形作っている。至って普通の日常風景に顔を出した冷たい質感のコンクリート建造物群は、僕らの想像の及ばない遠い世界の遺物のようだった。
僕らはそれを土の中から掘り当てたような...、日常にポッカリ開いた戦争への落とし穴を見つけたような...、そんな複雑な興奮を感じた。
「ここの砲台一帯は国定公園に指定されとるからイベントはできんじゃろぅなぁ...。向かいのあの山も昔の砲台じゃし、あっちなら公園になっとらんけぇ、もしかしたらバーベキューとかイベントもできるかもなぁ。」
公園清掃のおばちゃんはそう教えてくれた。関門海峡方向にせり出すようにつくられた、真新しいウッドデッキから海峡の対岸を見ると、向かい側にきれいなお椀型の山が見える。
「あの砲台の山の上に打ち上げ花火が上がったら、面白くない?」
一人が言った。
「火薬」を使って「ドンッ!」と花火を「打ち」あげる...。それは、既に武装解除されて70年近く経つ、かつての砲台とダブるイメージをいくつも持っている。
そしてこの打ち上げ花火は、リアリティが薄れていく戦争やその時代と僕らとをリンクさせる「落とし穴」になるかもしれない...、そんなことを思った。
早速、関門橋を福岡側に渡って門司からその山に登ると、そこには要塞の跡があり、それは森の中で人知れず朽ちていた。明治維新以降、欧米に対抗し軍国主義に猛進する中で日本全国にいくつもこのような砲台がつくられた。太平洋戦争末期、対軍艦用の砲台の一部には対空高射砲が設置されたそうだ。そして 1945 年の終戦を境に、この場所も含めて日本全国の砲台は完全に武装解除される。機能を一切失ったコンクリートの固まりがこの山にも残された。僕らの目の前で、日常と忘却の中に埋もれていくこの遺構は、敗戦からこの国が根底に持ち続ける違和感やねじれを表している存在のように見える。
「この砲台跡から花火を上げて、対岸の火の山公園からそれを見よう!」
話し合いの結果、花火の打ち上げは 7月22日の10時55分から1分間に決まった。
それは46年ぶりに訪れる日食の一瞬。そんな真昼の空に打ち上げようというのだ。
今回この日食の見える地域の人達の気持ちは、日食の持つある種の「高揚感」と「一体感」の中で、太陽を中心にひとつになるだろう。
そして、(これは些か強引な結び付けかもしれないが)その「高揚感」や「一体感」はこれらの砲台の造られた時代が持っていた大衆を飲みこむ空気に似ているのではないか ? 初夏の真っ昼間に、隠された太陽の下、砲台跡から花火を打ち上げてみる。それがこのイベントだ。
「何のため?」
「花火は見えるの?」
それはよくわからない。でも、見えにくくなっていたものが少しだけ見えてくるはずだ。例えばそれは、戦争があった事実や、日々消えていく記憶や、今この世界に生きていること...。そしてまた何かを感じるだろう、そのことについて僕たちは自分の言葉で話せるのではないか。
この日、僕らは打ち上げ花火で落とし穴をつくってみるから、みんなで落ちに来てくれたらうれしい。これは机上のお勉強じゃない。もしかすると、この落とし穴で地球の反対側まで落ちてしまう人もいるかもしれない。
あなたも参加してみませんか?
僕らが作った落とし穴に。
火の山公園で日食の花火に。


::::::::::::::::::::::::::::
『Re-Fort PROJECT』プロフィール
200X 年に下道基行が中心となって発足。日本全国で放置されている戦争の遺構を使い、イベントを起こしたり、※スクウォットする。またそれを記録していくプロジェエクト。 このような遺構の多くは過去に国(軍)が造ったもので、現在では建造物自体の権利が曖昧になり、したがって所有についてもグレーゾーンとなっていることがある。そのため転用しやすい。 イベントの参加者はこれらの遺構に直接触れ、この国と戦争とが地続きであったことにリアリティを感じることで、何かしらの戦争との接点を持ってもらう。
また、ここ数年、戦争体験者が減少していくことを受けて、行政による遺構の見直しが始まっている。しかし、遺構を柵で囲み“平和公園化”“モニュメント化”することは、むしろ遺構の持つ時間の流れを遮断し、歴史に遺構を埋没させていくことにもなる。本プロジェクトでは、保存対象にならないような遺構に対して、その都度さまざまなアーティストがそれに合わせた趣向で一時的にリノベーションを試みる。
『Re-Fort』はリフォートと読む。再生や再利用を意味する「Re」と、要塞や砲台を意味する「Fort」を組み合わせた造語。
Re-Fort PROJECT vol.5 メンバー(会田大也、下道基行、中崎透、服部浩之、山城大督)

※スクウォット(squat)とは、元々は“居座る”の意。ヨーロッパに見られる運動で、放置されたままになっている建造物を勝手に使用する。これには利用価値の無くなった物件の有効利用のプレゼンテーションという意味合いがあり、アーティストがスクウォットした建物が後にアートセンターとして利用される等、土地利用の柔軟な解釈として存在する。

2009年6月10日 17:10 下道 基行 */?>



[ 旅をする本/Toraveling books ]
2009 / 2011




[旅する本 2011/traveling books 2011]


準備中






[旅する本 2009/traveling books 2009]

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フランスに1年間滞在し、帰国の準備を始めた頃。
本棚に並ぶ文庫本を日本へ持って帰るか、古本屋に売ってしまうか迷っていた。
知らない異国の地で大切に読んだ日本の文庫本たち。
これらの本に図書カードと説明を付けて、友人やヨーロッパ旅行で出会った人に譲る事にした。
《書き込み用のブログ》を作ると、たまにいろいろな場所から書き込みがあった。

《書き込み用のブログのコメント欄》

『ノーザンライツ』
Commented by 下道 at 2009-05-25 12:06 x アドリア海に面した城塞都市、クロアチア・ドブロヴニクを離れる前日、旧市街のメインストリートの水のみ場で出会った女性に手渡しました。

Commented by なつ at 2009-05-28 18:01 x
ノーザンライツはルーマニアのサプンツァ村で次の人の手に渡りました。なかなか日本人に逢うことがなく、日付を記入すると受け取ってからちょうど1ヶ月がたっていました。ここのところ田舎町を転々とさまよってきました。下道君と出会ったクロアチアでのツーリスティックな日々が同じ旅とは思えないほど前の事に感じます。私の身体同様、旅する本も大分くたびれ、少し補強しました。なぜなら、この1ヶ月に何度も感動を与えてくれたこの本に、少しでも長く旅を続けて欲しいと願うからです。

Commented by Nair [E-mail] at 2010-03-20

To Mr. Shitamichi
The book "Northen Lights", by Michio Hoshino is still travelling around he world (arrived to South America last december).
The picture attached shows the book on the city center landmark at Sao Paulo, Brazil.
The book is now with my sister, who works in the japanese consulate in Sao Paulo. I think there are a lot of potential readers and travellers close to her but at this moment, she's "the reader of the moment". I'm sure the book will keep travelling - the person who gave me the book, miss. Miho, was expecting to make the book leave Europe and go to other continents. And here we are now.

Mr. Shitamichi, your project had inspired me a lot. Actually, I'm also gratuated in arts and I was travelling through Europe, trying to find my way to the future when I met "Northen Lights". It gave me hope and a extra push to follow something I would define as a "call": the art field.

Glad for being part of this project and wishing all the best,

Nair Sasaki




『津軽』



Commented by 下道 at 2009-06-10 16:48 x
「恐山に登りたい!」と、青森一人旅行を計画していた女性に東京で渡しました。

Commented by mami at 2009-06-21 10:21 x
青森はどこも人がいなくて、旅人なんてもっての他の状況。
恐山なんて貸し切りでしたノ。
そこがまた良かったのですがノ焦りました。
でもどうしてもちゃんとした所?でしっかり手渡したかったので
時期を見計らっていたら、最終日になってしまいました。
いよいよ帰路目前の県立青森美術館の出口にてやっとすれ違った
十和田からやってきた東京在住の旅人に手渡しました。
強行旅程で美術館巡りをしている方でした。
旅人に渡してくれる事をお約束しました。
奇しくも手渡せた6月19日は太宰治生誕100年のその日でした。
良い課題をありがとう。

Commented by shin at 2009-06-22 00:51 x
青森で受け取り、現在東京の目黒に本が来ています。
この本がどこに行くか、楽しみです。

Commented by 下道 at 2009-06-26 22:21 x
>mamiさん
ありがとう。
また、旅の話を聞かせてくださいませませ。

>shinさん
はじめまして。
偶然にも太宰の特別な日だったみだいで。すごいですねぇ。
今は青森から東京へ来たんですね。
次もよろしくお願いします。
近所の友人でまわすのも良し、旅に行く人でもよし、電車や飲み会で隣になった人でも良し。本に面白い旅をさせてくださーい。

Commented by shin at 2009-07-31 15:09 x
本が僕の手から旅立ちました。
実家名古屋の旅好きの母に受け継ぎました。
名古屋から、また未知の土地へ旅していって欲しいです。
早速母は本を読み始めていました。
しっかりと次につながるように監視しときます。





『カスパの男』


Commented by 下道 at 2009-05-09 02:02 x
大阪に引っ越すという友人にパス。

Commented by O皮 at 2009-12-11 14:47 x
これから欧州/アジア/アメリカ/南米に長期旅行するという大阪在住のアグレッシヴな女子にパス。

