下道基行 / SHITAMICHI Motoyukiで「うか」と一致するもの

昨日、島の片隅で。

2020年10月 6日 09:54 下道 基行 */?>
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島にはスーパー「生協」が2件ある。宮浦集落の生協と本村集落の生協。

昨日、
「そういえば、大根がなかったなぁ」と宮浦生協で大根を見ていて、「1本198円で高いし、1本だと長いし使いきれないなぁ」と、半分118円のを買った。葉っぱ側。岡山産。最後の一つだった。
で、夕方、家に帰って冷蔵庫を開けると、すでに大根が入っている。「あぁやってしまった。。」

妻が帰って来て、聞いてみると、僕と同じ時間帯に、本村の生協で半分の大根を買ってきたのだという。最後の一つだったと。
妻の買ったのは、先っぽ側の半分の大根。118円。岡山産。
「あれ?」
取り出してみて、二つの断面をくっつけてみると、ピッタリと合った。
二つはもともと一つの大根だったのだ。


切られて、別々の集落に送られた半分ずつの大根を、僕ら夫婦はわざわざ買い集めて、今、台所で一つとなった。巡り巡って出会った奇跡…とでも言っておきましょうか。
いやいや、割高なんですけど。。

夕飯で、カレイと煮物にしました。

(おしまい)


家族の生き方/直島の事情 2

2020年10月 1日 08:57 下道 基行 */?>


直島に住んでみて見えてくる、この半年で見えた事を引き続き書きます。


まずは【食】の問題。
想像しやすい事としては、島は物価が高い。スーパーの食材は選択肢が少なく値段も高い。島だからしょうがないが、船で15分の対岸では250円のビールが200円、食材も豊富。薬や文房具や電化製品など手に入りにくいものも多いが、通販は早いし独自のルールで便利。ただこれの対応として、島民たちは15分の対岸の巨大スーパーへ二週間に1回とかで大量の買い出しに行く。ここでは、3000円以上で生鮮食品以外は無料で翌日島へ届けてくれるサービスをやっている。
あと、愛知の時は、週末に外食で様々な選択肢があったしよく利用していたが、直島の場合、飲食店やおしゃれな居酒屋もあるがほぼ全て観光客用で、島民はあまり利用しない。あるアート関係者は「昔の静かな直島は好きだったが、数年前に行ったら原宿竹下通りみたいな店が立ち並んでいて興ざめした」と話していたが、それもうなづける。悪くいうと味的にも値段的にも「海の家」的な存在の店が多い。店構えもある意味”竹下通り”的な店もある。カフェは多数、たこやき屋、タピオカ屋、タコス屋、カレー屋とか。つまり、観光客のための飲食店であり、日常生活者のための存在にはならない。ただ、観光客はそれでも並ぶ。そういう外に向いた飲食店しかない状況は事実。それを責めようとは思わないが、650円で定食が食べられる店とか、こだわりのあるラーメン屋とか、行きたいなぁ、と二週間に一回くらいは思ってしまう。あと、観光業に流され、古い街並みの残る場所がどんどん変化していくのは大丈夫?と気になる。


もう一つ、小さな田舎の島の問題は【家】事情。
まずは、空き家がない。あるにはあるが大家さんが家具や荷物そのままに放置している家が多く、なかなか貸してくれない。島内は、貸していない空き家だらけなのだ。(若い移住者や役場はその対応を行なっているが。)その中で、貸している家の家賃としては、かつては一軒家で2万3万円と安く借りられたというが、近年、島がアートの観光で盛り上がるようになって、大きく変化してしまっている。カフェやカレー屋や民宿をしたい都市からの移住希望者は後を絶たないし順番待ちの状況。(近所のうどん屋も毎週末大行列ができているしそれを見たら商売人は反応するよな。)なので、借りられる家の家賃は、対岸の岡山側よりも高級かも。さらに付け加えると、光熱費は島値段でかなり高い。(綺麗なワンルームで光熱費込みで5万とか。)しかも、幸運に一軒家を借りられても、借りられた家も直さないと住めない家も多いし、虫や雨漏りと戦わないといけない物件も多い。直島が好きで移住した人で、もっと好きになった人で、仕事もある若い人は、綺麗な家に住むためには、自分で土地を買って家を建てるしか方法はない。それは高価だし最終手段であるが、この島で都会的な生活をしたいならその選択肢しかない。人気の島、需要は高く、供給が追いついていないので、自動的にそうなってしまう。そういう意味では、福岡とか京都とか愛知とか千葉とか、地方都市の郊外とかの方が家も綺麗で破格の安さの物件だらけだろう。直島は離島なのに特殊と言える。

つまり、直島は小さな島で、自然もあるし古い文化もあるが、観光客が多く、移住希望者も多く対岸も近くかなり都会的であり、つまり、家賃や光熱費や食費など、ランニングコストがかかる島でもある。だから、直島の観光業で働く人々も、往復500円の船代(1ヶ月1万円以上)かけても、対岸から通う人も多い。

基本的に、僕は、定期的な収入が見込めない生活をしているので、これまで家賃やランニングコストを最小限に抑えられる努力をしてきた。だからこそ、制作を続けられてきたし、このコロナかでも影響は少なかったと言える。都市部で、家賃8-10万円とかで住むというのは、安定的な定期収入が見込めないとできない、だから、みんな自分の時間を売って仕事やバイトをやり続けないと、制作しながら生きられなくなる。まずは、家賃やランニングコストを最小限に抑えられるのが、制作をしながら生活していく第一歩ではないかとも思える。
(僕の場合、2008-2009年フランスレジデンス、帰国後2009-2010年友人宅を転々として、2010−2011年東京のレジデンス滞在、2012-2019年妻の実家。そして直島と、この十年以上家賃を普通に払ったことがなかった。)
だから、直島が子育てにぴったりで、自分のプロジェクトもあるので、移住の可能性をぼんやりと検討した時。まずは、家賃がほぼ無料である事は大前提だった。そこで妻が島の役場での仕事を得ることができて、そのことで家の紹介や住宅支援を得られて、格安で綺麗な家に住める条件を見つけたのはターニングポイントだった。それがないと移住を考えることすらなかっただろう。(どうしても直島に住みたい移住者は小都会並に高い家賃でボロボロの家に住んでいる現状。)そして、引っ越してみて、直島の子育てや家の事情が見えてきた。そして、僕らが綺麗な家を安価で借りられたことが非常に幸運であったことをあとで知る。
だだし、妻の役場の仕事も3年のみ。住宅も手当も3年のみ。2023年3月まで。その頃娘は5歳だろうか。なんとかその後、新しく仕事や家を見つけて、あと3年、娘が低学年まで暮らしてみるか。僕のプロジェクトがどのくらい続くか。まぁ、なるゆき次第だろう。笑

ご近所さんから「下道さんは福武財団で働いているのですか?」という質問が多いので、一応書いておくが。僕自身、直島のプロジェクトだけをやっている訳ではない。他の様々なプロジェクトが同時進行で進んでいる。その様々な仕事で生活費や制作費をまかなっている。その拠点であるスタジオを、愛知から直島に移動させた。移動の利便ではなく家族との生活を考え。島のスタジオを資料館として”生きた”プロジェクトにしようというのも初の実験。ここは、常にゆっくり考え進めていく場所/基地であり、ここから関東や関西、国外へと移動し仕事をしている起点だ。島という他への移動が少し不自由な場所だが、コロナで移動が出来ない時期だし、より、ゆっくりと深く考える時間を過ごせているのは幸運だったと言える。

2020.10.1

家族の生き方/直島の事情 1

2020年9月29日 11:41 下道 基行 */?>

なぜ、直島での【子育て】を選んだか、書いておく。

僕ら家族が暮らしていた愛知県の郊外は完全に車中心の生活だった。
保育園が終わって公園へも車、公園から家へも車。買い物へも車。駅までも車。
公園の周りも、家の玄関の前も、車が多いので娘と出るのが怖いくらい。つまり、家ー保育園ー公園ー買い物ー駅、と言った場所を車で繋いでいる生活。つまり、それらの間の世界は車で繋がっていて、路上がないみたいな途中との接触が少ない。空き地も柵がしていて子供も入らない。もちろん娘がまだ幼いのもあるが、ここで「作られた遊んで良い場所」以外ってどこにあるんだろうか。

人間関係でいうと、保育園への送り迎えの時、他の子供の親とは会釈するレベルで、集まりがあっても、なるべく距離をとる人だらけだった。それぞれ暮らしいている場所が広範囲で仕事や生活のレベルもバラバラだからだろうが、「他人に関わりたくない」というオーラを出す親が多い。保育園は必要だから子供を預けけて、横の関係やそれ以外は期待していないのだろう。

で、直島は。
人口は3000人だけど、その割に子供は少なくない。保育園では1クラス10人程度で前の保育園と変わらない。ただ、小さい島なので、親はそれぞれがどこの誰かわかっているし、挨拶や会話もある。さらに、放課後に校庭や園庭で他の子供と年齢を超えて遊ぶ機会も多いし、その時は他の親と話す機会もある。まぁ、家族も先生もそれぞれの素性がある程度筒抜なわけでそれによって、「他人と関わらない選択肢が難しい」のだろう。人と関わるのが嫌な人は地獄かも。笑
島では車が少ないし、車の入れない路地が多いので、一緒に歩いて散歩をする機会が多い。そして、そうすると近所のおじいちゃんおばあちゃんが、子供がいるととても親切にしてくる。子供にお菓子、家族にはとれたての魚や野菜などをくれたり、色々と。
どちらにしても、「他人に関わりたくない」タイプの人間は都会の方がオススメであるが、僕も妻も人と話したり関わるのが好きな方なので、島の生活での人との距離感は都市よりも向いていると言える。ただ、距離が近い分、情報は筒抜だし、色々と関わらないといけないことも多い。

島には、海や山が近くにある。つまり、「作られた遊んで良い場所」以外の場所が当たり前のようにたくさんある。そして昆虫や植物(海の生物や植物)の量がすごい。。これも嫌いな人は無理だろうが、幼い頃に色々な生物に触れることは重要だと考えているので、これも移住した理由の一つ。娘は変な場所に住み着いたカニを発見して「カニマンション」と読んで夏場は毎日パトロールしている。子供は意図しない場所を遊び場にする天才なはず、公園やゲーム機みたいな「作られた遊んで良い場所」ではない場所を自分で発見して欲しい。(いや「作られた遊んで良い場所」ですら新しく遊びを発見するだろうが。ね)
実は直島は山は豊かではない。それはかつての工場の公害や元々水が豊富ではない場所が関係している。ただ、海が本当に豊かだし美しい。波が穏やかで身近。見てよし食べてよし。保育園の帰りに、海でヤドカリや貝を探したり、魚を釣ったり。自然に囲まれていると季節を感じる感受性が高まる。


島に住んでみて思うのは、
幼い娘の記憶に、この風景や経験は残るのだろうかということ。僕自身もそうなのだけど、大人になって持っている過去の記憶って、幼稚園くらいからうっすらあって、小学校低学年くらいから強くなる。だから、2歳の娘にとって今の経験は潜在的なものになるだろう。それはそれで良いけど、どのくらいまでここで子育てをやるのが良いだろう、少なくとも。そんなことを考える。だから、幼稚園の後のこともよく考える。いつまでこの島に住むのだろうか、と。
島の小学校はどうなのだろう?
きっと、娘が小学校に上がると、僕ら自身が動きづらくなるだろう。根が生えてしまう。
僕らは移動をどんどんやってきたし、それによっていろんな発見をして、仕事をしてきたし、そういう意味ではまだまだ根を生やしたくはない。いつも「次はどこに住もうかなぁ」と考えている。とは言っても、一箇所には3年から10年は住むけど。
娘が小学校に上がる=家族で定住、かもしれない。では、小学校上がるまで島で、そこから別の場所へ?と想像してみる。僕自身は小学校低学年の時の経験がすごく今影響があるなぁと思うことが多いので、自然の多い環境で育てるのは良いと思っている。逆に直島以上に田舎でも良いくらい。

そんな悩みの中で、島の小学校のことを、島民の移住者の先輩から聞いたのが。
「小さい島の学校だから伸び伸び育つか?というとそうでもないよ。1学年1クラスしかなくて20人しかいなくてクラス替えもなくて。そういうずっと同じクラスメイト。場合によってはコミュニケーション能力が低下する傾向がある(話さなくても伝わるから)。さらに、友人関係がうまくいかないと逃げられる場所がない。さらに、みんな一緒な感じも強くて保守的な部分もあり、外からの異物に敏感。」と。
確かに。逆に、人数の多い小学校なら、同級生の誰かと上手くいかなくても、クラス替えがある。すごく変わっている性格や個性的でも、ほっといてくれる。
これは全てに当てはまること。東京のような様々な場所から来た人が入り混じっている場所だと、人と人の関わりが希薄な分、「ほっといてくれる」から、多様性は生かされる。逆に、島や小さなコミュニティだと、いい意味でも悪い意味でも、「ほっといてくれない」傾向がある。閉ざされた場所では保守的になる傾向もこれかも。まぁ全てはバランスだから、合うか合わないかは人それぞれ。
ただ、直島は風通しが良いので他者には寛容な方、さらにアートも身近だから異物にもアレルギーは少ないかも、そして移住者や観光客が多いしかなり都会的な島だと思う。日本中探しても中々ない珍しい島。

かつて、僕も妻も、小学校低学年で転校した経験がある。
僕は岡山のど田舎から、岡山の都会へ。妻は東京から愛知の郊外へ。二人とも、低学年の時の体験を強く持っているし、今への影響を感じている。ぼんやりと、小学校低学年までは重要だと思っている。
それなら、娘も「低学年まで田舎、そのあと都市へ」それも良いかもしれない。
それにしても、色々と考えてしまう。
しかし、自分たちで今のところは選択できるというのは本当に幸せだ。
まぁ、考える時間はまだある。
なるようにしかならない。成るように成る。

2020.9.29

アフターコロナ

2020年8月16日 05:23 下道 基行 */?>

アフターかポストか、知らないが。
もし、新型コロナの感染を止められるワクチンとか薬が出た後の世界を想像してみる。
そこで、まず思いつくのは、今年の3月に移住した土地で、マスクを外した島民やご近所さんから親しげに声をかけられて、誰だか分からないという事態だろうか。

2020年7月23日 06:10 下道 基行 */?>

SNSやネットによって、友人や仕事のやりとりが高速で遠距離で行えるようになり、様々なことが激変した。
そんな中で、以前まで全く存在しなかった「表現/表現者に対する批判」も、顔のみ言えない形で大量に見えてくるようになった。
マスコミなんかに出なくても、「表現/表現者に対する批判」は日常的に行われる。あるときそれは、応援であったり、勇気付けられるが、その逆も多々ある。
表現者にしてもアスリートにしても、僕らが見ることのできる”彼らの見せるもの”は、長い時間をかけて、ようやく世界へアウトプットされた結晶である(ことが多い)。ただ、それらのアウトプットされたものは、どこの誰かもわからない人々が書き込む言葉や感情が彼らを刺し殺していくのが日常だ。
「見なければ良い?」「有名税?」「表現の自由?」。
時間やお金をかけて準備してきた何かが、数件の激しい苦情で、中止に追い込まれることもある。

そう、名もなき小さな声が世界を変えることもできるのがネットの素晴らしい時代。
ただ、かつてテレビ局に電話をかけてきたような少数の苦情が拡散されるような時代。
どうやって、評論や批評にもならない、批判や悪口と付き合っていくべきだろうか。


僕自身、twitterはやめた。facebookも友人との連絡と告知のみにした。
日記はここに書くようになった。ラジオを始めた。
多分、僕なりの実践としては、なるべく、興味のある人がわざわざ手を出さないと届かない場所を持ちたいと思っているのだと思う。
だから今後も紙媒体は作りたいなぁ。新しくもなんともないメディア。自分の考えたことが正直に言える場所。よし準備してみよう。

オンライン

2020年7月15日 04:21 下道 基行 */?>


明日から、北海道の小学校に下見に行く。
これはあるプロジェクトへの参加がきっかけ。
小学生とのワークショップを新しく作る。何が発見できたり、共有できるか。
でも、こんな時期だし、距離は密に取れないし、何をしようかなぁと考えている。
世界は何が変わったのか?変わっているのか?
ふと、美大でオンライン授業をやっている友人たちの話を思い出し。その記憶と山下道ラジオで話しいていた内容がごちゃ混ぜになって。ぼんやりと考えている。


学校がオンラインになって、未来に変わること、を少し想像してみる。

クラスで、声が大きい生徒が目立たなくなり、
逆に書き込みが上手い生徒が一目置かれるようになる。とか? 
すると、ただただ声が大きくて、喧嘩っ早いような、ジャイアンのようなタイプは死滅するかもしれない。近い未来。
ジャイアンのいない世界か…。悪くない。でも、僕の中にもジャイアンはいるから少し寂しい。
でも、ジャイアンの存在がホントに煙たかった生徒は嬉しいだろうな。

インターネットは、使い方が上手ければ、名もなき匿名の小さな声が、大きな社会にインパクトを与えられる。今まで大きな障害に邪魔されていた声が直接人々に届き動かす。それは、インターネットの面白いところであり、世界は変わった。(でも、まだそれに気がつかない世代が社会を牛耳っている。でも、それももう少しで終わる。ジャイアンは徐々にパワハラで消える。)
オンラインの授業はその感じの小さな世界になる。授業中には先生の風刺画が紙飛行機で飛ぶのではなく、SNSやネット書き込みになる。名もなき匿名の小さな声が、無能な「先生」を登校拒否に追い込む事だってできる。そんなの簡単。親だけではなく、外の世界と繋がって攻撃だってできる。

あと、一緒の年齢で横並びで授業受ける必要もなくなる?
年齢を飛び越えて、オンラインで受けられる枠があると面白いね。
高校の授業を、学校へ行く理由がわからなくなった中学生が受けたり。勉強し直したい老人が受けてたり。

ただ、そのように発しられた「名もなき匿名の小さな声」ってのも、その事を理解した新しい人種の発した声であって、ある意味、現代的な「大きな声の出し方」を知っているに過ぎないのかもしれない。
違うかな?
それは、目には見えない現代のジャイアンを生み出す?
でも、冷静に相手を書き込みで論破するなら、そのジャイアンは清い?そんなのジャイアンじゃない?陰湿な書き込みで相手を攻撃するのは、それは、、、ジャイアンではない?
あれれれ、なんか、話がわけわからなくなってきたぞ。。。
もう少し書き進めようか?
いや、こんなの、ネット上ですでにかかれまくってるのだろう。。

もう、寝よう。。。
おやすみなさい。。

”帰国展”について

2020年6月24日 11:32 下道 基行 */?>

そうそう、昨年のヴェネチアビエンナーレ日本館2019の企画「宇宙の卵」からちょうど一年。
ようやく、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)で、”帰国展”が今日、オープンしました。
東京駅から徒歩5分。皆様是非。


この展示について少し書く。
”帰国展”という奇妙なシチュエーションと向き合った展示になっているとでも言おうか。。
ベネチアに行かずにベネチアを体験はできない、けど、”帰国展”というタイトルの元で、思考し制作した展示となっている。
(つまり、、、この展示は直接的な鑑賞表現を制作したのではなく、過去のプロジェクトをどのように残すか、に重点を置きながら取り組んだ展示になっている。逆に一年前の、ヴェネチアの日本館での展示の際は文字情報極力無い状態で、プロセスはカタログに納め、説明を排除した展示を行った。)

美術家と作曲家と人類学者と建築家とキュレーター(とデザイナー)で、日本館に向き合い、その一年後にさらにこの”帰国展”と向き合った。(その展示の間で2冊のカタログも制作)
2018年から1年間かけて、日本館での五人のコラボレーションに集中してきたし、それが日本館やベネチアビエンナーレという会場でようやく完成した。日本館での”出来事”は、作品自体は僕たちの手は離れているけど”出来事”であり”ライブ”だった。(このヴェネチアが決まってすぐに日本での”帰国展”を行うことも決まっていた。)
ただ、この五人のコラボレーションである「宇宙の卵」は、ヴェネチアや日本館という場所があったからこそ出来上がった作品であり展示。日本館という建築が持つ穴から降る自然光や重厚な大理石の床の素材やジャルディーにという場所性、ヴェネチアという土地など、それら全てと関係を持って制作は進んでいったし。別の場所なら全く別の形になっていただろう。その過去のコラボの出来事を、別の場所にどうやって持っていくべきか?そのことでメンバーで頭を悩ませた。アーティゾン美術館のために最初から作られたのならまだしも、やはりこれは”帰国展”なのである。

まずは、日本館でやったことを解体して、アーティゾン美術館の空間を考え、もう一度別の形で組み直すこと、も考えた。これは、空間が変わるのだから、形を変えてもう一回”ライブ”を作るという考え方。ただ、その場合、どこまでいっても、アレンジを変えた再演になってしまうし、日本館を超えるような”表現”にはならないように思えた。
そういった思考の結果、アーティゾン美術館の空間内には、日本館の展示を再現して、ベネチアの作品をそのまま入れる、という方向へと思考が変化していった。多分、日本館でやったことを再現はできない、そこから考え始めることにしたのだ。

ある出来事をその出来事を体験したようには伝えられない。ではどのように過去の出来事と向き合うか?
と、これは、戦争や災害のモニュメントの話と同様であり、作品「津波石」やプロジェクト「宇宙の卵」とも深く関わる問題だし、考え続けた結果がこれになった。

展示は出来上がった。
多分、この展示を見る多くの人は、それが作品でああり、表現であり、ライブだと思うかもしれないが。これはライブ音源の CDアルバムみたいなものかもしれないが、さらにその先を考えている。過去の出来事をどのように残し伝えるか、それが可能か不可能か、を考えた作品であり、それをさらに考えるための装置になっている。美術館へ来る人の多くは「本物はやっぱり素晴らしいなぁ」をしにくるのだろうが、僕らの展示は本物がそこにないことから始まっている。ただあえて疑似体験は持ち込んだが。
ひねくれている? はい。そうかもしれないです。
ベネチアには来れなかったけど、応援してくれたり、期待してくれていた人に、見てもらえる機会だから、そういう人に何が見せられるかもあった。メンバーで全力で作った表現であるので、是非楽しんでみていただけたら嬉しい。(上の階で、鴻池さんが作品表現をパワフルに展示内で展開しているが、それと対比させながら、この奇妙な展示をみていただけたら、少し僕らが何をやりたかったのかが伝わるのかもしれない。)

このような二年以上にわたる思考を、異なる専門性をもつメンバーと行いながら、大きな展示を2つも(さらに2冊のカタログも)作れたことに本当に感謝している。

そして、メンバーはこれを経て、すでにそれぞれの新しい道に進んでいて、それにとても刺激されている。

【勝手にyoutube動画書き起こし】

2020年6月17日 08:41 下道 基行 */?>

【勝手にyoutube動画書き起こし】

NHKスペシャル
「2000年への対話 第1回 日本人はいまどこにいるか 井庭 崇×宮崎 駿」


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井庭崇:
(アニメーションの「美術担当(背景画担当)の才能」について質問)

宮崎 駿:
例えば、美しい夕焼けを描く、なんていう時に。
(記憶の中に)自分がどんな夕焼けを持っているかによって決まるんです。
それは本当に面白いですけど。
持っていない人間はどっかのアニメーションのような夕焼け描くんですよ。あるいは、テレビで見たような夕焼けを描くんですけど。自分が郷里で育って、郷里で何度もその夕焼けをみてきた人間ってのは、特有の夕焼けを持っているんですね。
(略)
経験の違いではなくて、才能ですね。笑
だからその、どういう形であれ、風土性を持っている人が美術(背景画担当)になるべきだと思っているのですね。風土性を持っていれば、何らかの形で世界に対する手がかりになるんですよ。だから一番ダメなのは、多分、アニメーションが好きでずっとアニメーションの美術に憧れて、アニメーションの映画ばかりをずっとみてきた人が、一番学んでいないんだと思うんですよ。


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僕自身が背景画担当とかには興味はないんだけど。
どんな創造性のある仕事においても、こういう、過去の記憶のストックをどのように蓄積されていて、どのように引き出せるか、が、重要なポイントだと思う。
そう言うと。「学生の時に、たくさん作品を見ました。それも記憶のストックです!」と主張する人もあるだろうし、それもそうなんだけど。大人になって学ぶのはロジックとかが多くて。
作品とかと出会う以前の幼い頃の記憶や出会い。そういうもの影響力の巨大さを感じることがある。


と、
ここまで書いて、ふと思ったのは。
だから、
瀬戸内の島へ移住しようと思ったのだな。と言う確信というか。
僕の娘は2歳になるのだけど。
彼女が大人になったらほぼ忘れてしまうだろうこの今の数年に、どんな環境でどんな出会いや体験をできるのだろうか、と最近考え続けていた。その時間はどんどん過ぎ去っていく。そして、それは、住んでいた都市部への疑問になっていた。
愛知では、保育園へ行っても、他の子供や家族との繋がりはほぼない(それちがいに挨拶しても、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、保育園の後に、車が多いので遊ばせる場所も公園だけになるし、公園でも挨拶すらしない人々(挨拶程度で、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、家族や親しい友人家族以外ほぼ会話がない環境、路上も遊ぶには危ないし、自然のような場所も車で行かないとない。

一年前に直島へ滞在した時に、近所の子供達が年齢や性別を超えて元気に遊びまわる光景や、夜になると秋祭りの太鼓の練習が聞こえてきたり、海が近くて小さな森もあって、車のこない路地がたくさんあって、小さな島だけど、多分彼女には十分すぎる大きさだろうし、こういう環境の方が。まず、彼女が小学校に上がるまでは、本気でこういう環境へ移ってみても良いのでは、と思った。そしてすぐに家や仕事の事も考えると、色々な条件が「今の僕らの家族に」ぴったりだった。(「アートの島」にアーティストが住む必要はないかもしれないし。多分、直島へ住むことは全ての人々にすすめられることではないかもしれないし。「今の僕らの家族に」ぴったりだった、だけで、もっと田舎の可能性だってあっただろうし。これも偶然の出会い。)

直島へ移住して3ヶ月。
最近、娘は上手に挨拶をするようになって、ご近所さんにめちゃくちゃ可愛がってもらっている。
全力で「可愛いねぇ」と言ってもらって、たまにプレゼントとかももらってくる。
保育園の後も、校庭や公園で色々な子供達と遊んでいるし、日が暮れるまで外で遊びたがる。
公園に行こうと散歩に出ると、路地にしゃがみこんで昆虫や植物をじっと眺めて動かないくて、目的地であった公園にいく必要がなくなってくる。
もちろん、家ではyoutubeとかをみているけど。

ま、直島は僕自身の仕事へのチャレンジでもあり、家族のチャレンジでもある。
ま、そういう事を再認識した。



山下陽光氏の《途中でやめる》のメルマガで連載をしていたので、コピペしておきます。
メルマガの読者を意識しているので、こういう文章になっています。がお時間あれば。


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連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】①


本連載を書くにあたり、山下陽光氏が付けてくれたタイトルが、それを読むとすでに活動のネタがバレてしまっているので……、少し過去から遡って、無理に遠回りしながら、この件を連載として書きたいと思う。さらに、この陽光氏のメルマガを僕は読んだことが無いけど、日記のような結構ラフな文章だと思うので、僕も、だらだらと書きながら、校正もせずに、のせていきます。その方が、このメルマガのグルーブ感にもあうと思うので。
では、始めます。

幼い頃、僕は、瀬戸内海の見える小さな自然豊かな集落で育った。小高い山に登ると日々変化する海と島々がキラキラと見えた。通っていた小学校は1クラスのみで信号も1箇所のみのド田舎。小学校の帰り道、小さな駄菓子屋があったが、子供は”買い食い”を禁止されていた。少年の僕はそのルールがどうしても嫌だったみたいで、「学校帰りの山や路地で無料で食べられる物を記した【地図】を作って学校で配布する」という抵抗に出たそうだ。(ある意味”0円”マップ。)そこには様々な山の木の実などが多く記されていたという。ただ、この昔話の結末というのは、クラスの友人たちがその地図で喜びました、おしまい……というものではなくて、実は…その地図内には○○さんちのスイカや農家の畑の野菜も記されていたため、先生が発見するや否や、ウチの親とで謝りに回ったという結末……。この僕の記憶には無い地図の話は、最近になって母親からこの話を聞いた。

で、その昔の自分の話を聞いて、脳の接続で思い出したことがあって、それを次に書くと…。
台湾で農業をやっている地元の友人のアーティストがいて、彼は、ちょっと前に、”ある古い本”を手にしてそれを読み込んで「都市で手に入る植物とその料理」を農業雑誌に連載していた。その古い本というのは、日本が台湾を植民地にするにあたって書かれた本で、台湾全土の植物を調査し、名前や種類や”どのように食べられるか”まで記した物。その中には「味=★☆☆☆☆、苦いが食えなくない」みたいな項目まであって面白そうに彼が見せてくれた。(2009年頃の記憶でうる覚えだが…。)これは当時の日本が台湾を戦時の食糧庫としての価値を考えていて、稲作を持ち込んだりした頃に書かれたものだろうと思うが。その100年くらい前の調査を記した古い本を手に、今の町の風景を見比べながら、今では”観賞用”になった街路樹や様々な”見向きもされない”植物を「食べ物」として再考するプロジェクト(ったと記憶している)があったなぁ、と思い出した。

まぁ、そうそう、僕は、今まさに。”戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクで落札しまく”っているんだけど、今から書こうとしているこの話は、【自分で地図を描く】体験であるだろう。そして、それはただただ自分が思いついた【新しい地図を描く】ということではなくて、【見向きもされない古い地図を発見することによって始まる】のかもしれない。ということ……。

そこから三十年が経った数年前。
突然メールで、「ある瀬戸内の島に研究所を作って欲しい」という依頼を受けて、僕のプロジェクトは動き出す、……のだけど、それは次回!!!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】②


今、瀬戸内海。フェリーの中で、この文章を書いている。
なぜなら、島への移住を決めて、4月から住む家を見に来たから。
新しいプロジェクトをよりディープに動かすために。子育ての環境とかも考えて。
妻と娘と猫と一緒に、島で暮らすことを選んだ。

そういえば、全然話が変わるが、
二年くらい前に、アーティストたちと人類学者たちの対談があり、参加をしていた。(その背景には、人類学者が旅をフィールドノートで記述し論文にまとめる従来の流れから、映像で記述しアウトプットすることが増え、表現やアートというジャンルとの接点が日増しに増えていること、逆にアーティストがある地域に入り込み調査をしながら作品を作る傾向を強め人類学への興味関心が増えている傾向が挙げられるだろう)、その中で、人類学者がプレゼンで映像を空間で見せることを”インスタレーション”という言葉を多用して話していたことに違和感を持った会場のアーティストがそれを指摘した際に、逆に「では言わさせもらいますけど、最近のアーティストたちは”リサーチ”という言葉を簡単に多用しすぎなのが学者としては気になるし、あなたたちがやっているのは”サーチ”ですから!」と反撃を受けたことを記憶している。(まぁ、それぞれの言葉の意味が様々なジャンルを横断して使われ、誤訳されて行くのは逆に面白いことだが、アーティストも心して”リサーチ”という言葉を使わないとと、気を引き締める機会であったが。)そう、リサーチという学術的な「調査」という言葉がアート界では和製英語のような存在で広まっている。そこには”地方での芸術祭”の影響、アーティストの作品の作り方が大きく関係しているのではないかと思う。

現在日本では、行政主導で芸術祭などが花盛りで。オリンピックに向けてお金もどんどん降りている。「現代美術で村おこし」という奇妙な現象がこの20年ほど現在進行形で進んでいる。
現代のアーティストたちは、アトリエで作品を作るのではなく、【依頼された土地を”リサーチ”して】【数ヶ月の滞在で】【地元の記憶などをテーマに】【フィクションなどを手法を交え】【作品を制作する】ことが多くなっている。(もちろん、それも一部だが。)
で、僕自身はというと、過去に芸術祭に参加もしてきたが、最近は特に制作しながら意識しているのは……、【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】こと。そういう創作活動をしてみたいと考えている。そう、天邪鬼なのだ。

そんなある日、ある関係者から突然メールで(メールは突然なものだが)、「ある瀬戸内の島にラボ/研究所を作って欲しい」という依頼を受ける。
さらにその内容は《瀬戸内の風景》に関するラボラトリーのような存在を、《長期》でプロジェクトとして企画運営して欲しく、まずは3年を提案された。その時僕は、幼い頃に瀬戸内で過ごした風景を思い出した。そして、生まれたばかりの娘をどういう環境で育てるか悩んでいるタイミングだったので、移住するのも面白いのではないか、と妄想が進んだ。さらに、この企画は行政主導の”芸術祭”からの依頼ではなく、一つの企業からの依頼であることも面白いと思った。
そして何よりこれは。【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】。ことを実現するチャンスだと感じた。
つまり、
【自分で場所を決めて”サーチ”して】=瀬戸内は広い。島を自分で決めてアプローチもできるかも。
【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】=最低3年は決まってる。し、移住もいいかも。
【地元の記憶には簡単には手を出さず】+【すぐにフィクションなどに逃げず】+【作品を制作しない】=地元の人や旅人が使える図書館のような場所をゼロから作れないかな。
空間内にはまず何もない本棚を用意する。1年に1回か2回、あるカテゴリーを決めて、瀬戸内を調査しながら本や物を蒐集し、展示しアーカイブされ、本棚になっていく。トークイベントや勉強会やメンバーを集めて。最終的には、地元の人や旅人たちが立ち寄る図書館になって行く。でも、物も集めるかもしれないから、図書館ではなく、資料館かもしれない。編集者のように”図書館”を作る。

そう、この話は、瀬戸内のある島に、ゼロから図書館を作るプロジェクト。そして、島へ家族と移住するプロジェクトでもある。
そして……。
次回へ続く!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】③


こんにちは。
瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男(と陽光くんに名付けられた)。下道基行(シタミチモトユキ)です。
陽光くんとは「新しい骨董」というグループを組んでいて。肩書きは美術家/写真家と言われることが多く、今回、直島では”資料館館長”という肩書きも加わりました。みなさま、自己紹介が遅くなりましたが、どうぞよろしくお願いします。
瀬戸内海の島にゼロから図書資料館を作る長期プロジェクトを始動するにあたり、家族で島へ移住を決め、アーティストから資料館職員に転職するくらいの勢いで、愛知県で引っ越し作業中。

さて。
これまで書いてきたプロジェクトの名前は《瀬戸内「 」資料館》と名付けました。「」には毎回テーマを変えて入れていきます。第一回は《瀬戸内「緑川洋一」資料館》。その第二弾を、《瀬戸内「旅の本」資料館》にしようと考え準備を始めていて、だから、ガイドブックを買いまくっている。ということ。
この《瀬戸内「旅の本」資料館》の構想としては、「戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく」って、1920年くらいから2020年まで100年間の瀬戸内のガイドブックが空間に100冊くらいが時系列にバーーーと並んでいるイメージを持って進めている。テーマの一つは《瀬戸内の「観光」を再考する》。資料館の立地は香川県の直島の港の側で、旅人にも地元の人にも愛される資料館にしたい。(新刊で販売されている書籍は著者や出版社へのリスペクトも込めて、新品で購入するようにしている、ことを書き加えさせてください。。)

例えば、僕の勝手なイメージ。
何気なく直島へ来た旅行者が、ふらりとこの資料館に立ち寄る…、するとガイドブックが並んでいて「やったー!このガイドブック、旅行前に買おうと思っていたんだぁー」とか言ってパラパラめくっていると、その横に数年前のガイドブックが……、さらに横には……とずらりと過去のガイドブックも並んでいて、手に取り開いていく……。行くつもりだったカボチャのオブジェやカフェ飯屋もタピオカ屋もない世界へ……。徐々にタイムスリップしていく……。そんな仮説的な図書館。

今、ヤフオクやメルカリで買いまくっている「るるぶ」等は、今も本屋で毎年更新されながら大量に売られているガイドブック。数年前の「るるぶ」やガイドブックって、お店も変わるし、情報も古くなるので、すぐに使えなくなってしまうことが多い。だから、人々はどんどん捨てるし残らない。公共の図書館にもあまり残されていないし、価値が少ないからbookoffとかでもなかなか手に入らない。もしヤフオクで見つけても、価格も100円程度で、誰とも競り合わない。ある意味、今、ここは独壇場。
この捨てられているガイドブック=情報を、蒐集し、並べてみることで、過去から新しい発掘、いや未来を想像してみよう、というだ。
民俗学者の宮本常一たちは1960年代高度経済成長期に、生活スタイルが変化し、古い道具を人々が捨てていく中で、それに危機感を持ち、道具の蒐集を行った。なんか、そういう感じで、捨てられる情報を蒐集して、そこから何かを見つけることをやってみたいなぁと。

この100年のガイドブックが並ぶと、どのような発見が起こるのだろうか?