Commented by moto-michi at 2010-01-03 23:28
>O皮さん
ありがとう!!!!!!
どこへ行くのでしょう






『トゥルー・ストーリーズ』


Commented by tomo at 2009-10-19 23:54 x
2009年の3月末、山口で受け取りました。旅をする予定が延び延びになり、半月以上経った10月。
パリの街並みを眺めながらノートルダム寺院の塔の上で知り合った日本人女性に渡しました。
彼女は、作者のポール・オースターが好きだという。偶然、いや必然だったのだのかなぁ。
またどこかで誰かから「旅する本」を受け取りたいなぁ、と、思う。また旅したい。

Commented by Naoko at 2009-11-02 20:25 x
パリでこの本を受け取りました。
ノートルダム寺院の塔は、一気にたくさんの人が上に出られるほど広さがないので、入り口で20人ぐらい?ずつ入場制限があります。本当は私の前で切られそうだったのだけど、私の後ろが中国人の団体さんで、ガイドさんが「この人だけ日本人だから、先に行かせてあげてよ。僕説明できないし」と係りの人に言ってくれたおかげで、tomoさんに出会えたし、本も受け取れました。オースターっぽい偶然の出会いですよね。
30代後半の勤め人なので、自分もそうしょっちゅう旅行できないし、バックパッカー的長旅に出る知人もいないのですが、1週間まえ、渋谷のスタバで、少なくとも今年中には旅に出る予定の友人に渡しました。頼むよ?。

Commented by moto-michi at 2010-01-03 23:31
>tomoさん
>Naokoさん
何か素晴らしい出会い、そして書き込み、うれしく思います。
その本がまた「渋谷のスタバ」でまた誰かの手に渡るノ。なんかいいですね。。





『沈黙』


Commented by 下道 at 2009-05-09 02:04 x
パリに遊びにきた友人がスペイン旅行に持っていきました。

Commented by 佐藤 尚理 at 2009-05-10 09:08 x
パリで受け取りその後スペイン巡礼の旅を歩きスペインのサンティエゴ デ コンポステーラからのポルトガルのポルト行きの電車の中で知り合った方に渡しました。

Commented by 下道 at 2009-05-10 18:46 x
パリ→スペイン→ポルトガル かぁ。。
ポルトガル行ってみたいなぁ。
ありがとね。





『この国のかたち』



Commented by 下道 at 2009-05-09 02:00 x
パリで旅行中の方に手渡す。
Commented by zwei at 2009-06-12 16:53 x
帰国中の飛行機の中で読みました。かなりのタイミングでキラーパスが飛んできた感じでした。
帰国後の琵琶湖の空が特別なものに見えた。

京都にてこれからフィンランドへわたるという友人にパス。その後のよい旅を願う。





「既にそこにあるもの」


Commented by 尚理 at 2009-05-10 09:12 x
パリで受け取りその後スペイン、ポルトガル、モロッコ、を旅行してドイツで知り合った美大生にわたしました。

Commented by 下道 at 2009-05-10 18:45 x
ナオミチ君、お久しぶりです。
ありがとーー!ナイスパス!!






tbnaibu.jpg この本は、旅をしています。 この本を、どこかへ連れて行ってください。 読み終えたり、読まなくなった本は出会った誰かに譲ってください。 手渡す時に、「図書カード」にその日と場所と相手のサインを書いてもらい、人に手渡すのがルールです。

 以前、ヨーロッパを旅行中にホステルで出会った日本人旅行者と交換した文庫本は、今でも自宅の棚にあって、偶然手に取る度にその旅の記憶がよみがえってきます。本を読んだ時間や、風景や出会った人の事…。
最近では小説や文章はウェブサイトでも読めます。でも、「本」はその内容や物語を超えて、物体/オブジェとして、旅や生活の「記憶や時間をため込む装置」になっているのではないかと思います。

この『旅をする本』は人から人へ渡りながら、人と旅とをつながいで、移動していきます。そしてそれぞれの旅や風景や出会いの記憶や本との時間はこの本にため込まれていくでしょう。
(メモや落書き等はご自由にどうぞ!)

 そして本が旅をはじめた日付から1年ほど経った頃お持ちの方、下記の僕のメールアドレスにご一報いただけますと助かります。
 最終的には、戻ってきた本を手に、この本を手にした人達の旅の記憶を拾い集め、『旅をする本/traveling books』として一冊の本にまとめたいと思っています。(今度はバイリンガルで!世界を旅する本に)
 是非メルアドを、「図書カード」に書くか、本を渡された方と交換してくださいますとうれしいです。下記のホームページの「TRAVERING BOOKS」コーナーには書き込みも是非。ご協力よろしくお願いいたします! 
本と共に素晴らしい旅を!






exhibition[ 旅をする本/Traveling books ]
倉敷市立中央図書館 Kurashiki city library
2010.Nov


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『Pictures』-VOCA展

2009年2月17日 14:39 下道 基行 */?>

上野の森美術館で「VOCA 展2008」が開催されている。VOCA展は全国の美術館学芸員・ジャーナリスト・研究者などに40才以下の若手作家の推薦を依頼し、その作家が平面作品の新作を出品するという方式で行われており、今年で15回目を迎えるものである。賞は「VOCA賞」1名、「VOCA奨励賞」2名、「佳作賞」2名、その他に「大原美術館賞」と「府中市美術館賞」が1人ずつに授与されており、公式サイトでは受賞作品の画像も見ることができる。

今回は36人の作家からの作品の提出があったのだが、それだけの人数の作家の新作を目の前にすると、まさに作家の数だけ表現のフロンティアがあるのだということを実感させられ、軽い頭痛を覚えるのだった。だが36人全てにクリティカルマインドで向き合う必要はない。その作業は選考委員にまかせて、イソギンチャクの触手のように様々な方位に広がったこの表現たちの中で、自分はどれが気に入ったのか、今の自分の琴線に触れるのはどれなのか、ということを探りながら見るだけでも楽しい。

そのような視線で見た時に私が密やかに授賞した作品を紹介したい。下道基行《Pictures―遺された祖父の絵を旅する》である。「日曜画家であった祖父の絵の現在における持ち主を訪ね歩き」撮影したという説明もあるとおり、これは亡くなった過去の人への鎮魂の意味を見せながらも、その実、遺されたものが存在する「今」であり、「私」なのである。下道のこの作品は、中流という表現がしっくりくるような、あまり洗練されていない3つの生活空間を撮影している。3枚のうち2枚は生活風景の中に祖父の絵が飾られている様子を、そして残りの1枚には絵にかぶせられた透明なガラスかアクリルの額に玄関先の風景が反射しているところを写している。

その写真達にはどれにも「私」が静かに滲んでいる。この写真は、灯りの位置が黒マジックで書かれている電気のスイッチにふっと頬が緩むおかしみを感じ、だるまとトロフィーのある部屋に座る女性の顔に浮かぶ無表情の表情に未来を感じさせない気だるい絶望を想う、そんな日常の風景を見つめる極めて私的な視線の表現である。そしてその下道の視線としての「私」は、生活に必要なものを配置したり少々大事なものを乱雑にならない程度につめこんだりした「私」の空間、そして「私」が描きたいから描いたという絵という、他の2つの「私」と共に作品を構成し、この作品に私的な安らぎを与えているのである。それは3枚目の、絵のガラス(もしくはアクリル)の額に玄関が写った写真の中で、その絵に描かれた水の中にほどよく混ざり合って溶けていくように感じられた。
等身大の「私」に回帰した写真。エッジの効いた表現ではないが、その穏やかさが逆に心地よく見ている者の中に広がってくるのである。それは必ずしも、幾分かの「権威」になったVOCAにおいて賞を授けるか否かといった時の議論の俎上に載ったり、多くの票を獲得したりする表現ではないかもしれない。だが、見る者と作品の関係性という線上で考えた時、その私的な表現に共鳴するものがあったならば、たとえ少人数であっても見る者の中に残るのであれば、それは結果としてその表現にとっての幸福なのであろう。
…(略)


池端はな

2008年9月16日 22:47 下道 基行 */?>



[ 戦争のかたち/Remnants ]


2001 - 2005




 ある日、東京郊外の団地の片隅で戦争の遺物と遭遇する。弾痕の無数に残る廃墟だった。薄っぺらく感じていた日常の中に突如「戦争」を発見した僕は、それ以来暇を見つけては、カメラを手に遺構を探すようになった。
 初めて触れる戦争時代の建造物の超機能的な形は(不謹慎なのかもしれないが)美しく感じられた。敗戦以来、忘れられ/忘れようとされてきた戦争の建造物たちは、忘却のなかで60年という人間の営みの中に埋没し、「住居」「子供の秘密基地」などそれぞれ新たな機能を与えられ生きていた。
日本全国に残る旧軍事施設跡を4年かけて取材したシリーズ。




The subjects of SHITAMICHI Motoyuki's photographs are unusual landscapes that he discovers during his travels, and he is chiefly concerned with the memories of the past that they contain.
He photographs abandoned military structures and equipment, such as pillboxes and batteries, that have been left to deteriorate during the 60 years since World War Ⅱ. Although these images may cause people to think about the negative aspects of the war, the artist does not intend to make a histrical point. He is primarily interested in the strangeness and abruptness of the presence of wartime ruins in an ordinary landscape. He is also attracted to the strange formal qualities of these objects. By basing his work on this subject, he traces apart of the history of this country which is being forgotten.