例えば、直島だけに、フォーカスを当ててガイドブックを読み進めると。
1990年代の「るるぶ 山陽瀬戸内」や「るるぶ 香川」で、直島を探すと、”その他の島々”というあたりのコーナーに、白黒ページで少しだけ載っている。まずは海水浴場やキャンプ場のみ。そして徐々に美術館も記載され始める。ページも1ぺーじの半分くらい。それが急に、2000年代から徐々に”アート”という言葉が目立ち始め、カラーページになる。さらに2010年には瀬戸内国際芸術祭が始まり、カラーで数ページの特集が組まれるようになる。さらに、最近はこのインターネット時代に様々な出版社から”アートで島旅”的なガイドブックが続々出版されている。
そんなこの島で起こっている20−30年の急激な「観光」の変化が見えてくるだろう。

島で図書館のようなものを始めようと思った時に、まずは、島の2件の小さな図書館を調査することから始めた。なかなかこじんまりとして素敵なのだが、まず誰にも使われていない状況が目に付く。そして、本棚にどのような本が並んでいるかを見てみる。その時代ごとの流行りの小説やある意味”島民の娯楽”のために本を購入していた傾向がみえる。色あせたトレンディードラマが並んでいるような本棚は循環を止めている。そしてインターネットの波が押し寄せ、誰にも使われなくなっている。
そういう意味で、みんなが使える図書館を始めようと思うと。まずは、ありとあらゆる種類の本を購入して並べていく必要があるだろう。もちろん、今流行りの本もいるし、もっと時間の尺度の長い専門書や絵本など色々な取り揃えが必要になるだろう。(もちろん、これは空間の話ではなく本棚の話。空間によって”みんなが使える”ことも考えられるのだけど。今は本のセレクトの話を書いている。)
ただ、前回書いたように、僕は天邪鬼タイプの人間で、さらにわざわざ作家として図書館をゼロから作るのなら、”みんなが使える”という”公共”方向で”浅く広く”ではなく、超片寄った蒐集を行い特化した本棚を作りたいと考えている。司書でもない男が勝手に作る”アウトサイダーライブラリー”。目指せシュヴァルの理想宮。もちろん、テーマ自体が「瀬戸内」なので、すでに特化している図書館ではあるが、さらに、極端な…。そういう意味で、毎回テーマを決めて蒐集し展示を行うのだけど、そのテーマで日本で一番蔵書が多い図書館にしたいと密かにチャレンジしている。
例えば、第一回の瀬戸内「緑川洋一」資料館では、瀬戸内の写真を生涯撮り続けたこの写真家の書籍を集め、展覧会も開催したし、本棚/アーカイブも作ったのだけど。日本で一番!の「緑川洋一」の蔵書を作りたい!と考えた。現在のチャンピオンは、(国立国会図書館以外では)東京都写真美術館の図書館であり、僕は密かにここを超えることを目指した。で、今回の「瀬戸内のガイドブック」に関しては、高松市図書館も多いが、何と言っても日本交通公社(JTB)がやっている「旅の図書館」がチャンピオン。日本一の旅行業者が運営する「旅の図書館」であり、『るるぶ』もJTBが出しているわけで、なかなかの強敵。ただ、「瀬戸内のガイドブック」に関しても、すでにうちの方が蔵書は「旅の図書館」に匹敵する。なぜなら、「瀬戸内」に特化しているから。
つまり、今の所、ホームページはないが、「緑川洋一」「瀬戸内のガイドブック」を探し求める人にとっては日本一行ってみたい場所にはなっている(はず)なのだ。
では、次回。




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】④

”リサーチ”という言葉を使ったことはあるだろうか?
本来、学術的な調査の意味で使用されるべき”リサーチ”という言葉が単に”調べる”くらいの意味で誤読されて使われている話を一昨日書いた。では、”アーカイブ”という言葉はどうだろう。最近色々な場所でよく聞くようになった。アーカイブというのも、「保存する」とか「残す」とか「集める」とかその程度の意味で使われているかもしれないが。本来、アーカイブというのは、収集する者のこだわりや取捨選択を排除して、徹底的に集め保存することを言う。だから、そのアーカイブという存在は、蒐集者の意図を超えて、未来に様々な人々が様々な利用価値を見つけ使えることを含んでいる。
僕は、プロジェクトで本棚のカテゴリーは自分で取捨選択して考えるが、そのカテゴリーの中で蒐集する本に関しては個人的な取捨選択はせず、できる限り全て集めるつもり行っているのが《瀬戸内「 」資料館》の特徴だろうか。
《瀬戸内「旅の本」資料館》に関しても、同様に、旅行ガイド本を徹底的に集めている。そして、前回、それらの集められた旅行ガイド本から「直島」だけを探しながらこの30年を見ていくと感じられる事を書いたが。多分、発掘できる大枠としては「観光」ということにはなる。つまり、僕の興味としては、「直島」「アート」という検索ワードであったが、別の人は別の検索ワードでこの本棚から何かを発掘できるだろう。例えば、、、「映画」の専門家と「瀬戸内の映画と観光」を考えるとか? この旅行ガイド本を、色々な興味のある人々と読み解き、色々な発掘をしてみたいなぁと考えている。
ま、つまり、このプロジェクトの中には、「作家の意識的な編集」と「作家の意図を排除したアーカイブ」の両方を持たせながら、自分の範囲を超えた存在にしていきたいなぁ…と妄想している。
(そういう意味では、今回陽光くんがやっていた”0円ショップ”も蒐集する人の意図を排除しているからこそ、他の人が新しい価値を発見することができるのかもしれない。)
よって、”瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく”っているのだ。そして、すでに、「るるぶ山陽瀬戸内」「るるぶ香川」に関しては、すでに買い占めていしまい。大海に釣り糸を垂らす釣り人のようなに、新しい出品を待つ状態になっている…。

と。なんか難しい話になってきたので、
次回は、直島へ移住を決めた理由を話して、最終回としたい。




連載【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】最終回  ー後日加筆ありー


昨年、このプロジェクト、《瀬戸内「 」資料館》の準備のために、直島に滞在制作していた時。ぼんやりと、家族でこの島へ移住してしまうことを想像した。本当に島へ移住するためには絶対に外せない条件を考えたら、次のような事を思った。それは、島の生活が、【自分の新しい表現活動の実験場になること】【家計を支える方法があること】【子育ての環境が良いこと】【猫も一緒に住めること】【家賃がかからないこと】【東京にも出やすいこと】など。

【自分の新しい表現活動の場になること】
瀬戸内の島々を調査してみたいし、その拠点になる。
さらに、このプロジェクトを行うために与えられた空間/物件が、ただの展示空間ではなくて、本当に僕自身の研究室(のよう)になると、もっと僕自身に館長らしさが生まれ、空間も資料館らしさが出て最高だろうなぁと思った。そのためには通える近さに住むのが良いと。(いや、逆にこの空間の近所に住めば、自宅の側にスタジオ/仕事場を持つ夢の環境を手に入れられる?実際は展示を準備し続ける公開制作として。)さらに、空間の地元に住めば、アートのための旅人だけではなく、地元の人が近づいてきて、通ってくれるような場所にするにもそれが必要なのではないか?そんなことを感じた。

【家計を支える方法があること】
家族での"共働き"の可能性も考えている。し、島でその可能性が見えて、家族で挑戦しようと踏み切れそうだ。
これまで、2001年に大学を卒業をして、東京で仕事をしながら、細々と表現活動を始め、2005年に写真集を出版、さらに、2010年くらいから幸運にも”アーティスト”としてデビューの場が与えられ、その後も展示の機会や表現の場が徐々に得られる環境にあり、(大学卒業から)20年くらい経った今。震災後くらいから、展示やプロジェクトの仕事が増えて、年間に5個くらいの企画を持っていると、徐々に大学卒業後からお世話になっていた仕事場に出られる機会が難しくなり、ギリギリながら”アーティスト”として「だけ」で生活をしていくことになり。そこで結婚し子供が生まれ。生活はギリギリながらも、東京を離れ、実家に寄生したりすることでなるべくランニングコストを抑えつつなんとか家族とサバイブしてきた。
そして、年齢としては40歳を超え、経歴に書く活動も年々増えた、(それは本当に幸運で恵まれている) が。それはつまり、、、「下道?あぁ、あの作品の作家ね」と、”ある程度認知”され、”中堅”というキャリアに押し上げられたというタイミングなのだ、今。それは、デビューできて、さらに活動を続けた20年があり、幸運なことなのだけど。”中堅”になり、国内で認知された瞬間に、(言い方が非常に難しいが、、つまり)”若手のように仕事を誘われなくなる”ようになるだろう、と感じる。そしてその予兆をこの年末になんとなく感じた。(そこには僕の作家スタイルが「コマーシャル」ベースではなく、「プロジェクト」ベースであることも関係しているかもしれないが。) キャリアや略歴は一つの”信用”を得る大切なものだが、それを持っていても、仕事がなければ、収入はゼロなのだし。(いや、企画展で展示をしても、いつも収入的には非常に厳しいが。)
で、生き方のギアを入れ替えよう、と。本気で実験。
(もちろんアーティストとしてのキャリアアップの方向性も考えられるが、まず)アーティストとして「だけ」で食べていく、とかではなく、共働きや副業やそういう可能性や、もっと根本的にいろんな生き方を、もう一度挑戦してみよう。と。(←山下陽光の影響かも)

もちろん、加えておくと。表現活動をさらに洗練して作り続けることは、大前提で考えている。それが自分の”仕事”だと思っているから。だから、発表や新しい挑戦の場所はいつでもウェルカムなのだけど。
(まだその渦中にいるので、なかなか書くのが難しい話だが、書いてみた)

【子育ての環境が良いこと】
島は地元のコミュニティがかなり強い。で、僕は幼い頃にそういう”田舎な”環境で育って、大人になって、東京や愛知など都市部で暮らしてみると、しがらみのない都市部ではなくコミュニティが小さい地域に住むと色々と面倒なことも多いけど、人と人の付き合いがやはり深いと感じることが多い。人と人との付き合いを大切にする土地で子育てをしてみたいなぁと漠然と考えていたから、そこも挑戦してみたい。なんとなく、都市部では子育ての環境っていうのもサービスとして提供されている気がするけど、田舎ではちょっと違うと思っている。持ちつ持たれつ。(←KOSUGE1-16の影響かも)
ただ、直島は「アートの聖地」なんて呼ばれていて、なんだかそれは引っかかる。それに付随しての観光業も盛んなのも引っかかる。でも、小さな地方の島なのに、外国人が島内でよく目にする環境、それは面白いかもしれないし、その客層が独特で少し変。上品?な客が多いとでも言おうか。多分その理由は、この島へ来る観光客は美術館が目当てであること。島の美術館全てを見て回るとそれだけで6000円くらいかかるので、アートや文化への理解と興味のある人々しか来ない。治安がなかなか良い。で、夜になると、このど田舎の飲み屋は外国人だらけだったりするが、逆に、秋の夜に、フラフラ集落の路地を歩いていると、秋祭りのための島内に笛や太鼓の音が聞こえてきて、急に古い日本のローカルな風景を感じる。昨年滞在制作をしながら、このどこにもない環境に、子育てが結びついた。
今後、瀬戸内国際芸術祭を中心とした「アートで観光」はすぐに過去になるのではないかと思う。ただ、この島はアートの関係の仕事だけで回っているわけではない。で、今のこの島のバランスはかなり特殊で面白い。もちろん、海や山はすぐ目の前。車はほとんど走ってなくて静か。瀬戸内の島の風景は日々の気象状況で激減するような、繊細な季節な気象を感じる風景というのは、都市部では感じにくい。島内の保育園や学校もなかなか充実している。
これらは子供が育つ環境としては、面白いのではないか?と。
ま、今から、住んでみないとわからないが。

【家賃がかからないこと】
2008年からもう10年以上、実は、家賃を払ったことがない。難しいようだが無理ではない。それは色々な人や隙間に寄生していきてきたから。例えば、8万円くらいの家賃が0円になったらそれだけで結構暮らせる、いや死なないし。逆に、浮き沈みのある職業で、常に毎月8万円とかを払っていたら、何かあった時にすぐにマイナスに転落する可能性がある。頑なではないが、できれば、家賃をほぼ払わない生活を目指したい。島では、まずは三年それに近い生活が可能になりそう。

【猫も一緒に住めること】
だって、大切な家族ですから。

【東京にも出やすい】
いやいや、島から東京までは4時間半かかるから、これは無理だ。ただ、年間3回くらいしか東京へは行かないから問題ないかも。その時にみたい展示とかも見れれば。友人たちもそこまで東京だけにいるわけでもないし、。いつも考えてしまう項目だけど、もう、要らないかなぁ…。まぁ直島は岡山や高松に15分とか30分程度で行けるし。ネットもあるから。


という感じ。で書いてきましたが。
多分、簡単にいうと、
根底には、自分たちの生活を大きな何者かに極力依存させられたくない、という感覚が強いだろう。「たくさんお金を稼げるし持ち家があって貯金しているから、何かが起きても安心」なのではなく、人との繋がりを大切にして、家賃などのランニングコストを抑えることで、逆に「何が起きても動じない」生活を確保する。さらに、「いつでもどこかへ動けるような気持ち」を持つ。これは、震災以降から変わってしまったこと。疑い続けてやる。
だから、なんか、これまで、移住、移住、書いたが、引いてみれば、ただの移動ですね。これは。なんか、移住という言葉には「田舎へ」とか「上京の反対」の感じがするので。
下道、直島に、移動しまーす。


ということで、
下道基行でした。

《瀬戸内「 」資料館》の写真もあるので見てみてください。
http://m-shitamichi.com/setouchi

《瀬戸内「旅の本」資料館》は今年の夏頃、オープンします。
オリンピック見たくない人、是非、ゆっくりと島へ遊びに来てくださーい。

拙文、失礼しましたー。


2020年1月12日 00:40 下道 基行 */?>



[ 瀬戸内「 」資料館 /Setouchi " " Archive ]


Project


2019−




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瀬戸内「 」資料館

なんでもない日々の風景に、新しい眼差しを発見する。
何かを新しく作る前に、過去を見つめ直すことから始める。
瀬戸内の小さな島々の片隅で捨てられていくモノたちを、
かつてそれらを拾い集め記録しようとした人々を、
今もう一度、自分たちで手探りで知り学びたい。
それは、情報が溢れる今だからこそ、
きっと未来を作る力になるだろう。

瀬戸内「 」資料館は、
瀬戸内の風景の中から毎回「何かしら」のテーマを決めて、
メンバーと共に調査し発表しアーカイブするプロジェクト。
いつもは観光客がふと足を止める小さな「図書館」や「博物館」のような場所として、
時には様々な人が集まる「研究所」や「塾」のようなささやかな学びの場として、
島民の元娯楽の場「パチンコ999」を改装した「宮浦ギャラリー六区」をさらに改装して、
アートを目的に多くの人が訪れるこの島に生まれた。

下道基行 (資料館館長)



Setouchi "            " Archive
 
Discover a new way of looking at the scenery on an average day.
Before you create something new, it all begins by taking another look at the past.
Goods that get thrown away in the corners of the small islands of Setouchi,
and the people who once sought to collect and record them,
we want to know and learn about these things once again with our own hands.
In an age such as today which has an abundance of information,
it will surely be a key in helping to create the future.
 
In the Setouchi "            " Archive project,
with "a certain" theme taken from the scenery of Setouchi every time,
we will survey, present, and archive together with our members.
It can be a place, generally like a small library or museum for the tourists to visit on a whim,
and sometimes a laboratory or academy for various people to visit for a modest learning experience.
Refurbishing Miyanoura Gallery 6, which itself is a refurbishment of the island residents' former place of amusement, Pachinko 999,
the museum is born, in the island where many people visit for art.
 
Motoyuki Shitamichi (Chief Director of the Archive)


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写真:下道基行

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写真:宮脇慎太郎



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【当プロジェクトについて】
・香川県の直島『宮浦ギャラリー6区』での長期プロジェクト
・地元民や観光で島を訪れる人が立ち寄れる、瀬戸内についての図書館/研究所/資料館を作る。
・毎回、様々なメンバーとテーマを決めて、調べ/収集し/並べ/編集し/発表を行う。様々な方法のアーカイブも実践する。
・小さな私設図書館や私設美術館のような、公に開かれた私的な場所を目指す。
・時代によって島々の生活や景観が変化し続けている中で、別の時間軸を意識して活動する。
・最低3年続ける。
・毎回、「 」内のテーマ部分を入れ替ながら、資料館というフレームで学び遊べる場所にする。
・《”作品”を”展示”する》のではなく、《知る過程》《作る過程》の表現方法を探求する。
・『宮浦ギャラリー6区』の磁場やコンセプトを継承しながら、この建築を仮のプロジェクトルームとする。


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第1回 瀬戸内「 」資料館
[ 01 瀬戸内「緑川洋一」資料館 /01 Setouchi " Yoichi Midorikawa " Museum ]


宮浦ギャラリー六区(直島)
2019.9/28-11/24

瀬戸内の風景と向き合い続けた写真家緑川洋一を調査し展示します。
We research and make exhibition photographer Yoichi Midorikawa who kept being confronted with the landscape of Setouchi by camera.

企画監修:下道基行
デザイン協力:橋詰宗
内装協力:能作文徳


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宮浦ギャラリー六区
瀬戸内「緑川洋一」資料館
プロジェクト名:瀬戸内「 」資料館(監修:下道基行) 写真:宮脇慎太郎
協力:公益財団法人 福武財団



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01. 瀬戸内「緑川洋一」資料館

《瀬戸内「   」資料館》の第1回のテーマは、岡山県出身の写真家、緑川洋一(1915-2001)です。彼の活動を調査した展覧会を開催します。
企画のきっかけとなったのは、ベネッセホールディングスが収蔵する《白い村》(1954)という白黒写真シリーズとの出合いでした。これらは終戦後の瀬戸内の産業や人々を独自の視点で撮影したものです。
緑川は日本を代表する写真家の一人で、平日は岡山駅前の「緑川歯科医院」で歯科医を生業としながら、日曜日にはカメラなど撮影機材の入ったリュックを背負い、瀬戸内や各地を撮影し続け、生涯「アマチュア」を貫いた写真家です。
緑川は戦前から写真雑誌に投稿を始めました。写真家であり編集者でもあった石津良介の紹介により、植田正治や秋山庄太郎、林忠彦などと写真家集団「銀龍社(ぎんりゅうしゃ)」(1947年設立)に参加するなど、戦前戦後の日本の写真家たちと影響を与えあい、活動を続けました。1960年以降、瀬戸内海の輝く水面と船や灯台のシルエットなどをカラー写真で捉えるようになります。そして、カラー写真の表現に独自の絵画的手法を織り込む方法を確立し、写真家として確固たる地位を築きました。2001年に亡くなるまで、生涯にわたり日本全国の風景や地元瀬戸内と向き合い続け、数多くの作品を残しました。
シリーズ《白い村》はドキュメンタリーの手法で撮影されていますが、緑川独自の絵画的手法の片鱗も見え隠れする、キャリアの過渡期のシリーズといえるでしょう。それは、ちょうど同時代の作家として緑川に影響を与えたとされる土門拳と植田正治の手法が独特のバランスで溶け合ったようにみえます。緑川は1960年以降、独自の表現手法を模索し、戦後をたくましく生きる人々の様子を風景とともに記録するシリーズをいくつも作っています。ただ、その多くは初期代表作の写真集「瀬戸内海」(1962/美術出版社)に断片的に収められていますが、シリーズ作品や写真集としてまとめられた形で日の目を見ることはありませんでした。近年では、2005年に岡山県立美術館で「緑川洋一とゆかりの写真家たち 1938-59」(企画:廣瀬就久)と題して、カラー写真ではなく、1960年代以前の白黒写真のシリーズを丹念に取り上げた企画展が行われるなど、戦前戦後の緑川の創作活動に注目が集まっています。
今回は、シリーズ《白い村》、さらにかつて岡山県岡山市西大寺に存在した「緑川洋一写真美術館」(1992-2001)で常設展示されていた1950年代のカラー以前の絵画的手法を使った《夜の釣舟》(1954)、《月明の海》(1956)などを展示します。
それとともに、生涯80冊以上の写真集を制作した緑川の写真集や掲載誌を収集し、さらに1940年から50年代にかけて撮影された未完作も含むシリーズの構想が記録された自作のファイルを、ご家族が大切に保存されていた緑川のスタジオより発掘し、これに光を当てました。
現在の美術界では、写真を一点のオリジナルプリントとして絵画のように美術作品として扱う傾向にあります。しかし本来、多くの日本の写真家は写真同士の連続性に意識を向けた「組写真」や「シリーズ」の制作を重視し、それを提示する最良の手法として「写真集」の出版に特別な意味を与えてきました。それによって質の高い写真集が多数生みだされ、日本の写真集文化が醸成されてきました。今回、ご家族の協力を得て、戦後間もなく撮影・制作された写真や構想段階のシリーズの手書きファイルから、緑川がどのように風景と向き合い、シリーズ作品として形にしようとしたかを探っていきます。
終わりに、今回、まるで時が止まっているかのように保存された緑川さんの制作スタジオや作品倉庫を何度も「フィールドワーク」し、多くの貴重な資料や写真を見せていただきました。時々、ポートレイトの緑川さんと目があう瞬間があり、写真家としても活動する自分としては、自らの死後に何者かがスタジオを歩き回り、未発表のファイルを読まれることを想像し、少し複雑な思いと共に重い責任を感じています。写真や風景と向き合い続けてきた一人の「先輩」のシリーズをつくる思考や手さばきを、残された資料より学ばせていただきたいという思いが次第に強くなっています。今回は、残された多くの資料すべてに目を通せた訳ではありません。もしこの資料館が今後も何年か続けることができるなら、この先もフィールドワークを継続し準備を重ね、再び新たな《瀬戸内「緑川洋一」資料館》を開館できたら幸甚です。
最後に、大きなお力添えをいただいた緑川さんのご家族のみなさまに、この場を借りて御礼申し上げます。

下道基行(資料館館長)


01. Setouchi “Yoichi Midorikawa” Museum

The first theme of the Setouchi “ “ Museum project is Yoichi Midorikawa (1915-2001), the photographer born in Okayama Prefecture. We are holding an exhibition which investigates his work.
The impetus for this project was an encounter with the black and white photo series called “Shiroi-mura” (White Village, 1954) in the collection of Benesse Holdings. In this series, he photographed the post-war industries and people of Setouchi from a unique perspective.
One of Japan’s foremost photographers, Midorikawa remained a life-long “amateur” photographer, making his living as a dentist on weekdays at the Midorikawa Dental Clinic in front of Okayama Station, while on Sundays, he shouldered a backpack loaded with his camera and photography equipment to photograph Setouchi and many other places.
Midorikawa began contributing to photography magazines prior to WWII. He remained active, joining the photography group called Ginryusha (founded in 1947), which included members such as Shoji Ueda, Shotaro Akiyama, and Tadahiko Hayashi via an introduction by photographer and editor Ryosuke Ishizu, and influenced Japanese photographers in the pre-war and post-war eras. In 1960, he began capturing the shimmering waters of the Seto Inland Sea and the silhouettes of lighthouses and ships, etc., in color photographs. He established a style that incorporated unique painterly methods into his color photo depictions, consolidating his status as a photographer. Until his passing in 2001, he continued to engage with landscapes across Japan and his home of Setouchi throughout his life, leaving behind a large body of work.
While the “Shiroi-mura” series was shot using documentary techniques, it can be described as a turning point in his career, offering glimpses of Midorikawa’s unique painterly methods. It appears to be a distinctively balanced blend of the techniques of Ken Domon and Shoji Ueda, contemporary artists believed to have influenced Midorikawa. From 1960 onward, Midorikawa explored his own unique modes of expression, creating numerous series recording people living life vibrantly in the post-war era and the landscapes surrounding them. While many of them are collected fragmentarily in “Setonaikai” (Seto Inland Sea, Bijutsu Shuppan-sha, 1962), a collection of his early representative works, they have not seen the light of day in the form of complete series and photo collections. In recent years, attention has focused on Midorikawa’s creative activities in the pre-war and post-war eras, including an exhibition in 2005 at the Okayama Prefectural Museum of Art titled “Midorikawa Yoichi and His Circle, the Early Years: 1938-59” (Planner: Naruhisa Hirose) which meticulously covered not his color photos, but rather the black and white series he created prior to the 1960s.
In addition to the “Shiroi-mura” series, we also exhibit works such as “Yoru no tsuribune” (Fishing Boats on the Night Sea, 1954) and “Getsumei no umi” (Moonlit Sea, 1956). They were once permanent exhibits at the now-defunct Yoichi Midorikawa Museum of Art (1992-2001) in Saidaiji, Okayama in Okayama Prefecture, in which he used the painterly techniques that predate his color photos of the 1950s.
It also gathers Midorikawa’s photo collections, of which he produced more than 80 during his lifetime, and magazines he was published in, and sheds light on the personal files discovered in Midorikawa’s studio, carefully preserved by his family, which record his ideas for series shot during the period from 1940 through the 1950s, including uncompleted works.
In today’s art world, there is a tendency to treat the single original print of a photo as a work of art in and of itself, much like a painting. However, many Japanese photographers normally emphasize creating photo sequences or series which consider the relationship between photos, and this has imparted a special meaning to publishing photo collections as the optimal means of presentation. This has given rise to many photo collections of excellent quality, and helped to foster the culture surrounding photo collections in Japan. With the cooperation of his family, we will explore how Midorikawa engaged with landscapes and approached capturing them in a series of works from the photos shot and produced shortly after WWII and handwritten files on his series in the conceptual stages.
Finally, I did fieldwork for this project on many occasions at Midorikawa’s production studio, which is preserved as though frozen in time, and the repository of his works, and I was allowed to see many precious documents and photos. Sometimes, I meet the gaze of Midorikawa’s portrait for a moment, and as an active photographer myself, I imagine someone walking around my studio after my death, reading my unreleased files, and I feel a rather complex mix of emotions coupled with a heavy sense of responsibility. In engaging with photography and landscapes, he is a senior colleague to me, and my desire to study his surviving documents so that I might understand the thinking and handiwork behind his series has continued to grow. That is not to say that I was able to look through all of the many surviving documents during this project. If I can keep this museum open for the next few years, I hope to be able to continue my fieldwork, prepare it carefully, and open a new Setouchi “Yoichi Midorikawa” Museum.
In closing, I would like to take this opportunity to thank Midorikawa's family for their incredible support.

Motoyuki Shitamichi (Chief Director of the Museum)
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第2回 瀬戸内「 」資料館
[ 02 瀬戸内「百年観光」資料館 /02 Setouchi " Hundred Years' Tourism " Museum ]


宮浦ギャラリー六区(直島)
2020年7月4日(土) オープン!
毎週土曜日/無料


戦前から現在までの瀬戸内の旅行ガイドブックを収集し、瀬戸内の観光について知り考える場を作ります。

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宮浦ギャラリー六区
瀬戸内「百年観光」資料館
プロジェクト名:瀬戸内「 」資料館(監修:下道基行)
写真:下道基行
協力:公益財団法人 福武財団




02. 瀬戸内「百年観光」資料館

《瀬戸内「 」資料館》の第2回のテーマは、『百年観光』と題して、瀬戸内と直島の観光の歴史を調査発表する。
展示は、瀬戸内の観光や交通の歴史を調査し自作した「瀬戸内観光年表」と「直島観光年表」を、今回収集した既刊の「旅行書」とリンクさせつつ、時系列に並べて構成している(観光という言葉自体が作られ普及したのが近代以降で、実質的に『百年』程度と歴史は浅い。よって、観光年表は近代以降より制作した※1 )。

現在「アートの島」として特集が組まれるほどの直島は、数十年前にはどのように扱われていたのか。調査はそんな素朴な疑問から始まった。そこで、瀬戸内や直島を扱った旅行書(ガイドブック)を、現在から過去へと徐々に遡りながら収集した。例えば『るるぶ』(JTBパブリッシング発行)の場合、瀬戸大橋開通の1988年に『るるぶ香川』『るるぶ山陽瀬戸内海』が発刊され、以降その両方に直島は掲載されてきた。頻繁に更新されていく多くの旅行書は、過去の物が非常に入手困難ではある反面、発見した場合は安価で簡単に入手できた。過去へ遡って旅行書を読み進める作業は、時間旅行のようだ。

瀬戸内の旅行書で面白いのは「観光コース/ルート」ではないだろうか。それは点と点を線で結び面にしたものだ。瀬戸内の観光は、一つ一つの点(目的地)は広大な地域に散らばっており、それらの点を多彩な線(船や鉄道や車や飛行機)の組み合わせでつなげていく。京都や東京などと比べると、アイコニックな目的地は多くないが、その分、広域に多様なバリエーションがあると言える。
開国以降から明治にかけて、欧米の旅行者によって絶賛された瀬戸内の観光は、船で通過しながら眺めるものだったようだ。さながら動画のような風景を楽しむことがメインの、広く面で捉える観光スタイルだと言える。さらに、『百年』前から日本人の間でも人気のあった瀬戸内の船旅も、大阪と別府温泉をつなぐ線(航路)上にあり、小豆島、高松、松山などの鉄道では行きづらい観光地が点となっていた※2。ただ、近年、観光の移動手段が変化していく中で船旅は廃れ、船から見る瀬戸内の素晴らしさは忘れられていった。
その中で、2010年に突如現れた“新しい観光コース”である瀬戸内国際芸術祭(以下、瀬戸芸)は、船での旅を全面に押し出し、多くの観光客を集めている。現代美術作品を小さな点として島々に配置し、そこを目的地として“巡礼”する楽しさに惹かれた人々は、道中で船に乗り瀬戸内の風景や人々と出会っていく。
一体この“現代アート”の巡礼は人々に何を与えるのだろうか。旅や観光は古くから宗教と結びつき、人々はそのご利益を期待し巡礼してきた。だが、もしかすると、宗教であれ美術であれ、目的地(置かれた点)はある意味で「フィクション/虚構」であり、実はそのプロセス自体(引かれる線)の方に意味があるのかもしれない。

今年3月、私は妻と娘とともにこの直島へ移住してきた。諸々の理由はあるが、私自身の生まれ故郷である瀬戸内の今をより深く知るために、ここに“住む”ことを選んだのだった。ただ、その直後に新型コロナウイルスが流行。4月16日には感染拡大防止のため、全国的に移動や外出が規制された。直島でも観光客は徐々に減っていき、ついに集落は静まり返った。島民たちは「アートがくる以前の30年前に戻ったみたいだなぁ」とささやき合った。観光客が絶えることのない直島が、島ごと数十年前にタイムスリップしたようだった。
直島という小さな島は約『百年』前より三菱の銅の精錬という巨大な産業によって潤ってきた。今でも人口の7割程度が三菱関連の仕事に就く。その直島が観光業に乗り出すのは1960年代から、三菱の機械化・合理化により人口が激減する中、三宅親連町長によって観光への大胆な舵きりがなされていくのがきっかけだ。ピーク時の7725人(1959年)から人口は減り続け、現在3000人程度。逆に、直島へやってくる年間の観光客数は、1990年に1.1万人だったのが2019年には73万人に膨れ上がっている。ただ、この10年で観光客が驚くほど急増している瀬戸内の”小さな島々”は、一方で人口減少に頭を悩ませている。

自然環境とそこに暮らす人々によって長い時間をかけて作られた「風景」は、外の目によって発見され美しい観光財産となる。風景は、さらにコンテンツ/イメージと結びつき、人々を魅了してきた。万葉集の枕詞や歴史絵巻の舞台、映画やゲームの中の世界、現代アートもそうだ。ただ、それらの外の目が作り出したイメージは、時間の経過と共に消費され忘れ去られる。時として、観光は長い時間で作られた風景の形を急激に変えたり、逆に見た目はそのままで中身はなくなり、形骸化させてしまうことがある。(例えば、古い街並みが有名になり保存されるが、観光以外の人々の生活がそこから消えていくケースなど。)長い時間感覚を持った眼差しで、風景と向き合い続ける必要があるのではないか。

私は観光学などの専門家でもなく、直島についてもまだ詳しくない。だから、本展示は私が瀬戸内や直島を調べて知っていく過程にあり、未完成である。この展示は歴史的事実を発見し発表したいのでもないし、自ら芸術品を創作して置きたいのでもない。私はこの展示(資料館というフィクション)を作りながら、『百年』の観光が累積したこの土地の地面を掘り進めるプロセス(線)自体を、展示を体験する島民や観光客と共有することで、瀬戸内や直島の未来を少し想像する場所にしたいと考えている。
最後に、今回、八十年代より新聞の直島の記事を切り抜き貼り付けた貴重なスクラップブックをご提供いただいた田中春樹氏、古い資料やポスターなどを提供いただいた直島町観光協会と直島町役場まちづくり観光課、そしてインタビューにお答えいただいた島民の方々に、この場を借りて御礼申し上げたい。

下道基行(資料館館長)


02 Setouchi “100 Years Tourism” Museum

The second theme of the Setouchi “ ” Museum project is “100 Years Tourism”: a presentation of research into the history of tourism in Setouchi and Naoshima.
The exhibition comprises a Setouchi Chronology of Tourism and a Naoshima Chronology of Tourism, which I created based on research into the history of tourism and transportation in Setouchi and linked to previously-published guidebooks collected especially for this project. (The term “tourism” itself did not come into general use until modern times, and it has a substantive history of just 100 years. This project’s Chronologies of Tourism thus begin in the modern era*1.)
Today Naoshima features regularly in the media as an “art island,” but how was it viewed a few decades ago? This simple interest was the starting point for my research. I began collecting travel guidebooks that dealt with Setouchi and Naoshima, working gradually backwards from the present day into the past. In the Rurubu series (JTB Publishing), for example, the first edition of Rurubu Sanyo Setonaikai was published in 1988, the year that the Seto Ohashi Bridge opened, and Rurubu Kagawa was first published in 1990. Naoshima was included in both these publications thereafter. Many guidebooks are frequently updated and past editions are difficult to obtain, but wherever I could find them I was able to acquire them cheaply and easily. Reading through these guidebooks further and further into the past was something akin to travelling through time.

One of the intriguing features of guidebooks to Setouchi is their tourist courses and routes, which use lines to connect different points. In Setouchi tourism, the points (destinations) are scattered across a vast area, and connected with one another by a diverse combination of lines representing transportation by sea, rail, road, and air. There may be few iconic destinations compared to places like Kyoto and Tokyo, but instead there is great variety across a large expanse of territory.
From Japan’s opening to the outside world through the Meiji period of the late 19th and early 20th centuries, Setouchi tourism earned high acclaim among travelers from Europe and North America, who would take in the scenic views as they passed through the region by boat. This style of tourism mainly involved enjoying the scenery as a kind of moving image with a broad, superficial outlook. Trips through Setouchi by sea were also popular among Japanese people from 100 years ago, with Shodoshima, Takamatsu, Matsuyama, and other tourist destinations difficult to reach by rail featuring as points along the sea route that connected Osaka and the hot springs town of Beppu.*2 In more recent times, however, the means of tourist transport have changed: sea journeys have fallen out of vogue and the attractions of Setouchi as seen from the water have gradually been forgotten.
It is in this context that the Setouchi Triennale burst on to the scene in 2010 as a “new tourist route” that attracts many tourists to the region by placing sea travel front and center. Works of contemporary art installed on many different islands serve as points in the tourist route, with visitors fascinated by the idea of making a “pilgrimage” around these destinations and encountering the views and people of Setouchi as they make their way from point to point by ferry.
What exactly is it that people get out of this pilgrimage of contemporary art? Travel and tourism have long been intertwined with religion, as people journeyed from one sacred site to the next in anticipation of the benefits they may gain. However, regardless of whether the pilgrimage is for religion or for art, the destinations (points) between which travelers move could be seen in a sense as “fictions”: perhaps the real meaning lies in the process of movement itself (the lines drawn between the points).


In March this year, I moved to live in Naoshima with my wife and daughter. There were many reasons for this move, but I chose to take up residence here in order to gain deeper knowledge of Setouchi, the place I was born, as it is today. Just after we moved in, however, the novel coronavirus began to spread in Japan. On April 16, restrictions were placed on travel and movement outside the home across the whole of Japan to prevent the spread of the infection. The number of tourists in Naoshima gradually declined, and its communities fell silent. The locals murmured to one another that it felt like the days before art first came to the island 30 years ago. It was as if the whole island, which usually enjoys a constant stream of tourists, had been transported back in time to a few decades ago.
Around 100 years ago, the small island of Naoshima began to grow prosperous thanks to a giant industrial project in copper smelting established by Mitsubishi. Even today, around 70 percent of the island’s population is employed in Mitsubishi-related workplaces. When the population nosedived as Mitsubishi pursued the mechanization and rationalization of its operations in the 1960s, Naoshima made its initial foray into tourism under the bold leadership of mayor at the time, Chikatsugu Miyake. The population continued to decline from a peak of 7,725 in 1959 and now stands at around 3,000, but annual tourist numbers have ballooned from 11,000 in 1990 to 730,000 in 2019. Nonetheless, the “small islands” of Setouchi that have witnessed stunning growth in their tourist numbers over the past decade continue to grapple with the problem of population decline.

A “landscape” created over many years by the natural environment and the people who live in it is discovered by visitors from the outside, becoming an attractive tourist asset. This landscape becomes further interconnected with content and imagery that people find captivating. This goes for the poetic epithets in the ancient Manyoshu anthology, the scenes depicted in historical scroll paintings, the scenes of movies and computer games, and even contemporary art. However, the images generated by outside observers are consumed and forgotten over the course of time. A landscape that has been formed over a long period can sometimes be altered dramatically by tourism; it may appear unchanged but be divested of content or bereft of substance. An example is the case of an ancient streetscape that becomes famous and is carefully preserved, but devoid of any signs of life other than tourist visitors. Surely there is a need to adopt a long-term perspective as we continue to reflect on and engage with such landscapes.

I am not an expert in tourism studies, nor do I yet have a detailed knowledge of Naoshima. This project is thus part of my process of investigating and familiarizing myself with Setouchi and Naoshima: it is a work in progress. In this project I do not seek to uncover and present historical truths, nor to create and exhibit my own works of art. In producing this exhibition in the fictitious space we call a museum, I hope to share with both locals and tourists viewing the exhibition the process of digging through the deposits accumulated over 100 years of tourism in this region, and thereby generate a space where we can imagine a little of what the future holds for Setouchi and Naoshima.
Finally, I would like to take this opportunity to express my sincere thanks to Haruki Tanaka, who provided valuable scrapbooks of newspaper cuttings related to Naoshima beginning in the 1980s, and all others who provided materials and other forms of assistance.

Motoyuki Shitamichi (Chief Director of the Museum)

*1. Kanzaki, Noritake (2011) “Tabi to Kanko no Gaishi” [An unofficial history of travel and tourism], in Institute for the Culture of Travel, Tabi to Kanko no Nenpyo [Chronology of travel and tourism], Kawade Shobo Shinsha.
*2. Nishida, Masanori (1999) Setonaikai no Hakken [Discovery of the Seto Inland Sea], Chuokoron-S


[ 02 瀬戸内「百年観光」資料館 映画館 /Setouchi " Hundred Years' Tourism " Museum CINEMA ]

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瀬戸内「百年観光」資料館の展示終了後、空間を映画館に改装。
瀬戸内を舞台にした映画を上映する、小さな島の小さな映画館を始めます。
After exhibition "Setouchi " Hundred Years' Tourism " Museum", we changed space from gallery to cinema.
This small cinema is screened movies set in Setouchi.

会場:瀬戸内「百年観光」資料館

9月7日(月)13:30~ 「二十四の瞳」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月12日(土)13:30~ 「喜びも悲しみも幾歳月」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月14日(月)13:30~ 「釣りバカ日誌1」 監督:栗山富夫 主演:西田敏行
9月19日(土)13:30~ 「男はつらいよ 寅次郎の縁談」 監督:山田洋次 主演:渥美清

対象:直島在住もしくは勤務の方
料金:無料 ※ご予約が必要です。
※新型コロナウイルス感染症の拡大防止のため、受付での検温、マスクの着用、手指のアルコール消毒、さらに室内の換気と空間に最善を勤めています。


2019年11月 4日 11:28 下道 基行 */?>

表現に対する「不自由」や「キセイ」をグレーゾーンから企画者や作家が引っ張り出し、見えない敵と戦うこと、それはグレーゾーンを減らしていく行為にはならないのだろうか?