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掩体壕 Hanger





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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・









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砲台 Battery/Fortress





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掩体壕ハウス_図面2-2.jpg 砲台花壇_図面.jpg

●高射砲台跡に住む
 大阪の下町、東淀川区淡路。ここに戦後棄てられた高射砲台跡に暮らす人々がいる。 現在、道路建設予定地内にあり、取り壊しの危機にあるそうだ。周囲は新しいマンションが建つなか、道路はすぐ目の前まで開通している。しかしその一帯だけ開発はストップし昔と変わらない懐かしい空気が漂っていた。高射砲台跡は、すでに庶民的な生活感が染みついているが、コンクリート打ちっ放し具合が意外にもデザイナーハウスのようにも見える。現在は3基が住居、1基は鉄工所の基礎部として利用されている。住民の1人、Fさん(84)は取材に来た僕を砲台住居の中へ招き入れ話を聞かせてくれた。居住スペースは当時砲座の下の階、弾薬庫の部分。天井は少し低く感じられたが、中は意外に広く、居間やキッチンなどいくつかの部屋がしっかりと作られている。外に比べ内部はコンクリートが露出している部分も少なく、普通の家と全く変わりない空間がそこにはあった。

ーここに住まわれた経緯を教えて頂けますか。
「昭和16年に海軍に入隊、ミッドウェーの海戦にも参加してました。巡洋艦で兵隊を輸送する船の護衛をやってましてね。ガダルカナルで砲弾の破片で負傷して奇跡的に生きて帰ってたんです。その後は大阪で商売してまして。ここに住み始めたんは、昭和47年やったです。そん時ここに住んでた人がおって、ほかに移る言うんで譲ってもらったんです。おたくら、まだ生まれてなかったでしょ(笑)。移ってきた当時は、砲台そのままやったけど、ここで5人で住もう思いましてな。最初は住みづらい思いましたけど、改装しながら住み始めたんです。その頃はこの辺もどぶ川が流れてて、今みたいに建物もなかったですね。ここ10年ですよ、高い建物が建ったんは。」
「昔はここに戦争中おった陸軍の人も来はって、大阪を空爆に来たBー29を1機だけ落とした言う話はしてましたけど、もう亡くなられたんか、最近は来られませんね。私らも海軍で艦砲射撃とかもやりましたから分かるんですけど、飛行機撃ち落とす言うのはなかなか難しかったんですよ。あの当時技術も進んでなかったからね」
ー道路建設の話もありますが、土地の権利とかはどうなってるんですか。
「そうそう、十三吹田線言うてね。大阪市の予定ですねん。ここももう大阪市の土地になっとるんです。終戦後は農地委員会や個人が土地を持ってまして、40年位前に大阪市が道路つくるから買うたんでしょう。始めに道路の説明に来たんが30年位前ですけど、そのままになっとります。最近もここら7軒に立ち退きしてくれ来たんですけど、まだ当分このままですねん。(高射砲台跡の)保存運動も最近はしてもろうてるけど、なかなか道路は変更できんらしいですわ。もう、道路迂回させる他の土地もないですから。」
ーこの建物自体は誰のモノなんですか?
「元々は国のもん。まぁ、軍隊が建てたからね。でも、大阪市が財務局に帳物(権利書)を調べに行ったけど、もう無いらしいですわ。そんでまぁ、入居者のもんになってるわけですわ。書類とかは何もありまへんけどね。」
ー住み心地はいかがですか?
「夏は涼しいよ。中はね。昔はこの辺、鉄筋なんか少なかったから、台風とかごっつ風の強い日になんかは、避難さしてくれって来たりしてましたよ。阪神大震災でも、中におったら平気なくらいでね。60年以上も経っとるけど、雨漏りもひとつせえへんからね。
「住めば都」言いますけど、丈夫やし、屋上(砲座部分)では畑もつくれるし、なかなか住みやすいですわ。」

終戦後役目を終えたはずの建物は、移り変わる町の中で「居住空間」として価値を見いだされ立派に生き続けていた。それだけども驚きなのだが、戦争の記憶が薄れつつある近年、さらにもう一つ新しい価値も加わった。それは「戦争を学べる場所」であること。毎年終戦記念日が近くになると、地元の小学生がたくさん砲台を訪れるため、住人達は連日大忙しなんだそうだ。

(2004年)

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[この素晴らしい世界 ]
広島市現代美術館
“What a Wonderful World”
Hiroshima City Museum of Contemporary Art
2012

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写真集「戦争のかたち」(リトルモア)/ Photo book [Remnants]



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下道基行 SHITAMICHI Motoyuki

2007年10月 2日 07:53 下道 基行 */?>


SHITAMICHI Motoyuki

1978 Born 1978 in Okayama, Japan. Lives in Aichi.
2001 BFA, Painting Course, Department of Painting, College of Art and Design, Musashino Art University, Tokyo
2016-2019 National Museum of Ethnology (Visiting Researchers)

【Residencies and Research Programs】
2017 V54, Hongkong, China
2012 Akiyoshidai International Art Village, Yamaguchi, Japan
2011-2012 Aomori Contemporary Art Center, Aomori, Japan
2010-2011 Tokyo Wonder Site Aoyama, Tokyo, Japan
2007-2008 Cité internationale des arts, Paris, France

【Collective / Project】
2019- 《Setouchi " " Museum》Naoshima, Kagawa, Japan
2018-2019 《Cossmo-Eggs》Venice Biennale 2019 Japan pavilion
2015-2019 《New Antique》
2015-2019 《Traveling Research Laboratory》
2004-2019 《Re-Fort Project vol.1-Vol.6》

【Solo Exhibitions】
2020 "Setouchi "100 years Tourism" Museum" Setouchi " " Museum, Kagawa, Japan
2019 "Floating Monuments" Yurinsou, Ohara museum of art. Okayama, Japan
2019 "Setouchi "Yoichi Midorikawa" Museum" Setouchi " " Museum, Kagawa, Japan
2018 “Floating Monuments” miyagiya , Okinawa, Japan
2018 “New Antique -Open labo in Summer-” , Hiroshima City Museum of Contemporary Art, Hiroshima, Japan
2018 “Tsunami Stone” Alternative space cot , Yamaguchi, Japan
2017 “Hong Kong Roadside -Documentation of Asia Seed Cycle 2 workshop-" V54, HongKong
2016 “Open yourself to the landscape" Kurobe City Art Museum, Toyama, Japan
2016 "14 Years old & 凹 & 凸", Toyota Municipal Museum of Art [Library] 、Aichi, Japan
2015 "Mother's Covers", Toyota Municipal Museum of Art [Library] 、Aichi, Japan
2015 "bridge", circle gallery & books 、Tokyo, Japan
2015 “How to look over the sea”, florist gallery N, Nagoya, Japan
2014 “Monument of “float”” , Baikado, Osaka, Japan
2014 “How to look over the sea”, N3 ART Lab, Yamaguchi, Japan
2013 “Dusk/Dawn –Kumamoto/Chicago-”, Nap gallery, Tokyo, Japan
2013 “torii”, Baikado, Osaka, Japan
2013 “Sunday Painter”, Kart, Kawai Art Institute Shinjuku, Tokyo, Japan
2011 “bridge”, Gallery αM, Tokyo, Japan
2011 “Re-Fort Project Archive”, Gallery αM, Tokyo, Japan
2011 “Dusk/Dawn”, Nap gallery, Tokyo, Japan
2010 “ROAD SIDERS”, Open Studio 2010, Tokyo Wonder Site Aoyama, Tokyo, Japan
2010 “Sunday Painter”, criterium 79, Art tower Mito, Ibaraki, Japan
2010 “RIDER HOUSE”, Midori art center, Aomori, Japan
2009 “Air”, Baikado, Osaka, Japan
2008 “Fantomes”, Espace Japon, Paris, France
2008 “Memoires de guerre”, Espace Japon, Paris, France
2007 “Pictures”, Shinjuku Ganka gallery, Tokyo, Japan
2005 “Bunkers”, INAX Gallery2, Tokyo, Japan
2001 “musashino”, ehibit LIVE, Tokyo, Japan