なんかこの1ヶ月、表現の自由について何か書こうかと思うが、重い腰が上がらない。
なんかこの1ヶ月、少しfacebookを開くと表現の自由についてばかりが目立っていたようだが、それ以上に香港の友人達のアップする香港の現状を見ながら絶望的な気持ちになっていた。
(アーツカウンシルについては文化の色々な人々が手を組んで徹底的に議論していくべきだろう)
ただ、愛知の祭りは終わったが、香港は終わらない。
とりあえず、何も良いアイデアが浮かばないので、”慰安婦”の事をもう一度勉強を始めた。
リアクションが早くないし声もでかくないが、それぞれのタイミングと方法でこの状況を考えていきたい。

ネット上で全く話題になっていない自らの展示。絶賛開催中。
再度見にいくと思った以上にたくさんの人が熱心に見てくれていた。
焦る必要はない。「いいね」に踊らされる必要はない。
自分のペースで深めながら前に進むしかない。


新しい骨董 引っかかりました。

2019年10月31日 01:46 下道 基行 */?>

以下のネット販売商品が「偽札」と見なされて、ページが停止されてしまいました。購入者の方には自動的にキャンセルになってしまい、ご迷惑をおかけしました。今後ともよろしくお願いします。


新しい骨董_ピンク01.jpg新しい骨董_ピンク03.jpg


年月日:2019.06
サイズ: 85×45mm
素材:紙
場所:長春、中国
発見者:下道基行

date:06.2019
size:85×45mm
material:paper
place:ChangChun, China
discoverer: Motoyuki Shitamichi

10年ぶりの中国。旧満州の首都だった長春は劇的な変化をしていた。
駅は大々的に改装され地下も整備されていて同じ街とは思えないほど。ただ駅から離れるとすぐに古い路地や住宅街が広がっていたが、それでもそんな通りですらゴミが落ちていないのには驚いた。常に掃除をする人が歩き回っている。ぱっと見、海外からの観光客はほとんど居なそうだが、逆に国内の観光旅行客がバスや電車でたくさん訪れているようだった。人々が裕福になり、日本に爆買い中国人が来ているくらいだから、国内ももっと観光客が動いているのだろう。「DISCOVER CHINA」みたいに国内観光も花盛りということか。旧満州国皇宮(偽満州国皇宮博物館)も以前はボロボロな地方観光地だったが、今回行くと巨大な駐車場やインフォーメーションや建築自体も大きく変貌していた。
夕方になってフラフラと街の中をさまようと、10年前の通りを煙だらけにした羊肉串屋台やそれを焼くウィグル系のおじさんの深い表情…、記憶が蘇ってくる。記憶を頼りに歩くと、駅前の通りの屋台はほぼなく、店舗の一階に組み込まれるような状態になり、少し寂しかった。さらに屋台的な店でも、1本数十円の串焼きを多くの客は携帯スマホでQRコードを読み込み、キャッシュレスで支払っている光景には驚く。

羊肉串を数本買ってコンビニでビールを買い、駅前のビジネスホテルに帰り、薄暗い廊下の突き当たりの部屋の戸を開いた瞬間、バサッ!!と何かが足元に落ちて散らばった。よく見ると少し小さいが中国100元のように見える。拾い上げるとそれは風俗のピンクチラシ。名刺くらいのサイズで片方の面にはエロい写真と電話番号と客引きの言葉、もう一方は中国100元のコピー。
床や道路でお金だと思って拾うことを想定したのだろうか?
まんまと拾ってしまった…。
今は見ないが日本のピンクチラシは水着アイドルの写真が使用され電話ボックスに無数に貼られていたが、こちらでは札を模す、とは。
それにしても、お金と性。その表裏一体感の見事さ。
ビールを開け羊肉をかじりながらその紙っぺらをまじまじと眺め、一人唸る。クミンの香りが脳を刺激する。ここでもスマホとQRコードで会計しているのだろうか…。

旅から数ヶ月経った昨日、手帳に挟まっていたこの紙が偶然パラッと家の床に。
あ。
「これ出品して捕まらないかな?」とすぐに陽光くんにメール。「最高!」との返信。
ということで出品します。
価格は、100中国人民元のレート(2019年10月29日)を調べ、1541円。


サイズは名刺サイズと小さいです。ご了承ください。


I Picked up this paper on the floor at cheep hotel that I was staying in China.
Because I thought I found money.
This paper is "Sex Flyer".
it is fake bill.
"Front and back" made one.
I want to sell it ¥1541 (100CNH=1541JPY / 29,OCT,2019).

娘の名前

2019年10月30日 00:30 下道 基行 */?>
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娘はもう1歳4ヶ月になる。
少し子供の名前に関して少し書こうか。
出産前、妻と僕が意見を同じくしていたのは「男女どちらでも良い名前にしたいね」ということくらいだった。ただ、僕の中では密かに「親の希望などを名前の漢字によって”意味”として込めるのではなく、その子にピッタリくる美しい”音”で決めたいなぁ」と思っていた。
妻は妊娠中に時々、いくつかの「男女どちらでも良い名前」をあげていた。そして、娘が生まれてから実際に彼女と対面して、僕はその名前候補の中から一つを選ぶ形となった。
名前はひらがなで記す方向になった。妻はその事を「彼女が大きくなって漢字が良ければ自分で考えたら良いのよ」と話した。
”名付け”は人間ができる最もシンプルで難しい”創造”であるのではないかと思う、大きな経験だった。

名付けはある意味やりがいのある仕事だが、簡単に踏み込んではいけない部分でもあり、出産はその役割が自動的に親に回ってくるし、それを放棄できない。

(名前はここに書かず、今度会った時に音で伝えますね)

本人がいつか、いつのタイミングか知らないけど、意味のないこの言葉や音が気にいいってくれるといいな。

小さな実験

2019年7月13日 22:43 下道 基行 */?>

Facebookとtwitter から少し距離を置いた。
アーカイブは消さず、「辞めます」と日記に書き込んだ。
全然何も考えず、突然思いついて実行してみた。

今日、別の用事で陽光くんに電話したら「辞めたみたいだけど、何かあったの…?」と心配され。
そうか、突然やめると、何か嫌な思いをしたのでは?と心配されるのか…。理由を考える。
きっかけがあるとすると、うーーーん、、、例えば。先日、中国に旅に行った時に、せっかく知らない土地にいるのに、面白いことがあった時にすぐにtwitterにアップしていた自分がいて、さらに、その後の旅の中でバス移動の時とかに、その記事への反応が気になってtwitterをよく開くようになったこと。とか。
見てしまうし、あげてしまう。だから、断ち切ってしまう方が良いのではないかと思った。やっていても付き合えるのなら良いが僕の場合何かを奪われている感覚が最近強かったので。

さらに、最近、このホームページに日記を始めた事も理由の一つ。
誰が見ているか、わからないが、たまに草抜きとかをやっている自分の庭のような場所。
先日、沖縄に行った時、「ホームページで日記始めたね。見てるよ」と一人から突然言われた。
あぁ、見る人は見るし、見ない人は見ない。それで良いのかもと思った。
みんなが同時に見て、同時に反応し、反応される、それは時として静かな過剰な期待になってしまう。僕の場合。
幼い頃、見せてもらえないテレビ番組や買ってもらえないゲームや雑誌があって、クラスの話題についていけない事があったが、今思うと何の問題もなかった。それに近い事が起きるのではないかと思う。つまりシェアできない事が増えるが、さほど問題がない程度のこと。
少し孤独な作業が欲しいのかな。人にではなくただ自分と向き合う方向性。人からの反応への過剰な期待に煽られている自分。 孤独に書いて、それを誰かが覗き見るだけ、の方が今は良いのかな。娘の事とか、サーフィンのこととか、SNSにはあげないようにしていたが、この自分の場所なら何か書いてみようかな。
とにかくとにかく、Facebookとtwitter をやめてみた。
小さな実験。

TCAA

2019年7月10日 09:49 下道 基行 */?>

Tokyo Contemporary Art Awardという第一回の新しい賞をいただくことになった。これについて少し書いておく。
この数カ月間、美術手帖のサイトのトップページに記事がバンバン出ていたのでご存知かもしれないが。笑
東京都が、いや元ワンダーサイトが、いや、名前が変わったばかりの東京都のアーティストレジデンスTOCASが(くどくてすみません…)、新しい賞を作った。風間サチコさんと共にいただけたのは何より嬉しいし心強い。
(色々とご意見もあるかもしれないが、)僕自身は2010年から1年間、ワンダーサイトに滞在し、何よりたくさんの世界中のアーティストと出会えたことは本当にその後10年近い年月の原動力になっていたし、財産だと思っている。
今回のこの賞は、「中堅」に与える賞だという。だからと言って、今までの活動に対しての”頑張ったで賞”ではなくて、今回の審査員のスタジオビジットや相談をしやすい環境作りやこの賞を企画し支えるのがアーティストレジデンスのTOCASであることからも、「中堅」の海外での活動やさらなる活躍のために送られる応援、”あなたならもっとできるで賞”だろうと思った。で、僕に何ができるのだろうか悩んでいる。いや、悩んでいる暇はない進め。
今年は、5月に娘が生まれて、数週間の旅から帰るたびに劇的に成長する彼女に驚きながら過ごしている。「生きる」「生かされる」と言う感覚が揺さぶられて仕方ない。
「中堅」と言う言葉は重い。2010年くらいから若手としてポツポツ仕事が増えてきたが、2013年くらいからようやくバイトをやめて作品づくりのみの生活になったが、そこから5 年程度で、もう中堅。ま、中堅なのだ。
少年時代から大学生まで、溜め込まれていた”世の中に出るための準備”が一気に吹き出していくのを「若手」とする。(音楽でもそうだけど、デビューアルバムはいつも美しいのかもしれない。そこには様々な言葉にできない混沌と様々な過去の影響がないまぜになって発散されるから。)そこで幸運にもデビューできて少し認知されると、今度はそれを自ら乗り越えながら進んでいくだろう。その途中に「中堅」があるのか? いや、振り返る暇などまだない。
今、僕が何を書いても、「リア充」だ「自慢」だと言われるだけなのだろうけど。笑。いや、全然笑えない。今、沖縄那覇の1800円のゲストハウスのドミトリーのベットの上で、発表の予定もない作品の構想を悶々と考えている。韓国資本らしく、スタッフの青年が政府同士のいざこざで起こったお客のキャンセルを嘆いているのを聞きながら。
もちろん恵まれているとは思う。こんな時間を与えてくれる家族や応援してくれる人々。ただ正直、なぜ生きているか分からないほどの生活が目の前にある。詳細は書かないが本当だ。安定を求める気持ちをぐっと抑えながら、不安定極まりない状況下を、道無き道を手探りで進む日々。後戻りなどできない一本の道を、自分の感覚を頼りに。
そして、なんか、注目されることで、色々と人に好き勝手言われて、心が少し落ちることもあるけれど。足を引っ張られてる暇はない、進むしかない。杭は出てしまった。叩かれたら凹んでしまう心がここにはあるのだけれど。自分の前のこの世界を自分で全力で楽しみながら駆け抜けるしかない。娘が免疫を作るためによく高熱を出しているが、僕も熱を出して免疫を作っているのだろう。


TCAAはすでに2回目の公募を開始した。
TCAAは、選んで賞金あげて終わりではなく、色々と相談にも乗ってくれるし、並走してくれると思う。
もし、興味のある方は是非。

ご報告まで。

補足 14歳

2019年7月 8日 23:54 下道 基行 */?>


[14歳と世界と境]について文章を書いた。
http://www.nmao.go.jp/publish/news232.pdf
文章は5ページ目にある。このプロジェクトに興味を持ってくれる方にはオススメ。


ただ、さらに、
そこでは書ききれなかったことやよく質問を受けることを少しここに書いておこいうと思う。
上の文章を読んでからの方が読みやすいです。

【無料である事の難しさ】
この1ヶ月で札幌と沖縄で朗読会を行なった。
どこかの会場で[14歳と世界と境]の本を僕が読んだりみんなで読む。
本は電気がいらないので、どこでも気軽にできるのは良い。
友人がスペースに呼んでくれたり、今後は河原とか公園でもやりたい。
朗読会というのを、生まれて初めてやってみているのだから、これが正解かはわからない。でもなぜ朗読会を行うのかというと。実は朗読会をしたかったわけではなく…この本を作りたい気持ちや本を旅させたい気持ちが、朗読会という形になった…のだ。
なぜなら、「この本は無料」だから。無料でもらえるものは無料の扱いを受ける可能性が高いから。だから、「イベントに自分で予約をして来てくれる人」に「僕がサインを書いて手渡しをする」ことによって、お金ではない何かを交換したいと考えている。実は今回沖縄ではたまたま誰かの誘いで朗読会に来ていた人がいて、その人は本を会場に忘れて帰っていた。ま、自分にモチベーションがなくて、無料となると悲しいかなそうなってしまうのだ。300部しか作っていない。会場の椅子に置いて帰ったり、家に帰って本棚にポンと置いてそれでおしまいではなくて。一人目だけでも、なるべくモチベーションのある人に手に取ってほしい、と。その気持ちは薄れていくにしても、回っていくうちに何人目かの誰がこの本自体から感動してモチベーションがまた現れるかもしれないし、自信作だし1人目くらいはしっかりと渡したいな、と思っている。そういう理由。
あと、他の理由としては、プロジェクト「14歳と世界と境」を香港の美術館で発表した展示の中で、この本の制作を思いついて、展覧会内で制作を行うことになった。そこで、展覧会の中で1冊ではなくて300冊の本を作る理由として、「これはパフォーマンスの道具です」という言葉で語った。それは「この本を人に配る方法」を決めた瞬間だった。本を使った下道のパフォーマンスとしての朗読会でもある。ただ、パフォーマンスも朗読会も未経験だったものとして、「この本を人に配る方法」を模索している。というわけです。


【なぜアジアなのか?】
もう一つ、「このプロジェクトは欧米ではやらないのですか?なぜアジアなのですか?」という質問への気持ちをかくと。
この本は、僕がシリーズ「torii」で、韓国をはじめとしてアジアの国々を何度も旅をしたり滞在制作をした時の経験や疑問から始まっている。それは、人と人はもちろんすべて分かり合えるわけではないを前提にしながらも、ただ、歴史などの”学校教育”の違いによって、政府同士でもないただの個人と個人のただの夕食のテーブルに時折登ってしまう、分かり合えないような関係性にもどかしさを感じること、そのようなそれぞれの国家によって植えつけられる”教育”を飛び越えて、いや、◯◯人と▷▷人という立場、さらに大人と子供という立場をぐるりと入れ替えて、お互いのことを考えられるような体験を作ってみたいと思ったのがきっかけ。
この本は、政府の悪口などは一切書いていない。トランプ?安倍?キム云々?そんなの一切書いてない。ただの14歳の世界の話。だから、政府に疑問を持とう!という方向性ではなくて、小さな世界の話をシャアする事で人々の気持ちを揺さぶってみようと考えている。子供の感覚から大人が影響されるような。
中国では他の国のニュースや新聞を持ち込む事は難しいそうだ。ただ、この本には何も政府を転覆を広めるための言葉は一切書いていないし、それを望んでいる方向すらない。だから、普通に自分の幼い頃を思い出して、誰しもが読めるただの本に仕上がっている。だから中国の人も普通に読んでほしいなぁと思っている。ただ、根っこには、学校教育の問題への疑問がある。でもそれは、自分自身の日本の歴史や道徳やその他学校教育に対する疑問でもある。14歳の言葉を隠喩として使って国家や政府の悪口を言いたいわけではなく、14歳の世界観に触れる事で、国境を飛び越えられる共有感覚があるのではないかという希望。
14歳は大人の常識を受け入れなくて最後に抵抗する時期。この頃の疑問に大人は答えられるのだろうか?


【マレーシアのWS】
そういえば、実はマレーシアでもこのプロジェクトは行われた。ただ、ちゃんとした新聞連載にはならず、新聞社の方針が強い状態での掲載になった。奥付の中に協力者の名前などは入れているが、あとがきの文章内に、マレーシアの文字が入っていないが、これはミス。台湾は括弧書きで書いていたし。

という事で。
ちょっとtwitterとか色々疲れるのでやめました。
facebookもやめたいのだけど、メッセンジャーをものすごく使っているから、やめられえない。。
だから、たまに「ここに」日記を書く方向は続けようかな。
少しオープンな日記帳みたいな。たくさんの人に読んでもらう必要はない。
自分の頭を整理しながら言葉にしたい。

以上

14歳の小さな風景/旅する小さな物語

2019年7月 8日 21:18 下道 基行 */?>

14歳の小さな風景/旅する小さな物語


 時が過ぎ、忘れられられてしまうような些細な日常を、記録しながら世界を旅して本にまとめてみたい。そんな活動に憧れていたのは大学時代に出会った『忘れられた日本人(宮本常一著、一九七四年、岩波書店)』を読んで以来だろうか。

 かつて、そんな表現活動に最も適しているのは「旅をしながら、雑誌に連載してプロジェクトを進め、最後に一冊の本にまとめる」という手法だった。大学卒業後に、旅をしながら制作した作品を手に様々な出版社を回った。そして一度だけ、雑誌連載と本の出版を経験した。ただ、僕が大学生の頃にはまだまだ元気だった雑誌や書籍はインターネットの台頭によって次々に出版が難しくなり、さらにスマホの普及で誰しもが日常を記録しアウトプットするような時代の急激な変化を肌で感じながら、表現手段を常に模索してきた。そんな中で、2012年に自分自身で小さな出版社を立ち上げ自ら本を作り販売を始めた。さらに、もう一つ、地域に根ざした芸術祭や展示への参加が増え、2013年よりそれらの枠内で、それぞれの土地の人々のインタビューを行い、それぞれ別の土地の新聞内に同じ連載を行なっていくことを始めた。それが「14歳と世界と境」というシリーズ。

 具体的には、様々な場所の中学校で特別授業を行い、授業の中で生徒たちに「あなたの日常にある境界線を探してきてください」という課題を出した。数日後、2回目の授業内で、彼らは日常の中から見つけたそれらについての文章を書く。彼らが書いた文章は、地元新聞の協力を得て紙面上に小さなコーナーを作り週1回の連載として発表した。彼らの小さな世界の境界線の話は国際問題などの大きなニュースと並んで発表される。

このプロジェクトは、あいちトリエンナーレ2013、アジアン・アート・ビエンナーレ2013(台湾・新聞連載は実現せず)、岡山芸術交流2016、光州ビエンナーレ2018(韓国)その他、香港や、今年(二〇十九年)はフランスで行う予定で進行している。生徒たちの文章を少しここで紹介したい(引用は原文のまま)。


・男女に違いがあるため、私は男の子と存分に遊べない。小さい頃はこんな感じはなかった。以前、ある男の子とすごく仲良くしてたが、いつも周りから付き合ってるみたいと言われたから、一緒に遊ぶのも気をつけるようになった。
(香港の14歳/将来の夢:看護師)

・僕は今まで犬を2匹飼ったことがある。一匹は、2年前にあの世に行って、一匹は1年前に連れてきて今飼ってる。今飼ってる犬を見るたびに死んだ犬のことが思い浮かぶ。死んだ犬によくしてあげられなかったから、今の犬にしてあげること全てが、死んだ犬を差別してる気にもなる。だけど死んだ犬は死んだ犬だし、生きている犬は生きている犬だ。死んだ犬に申し訳なさとして、今いる犬によくしてあげて、できることをしてあげるのが正しいと思う。
(韓国の14歳/ 将来の夢:小説家)

・僕は家で生物を飼うのが好きです。魚は飼ってもいいんだけど、この前に蛙を飼ったら、「汚いから飼っちゃダメ」と怒られました。なので、虫やカエルなどはこっそり裏の外で飼っています。
(日本の14歳/将来の夢:親の仕事を継ぎたい)

 中学生の心はいつも揺れている。その理由のひとつは、大人の社会の”常識”をまだ受け入れられない境界線の時期だからなのではないか。ただ、彼らはすぐに大人になり、”常識”を身につけていく。彼らの言葉にはまだ「常識に対する疑問や反発」がある。そして、彼らの小さな世界の境界線の話は、大きな世界の境界線を越えて世界を繋ぐ力を秘めているのではないか…。僕はこのプロジェクトでそれをすくいあげて形にしたいと思っていてる。

 2019年3月、香港の大館現代美術館でこの14歳のプロジェクトの展示をした際に、このプロジェクトを本にまとめることになった。日本語、中国語(繁体字)、韓国語、英語の4ヶ国語で読める本。300部制作。ただ、”販売はせず”、”朗読会を開き無料で配布する”ことを計画している。読み終わったら人から人へと手渡され、本が旅をする仕掛けを考えた。その理由は、中学生の文章を自分が売り物にすることへの疑問があったし、何千部も本を印刷してその本がどこかの誰かの本棚に並べられて眠ってしまうよりも、印刷は少部数でも特定の誰かが所有しないシステムを考えた方が本がより生きてくるのではないかとも考えたから。特定の空間に結びつくことがない図書館の蔵書や美術館の作品みたいになってほしいが、果たしてうまくいくだろうか。まずは、香港から50冊が旅立った。
もしかすると、ある日、あなたの元に誰かからこの本が巡ってくるかもしれない。その時は少しの間を共にしていただけたら。

(「国立国際美術館ニュース232」掲載)

2019年6月30日 23:37 下道 基行 */?>

中国に来た。
2010年の「torii」の取材以来、もうあれから8年くらい経つだろうか。あの時はで、北京経由で長春に5日ほどだった。
今回は「大連」から入り東北方向へ電車で移動していく。北朝鮮との国境の町「丹東」、そして「瀋陽」、旧満州の首都だった「長春」、そして「ハルビン」と、2週間の中国東北部の旅。中国は、現在15日以内はビザが要らないので、今回、急なスケジュール変更で空いてしまった6月下旬の2週間でこの旅を決行することにした。
今回、フィルムカメラとデジタルカメラ、三脚と取材の構えではあるが、撮影を決めているのは、新たに見つけた「torii」が2箇所のみ。正直、最近、ただただ”旅”に身を置いてみたい、と常々思っていたのもこの旅に踏み切った理由だ。それは、日々googleやtwitterやfacebookやニュースサイトに時間を支配され過ぎていて自分から発見する能力の退化を感じることや、知らない街を歩いても開放感がなく逆に製作の”ネタ”を探しているような感覚を覚えてしまう自分の癖に嫌気がさしていた。つまり、旅や散歩自体が仕事になっていく感じ。旅は、出会いと創造の泉だ、ただプロの旅芸人にはなりたくない。だから、今回はただただ”旅”に身を置いてみよう、と。いや、実際それは可能なのだろうか。中国は、基本、googleやtwitterやfacebookやinstaも使えないのは好都合。
ただし、どこへでも行っても良い、では、どこへも行けない。タクシーに乗って大金を渡して「運転手さん、どこかへ連れてって」と言えば別だが、電車でもどこどこ行きのチケットは買わないと行けないわけだし、あてもない旅はなかなかあり得ない。だから、今回は新しく見つけた「torii」の撮影を2箇所の”目的地”にしながら(この2箇所のみの撮影なら4−7日間あれば済むが)、少し範囲を広げて「旧満州」を彷徨うことにしたのだ。目的地は点であって、旅は線だ。点がなくては線は引けない。道端で何と出会うかが重要ではないか。「旧満州」を選んでいるが、今後のテーマに何かを行う予定は全くない、ただ、自分が反応しそうなキーワードが多い場所を選んでだらここになった。例えば…、「周縁」「境界」「カオス」「生活感」「無名の」「歴史と現在」「近代と戦争」「モニュメント」「デジタルデトックス」「はじめての場所」「二度目の場所」など…。 だから、これはただの中国の旅であり、どこでもない場所に身を晒して、この自分の目や体が何に反応するかを確かめるのだ。もちろん何も期待していないと言ったら嘘になる。新しい何かと出会いたい、作りたい、生み出したい、そういう強い気持ちが根底にはある。ただ、残念ながら(幸運にも)、今は手元に何もないのだ。製作の種のようなものが。

公園

2019年6月10日 21:40 下道 基行 */?>

僕はお気に入りの公園と河原を近所に持っている。
ボォっとしたくて、本とコーヒーを入れた魔法瓶を片手にそこに向かうんだけど。
平日の日本の公園や河原って、仕事や家のないおじさんしかいなくて、つまり居場所のない人の集まる、居心地の良くない場所だなぁと感じることが多い。
外から見たら俺もそう言う風景の一部に見えているんだろうなぁって思いつつ。
こう言う場所が好きだからゴロゴロと時間を使いに行く。

2009年、フランスにいる時。公園や河原はキラキラしていた。
自由を感じる贅沢な場所だった。
帰国して、お金がないけど時間だけあるときに、自宅の近所の公園にふらりと行って愕然とした。
その居心地の悪さに。
ただ、それでも、探せば、素敵な公園や河原はある。
なんの変哲も無い公園や河原。でも、整備された遊具とか花壇とかではなく、なんとなく、草原のようだったり、素敵な木が木陰を作っていたり、なんと言うか、こちらの持つ時間が入れる余白のある感じ。
でも、そう言うところには先客もいる。
ただ、そう言う良い場所を知ってるそう言う人は、その素敵な余白を知っているのか。社会から虐げられている負のオーラではなく、自分でその自由を満喫している人も少なくない。
フランス語で言うならヴァカボンドか。
ぼぉっとしていて、小学校が終わる時間になると、子供たちがワァーっとやってきて空気がまた変わる。

スクリーンショット 2019-05-16 17.20.05のコピー.png

Cosmo-Eggsのカタログ(英語版)は、販売を開始!6月まで送料無料! 
デザインは田中義久さん。コンセプトを体現するような、本当に素晴らしい物体に仕上がっています。(下のウェブで中もパラパラ見れます。英語版も日本語が多いので結構読めますよ)
カタログは、映画のパンフのようなポジションを意識。展示は「シンプルに体験できるもの」に徹した上で、ここにプロセスや思考の片鱗を詰めました。(展示会場では数量限定で特別価格で提供しています)
下道は「津波石地図」と、普段は公開しないフィールドノート「津波石調査レポート」をそのまま何枚も出しています。本当に稚拙でお恥ずかしい限り、ただ、僕の手書きなので日本人でも読めるかどうかわかりませんが。
安野くんの新作音楽のスコア。さらには、石倉さんの創作神話の背景に隠された思考とリサーチ、能作くんの建築へのアプローチのプロセス、すべての制作過程のタイムライン。かなりオススメです。
日本語版は6月末くらいに完成販売予定。

https://www.shashasha.co/jp/book/cosmo-eggs?fbclid=IwAR3n6YV50p5h80sBSUvF4u16141dCG4kSYx4X61JXCpVJFXe3dRdmax0qsw

大学の先生を少々(続き)

2019年5月15日 03:11 下道 基行 */?>

大学で実際に行った授業を書き留めておく。

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映像実習 
A芸術大学 芸術学専攻2年
「人の話を聞きに行く−インタビューの実践−」
下道基行(写真家/美術家)

ミッション
芸術学専攻2年生6人に、映像(ビデオカメラや携帯や編集ソフトを使い)を実際に使用して、撮影・編集し映像を作る体験を作る映像実習。何を作るかの内容は任されている。1日2コマ3時間、週2回×3週間。

内容
まず最初に、もうすでにビデオカメラではなくスマートフォン(スマホ)でみんな普通に動画を撮る時代であることから、スマホを使うことを学生に提案。
そして、僕自身が作家として生徒たちと一緒に行う内容を検討。“映像を作る体験”で生徒が何を得られる授業になるのだろうかとも考える。そして、編集の面白さとか技術的な何かではなく、動画を回す事自体やその中の会話、撮影した後に動画を編集するためにもう一度向き合う事、そういう中で自分自身に何かの成長やフィードバックが起こることを目標にしようと考えた。そこで、テーマは「話を聞いてみたい誰かにインタビューを行う」ことに決定。
まず、僕自身、彼らの事を知らないこともあり、自己紹介も兼ねて、2人組×3になって、相手に対して30個の質問を考えてもらい、学内の好きな場所で、お互いに10分程度の動画を撮影してもらう。上映会は、動画は編集なしで携帯のままプロジェクターにつないで、みんなで鑑賞。学生たちからは、「自分のインタビューが恥ずかしい」「○○の知らない部分を見ることができた」「人の映像より自分の映像は相手の言葉を引き出せなかった」「動きながらインタビューすることと、座ってインタビューすることの違い」など感想があった。さらに同じテーマで撮影された6人それぞれの映像を見ることで、それぞれの撮影やインタビューの良い部分と上手くいっていない部分が際立って感じられる体験になった。
その後、下道自身が美大生時代に民俗学の授業が好きだった話、宮本常一「忘れられた日本人」を例に挙げて、“なんでもない普通の人のインタビューの面白さ”を話す。さらに、村上春樹と柴田元幸の対談「翻訳夜話」(新潮文庫)を例に挙げて、“翻訳やインタビュー、さらにその編集や書き起こし作業はその対象を自分の血肉として自分の中に取り込むより深く理解し成長するひとつの手段”であることを話す。次のインタビューの対象は、各自「自分が何かを知りたい相手」にすること。その後、映像人類学者・川瀬慈さんの映像インタビュー作品「僕らの時代は」を鑑賞。みんなで映像やインタビューについて討論。
最後の2週は、各自「誰に」「どのように」「何を聞くか」を考えて、実際に撮影し、編集して30分程度のインタビュー動画を制作。最後の日に特別講義室を借りて上映会。感想を話す。
通常、 インタビュー映像などは「新刊や展覧会のための作家にインタビュー」とか、何かしらインタビューする側とされる側、さらにはそれを受け取る側に、理由がはっきしりしていることが多い。ただ、今回の実践では「自分が知りたいことのため」に、“インタビュー”を口実に相手にいつもより深く話を聞く挑戦であった。そのために、他人が見て楽しめるような映像には仕上がっていない。しかし、彼らが芸術学を行なっていく上で、何かしらの仕事をする上で、“人に話を聞くこと”はいろいろな場面で生かされるのではないかと期待する。

:::::::::::::::

という授業内容。
前回のいう①の人間として、考えに考えたがこんな内容の授業となった。。
生徒の中に何か残る授業になったことを祈る。。
以上

大学の先生を少々

2019年4月26日 21:57 下道 基行 */?>

先輩から聞いて心に残っている話がある。そこから、日記を書き始める。
それは、アーチストには、ざっくり2種類のタイプがいるのでは?という話。
①「誰からも頼まれていないのに作るタイプ」
②「場所や企画やネタが与えられてこそ作るタイプ」
という。
そう考えると、
①は、それをやらないと生きていけない、先へ進めない。という製作と生きることが一体化している。
②は、それをやらないと生きていけないわけではないが、ある意味でドライに自分のことを見ていて、仕事としてプライドを持ちながら製作している。
かもしれない。
さらに、
①が作る作品は、言葉にできないのパワーを秘めていることがある。つまり(しかし)、ロジカルではないことが多い。
②が作る作品は、ロジカルに製作が進められることが多い。全てが言葉で語れてしまう作品も多々ある。それが良いか悪いかは置いておく。

で、おそらく。普通に美大に行って、アーチストになる人の多くは、②ではないか。下手すると、①はアウトサイダーアートとの違いが難しい場合もあるし、美大の美術学科とかではなくても生まれてくる。
①は、製作するモチベーションが終わると活動も終わる可能性がある。
②は、自分のスタイルが確立できていれば、外からネタさえ提供されれば、ボケられる。つまり、飽きられない限り、活動は仕事として続けられる。

限りなく100%に近い①の作家を何人か知っているが。色々なアーチストが①と②とが綺麗に分かれているわけではなく、①的傾向の強い作家であっても②は持っているだろうし、その逆もある。

では、美術大学の先生はアーチストが多いが、大学で教えてもらうなら、どちらが良いだろうか?
やはり②?

実は、明らかに①寄りの僕は避けていたのだが、
今月の1ヶ月だけ、「映像実習」という授業を教えることになり、家から車で20分にある芸術大学に通っていた。この授業を受け持つある方がどうしても滞在制作で1ヶ月大学に通えないので代わりにできないか?という流れで。

(続く)

旅をする本

2019年3月22日 08:02 下道 基行 */?>
53439554_10157028344014709_5666914055185498112_n.jpg 念願の出版社からの初めての写真集「戦争のかたち」が出版できたのは2005年。3000部。初版印税なし。もちろんこちらが印刷などを支払う必要はなく、赤字にも黒字にもならなかった。たくさんの人に見てもらえたし、たくさんの反応が返ってきたし、素晴らしいデビューをさせてもらった。それから10年、その写真集は、ようやく3000部を全て売り終わり在庫もなくなり、めでたくこの本はSOLD OUT(再販はなし)となった。担当編集者の方に久しぶりに連絡を入れ挨拶をした。 2005年からの10年、「日曜画家」「torii」と新作を完成させて、出版社を回ったが出版には至らなかった。小さな出版社を立ち上げISBNを自分で取り自費出版という形で模索を始める。「日曜画家」は会社のコピー機を安く使わせてもらい友人たちに製本作業を手伝ってもらって、2010年に袋とじの本を作った。ナディフなど本屋さんに直接持ち込みをしておいてもらうと意外とすぐに完売。何度か再製作したが、あまりに大変で割に合わなすぎるので”SOLD OUT”となった。(秋山伸さんに初めてお会いした時にこの本をとても褒めてもらった記憶がある。) 次にシリーズ「torii」は同期の武蔵美のデザイナー橋詰くんや富山の印刷会社さんと一緒に、初めて自分の作りたい本を作りたい人と全力で作りたいように作って販売した。2012年。とても貴重で興奮する経験だった。150万円くらい自腹で払って作った(のちに岡山県からの支援があった)から、自分で本を売れる場所を開拓していった。たくさんの人が買ってくれたし、光栄にも賞をいただいたりして、1年くらいで制作費は返済し、その後はちょこちょこウチの家計を助けてくれているし、現在は在庫も少なく完売は近い。その後、「torii」と同様に、自腹で「Dusk/Dawn」と言うシリーズを写真集にもした。同世代の優秀なデザイナー木村さんと激論しながら作ったハードコアな本は、素晴らしい完成度で挑戦的な内容。ただ、いまだに売れ行きが伸びず、家の一角に段ボールの壁として幅を利かせている。いつか売れ始めるだろう。笑。最後、シリーズ「bridge」の本は、これまた同世代のデザイナー丸ちゃんとのコラボで、60mの蛇腹の本。二人で制作し製本し、全て折半することにして、話し合っていくと1冊20万円でエディション5冊の本になった。4冊売れて残るはあと1冊のみ。これもすでに利益を出している。

と、ここまでは自分が頑張ったとかという思い出話ではなく前置きで、話はここから。
なんと言うか、一冊づつ、作り方や売り方や存在のさせ方、さらにはコラボレーションの時間や経験を考えながら、本づくりを行って来れた事は、展覧会を作るのと同時並行して、素晴らしい制作の経験。毎回感動するし、成長させてもらう。
写真を撮り作品を作る僕には、本はいまだに大切な表現の一つだ。ただ、時代は常に変わっているし、こう言う時代に生まれてしまった。大学生の頃、初めての一人暮らしで、吉祥寺のビレバンに行って雑貨や本に囲まれた生活に憧れたり、本を買ってきて本棚に並べ、CDを並べたりして行くことが自分の知識や豊かさが増えていくような感覚だったが、その感覚はインターネットやスマホによって一気に壊れていった気がする。2009年、本棚の本を図書カードを付けて、旅に出してみた。そう、今も本棚にはお気に入りの本があるけど、読み終えてから一度も開いていないし、だから、たまに友人が泊まりにきたら欲しい本はあげることも多いし、もう、自分自身が写真集をこの何年も買っていないことに気がついて、自分もそれを作ること自体に疑問を持っている。

今回の「14歳と世界と境」は、美術館の展示として、ワークショップを行い、地元新聞で連載記事を作り、本を作った。さらに展覧会終了後に、本の朗読会を開き、本を無償で配った。「読んだら次の人に渡して欲しい」と言うルール付きで。香港の人々からは「そんなルールはすぐに破られて、本の旅はすぐに終わるだろう」と指摘が多いが。そう。ルールのあるのは良くないし、すぐに無視されて、売られたり、所有されたり、忘れられるし、そう言うのを僕はコントロールできないししたいとは思わない。ただ、中学生の文章は僕は本当に素晴らしいと思うし、この彼らの文集を売って商売にする気もないし、上に長々と書いたように、いっぱい印刷していっぱい売る気持ちもないし。読みたい人の手に渡り、読みたそうな人の手に渡って欲しい。図書館と言う空間のない図書館の蔵書みたいに。
思い出してみる。1冊目の写真集は3000冊、10年で売れた。3000冊を手にした3000人。きっと誰かの家の本棚に置かれていて何年も開かれないのだろうか。
今回の14歳の本は、300冊のみ。多分、期待として、最低1冊の本は3人くらいにはまず手渡されるかもしれない、そうすると900人。これは写真集「torii」や「Dusk/Dawn」と同じ冊数になる。さらに、10人の手を解すると3000人。そう、最初の本「戦争のかたち」くらいの人々が色々な場所で無料でこの本を読むことになる。そのくらい行けないかなぁ。ま、これは僕の勝手な希望であり、実験。でも、本当に内容は良いと思う。とりあえず、50冊が香港に旅立ちました。

「無料」と言うのは、人をいい加減にさせたり、逆に、無理強いさせたり、するだろう。けど、この本の文章に感動したり、心が動いたら、次へ先へ本は進むかもしれない。
そして、このインターネットの時代に、4カ国語の本を作る。google翻訳、あるよね?って言われるけど。それは意味の理解を助けるけど、中学生の書いた、たどたどしいけどみずみずしい文章を訳せるだろうか。いや。たくさんの翻訳の方に関わってもらって、贅沢な体験だった。なんでもインターネットでグローバル、ではない。今、逆のことが起こっているし。この本はインターネット的だけど、古い時代からやってきた。だから、インターネット以上に境界線を越えるかもしれない。

知り合いの方に、「宣教師みたいですね」と言われました。すると、この本は経典か何か。。。うーん。確かに、無料にするとそうも言えるかも。妻に話すと「中二教」とか馬鹿にされた。。笑 ま、いいのではないか、「中二教」の経典で。普通の中二に教えられる世界のあり方。でも、これは、何かありがたいことを教える完成された存在ではなく、揺れ動く中二の境界線の話。正しい事は書かれていない。
どっちが先にレーダー打ったとかやりあって、顔も見えない距離で傷つけ合ってる隙間を縫って、顔が見える人から人へすり抜けて、ね。
すみません。ついつい、最近、前へ前へ制作をしすぎてて、思考が追いつかず、頭がパンパンになていたので、文章化してクールダウンさせています。
ふーーー、、、もう昼か。
では。