【Group Exhibitions】
2020 "everything you’ve ever wanted is on the other side of the planet" Angewandte Innovation Laboratory, wien, Austria
2020 "Exhibition in Japan of the Japan Pavilion at the 58th International Art Exhibition – La Biennale di Venezia "Cosmo-Eggs" ARTIZON Museum, Tokyo
2019 "EAPAP 2019 the Island Song" Jeju 4.3, Jeju, Korea
2019 "Prologue" Cité internationale des arts – Site de Montmartre, Paris, France
2019 "Ultimate deal" Oil Tank Cultural Park, T4 , Seoul, Korea
2019 "Fieldwork" PHOTOFAIRS Shanghai, China
2019 "Who opens up the world?" Toyota municipal museum of art, Aichi, Japan
2019 "Distance intime -Ishikawa Collection" MOCO, Montpellier, France
2019 "COSMO-EGGS" Venice Biennale 2019 Japan Pavilion, Venice, italy
2019 "Clues for art appreciation" Toyohashi City Museum of art&history, Aichi, Japan
2018 "MOVING STONES" KADIST, Paris, France
2018 "Our Daily Our Border" Tai Kwun, Hong Kong, China
2018 “Gwangju Biennale 2018”, Gwangju, Korea
2018 "Takamatsu Contemporary Art Annual Vol.07" Takamatsu Art Museum, Kagawa, Japan
2018 "Kenbi Connection" Okayama Prefectural Museum of Art, Okayama, Japan
2018 "If These Stones Could Sing" KADIST, SF 、California、U.S.
2017 "Immortal Makeshifts" Mullae Studio M30 、Seoul、Korea
2017 "Soil and Stones, Souls and Songs" Jim Thompson Art Center, Bangkok, Tailand
2017 “Moving/Image" Arko Art Center, Seoul, Korea
2017 “ESCAPE from the SEA" National Art Gallery, Malaysia
2016 "Soil and Stones, Souls and Songs" Museum of Contemporary Art & Design (MCAD), Manila, philippines
2016 “Okayama Art sammit 2016" Okayama, Japan
2016 “Saitama Toriennale 2016" Urawa, Japan
2016 “Assembridge Nagoya 2016" Minatomachi POTLUCK BUILDING, Aichi, Japan
2015 “Our Land/Alien Territory" Central Manege, Moscow, Russia
2015 “Tokyo International Photography Festival 2015” ART FACTORY Jonanshima, Tokyo
2015 “Take Me To The River-Dojima River Biennale 2015” Dojima river forum, Osaka
2015 “Beyond Hiroshima: The Return of the Repressed Wartime Memory" The Genia Schreiber University Art Gallery, Tel Aviv, Israel
2015 “TIME OF OTHER”, Museum of Contemporary Art Tokyo, Tokyo, Japan
2015 "MAM Collection 001: Two Asian Maps - Ozawa Tsuyoshi + Shitamichi Motoyuki" Mori Art Museum, Tokyo, Japan
2015 "CollectionⅡ:TIME AND CONSCIOUSNESS-DATE PAINTING AND COLLECTION" Toyota Municipal Museum of Art, Aichi, Japan
2014 “Turning points” Hungarian National Gallery, Hungary
2014 “Time sharing” ,Okinawa contemporary art center, Okinawa, Japan
2014 “Art trip vol.01| Outside the Window Awaits Journey of Love”,Ahiya city museum of art, Hyogo, Japan
2014 “Once is not enough”, Audio Visual Pavilion, Seoul, Korea
2014 “Yebisu International Festival for Art & Alternative Visions”, Tokyo Metropolitan Museum of Photography, Tokyo, Japan
2013 “2013 Asian Art Biennial : Everyday Life”, National Taiwan Museum of Fine Arts, Taichung, Taiwan
2013 “Art Court Frontier 2013”, ARTCOURT Gallery, Osaka, Japan
2013 “Roppongi Crossing 2013: OUT OF DOUBT”, Mori Art Museum, Tokyo, Japan
2013 “AICHI TRIENNALE 2013”, Aichi, Japan
2013 “Art Court Frontier 2013”, ARTCOURT Gallery, Osaka, Japan
2013 “SUPER LIBERAL ART SCHOOL”, Towada Art Center, Aomori, Japan
2013 “d design travel YAMAGUCHI EXHIBITION”, D&DEPARTMENT d47 MUSEUM, Tokyo, Japan
2013 “Eyes on the street: Modernology and Beyond”, Hiroshima City Museum of Contemporary Art, Hiroshima, Japan
2012 “UTOPIA – As an anonymous place-”, ART BASE MOMOSHIMA, Hiroshima, Japan
2012 “Okayama Art Corridor”, Okayama, Japan
2012 “MOT Annual 2012 Mking Situetions, Editing Landscapes”, Museum of Contemporary Art Tokyo, Tokyo, Japan
2012 “Gwangju Biennale 2012”, Gwangju, Korea
2012 “Water and Land – Niigata Art Festival 2012”, Niigata, Japan
2012 “Spring – Daily Life”, Baikado, Osaka, Japan
2012 “What a Wonderful World”, Hiroshima City Museum of Contemporary Art, Hiroshima, Japan
2012 “Re-Modernologio / Traces of Landscape”, Aomori Contemporary Art Center, Aomori, Japan
2011 “Living in an Out-Of-Place”, Hong-gah Museum, Taipei, Taiwan
2011 “NOWHEHE”, The Japan Foundation Center for cultural Exchange in Vietnam, Hanoi, Vietnam
2011 “TOKYO STORY 2010”, Tokyo Wonder Site Shibuya, Tokyo, Japan
2011 “Breaker Project: endangered sityscape – rediscovering locality in the global era”, , Osaka, Japan
2010 “The Resonance art 2010”, Kurashiki City Art Museum, Okayama, Japan
2010 “traveling books”, Kurashiki City Library, Okayama, Japan
2010 “Okayama Art Spanning Thousand Years”, Okayama Prefectural Museum of Art, Okayama, Japan
2010 “TOKYO PHOTO 2010”, academyhills 40, Tokyo, Japan
2009 “The 1st Tokotozawa Biennial of Contemporary Art: SIDING RAIL ROAD 2009”, The former Tokorozawa train car plant of Seibu Railway, Saitama, Japan
2008 “VOCA 2008”, Ueno Royal Museum, Tokyo, Japan
2008 “Into the Atomic Sunshine – Post-war Art under Japanese Pease Constitution Article 9”, Puffin Room, New York, USA/ Dailkanyama Hillside Forum, Tokyo, Japan/ Okinawa Prefectural Museum & Art Museum, Okinawa, Japan
2007 “Geldscheisser in the Vault”, HIROSHIMA ART PROJECT , Hiroshima , Japan
2006 “Re-Fort Project”, NAKAZAKI Tohru PLAYROOM, Tokyo, Japan
2005 “HIDDEN DIMENSION”, TAMADA PROJECT, Tokyo, Japan

【Workshops】
2009 HOME-MADE STORY
2010- Walk with your eyes
2014- Shoot or be shot
2017 Hong Kong Roadside

【Photo books】
2019 “14years & world & border” Michi Labotory, Tai Kwun Contemporar (HongKong)
2018 “New stone tools” Michi Laboratory (Korea/Japan)
2017 “New stone tools” Kurobe City Art Museum
2015 “bridge” Michi Labotory
2015 "Dusk/Dawn", Michi Laboratory
2013 "torii", Michi Laboratory
2013 "Sunday Painter", halken LLP
2012 "Form of Border", Michi Laboratory
2010 "Sunday Painter", Michi Laboratory
2005 "Bunkers", littlemore

【Awards】
2019 Tokyo Contemporary Art Award
2013 I-shi Award, Okayama prifecture, Japan
2012 Noon Award (Emerging Artist), Gwangju Biennale 2012, Korea
2007 Paris Award, Musashino Art University, Japan


【Collections】
Kadist Art Foundation (California、U.S.)
Takamatsu Art Museum (Kagawa, Japan)
Ishikawa Foundation (Okayama, Japan)
Toyota Municipal Museum of Art(Aichi, Japan)
Mori Art Museum (Tokyo, Japan)
National museum of Art. Osaka (Osaka, Japan)
Hiroshima City Museum of Contemporary Art (Hiroshima, Japan)
Tsunagi Art Museum(Kumamoto, Japan)
Okayama Prefectural Museum of Art(Okayama Japan)
S-House Museum (Okayama, Japan)


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下道基行

1978 岡山県生まれ
2001 武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業
2003 東京綜合写真専門学校研究科中退
2016-2019 国立民族学博物館 特別客員准教授


【プロジェクト/ コレクティブ】
2019- 《瀬戸内「 」資料館》宮浦ギャラリー6区 直島、香川  (メンバー:橋詰宗など)
2018-2019 《宇宙の卵》ヴェネチアビエンナーレ2019日本館 (メンバー:服部浩之、安野太郎、石倉 敏明、能作文徳) 
2015-2019 《新しい骨董》 (メンバー:山下陽光、影山裕樹など)
2014-2019 《旅するリサーチラボラトリー》(メンバー:mamoru、丸山晶崇、芦部玲奈)
2004-2019 《Re-Fort Project vol.1-7》 (メンバー:中崎透など)

【個展】
2020
「瀬戸内「百年観光」資料館」宮浦ギャラリー6区 直島、香川(企画監修)
2019
「漂泊之碑」有隣荘/大原美術館、岡山
「瀬戸内「緑川洋一」資料館」宮浦ギャラリー6区 直島、香川(企画監修)
2018
「漂泊之碑」miyagiya、沖縄
「夏のオープンラボー新しい骨董ー」広島市現代美術館、広島(新しい骨董で参加)
「津波石」オルタナティブスペースcot、山口
2017
「ははのふた」千鳥文化、北加賀屋、大阪
「香港路上 -《Asia Seed vol.2》ワークショップ成果展」v54、香港
2016
「風景に耳を澄ますこと」黒部市美術館、富山
「14歳と凹と凸」豊田市美術館ライブラリー
2015
「海を眺める方法」奈義町現代美術館、岡山
「ははのふた」豊田市美術館ライブラリー
「bridge」circle gallery & books 、東京
「海を眺める方法」florist gallery N、名古屋
2014
「下道基行ー紙の仕事」Space Seed、岡山
「漂泊之碑 大阪/梅香」ASYL、大阪
「漂泊之碑 沖縄/泊」OCAC、沖縄
「海を眺める方法」N3 ART Lab、山口
2013
「torii」梅香堂、大阪
「Dusk/Dawn / 夕暮れの向こうにある街」Nap gallery、東京
「日曜画家」Kart gallery東京,新宿河合塾美術研究所、東京
2011
「bridge」Gallery αM 、東京
「Re-Fort Project Archive」Gallery αM 、東京
「Dusk/Dawn / おやすみのかなた」Nap gallery、東京
2010
「日曜画家/Sunday Painter」水戸芸術館クリテリオム79、茨城
「RIDER HOUSE」Midori art center、青森
2009
「Air/空」梅香堂、大阪
2008
「Fantomes」エスパスジャポン、パリ
「戦争のかたちーMémoires de guerreー」エスパスジャポン、パリ、フランス
2007
「Pictures」新宿眼科画廊、東京
2005
「下道基行展—戦いのかたちー」INAXギャラリー2、東京
2001
「musashino」exhibit LIVE、東京