下道基行―時間の層の積重ね

2019年1月 9日 10:09 下道 基行 */?>


 下道の作品はいわば、風景の向こう側にある物語にそっと気づかせてくれるものだ。新作《津波石》(2015-)は《torii》(2006-)の延長線上にあり、本展覧会にて、はじめて本格的に紹介する映像作品である。下道にとって新たな領域への挑戦となった本作について筆者ながらの“気づき”を述べたい。
下道は沖縄県・石垣-八重山諸島にある、津波によって海底より運ばれ陸地に漂着した岩、津波石を撮影調査した。このプロジェクトを着想したきっかけとして、彼は東日本大震災(2011)で大津波により内陸にまで打ち上げられた船の存在を知ったことを挙げる。船の多くが震災遺構として保存される事なく解体されていったという。
日本統治時代、台湾に建てられた鳥居は戦後まもなく横倒しにされ神社跡地にできた公園内に負の遺産として残されたのだが、現在はベンチとなり人々が宿木にとまる鳥のように座っている。このように遺構は、年月を経ていくなかでそこに生活する人々の手により新しい価値や機能を与えられ、新たな風景を創り出している。
もし船が残されていたならば、鳥居のように価値や意味を変えながらも震災の記憶を未来へ繋いでいっただろうか。このような問いを抱きつつあった矢先に下道は、どんな遺構よりも古い時代から存在する津波石と出会った。
石のなかには数千年前の津波により打ち上げられたものもあるそうだ。悠遠の太古から地球の生命活動によって繰り返し起きてきた自然現象、津波。圧倒的な自然を前に、生物はどのように向き合ってきたのだろうか。例えば、宮古列島のひとつ下地島にある津波石は八重山地震(1771)で起きた30メートルを優に超える津波により打ち上げられたと伝えられる。帯岩とも呼ばれ、津波にまつわる教訓として市の史跡となっている他、近年では民間信仰の神体として崇められている。また、下地島の隣島、伊良部島の津波石はアジサシという渡り鳥の繁殖地となっている。このように、ヒトや動物は自然と共存しながらそこにさまざまな価値や意味を見出してきたのである。その手繰り切れない時の長さに思いを馳せると、静かに佇む岩に崇高を感じざるを得ない。
下道は、多くの尊い命を奪った東日本大震災に対しての向き合い方を考えながら、悠久の時のなかで渚へと流れ着いた津波石と出会ったことを契機に、《torii》のように近代という一つの時代をフォーカスするのではなく、より大きな枠組みのなかで風景を捉えようとしたのだろう。そのような尺度の変化が本作に表れている。
本作は定点観測された岩をループ再生するモノクロの映像作品である。《torii》は戦前に起きた出来事が現在どのような形で残っているのかを記録したカラー写真であり、カラーであることによって眼前に起こる一瞬を留めている感覚が強く表れている。これに対して《津波石》はモノクロであるため、一体いつの時代に撮られたものなのか定かではない感覚に陥る。同時に映し出されている人や鳥は絶えず動き続けているのだが、岩は一瞥するとモノクロの静止画像のように見える。何百年前、あるいは何千年前に動いてきて以来そこに存在する津波石と、短い命を紡いでいる生物との時の流れの違いが表れているだろう。ヒト、動物、自然。長さや速さの異なる時間の層が重なり合うことにより多様な価値や意味が絶えず生み出されてきたことを、下道が切り取った風景は静かに語り掛けている。

尾形絵里子 (高松市美術館 学芸員)

展示風景はこちら>>>

ぐうたら

2018年10月18日 07:02 下道 基行 */?>


自分ももうすぐ40歳になるのに、ひとり南の島の安宿の布団に寝転がり、深夜テレビをつけてごろりとしてる。テレビの向こう側では、たまたま大阪西成の知人の活動がドキュメンタリーとして放送されていて、土地に何年も根を張り続けてきた活動に敬意を感じ見入ってしまう。

こちらは、根無し草の生活が続いているのだ。この10年間、1週間なんてサイクルもほぼ存在しない。数週間、何もないとかもざらだ。幼い頃から学校教育とかでたっぷりと仕込まれた”日本人の大人として社会人としての生き方”を、逸脱し続けることは容易ではない、不安がないと言うとウソになる。でもそのストレスを吹き飛ばす幸せを感じることもたまにあるし、なんとか生きている。この自分でも想像もしなかった実験のような生き方をもう少し続けていこうと思っている。

 ”私は思う。人間は本来怠け者、横着者なのだ。だいいち文明というのは、物質的な豊かさのためでもあるが、ひとつは楽をしようとして進歩してきたのではないだろうか。必要は発明の母というが、怠惰は発明の父といってもいいのではないか。 私たちの社会では、楽をしたいために、先人が頭をふりしぼって努力してきた。それなのに手段であったはずの労働だけがいつのまにか目的となり、それが美徳になってしまった。
『ぐうたら原始行』関野吉晴/1974年”

今回の旅に持って来た本にはそんなことが書いてあった。

そう言えば、小学生の頃に文集に書いた「夢」の事を思い出す。夢は8個書いてあって、その中に「ふつうのかていでよい」というのがあった。「普通の家庭で良い」。普通とはなんだろうか、今でもふと考える。
”私たちの社会では、楽をしたいために、” 先人たちは、常識的な生活を生み出し、なるべく考えなくても悩まなくてもいい生活や慣習を作り上げて来た。そういう”普通”というのは強固だ。でも、その叩き込まれた”普通”に疑問を持ち考えて実行し続けていく先に、自分にとっての本当の”普通”がある。
のかな?笑


(2018.10.18 少し秋を感じる那覇)

フィールドワークとカメラ

2017年11月12日 11:14 下道 基行 */?>


ーカメラとスコップー

 僕は旅をしながら写真を撮影して作品を作っている。ただ、文章も書くし、物も集めて展示もする。写真家と美術家の間というよりは、いろいろな境界線の上から別々の価値観のものを繋ぐことを制作としているように思う。
 大学では油絵科に在籍していたので、現代美術というのに触れる機会は多かったが、卒業後に絵筆からカメラに制作する道具を持ち替えた。カメラは独学だった。撮りはじめて2年ほどたった頃、写真の学校に通ってみた事はあった。そこで出会った若き写真家たちには、デジタルの波が押し寄せ、“写真”という存在が激しく揺らいでいる時期でもあったので、何を写すか以上に、カメラ/写真という道具をどう扱うか、ということに関心が集中しているように感じた。ただ僕はと言うと、ストレートに“記録として”カメラを選択したばかりだったこともあり、自分だけが何か時代遅れの場所からやってきたような、場違いな所で居心地の悪さを感じた。
 幼い頃、瀬戸内の小さな海沿いの町に住んでいた。考古学者になりたくて近所の貝塚にスコップを手に穴を掘りに行ったことや、隣の空き地にでっかい大きな穴を友人と掘ったこともある。スコップで地面をザクザク掘ると色々な時代の地層や思いもよらない物とぶつかる。カメラを手に旅をして風景写真を撮影するようになって以来、僕にとってカメラはスコップに近い道具なのかもしれないと徐々に感じるようになった。目の前の風景には時折様々な人々の生活の蓄積が地層のように見える事があり、そこのある時代だけを視覚化するにはカメラは良い道具かもしれない。視覚化するには、ただ写真を撮るだけではなく、集めて選んで並べる必要がある。一枚の美しい写真を撮影することが大切に思われがちかも知れないが、「撮って集めて選んで並べる」この行程がとても重要だと思う。
 現在僕は、デジタルとフィルムの3種類のカメラを使っている。6×7、4×5、デジタル一眼レフ。これは全くの我流だし、今まで人に話した事すらなかった。ただ今回「フィールドワークとカメラ」というお題が与えられて考えてみると、色々な作品シリーズを作る度にカメラの種類を毎回変えてきていた。改めて作品を順に追いながらカメラと旅と表現について自分なりに書いてみようと思う。

・ シリーズ『戦争のかたち』(2001-2005年)
 ある日、東京郊外で戦争の廃墟を見つけた。それが数ヶ月後に壊されて駐車場になっていた。シリーズ『戦争のかたち』は、日本全国に残された、砲台/掩体壕(飛行機の格納庫)/トーチカなどが様々な場所で新しい機能として使われていたり、今の風景に混ざっている様子を撮影したシリーズ。雑誌『Spectator』での連載後、リトルモアより写真集になった 。
※写真1(キャプション)トーチカ/北海道 シリーズ『戦争のかたち』より
 僕はこのシリーズの為にはじめてカメラを購入した。写真をやっている友人に建築物を中心にした「風景写真」を撮りたいと相談すると、価格とクオリティと機動力を考え、【中判カメラ】Pentax67を勧めてくれた。このカメラは、フィルムが35mmカメラよりも大きいサイズで写真の粒子が細かく引き延ばしても美しい。Pentax67は中古品がかなり多く出回っていて安価だ。デジカメはCCDが本体に内蔵されているのに比べ、フィルムカメラはどんなに古いカメラでもフィルムさえ新しい物を入れれば、更新されて行くのは良い。
 中判カメラとフィルムをリュックに入れて日本中を巡った。道なき道を彷徨うこともあるので自動車では機動力が悪くバイクが適していた。写真もバイクも風景とコンタクトする為のメディア。その頃、別の仕事をしていたので、1年に2回2週間くらいの休みをもらい、取材旅行を重ね、このシリーズは2005年に完成した。
 フィルムは、ネガとポジ、そしてカラーと白黒などいろいろなもので実験してみた。ドイツ写真の大御所ベッヒャー夫婦の給水塔の写真への憧れもあり、白黒のフィルムやタイポロジーも挑戦してみた。ただ違和感を覚えた。白黒写真とコンクリートの建造物の相性はとても良く、建物の機能美をよりシャープに切り取るのに効果的だった。ただ、“今の日常風景の中に突然ニョキッと現れる軍事的遺構が見えてくる風景”や“戦争の為に作られた超機能的な建物が機能を失い、新しい機能を与えられて残された建造物への興味”をより拾い集め並べる為に、白黒ではなく、徐々にカラーのネガフィルムで撮影し暗室で焼く方法になっていった。暗室作業は絵画をアトリエで描く作業に近く、自分の見た風景ともう一度出会い直す、大変に特別な経験で、これがなければ写真にハマらなかっただろう。今だと貸カラー暗室もフィルムも減少しているしデジタルでもしっかり撮れるから別の表現になったかもしれない。記録の道具の感覚や表現は日々変化している。
 白黒写真は「いつの時代かわからない」時間の止め方をする。それは、色が欠如している分、人々それぞれに想像する余地が多く残されているからかもしれない。使い方によっては記憶色にもなる。カラー写真はより情報量が多く説明的とも言えるかもしれないが、僕は当たり前な感じの日常のごちゃごちゃした雰囲気が気に入っている。
※写真2(キャプション)掩体壕/宮崎県 シリーズ『戦争のかたち』より

・ シリーズ『torii』(2006-2012年)
 シリーズ『torii』は日本国内の遺構を巡ったシリーズ『戦争のかたち』の旅の延長線上で“日本国外”に残された日本植民地時代の建物を見に行ったりして、日本の外側に残された建造物を調べ始めたことに始まった。実は、『戦争のかたち』を写真展にした時、写真に“ユルさ”を感じた。それはレンズや撮影方法やプリントの問題だった。『torii』ではより硬質で均一な写真を作り、大きく引き延ばした展示や自分が好きな写真集らしい写真集を最終イメージとして目標を定め、【大判カメラ】を購入することにした。このカメラは箱状で蛇腹が付いていて、カメラの後ろから暗幕を被ってのぞいて写すようなカメラ。特徴は、フィルムが中判カメラよりもさらに大きく、粒子の細かい美しいプリントが仕上がること。そしてあおり機能で建物の水平垂直で撮影できること。あと、カメラ自体が非常に大きく機動力がない(手持ちは非常に難しい)ので、自然とゆっくり風景と向き合って撮影することになる。撮影の行程は、まずはカメラを組み立て、三脚を立てて、暗幕を被り、構図を見て、ピントを合わせ、フィルムを入れて、風景を見つめ、待ち、シャッターを切る。カメラの大きさや機動性は仕上がる写真の印象とも非常に関係があるといえる。手持ちのカメラや小さいカメラでは、写真もラフに写りやすいが、この大判カメラは、三脚に乗せて写し描写力もあるため、写真もカチッと硬めの印象になる。それは、レンズや水平垂直などの理由もあるが、カメラが写す人の気持ちを反映する道具であることも関係している。感動しながら写された写真からはその感動が伝わってくることもあるし、大きなカメラで風景の美しさや時間の体積を感じながら、ゆっくりとシャターを切る感覚も写真には写るものだと思う。
※写真3(キャプション)サハリン ロシア シリーズ『torii』より

・ シリーズ『日曜画家』(2006-2010年)
 シリーズ『torii』と同時進行で進めていたシリーズ『日曜画家』。国内の、特に関西近辺に散らばっている祖父の絵を探し、その飾られている風景を撮影した、とても私的なシリーズ。このシリーズは、当初『torii』と同じ【大判カメラ】で撮影を始め、途中で【中判カメラ】に変更した。写真4と5を見て比べると何かが分かるかもしれない。写真4は大判カメラで撮影した初期作品、写真5は中判カメラで撮影した後期の作品。
※ 写真4(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
※写真5(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
 シリーズ『日曜画家』は、祖父の記憶を探す事とともに、風景絵画をカメラでリフレーミングし入れ子状の風景写真にすることをコンセプトにしていた。写真4は『torii』の鳥居と同様に、“主人公”である祖父の絵画を中心に置き、引きの構図で硬質に空間を捉えようとしているが、この手法だとなんだか面白みに欠けるなぁと徐々に思うようになり、中判カメラに持ち替えた。硬質な写真からラフで柔らかい画面づくりへシフトダウンさせた感じ。ただ、Pentax67よりもより軽量で手持ちの撮影のしやすい中判カメラMamiya7Ⅱを購入。中判のカメラは非常にボケ感が美しいという効果があるが、手持ちで撮影するのと、写真の “硬さ”も変わってくる。これは僕の個人的な思い込みかもしれないが、思い込みも写真は吸い込むようにして画面に定着してしまう。
 そう考えると、フィルムカメラでもデジタルカメラでもどちらでも良い。ダサい服装だと気持ちが乗らないように、自分がかっこいいと思うカメラであることも重要かもしれない。そして、フィルムカメラを旅に持って行くと、常にフィルムの残り枚数や本数を考えておかないといけないし写したイメージも見られないのデメリットは大きいが、一枚一枚への「気持ち(緊張感)」は自然と増して行くメリットもある。だから、最近でも納期のないふらりとした旅などはフィルムカメラを持って行く。撮った写真は撮影してから1年後近く放置してから暗室で焼いてみて、作品が動き始めた事もある。フィルムはそういった小さなタイムカプセルのような体験ができる。

・ シリーズ『bridge』(2011)
 このシリーズ『bridge』は2011年3月11日の震災の数日後、あぜ道に架けられた木の切れ端が橋のようになっているのを見て、「美しいなぁ!」と思い、【デジカメ】で写したのがはじまり。小さいけど感動が乗って写真をシャッター切るとき“手応え”がある。やはり撮れた写真にも強さがあった。そう考えると、カメラマンとしてプロの方々は被写体に対して「褒め上手」な人が多いなぁと思う事がある。つまりはじめに感動がない状態で、色々な被写体に写真で向かっていける。
 このような “橋のようなもの”はいつもでどこでも見てきた気がする。でも、震災の直後だったからこのモチーフと出会ったのだと思う。たぶん、いつも近くにあった日常や人々がいつか消えてしまうという当たり前のことに急に気がつき愛おしく感じられるような体験をその頃多くの人にあったのだと思う。そしてその気持ちは再び徐々に薄れていく。
※写真6(キャプション)シリーズ『bridge』より
 これらを撮影した時、今和次郎さんが関東大震災直後にみつけた廃材で建てられたバラックのスケッチと勝手に接続した。そして、その時、この橋みたいなものなら、被災地にもでき始めているのではないか?と想像してみた。
“不在であったり欠落してるから生まれてくる人間の営みや創造”。これは自分の中で選んでいるモチーフに共通する物かもしれない。つまりマイナスとプラスがぶつかっている場所でもある。マイナスだけでもプラスだけでもない。
 僕はすぐにホンダのハンターカブというオフロードも走れる中古カブを買って、日本全国をこのどこにでもある橋をさがして旅にでた。港街で船にかけられた小さな板切れの橋や田園風景の中の橋、そして津波の被害のあった町も巡った。
※ 写真7(キャプション)シリーズ『bridge』より
 写真でシリーズを作る方法というのは様々あると思うが、僕の場合は「主人公」を見つけること、そしてその対象へのカメラの選び方と向け方にある。『torii』はカメラを基本的に水平にしすべてにピントが合うようにして、建築物を撮影するベーシックな撮影方法を取っているが、前に書いた通り『日曜画家』ではそのルールを途中から破り、手持ちでよりボケ感を使って水平などを意識せずスナップのように撮影している。そして『bridge』はというと、僕が立ったままの位置からカメラを構え、足下にそれが落ちているように見下ろす形でフレーミングしている。地平線は入れないようにし、主人公と周囲の関係性は少し入れている。カメラの向きを上げて地平線を入れると、「これって京都だね」とかその土地の個性がでてしまうので、逆に「どこにでもある」感じを出したいと考えてこのようなフレーミングをした。被災地でこのような橋を見つけて撮影して展示しても、テーマ的にそこが被災地である事は分かる必要はないと想像もした。
 シリーズ『bridge』では、2011年8月からの展示開催中も僕はどこかを旅をしながら、色々な場所から展示場所に“橋のようなもの”の風景写真をデータで送り続け、展示会場ではスタッフがそれをプリントアウトし、壁に一列に貼って行った。
※写真8(キャプション)シリーズ『bridge』展示風景より(photo by Ken Kato)
 その旅の途中、山口県の周防大島の、宮本常一さんの資料が集められた周防大島文化センターに行った。ここには宮本さんが撮影したものすごい量の写真がファイリングされていて、お願いすると見せて頂けるのだが、これが非常に素敵な経験だった。愛用のカメラはオリンパスペンという【ハーフサイズ】のカメラ。ハーフサイズというのは、35mmのフィルムをカメラ内で縦割りに半分にして撮影するので、36枚撮りだと72枚撮影できるというもので、画像は粗いが、独特の風合いがあり、小型でとにかくサクサク撮れる機動力がある。今だと携帯のデジカメくらいの感覚で撮れる。宮本さんがそのカメラを手に、車や電車の移動中にもいつもシャッターを切っている様子がファイルから見えてくる。写真自体は構図が美しいとかではなく、眼に飛び込んで来るものをヒョイヒョイとつり上げるようなまなざしが映り込んでいて、実に軽快だ。メモ書きよりも軽く、でも記憶にひっかける釣り針のような。ただ、何気なく写された風景の背後も透けて見える。土地や歴史への読み込みと、時間軸の深い尺度を持っているように感じる。そして人々の生活や時間への朗らかでまっすぐな感動が伝わってくる。


ー記録と表現のバランス感覚ー

 ここまで、僕自身の作品と共に、「撮って集めて選んで並べる」の「撮って集める」部分を書いた。最後に、「選んで並べる」部分について書く。
 集めてきた写真を選んで並べることで、それによって見る人にダイレクトにも細やかにも発見や感動が伝播する可能性を生み出す事ができる。例えば、1枚の写真だけでは、その写真のどこに興味のフォーカスが合っているかすら見えてこず、見る人は「何を写した写真なのだろう?」と考えるかもしれない。その後に2枚目を並べ3枚目を並べることで、徐々に撮影者の“まなざし”が見えてくるかもしれない。ただ逆に、1枚の写真を小さなサイズでぽつんと展示するだけだと、見る人が様々な想像をできるかもしれない。沢山並べると説明的になりすぎるかもしれない。いろいろな写真があるが、写真を表現にする場合にサイズとサイズというのは重要だ。
 写真はデジタル化しようが基本的に記録メディアだ。僕は、目の前のモノを「記録」する重要性/面白さを感じていて、それと同時に編集し自分自身の「表現」にする重要性/面白さを感じている。バランス感覚が表現者それぞれにあるように思う。
 僕は元々絵を描いていたので、今和次郎さんのように写真ではなくスケッチで記録しても良いのではないかと考えることもあるが、やはり写真を使う事が多い。それは自分がフォーカスした物だけではなく、気がつかなかったものなどが入り込む余地がある事に豊かさを感じるからかもしれない。

(建築雑誌 2014年12月号掲載)

「モノ」に潜在する機能に耳を澄ます   

2017年9月17日 09:33 下道 基行 */?>

 地球科学を専門とする私は日頃、露頭(岩盤が露出した崖)以外に関心を払うことはない。なぜなら露頭はその地域や日本列島の成り立ち、ひいては地球の歴史といった情報を持っているからだ。下道氏との出会いはそんな私に物事を多面的に考察する習慣をもたらした。  
 人々の生活とは直接関係のない露頭に視線を向ける私に対して彼は人と共にある石に対して視線を向ける。同じように岩石を相手にしてはいるが、その点において私と彼は対極的と言える。その一方、私も彼も屋内に籠るのではなく、フィールドで活動するタイプだという点については全く同じでもある。  
 今回の黒部市美術館からの依頼は、当初、単に生活圏にある岩石・鉱物についての座学的な内容を教えて欲しいというものだった。私はすぐに「せっかくだから私が富山県東部をご案内しましょう。」と申し出た。その理由はいくつかあるが、分野の違う二人が同じフィールドに出てどのように感性が異なっているのかを直接確かめたかったからだ。  
 私は彼の過去の作品群から推察して、彼の関心を惹き付けそうな場所を案内した。それらは祀られている自然石、石仏に供え物として置かれた白い石、おびただしい量の石が積まれた一里塚といった信仰対象や史跡であり、人が明確な意図を持って石を使用している例が中心だった。ところが、彼がより高い関心を示したのは、案内の途中で見かけた漬物石として使われている川から引き上げられた石、石材屋が廃材を利用して作った石垣や、庭先で無造作に積まれた人頭大の石などだった。これらは当初から明確に用途が決められていたのではなく、人が何気なく、ともすると何かの代用として、「日常で使うことにした石」だ。このようにして狙い通り一緒にフィールドに出ることによって、互いの感性の違いを浮き彫りにすることができた。  
 次に、おぼろげながらに見えた彼の感性から、芸術に疎い私なりに彼が示そうとしている概念はどのようなものか考えてみた。石は河原や海岸で転がっている時は人の生活に役立っている状態ではない。しかし、そこで人が石を何かに使おうと「思いつく→拾う」という動作をした瞬間、石に果たすべき役割が与えられ、次に実際に使用する瞬間に道具に変化するということを示そうとしているのではないかと思う。  
 このような彼の示そうとする概念を意識しながら日常生活を送ると、我々は一つのモノが持つ様々な特徴を捉え、その都度全く別の用途に使用しいていることに気がつく。例えば、私はカップラーメンに湯を入れて3分待つ間、ほぼ毎回割り箸を蓋の上に置いていることに気がついた。この時私は割り箸の質量という側面に着目し、蓋を押さえる重石として使用していることになる。  
 このようなことは、地殻でも起こっている。例えば断層について考えてみる。断層は地殻にかかる応力の解放によって生じた亀裂であり、活断層ならば物理的条件が揃い次第、地殻に蓄積した応力をくり返し解放する機能を果たしている。一方で断層は弱面でもあるので、水やガス、時にはマグマなどの物質の移動経路としても機能している。  
 私の専門は地質時代において二枚貝の仲間がどのように関係し合って生活していたのかを化石を用いて明らかにする研究を行っているのだが、今回彼の示す概念と出会い、今までよりも生物が生物群集の中でどのような相互関係を持ち、どのように機能していたのかを多面的に捉える習慣ができ始めた。  
 彼はこの先どのような概念を提示してくれるのだろうか。まだ見ぬ彼の作品に思いを馳せつつ筆を置く。

久保貴志(黒部市吉田科学館学芸員)

Open yourself to the functions concealed in objects
Takashi Kubo

As a specialist of the Earth Sciences, I usually do not give much thought to anything other than rocky outcrops. Outcrops hold the key to the origins not only of a particular area, and the archipelago of Japan, but also to the history of the Earth. The opportunity to meet Mr. Shitamichi has led me to consider the world around me in a more multifaceted manner.

In contrast to myself, who views the outcrop as something with no direct relationship to people’s lives, Motoyuki Shitamichi turns his gaze to the stones that exist alongside people. Though we both study rocks and stones, we differ greatly on this point. On the other hand, neither of us enjoy being confined to the indoors, preferring to be out in the field.

The original request I received from the Kurobe City Art Museum, was that they required theoretical content regarding the rocks and minerals solely in our sphere of living. I immediately offered to be a guide for the eastern area of Toyama. I had several reasons for doing this, but primarily, I wished to confirm directly how two people from different specialties approach the same field, and how their appreciation of this field differs.

Making assumptions based on his past works, I decided to show Mr. Shitamichi around a certain area that I believed would capture his interest. There were many examples of stones which were used with a clear intent by humans: natural stones that were objects of worship; white stones placed as offerings before stone images of Buddha; abundant stones piled up as objects of religious milestones and historical landmarks. However, he was most interested in the stones we saw that had been carried from the river to be used when making pickles, the stone walls that had been built using unwanted materials from the stonemason, and the stones the size of a person’s head casually piled up in a garden. Those stones did not originally have a clear purpose, but were stones that people had inadvertently used in place of something else, stones which were given a role in daily life. Just as I believed would happen, the differences in our sensibilities were thrown into sharp relief by going out into the field together.

Then, through my vague understanding of his sensibilities, and my ignorance of the arts, I attempted to understand the concepts he was trying to capture. When a stone is lying in the riverbed or on the seashore, it is not in a state of being useful in people’s lives. However, if someone thinks to use a stone for something, in the instant when that idea leads to the stone being picked up; the stone is given a function to serve. When the stone is then used to serve this function it becomes a tool. I believe it this concept that he is trying to present.

While bearing this concept in mind, we can see that while we are able to grasp the various characteristics of a particular object, we also use that object for something completely different at other times. For example, I realized that when I pour hot water into my cup of instant noodles, and am waiting for the required three minutes, I nearly always place my disposable chopsticks on top of the lid. When doing this, my attention is focused on the mass of the chopsticks, and I am using them as a weight to hold down the lid.

The same thing is occurring in the earth’s crust. Consider a fault line. A fault is a fissure that is caused when stress placed on the earth’s crust is released. In the case of an active fault, the function to repeatedly release the accumulated stress occurs when all the required physical conditions are present. On the other hand, because the fault is a weak surface, it also functions as a path for the movement of water, gas, and at times magma.

My area of expertise is in the Geological Age. Through research using fossils, I try to throw light on how bivalve families were related to each other, and how they lived. Through meeting Motoyuki Shitamichi, and the concept he is presenting, I have started to develop the habit of multilateral thinking in terms of how living organisms functioned, and how they were interrelated within the biological community.

I am curious to see what concepts Mr. Shitamichi will present us with in the future. It is with thoughts of his unseen work, that I stop writing.

Curator
Kurobe Yoshida Science Museum

2017年4月 6日 01:35 下道 基行 */?>


ー旅をする本。旅をする小さな物語ー

『14歳と世界と境
十四歲與世界與邊界
14세와 세계와 경계
14 years old & the world & border』


Directed and edited by:Motoyuki Shitamichi
Text: Secondary School students
Book design: Shin Akiyama
Interpreter: Hiko Lee, Yuki Konnno
Translation: Hiko Lee Yin Hing, Dawang Huang, Winnie Chau, Jin Zhen, Yuki Konnno, Eirang Song
Supported by: Rooftop Institute
Published by:Michi Laboratory, Tai kwun Contemporary
This Publication is in the occasion of exhibition “Our Everyday – Our Borders”
Presented by: Rooftop Institute
Supported by: Tai Kwun Contempory
Special Thanks to: Hong Kong Jockey Club CPS Limited
Publishing date: March 2019
Edition: 300


企画+編集+写真+文章:下道基行
文章:中学生たち
デザイン:秋山伸
通訳:李彥慶 紺野優希
翻訳:李彥慶 黃大旺 金真 Winnie Chau 紺野優希 송이랑
協力:天台塾
出版:Michi Laboratory、大館當代美術館
主催:天台塾
協賛:大館當代美術館
特別協賛:香港賽馬會文物保育有限公司
出版日期:2019年3月
部数:300部

プロジェクト「14歳と世界と境」で集めた14歳の中学生の文章をまとめた本。
香港で製作した300部は販売はしていない。そして、読んだ人は次の誰かに渡すルール。図書カード付き。
朗読会を開いて無料で直接手渡ししている。
詳しくは、ここの5ページ目にも。http://www.nmao.go.jp/publish/news232.pdf

Traveling book/Traveling small stories
“Rules of the book”

This is a travelling book; it is not to be sold.
This project would like to place the little stories written by high school students in comparison with library books or works in an art museum, viewing them as a type of “common property” that allows more people to appreciate. It’s hoped that the stories can go beyond this exhibition in Hong Kong, so that they can be passed among people, from one person's world to another person's.
This is my little hope, or maybe a little experiment.
After getting this book and reading it, please be sure to pass it to another person, someone who would be interested in the book or Taking from one person’s hand, together for a temporary moment, and then passing to someone else’s hand. I hope this book can cross various borders, to be shared, passing from one person to another.this kind of game.


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ー新しい石器第二弾。福岡から対馬から釜山ー

『New Stone Tools / 新しい石器』

Photograph: Moyoyuki Shitamichi
Text: Moyoyuki Shitamichi, Jongeun Lim
Edit: Moyoyuki Shitamichi
Design:Gyeongtak Kang
Pages: 80p
Publication year: 2017
Edition: 100 (SOLD OUT)

写真:下道基行
文章:下道基行、
装丁:Gyeongtak Kang
発行:michilaboratory
発行日:2017年
80ページ
部数:100部(完売)

自宅の愛知県から福岡そこから対馬へ。対馬の石の浜辺と集落を撮影して、韓国釜山へ。釜山からレンタカーで朝鮮半島南部の多島海を巡り様々な石の浜辺と集落を撮影。其の足でソウルのデザイナーと合流し印刷所で本を作り、石を挟んで叩き売り。

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ー石が付録の本!!!梱包された石???ー

『New Stone Tools / 新しい石器』


photograph: Moyoyuki Shitamichi
text: Moyoyuki Shitamichi, Takashi Kubo, Chikako Shakudo
Edit: Moyoyuki Shitamichi, Chikako Shakudo
Design:Ayumi Takashima
Pages: 104p
publishing company: Kurobe City Art Museum
Publication year: 2015
edition: 500 (SOLD OUT)

写真:下道基行
文章:下道基行、久保貴志、尺戸智佳子
装丁:高嶋鮎美(株式会社ミツイ)
発行:黒部市美術館
発行日:2016年6月10日
104ページ
部数:500部(完売)

“I came to Kurobe City Art Museum for the research of exhibition. This museum have been built near the sea. I walked around the beach, and I met one landscape of stone in a small fishing village. The landscape is people living with stones from the beach.
People live in this area since ancient times and many stone tools are excavated from pit style dwellings. In the exhibition, I exhibited photographs of the landscape of those stones and the actual stone tools that was excavated by an archaeologist, and I made a photo book with these photographs, and wrapped a stone inside the book. The selected stone doesn't have any meaning. However, when people open this book, pick out the stone, they will find its new meaning in daily life.” - Shitamichi Motoyuki

富山県の黒部市美術館は海の近くにある美術館で展示をする事になった。
近くの浜辺に歩いて行くと、生地という小さな漁村で石ころの風景に出会った。
この地域では古代から人々が住んでいて、竪穴式住居跡からは多くの礫石器(石ころのまま使用された石器)が出土する。
展覧会では、それらの石の風景の写真と近所の博物館から借りた実際の礫石器を並べて展示。
さらに撮影した写真で写真集を作り、生地の浜辺の石ころを付録として挟み込んだ。(石ころを本で包んだ)
石のサイズは「大」「中」「小」「なし」から選べる。美術館のカタログとして販売。(完売)
付録の石は意味がない。でも、写真集を購入した人が生活の中で石を開封し新しい意味を見つけるかもしれない。生地の集落の人々のように。

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ー5冊限定20万円!!!60メートルの蛇腹本!!!ー

『bridge』


photograph+text: Moyoyuki Shitamichi
edit: Moyoyuki Shitamichi
design:Maruyama Masataka
length: 6300cm
publishing company: michi laboratory+circle-d
Publication year: 2015
edition: 5 (1/5 2/5 3/5 4/5 5/5)

写真/文章/編集:下道基行
装丁:丸山晶崇
発行:michi laboratory+circle-d
発行日:2015年
長さ:6300cm
製本:手製本蛇腹 箱入り
価格: ¥200000+税  (4/5,5/5はステップアップで販売)
部数:5部 (1/5 2/5 3/5 4/5 5/5)


"something like a bridge"
One day, I found something like bridge. Is this tool? structure? infrastructure? maybe this is connection.
Scenery is made up of nature and people's lives, like layers on top of one another. Cities keep changing, consuming goods and information at an extremely fast rate. In this context, photographers may not be the most creative existences. They simply feel joy in turning their gaze on the scenery which sprawls before their eyes. Photographers receive this world/reality head-on and hence beget beautiful, wistful, and sometimes painful views of the world. Photographers turn on the small switch to visualize physical objects and connections which have not yet been neatly packaged, categorized, or monumentalized.
Shitamichi Motoyuki

「橋のようなもの」
ある旅先で、道端の用水路に置かれた”板”が、道と生活とを繋ぐ小さな”橋”である事に気がついた。そう言えば、そこらじゅう”橋”だらけだった。これらを”橋”と呼べるのか?建造物?道具?インフラ?…
ただ、隔たりを越えるために架けられたモノたちで、たぶん生活/風景の必要最小単位の名も無い物体であり行為のひとつではないかと思う。([bridge]は動詞で“架ける“を意味する。)
風景はとても速いスピードで変化し続けている。身の回りにモノは溢れてる。建造物は巨大化する。情報や物流はスピードを加速させる。それらを拒否する事はほぼできない。使い込まれた道具を愛おしく見つめるように、この世界を眺めることはできるのだろうか?
写真家はあまりモノを産み出さない。この世界を正面から受け止め、愛おしく切なく時に痛い視点/まなざしを産み出すのではないか。「これは○○である」とパッケージ化/カテゴリー化/モニュメント化されていない、物体や関係性を視覚化するための小さなスイッチをそっとオンにする。
下道基行

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ー文字のない本!!!パラパラ空の動画!!!ー

『Dusk/Dawn』


photograph+text+figure: Moyoyuki Shitamichi
Edit: Moyoyuki Shitamichi
Design:Toshimasa Kimura
Pages: 120p (17.2cm×13cm)
publishing company: michi laboratory
Publication year: 2015
edition: 800

写真/文章/編集:下道基行
装丁:木村稔将
発行:ミチラボラトリー
発行日:2015年6月10日
17.2cm×13cm120ページ
価格: ¥2500+税
部数:800部

Dawn and dusk has long been exist at the same time somewhere in the earth, artist uses photography to re-examine such happening. There are layers of color of skies in America and Japan inside the photo book. Except the album cover, there are no text. In your hand, this is a photo book as well as a movie of 30-min sky. Please flip through the pages and see as movie.

Tsunagi Japan [Dusk, 19:00-19:24 Jul, 21, 2013]
Chicago USA [Dawn, 05:00-05:24 Jul, 21, 2013]
at 30-second intervals

シリーズ[Dusk/Dawn]の写真集。 地球のどこかの朝と夕暮れが同時に起こっている、そんな日常当たり前にどこでも起こっていることを写真で見つめ直します。アメリカと日本の空のグラデーションのみの本体。カバーを外すと、本本体には一切文字がありません。世界のどこかではじまりと終わりが同時に起こっている。世界中でパラパラして欲しいとそんな思いで作りました。

日本 熊本県葦北郡津奈木町(夕暮れ・2013年7月21日19:00-19:24)
アメリカ合衆国シカゴ州(夜明け・2013年7月21日 05:00-05:24)
30秒間隔で撮影

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『torii』


photograph+text+figure: Moyoyuki Shitamichi
edit: Moyoyuki Shitamichi
design: So Hashizume
pages: 74p (28cm×22.5cm)
publishing company: michi laboratory
publication year: 2013
edition: 1000

写真/文章/編集:下道基行
装丁:橋詰宗
発行:ミチラボラトリー
発行日:2013年12月6日
28cm×22.5cm74ページ
価格: 3000円+税
部数:1000部

This series of [torii] is one of Shitamichi’s significant works, photographed the remaining Torii outsides Japan. After the previous photo album “War” has published 8 years, [torii] is the photo series which drew high attention in Museum of Contemporary Art Tokyo “MOT Annual 2012/ Making Situations, Editing Landscapes” and artist earned the Noon Award (Emerging Artist) of Gwangju Biennale in 2012 by this work. The photo album includes 30 pieces unpublished photos, also recorded the field research diary, notes and documents at different places such as Taiwan.

シリーズ[torii]は、「日本の国境の外側に残された鳥居」を撮影した下道基行の代表作のひとつ。前作写真集「戦争のかたち」(リトルモア)から8年、韓国光州ビエンーレ2012での新人賞受賞や東京都現代美術館での企画展「MOTアニュアル2012/風が吹けば桶屋が儲かる」などで話題になった本シリーズが写真集になります。未発表も含む30点の写真、他にも台湾日記や取材メモなどフィールドワークの記録も掲載。シリーズの集大成。装丁は新進気鋭のデザイナー橋詰宗氏、プリンティングディレクターは熊倉桂三氏。A4変形サイズ、74ページ、価格3000円+税。発行のミチラボラトリーは下道自らが立ち上げた出版レーベルです。徐々に取扱店も増えて行くと思われます。

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2017年3月26日 13:12 下道 基行 */?>



[ 新しい石器/New Stone Tools ]


photographs(73pieces)+mixed media


2016


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写真集+浜辺の石(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo book+Stone from beach (Kurobe City Art Museum)



海沿いを車で走っていた。
灰色に淀んだ空、そして降り積もる雪は、風景を白黒の写真のようにしている。目を細めると、ずっと遠い昔にタイムスリップするかのようだった。
ある集落で車を止めて浜辺に降りると、丸い小石の浜は、波が寄せる度にカラカラと寂しげな音を立てていた。
無数の石の中から、ふと目についた石ころを拾い上げた。小さな木星のような石。砂のような色がだんだん模様になっている。(薬石と呼ばれる石。微量の放射線が出ていて、地元の人はお風呂にいれるのだという)
浜辺には色や形、様々な石が転がっている。そのひとつひとつが別々の場所で何億年も前に生まれ、地層からはがれ落ち、コロコロと転がりながら膨大な時間をかけ、この欠片になり、今も目の前で波によって少しずつ削られ、この手の中にある。小さな石が持つ時間感覚の巨大さに畏れを感じてしまう。

浜辺から歩いて、集落の細い路地に迷い込む。
やがて様々な家の軒先で浜辺の石ころが使われていることに気がついく。ある石は海風から物が飛ばないように重しに、ある石は隣の家との境界や石垣に、ある石は美しかったからだろうか軒先に飾ってある。意識してみると路地は石ころだらけでおかしかった。
ちょうど取ってきたばかりらしき石が玄関に置いてある家を見つけ、玄関のチャイムを押してみる。怪しそうに出てきたご主人に「すみません…。この石は何に使うのですか?」と質問してみると、突然の質問に驚きながら「えっと…、漬け物石ですが……」と教えてくれる。
僕も幼い頃海の近くに住んでいたが、こんなにも石を利用している風景は始めてみたしとても面白い…、というようなことを伝えると、「石なんて、浜辺にいくらでもあるからね。みんな浜辺から持ってくる。でも、年々浜辺が痩せててね。あそこに防波堤が作られてからは海がよく見えなくなったけど、昔はここからも一面広い浜辺が見えてね、漁から帰ってきた船や地引き網で、いつも賑やかだったよ」
ご主人に連れられて、裏の倉庫の隅に行くと、昔の漁の錘(重り)であろう縄でしばられた石がゴロリと転がっている。その様子は、賑やかに活躍していた石が元の石に戻り、沈黙しているかのようだった。

この浜辺の近くからは、旧石器時代の石器や縄文時代の集落の跡等、古くからの人間の営みの痕跡が見つかる。さらにヒスイが寄せる浜もあり、古代には勾玉が作られた。今でもここで作られた勾玉は日本全国、遠くは朝鮮半島などでも発掘されるという。大昔もこうやって人々は石を探して浜辺を歩いていたのだろう、その頃から石は今のような石のままだったのだろう。




ある日、
洞窟に暮らしていた古代人たちが、いつも襲われていた猛獣に偶然石を投げつけた。石に武器の意味を見つけた人々はまたある日、投げつけた石が岩とぶつかり砕けて、先が尖っている様子を発見した。石の加工がはじまり、道具はゆっくりと時間をかけてさらに進化していった…………。
と、特急電車の中でこの文章を書いている。ポケットには、拾ったばかりの木星のような石ころ。僕は今、椅子に座った状態のまま、人間が力一杯投げた石ころの2倍以上の速度で移動している。車内は夜なのに明るく、座席は気持ちのいい角度に動くし、前の座席には収納式のテーブルやネット状の物入れまでついていて、後ろの席からは音楽プレーヤーの音が漏れてくる。
周囲を見渡すと、目につくあらゆる物には、それぞれ既に意味があり、僕たちは疑う事なくそれらをその意味で使い生活している。
そう考えると、石は今でもただの石であり、それだけでは意味や価値はない……ということが、ある意味ですごい事なのではないかと思えてくる。それぞれの石に価値を与えるのはそれを拾い上げた人間であるということ。
小さな惑星のような石ころは、宇宙の欠片であると同時に、その内側に無限の宇宙を閉じ込めているのではないか。

下道基行


I was driving my car along the coast of the sea. The dark gray sky, with the falling snow covering the ground makes the landscape appear to be a black and white photograph. As I survey the scenery through squinting eyes, I feel as though I have slipped back into a time long past. I stop my car at a village and make my way to the foreshore. Each time a wave surges to the shore, the small round pebbles on the beach rattle cheerlessly.

From the countless stones, I pick up one that grabs my attention. The stone has the appearance of a tiny Jupiter, its sandy colors making a pattern. (It is a stone known as yakuseki. Containing a small amount of radiation, the locals add such stones to their bath water.)

Stones of various shapes and colors lie on the beach. Each stone came into being hundreds of millions of years ago at some distant place. Each one flaking away from the earth’s layers, rolling through time to become the fragments they are today. Even today these stones are being eroded away by the waves before my very eyes. One of these stones sits in my hand. I am overawed by the enormity of the passage of time that this small stone has seen.

I walk away from the beach and find myself in a narrow lane in the village. It is not long before I notice that the stones from the beach have been used around many of the houses. Some stones are used as weights to keep objects from blowing away in the wind. Others are used to mark the boundary with the neighboring house, or as stone walls. Another, perhaps because it was beautiful, is simply used as a decoration. It seems quite funny when I realize that the lane is full of stones.

I find a house that has a stone sitting at the front door. It looks like it has just been brought up from the beach. I ring the front door bell. The owner answers the door, looking at me suspiciously.
“Excuse me. What are you going to do with this stone?” I ask.
“Well, I am going to use it when I make pickles,” he answers, surprised by the sudden question. I explain that even though I used to live near the sea when I was a child, I have never seen a landscape using as many stones as this, and I find it fascinating.
“There are more stones than you could possibly want for on the beach,” he said. “Everybody brings them home. But the foreshore is slowly disappearing year by year. Since the pier over there was built, we can no longer see the sea, but once we could see the beach spread out before us, even from here. It was always bustling with activity from boats returning from fishing, and people using dragnets along the shore.”

The man took me to a nook near his shed at the rear of the house. Stones that must have been used as weights for fishing were lying around, tied together with rope. It was as if stones that had once bustled with life had now returned to their natural state, once again silent.

Evidence of human activity from ancient times, such as the ruins of a village from the Jomon Period, and stone implement artifacts from the Paleolithic Age, can be found in areas neighboring the beach. There are also beaches where jade is washed up, and in ancient times it was used to make comma-shaped beads. Even now, those beads can be found all over Japan, and even as far away as the Korean Peninsula. In days gone by, people must have also walked these same beaches searching for stones in much the same way as people do now, and the stones from those times are the same as stones here now.


One day, the cave-dwelling ancients just happened to throw stones at one of the wild animals that always attacked them. Then another day, the people who thought to use stones as a weapon, discovered that the stone they had thrown had hit a boulder and split, and now the edges of the stone were sharp. The process of manipulating stones began, and slowly with time, tools evolved.

I am writing this essay on the train. I have the Jupiter-like stone in my pocket. I am at this moment, while sitting in my seat, travelling at a speed twice as fast as any man could possibly throw a stone. Though it is dark outside, the train carriage is brightly lit. The chair reclines to a comfortable angle. There is a small stowaway table, and a pocket on the back of the seat in front of me. I can hear music spilling over from somebody’s music player behind me.

As I look around me, each and every item my eyes rest upon already has a meaning or role, and we do not doubt that, using each item as was intended in our daily lives. To think in this way, a stone is simply a stone. In this sense, it has no meaning or value. However, in many ways, a stone can be an amazing object. What provides each stone with its value, is the person who picks it up. This small, planet-like stone is both a fragment of the universe, and also has an infinite universe trapped within it.

This book comes with a bonus stone.
Or perhaps this stone comes with a bonus book.
What stories will the stone whisper to you?
The answers are within you.


Motoyuki Shitamichi





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写真展+礫石器(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo exhibition+Stone tools (Kurobe City Art Museum)



富山県の黒部市美術館は海の近くにある美術館で展示をする事になった。
近くの浜辺に歩いて行くと、生地という小さな漁村で石ころの風景に出会った。
この地域では古代から人々が住んでいて、竪穴式住居跡からは多くの礫石器(石ころのまま使用された石器)が出土する。
展覧会では、それらの石の風景の写真と近所の博物館から借りた実際の礫石器を並べて展示。
さらに撮影した写真で写真集を作り、生地の浜辺の石ころを付録として挟み込んだ。(石ころを本で包んだ)
石のサイズは「大」「中」「小」「なし」から選べる。美術館のカタログとして販売。(完売)
付録の石は意味がない。でも、写真集を購入した人が生活の中で石を開封し新しい意味を見つけるかもしれない。生地の集落の人々のように。


I came Kurobe City Art Museum for research of exhibition. This museum had been built near the sea.
I walked around beach, and I met one landscape of stone in a small fishing village. Their landscape is people living with stones from beach.
People live in this area from ancient times and many stone tools are excavated from the pit style dwellings.
At the exhibition, I exhibited photographs of the landscapes of those stones and the actual stone tools that was excavated by an archaeologist, and I made a photo book with these photographs, and wrapped a stone in this photo book. You can choose the size of the stone from "Large" "Medium" "Small" "None". Sold as a museum catalog.


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写真集+浜辺の石(黒部市美術館展示風景の一部)
Photo book+Stone from beach (Kurobe City Art Museum)



黒部市美術館展覧会レビュー
「風景に折重なる不可視の物語」尺戸智佳子(黒部市美術館学芸員)
>>>



[ 新しい石器/New Stone Tools ]


photographs+mixed media


2017


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対馬と韓国の南部の島々を車でめぐり、石の浜辺と集落の石の風景を撮影。韓国での企画展内にて写真集+石で販売。

2015年9月15日 23:10 下道 基行 */?>



[ ははのふた/Mother's Covers ]


2012 - 2015




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2012.12.12.11:51






2012年、結婚を期に、愛知の妻の実家に引っ越す事になった。
大学生活以降住み続けた東京を引き払い、はじめて住む町。
妻の実家は建築をやっていた妻の祖父が建てたもの。家具も家とぴったりと時間を重ねていて美しい。僕は妻とお義母さんの3人で食卓を囲むようになった。こういう時間は高校生以来だろうか。
新しい家族ができて、今までの自分の習慣とは違うこともいろいろとあり、戸惑う事もある。どこに何が置いてあるか、使い終わったものを何処に置くか、みそ汁には具に何をいれるか…。毎日いろいろな発見があり、居候の猫のような感覚のようでもあり、小さな知らない島に流れ着き冒険をしているような感覚でもある。

震災以降、風景の些細なモノやコトがとても愛おしく思える様になった。それは非日常的な事件で何かがズレたり失われてしまったことによって、身近で当たり前だった日常や人々やモノへの感覚が研ぎすまされたのかもしれない。誤解を恐れずに言うと、失うことで生まれることはあるのだと思うし、そう信じたい。ただ、人はすぐに忘れる。必要だから忘れる。すぐに元の日常に戻ろうとする。小さな知らない島から元の町に戻った瞬間、前の日常にまたすぐ戻ってしまうように。

ある朝、大量に入れられたお茶たちの容器に、いつもいろいろなフタがのせられていることに気がつく。不器用でいびつでかわいらしい新しい関係が食卓の上にある気がした。僕は毎朝、こっそりカメラを手に、胸をときめかせてキッチンへ向かうのだ。




In 2012, I got married and moved to my wife’s family’s house in Aichi.
It was the first town I’d lived in after leaving Tokyo, where I’d been ever since my student days.
My wife’s family’s house was built by her grandfather, who’d worked in construction. All the furniture had aged perfectly with the house, and it was just beautiful. I took to sitting at the table with my wife and my mother-in-law. It was the first time I’d done anything like that since high school.
Now that I’ve got a new family, many things are different from my habitual way of living, and it can be bewildering. Not knowing where to find things, where to put things when you’re done with them, what to put in the miso soup… I make various discoveries every day, and sometimes it seems I’m like some freeloading neighborhood cat, or that I’ve drifted ashore on a tiny unknown island and I’m on an adventure.

Ever since the Tohoku earthquake, trivial objects and occurrences in the landscape have started to feel very dear to me. Maybe it’s that things getting out of place or lost because of that extraordinary event has sharpened my sensitivity toward those familiar people and objects and ordinary things that I’d taken for granted. At the risk of being misunderstood, I would like to convey my feeling and my hopeful belief that birth can come out of loss. But people forget right away. You forget because you have to. You try to get everyday life back to normal as soon as possible. The moment you return to your town from that tiny unknown island, you want to go right back to the normal life you used to have.






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2015.01.31.11:08







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2012.12.15 10:36







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2013.05.09 12:38







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2014.05.07 08:15







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2015.01.08 16:15









個展[ははのふた | Mother's Covers]
豊田市美術館内図書館

2015.10/10-2016.4/3


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photo by Keizo Kioku




その先の眺め

2015年8月 1日 07:56 下道 基行 */?>


皆既日食で薄暗くなった白昼の空に花火を打ち上げ、その風景を眺め、響き渡る音に聴き入ったのは2009年の夏だった。花火は北九州市和布刈(めかり)公園の高台にある砲台跡地から打ち上げられ、我々は関門海峡を挟んだ下関側の戦争遺構跡がある火の山公園の展望台で、ビデオカメラを手にその様子を眺めていた。震災が起こる以前だったが、少し不吉な暗さをもつ空に美しい花火が散る様を眺めるのは、かつてあった、そしてこれからも世界のどこかで起こるかもしれない戦争について想いを巡らせ、日常生活が何らかの要因で突然途絶えてしまう可能性があることを意識するには充分な経験だった。下道基行を中心に僕も含め5人のメンバーが主催した《Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる》の概要を書き出すとこんなところだろう。あれから既に5年が経過していた。

戦後放置された軍事施設の廃墟を探し出し、その新しい使い方を話し合い考え、そして実際になんらかの方法で使ってみて、また何事もなかったように元の状態に戻す、というのがRe-Fortの一連の流れだ。

日本の海岸線には、戦争のためにつくられた建築が役目を終え、姿を変えつつもまだ多数残存している。これらの建築の多くは実際に戦闘で使用されたことはほとんどなく、外敵の侵入を防ぐための監視の場、あるいは抑止力として機能していた。外敵を見張るために遠くまで眺められる必要がある軍事施設は、常に見晴らしのよい場所に設置された。この戦争建築がそもそも本質的に備える特性に着目したのが、《Re-Fort PROJECT 6─海を眺める方法》だ。兵士に替わって画家が、武器を絵筆に持ち替え、海を眺めその先にみえる風景を描く。絵画は風景を記録する方法として重要なメディアである。
この作品では、鋭い観察眼を持って風景を眺め独自に解釈して出力する専門家としての画家が風景を描く様子を、さらにその後ろから私たち鑑賞者が眺める構造となっている。兵士たちは海の先に存在するかもしれない外敵を必死に探していたのだろうか。あるいはその美しい風景にときに目を奪われていたのだろうか。眺めるための場所で、その当時とは異なった目的で異なった方法で眺めている画家の背後では、ほんの少しかつて様子を想像することができるかもしれない。遠くを眺めるための望遠鏡も戦争のために発展し利用されたのではと想像してみたり、女子中高生が着るセーラー服が元々水兵の服であったことが思い出されたりすると、意外と私たちの生活と遠くない地点に、戦争は常にあるということが見えてくるだろう。
戦争をきっかけに、眺めるという行為の本質的な可能性を問う本作を前にし、私たちはその先に如何なる未来を描出することができるだろうか。

服部浩之(キュレーター)

『Time sharing』沖縄

2015年4月24日 09:39 下道 基行 */?>


下道基行は、記憶の共有のされ方を問いながら、歴史環境と他者との出会い、そして自らの主観がせめぎあう地点から生まれる痕跡を収集し続ける。大局的な立ち位置を俯瞰しつつ、日常を越えたスケールでの移動を繰り広げながらも、実際の彼の行動は出会う他者からの個別の働きかけに応じるものだ。そうして、物語の叙情に流されることもなく、イデオロギーの煽情に翻弄されることもなく、異なる立場や文脈を持つもの同士が、ちょうど均衡する手応えを探ったところで立ち止まる。共有されるべきモニュメントから固有の意味を引き剥がし、人々の中に流通する物事の生きた記憶の欠片を拾って歩くのだ。そして再び、それを新たな機能と因果の中に置き直すのである。
  彼の手法は、場所を超えた共時性、時間を超えた場所の変化、個別なものと共有可能なもの、相反する条件を複合的に組み合わせることに特色がある。そして、それを精錬されたシンプルな軌跡に落とし込んで提示するのだ。彼の初期の活動として知られる「戦争のかたち」シリーズでは、日本全国にちらばるトーチカや掩体壕などの戦跡を撮影した。遠い歴史が別の機能を与えられている風景の再現だけでなく、現地の人々の聞き込みなどから、生きたノイズのある記憶の温もりのようなものを手掛かりに旅程を進む。あるいは、Re-Fortプロジェクトのように、場を再利用し人が交流できる出来事を生み出したりする。それがカウンターモニュメントと異なるのは、戦争の記憶の再認識を促すわけではなく、別の目的を持ったプロジェクトの進行の場としてしまうことである。大きな構造である歴史の集積と、小さな関係性に基づく記憶を辿る作家の二面性は、ときには「A面―B面」として形容された。(註10)『torii』写真集では、記号同士の視覚性は強まり、一種の類型学の体を成している一方、日本の外のかつての外郭を辿る旅であるが故に、よりプロセスの不透明さと不確実さは増すことになった。作家が進む時間に伴い、撮影日記から垣間見えるのは、国境線の移動によって同じ場所に居ながらにして異文化の浸透を余儀なくされた人々が、混在し共生する物語でもある。近年作家はプロセス重視的なあるいは私的な領域の作品が強くなってきているのであるが、美術館や国際展などの公的な場所で発表する機会が増えていることへの反動であろうか。
 今回沖縄では、検索システムと実際の出会いから生まれる文脈を相互に辿りながら、物質の収集というアプローチを作家は採用している。境界をはさんでせめぎ合う他者の歴史が閉じ込められた民具やガラス瓶、海水を、地域の実際の生活に近いところで収集した。写真撮影という手段を取らなかったのは、出会いのあり方や体験の強度がより重視されているからだろう。一瞬で撮影され、消費され、複製される画像情報よりも、物質と文字によって間接的に体験を置き換えることを望んだのだ。よって収集物はスーベニールのような趣を持つ。それは、全体の一部しか示唆せず、不透明であり一回性の体験そのものの「額縁」として永続的に記憶を下支えする。 (註11) こうして集められた収集物は、作家個人の体験認識的な小宇宙を構成する「驚異の部屋(Wunderkammern)」のようでもある。
 大きな構造の欠片が溶かされ混ざり合ったモニュメントは、宙吊り状態のまま、可変することを前提に空間に設置されている。冷蔵庫、保存ケース、標本箱、といった装置によって、人々の間で取り交わされていた生々しい温度と物質一枚隔て、我々の前に提示される。まるで時間の断絶とずれを保存するタイムカプセルのようである。彼が旅人であるいうことは、複数の場と状況を組み換えながら、現実世界に対応していくことであり、それは、写真集編集や標本採集、多様なフォーマットを駆使し横断しながら、アウトプットを続ける表現上の活動に似ている。いかなる場所も、いかなる媒体(メディア)も相対的なものに過ぎず、周囲や前後の作品と相対的な関係によって決定される。収集すること、共働すること、そしてそれを提示すること、それは、日常の中に隠されたある一瞬の断面を探すことだ。そしてあまりにも日常と地続きの行為であるがゆえに、フレームで時間と場所を切り取り、ずらしながら、アートと社会のささやかな段差を作ることが必要だったのかもしれない。

土方浦歌(キュレーター)

10.服部浩之「A面とB面、そしてそれらを結ぶ余白の物語」作家HPからhttp://m-shitamichi.com/
11.津上英輔「Souvenir ―観光体験の額縁」西村清和編『日常性の環境美学』勁草書房、2012年、p.244


Motoyuki Shitamichi pursues a way of sharing common memories, collecting the traces where the subject encounters grand history and the environment, and they are intermingled each other. From a distance he thinks in a unique perspective to general situation but in fact he reacts responding to every agencies that he encounters. Then, without any romanticism or any message of ideology, he takes a neutral stance between those with opposing and contentious views. He eliminates the particuler meaning of the monument and picks up the pieces of living memory that circulates in people. So doing, he replaces them with new functions and causal relationships.
It is his distinguished approach to combine conflicting criteria of synchronicity over different locations and changing times in the same location, to establish whether something is to be shared or belongs to individuals. He presents such tracks in refined and simplified composition. In his early career, the bunkers series consisted of photos taken in the ruins of military architecture, bunkers and pillboxes that remain throughout Japan. Not only did he reproduce the landscape to give it another function, he engaged with the local people, and completed his itinerary with the sounds and warmth of the people.
On the other hand, the Re-Fort project was a compilation of the recollections that people shared during a meeting in the same war ruins. His attempt differs from the Counter Monument: he does not evoke the beholder by a visual memory of war, he alters the progression of the event according to others’ memories. This dual aspect artist, tracing both the grand structure that is integrated into history, and tracing private relationships with others, is often described as "side A and side B".(n.10) In torii photo-books, the symbolic visual aspect looks stronger. It is the typology, and therefore the journey following the former contour of the outside of Japan, that is supposed to increase the sense of uncertainty. In the artist’s diary, with the progression of time, we can glimpse the narrative story of people who lived around the national border where they were forced to coexist with different cultures who had penetrated the border. In recent years, because the artist has had increasing opportunities to exhibit in museums and internationally exhibitions, it seems slightly distinguish since he works in the private field and process oriented activities.
During the sojourn in Okinawa, his research did not include photography even though he is primarily known as a photographer. He did online research and tried to create context by collecting materials. He sampled seawater, collected glass bottles and duralumin from living scenes. In local residences, he sampled fragments of historical evidence on the opposite side of the border. He did not adopt the approach of taking photos, probably because he wanted to emphasis the intensity of the experience. Photos are taken in a moment, the image data, once copied and reproduced is wasted rapidly, and the experience of the event is fleeting.
He wanted to represent the experience in this indirect way by material and words. These collected objects have the character of souvenirs. It suggests only a part of the whole and preserves the memory permanently stored as a frame that capture the moment of the transition experience.(n.11) Thus, the collection constitutes a microcosm of personal experiences like a ‘Cabinet of curiosities (Wunderkammern)’.
Monument fragments of big structures were mixed and suspended in the air, refrigerators, storage cases, specimen boxes and other devices separate the beholders from objects that used to actively be exchanged among people. It is like a time capsule where we save the distortion and disconnection of time.
He is a constant traveler. He experiences the real world as he edits photo books and samples specimens: he makes full use of his experiences as he would make full use of various formats. Any location or any medium (media) is also only a relative aspect for him that is determined by the relative relationship with a stretch of time. In his collections, he looks for hidden details in everyday life to portray. He engages these acts without delimiting his surrounding life, therefore it is required to frame one scene of everyday life and displace it to another site. Furthermore, he needs to make a modest gap of the stages between art and society.

Uraka Hijikata(curator)

10. Hiroyuki Hattori, "A-side and B-side Story of what is in between the two sides", Artist HP
http://m-shitamichi.com/
11.Eisuke Tsugami,"Souvenir-frame of the experience in tourism" , Kiyokazu Nishimura(edit), Aesthetics in daily Environment, 2012, p.244

『bridge』

2015年4月18日 21:45 下道 基行 */?>
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デザイナーで『旅ラボ』メンバーでのある丸山晶崇さんと一緒に展覧会を作ります。
2011年に制作したシリーズ『bridge』を350ページの手製本の本にして展示を開催。
限定10冊。値段未定。
お楽しみに。

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下道基行
bridge

circle gallery & books
2015.5.1.fri - 5.18.mon
OPEN 12:00 - 19:00 CLOSE tue/wed/thu
〒186-0011 東京都国立市谷保5119 やぼろじ内
TEL / FAX 042-505-8019
http://www.circle-d.me/gallery/

2011年3月15日
ある旅先で、道端の用水路に置かれた“切れ端の板”が、道と生活とを繋ぐ小さな“橋”である事に気がついた。そう言えば、そこらじゅう“橋”だらけだった。これらを“橋”と呼べるのか?建造物? 道具? インフラ? …
ただ、隔たりを越えるために架けられたモノたちで、たぶん生活/風景の必要最小単位の名も無い物体であり行為のひとつではないかと思う。([bridge]は動詞で“架ける“も意味する。)

風景はとても速いスピードで変化し続けている。身の回りにモノは溢れてる。建造物は巨大化する。情報や物流はスピードを加速させる。それらを拒否する事はほぼできない。使い込まれた道具を愛おしく見つめるように、この世界を眺めることはできるのだろうか?
写真家はあまりモノを産み出さない。この世界を正面から受け止め、愛おしく切なく時に痛い視点/まなざしを産み出すのではないか。「これは○○である」とパッケージ化/カテゴリー化/モニュメント化されていない、物体や関係性を視覚化するための小さなスイッチをそっとオンにする。見えない風景だから。

下道基行

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2011年に発表されたシリーズ「bridge」。今回は、その後にも撮られた写真をさらに繋げ、アートブックとして制作販売いたします。お楽しみに。  [デザイン:丸山晶崇(circle-d)]
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SHITAMICHI Motoyuki
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1978年岡山生まれ。2001年武蔵野美術大学造形学部油絵学科卒業。日本国内の戦争の遺構の現状を調査する「戦争のかたち」、祖父の遺した絵画と記憶を追う「日曜画家」、日本の国境の外側に残された日本の植民/侵略の遺構をさがす「torii」など、展覧会や書籍で発表を続けている。フィールドワークをベースに、生活のなかに埋没して忘却されかけている物語や日常的な物事を、写真やイベント、インタビューなどの手法によって編集することで視覚化する。
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現在、東京都現代美術館にて、 「他人の時間|TIME OF OTHER」に参加中(2015年4月11日[土] — 6月28日[日]まで)。
また、森美術館にて、『MAMコレクション001:ふたつのアジア地図― 小沢剛+下道基行』が開催中(2015年4月25日[土]-7月5日[日]まで)。
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http://m-shitamichi.com

【関連イベント】 クロストーク
下道基行(写真家/美術家)× 丸山晶崇(デザイナー/circle代表)
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日時:5月16日[土]17時00分~18時30分
参加費:1,000円
定員:20名(予約優先)
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ご予約はメールにて承ります。件名に「『bridge』トークショー参加希望」、本文にお名前・電話番号・人数をご記入の上、shop@circle-d.meまでお送りください。折り返しメールをお送りします。(迷惑メールの設定にご注意ください)

展覧会「他人の時間|TIME OF OTHER」

2015年3月17日 18:27 下道 基行 */?>


展覧会に参加します。お楽しみに!

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「他人の時間|TIME OF OTHER」
東京都現代美術館

2015年4月11日(土)―6月28日(日)

「他人の時間」展は、東京都現代美術館、国立国際美術館、シンガポール美術館、クイーンズランド州立美術館|現代美術館、国際交流基金アジアセンターによる共同主催事業です。展覧会は2015年4月に東京で始まり、大阪、シンガポール、ブリスベン(オーストラリア)へと巡回しながら、各館のコレクションを含めたアジア・オセアニア地域の若手を中心としたアーティストおよそ20名による作品を紹介します。
本展が開催される各国では、1990年代からアジアの現代美術に関する紹介や研究が継続的に行われてきました。今回の協働作業は、私たちそれぞれの「アジア」に対する眼差しをどのように更新することができるのかという問いを出発点としています。それは、つながっているようで差異に満ちたこの地域の文化や、そこに住まう人々を、共通項を設けて一括りに捉え直そうとするのではありません。むしろ、他者との境界を揺るがし続ける多元的な歴史や、相互的に作用しながら変容する社会について探る作品を通じて、私たちが互いを、そして自らをどのように認識しているのかを問うことを目的としています。

コンセプト
今という時代を共に生きる私たちの関係は、複雑なつながりと分断のうちにあると言えます。情報やモノの速く広い移動によって、遠く離れた人々と同時代的なつながりを感じることは珍しいことではなくなりました。しかし逆に、異なる価値や文化の衝突、社会不安などから生まれる排他主義やナショナリズム、他者への無関心はその勢いを増す一方です。
展覧会タイトルにある「他人の時間」とはまさに、たとえ同じ時代に生きていても、自分とは関わりのない人々の時間という意味を想起させます。しかし、その隔たりにあえて意識を向けることは、「わたし」と「他人」の間に何があるのか、何がその関係を築き、もしくは分断しているのかを問う事へとつながります。それは、相手をみる自らの眼差しを意識し、「他人」の姿を異なる視座から見つめてみることだとも言えます。
私たちは、誰かが目にするものを同じように見ることはできません。だからこそ、「他人」に寄り添って世界を見ること――そこでは何が見え、「わたし」はどう映るのかを考える意義があるのではないでしょうか。本展はこのような問いから出発し、さまざまな「他人の時間」に向き合う手掛かりとなる作品をご紹介します。

参加作家
キリ・ダレナ|グレアム・フレッチャー|サレ・フセイン|ホー・ツーニェン|イム・ミヌク|
ジョナサン・ジョーンズ|河原温|アン・ミー・レー|バスィール・マハムード|
mamoru | ミヤギフトシ|プラッチャヤ・ピントーン|ブルース・クェック|下道基行|
ナティー・ウタリット|ヴァンディー・ラッタナ|ヴォー・アン・カーン|ヤン・ヴォー|

巡回予定
国立国際美術館 2015年7月25日(土)-9月23日(水・祝)
シンガポール美術館 2015年11月19日(木)-2016年2月28日(日)
クイーンズランド州立美術館|現代美術館 2016年6月11日(土)-9月18日(日)

http://www.mot-art-museum.jp/exhibition/timeofothers.html

『モニュメントが生まれるとき』

2015年3月13日 10:52 下道 基行 */?>
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2013年1月
広島県広島市

原爆ドームの大通りを挟んで向かい側の、柵で囲まれた大きな円形の工事現場が音を立てている。この場所は数年前まで広島市民球場が建っていた。柵の外側を一周してみると、思ったよりも小さい球場のサイズが伝わってくる。柵の向こうにライトスタンドの一部がぽつんと残されているのが見えた。このスタンド跡を町はモニュメントとして残してその周囲を公園にしようと計画したが、様々な市民の声があがり計画は中止となったままだという。それにしてもこの町はモニュメントだらけだなぁと思った。曇り空から光が射した瞬間、シャッターを切ってみると、どっち付かずの曖昧な風景がそのまんま写った。
 広島を後にして東京に向かう新幹線。隣の席でおしゃべりをしていたおばさん二人は、高速で通り過ぎる車窓の向こうに富士山を見つけ、目を輝かし、カメラを縦や横にして写真を撮りはじめた。数分後、写真に満足したのか、急にまた元の話に戻った。富士山はまだ同じ様に見えている。
 速いスピードで変わって行く風景を前にして、消えてゆくコトやモノを「残したい/伝えたい」と、人はモニュメントを作る。写真を撮ることもそうなのかもしれない。でも、過去をモニュメントとして捕まえた瞬間から、逆に忘却が加速する気がするのはなぜだろうか。生暖かかく漂っていた過去が、急に標本のように冷たくなってしまうように。美しさや驚きや悲しさや忘れたくないこと…そんな曖昧だけど大切な感情や瞬間を誰かと共有し残したい時、僕らは何ができるのだろうか。


母の友 2013年 05月号掲載

深谷通信所

2015年2月 1日 14:52 下道 基行 */?>

神奈川の深谷通信所跡地に滞在。サイト・イン・レジデンス『環世界 資料室』のガイドブックのふろくのようなミニ冊子を作りました。
円形の敷地の境界線の上を歩き、内側にカメラを向けた側と外側に向けた側をポストカードサイズの蛇腹の裏表に印刷しました。この場所は今後劇的に変化していくと思います。2015年1月の記録として、数年後に再びその土地に訪れて見ながら歩くと面白いかもしれません。冊子はくるりと五角形にして眺めるも良し。

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深谷通信所
2015.12.11-13

深谷通信所の敷地は直径約1キロのきれいな円形をしている。地図を手に敷地の境界線の上を歩きながらそこから内側と外側へカメラを向けた。外周の円は柵で囲まれていないが、1/3程度は道路によって弧が描かれていて、残りの2/3はよく見ると約数十メートルおきに杭が打たれている程度で、内と外は緩やかに繋がっている。過去から現在へ、航空写真で眺めると、円形はこの辺りの開発が進む1960年代まではぼんやりとしている。1960年代以降、この円形の輪郭は、内側の風景がほとんど変化しない事とは対照的に、周囲からの開発で敷地ギリギリまで宅地など整備がなされることによって、外側から大地に描かれていった。役目を終えた大地の円形は今後どのように変化して行くのだろうか。  下道基行

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『環世界 資料室』
http://www.siteinresidence.org/
環世界資料室は、元米海軍深谷通信所に関する資料室です。
2014年6月30日、戦後70年間米軍基地であると同時に、
菜園や野球場、散歩道など、人々が集い利用する共有地であった米海軍深谷通信所が返還されました。
それから6ヶ月。その風景は急速に変わりつつあります。
「環世界資料室」では、この土地の歴史の断片を物語るさまざまな資料に加え、
3人のアーティストが、彼・彼女らの眼差しで捉えたこの土地の姿をご紹介します。
ここは、この土地にいま一度向き合うための小さな資料室です。

企画:坂田太郎 デザイン:木村稔将

建築雑誌 12月号 

2014年12月 7日 08:12 下道 基行 */?>

建築雑誌 12月号 に文章を寄稿しました。
「フィールドワークとカメラ」という題です。

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建築雑誌 12月号 
特集= フィールドワークとツール

Fieldwork Tools

特集 フィールドワークとツール
 フィールドワークを建築誌で特集するならば、〈フィールドワークの「対象」〉から分類して考えるのが一般的なアプローチと言えるのではないだろうか。集落調査、都市空間における行動領域調査、山谷地区の調査、団地の暮らし方の聞き取り調査、東京のスリバチ地形の調査など、どのような「対象」をフィールドとして選択するか、という「対象」の多様性を扱うことでフィールドワークの現在を考えるという内容となる。本特集では、編集会議での議論の結果、「対象」からアプローチする方法をあえて取らないということにした。われわれが替わりに選んだのは、〈フィールドワークで用いられる「ツール」〉に着目するというアプローチである。
 あらためて考えてみるまでもなく、フィールド(環境)から何かを読解し、それを描写、記述していく過程においては、必ずなんらかの「ツール」が介在することになる。読解の段階で「ツール」が介在するケースもあれば、描写や記述の段階で「ツール」が介在することもあるはずだ。あるいは「ツール」自体がメディアだとするならば、「ツール」を使いこなしていくことで、身体そのものの感覚が変容していくこともあるかもしれない。「ツール」の特性を凝視することから、環境と身体との関係性について、今までとは違う考察を試みようというのが狙いだ。
 今号の企画打合せにおいて、たびたび人類学者のティム・インゴルドが話題にのぼった。インゴルドは、人間が環境をうつしとる行為を「線描(drawing)」と「記述(writing)」という二つに分けて定義しているが、これを用いて、「線描(drawing)」とは環境に身体が反応して断片がうつされていく〈運動〉であるとし、一方で「記述(writing)」とは環境が体系を内包しながらうつされる〈運動〉であると考えた。そうすることで、「フィールドワーク」というものを、ツールを基点に、より分析的に扱えるのではないかと思ったのである。この私的な考察を用いて、本特集記事を分析し、右ページにマトリクスとして掲載した。私個人の感覚的な整理の枠を出ない部分もあるが、本特集を読み解く海図のようなものとして活用していただけたらと思う。
 各論考を読み解いていくと、「ツール」は、単に環境を読解、記述するための道具という合目的な存在に留まらず、身体を環境に同化させていくためのインターフェースとなっていることがわかる。「ツール」を使い続けることで、「線描(drawing)」から「記述(writing)」に位相がずれる現象が、それぞれの取組みのなかで起こっていることがよくわかる。フィールドワークの「ツール」に着目するという、一見、カタログ的で短絡的なアプローチに思われるかもしれないが、本特集が、建築学にとらわれず、フィールドワークそのものを科学し、フィールドを構築する学として建築を再び組み立て直していくための、なんらかのきっかけになれば幸いである。
(藤原徹平)
会誌編集委員会特集担当
栢木まどか(東京理科大学)、黒石いずみ(青山学院大学)、篠原聡子(日本女子大学)、南後由和(明治大学)、藤原徹平(横浜国立大学)、真壁智治(エム・ティ・ビジョンズ)
[目次]
特集|フィールドワークとツール
フィールドワークとツール
2 会誌編集委員会 主旨
4 原広司 環境をうつすこと─身体と環境の間・集落調査・写経
10 佐藤浩司 民家調査の現在
12 柳澤田実 身体・線・とりとめのない日常
14 千葉学 地図と自転車
16 槻橋修 「記憶の模型」によるフィールドワーク
18 真壁智治 フロッタージュというツール
22 飴屋法水×朝吹真理子 環境の触り方、言葉の探し方
28 伊藤毅 古地図
30 西川麦子 コミュニケーションツールとしてのラジオ
32 加藤文俊 ツールを考えること
36 乾久美子 「小さな風景からの学び」での試み
38 下道基行 フィールドワークとカメラ

連載 
住むことから考える東京2020④
42 石川初
運動競技のランドスケープ
海図の切れ端─現代建築批評再考⑥
44 石塚直登
『球と迷宮 ピラネージからアヴァンギャルドへ』
マンフレッド・タフーリ
次代を拓く建築展⑥
45 暮沢剛巳
「メディアとしての建築」という問題提起
震災復興ブレイクスルー⑫
46 阿部俊彦
気仙沼内湾地区の「まち」と「海」の復興コミュニティ拠点
未来にココがあってほしいから─名建築を支える名オーナーたち⑫
48 犬木登+犬木幸子
セキスイハイムM1
エムワン
犬木邸
住むことから考えるU-35⑫
49 稻用隆一
東京の状景
岩瀬諒子
ツタンカーメンの種子
尾内志帆
パンを介したつながり
EDITORS' CAFÉ⑫
50 会誌編集委員会
編集後記

ガラスの旅 Glass journey

2014年11月13日 17:28 下道 基行 */?>
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沖縄と八重山諸島を旅した。
台風19号の後だということもあり、美しいビーチはゴミの山だった…。ペットボトルや発泡スチロールが多く、その他にも漁業の道具やビーチサンダルや生活用具など。台湾、中国、韓国、東南アジアなど、様々な国から色々な物が流れて来ていた。
旅のなかで、島々の海岸を漂着物を見ながら歩くことを日課にすると、すぐに風景の風景の見え方が変わっていった。まずは、漂着物が多い海岸とそうではない海岸があることに気がつく。理由は様々あるが、季節風や観光の為の清掃や海岸の地形などが関係するようだ。もうひとつ気がついたのは、実は少なくない人数が、頻繁に海岸の漂着物を見て何かを集めてまわっていること。朝、浜辺に新しくできた漂着物のラインには必ず新しい足跡が残されている。西表島のある海岸で出会った人は、海岸に打ち寄せた藻を集めて干していて、「肥料として畑に蒔くとトマトが美味しくなる」と話す。その他、漂着物の中で種子やおもちゃを集めている人や漂着物を組み合わせてお土産物を作っている人々や様々な人々にも出会って、いろいろな話しを聞く事ができた。全く知らない世界と住人がいることに気がついた。
数ヶ月前、福岡県の玄界灘の海岸を歩き続ける漂着物の第一人者石井忠さんにお話を聞く機会があった。「漂着する木は、かつては集めて薪にしたり、海辺の社は寄木や寄船で造営されることもあった」と話されていた。さらに、「見つけた物が大きすぎる場合、石をのせて印を付けたり、隠したりするが、再び戻ると無くなっていることがある。」と悔しそうに話されていた。
海の幸は、漁で取れる魚介類だけではなく、浜辺に寄せる物も生活の資源になるし海の幸だ、ということを感じた。そして、そう考えるとペットボトルや発泡スチロールが簡単に再生できないのは非常に残念に思えてくる。
沖縄には様々な国から様々な物が流れつく宿命をもった地理。船も人も文化も流れてくるし、文化も侵略者も…。ニライカナイという沖縄の思想には、海の向こうから神が豊かさをもたらしまた帰るとされる。沖縄という土地は様々な善くも悪くも「寄せるもの」を受け入れ、付き合って来た(編集してきた)歴史がある。武器ではなく、生きる力で戦って来たように感じる。

沖縄には琉球ガラスの工房が沢山ある。琉球ガラスの歴史は、明治時代に長崎や大阪からやってきたガラス職人によって始まったが、戦後は、進駐軍が使用し廃棄されたコーラやビールの瓶を材料に再生ガラスとして彼らのお土産用の器が作られ始め、現在に至る。現在でも多くの工房は、コーラの瓶にかわり泡盛の空き瓶を回収して再生し食器を作っている。
「海に流れ着く様々な漂着瓶でガラス食器が作れないか?」そんなことを思い、海岸に流れ着くガラス瓶を集めるようになった。漂着する瓶から再生ガラスを作る。調べたり相談してまわると、そこにはふたつ大きな問題が出てきた。「ガラスは種類によって膨張係数が違うので、色々なガラスを混ぜると必ず破れること」と「工房のガラスの窯の坩堝に外から持ち込んだ色々な見知らぬガラスを入れることは大変な労力のいることで、やってくれる職人はいないのではないか」ということ。
普通に使用するのにむずかしい食器は職人は作らない。使えない食器、などあり得ない。ただ、形成した後、ガラスが破れてしまうことも含めて興味が湧いて来た。そして何よりガラスに関わる人が口を揃えて「破れるからやった事はない」と聞いていると、逆に作ってみたい気持ちをかき立てられた。
制作協力をお願いできる職人さんを捜した結果、奇跡的に興味を持って協力して頂ける方に出会うことができた。素敵な出会いの連鎖だった。
拾い集めたガラスボトルは、ハンマーで砕いた。炉の中に入れ、1日かけて溶かした。翌日、職人さんの指導で溶けたガラスを吹いて食器を作る。熱せられ赤々と光るガラスにはいくつものスジが見え、職人さんは「これは混ぜたからだし、普通より吹いた時にも丸くなりにくいな」と話した。
出来上がった食器を除冷を行いさらに翌日、工房に行く。制作した食器は破れていなかった。「混ぜ合わした様々なガラスの相性が偶然良かったのかも。奇跡的」と。少し亀裂が入る事を期待していたこともあり、少し複雑な気持ちで見ていると、「これから数ヶ月後に突然破れる事もあるよ」と職人さんは言った。
ガラスは固まっているように見えて、非常に流動性のある存在だという。陶芸は土と言う生ものを焼くことで固める感覚があるが、ガラスは少し逆の感覚を受けた。漂着したぼろぼろの瓶は窯で焼かれ新しくより生なものに生まれ変わったように、緊張感がある。
出来上がったグラスに光に当てると、置いた台に、様々な瓶の混ざりあわないガラスの層が影として見えて、非常に美しい。何より、実際に見えないが、このコップの中に様々な場所や時間が混ざりあっているということが、不思議な気持ちにさせる。
出来上がったグラスの中の2つを自宅に持ち帰り、家で乾杯した。洗っている時に、コップの中に少し亀裂がピキッと入った。嬉しいような悲しいような気持ちになった。

Glass journey

I traveled around the Yaeyama islands following the typhoon 19. The beautiful beach was covered in a mountain of garbage such as bottles and polystyrene foam, fishing tools, beach sandals, and the various objects of everyday life that came flowing from Taiwan, China, Korea, and Southeast Asia.
In the itinerary of my journey, I planned to walk routinely. Watching the flotsam in the coast, I immediately began to perceive the landscape differently. First, I noticed that there are some coasts with a lot of flotsam and others with little. The reasons were various: the effects of the monsoon and cleaning up the beach for tourism purposes, as well as geographical features. Also, I noticed that people frequently walked around and collected things from the seaside. Every morning, the beach was left with fresh footprints in the new line of flotsam. People I met at the seaside in Iriomote Island collected algae that washed up on the shore and dried it. They said that “it makes tomato delicious if you spread it in the field as fertilizer.” In addition to that, I met people who were picking up the seeds and toys, and people were making souvenirs by combining and attaching flotsam. I heard various stories and encountered people who live in the world that I have never known.