【グループ展】
2020
「everything you’ve ever wanted is on the other side of the planet」Angewandte Innovation Laboratory, ウィーン、オーストリア
「第58回ヴェネチア・ビエンナーレ国際美術展 日本館展示帰国展 Cosmo-Eggs|宇宙の卵」アーテゾン美術館、東京
「現代アートにおける「時間」ーコレクション展」高松市美術館、香川
2019
「EAPAP 2019 :島の歌 the Island Song」済州4.3、済州島、韓国
「Prologue」Cité internationale des arts – Site de Montmartre、パリ、フランス
「Ultimate deal」文化備蓄基地、ソウル、韓国
「Fieldwork」PHOTOFAIRS 上海、中国
「世界を開くのは誰だ?-リニューアルオープン記念 コレクション展-」豊田市美術館
「Distance intime 石川コレクション」MOCO、マルセイユ、フランス
「2019-Ⅰ コレクション・ハイライト+特集「ある心の風景Ⅰ―風景と記憶」」広島市現代美術館
「宇宙の卵」ヴェネチアビエンナーレ2019日本館、ヴェネチア、イタリア
「国立国際美術館コレクション:美術のみかた 自由自在」豊橋市美術博物館
2018
「国立国際美術館コレクション:美術のみかた 自由自在」福岡県立美術館、福岡
「MOVING STONES」KADIST、パリ、フランス
「Our Daily Our Border」大館、香港
「光州ビエンナーレ2018」光州、韓国
「高松コンテンポラリーアート・アニュアルvol.07」高松市美術館、香川
「県美コネクション」岡山県立美術館、岡山
「If These Stones Could Sing」 KADIST サンフランシスコ、アメリカ
2017
「MOTサテライト」清澄白河周辺(東京都現代美術館主宰)、 東京
「Immortal Makeshifts」Mullae Studio M30 、ソウル、韓国
「Moving/Image」アルコ美術館 、ソウル、韓国
「ESCAPE from the SEA」マレーシア国立美術館 、マレーシア
2016
「Soil and Stones, Souls and Songs」Museum of Contemporary Art & Design マニラ、フィリピン
「美つくりの里・旅するアート2016」津山文化センター、岡山
「岡山芸術交流2016」後楽館高校跡、岡山
「THE TOKYO ART BOOK FAIR 2016」京都造形芸大東北芸工大 外苑キャンパス (MichiLaboratoryとして)
「さいたまトリエンナーレ2016」《新しい骨董》で参加
「アッセンブリッジ・ナゴヤ 2016」港まちポットラックビル、愛知
「」S-HOUSE Museum、岡山
「2015フォトシティさがみはら受賞作品展」新宿ニコンサロン、東京
2015
「開館20周年記念コレクション展II:時と意識-日付絵画とコレクション」豊田市美術館、愛知
「他人の時間」シンガポール美術館(巡回展)
「第四回I氏賞受賞作家展」岡山県立美術館、 岡山
『境界のあいだー文化庁メディア芸術祭鹿児島展』かごしま文化情報センター、鹿児島
「東京国際写真祭2015」ART FACTORY城南島、 東京
『2015フォトシティさがみはら受賞作品展』相模原市民ギャラリー、神奈川
「Our Land/Alien Territory」Central Manege、ロシア、モスクワ
「堂島リバービエンナーレ2015」堂島リバーフォーラム、大阪
「ヒロシマを越えて」The Genia Schreiber University Art Gallery、テルアヴィヴ、イスラエル 
「MAMコレクション001:ふたつのアジア地図――小沢剛+下道基行」森美術館、東京
「他人の時間」東京都現代美術館・東京、国立国際美術館・大阪
2014
「Turning points」ハンガリー国立美術館、ハンガリー、ブダペスト
「隣り合わせの時間ーTime Sharing」OCAC、沖縄
「どちらでもない/どちらでもあるーコレクション展」広島市現代美術館、広島
「Art trip vol.01窓の外、恋の旅。/風景と表現」芦屋市美術博物館、兵庫
「Once is not enough」Audio Visual Pavilion、ソウル、韓国
「恵比寿映像祭2014」東京都写真美術館、東京
2013
「返常: アジアンアートビエンナーレ2013」国立台湾美術館、台中、台湾
「六本木クロッシング2013」森美術館、東京
「1年目の消息ー語りかけることができる君」つなぎ美術館、熊本
「あいちトリエンナーレ2013」名古屋、愛知
「Art Court Frontier 2013」アートコートギャラリー、大阪
「超訳・びじゅつの学校」十和田市現代美術館、青森
「d design travel YAMAGUCHI EXHIBITION」D&DEPARTMENT d47 MUSEUM、東京
「路上と観察をめぐる表現史—考現学以後」広島市現代美術館、広島
「第6回I氏賞選考作品展」天神文化プラザ、岡山
2012
「岡山芸術回廊」岡山後楽園、岡山
「UTOPIA-何処にもない場所-」ART BASE MOMOSHIMA、広島
「MOT アニュアル2012 風が吹けば桶屋が儲かる」東京都現代美術館、東京
「光州ビエンナーレ2012」光州、韓国
「水と土の芸術祭2012」新潟
「この素晴らしき世界」広島市現代美術館、広島
「再考現学/痕跡の風景」国際芸術センター青森、青森
2011
「Living in an Out-Of-Place」鳳甲美術館、台北、台湾
「NOWHERE」日本国際交流基金ベトナム日本文化交流センター、ハノイ、ベトナム
「TOKYO STORY 2010」トーキョーワンダーサイト渋谷、東京
「ブレイカープロジェクト:絶滅危惧・風景」大阪近代美術館準備室、大阪
2010
「共鳴する美術」倉敷市立美術館、岡山
「岡山・美の回廊」岡山県立美術館、岡山
「TOKYO PHOTO 2010」academyhills 40、東京
2009
「第一回 所沢ビエンナーレ美術展 引込線」西武鉄道旧所沢車両工場、埼玉
2008
「VOCA展2008」上野の森美術館、東京
「アトミックサンシャインの中へ」(Puffin Room、ニューヨーク、アメリカ/代官山ヒルサイドフォーラム、東京/沖縄県立博物館・美術館、沖縄
2007
「金庫室のゲルトシャイサー」広島アートプロジェクト2007、旧日銀広島支店、広島
2006
「Re-Fort Project展」中崎透遊戯室、東京
2005
「秘伝ディメンション」タマダプロシェクト、東京

【著書】
2019 「14歳と世界と境」Michi Laboratory 、大館當代美術館 (300部/香港)
2017 「新しい石器」Michi Laboratory (100部/韓国/石付き)
2016 「風景に耳を澄ますこと」黒部市美術館(1000部/石付き/完売)
2015 「Dusk/Dawn」Michi Laboratory (800部)
2015 「bridge」(限定5部)
2013 「torii」Michi Laboratory (1000部)
2013 「日曜画家」halken LLP(普及版/500部)
2012 「境界のかたち」Michi Laboratory(完売/再販未定)
2010 「日曜画家」Michi Laboratory(完売/再販未定)
2005 「戦争のかたち」リトルモア

【ワークショップ】
2018 《見えない風景》ー京都/三条会商店街編ー ゲストハウス Talbot周辺
2017 《見えない風景》ー香川/丸亀編ー 丸亀市猪熊弦一郎現代美術館周辺
2017 《香港路上》香港/rooftop institute
2017 《見えない風景》ー東京/清澄白河編ー 東京都現代美術館周辺
2016 《見えない風景》ー神奈川/葉山編ー 神奈川県立近代美術館葉山館周辺、神奈川
2016 《見えない風景》ー愛知/名港編ー 港まちポットラックビル周辺、愛知
2015 《見えない風景》ー兵庫/芦屋編ー 芦屋市美術館近辺、兵庫
2015 《日常とりあえず観察》国立国際美術館、大阪
2015 《見えない風景》佐倉市立美術館近辺、千葉
2014 《見えない風景》YCAM近辺、山口
2014 《撃つか撃たれるか》小湊鉄道、中房総国際芸術祭、千葉
2013 《見えない風景》あいちトリエンナーレ2013、愛知
2013 《見えない風景》東北芸工大学校内、山形
2013 《見えない風景》広島市現代美術館周辺、広島
2012 《見えない風景》水と土の芸術祭、新潟
2012 《見えない風景》東北芸工大学校内、山形
2010 《見えない風景》国立国際美術館周辺、大阪
2010 《HOME-MADE STORY》明治大学、東京
2009 《HOME-MADE STORY》秋吉台国際芸術村、山口

【レジデンス・プログラム、研修】
2018 V54 (香港)
2012  秋吉台国際芸術村(短期/フェローシップ)
2011-2012 国際芸術センター青森滞在、青森
2010-2011 トーキョーワンダーサイト青山、東京
2007-2008 パリ国際芸術都市、パリ、フランス

【受賞】
2020 岡山芸術文化賞
2019 Tokyo Contemporary Art Award
2015 さがみはら写真新人奨励賞
2014 鉄犬へテロトピア文学賞
2013 第6回岡山県新進美術家育成『I氏賞』大賞
2012 光州ビエンナーレ2012 NOON芸術賞(新人賞)
2007 『パリ賞』武蔵野美術大学

【コレクション】
高松市美術館
石川文化振興財団
カディスト美術財団 (サンフランシスコ、アメリカ)
豊田市美術館
広島市現代美術館
森美術館
つなぎ美術館
国立国際美術館
岡山県立美術館
S-House Museum