A few months ago, I had the opportunity to meet and listen to Mr. Tadashi Ishii: a leading scholar in flotsam who has investigated around the Genkai coast in Fukuoka. He stated that “trees, washed ashore and collected, used to be used as firewood. The seaside shrine was also constructed from broken ships and drifting woods.” He continued, “If I find objects that are too large, I mark them by placing a stone or hiding them, but I find them gone when I go back again.” He told me this in a regretful way, I thought. The blessing from the sea means that it is not only seafood that can be taken in (via fishing) but also those things that come to the coast. I felt that it was very regrettable that the polystyrene foam and PET bottles cannot be recycled easily.
Okinawa’s geography had a destiny whereby various things have flowed into it from various countries. With ships also flowed culture, invaders...
In Okinawa, the legend of Niraikanai states that God comes to bring blessings from the other side of the sea and then returns. The land of Okinawa also has a history that has accepted the “things posting,” and edited them not by weapons but by the vitality of the people in a peaceful way.

In Okinawa there were a lot of Ryukyu glass workshops. The history of Ryukyu glass was begun by glass artisans who came from Nagasaki and Osaka in the Meiji era. After the war, they began to produce glassware souvenirs using glass discarded by the army who had occupied the area. Still in present day, many of the workshops are recycling glass from empty bottles of Awamori instead of Coke bottles.
I wondered whether it would be possible to make glassware by recycling materials from the bottles washed ashore. Two important problems emerged after I examined and consulted on this possibility. I was told that “because of the large variety and different expansion coefficient of glass types, mixing the glass always causes it to break.” Also, “it takes a great effort to put glass of various origins into a crucible of kiln glasses brought from the outside. Therefore, no craftsman wants to try it.”

It is reasonable that a craftsman does not make dishes that are difficult to use in daily life. There cannot be a table where that table cannot be used. However, what I found most interesting was the process; including the possibility for the glass to break after it had been formed with success. All those involved in glass production say, “never try it, as it will break.” In reverse, I had the feeling that I wanted to try. As a result of looking for a craftsman who could cooperate with me throughout the production, I was able to meet a person who was interested in my attempt and helped me miraculously. It was a nice bond to encounter. I crushed gathered glass bottles with a hammer, put them in a furnace, and dissolved them over one day. The next day, I blew glass melted under the guidance of craftsmen. Heated and shining brightly in red, several streaks appeared inside the glass. The craftsmen said, “Since different types of glass were mixed, it becomes difficult to form round when it blows normally.”
The following day, after cooling the formed glasses, I went to workshop and found them not broken. I thought, “It is a miraculous coincidence that these different types of glass have good chemistry.” I had expected some to have cracks, and for me to be disappointed. Nevertheless, the craftsman said that “there is probability that they will be broken by chance after a few months.”
Glasses can seem to be solidified but consist of very fluid substances. Pottery solidifies by burning raw soil, but I felt that the glasses differed. The bottles washed ashore and worn, then burned in the kiln, were reborn, as if something like new life were emerging and bringing with it a vivid tension.
When I looked upon the completed glass, there appeared to be a very beautiful shadow, projected through layers of components that were completely melted. More than anything, it was actually invisible. Various locations and various times were mixed inside this cup, and this brought me mysterious feelings.
I brought home two of the glasses and toasted with them. A little crack began to appear in one of the cups when I was washing it. I felt a little sad but a little happy.

November 17, 2014


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梅香堂について

2014年11月12日 17:56 下道 基行 */?>


西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。
そこはかつて昔の船着場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。
運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。

梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。
船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。
停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。
「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。

梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。
定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。
僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。

今はまだそれから2ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。最後に『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。

「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」

以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて


下道基行

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(フリーペパー「FLAG」掲載)

ふたつの個展『漂泊之碑』 沖縄/大阪

2014年11月 3日 20:04 下道 基行 */?>

”漂泊之碑”


過去はどのように編集され継承されるか。
そこに関わるモノの存在と、形状と意味の変容。
さらに閉じ込められた過去を開封する方法と体験。

『沖縄』と『大阪』にて同じタイトルで別々の新作個展を開催します。
2カ所の”船着き場”で“新しいモニュメント”をテーマにした連作。
沖縄では、沖縄本島や八重山諸島を旅し「揺れる境界」を、
大阪では今年閉廊した梅香堂にて「消えること」「残すこと」をテーマに。
シリーズ『torii』などの写真シリーズからコンセプトを繋ぎながら、
今回はカメラを主に用いず「蒐集」と「編集」を行ないます。


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個展
『漂泊之碑  沖縄/泊』
下道基行
2014年11月09(日)—12月2日(日)12:00-19:00 (水曜休み)
沖縄コンテンポラリーアートセンター
沖縄県那覇市泊3-4-13
企画展『隣り合わせの時間』(キュレーション:土方浦歌)連続個展形式内にて


泊について

ここの地名は“泊(トマリ)”という。
沖縄県那覇市泊3-4-13。フェリーターミナルが角を曲がったすぐの所にある。汽笛の音が時々この空間まで聞こえてくる。少し歩くと漁港があり市場が賑わっている。空にはカモメもとんでいる。港の隅には古い外人墓地がある。鮮やかな色の造花と芝生の緑と白い十字架。中国やフランスやスウェーデンやアメリカなどの色々な国籍の人々の名前が並ぶ。その敷地内に『ペルリ提督上陸之地』という石碑が立っている。ペリーは浦賀の翌年、この泊に上陸した。石碑には『琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む。1853年6月6日、大美御殿における招宴席上のペルリ挨拶』とある。アメリカが、すでにこの時期に沖縄の地理的重要性に目を向けていたこと、そしてこの島が今でも様々な国の間で揺れていることにまっすぐに繋がるように感じる。
“泊”の意味は、【船が停泊すること。また、そのところ。】とある(『日本語大辞典』小学館)。ただ、船だけでなく「旅人が宿泊する」ように、漂う人や物がある場所に「(寄せて)停止する」というイメージを思い浮かべることもできる。
泊という地名は、ここの他にも沖縄県内にも他にもあるし、国内に多く存在していて、そのほとんどは港町や海沿いにある。北海道の原発の町も泊だし、青森や富山…、今は国内ではないけどサハリン(旧樺太)を旅した時にも、トマリという日本語の音だけがロシアの寂れた港町の名前に残されていたりもした。
“泊まる”は、“止まる”などの「停止する」意味合いだけではなく、その後、船や旅人が再びどこかへ「漂泊」をはじめる、「再び“漂う”可能性」「変化し続ける可能性」を文字の中に帯びている。色々な漂泊と定着が幾度と無く繰り返してきた人や物の往来の時間が地名から想像される。
今回、僕はこの泊に流れ着いた。ペリーのように計画的ではない…が、ただ偶然でもあり必然でもある漂着。そして、ここから沖縄本島や徳之島や八重山諸島、さらに台湾との国境の海上まで旅をした。様々な過去や人や風景に出会い、強く心が動かされた。この小さな島々は、様々な境界線が交わっていて、外から寄せてくるモノたちに常に翻弄され、逆にしたたかに利用しながら力強く漂っている。緩やかに混ざりあいながら変化し続けるこの場所に停泊しながら、たくさんの旅のはじまりの予感を感じた。
僕の今回のミッションは、この場所で新しい何かを生み出し見せること。それは、「僕自身が人と出会う時」や「作品に人々が出会う時」に良い意味で摩擦を生むことだと考えている。
今回の漂着や旅や出会いを内包した展示自体を“漂泊之碑”として表現しようと思う。流動的で可変性のあるモニュメントとして。

下道基行





企画展『隣り合わせの時間』
2014年10月12日-2015年2月17日(1作家1ヶ月程度の連続個展形式)
参加作家:黃沛瀅(台湾)、クォン・オサン(韓国)、青野文昭、下道基行
キュレーション:土方浦歌
日本、台湾、韓国からの若手作家四名が、沖縄を中心に移動しながら、地域住民との共働による滞在制作を行います。その各々の取り組みを、那覇市内の同じ場所で順次作家を変え発表していきます。
展覧会HP http://2014timesharing.jp/




漂泊之碑06.jpgのサムネール画像


個展
『漂泊之碑  大阪/梅香』
下道基行
2014年11月22(土)—30日(日)13:00~19:00
ASYL(元梅香堂)
大阪府大阪市此花区梅香1-15-18

今年閉廊した大阪のギャラリー梅香堂にて、「消えること」「残すこと」をテーマに作品制作を行ないます。シリーズ『torii』などの写真シリーズからコンセプトを繋ぎながら、今回はカメラを主に用いず「蒐集」と「編集」を行ないます。


【スペシャルトークイベント開催!】
2014年11月30日(展覧会最終日)
ゲスト:桂英史、服部浩之

■桂英史(かつら・えいし)
1959年長崎県生まれ。東京藝術大学大学院映像研究科教授。専門はメディア理論、図書館情報学。近年、国内外で新しい公共文化施設のプランニングに携わっている。主な著書に『東京ディズニーランドの神話学』(青弓社)、『インタラクティヴ・マインド』(NTT出版)、『人間交際術』(平凡社新書)などがある。監修者として携わった「美しい知の遺産世界の図書館」(河出書房新社)が、2014年10月に出版された。
■服部浩之(はっとり・ひろゆき)
1978年愛知県生まれ。2006年早稲田大学大学院修了(建築学)。公共機関である青森公立大学国際芸術センター青森(ACAC)に学芸員として勤務する傍ら、Midori Art Center(MAC)というスペースを独自に運営している。青森を拠点としつつ国内外のいくつかの都市や地域を往来するかたちで、建築的な思考をベースに様々なプロジェクトを企画運営し、場をつくり日常生活を創造的に拡張する試みを実践している。数多くの展覧会の企画にキュレーターとして関わっている。


■梅香堂について
西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。そこはかつて昔の波止場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。
梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。今はまだそれから10ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。
「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」
以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて

下道基行

トークイベント@広島

2014年7月 3日 14:43 下道 基行 */?>

広島市中区に新しくオープンした、レトロビルの2階にある本とうつわの小さな店「READAN DEAT」。7/26(土)にトークイベントを行ないます。前半は写真集「torii」と小さな出版社ミチラボラトリー立ち上げについて。後半は『本屋さんの作り方』と題して「READAN DEAT」店長さんにお話を聞きます。サインも書きます。広島の方、是非ー!

2014, Jul 26
I will hold talking event at book shop "READAN DEAT" at Hiroshima.
i will talk about I made my small publish company and made my photo book. and I will intaview for this book shop owner about "How to make book shop". Please come!

http://readan-deat.com/2014/07/写真家-下道基行ミニトークイベント/


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昨年、広島市現代美術館のグループ展に参加、行われたワークショップも好評だった
写真家 下道基行さんの最新写真集『torii』は、日本の国境の外側に残された鳥居を探す旅。
「過去の残り方/歴史の作られ方」を問いかけます。

下道さんは写真集「torii」を作る為に、自ら小さな出版社ミチラボラトリーを立ち上げました。
取材中や写真集制作時のエピソードなど、色々とお話をお伺いします。

さらに今回、下道さんの提案で、オープンしたばかりの書店READAN DEATの店主に
「本屋さんの作り方」と題してインタビューを行います。どうなるのでしょうか。お楽しみに。


写真集『torii』刊行記念 下道基行ミニトークイベント
日時:2014年7月26日(土)開場/18:00 開演/18:30~ 20:00
入場料:500円(1ドリンク付き)
定員:30名(先着順)
出演:下道基行、清政光博(READAN DEAT)

【お申込み方法】
コンタクトフォームにて受付を行います。
題名を「下道さんトークイベント申し込み」として
メッセージ本文に以下の項目をご記入の上お申し込みください。
1. お名前
2. 参加人数
3. 電話番号
(ご予約後の無断キャンセルはご遠慮下さい。)
コンタクトフォームから送信できない場合は
上記と同じ項目をこちらのメールアドレスにお送りください。
inforeadan-deat.com
は@に置き換えてください。

第1回「鉄犬へテロトピア文学賞」受賞!

2014年6月25日 19:10 下道 基行 */?>

「鉄犬へテロトピア文学賞」を受賞しました。
管さん、そして高山さん、選考委員のみなさん、ありがとうございました。
木村伊兵衛賞は逃しましたが、こんな温かい賞を頂けて本当に嬉しく思います。そして、僕も誰かに賞を送りたい気持ちでいっぱいになりました。小学生とそんなワークショップでもしようかなどと思う程、誰かに選ばれるうれしさを共有したい気持ちになりました。うれしい。
中村和恵さんの『日本語に生まれて』(岩波書店)も同時に受賞されました。おめでとうございます。
明日、沖縄から名古屋へかえります。
では


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私たちは「鉄犬ヘテロトピア文学賞」を創設しました。以下の精神を刻みこむ作品を選び、その作者の世界に対する態度を支持しようと考えています。それはまた、グローバル資本主義に蹂躙されるこの世界に別の光をあて、別の論理をもちこみ、異郷化する運動への呼びかけでもあります。

 ・小さな場所、はずれた地点を根拠として書かれた作品であること。
 ・場違いな人々に対する温かいまなざしをもつ作品であること。
 ・日本語に変わりゆく声を与える意志をもつ作品であること。

 第1回受賞作は、2013年1月1日から12月31日までに出版された書籍から選びます。
 ジャンル不問。日本語で書かれた文学作品、日本語の想像力に深く関わる作品を選びます。
 
【正賞】造形作家・木村勝一氏作の鉄犬燭台
【副賞】贈賞式パーティーご招待(ただし交通費なし)

 選考委員は以下の7名(50音順)。
小野正嗣、温又柔、木村友祐、管啓次郎、高山明、林立騎、山内明美


http://monpaysnatal.blogspot.jp/2014/06/blog-post.html?m=1

2014年 1月5日 朝8時前

2014年1月 5日 13:22 下道 基行 */?>


2014年 1月5日 朝8時前
コーヒーのフタをポンと開けて中を覗き込む。
豆がだいぶ減ってきていてる。あと10杯分くらいだろうか。
先日、内祝に後々田さんからもらったコーヒー豆だ、と気がつく。
急に悲しくなってくる。
豆は早く飲まないと古くなってしまうし、飲んだらどんどんなくなってしまう。
2杯分少し少なめに取る。椅子に座って、ミルをまわしてコーヒー豆をひきながら、涙がこぼれてくる。
良いにおいが漂う。

温かいコーヒーを手に机につく。

昨日見つけた、ちょうど4年前に書いた日記を貼付けてみる。


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書類つくりに追われている。
息抜きに、書くことにする。


展示中の梅香堂について。

ここは去年の秋にオープンした。
梅香堂は、和菓子屋ではない。
トタンのバラックのような倉庫を改装した秘密基地のような場所で、寝るとこもシャワーもトイレもピカピカのが付いていて、アーティストが一人滞在しながら制作し展示もできる、町ともマッチしている(駄洒落)、「過去からやって来た妙に近代的なシェルター」のようなスペース。
川の側に建っていて、台風が来たらそのまんま川にどぶんと行ってしまいそうな、そのまま、海まで流れて行きそうな…、それいいね、旧ユーゴの監督の映画みたい。

で、
オーナーは、今まで美術館などで学芸員として一線を走ってきながら、50歳を前に突然の転身(ドロップアウト)して、この大阪の画廊ひとつない超下町に、このスペースを作ってしまった。
長野でそば打ちをはじめるように…?
いやいや、何か違う…。「アートってなんや!?それ儲かんのか!?食えんのか!?」そんな大阪の下町に、「なにかよく分らない『場所』」を作ったのだ。
最近、町の人もおそるおそる近寄って来ている。
おかしなキャラの常連も増えて来てる。
なにか、はじまりそうな空気が満ちている。
窓から見える川には鴨がプカプカ浮いている。

僕はというと、
「新しいことをはじめた」
ここのそんな新鮮な空気を大きく吸い込んでいる。

[書類作成(戦場)にもどる]をクリック


2010/01/04 01:11


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2010年年始、ちょうどこの日記を書いた頃、まだオープンしたばかりの梅香堂で、僕は展示させてもらっていた。
さらに、日記内で書いている「書類」というのは、アーティストインレジデンスTWSへの応募書類。
推薦状の一枚は後々田さんに書いてもらった。
本当に素晴らしい推薦状を書いてくれた。
お陰で合格し1年間東京で本当に素晴らしい出会いと経験をすることができた。

その半年くらい前に僕は後々田さんと出会った。
2009年夏、僕は山口での花火打ち上げのプロジェクトを終えて、そのまま、偶然にも大阪の梅香に住み始める事になった。理由は、その夏行なわれた「水都大阪」というアートイベントの為の作家や関係者様の臨時の宿の管理人として働く為。2ヶ月の期間限定の住み込みの季節労働。管理人仕事を始めてみると、昼間はお客さんもいないので、シーツを洗ったりしつつ、大阪の梅香という下町を散策するのが日課となる。梅香は工場で働く労働者の住む下町で、消毒されていないノイズが多くて本当に散歩していて楽しい。それを『昭和』とか「懐かしい」で片付けるのにはおしい程、「大阪らしい汚さと活気」を持っている町。(後々田寿徳・リレーコラム「大阪の優しさ」http://www.nettam.jp/topics/column/88/

「梅香に変わったスペースを作っているおじさんがいる」
最初はそんな情報だったと思う。
それが、梅香堂と後々田さんとの出会いだったと思う。

梅香堂はまだ、オープン前で、真新しい本棚に本を入れるのを手伝った。
「傷だらけの天使」のサウンドトラックが流れていた。「ここはこの人の秘密基地なのだ」と思った。
宿に来るお客さんを連れて、よく梅香堂に遊びに行くようになった。飲みながらたくさんの話しをするようになった。お金がないといいながら、いつもおごってくれたのはいつも心苦しかった。後々田さんは多くは語らなかったが、梅香堂をつくるにあたった経緯をぽつりぽつりと話してくれた。
「嫌なことをしていることを感じないように麻痺させながら生きて行くのが嫌になったんだ。あと10年遅かったら、もうこんなスタートは切れなかっただろうなぁ」
と大学教員を辞め梅香堂を始めた事を話していた。
後々田さんは、福井での学芸員生活→ICC学芸員→東北芸工大教員→梅香堂と、7年周期ぐらいで、今の場所に疑問を感じて、それを無視せず、変化し続けてきたのかなぁ、、と想像する。だからか、梅香堂は古ぼけた雰囲気でまったりとしているけど、どこか刺激的で新鮮だった。
そして、福井県美での経験も、ICCでの経験も、東北芸工大での経験も、あったから、梅香堂はあのような唯一無二の存在として、様々な年代の人が集う奇妙な場所になったのは間違いない。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『『大阪人』に紹介いただきました』   2010/10/01 13:13


『月刊 大阪人』11月号「特集満開此花区」に、梅香堂をご紹介いただきました。ありがとうございました。

関西以外で販売されているのかどうかわかりませんが、本屋さんに立ち寄った際にでもご笑覧いただければ幸いです。

此花メヂアさんも紹介されています。

最近、こうしたメディアへの露出がちょこちょことあるのですが、それにふさわしい活動をしているのか、と問われるとお恥ずかしい限りです。

梅香堂は家族をはじめ、友人知人の方々などの有形無形のサポートによってかろうじて続いているような状況ですが、今後ともご支援お願い申し上げます。

昨夜は下道君来堂。いろんなプロジェクトでほんとに忙しそう・・・。

先日KOSUGE1-16の土谷君とも話したのですが、日本ではアーティストは忙しくなればなるほど持ち出しが増えて、貧乏になっていきます。

彼や下道君のようなプロジェクト型のアーティストは、作品が直接お金に結びつくことが難しいためです。

日本のアート業界は、展覧会やイヴェントでアーティストを「消費」していくだけで、こうしたアーティストを「サポートする」という意識が低いように思います。

私にもっと力があれば、彼らのようなアーティストをサポートしていきたい、といつも思いますが、現実は厳しい。話を聞いてあげること(反対にいつも愚痴ってるような・・・)くらいしかできないのが残念です。

ただ、美術館などに勤めていたころとは異なり、最近はアーティストとのいろんな意味での「距離」が小さくなってきた、と感じます。つまり、彼らの気持ちがよりわかるようになった気がします。

単にビンボーになったから?かも知れませんが、それだけではない。社会的な立場が近くなったからだと思っています。

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梅香堂がオープンしてすぐに展示をさせてもらった時、
オルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを自称する梅香堂がはじめて販売した作品であり作家になったのは光栄な事だ。
「美術館で雇われた学芸員だった頃は分からなかった…」と話しながら、小さな自分のスペースで、若い作家が厳しい環境で制作をしている事を良く理解してくれて、控えめながら懸命に営業を行なってくれていた。
その後、岡山や水戸や東京まで僕の展示に足を運んでくれて、
「展示はむずかしいな…下道くん…」
とあの口調で、いつもしかられ。。時々褒められ。。
出がらしのお茶と酒を飲みながら。
そして、いつもお別れのときは、見えなくなるまで見ていてくれる。

2013年末、今回は、梅香堂4周年記念に、4年ぶりに2回目の展示をさせてもらった。
展示のオープニングの夜中、後々田さんの姿を探して1階に降りると、ひとりでぽつんと椅子に座って展示を眺めていて、
「いい作品だな、感慨深いなぁ…」
とはなしてくれて、とてもうれしかった。

本当に大切な人を失ってしまった。
残念でならない。。
俺の展示、途中だぞー!

僕は、大学を卒業するまで、学校とか先生という存在を無視したり反発してきたとおもう。自分でえらぶ事をせず、なのに、ひかれたレールには乗りたがらないたちの悪い生徒だった。
大学を卒業して、引っ張られていた糸やレールが全部外されてみて、はじめて「自分は何がしたかったのか」「何をしていくのか」を徐々に考えるようになって、自分や人と向き合うようになった。本当に遅すぎるしバカだ。
その後、自分也にあまちゃん也に歩み始めたが、本当にいろいろ甘かった。
そんな僕にいろいろな事をわざわざ教えてくれる先輩が何人もいてくれたのは幸福だった。それでも気がつかない僕を時にしかってくれた。
「誰に影響を受けましたか?」とか「誰が師匠ですか?」みたいな事をたまに聞かれるけど、僕は自分のせいで、学校では師匠と呼べる関係を作る事ができなかったが、卒業後10年で何人かの師匠というか先輩というか先生というかそういう人に出会えた。
後々田さんもそんな存在だ。
永久欠番。

最近でもたまに教えていたみたいだし、名古屋だったし、行っとけば良かったなぁ。
http://prj.smt.jp/~r2012b/?p=30

不思議なのは、後々田さんの死は、多くの人たちによって今からの未来に対して、生かされていく気がしている。
僕の中でも、既に現像され定着し始めている。
ただ、もっともっと会いたかったな。。
もっと褒めてもらいたかった。しかられたかった。。
いろんな話しをしたかったぁ。。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『死者のブログ』 2010/09/15 18:18


以前、Yangjahさんとホームページの話になった時、私が独自ドメインを取ってブログなども統合したら?と話したところ、「無料ブログは、書いていた本人がもし亡くなっても、その運営会社がある限り残り続けるのでよい」と言われて、「なるほど、確かに」と思ったことを想い出しました。

独自ドメインやレンタルサーヴァーは、維持費を支払い続けないと消滅してしまいます。亡くなった個人が運営されていた場合、そのご遺族などが維持し続ける例は多くはないでしょう。

「たかがブログなんて」と思う方もおられるでしょうが、個人のアーカイヴとしては貴重なものであり、一般人がその方を偲ぶ唯一のものである場合もあると思います。

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これを書きながら、後々田さんの日記を読み返している。
ここからもまだまだ学ぶ事があるな。前進。
文章化するというのは、自分の中で定着させる作業で、思い出があふれてくるのと、同時に過去になっていく感じとで、泣けてくる。後々田さーん。。

http://gogota.iza.ne.jp/blog/


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『虫のいろいろ』   2010/08/12 23:26


小学校四年生の姪っ子の夏休みの宿題(生き物観察)のために、老父が庭から大きな芋虫を採ってきました。

姪っ子たちは「キモい〜」と大騒ぎです。

この芋虫、実は一昨日妹(姪の親)が見つけて、「キャー、でっかい芋虫がいる〜」と叫んだため、老父が裏庭に捨てに行ったやつらしい。

黒々とした長さ5cmを超える芋虫。頭が大きく、紫色の斑点をもつ彼は、おそらくアゲハチョウの幼虫でしょう。この幼虫は鳳仙花(妹たちが苗を持ってきたらしい)の葉を食べていました。

アゲハの幼虫は食べる葉を選びます。たとえば山椒の葉など。ですから産卵する場所は限られている。

そんな話を老父としたら、「そういえば毎年、庭に大きなアゲハチョウが来る」と話していました。私も見たことがあります。

ひらひらと縁側にまで入ってきて、「おや、母親の生まれかわりかな」なんて思ったことを思い出しました。

彼は昨夜台風の中、裏庭から庭まで戻ってきたのか。

虫に人格を投影する精神は、小泉八雲の指摘を待つまでもなく、われわれに共通する心性なのでしょうか。

空き瓶に入れられ、鳳仙花やレタスの葉を必死にかじっている彼を、小四の姪っ子は「意外とカワイイ〜」と、ながめていました。

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僕もよく虫とか蛙とかに人格を投影しますが、この文章、日本人っぽいし、優しいなぁ。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『5月9日に思う』    2011/05/09 22:34

今日、5月9日は、二年前に大阪に引っ越してきた記念日です。

もちろん梅香堂はまだ廃屋のような倉庫で(今でも外見は変わらない?)、大阪に知人などもほとんどいませんでした。

その後半年かけて倉庫を改装し梅香堂をオープンしたのですが、もうそのころの記憶が薄れつつあります。まさに「無謀」な計画でしたし、そもそも「計画」すらなかったとも言えますが、とにかく二年間大阪で生きてきました。

私を物心両面で支えてくれた家族、ご援助下さった大家さん、大工さん、作家のみな、関係者の方々、多くのお客さん、そして私のパートナーとそのご家族に、心より感謝申し上げます。

もう歳ですので、この二年間で成長?したことはあまりないと思いますが、決定的に知った─痛感したことがあります。それは「はじめて作家の気持ちが理解できた」気がしたことです。

かれこれ四半世紀もこうした業界にいながら、なぜ今さらそんなことを言うのか。それは私がいわゆる「サラリーマン」だったからです。何だかんだ言っても、実際に「アートでお金を稼いでいる」人は今の日本にどのくらいいるのでしょうか。私が経験した学芸員、大学の先生は「アートでお金を稼いでいる」人ではありません。行政などの補助金や助成金を受けるのも、お金を稼いでいることにはならないでしょう。

つまりこの国で「アートでお金を稼ぐ」ことの困難さを、ほんとうに知ったのです。そしてそれは同じ立場にある作家たちと共通するものであることも。

正直に言って、梅香堂をいつまで続けられるのか、今の私にはわかりません。ただ、この二年間は楽しかった。ちょっと大げさですが、幸せな二年間でした。できうるならば、どんなことをしてでも続けて行きたい。

吹けば飛ぶようなスペースですが、今後ともご支援、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『前谷康太郎展終了・ありがとうございました』     2011/07/04 00:45

本日を持ちまして、前谷康太郎 「(non) existence」展は終了いたしました。

お忙しいところ、また暑い中、おいでいただきました多くのみなさまに、前谷君ともども心より御礼申し上げます。

前谷君はまだまだ無名と言うべき若いアーティストです。しかしながら彼はアーティストにとって、必須の才能を持っている。

それは「人の言うことを聞かない」こと。すなわち、「頑固」であるということ。これは大切です。

頑固者にあれこれ言い続けることは大変ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

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(爆笑)

A面とB面、そしてそれらを結ぶ余白の物語

2012年4月 3日 20:32 下道 基行 */?>

 下道基行は旅するアーティストだ。文字通り各地に滞在し生活するなかで作品を制作する「旅人型」という意味もあるが、それ以上に「旅」に喩えることで、その創作活動は非常に捉え易くなる。旅は、ある明確な目的地を設定しそこに到達することを最終目標とするタイプのものと、具体的な目的地は定めず移動すること自体や移動の過程での街・人・ものとの出会いなどを求めるものの、大きく2通りに区分できるだろう。下道は作品の質に応じてこの「旅」の両極を探求し作品として提示する。ここで、レコードやCDのA面曲/B面曲という構成を範として、前者のような明確な目的地(対象)を目指す活動/作品を「A面」、後者のように具体的な目的は明瞭でなかったり、何らかの目標へ向かう過程で発生する副産物的なものに着目するプロセス自体に重点を置く活動/作品を「B面」と定義すると、下道はときにA面を目指す過程でB面的な作品を生んだりと、A面/B面を往来することによりバランスを保ち、自身の両極を横断する活動を補完しているように思われる。
 また「旅」での蒐集物が彼の作品を形成する主要素となる。その探求蒐集は多岐に渡り、全国各地に点在する戦争遺構を撮影した《戦争のかたち》、現在の日本の国境の外側に存在する鳥居を捉えた《torii》、祖父が描いた絵画の行方を追いその絵と設置された空間を写す《日曜画家/Sunday painter》、無名の創造者が日々つくり続ける創作物を蒐集する《Sunday creators》、どこにでもある境界をつなげる一枚の板など最小限の構造物を「橋」と定義し各地でスナップした《bridge》など、一見散漫な興味のもとバラバラなものを追っているように思われる。しかし下道が鋭い観察眼と好奇心をもって発見し愛でるように蒐集するものには、下記三項目の共通点がある。

1)極めて個人的でささやかな発見により価値を与えられるもの
2)人の行為によりかたちや機能を与えられたもの
3)その成立の背景に何らかの物語や記憶を備えているもの

 以上の前提のもと論考を進める。下道が注目されるきっかけとなった2005年に出版された彼の著書『戦争のかたち』は、日本全国に多数現存するするトーチカや砲台跡、掩体壕など軍事目的で建造された戦争遺構の現在の様子を捉えたものだ。ある掩体壕は住居として人が暮らしていたり、ある砲台の台座は花壇になっていたりと、かつて与えられた軍事機能を完全に剥奪され鮮やかに転用された新しい風景として存続し定着している状況を捉えることで、戦争が起こっていたほんの少し昔と現在は地続きでつながっているということを可視化したり、あるいは必要から生じる人間の創意工夫のちからや生活力を明示するなど、その風景を提示することで背後に存在する様々な歴史や物語を私達に想像させる。
 また、現在規定されている日本の国境線の外側にかつて日本人の生活が存在した痕跡を示すように現存する鳥居を写真で蒐集したのが《torii》というシリーズだ。これらは必ずしも日本の征服の歴史を示すものではなく、移民として日本人街が形成されるなど、様々な理由で日本人が暮らした場所やその生活の存在を証すものだ。ある鳥居は周囲をキリスト教の墓標に囲まれ表面を純白に覆われた状態で残っていたり、別のものは鳥居本体がその場に倒されベンチのように利用されていたりと、現在そこで生活する人の手により全く新しい機能や価値を与えられ、新たな風景を形成している。
 《戦争のかたち》や《torii》で蒐集される「戦争遺構」や「鳥居」は、ともに永い年月をかけてひとつの場所に鎮座していることもあり、どんな変換が施されようがその存在感は非常に強力だ。そしてこれらは特定の場所に位置するその強烈な存在を求め捉えるという極めて「A面」的な作品だ。どちらもその対象は決して著名なモニュメントではないが、存在の強さはあり、それを目的として探求することでモニュメント化をする正統的な写真の作法により作品化されている。

 一方で「B面」の代表的な作品は《RIDER HOUSE》だろう。これは《戦争のかたち》の制作のために北海道を旅した下道がバイカーのための宿「ライダーハウス」に宿泊したことで、その面白さを発見し蒐集したものだ。宿ごとに形成される独自ルールや空間があったり、そこに滞在する多様なバックグラウンドをもつ人々に出会ったりと、その状況自体が下道には興味深く感じられ、戦争遺構の撮影の裏側で、ライダーハウスで出会う人やその生活をスナップ的に撮り溜めていたそうだ。《戦争のかたち》のための旅の裏側を捉えた《RIDER HOUSE》の写真群は、その当時の下道の日々やライダーたちの生態が想起されるものがあり、その裏側的魅力に惹き付けられるまさにB面的作品となっている。
 ACACでは、青森での滞在制作による新作《crossover》と昨年制作した《bridge》を再構成し両者を接続することで、ここ最近の「B面」的な活動に焦点を当てる展示となった。これらに共通するのは、人の何らかの行為により意味やかたちを与えられたものということだ。《crossover》は、元々道路などなかったところを人や動物が往来することにより、そこだけ植物が途絶え土が顔を出して通路らしきものが生まれるなどの行為の痕跡によってかたちになる道を発見し撮影していたことに由来する。その延長線上で、雪の青森を散策するなかで、スーパーと道路の境界に設置された敷地を仕切るちょっとしたバーなど、あちらとこちらを隔てる小さな境界線を人が跨いで超えることにより足跡が残り姿をあらわす道を捉え蒐集したものだ。雪に半分埋もれたバーを人が超え横切ると、そのバーの両側に足跡が残る。足跡が残ると他の人もそこを横切るようになり、やがてその道らしきものはより鮮明な道になる。人の行為の痕跡が刻まれることで、そこに意味や機能が与えられていくのだ。
 下道は、バーが中央にくるようにその真上にカメラを構え、痕跡による道を捉え蒐集した。これらの道は、所在が明確なものを探し求めていくというよりは、生活する過程で発見されたものだろう。実際それは降雪の具合や除雪によってある日は存在していたが別の日には消滅しているという、あちこちに存在の可能性はあるが、それを求めて捉えるというのはなかなか困難な、絶えず変化する存在だ。この日々の生活において偶然出会う道を切り取り拾い集める行為も、極めてB面的ではなかろうか。
 また、下道は発見し蒐集したものを公開する作品化の方法にもとても細やかに神経を遣う。写真は額装やマウントにより壁に掛けて見せるのが常套手段だが、彼はその写真が捉えるものの質により提示法を決定する。移動の過程で発見した「道」をデジタルカメラで撮影するというスナップ感覚の強い《crossover》は、計11点を123.5x83cmの大きさでモノクロプリントしギャラリーAの回廊状の床にスプレー糊で直貼りするスタイルをとった。そして壁面にはスライドプロジェクターで、人がバーを超える瞬間を正面から捉えた35mmのポジフィルムによるスライドを小さく投影した。
 その奥の展示室には《bridge》が設置されている。これは2011年3月~8月にかけて下道がバイクで日本全国を巡るなかで、どこにでも目に入るあちらとこちらをつなぐ最小限の構造物を「橋」と定義し蒐集したものだ。例えば、水路を挟んだ田畑のあぜ道に渡された一本の丸太や、車庫と道路の段差を解消すべく道路にちょこんと据えられたレンガやコンクリートブロック、あるいは岸壁と船をつなぐ渡し板など、その役割は千差万別だが小さな隔たりをつなげる最小限の構造物を彼は「橋」と呼び、必要が生む日常生活におけるささやかな創造性により変容される風景に面白みを発見した。計280点の「橋」はA4サイズの紙に撮影日とともにプリントされ、展示室壁面の四周を一列に横切り、さらに展示室からはみ出して通路やトイレも横断しひたすらひとつのライン上にスプレー糊で貼られている。展示室中央に設置されたテーブルには、彼が発見した道をプロットした青森市の地図と、約半年かけて「橋」を撮影しながらバイクで巡った旅路をマジックでなぞった日本地図が設置されており、《crossover》と《bridge》を同列に並べる思考が明快に見てとれる。下道は写真を主なメディウムとするが、それだけでなく地図など旅のプロセスを想起させるアイテムをオブジェとして陳列することで、私達鑑賞者がその「道」や「橋」の写真一枚一枚の背後にあるストーリーを想像できるように立体的に提示しようと試みる。こういうプロセスに価値を置く空間の構成法や、デジタルカメラだからこその物量や即興性を敢えて選択することも極めてB面的な態度と言えよう。フォトジェニックな「道」や「橋」を数点選んで大きく引き延ばして額装し整然と壁に並べるのではなく、床に直接貼る事や、壁に延々と貼り続けるという、一見「ゆるい」とか「強引」と思われるような手法をとり、写真以外の通常は余剰として切り捨てられてしまうものを敢えて併置することで、その余剰も含めてその発見の背後にある記憶を探求することを奨励する。

 B面的世界の面白さは、下道の名前にあやかるなら、高速道路を一直線で目的地に向かうのではなく、変化する風景を感じながら寄り道を重ね下道をのんびりと移動する過程で、思いもよらぬ様々な発見をすることにあるだろう。確かに明確な目標を据えそれに向かって一心不乱に突き進むことも重要だが、時には少しその道を外れ遠回りをするゆとりを持ち、意図しなかったものを吸収していくことも不可欠ではないか。下道はこのA面/B面の両面をしなやかに接続することでバランスをとり、その表現の強度をゆるやかだけれども着実に醸成している。

服部浩之(国際芸術センター青森学芸員)


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”A-side and B-side
Story of what is in between the two sides”


SHITAMICHI Motoyuki is a traveling artist. In a literal sense, he is a “traveler-type” artist who creates works while staying and living in different parts of the country, but what is more appropriate to his case is that we can grasp his creative activity more clearly when we compare it to “traveling.” Types of traveling could be roughly grouped into two kinds: one is that the final goal of the traveler is to reach the destination he has planned, and the other is that the traveler does not decide on his destination and appreciates being on the road, seeking encounters with town, people and things in the process of movement. Shitamichi pursues these two poles depending on the nature of his work. If the former type of activity/work with the definite destination (subject) is defined as “A-side” (of a record or CD), the latter type is defined as “B-side,” in which the target is not specific or the process itself is valued of observing unexpected by-products he finds as he goes towards a certain target. It seems that Shitamichi travels back and forth between the A-side and the B-side keeping a balance in order to supplement his activity of crossing the two poles. For example, he produces B-side type of pieces in the process of aiming for the A-side.
His accumulation of things that he has collected in “traveling” constitutes the main element of the formation of his works. His search and accumulation are wide-ranging: In “Bunkers” (fig.1), war ruins scattered throughout the country are photographed, “torii” depicts torii (shrine gate) that remain outside present borders of Japan, “Sunday painter” (fig.2) shows places where his grandfather’s paintings are, which he traveled looking for, and the space with them., “Sunday creator” (fig.3) displays the collection of things produced continuously by nameless creators, and in “bridge,” snapshots he took at different places show items of minimum structure like a piece of board connecting boundaries found everywhere, which he defined as “bridge.” At first sight, he seems to be pursuing disconnected things in a distracted way, but there are three points in common as in the following concerning those which he has collected with his sharp observing eye and curiosity.

1) They are made valuable through small personal discoveries
2) They are given a form and function through one’s acts
3) They have some sort of story or memory in the context of their formation

I’d like to discuss the subject from the above-mentioned assumption.
“Bunkers” (fig.4), which was published in 2005 and acted as a trigger to draw attention to his work, captures the present state of war ruins such as a pillbox, artillery battery, and aircraft bunker built for military purposes. Some bunker is now used as someone’s dwelling, and the base of some artillery battery has been transformed into a flower garden. Thus, by capturing situations which continue to exist as revived scenery remarkably transformed after being totally deprived of the military function, he visualizes the fact that the wartime of only some yeardecades ago and the present time are connected adjacently, or he expresses clearly human originality, creativity and vitality that arise out of necessity. Presenting the landscape, he makes us think of a diversity of histories and stories behind the scenes.
The torii series contains photos of existing torii, which suggest that Japanese people once lived outside the present borders. They are not necessarily intended to display Japan’s history of conquest, but they provide a sign that Japanese people lived there for various reasons like Japanese emigrants who formed a Japanese quarter. One of the torii left with the surface painted snow-white is surrounded by Christian gravestones while another torii is pulled down and used as a bench. They are thus given totally new functions and values by people living there today and make new landscape.
As “war ruins” and “torii” collected in “Bunkers” and “torii” respectively have stayed at the same place over many years, their powerful presence appeals to us whatever conversion might be made. Each is definitely an A-side type of work, because he intentionally searched for and captured its great existence located at a specific place. Although none of them is a well-known monument, they have the power of existence, and are made into artworks following the orthodox rule of photography, that is, to make the subject into a monument by pursuing it as the target.

On the other hand, his important B-side type of work is probably “RIDER HOUSE” (fig.6). When he made a trip around Hokkaido for the production of “Bunkers,” he stayed at a “rider house,” a lodging for bikers, which he thought was interesting and began its collection of pictures. What interested him was, for example, that each rider house had its own established rules or there were encounters with sojourners from different backgrounds. As the situation itself was interesting, he took snapshots of people he encountered at rider houses, took pictures of their lives and saved them up behind his job of photographing war ruins. Groups of such photos of “RIDER HOUSE,” which captured the hidden side of the trip for “Bunkers,” show us vividly of Shitamichi’s daily life at the time as well as the riders’ lifestyle. This is exactly B-side type of work attracting us by its behind-the-scenes appeal.
For the exhibition at ACAC, “crossover” (fig.7), a new residency production in Aomori and “bridge” that was produced last year and reconstructed anew have been combined, so that his recent B-side type of activities are in spotlight. What the two works share in common is that certain acts of people have given them a form and meaning. As to crossover, it has stemmed from his experience in the past when he found a road and took a photo of that road, which was formed by traces of people’s acts─people and animals walked back and forth along the path where there was originally no road, and grass stopped growing. The surface of the earth began to appear and finally a road-like strip of ground was left there. As an extension of this approach, he collected, while walking through snowy places in Aomori, such a road as formed by footprints around a small bar set up on a lot between a supermarket and the street or at borderlines between two different parts of land which people stepped across. When people step across a bar partly buried in snow, their footprints are left on both sides of it. When other people see those footprints, they begin to cross it there, and as a result, what appeared to be a path becomes a real road. Meanings and functions are given through the engraved traces of people’s acts.
In order to position the bar in the center, Shitamichi held his camera right above it, and photographed roads formed by traces and collected them. Rather than searching for the specific site of such a road, he must have discovered them in the process of daily living. Though it is possible that they exist all over the place, it is difficult to actually look for them, because their conditions are constantly changing: they appear someday but disappear some other day depending on the circumstances of snowfall and snow removal. This act of cutting out and collecting those roads, which he happens to encounter in his everyday life is quite a B-side type of work.
As to his way of exhibiting what he discovered and collected, he pays attention to the smallest detail. Although, on most occasions, photos are framed or mounted for display on a wall, he decides on how to display them depending on the quality of the subject that he has captured in the photo. For “crossover,” in which “roads” discovered in his travel are photographed by his digital camera like snapshots, eleven pieces in total are printed in monochrome of the size 123.5x83cm and pasted directly on the corridor-shaped floor of gallery A with spray glue. And a projector showed 35mm positive film slides, which captured the moment when a person seen from the front stepped over a bar, in a small size on the wall.
In the inner part of the exhibition room is “bridge” (fig.8). This collection contains what he defined as “bridge,” those of minimum structure, which can be seen everywhere connecting this side and that side. Shitamichi noticed them while traveling around all over the country on his motorcycle from March through August 2011. They are, for example, a log put across a waterway between the footpaths of fields, bricks and concrete blocks placed quietly to remove the level difference between a garage and the road, or a board to moor a boat alongside the quay. Though their roles present an infinite variety, he calls the minimum structure connecting little gaps “bridge,” and has found delight in an amusing quality in the landscape transformed by modest creativity coming out of necessity in our daily life. A total of 280 pieces of “bridge” is printed in size A4 along with the shooting date. They are arranged in a single horizontal row on all four sides of the wall in the exhibition room, and go further across the passageway, washroom, etc. pasted with spray glue on a line of the same height. On a table placed on the center of the exhibition room are a map of Aomori city with a plot of roads discovered by him, and a map of Japan with marked traces of his motorcycle tour to photograph “bridge,” which took him about half a year. Here, his intention of putting “crossover” and “bridge” in the same category is explicit. The medium that Shitamichi mainly uses is photography, but by displaying items like maps, which remind us of his trips as object, he tries to present his works from all angles so that viewers can picture a story behind each photo of “road” and “bridge.” His way of spatial composition to value this sort of process and his choice of quantitative and improvisatorial merits of a digital camera show a great deal his B-side type of attitude. What he would not do is to select only photogenic “road” and “bridge,” enlarge them, put them in frames and arrange them on the wall in neat order. His way, on the other hand, seems to be “loose” or “aggressive” at first glance, because, for instance, he pastes his works directly on the floor or continues pasting them on the walls on and on. By boldly putting what is usually thrown away as a surplus along with photos, he encourages us to search for our memories hidden behind surplus parts including such discoveries.
The fun that the B-side type of world presents to us is not to rush to the destination on a superhighway, but, to make various unexpected discoveries while moving around lazily along small roads (let me share his name Shitamichi: shita=under, michi=-road with him), stopping off at different places to enjoy changing landscape. No doubt it is important for us to push forward intently to the definite goal, but it is also indispensable for us to have time to make a detour to experience and absorb what we did not intend to do. Keeping a balance by smoothly connecting the A-side with the B-side, Shitamichi is intensifying his expression slowly but steadily.


HATTORI Hiroyuki (curator, Aomori Comtemporary Art Centre)

「再考現学 / Re-Modernologio」

2012年2月 8日 19:30 下道 基行 */?>

昨年12月より、大雪の青森の国際芸術センター青森で滞在制作を行っています。
青森出身の今和次郎の展示が青森県立美術館、そして東京でも開催されていますが、
今回僕が参加するグループ展『再考現学』は、「考現学」的視点を持つ若手アーティストが選ばれ、青森で滞在制作を行ったグループ展になっています。
僕は、大雪の青森市内をとにかく歩き、”道のようなもの”を撮影した新作『crossover』。さらに、昨年7月にαM galleryで制作した用水路に架けられた”橋のようなもの”『bridge』と、10月にベトナムハノイで制作した『connect』、この震災後にスタートさせた3つのシリーズが繋がり、人々が生活の中で生み出す『行為のかたち』をテーマに展示します。
静かな雪に閉ざされた国際芸術センター青森へ、ゆっくりした時間を過ごしに、是非お越し下さい。

I participate in group exhibition "Re-Modernologio".
This place Aomori is big snow this year.
This museum/Residence is at big snow mountain, and so quiet.
I walk around and took photos about snow roads "crossover".
please come here, and spend good slow time with our works!

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「再考現学 / Re-Modernologio」
 phase3 : 痕跡の風景
国際芸術センター青森
 2012年2月18日(土)~ 3月25日(日)
 10:00 am - 6:00 pm 入場無料/無休

■参加アーティスト
佐々木愛(シュガーペインティング・ドローイング)
下道基行(写真・インスタレーション)
アマンダ・ベランタラ(サウンドアート)
ジュー・チュンリン(アニメーション)

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"アーティストの活動を媒介に、人間の生の痕跡を風景の中に見出す。"

今年度国際芸術センター青森では、青森県出身の考現学者、今和次郎が提唱した「考現学」を年間を通じたキーワードとし、考現学的態度や視点をもつアーティストの活動を「再考現学」展として、ご紹介する展覧会を開催してきました。第3回目となる本展、「再考現学 phase 3:痕跡の風景」では、考現学を都市の中で人間の生活の痕跡を見つけ、観察し、記述することと捉えました。しかし当然のことながらこうして見つけたモノたちの消化の仕方、提示の仕方は、考現学者のそれとアーティストでは異なると思います。

再考現学的視点で世界を観察するということ、それは街の中にあるいは風景の中にある種の新鮮さを見つけることであり、そこには現代に対する鋭い視線、そして人間の活動についての深い関心があるということはいうまでもありません。それは着目した「何か」を媒介に今そこにある現実の実感のようなものを確かめることでもあるかもしれません。

一方着目された「何か」は、取り上げられることで別の何かを示唆し、別の現実を提示しうる可能性を持つでしょう。アーティストの場合、彼らはその着目した何かを作品としてもともとある文脈からずらした場所と仕方で提示することで、社会あるいは現実の見方を変化させる可能性を持ちうるといえるのではないでしょうか。そしてそれこそが単なる風景が人間の根源的かつ、やむことなく続き、抑えがたい欲望としての創造の起点となりえた事実、そしてそれを人間だけが昇華させえた「芸術」という形へと続く道筋の始まりのようなものであるのかもしれません。
本展で、アーティストが風景の中から見つけた人間の痕跡を、アーティストの活動を媒介に、再び作品として現れたものが提示されるでしょう。
また同時開催として現在の青森での生活がベースとなっている方の写真作品による展覧会「ヴィジョン・オブ・アオモリ」を開催します。雪深いACACでの最後の「再考現学」展をお楽しみください。

※「考現学」とは:青森県出身の建築家今和次郎(1888-1973)が提唱した学問。現代の社会現象を場所・時間を定めて一斉に調査・研究し、世相や風俗を分析・解説しようとする学問。ドローイングを用いたフィールドワークを特徴とし、のちの生活学や風俗研究の先鞭となった。


"Re-Modernologio" phase3: Traces of Landscape
Aomori Comtemporary Art Centre
Exhibition : 18 February, Sat. - 25 March, Sun, 2012
Open hour : 10am - 6pm
Admission : Free

Artist :
SASAKI Ai (drawing, painting / Osaka, Japan)
SHITAMICHI Motoyuki (photo / Okayama, Japan)
Amanda BELANTARA (sound art / USA)
JOO Choon Lin (animation, installation / Singapore)

2012年の予定

2011年12月20日 18:43 下道 基行 */?>


2012年度の予定です。
お近くにお寄りの際はご覧ください。
遠くても興味のある方は是非。



■『第五回I氏賞』

岡山天神山文化プラザ

2012年1月24日〜2月5日

岡山ゆかりの若手作家を支援するプログラムに参加します。
この展示は2次選考のための公開審査の展示です。
『(torii)』シリーズを数点出品する予定です。



■「再考現学 / Re-Modernologio」
  phase3 : 痕跡の風景

国際芸術センター青森

2012年2月18日(土)~ 3月25日(日)
10:00 am - 6:00 pm 入場無料/無休

「考現学」的視線で捉える人間の痕跡。
第3弾となる本展、「再考現学 phase 3:痕跡の風景」では、考現学を都市の 中で人間の生活の痕跡を見つけ、観察し、記述することと捉えました。アーテ ィストが風景の中から見つけた人間の痕跡を、アーティストの活動を媒介に、 作品として再び現れたものは、一体どのようなものになるのでしょうか。

佐々木愛(ドローイング、シュガーペインティング/大阪)
下道基行(写真/インスタレーション/岡山)
アマンダ・ベランタラ(サウンドアート/アメリカ)
ジュー・チュンリン(アニメーション/シンガポール)



■『この素晴らしい世界ーアジアの現代美術から見る世界の今』

広島市現代美術館

2012年3月24日(土)~5月13日(日)

近年めまぐるしい経済発展を遂げ、世界中の注目を集めるいわゆる新興国では、社会の発展がもたらした華やかな変貌が強調される一方で、急激な変化による様々な問題が露にもなってきています。「発展」を通して、社会が新しく得たものと失ったものとはなにか。激動の諸国をベースとして活躍するアーティストを中心に、映像、写真、インスタレーション等、様々なジャンルの作品を紹介し、アートを通じて私たちが暮らすこの素晴らしき世界と向き合います。



■『水と土の芸術祭2012』

新潟市内

2012年7月14日(土)~12月24日(月)

http://www.mizu-tsuchi.jp/topics/2011/12/post-25.html



「美しいと言うこと」の自由について


「美しい」ということについて、Mami、下道基行、そしてmamoruの作品を通して考えてみようと思う。なぜなら、私たちは最近アートを見ても「美しい」とは言わなくなっているから。
「美しい」の変わりに、最近よく使われるのは「興味深い」という言葉だ、と言ったのは、批評家のスーザン・ソンタグだった。彼女は「美について」というテキストで、「美」という価値がどうして「興味深い」にとってかわられたのか、とても「興味深い」考察を述べている。(1)
「美しい」という言葉は、規範化されている表面的な形式を指し示しているような印象を与えがちだ。その形式は絶対的で、厳格な価値を備えているようで窮屈な感じがするし、その規範から逸脱するユニークさは排除されてしまう印象がある。だから、この窮屈で保守的な「美しさ」からより自由で幅のある価値を求めて、「面白い」という言葉が使われるのだろう。「面白い」は、確かに便利な言葉だ。ある作品をどうにも受け入れ難いと思っても、とりあえず「面白い」と言っておけばその場のお茶を濁し、自分の価値判断に猶予を与えることができる。
さて、Mami、下道、mamoruはそれぞれ身体、写真、音と三者三様異なる素材を媒介にアーティスト活動を実践している。しかし、彼らに共通するのは、プロダクツとしてのアートを作るのではなく、人と人との関係や、普段見過ごしていたり気に留めない事象に対しての気づきなど、形を持たない瞬間を作り出していることだ。アートをモノづくりだと考えるならば、彼らの実践はそこからはずれたちょっと「面白い」ものだが、果たして本当に「面白い」という言葉で片付けてしまうことがふさわしいかは疑問だ。それは、彼らの実践の根底に「美しさ」の発見があると思うからだ。人と人のコミュニケーションの課程で生じる笑いや、日常生活の中でさりげなく、あぶくのように生まれる創造性、普段何気なく使っている日用品がかすかに奏でる音、こうした現象にこの3人の作家は愛おしさをもって眼差しを向け、実践を通してアートへと昇華させる。
私たちが目撃する彼らの実践は、人が生活している場所であれば、「今、ここ」でも、「どこでもない場所」でも、共有されうるささやかだが普遍的な「美しさ」への誘いである。そのインビテーションは、今や世界のどこにでも開催されているアートプロダクツが溢れる市場優先型のアート界とは、逆の方向を指している。だから、わたしは彼らの実践を見聞したときに勇気づけられ、こう感じることができるのだ。日常生活の中で、もっともっと「美しい」と言っても良いのだと。そして、アートは「美しい」という言葉を発することのためらいから、解放してくれるものなのだと。

高橋 瑞木(水戸芸術館現代美術センター学芸員)

(1)Susan Sontag, An Argument about Beauty, Daedalus, Vol. 131, 2002


※この文章は、Mami、mamoru、下道基行、3人展「NOWHERE」の為に書き下ろされた文章です。


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The Freedom to Say That "It Is Beautiful"

Mizuki Takahashi / curator, Contemporary Art Center, Art Tower Mito


I would like to consider the issue of stating "beauty" by examining the works of Mami, Motoyuki Shitamichi, and mamoru. It must be worth discussing about it because of the fact that people no longer respond to the art works saying that it is "beautiful" anymore. Suzan Sontag, a critique, once wrote that the people recently tend to employ the word "interesting" instead of "beauty." In her essay, "An Argument about Beauty"(1), she raised an "interesting" discussion about how "beauty" as a word representing a sense of value has been replaced by "interesting."
The word "beauty" tends to give such an impression that it is referring to a standardized form; the form nearly stands as something absolute, together with a set of value which is rigid and restrictive. The alternatives that deviate from it are most likely to be excluded. Therefore, people prefer to say "it is interesting," hoping that it implies much broader and flexible senses of values rather than this binding and conservative "beauty". The word "interesting" is surely convenient as an opinion on the work that you cannot appreciate or understand at a first glance. You can avoid making your clear standpoint and postpone your final judgment on it for a while.
Mami, Shitamichi, and mamoru practice and realize their art with different media: body, photography, and sound. However, instead of producing art objects, all of them create ephemeral moments that do not have any physical shape, such as relationship between people, and the awareness to the subtle gestures that we normally do not pay any attention to. Therefore if I define art as the fabrication of the objects, then their artistic practices are off the grid, and in this regard, their works are "interesting". But I am reluctant to label them as just being "interesting" since I find the notion of “beauty” underneath their practices. They discover “beauty” in the humor that is brought into being through communication among people, in the everyday creativity that is indistinct and that may only last for a short while, and in the sound of the everyday objects that we use without any care. These three artists look into those elements with their affections and mold them into the art works.
They draw you into the understated yet fundamental "beauty." Therefore their artistic practices that we would be witnessing can be understood whether it is "now here" or "nowhere", any place where people run their lives around. They invite us towards the opposite direction of the current art world, which is market-driven, and full of commercial art productions. This is why I feel encouraged when I observe or learn about what these three artists are doing. I can feel free to say that "it is beautiful" in everyday basis, and feel also free to believe that art can break the chains of our hesitation and give us freedom to say that "it is beautiful."

(1) Susan Sontag, An Argument About Beauty, Daedalus, Vol. 131, 2002

ハノイ/記念日

2011年10月20日 21:34 下道 基行 */?>

町の中心部から泊まっている家まで、線路沿いを帰るのだけど。
夜になると線路沿いの車道の脇にいろいろな露店が並ぶ。
露店と言っても自転車の荷台に山々と何かをつんで、そのまま道に止めて待つという感じ。
ある日は金魚と水の入った袋がつるされた自転車が沢山止まっていたり、かごにフルーツが積んである自転車が並んでいたり。売り子さんは大体女性で、あのベトナムっぽい円錐型の笠をリアルにかぶっている。たぶんこの時間帯やこの線路沿いの道は、ハノイの市街地から郊外へ帰宅する人が立ち寄り易いのだろう。

昨日の夕方は、花屋さんがならんでいる。花自転車たち。宝塚歌劇のフィナーレみたいに着飾ったチャリ達。そして、なぜかいつもにもまして、お客さんがたくさん群がっている。薄暗いヘッドライトに照らされた人々お表情はなんだかうれしそう。
今日は何の日なんだろう???
部屋に帰ってこちらの美大生の女の子に「What day is today? because many people bought flowers.」と電話してみると。笑いながら、「明日が女性の日だ」と教えてくれた。
今日は女性の日かぁ、おめでとうございます。
未だにルールが把握できず、たまに帰宅するとタンクから溢れている水道を、気がついたら元栓ごと止めてくれる、隣人のおばちゃんに花束を送ろうかと、マモルと話す。
埃っぽいハノイの路上がその日は時に鮮やか。

2011-10-20 10:53

@台湾

2011年9月22日 21:24 下道 基行 */?>

朝10:30分から設営、手伝ってくれる若いアーティストに作品について聞く。
手伝ってくれているひとり、海馬は雑誌に連載を持っている。彼の連載はとても面白い。
雑誌の種類は農家やガーデニングをする人が読む植物あ農業のもの。彼はその中で、都市生活で役立つ食べられる植物や料理やそのほかの情報をイラストと共に紹介している。まぁ、坂口恭平的に言うと都市的狩猟かな。彼のおもしろいとこは、食用植物の参考資料が植民時代に日本人の研究者によって書かれた本だと言う事。この本は、未知の南国台湾での、リアルサバイバルの為の研究された書かれた資料であり、それが現代の都市に置き換えられ利用される事は興味深い。
その資料の味などは”優良可”に分けられていて。昨日、食堂で海馬は少し変わった青菜の炒め物を注文して、おもむろにその本を取り出して、「これこれ」と見せてくれた、やはり味は"優"だった。"可"ってどんなだよ!?と盛り上がる。結論は「可=if you are hungry, you can eat it」。
みんな大学生かと思ったら、みんな卒業生ばかり、そして多くが今年もしくは来年から兵役らしく。
彼の連載も兵役によって、途中で終わってしまうかもしれないそうだ。
彼はこれらをまとめて本にしたいらしいが、悩ましい。

夜は大学構内でお月見BBQをする。台北芸術大学の敷地は山の上にあり夜景が美しい。東北芸工大ににている。ただ、違うのは、夜遅くまで生徒がわいわいと騒いだりBBQしたり、何かの練習をしたり、活気がある事だ。日本の大学は、構内での飲酒禁止や時間厳守など、制限が増えてきていて、なんというかこういう空気は近年劇的に失われているんじゃないかな?

何より人がいい。台湾。
あまりメディアに出ていなかったけど、東北の震災の時の世界一心配して支援してくれたし、
少しどこかでお礼を言えるといいんだけど。


レジデンスでは、ジーザスは姿を消し、代わりにクロアチア人のメディアアーティストが滞在?
彼女は台湾で結婚している様子。昨日は深夜にラウンジで爆音でピピロッティリストの新作を一緒に見ることに。全編ドイツ語を楽しそうに英語に訳してくれるが、その英語がよく理解できない。ただ、映像のみで分かる部分は多い。
その後、彼女はクロアチアの弟とスカイプ。弟はお世辞にも上手いとは言えないギターをひいてくれる。途中でつまったりする感じが妙にほっこり。弟を見る姉のまなざし、万国共通。


(続く)

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ピピロッティリスト インタビューより

しきたりは私の研究分野です。わたしたちが、自己防衛や生き延びるため、また、ある程度、平和で秩序のある生活を保つために、どのしきたりが必要なのか、必要ではないかといったことを調べています。
一方わたしたちはあまり考えずに、しきたりに従います。それは、時間がないといった理由だったり、しきたりを破るという意欲がなかったり、想像力がなかったりするためです。勇気の問題です。

映画ではしきたりは、新しく作り出すものでもあるということを指摘しています。私たちは何世代にもわたって今の世界を作り上げてきたわけで、今ある社会は前からあったわけではありません。


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2011-09-22 11:07

2011年8月31日 19:04 下道 基行 */?>



[ bridge ]


2011.3.16 - 8.12






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「橋のようなもの」


ある旅先で、道端の用水路に置かれた”板”が、道と生活とを繋ぐ小さな”橋”である事に気がついた。そう言えば、そこらじゅう”橋”だらけだった。これらを”橋”と呼べるのか?建造物?道具?インフラ?…
ただ、隔たりを越えるために架けられたモノたちで、たぶん生活/風景の必要最小単位の名も無い物体であり行為のひとつではないかと思う。([bridge]は動詞で“架ける“を意味する。)

風景はとても速いスピードで変化し続けている。身の回りにモノは溢れてる。建造物は巨大化する。情報や物流はスピードを加速させる。それらを拒否する事はほぼできない。使い込まれた道具を愛おしく見つめるように、この世界を眺めることはできるのだろうか?
写真家はあまりモノを産み出さない。この世界を正面から受け止め、愛おしく切なく時に痛い視点/まなざしを産み出すのではないか。「これは○○である」とパッケージ化/カテゴリー化/モニュメント化されていない、物体や関係性を視覚化するための小さなスイッチをそっとオンにする。見えない風景だから。

今回、展覧会期中に、いろいろな用事で移動/旅しようと思っている。それらの土地の先々から、ここのギャラリー宛に、”今どこかに存在している風景”を送り続ける。そして、時系列に一列に繋がっていく。

下道基行


"something like a bridge"

One day, I found something like bridge. Is this tool? structure? infrastructure? maybe this is connection.
Scenery is made up of nature and people's lives, like layers on top of one another. Cities keep changing, consuming goods and information at an extremely fast rate. In this context, photographers may not be the most creative existences. They simply feel joy in turning their gaze on the scenery which sprawls before their eyes. Photographers receive this world/reality head-on and hence beget beautiful, wistful, and sometimes painful views of the world. Photographers turn on the small switch to visualize physical objects and connections which have not yet been neatly packaged, categorized, or monumentalized.

Shitamichi Motoyuki


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The massive earthquake hit eastern Japan, where a couple of hundreds far from the artist’s residence in Tokyo, in March 11th, 2011. Powerful tsunami deprived many fishing ports, towns, and people’s everyday lives, and a great number of people perished. Roads and railways to Tokyo were cut off, and plenty of tragic scenes and confused information were running on TV and Internet, everyday. The artist’s exhibition was cut short, and as an artist who used photography for his medium, he struggled if he should have taken the images of disaster. On March 16th, he started taking photos of “something like a bridge” over ditches. He purchased a small motorcycle and started his journey that took over 1200 miles in the end. It was a search for “something like a bridge.” It was in everywhere but too close to notice in daily life. He stopped by the stricken areas, but instead of taking landscapes to judge the areas, he focused on own foot. It can be anywhere and everywhere. In his images, we do not see direct messages for the disaster or a criticism of nuclear power, but find “a life/ the minimum unit on a nameless object in a landscape.”






exhibition [ bridge ]
αM Gallery 2011.Jul

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(photo by Ken Kato)

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●風に吹かれて

高橋瑞木(水戸芸術館学芸員)

本来なら、今回は第6回目のRe-Fortを元にした展覧会が開催されるはずだった。Re-Fortとは、下道が2004年より断続的に開催している、美術家や建築家など複数の参加者とともに、砲台跡や掩体壕といった戦争遺跡を再利用してイベントを行うアートプロジェクトのことだ。重い歴史を背負いながらも日常の風景に埋もれてしまっている戦争遺跡でイベントを発生させることで、戦争の記憶に対する私たちのリアリティを浮き上がらせ、問いを投げかける。そんなプロジェクトであり、作品だった。
冒頭に「はずだった」と書いたのは他でもない、3月11日に おこった地震と津波、そして原発事故によって、Re-Fort6の実現が頓挫してしまったからである。下道は今年の3月にαMで過去5回のRe-Fortの記録を紹介しながら6回目の参加者を募り、今回の展示に向けて6月にこのプロジェクトを実施する予定だった。プロジェクト中止には時間や物理的な理由が当然関係しているが、下道の心境の変化がやはり一番の要因だ。見知らぬ土地で大勢を集めて行うアートプロジェクトは、今彼がやることではなかった。
おそらく、今回の震災や原発事故を境に無数の「はずだったこと」が生まれた。では、喪失の誕生からひとは何を創造することができるのだろうか?

本展の会期中、下道は地震の後に購入した小さなバイクで日本国内を旅し、そこで出会った風景をギャラリーに置いてあるプリンターに随時送信する。プリンターから出力される風景は、下道からの投瓶通信であり、3月11日以前と以後、自分と世界の間を少しずつ繋げていこうとするアクションだ。まず、自分ひとりでできることからはじめる。速度を落としながら、移動する。そして、ていねいに自分の周囲を見回してみる。風はどちらの方角から吹いてくるだろうか?明日は雨だろうか?そんなささやかすぎる問いすら、少し意味が違って聞こえる日々の中で。


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Blown away


It was supposed to be the 6th exhibition based on Re-Fort project. Re-Fort is an art project that Shitamich has been working on intermittently since 2004. In the project, he and other participants, such as artists and architects, “reuse” war-remains of gun batteries and bunkers. Those war-remains had been buried under our everyday lives even the fact of tragedy those burdened. This project unburies the remains and evokes the reality of our memories regarding the war.
I said, “supposed to” in the beginning. It was because Re-Fort 6 was held up due to the earthquake and Tsunami occurred on March 11th and following accidents on nuclear plants.
Shitamichi was supposed to exhibit last five projects atαM in March, and would raise participants for the 6th project and implement the project in June. Timing and physical matters were parts of factor to suspense the project, but the biggest reason was Shitamichi’s change of his state of mind. The art project, which collects many people in an unknown town, was not a thing he would do at the time.
Probably, a lot of “supposed to” occurred since the day of the tragedy. Then, what can human beings create from the birth of the loss?
During the exhibition, Shitamichi will travel around japan with his small motorbycicle he purchased after the earthquake. Images of landscapes that he finds during the trip will be constantly printed out through a printer set in a gallery. Those prints will be sent from Shitamichi and it will be a one-way communication as known “message in a bottle.” This is an action to connect before and after the earthquake and oneself and the world little by lillte. First, do whatever you can. Slow down a little, and move. Then, carefully take a look around yourself. From which direction is a wind blowing? Will it rain, tomorrow? These questions may not mean anything, but can be sound differently if you listen carefully.