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【トーク】
武蔵野美術大学美術館、川崎市岡本太郎美術館、大原美術館(第41回大原美術館美術講座)、吹上美術館、河合塾美術研究所、国際芸術センター青森、明治大学、かじこ、Mac、遊戯室、Art center Ongoing、NADiff、ココラボラトリーなど
【特別講義】
京都造形大学、京都市立芸術大学、金沢県立芸術大学、秋田公立大学、神戸大学、東京大学、東京芸術大学、和光大学、武蔵野美術大学、東京芸術大学、シブヤ大学、山口県立大学、京都造形大学など
愛知教育大付属岡崎中学校、新潟市立小新中学校
【主な撮影】
2013 『d design travel YAMAGUCHI 』 (「In-Town Beauty 08」/D&DEPARTMENT)
2011-2012 展覧会『再考現学1-3』(国際芸術センター青森)
2010 展覧会『アンサンブルズ2010-共振』大友良英(水戸芸術館)
2009 Freepaper『UR STYLE』クロアチア特集 
2008 犬島アートプロジェクトPOSTCARD (直島福武美術館財団)
2005 INAX BOOKLET『泥小屋探訪』 (INAX)
主な寄稿/連載
2018 『NANG Magazine』(「Issue 4/NANG/[Dusk/Dawn]写真、2ページ)
2017 新聞連載『14歳と世界と境』(「明報」香港の新聞、毎週日曜日全10回)
2017 新聞連載『14歳と世界と境』(「山陽新聞」毎週日曜日全10回)
2014 写真と文『梅香堂について』(フリーペーパー『FLAG』2014APR_MAY 01)
2013 新聞連載『14歳と世界と境』(「中日新聞」夕刊毎週水曜日全20回)
2013 『モニュメントが生まれるとき』(「母の友」2013年5月号/福音館書店/2ページ)
2013 写真掲載 (『d design travel 山口編』)
2012 「廃墟を使って秘密基地をつくってみる」(書籍『秘密基地の作り方』/飛鳥新社/6ページ)
2006 特集記事『RIDER HOUSE』(雑誌『sapectator』/12ページ)
2003-05 写真連載『戦争のかたち』(雑誌『sapectator』/全4回)
主な掲載紙
・雑誌『美術手帖』(美術出版社/「アートと人類学」インタビュー/2018年6月号)
・雑誌『美術手帖』(美術出版社/「アートコレクティブ」新しい骨董インタビュー/2018年4月号)
・雑誌『日本カメラ』(日本カメラ社/今月のPHOTO&PEOPLE/2015年11月号)
・雑誌『SPUR』(集英社/「ART」コーナー/2015年6月号)
・雑誌『IMA』(「子どものための写真学校」/9号/2014年秋発行)
・雑誌『BIG ISSUE』(「クリエーターの視点」/215号/2013年5月15日発行)
・雑誌『d design travel 山口編』(D&DEPARTMENT PROJECT/2013年2月1日)
・書籍『芸術は社会を変えるか?』(吉澤弥生/青弓社)
・書籍『じぶんが切りひらくアート』違和感がかたちになるとき(高橋瑞木/フィルムアート社)
・書籍『これからを面白くしそうな31人に会いに行った。』(TOKYO SOURCE著/ PIE BOOKS)
・書籍『この写真がすごい2008』(大竹昭子著/朝日出版社)
・雑誌『旅』(新潮社/2010.8)
・雑誌『CAPA』(学研/2010.5)
・雑誌『BRUTUS』(マガジンハウス/No.668, No.701)
・『沖縄タイムス』(2014.12/5「美術月報」土屋誠一)
・『山陽新聞』(2014.12/11朝刊/松山定道)
・『津山朝日新聞』(2014.12/15夕刊)
・『中国新聞』(2013.3/5朝刊)
・『産經新聞』(2012.9/14)
・『日本経済新聞』
・『読売新聞』
・『毎日新聞』
など

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下道 基行 Motoyuki SHITAMICHI
2001年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。日本各地に残る軍事施設跡を調査・撮影した「戦争のかたち」シリーズや、日本の植民地時代の遺構として残る鳥居を撮影した代表的なシリーズ「torii」など、旅やフィールドワークをベースにした制作活動で知られる。(124文字)
http://www.m-shitamichi.com

Graduated in 2001 studying oil painting at Musashino Art University. Known for creating work based on fieldwork of areas of land, he researched and photographed military base remains in Japan for the series "Forms of War", and also Japanese 'torii' gates as remnants of Japan's colonial history in his famous series "torii".
http://www.m-shitamichi.com


下道 基行
2001年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。日本各地に残る戦争遺構を調査撮影したシリーズ『戦争のかたち』(2001-2005)、自らの祖父の遺した絵画を追って旅したシリーズ『日曜画家』(2006-2010)や、日本の国境線の外側を旅し日本植民地時代の遺構の現状を調査するシリーズ『torii』(2006-2012)など。旅やフィールドワークをベースにした制作活動を続けている。
(188文字)

下道 基行
1978年岡山生まれ。2001年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。日本国内の戦争の遺構の現状を調査する「戦争のかたち」、祖父の遺した絵画と記憶を追う「日曜画家」、日本の国境の外側に残された日本の植民/侵略の遺構をさがす「torii」など、展覧会や書籍で発表を続けている。フィールドワークをベースに、生活のなかに埋没して忘却されかけている物語や日常的な物事を、写真やイベント、インタビューなどの手法によって編集することで視覚化する。
(216文字)

下道 基行
2001年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。2003年東京綜合写真専門学校研究科中退。砲台や戦闘機の格納庫など日本各地に残る軍事施設跡を4年間かけて調査・撮影し、出版もされた「戦争のかたち」シリーズ(2001-2005)や、アメリカ・台湾・ロシア・韓国など日本の植民地時代の遺構として残る鳥居を撮影した代表的なシリーズ「torii」(2006-2012)など、旅やフィールドワークをベースにした制作活動で知られる。彼の作品は、風景のドキュメントでも、歴史的な事実のアーカイブでもない。生活のなかに埋没して忘却されかけている物語、あるいは些細すぎて明確には意識化されない日常的な物事を、写真やイベント、インタビューなどの手法によって編集することで顕在化させ、現代の私たちにとってもいまだ地続きの出来事として「再」提示するものである。2012年に開催された光州ビエンナーレでは新人賞を受賞。
(394文字)


Graduated from Musashino Art University's Department of Painting in 2001, followed by postgraduate studies at the Tokyo College of Photography until 2003. Shitamichi is now known for publications based on fieldwork. For instance, during a four year period, he traveled around Japan, surveying and photographing the remains of gun emplacements, fighter hangars, and other military structures, publishing his work as the Bunkers series (2001-2005). He has also photographed Japanese shrine gates remaining in America, taiwan, Russia, korea, and other locations from Japanese colonial days, publishing his work as the well-known torii series (2006-2012). His works neither document scenes, nor archive historical facts. Instead, they concern stories that had been largely forgotten, buried by our everyday lives and concerns, or everyday things that are so insignificant that they never reach our subconscious. Shitamichi captures them through methods such as photography, events, and interviews, edits them to give them a tangible existence, and presents (re-presents) them as events that are still relevant to us today. In 2012, Shitamachi won the Gwangju Biennale Noon Award for emerging artists.


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下道 基行
1978年岡山県生まれ。2001年武蔵野美術大学造形学部油絵科卒業。2003年東京綜合写真専門学校研究科中退。大学卒業後4年間、時間をみつけては日本全国を旅し、2005年日本全国に残る 軍事遺構 の現状を調査撮影した『戦争のかたち』をリトルモアより出版。その後、自らの祖父の遺した絵画を追って旅したシリーズ『日曜画家/Sunday Painter』を展示と手製本の写真集で発表。その他、2004年より日本全国で放置されている軍事遺構を一時期だけスクウォット/再利用/イベントを起こしながらそれを記録していくプロ ジェクト「Re-Fort PROJECT」。2006年より日本の国境線の外側を旅し、日本植民地時代の遺構の現状を調査する『(torii)』、最近では用水路に架けられた木の板やブロックで出来た”橋のようなもの”を撮り集める『bridge』など。
幼い頃、近所の崖に貝塚を堀に出かけたり古墳に関心を持ち、考古学者になることを憧れていた。現在では、写真や文章を表現手段に、モノ/コトの残り方/消え方、それらを内包する風景の在り方など、目の前に広がる風景に興味を持ち、旅やフィールドワークをベースに、表現を続けている。 http://m-shitamichi.com/
(505文字)

Born in 1978, works and lives in Tokyo, Japan
BA in Fine Art (Oil Painting), Musashino Art University, Japan
After his graduation, he researched and travelled all over Japan, and he photographed the series of landscapes with abandened buildings of war are. The original functions of those remains were lost after 60 years passed after war, however people have customized the buildings and facilities into house, flower gardens, zoo and so on. The works are published as a collection of photography Bunkers, little more, 2005. The other projects include “Sunday Painter” (2005-2010), in which he visits the owners of the hobby-like paintings drawn by his grandfather, and “A Concealed Landscape” (2010/the national museum of art, Osaka), in which he conducts a workshop to draw a map with letters, discovering tiny and small landmarks at street corners.
His intention is to visualize unseen memories and values in rapidly changing landscapes through research and fieldwork may be originated in his childhood dream to be an archeologist. His works were exhibited in various places; “Fantomes” (2008/espase japon, Paris), “Torii” (2008/Puffin Room, N.Y.), “Sunday Painter” (2010 /Contemporary Art Center, Ibaraki), “Dusk/Dawn” (2011/Nap Gallery, Tokyo). Artist-in-residence programs in: Cite International des Arts (2007-2008/ Paris), Tokyo wonder site Aoyama (2010-2011/ Tokyo), Aomori Contemporary Art Center(2011-2012/ Aomori)

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【MAGAZINE】

2007年10月 1日 04:26 下道 基行 */?>

■特集記事『RIDER HOUSE』

riderhouseP-1.jpg

北海道で見つけた旅小屋ライダーハウス。ここはライダーだけでなく多くの旅人たちが集まり、独特のルール、そして奇妙なスペースが存在している。 北海道で誕生したこの旅文化をルポし、地元の人々によって厚意で間貸しされた(無料の場所も多い)旅空間、そして旅する人々を中心に撮りためている。
雑誌『spectator』vol.15(06.2月)
(写真+文:下道基行/11p)
(06.2月発売)

(photograph+text/11p)
magazine『spectator』vol.15(Editorial Department/2006)

■写真連載『戦争のかたち』

雑誌『spectator』vol.10〜13
(写真+文:下道基行/3p)

(photograph+text)
serial photo,total 4 times
 magazine『spectator』vol.10〜13

写真集『戦争のかたち』

2007年9月26日 13:36 下道 基行 */?>

 表紙を見てヨーロッパのどこかの写真だろうと思ったが、ちがった。北海道の十勝沿岸。四角いコンクリートはトーチカだ。
 えっ、どうして日本にトーチカが?太平洋戦争で上陸戦が行われたのは沖縄だけで、原爆が落ちて降伏したので本土に米軍は上陸しなかった。だが軍部はもしもの場合を考えて全国の沿岸に無数のトーチカを造っていた。つまり使われなかったトーチカである。
  弾痕が残る廃墟を見て戦争の遺構に興味を持ち、もっと見たくなってバイクで全国を探してまわったと書いている。トーチカだけではなく、砲台、戦闘機を格納する掩体壕、兵器の試験場などを撮り集めた。
 こういう旅の興奮は理解できる。ハンティングの喜びに近い。ひとつ見るともっと見たくなる。探しにくいものほどおもしろい。だが、問題はどうとるか、撮られたものをどう編集するかだ。
 この本はその点が明快である。ひとつひとつに展開図がついている。トーチカならばどれくらいのサイズで、壁の厚みはどうで、入口はどこにあるかということが描かれている。砲台や掩体壕は現在どう使われているのか図解も載っている。つまり一個の建造物として見ているのだ。
 戦後六十年の間に日本の風景は劇的に変わったが、これらのコンクリート製品は壊そうにも壊せない堅牢さゆえに生き残った。物置になったり、倉庫になったり、ベンチになったり、人の住む家になったりしている。著者はむしろそのことに注目し、おもしろがっている。モノがたどる歴史に惹き付けられているのだ。
環境、建築、デザインとさまざまな方面にイマジネーションをかきたてる。その大元に戦争がある。

大竹昭子(作家)
『Esquire』(2005.OCT)

日記

2007年9月26日 05:38 下道 基行 */?>

こっち着て、このブログが書ける環境になるまで、ノートに書いてた日記をアップします。
別にどうって事ないので、暇な人はどうぞ。

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9月4日

6時40分時間通りにパリシャルルドゴール空港着。
空港のアメックスでTCをユーロにして、Roissybus乗り場でシンガポール人の華僑系?カップルと話す。
彼らのパリ滞在は4日間だけらしく、こちらが1年というと「いいねぇ」とうらやましそう。今まで1、2週間程度の海外旅行中にこの反対の状態を経験して来ていたので、少し優越感。
バスに乗り、終点オペラガルニエを目指す。地下鉄の方が安いし目的地までのアクセスもいいのだが、ガイドブックに旅行者を狙った犯罪が大変に多く特に朝晩は要注意とのことだったので、市内へはバスを選んだ。バスに揺られながら、空港から兎町の中心に向かう郊外の閑散とした風景は、成田や台北やサイパンやどこも似ていると感じた。建物は町に比べて少ないが、廃墟がやけに目立つし、どこか牧歌的でそうではない風景。巨大なショッピングセンターIKEAがあったりして、部屋の事とかも考えつつオペラガルニエ着。
朝日に照らされたベタベタなゴッシック町並み、9月頭なのにもう冬の始まりのようなカチンと張りつめるような冷たい空気の中、背中に10キロ以上のカメラが入ったリュック、前に貴重品類を詰め込んだ肩掛け、さらに手には95リットツのスーツケースを押していて、数分歩くと汗が吹き出してきた。さらに先月日本で買ったばかりのスーツケース(リモア似の安物)のタイヤは石畳の通りでガタガタと壊れそうな音を出している。
まずはオペラ大通りをルーブルまで出て、そこからセーフ川沿いにひたすら歩く。仕事に向かうのだろう慌ただしい人の流れの中をもたもた歩きながら、あーーとんえもないパリ中心街に来たんだなぁと思いながら1時間、思った以上に遠い我が家に不安になり始める。何度か通り沿いの店の店員に道を聞きながら歩く。笑顔で自信満々で全然違う場所を教えてくるヤツも多かったが、文句の一つも言えず全て「メルシー」で。
目的地であり今日から我が家になるcite international des arts着。しかし、ノートルダム寺院要する超有名観光地でもありパリ市の発祥の地でもある「シテ」を名前に付けたかったのは分かるが、施設はシテ島の対岸を通り過ぎる事10分(手ぶらで5分)、サンルイ島の対岸である。
一階の受付で面倒くさそうに片言の英語を話すTシャツ姿の小太りの野郎に入居の作業をしてもらい部屋へ入る。4階のセーヌ川側の部屋、ガランとした10畳くらいのアトリエとドアは無く壁だけで隔たれた3畳ほどの寝室、あとキッチンとシャワー&トイレと1畳半くらいの倉庫。東京都内で借りるなら15万円前後くらいはする物件だろうか。(後日談によるとこの辺りでもそのくらいはする部屋らしい)広さは十分すぎるほど。
強いて言えば、入居前に学校の留学課や色々な人からも「セーヌ川沿いで、窓からノートルダムやエッフェル塔までも見える素敵な部屋ですよ」と聞いていて期待していた部屋の窓からの風景は、ノートルダムとエッフェル塔の上の方以外は建物のすぐ前に鬱蒼と茂る並木に阻まれことごとく見えない…。期待は残念の元。(造語)
何もないアトリエにぽつりと置かれたテーブルで小太りの差し出した書類にサインすると、契約完了らしく小太りは出て行った。

とりあえず、バッグを置いてシテ島に橋で渡りノートルダム寺院に行く。施設を出ると、もう町は朝の通勤モードから観光モードに変わって、通りに観光客が溢れている。やけに中国人団体観光客が目につく。中国人のおやじはNIKONの巨大なデジタルカメラでバジャバシャ写真を撮りまくっている。日本を発つ前に読んだ「ニューズウィーク」にそんな中国人観光客を世界の観光地の人々は「21世紀の日本人観光客だ」と書いていたのを思い出した。日本人観光客は数人単位でポツポツといて、意外と地味にしている。こういった話をすると「日本人観光客はもう成熟した」などと聞くことがあるが、本当にそうだろうか。多分人それぞれ。

これまで1年に2、3度の国内外旅行(取材)をして来た。そのほとんどがバイトの休みの関係もあって1、2週間の旅だ。そんな旅に出かける時は、ある程度の行く場所の予習計画を建てるし、それなりの意気込みというかある種の旅のテンションを持って出発し行動していたように思う。観光地は好きな方じゃないけど、「せっかく来たんだしとりあえずコレくらいは見とかないと」で、こういった場所も押さえてきた。つまりはこうした、その土地の有名な食事を食べて有名な風景をを眺めるのが「観光」というものなのだろうし、「観光地が嫌いだ」などと言う旅人でさえ、この巡礼的な「観光」からはなかなか逃れる事ができない。
でも今はこの場所に1年住むということで、テンションを見つける事もできず日本のままのテンションを引きずりながらここにつっ立っていた。昨日まで日本にいた自分がこのベタな観光地のど真ん中に目的の無くフラフラしている事の違和感に満ちているのだ。

お腹がすいたので、散歩で見つけた地元っぽいパン屋でクロワッサンとチーズの入ったパンを買い部屋に帰って食べる。ムサビから来ているもう一人の日本人ナホシ君に内線で連絡をしてみる。彼は寝ていたみたいで、一時間後にウチに来てくれ、この施設についてや町の事、便利な店、インターネット、居るものとかいろいろな事を教えてもらう。その後、実際に近所の安いスーパーや電気屋、雑貨やを教えてくれながら2人で2時間ほど散歩をして、その後、七星君の部屋でビールを飲みながら夜に夜になるまで色々とくっちゃべる。七星君は髪を後ろで束ね痩せた村上隆の様な風貌だが、温厚というか刺々しさが無い雰囲気、制作もコンセプチャルアート云々じゃなくて純粋に描く行為を楽しもうとするタイプみたいでいい感じ。ビールは500ml8本で8ユーロと意外と安い。

9月5日

時差ぼけのせいで、深夜2時、4時、6時と2時間おきに目が覚める。朝6時にはもう寝れなくなり起きだす。
倉庫に山積みになっていた備品や前の住人が置いていった家具をガランとした部屋に配置してみるが、絵を描いたりするような広いアトリエが、いくつかの家具で構成できるはずもなく、部屋はガランとしたままだった。
絵を描かない僕にとって、メインはフィールドワークであり、アトリエは文章を書いたりネットをしたり情報を集めまとめていく編集の場所となるだろう。
メインの仕事場になるだろう大きな黒いデスクを外に向けて置くか、今までしてきた様に壁向きにするかで1時間ほど悩み、結局中途半端な角度にしたまま散歩に出る。

Tシャツに上に一枚羽織って出ると冷たい空気がちょうどいいが、日差しが出るとすぐに暑くなった。白人の観光客なんかは元からTシャツ姿でウロウロしている。
昨日七星君に教えてもらったスーパーやショッピングモールを反芻する様に巡り、帰りは少し迷ってみる。

部屋に戻り、買う必要のある物をとりあえずリストアップして、ノートパソコンを持ってポンピドゥを目指す。最近パリは観光事業の一環で公共の場所に無料ネットサービスを行っていて、無線LANに対応していれば、ものの数秒でネットをつなげる事が出来る。展示を見る事も無く、入り口付近のネットスペースに腰を下ろし、ノートパソコンを膝に置いて溜まったメールをチェックする。
その後買い物をして部屋へ戻ると、ちょうどのタイミングで七星君からの内線が入る。この施設には最初から内線電話が繋がっていて、受話器を取って部屋番号をダイヤルすると、直通が無料で掛かるシステム。ここシテ寮で交流の為に月一で開かれるパーティーは、ナンパ目的の輩も多いらしく以前ここに住んでいた女性からは、むやみに部屋番号を教えるのは辞める様にとのアドバイスを受けた。
少し話が外れたが、ナホシ君からの内線は「今夜、ボザール(国立の美術学校)に通ってる女性がホームパーティーをするから一緒に行こう」というもの。待ち合わせの時間までまだ時間があったので、もう一度散歩に出る。
夜七時、外はまだ明るい。七別館(僕は本館)の前に時間通りに行くと、ナホシ君と日本人女性が待っている。女性はリエちゃんと言って別館の七星君の向かいに住むピアノの演奏者。3人でRER(地下鉄)でジュレス(Jaures)へ向かう。電車内も町も黒人が多く、七星君は「この辺りは治安がよくなさそうだ」と言っている。
部屋は駅から徒歩5分くらいの薄暗い建物の4階の部屋。中に入ると、家主のミロちゃん、ルームメイトのニーナ、2人ともボザールに通う予定で、あと国内の助成金を受けてパリに住む伸君。みんな日本人アーティストだ。どうやら今日ニーナはパリに着いたらしく歓迎会のようだ。ミロちゃんが作ったパエリアはとてもおいしかった。みんな歳も専門も違うけど、すぐに打ち解け、酒はビールからワインへいき、最後はよくわからない甘くて強いお酒へ移行し、記憶が無くなる。

9月6日

ソファーで目覚める。

2007-09-26 05:38

読書

2007年9月16日 04:35 下道 基行 */?>

情熱大陸で大竹伸朗がやっていた噂が、遥々パリにまで届き、知人はyoutubeで探したが見つからなかったらしい。
「そこまでしてみたいとは思わない」とかほざきつつ俺は、彼の著書「既にそこにあるもの」をスーツケースの隅に忍ばせて、パリに持って来ていた。
日本で読んでてバイブルというわけでもないが、正露丸みたいに何かあったら服用する程度で持って来ていた。


【P59−P60抜粋】
  画家とか彫刻家、美術家、造形作家、どう呼ぼうがどうでもいいが、そう自らを名乗る人間にとって、作品制作における”意図”とは一体何なのだろう。意識的な作品意図をどこかしら超える瞬間のないものは、もはや”作品”とは呼べない。僕はこの”作品”と”意図”の関係が今でも不思議でならない。
 古い佇まいを持つ料理屋の便所の壁はとてつもなく美しいものが多いが、それをそれをくりぬいて美術館の壁にかけ、タイトルが「料理屋の便所の壁」だったとしたら、多くの人はそこに抵抗を感じるだろうか。僕はそうした壁に全く異なる意図的なタイトルをつけたり、そうした行為に意味を持たせることなく、便所からはがした美しい壁に、「便所の壁」というタイトルを付け、人々がそのタイトルを見ようが見まいが同じように「美しい」と思えるようになればいいと思う。なぜならそれは便所の壁なのだし、それは美しいのだから。


ありがとう、今日の腹痛も少し楽になった気がします。
というか、今文章が書けなくて、写してみたくなっただけかも。


2007-09-16 04:35:14

前回の台湾日記

2006年10月19日 15:06 下道 基行 */?>

Cのデスクトップを整理していると、前回台湾に行ったときの日記が出て来たので、今思う事と一緒にアップしておく。

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3泊4日の台湾旅行は、残念なことに台風と歩調がぴったり合ってしまった。
電車での台湾半周の予定は、電車は全線がストップのために、結局2泊3日間は全く台北に足止めをくらってしまった。しかしと言うかそのおかげで、台北の路地にひっそりとある「おおしろ」という名の日本人が多く集まるバックパッカーが集まる宿に泊まり、1日中薄暗い談話室で、「今までや今からの旅の話」や「怖い話」「恋の話」等々修学旅行の夜みたいな話をしながら多くの旅人と酒を飲み交わした。何か長い旅の途中、どこかも分からない場所に迷い込んだような時間だった。雨が小降りになると、台風に飛ばされそうになりながら何人かで夜市を散策したりもしたし、それなりに濃厚な時間を過ごせた。
「おおしろ」は、日本人が経営しているために宿泊客の多くが日本人だったことで、いい意味でも悪い意味でもラクチン過ぎた。

3日目に無理矢理走り始めた特急列車「自強号」に乗り込んで、朝一で「玉里」という田舎町を目指した。途中後ろの座席から見知らぬおじいちゃんに「あのボロい家は日本人の製糖工場の官舎」「あれはビンロウの木だよ」などと、上手な日本語で解説をしてもらいながら窓の外を眺める。噛みタバコに似た効果のあるビンロウの木は背の高いヤシの木のようで、日本統治時代に開拓されたという広大な田園風景のなかに所々茂り、台風の強い風に幹を激しく揺らしていた。
通過する駅は、、、と日本時代の名残を残している。到着した玉里は、一週間程度の旅行で日本人が立ち寄るような観光資源を持たない街。この街には神社の跡がきれいな形で残っていると言う。北回帰線よりも南なので木々や町並みは沖縄のように南国そのものだが、曇った天気のせいもあり寂れ具合が日本なら山陰の小さな街のような雰囲気を感じた。
少し雨のやんだ瞬間を狙って玉里駅の裏山近くの住宅地で、今回の旅初の撮影のセッティングをする。住宅地にまぎれて立つ鳥居跡は、針金で作られたバスケットゴールやテレビ用のアンテナがくくりつけられ、さらには一本の支柱は家の柱として取り込まれていた。
どこからとも無くチャリンコに乗ったガキ達が集まってきた。興味はあるが言葉は通じなし怖いのだろう、歩行者天国の人気のないパフォーマーのように僕はガキ5人に遠巻きで観察されている。手帳にドラえもんの絵を描くと、すぐに人懐っこい笑顔で近づいて来た。ジャパニメーションは世界共通言語か。(調子に乗って「カメハメハー!」って動作付きでやったら、ポカーーンとしてたけど…。)
一人の少年は家からしゃべる電子辞書を持って来て、こちらをちらちら見ながら「こんにちは」「さようなら」などと日本語を鳴らし始めた。片手間に少しの台湾語で電子辞書に返事をすると、ガキたちは外国人との初の会話にはしゃいでいた。
神社の跡を撮影しいると、「こっちのもあるよ」と言わんばかりに無言で森の奥にある遺構を子供たちが案内してくれた。3脚を立て、時間を忘れ撮影に没頭していると、パチパチと音が聞こえるので子供たちを見ると、ヤブ蚊の襲撃に遭い、かゆそうに足を叩いている。さらに撮影を続けていると、少年が電子辞書で叩いて、「どれぐらいかかりますか?」だって…。爆笑しながらガキたちにお礼と謝罪。
雨が降り始めたので山を下りて台北へとんぼ返り、これが唯一の予定通りの行動になった。ま、これも旅。と、思うしかない。帰りの電車で知り合ったサーファーっぽい台湾人男性は「ヒカル」という名前。窓の外が暗くなる中、僕らは筆談で会話を続けた。時折新幹線の売り子のように女性がカラカラとカートに引いたやってくる。「弁当売り」らしく、「ベントー!ベントー!」と言っている。
いろいろなところに日本の亡霊を見るこの国。

「おおしろ」に帰ると、宿泊客の唯一の韓国人の女性が、まだ夜8時半というのに談話室で話す友人たちに「うるさい!」と不機嫌そうな顔を見せに来たり、女性用の部屋でヒステリックな音を立てている。先日、テレビで韓国映画女優が日本韓国の相違を聞かれ「日本人が嫌に思った事を内面に押し込むこと」を挙げていたことを思い出す。それって悪いこと?

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陸上に誰かが引かれたり、海の上を浮遊している国の境を往復しながら旅をする。
人々の外見や家並みや風景とかは驚くほど似ていても、人々の内面の違いにはいつも驚かされる。
前者の相違は遺伝子的な流れの中で形成され、後者の相違は国境線のように政治的/人為的に形成された、そう思うことがある。

前者特に類似している部分を紐解きながら地球を旅するのも楽しそうだけど、今僕は後者を見ながら狭い範囲で観察したいのかもしれない。

旅していると、今その国にあるイデオロギーの前世代の存在/影のような物と出くわす瞬間がある。
僕が数年前に国内で出会ってしまったのは、戦前の日本。村上龍の『5分後の世界』みたいに。それは自国で異国の文化に触れるような感覚に近かった。僕は知らないうちに戦後に作られた国/国民の方向付けに乗っかって生きて来たわけで、その政策のなかで戦前がバッサリ切り離されていたのだろう。戦争なんていくつもやって来ているのに、1945年を境に戦前や戦後って言葉を使うのも独特だし、「かつてこんな国がこの島国にあった」みたいな感じで、戦前は捉えられてるように思える。

台湾は、色々な国に支配され続けた歴史のなかで形成されている部分が強くて、戦前戦後って切り離す訳じゃなくて苦悩とかも引っ括めて冷静に見つめながら動いて行ってるのだろうか。中国や韓国とは違う、独立国ではない流動性のようなものみたいに。

2006-10-19 15:25:50