Mizuki Takahashi (a curator of Mito Art Center)




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exhibition [ bridge ]

Aomori Contemporary Art Center
2012.Feb




shitamichi10.jpg

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(photo by Shitamichi Motoyuki)





制作年/2011.3.16 - 8.12
制作場所/本州、北海道
材料/紙、HONDA CT110、canon 5d mark2、インクジェットプリント
点数/286 枚
発表/αM gallery, 国際芸術センター青森、

year/2011.3.16 - 8.12
place/Honsyu, Hokkaido
stuff/286 photos, papers, HONDA CT110、canon 5d mark2、inkjet print
exhibition/αM gallery、Aomori Contemporary Art Centre


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『bridge』


photograph+text: Moyoyuki Shitamichi
edit: Moyoyuki Shitamichi
design:Maruyama Masataka
length: 6300cm
publishing company: michi laboratory+circle-d
Publication year: 2015
edition: 5 (1/5 2/5 3/5 4/5 5/5)

写真/文章/編集:下道基行
装丁:丸山晶崇
発行:michi laboratory+circle-d
発行日:2015年
長さ:6300cm
製本:手製本蛇腹 箱入り
価格: ¥200000+税  (4/5,5/5はステップアップで販売)
部数:5部 (1/5 2/5 3/5 4/5 5/5)


"something like a bridge"
One day, I found something like bridge. Is this tool? structure? infrastructure? maybe this is connection.
Scenery is made up of nature and people's lives, like layers on top of one another. Cities keep changing, consuming goods and information at an extremely fast rate. In this context, photographers may not be the most creative existences. They simply feel joy in turning their gaze on the scenery which sprawls before their eyes. Photographers receive this world/reality head-on and hence beget beautiful, wistful, and sometimes painful views of the world. Photographers turn on the small switch to visualize physical objects and connections which have not yet been neatly packaged, categorized, or monumentalized.
Shitamichi Motoyuki

「橋のようなもの」
ある旅先で、道端の用水路に置かれた”板”が、道と生活とを繋ぐ小さな”橋”である事に気がついた。そう言えば、そこらじゅう”橋”だらけだった。これらを”橋”と呼べるのか?建造物?道具?インフラ?…
ただ、隔たりを越えるために架けられたモノたちで、たぶん生活/風景の必要最小単位の名も無い物体であり行為のひとつではないかと思う。([bridge]は動詞で“架ける“を意味する。)
風景はとても速いスピードで変化し続けている。身の回りにモノは溢れてる。建造物は巨大化する。情報や物流はスピードを加速させる。それらを拒否する事はほぼできない。使い込まれた道具を愛おしく見つめるように、この世界を眺めることはできるのだろうか?
写真家はあまりモノを産み出さない。この世界を正面から受け止め、愛おしく切なく時に痛い視点/まなざしを産み出すのではないか。「これは○○である」とパッケージ化/カテゴリー化/モニュメント化されていない、物体や関係性を視覚化するための小さなスイッチをそっとオンにする。
下道基行

bridge-2.jpg bridge-4cw.jpg bridge-1.jpg

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山口を出て、10時間、走りっぱなし、夜になった。
兵庫県加古川。
プレッシャーとストレスと問題を積んだまま、考えっぱなし。
HONDAのCT110は、バッテリーが6Vだから、ヘッドライトが薄暗い。
前を走るワゴンのナンバーがやけにぞろ目が多い。治安が悪いのかと考える。
突然、バイクはブルンルッ…と遺言。動かなくなる。キックしてもウンスン。足が痛い。
初めての街で途方に暮れる。
バイクを押しながら彷徨う。
閉店後のバイク屋にバイクを残し、終電で宝塚の実家まで帰る。
バイク修理、修理代、また兵庫まで行くこと…、またいろいろと問題が増えた。

昨晩、青森で服部くんとトークを行った。
コレは、3月αM Galleryで行う予定だった[Re-Fort PROJECT]トーク。震災で中止になったもの、
リベンジ企画/中崎的にいうとパラレル企画。
ハッピーなトークではないのは分かっていたし、少し覚悟を持って行う。
1ヶ月近い旅の時間の中で、まとまりはじめていて、話せる時というか、向き合える時は、きているのかもしれない。
ちなみに、コレまで、[Re-Fort PROJECT5]DVDは、秋田、東京、岡山、山口で上映を行い、見にきてくれた人と会話を行ってきた。実は覚悟のいる作業だったりする。

[Re-Fort Project]は、軍事目的に作られ捨てられた日本全国に残る廃墟化した建造物を一時期のみ再利用し、イベントを行う。この行為は、僕が写真集『戦争のかたち』を作るために全国の軍事遺構の状態を探してまわるにあたって疑問に思ったことがきっかけとなっている。写真では伝わらないことや、場所性、記録ではないもの、発見する/出会うこと、保存か共存か、記憶をどのように残していくか、モニュメント化アンモニュメント化、などをテーマに実験的に行ってきた。
戦後、機能を完全に失った建造物に新しい機能を与える、そしてそこに実際に行く為の動線/きっかけを作る。

ただ、このプロジェクト、元砲台で缶けりをしたり、花見をしたり、不法占拠してパーティーを行ったりと、”戦争”という言葉に対して、コントラストの強い(ただ現代の日常的には当たり前ではある)行為/利用を行っているため、嫌悪感を持つ方もいる。

今回、[Re-Fort Project 5]の3月に行うはずだったが中止になったトークイベントをもう一度、震災後として踏まえた上で話せる機会が行えたことは良かった。やはり”戦争遺跡で不謹慎”という向きのコメントも出てきた。ただただ来てくれた人が「面白いトークと映像だった」という感想だけでは終わらなくて、それぞれが疑問を手にするような、着地点の美しくないトークイベントになったことは本当に良かったと思うし、そうでなくれば、ウソになるし、その曖昧なものを曖昧なままでテーブルの上に出しコミュニケーションしていくことにとても大きな意味はあるはず。
触れなくても生きていけるし、無視できる所を触れようとしているのだから、いろんな意見は出るはずだ。
僕の産み出すものも、その揺れている部分そのもので、モニュメント化されない/twitterのような短い言葉で格言するようなものではない/上手く言い表せない/そんなもの何だと思う。
分かり易いものも作りたいし、ひっくり返してニンマリお客の反応を見ていたいし、どうだ!とかいたいけど、そんな作品ではないのかもしれない。

現実はこんがらがっていて、その糸を解く為に奮闘する人もいれば、僕みたいにこんがらがった状況をそのままの形で視覚化する人もいる。
というか、こういう人がいてもいいはずじゃないか。
短い格言的な言葉の持つ強さは弱いものだし危険じゃないか。
分かった気持ちなんかになりたくない。
でも全部分かる事なんてできない。
なんじゃないか。

勘違い/読み違い/誤解を恐れず話すと、

少し被災地に行ったからって、何も語れないのは行ってみてよく分った。
津波で多くのものを失ってしまったマチを見て、僕はたぶん、風景の中に存在している人の生活や営みを発見するのが好きなのだと思った。
仙台から八戸まで海岸を下道で走った。そのなかで撮った写真は2枚のみだった(内陸での日常や[bridge]は除く)。一枚はバス停に置かれた椅子、一枚は小さな用水路の橋のようなもの。
自分が写真機で記録しないといけない風景なのか?今まで自分は写真機を持って何と向き合おうとしてきているのか?肉眼レフ(中平卓馬語録)でいいのではないか?自分自身に刻み込めばいいのではないか?…、いろんな事を考える。


これもこういうと勘違いされてしまうかもしれないけど、
”生”と”死”はテーマのひとつだと思う。”生”と”死”(”残るもの”と”消えるもの”)が隣り合わせで存在する事をなるべく意識しながら、そのなかで”生”をとらえたいと思っているのだと思う。ただ、こういう事をしうと”死”に引っ張られたコメントばかりになりそうだ。”死”は基本見えなくて恐いものであって触れたくないものだからかもしれない。ただ、僕自身、今生きているし死を意識しないと生きる意味は生まれないのかもしれない。
”戦争”という言葉も。ただただ”死”を連想するものかもしれない。ただ、『戦争のかたち』という作品でもやっぱり僕は”生”にフォーカスしたいんだと思う。おじいちゃんから聞く言葉は”生”を感じたし、目の前にはカラーの今の風景があった。”死”や”失った記憶”と隣り合う、”生”や”営み”を写したいのか。まだ言葉にならないな。

話は少しかわるが、
考現学を見つけた今和次郎は、元々民俗学をしていたが、大正時代の関東大震災の直後の、多くのものを失った土地に生まれ始めた”バラック”を見つけた。廃材を集めて立てられた家。人びとの営み。それを写真やスケッチに残した。
僕の今開催している展示は、この今和次郎の同一線上のあるのではないかと考える。小さな手作りの橋のようなもの[bridge]を撮影しながら、日本を旅している。小さな小川や用水路を渡る/隔たりをこえる為の橋のようなもの。どこにでもあるもの。
ただ今回、津波で多くのものを失ってしまったマチには、”バラック”という形はほぼ存在しなかった(見方によってはバラック的補修された家はあるものや山の方に仮設住宅はあった)。目に映るものは、重機で集められた4階建てのマンションくらいの瓦礫の山。家の粉々になったものや廃車の山。

東北の多くのものを失ってしまった巨大な風景を目の当たりにして、もちろん人の営みはあるのだけれども、初めて体験するにカメラを取り出す事すらできずにバイクで走り抜けて行く事しか出来ない。(もちろん立ち止まったりはするし、ただただ走り抜けている訳ではないと思う。)

ただ、”その現場に立った/実際にその風景を出会った人”と”そうでない人”は考える能力に差が生まれると思った。
ただ、その現場に立った人の言葉の持つ正論力を、その現場に立たない/立てない/立ちたくない人へ向ける必要はない。
暴力的な正義がそこらじゅうで拡散する。

3月11日、東京にいて地震を感じて、地下鉄に閉じ込められて、展示が中止になり、そこから数百キロ先で起こっている信じられない状況にテレビやネットから流れてくる情報で向き合う事しかできない。偏ったいるだろう現状報告や情報に惑わされる自分。
そのあとは、数ヶ月でやってくる速すぎる日常への逆戻り。

あそこはどうなっているんだろう?
なんかとんでもないことが起こっていたよね?
あれはなんだったんだろう?

僕自身は、そこに立ち、考え、話せる範囲/違う形としても、表現していくべきだとおもう。
みんな違う風に世界が見えている。そして、その違いの中で、自分なりにこの世界と向き合いたい。

つか正直、金欠の現実と向き合っている。

以上。

今日は、建築家の蟻塚学さんとACACでトークです。
今、客入りのラウンジで猛スピードで書きました。
隣の大学では、くまだまさし(吉本芸人)がお笑いライブをやっています。
くまだまさしに客を取られないか心配です。
調べてみると、お笑いライブではなく、ワークショップをしているらしい。なるほど。。


2011-07-31 12:22

RE FORT PROJECT 5について (2つの日記)

2011年4月 2日 21:00 下道 基行 */?>

『jataniさんのコメントに対して自分なりに書いてみる』

” @jatani  花火のDVDをみたよ、花火はたしかに打ち上がったけど、そこにいた私たちはまるで人のコマで花火しかうつってないように感じた。あそこにいたみんなはどう感じたのか知りたい。あの日の何を編集したの?どこまでがRe:Fort5?”

あそこにいた人はこの映像をどのように感じるだろうか。
自分だけの時間じゃなくて、あの時間に他の人が何を見ていたかをこのような形としてみてみて。編集された形として。おそろしいけど、僕ももう一度聞いてみたいと思う。

よし
自分の思っていることを書きたい。
直接、jataniさんへの答えになっていないかもしれないけど。。
何を編集したかったかについて。
(僕は、実際のところ、いまだにすべてを明確に判断できていない。)


まず、Re-Fort Projectは、放置された建物や歴史を、少しの時間/期間だけ、新しい機能を上に載せ転用/可視化して、また元の何もなかった状態に戻す。それが中心にある。

How to use?
How to know?
(「戦争のかたち」の後半は「戦争のかたちの使い方」というコーナーになっている)
かな。


ただ、RE FORT PROJECT 5では、

日食で空を見上げた時。
花火を打ち上げた時。
花火の音を体で感じた時。
花火が見えた瞬間。
花火を撮った瞬間。
ヘリコプターが近づいてきた時。

僕はひとつの高揚感いや緊張感のようなモノを感じていた。
それは映像に映し出されている/しまっている。


花火のドン!という音。
花火や日食が一瞬であることの緊張感。
写真/ビデオでそれを狙うと言う事。
ヘリコプターが近づくパタパタという音、そこに仲間が乗っているということ。


砲台や戦争とリンクさせる為に仕掛けたであろうトラップ/落とし穴に、自分自身が落ち/巻き込まれていった。そして言葉にできない大きな違和感が残った…。


僕自身は、このRE FORT PROJECT 5(Re-Fort Project自体)を、人を感動させる為に作ろうとはしていないのだと思う。(いろんな意味で心を動かしたいとは思っているが。)

たとえば、写真本「戦争のかたち」内の韓国へ行った日記もそうだけど、旅先で日韓問題に巻き込まれていく自分たちをそのままの形で見たいと思った。
もちろん、編集されたものは事実ではないが、自分が巻き込まれている事をどれだけ描けるかだと思っている。そのことは大切な部分のひとつだと思うし、そこで出来上がってきたものはさらに自分に問いかけてくる気がしている。

実際、RE FORT PROJECT 5は、「海峡のこっちとあっちでのろしを上げてコミュニケーションを取りたい」という自分の発想があって、現場へ行った時に、花火をあげることになった。その後、5人のメンバーになり話し合いを重ねる中で、ただ花火を上げるのではなく、前日も遠足を行おうとか、日食の昼間にしようとか、展示にする為に見にきた人達にビデオを持って撮影してもらおう、などという構想になっていった。

Re-Fort Projectの作品は今まで、その現場のみでイベント/ライブでしかなかったから、空間やDVDを想定しての映像作品としての編集/再構成ははじめてで、たぶんこういうライブを展示にしようとすると、事実とは違う違和感が生まれてくるきがする。

じゃあ
限りなくシンプルにするか、
混沌としたまま出すか、
それを補う為にいろいろな意見をインタビュー形式で入れてバランスをとるか。
どうなんだろう。

ただ、
表現は再現ではない。と思う。
最近たまにインタビューを受けるんだけど、インタビューアーによって拾う言葉が違うなぁと感じる。気持ちのいいことばかり書く人もいれば、「この人は僕をこんな風な人間として書きたいかぁ」を感じる事もよくある。僕は、それに違和感を感じることもあるんだけど、そんなとき、基本書き直したりはあまりしない。なぜなら、彼はそのように僕を見ようとしているわけだし、インタビュー自体表現なわけだし、人によって見える風景は別だと思う。


この作品についてもっと人に聞いてみたいと思う。

あと、12日にもαMで「Re-Fort 5について」のトークを行うので、話したいし聞いてみたいと思う。
今、展示では、11台のカメラをひとつずつすべてほぼカット無しで流し続けています。
このDVDになっている映像は、一つ一つ一人ずつの映像は細切れに編集されています。
たぶん意味合いや見え方聞こえ方はかなり違うと思う。


jataniさん、いつも投げかけてくれてありがとう。
作家は出来上がってしまったものと、向き合う期間が長い。これも既に二年経過してるんだけど、普通に引きずっています。だから、みんなに分り易い説明が欲しくなったり、たまに逃げたくなったりするもけど、いつも違和感が何なのかをいつも問うていかなきゃいけないし、きれいに答えられるものでもないし、さらされなきゃいけないし。こんな空気の読めない能天気な自分が作品を発表していっていいのかと不安にもじばじばです。
とにかく、もう一度、トークでも話してまた書きます。

朝だー

下道

2011-03-09 06:55


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『Re-Fort PROJECT について書きます』


どのように話していいのか。
自分が話せる事は、自分の中にある話だったり、
Re-Fort Projectを始めた経緯だったり、考えだったり…だと思うので、
誤解を恐れずに書きます。

ただ、このRe-Fort Projectは、「これはこういう意味なんだ」と明確なメッセージを誰かに伝える為のものではないと考えています。いろいろな人が違う意見をもったり感じたりしていいとも思っているから、揚げ足の取り合いではなくて、意見は丁寧に受け止めたい。あと、ただ、jataniさんのようなその時感じた事や彼女自身が考えた意見ではなくて、”馬鹿騒ぎ”や言葉や妄想だけが一人歩きしてほしくなはいとも思っています。
あと、僕自身ができた人じゃないことも、話す言葉も文章がいろんな誤解を生むことも、知っていて書きます。

これは、プロジェクトに関わった人達の総意ではなく、
このプロジェクトをはじめ、続けてきた僕の意見ですので。

【”きっかけ”について】

2005年写真集「戦争のかたち」を発表した。
2003年くらいから、その前身でもある写真連載「戦争のかたち」を旅系カルチャー紙「Spectator」で連載させてもらった。(それはメディアに写真がでて、展示とは違う人びとへの浸透の仕方だった。あと、自分で文章を書くということで、戸惑いながらも、沢山の経験をさせたもらった。)

元々、僕は絵を描いていたんだけど、真っ白のキャンバスの上に自分から何か新しく生み出すのではなくて、”既にそこにあるもの”を観察するスタイルに変化していって、それが戦争の遺構/遺構の残された風景との出会いによって、旅をしながらカメラで写すというスタイルで作品化/視覚化していくことになった。新しいアクションではなく、観察と編集。
じゃあ、僕は何を表現したかったのか、これらの戦争の遺構を対峙しながら考えていったから、それは今だから言えることも多い。一つとして戦争を後世に伝えたいという使命感とかではないとおもう。

(あともういちど書くと、これは本当に誤解され易い言い方かもしれないけど、)

例えるなら、アメリカの動物学者だったモースが、明治時代に電車の窓から見える斜面に貝殻の集積を見つけて、そこを掘り返してそこに人が暮らしていた痕跡(貝塚)を見つけたみたく、僕は東京の郊外で昭和初期に作られた軍事施設の跡を見つけた。それは知らなかった時代/世界と出会ってしまった。
もう少しくわしくいうと、その軍事施設跡は近くに二つあった。ひとつは柵で囲まれた”戦争遺跡”(と名前/意味の付いたもの)、もう一つは廃墟のまま建っていて、これをどのように残すか/使うかを市民の方が検討していたんだけど、数ヶ月後に跡形もなく壊されてコンビにと駐車場になっていた。
この公園内に残された”戦争遺跡”と壊されていった”廃墟”とでは、なんというか全く違うリアリティを持っていて、目の前にその存在感を感じたのは、”廃墟”とそれを取り巻く風景、そしてそれが失っていく変化だった。(それは壊された跡も含めて)

そして、旅をするようになって、日本全国に残るこれらの遺構や風景を見ていくと、
その機能を失って、転用されていて、風景と妙な馴染み方をしていて、忘れられていることに、自分なりのリアリティを感じるようになった。立て看板を立ててモニュメント化した遺構への興味はどんどんとなくなっていった。逆に”壊される前に撮影しよう”とともに”モニュメント化される前に撮影しよう”とも思うようになった。
たぶん、モニュメント化する理由も意味も分るし、肯定的ではある。ただ、自分はモニュメント化によって、終わってしまう/停止してしまうモノ/コトについて、もっと考えていかないといけないのではないかと思うようになった。それは、戦争のかたちの後半「戦争のかたちの使い方」とその後スタートする「Re-Fort Project」、さらには「Re-Fort Project」と同時期に始めたもっとプライベートな作品「日曜画家」になっていった。
祖父の絵の行方を追っていく「日曜画家」シリーズは、戦争という大きな歴史との対峙ではなく、自分なりの風景や遺構に対する同じ興味を別の形で作りたかった。(もちろん「戦争のかたち」も歴史を大きな物語としてではなく、僕自身が出会った今目の前で起こっている現実として表現を目指したもの)

How to remain? How to use? How to know?
どう使うか?どう残すか?どう知るか?

あまり話していないし、発表していないんだけど、
この時期、ヨーロッパに軍事遺構の現状を見に一人で旅行した。
その時、こういった建物は、水族館になったり、クラブやオフィスや家として普通に使われながら、その建物の一部に歴史についての紹介も書かれていたりした。逆に、とても強いモニュメント(戦勝記念館的なもの)になっているものもあった。
歴史は変化していく、ただ、日本ではこれらの建物をどのように扱っていいのか、それはまだまだジレンマのなかにあったりする。
そして、遺構の権利の関係にも興味があった。なぜなら、戦後、軍から土地が地元に返還された時、その土地の上に多くの軍事施設の跡は放置されたままだった。(例えば飛行場だった場所には、戦後も飛行機の格納庫の跡が残されていた)それらは、地元の人にとっては、壊すのにもお金のかかる国(軍)が勝手に残して行った、どうしていいか不明の存在でしかなかった。つまり、建物の管理はグレーゾーン/曖昧なまま存在し続けていた。人びとがそれらを日常の中で使っていくことやその風景は、何かしっくり来る気がしている。
これが、「Re-Fort Project」をはじめるきっかけ。


【言葉によるモニュメント化】

これらの遺構は、近年、”戦争遺跡”という名前が付けられ、ある意味言葉で柵に囲まれてきている。これらの遺構には、明治の遺構も昭和の遺構もいれられているけど。
”戦争”とはいつのことか?
イメージはあっても、この言葉を日本の歴史に当てはめて使う場合、違和感が生じる。

Re-FortのFortとは要塞や砲台を意味する。砲台や要塞の作りは、古い時代の城などの流れを汲んでいるし、東京のお台場はそういった古い時代の城でもあり砲台でもある。
明治時代の砲台は、”戦争遺跡””負の遺産”と呼ばれるものもあれば、最近ドラマになった『坂の上の雲』の時代の遺構でもあって、”近代化遺産”という言葉でも語られる。これは、このころの日本は近代化を目指して…、といういいイメージの言葉でもある。
Re-Fort 5で花火を上げた山は古城山、昔の門司城あとでもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/門司城
あと、この場所は戦国時代15世紀には戦闘はあったが、近代要塞としてこの砲台自体の実戦はなかった。(幕末にはここの別の砲台での戦闘はあった)
ただ、日本で”戦争”という言葉は、太平洋戦争(大東亜戦争/先の大戦)の末期のイメージがすべてになっているのではないか。

ちなみに、下関の町の海岸のみもすそ公園には砲台のレプリカが設置されていて、みんなが記念撮影するスポットになっていて、100円を入れると、驚かない程度に「ドン!」と機会音がなる。この場所が幕末に実際に戦闘があった砲台をイメージして作られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みもすそ川公園

では、Re-Fort Project 5で、砲台から花火を上げた事、さらに、前日に実際に砲台をみにいく遠足をしたり、クイズ(内容は砲台の距離や土地の歴史について)を行ったり、明るい雰囲気でそれらを行って、ユースホステルに泊まって、ビールを飲んだり…。これらの土地の歴史は実際に勉強として、まじめな姿勢でのみ、行わなければいけないのだろうか。勉強会、歴史散歩として、砲台の歴史を勉強する企画し、それで人びとを集めないと、土地の歴史に触れる事は出来ないのだろうか。
もちろん、”戦争”という言葉に対して、とてもデリケートに扱って行かなければいけないのは分っているけど、「砲台で花見」や「砲台で花火」というイベントがただ”馬鹿騒ぎ”として扱われて、”不謹慎”として終わっていいのだろうか。
かつての砲台としての機能はなく、記憶が薄れて行く中、今の方法で砲台があった事を少しだけ視覚化したり、知るきっかけをつくることは”不謹慎”なのだろうか。
第2回目は砲台跡で花見やカラオケを行った。砲台の上はステージになった。では城跡で花見をするのは?


【どのように触れるか】

今、テレビで流れている地震の映像を横にしている。
僕や一人の人間が語れたり、想像できることは、たかがしれているし、話してはいけないこともある。逆に集団の中で、知らない間に巻き込まれていくこともある。
ただ、終わってしまった事を、ある一定の曖昧な共感/共有の中に置いてしまっていいのだろうか。Re-Fortも自分もその恐れはいつもある。失敗を露呈もしている。
知らずに行う/行ってしまうのは簡単だけど、知った上であえて行うのは本当に難しいと思う。なぜなら、どこまで知っても知りすぎるこということはないし、いろいろな方向からの意見はあるから。

とにかく、うーーん、今は。。。

とりあえず、
戦争に無関係の建物や風景へのアプローチもやりたい。風景のレイヤーの一つが戦争という時代/1945年だったけど、そうじゃないレイヤーも使ってみたい。
僕の最近の作業の「見えない風景」や「Sunday Creators」はそういう繋がりから生まれてきているし、いい作品なんだけど、インパクトは強くないし、地域系アートの風景/記憶系を跳ね返すだけのヌケはまだないかもだけど。

また、書ける事が見つかったら書きます。
長々と読んでくれてありがとう。
この日記は、非公開にしたまま、何度も何度も書き直しました。なので、3/13の日記ですが、4/2にアップします。


あと、このブロブの下のコメント欄は、自由に書いてください。Re-Fort Projectのコミュニケーションの記録の場になればとも思っています。(あまりに非常識なコメントは削除する場合もありますが)


では


下道基行

2011-03-13 15:01

Sunday Creators

2011年3月30日 20:45 下道 基行 */?>

お元気ですか?

大阪での企画展「絶滅危惧風景」無事/大好評にて終了しました。
皆さんありがとうございました。
僕は『Sunday Creators』と題して、西成/新世界で趣味で色々と創作している人びとを探し展示を行いました。これは、自分の祖父の絵を追ったシリーズ『Sunday Painter/日曜画家』を、プライベートではなく街という空間に置き換えたプロジェクトでしたが、本当に大阪のおじさんやおばさんのパワフルさに助けられました。
以下は、展示でハンドアウト用に書いた文章/エッセイです。
見てない方は是非。

昨日今日は、部屋の大片付け。散らかった資料やチラシやノートやメモをファイルにとじる。あぁ、やはり自分はファイリングが好きなんだと思う。二日目。。
あと、少し落ち込んでたから、去年今年とやってきた自分をメモやチラシやらで再確認して、過去の自分に負けてられんなと思ったりもするわけです。ビバファイリング。

では、文章をどうぞ↓

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●秋葉さん(98歳/男性)

 昼間っからアルコールの匂いをぷんぷんさせたおっちゃんを交わしながら、動物園前商店街を元赤線“飛田”方向に進んでいく。路上や垣根に泥酔のおっちゃんが倒れている光景や、通りすがりに意味不明の言葉を投げかけられたりするここのカオスっぷりにも、リサーチ数ヶ月で慣れてしまった。
入り組んだ小さな商店街の通りのひとつに秋葉さんちはある。木造二階建ての通りに面して掲げられた看板には薄らと『玉突き』という文字が見える。少しあけられた家のドアの中をのぞく。いつもの定位置で、秋葉さんはTVを爆音にしたままウトウトしている。98歳。
なかに入ると、今日書いたという8文字熟語(?)を見せてくれる。「萬感追憶 故郷之夢」「秋之食欲 大試食会」「岡山桃太 郎黍団子」…。日々目にしたり思いついたありとあらゆる言葉を8文字でチラシの裏に墨で書いている。

元ビリヤード場だった飴色になった板張りの床や家具。壁にはかつてきゅーを並べた棚もそのまま残っているが生活で覆い隠されている。
かつて、この街は労働者に溢れ、そして彼らの歓楽街として栄えた。この街自体は、その頃の活気をうっすらと残している。
「今度階段からおちたら、お父さん、ホンマおしまいやからねぇ」
と娘さんが言う。秋葉さんは数年前階段から落ちた。それ以来ビリヤード台の置かれていた一階フロアには、巨大なベッドが置かれるようになった。秋葉さんは、完全復活を遂げて、周囲を驚かせた。ベッドの周りや部屋の至る所に、アキバさんが書いた俳句や日記や絵が積み重なって山の様になっている。
秋葉さんに出会えたことは、この展示「Sunday Creators」の大きな転機となった。過ぎていく小さな日々の営みの蓄積やコラージュ、そして老いていくこと含め、秋葉さんのこの部屋はこの街そのもののようだと感じた。
「俳句は、小学4年の時に、先生が教えてくれたんや。そうやなぁ〜、4文字熟語は、満州におる時には、やっとったからねぇ。書かない日もあるけど、だいたい毎日今でも書いとる。」
話はよく満州の時代の話になる。工作員をしていた頃の遠い世界の長〜い話。この街をリサーチしていて、ふらりと寄ってしまうと、2、3時間帰れなくなってしまう。ただ、なんというか、時々「きみらはこんなことも知らんのんか?」的な挑発もされるので、負けじと話し返すが、こちらがトークのペースを握れたためしはない。というか、耳が遠いこともあって聞き返しても半分くらいはスルーされる。しゃべりや知識において、30歳程度の僕とスタッフ数人集まっても、98歳では歯が立たない。
気がつくと夜になっている。帰ろうと腰を上げると、娘さんがこっそり近所のうどんの出前を取ってくれている。
「ここのうどんやさん美味しいのに、主人が不器用やからかなぁ、お客さんあんまり入っとらへんで…」と娘さん。きつねうどん絶品。元ビリヤード場でテーブルを囲む。そのテーブルにも長い物語がある。食べながらも話すので、時々秋葉さんの口の中からうどんがピョコッと飛び出す。


●高木さん (70歳/男性)

その時代に生まれていたわけではないので知らないが、”飛田新地”の夜は江戸時代のようだ。実際は大正時代の街並なのだが、遠い昔の日本らしさを感じる。夜は妖艶。元遊郭、元赤線、アムステルダムでいうとレッドライト地区。高木さんちは、そんな飛田新地のはずれのマンション。
「高木さーん、制作の調子はどうですかぁ?」と、高木さんの部屋に通う僕とプロジェクトスタッフは、いつの間にか原稿を取りにきた雑誌の編集者のようになっていた。高木さんは、いつものように、こたつに座り、黙々とスーパー玉出のチラシでこよりを作っている。伝統工芸の職人さんのような鮮やかな手つきだが、もちろん趣味だ。街では”元大工さん” と言われているが、”元建設業”が正しい。
「商店街に今はブルーシートがはってあるとこ、昔あそこにお寿司屋さんがあったんや。ほんで食べに行ったら、5円か50円で出来た五重塔が置いてあって、「お客さんが作って持ってきてくれたんや。」言うんです。気になって、五重塔をABCと模型屋に色々見に行ったんです。そしたらキットで5万円とか、結構高こうに売ってましたわ。昔から手を動かすんが好きやから、船とか、模型なんか作っては子どもや誰かにやるんです。お金に余裕があったら五重塔も作ろうかなぁと思いましたけど、そんな余裕ないでしょ。(笑)
雑誌の五重塔の写真や四天王寺に行った時に写真撮ったりして。一番最初は爪楊枝で作ろうとしとったけど、爪楊枝じゃ折れてしまうんです。次に2番街の「餃子の王将」に食べに行ったとき、「割り箸置いといてくれぇ」言うたら、「なにするんや」って聞かれたけど、「なんでもええから置いといて!」言うて、洗って置いといてもらったんで作ったんです。それはそんとき住んどった三洋荘にあげたなぁ。ことぶき食堂のとこにもあったでしょ。
普通のちらしやと厚すぎてダメなんです。薄いんは玉出とJoshin電気のちらし。だから溜めとくんや。玉出はいろただけでもう分るんです。玉出のちらし、色も模様も、きれいでしょ。
今度、通天閣もつくりましょうか。
ほら、ここの窓から、通天閣みえるでしょ。夜チカチカ光ってんのが見えてきれいでしょ。」
高木さんの作品との出会いは、デイケアセンターのバザーで販売されていたチラシの五重塔をそこの職員の方に見せてもらった時だった。リサーチの帰り道、商店街の食堂の硝子ケースの中に食品サンプルと並んでディスプレーされた高木さんの五重塔を、ひとりが発見したときの感動っぷりはすごかった。店員さんに聞くとやはり高木さんはここの常連だった。その後、街のあちこちで五重塔は発見された。
「なぜ、高木さんはモノをつくるのですか?」と、NHK『プロフェッショナル』の茂木さんのように、聞いてみた。すると、「暇やからねぇ〜」と軽やかに返事が返ってきた。
時々、この街のおじさんたちの”超当たり前の言葉”に、僕は心を強く打ち抜かれる。


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最後まで読んでくれてありがとう。
最近ゆっくり動き始めました。
やるぞーーーーー

なんだか、友人中崎もむくっと起き出したようです。
http://tohru51.exblog.jp/16100626/

2011-03-30 21:15

2010年12月24日 20:34 下道 基行 */?>



[ 見えない風景/Walk with your eyes ]


「見えない風景」は2010年に大阪で制作し、その後日本各地で行なっているワークショップ/遊び。
路上観察と散歩とスナップを混ぜたような、でも”カメラ”を使わない写真的体験。
言葉の地図を各参加者は制作し、最後にみんなで交換して散歩と、視覚の交換がそこで生まれてくる。






『見えない風景』の遊び方
2017(2010-)

How to play ”Walk with your eyes”
2017(2010-)

映像製作:studio ICE



ー山口/山口編ーYCAM 2014.8/130


ー大阪/野田編ー
国立国際美術館
2010.10/23 - 10/24


ー山形/芸工大編ー
東北芸工大学校内
2012.5/11 - 5/21
2013.5/24 - 6/3
2014.5/19 - 5/26
2015.


ー新潟/沼垂編ー
水と土の芸術祭2012
2012.9/22 - 23


ー広島/皆実編ー
広島市現代美術館
2013.2/16


ー愛知/岡崎編ー
あいちトリエンーレ2013
2013


ー山口/山口編ー
YCAM
2014.8/130


ー千葉/佐倉編ー
佐倉市美術館
2015.3/8


ー兵庫/芦屋編ー
芦屋市美術館
2015


ー愛知/名港編ー
港まちポットラックビル周辺
2016


ー神奈川/葉山編ー
神奈川県立近代美術館葉山館
2016


ー東京/清澄白河編ー
東京都現代美術館周辺
2017


ー香川/丸亀編ー
丸亀市猪熊弦一郎現代美術館周辺
2017


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見えない風景ー大阪/野田編ー
国立国際美術館
2010.10.23 - 10.24


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開催場所の国立国際美術館にやってきた参加者は、入り口で一枚の紙を手渡される。

”左手に竹の植木ピアノ教室→→→右手に小さな空地、奥の壁にオレンジの花→→→アニメのポスターが貼られたタバコ屋だった建物を左折→→→仲良しリス&キツネ→→→……”
それは、ある公園までの”言葉の地図”。
参加者は、美術館から外へ、大阪の福島区野田の下町の迷路の様な路地を”言葉の地図”片手に彷徨い、【目的地】と書かれた公園にたどり着く。どこにでもある様なその公園には、主催者の下道基行が既に待っている。

「こんにちは。私の”言葉の地図”はいかがでしたか?
今日は、みなさんに、この街で”言葉の地図”を作って頂きたいと思います。
みなさんの視点で街の些細なランドマークを見つけ、それを繋いで、あなたの”言葉の地図”を作ってください。」

人によって街の見え方は違うはずだ。街には無名のランドマークが溢れている。特にこの街は生活臭というか未消毒というかノイズがとにかくすごい。パワフルだ。

参加者は、各自散歩をしながら、明日には消えてなくなりそうな些細なランドマークを拾い集めて、”言葉の地図”が作っていく。さらに出来上がった地図を交換すると、他の人の視点の街を旅することができた。


発端は、大阪のある古いビルが壊されたという何気ない会話からはじまった。
写真を使わず、激しく変化する街の今日をスナップのように知覚する2日だけのプロジェクト。


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photo:SAEKI Shinryo
Design:Hashizume So

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水と土の芸術祭2012 2012.9/22 - 23

新潟では、新潟市立中央図書館がワークショップのスタート地点。 そこで、ワークショップのチラシのデザインから少し考えて、A4二つ折りに。 ワークショップ終了後には、参加者の作った言葉の地図や写真やアーカイブを、チラシを表紙にして製本、さらに中央図書館に収蔵してもらうことにしました。これでこのワークショップは保存されさらにこの本を借りれば図書館から体験することも可能に。
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↓ ↓ ↓

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中学生が書いた言葉の地図で散歩。

2010年10月 5日 12:46 下道 基行 */?>



[ Re-Fort PROJECT ]


2004 - ongoing


①reseaching fort remains that were abandoned after 1945.
②discussing new uses for the remains (considering new functions).
③actually using them with various people.
④returning the remains to their former state.




①戦後放置された砲台の廃墟を探す
②新しい使い方を話し合う(新しい機能の与え方)
③実際にいろいろな人と使ってみる
④元あった状況へ戻す


モニュメントにして公園にするのが過去を残し知る方法なのだろうか?
どのように過去と出会い触れて考えることができるか?
残されたモノたちを実際に見に行ってみる導線を作ってみたらどうだろうか?
過去(戦争という過去)の知り方/学び方が画一化/パッケージ化しているのではないか?
そんなコトを考えて、2004年このプロジェクトを始めた。
毎回いろいろな人とコラボしながら不定期で行なっているプロジェクト。


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[Re-Fort PROJECT 7]
海を眺める方法Ⅱ
How to look over the seaⅡ

2015.7.30
北海道トーチカ
Bunkers in Hokkaido

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Bunker→Camera obscura
トーチカ→カメラオブスクラ。
敵が上陸してくるかもしれなかった海を眺め続けるトーチカ。入り口を塞ぎ、銃眼にピンヒールをあける。トーチカの中には海の風景が反転して映し出され、それを真っ暗な中でスケッチした。


カメラ・オブスキュラ(camera obscura)

ラテン語で〈暗い部屋〉の意味。正しい読みは〈カメラ・オブスクラ〉。暗い部屋で,小さな穴を通して壁に外の景色が映し出されるという光学的原理はよく知られている。紀元前に中国の墨子やギリシアのアリストテレス(※1)によって知られていたといわれ,11世紀のイブン・アルハイサムの研究報告やレオナルド・ダ・ビンチの非公開のメモなどにも,その光学的考察の記述が見られる(※2)。はじめは字義どおり,暗い部屋の中で日食の観察や絵の下描きのために用いられたが,16世紀ころになるとピンホールの代りに凸レンズが装着され,17世紀に入ると現在のカメラの原型といえる暗箱型のカメラ・オブスキュラが完全な遠近法による絵を描くための“道具”として普及する。

『世界大百科事典 第2版』より


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[Re-Fort PROJECT 6]
海を眺める方法
How to look over the sea

2014.
竜飛崎海軍望楼跡/画家:多田友充
Tappisaki Navy Lookover/painter: Tomomitsu Tada
東京湾要塞劔崎砲台跡/画家:秋山幸
Tokyo Bay Fortress Tsurugizaki Fort/painter:Miyuki Akiyama

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明治時代にこの海の要所を敵の船から守る為に、見晴らしの良い小高い山の頂上には沢山の砲台が作られた。今では、金属製の砲台やコンクリート製の海軍望楼などは残されていなく、大地にただ残された円形の跡が残っているのみだ。今回はその跡の上から画家に海の絵を描いてもらう事にした。



その先の眺め


皆既日食で薄暗くなった白昼の空に花火を打ち上げ、その風景を眺め、響き渡る音に聴き入ったのは2009年の夏だった。花火は北九州市和布刈(めかり)公園の高台にある砲台跡地から打ち上げられ、我々は関門海峡を挟んだ下関側の戦争遺構跡がある火の山公園の展望台で、ビデオカメラを手にその様子を眺めていた。震災が起こる以前だったが、少し不吉な暗さをもつ空に美しい花火が散る様を眺めるのは、かつてあった、そしてこれからも世界のどこかで起こるかもしれない戦争について想いを巡らせ、日常生活が何らかの要因で突然途絶えてしまう可能性があることを意識するには充分な経験だった。下道基行を中心に僕も含め5人のメンバーが主催した《Re-Fort PROJECT 5─太陽が隠れるとき、僕らの花火が打ちあがる》の概要を書き出すとこんなところだろう。あれから既に5年が経過していた。

戦後放置された軍事施設の廃墟を探し出し、その新しい使い方を話し合い考え、そして実際になんらかの方法で使ってみて、また何事もなかったように元の状態に戻す、というのがRe-Fortの一連の流れだ。

日本の海岸線には、戦争のためにつくられた建築が役目を終え、姿を変えつつもまだ多数残存している。これらの建築の多くは実際に戦闘で使用されたことはほとんどなく、外敵の侵入を防ぐための監視の場、あるいは抑止力として機能していた。外敵を見張るために遠くまで眺められる必要がある軍事施設は、常に見晴らしのよい場所に設置された。この戦争建築がそもそも本質的に備える特性に着目したのが、《Re-Fort PROJECT 6─海を眺める方法》だ。兵士に替わって画家が、武器を絵筆に持ち替え、海を眺めその先にみえる風景を描く。絵画は風景を記録する方法として重要なメディアである。
この作品では、鋭い観察眼を持って風景を眺め独自に解釈して出力する専門家としての画家が風景を描く様子を、さらにその後ろから私たち鑑賞者が眺める構造となっている。兵士たちは海の先に存在するかもしれない外敵を必死に探していたのだろうか。あるいはその美しい風景にときに目を奪われていたのだろうか。眺めるための場所で、その当時とは異なった目的で異なった方法で眺めている画家の背後では、ほんの少しかつて様子を想像することができるかもしれない。遠くを眺めるための望遠鏡も戦争のために発展し利用されたのではと想像してみたり、女子中高生が着るセーラー服が元々水兵の服であったことが思い出されたりすると、意外と私たちの生活と遠くない地点に、戦争は常にあるということが見えてくるだろう。
戦争をきっかけに、眺めるという行為の本質的な可能性を問う本作を前にし、私たちはその先に如何なる未来を描出することができるだろうか。

服部浩之(キュレーター)




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[Re-Fort PROJECT 5]
-When Sun is hidden, we hold fireworks.-
ー太陽が隠れるとき、僕らの花火が打上る。ー

2009.7.22
下関要塞/Shimonoseki Fort

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There were fort on top of that mountain and abandoned after 1945. This fort, made in Meiji era, to prevent an enemy ship clearing the straits. Set off fireworks in the daytime on the day of solar eclipse from the circle fort remained on the top of the mountain. People who gather through an announcement watched the fireworks across from the straits.
関門海峡、明治時代にこの海の要所を敵の船から守る為に、見晴らしの良い小高い山の頂上には沢山の砲台が作られた。日食になった2009年7月22日、円形の台座だけを残す砲台の廃墟から、地元の花火師さんにお願いをして花火を打ち上げてもらった。告知で集まった観客たちは対岸やいろいろな場所からそれを眺めた。


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[Re-Fort PROJECT 4]
-大人たちのSeven days war-
-Our Seven days war-

2007.8.5-8.13
旧陸軍富津試験場跡/Futtu testing ground

Stayed at the ex-proving ground for cannons on the beach for one week. we worked with architects and musicians to made up the event.
千葉県の海岸に残る砲台の試験場跡で着弾を観測していた廃墟。若き建築家とともに、一週間で廃墟をリノベーションし生活をした。最後の土曜日にイベントを行なった。


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[Re-Fort PROJECT 3]
-東京湾要塞島缶けり大会-
- Kick the can on the fort island on Tokyo Bay-

2006.6.18
第二海堡/No,2 Fort / Chiba prefecture

東京湾にうかぶ人工の要塞島の廃墟。ここは釣り人の聖地だった。ただ地震が起きると沈む心配があり立ち入り禁止が決定した。僕らは釣り船に乗り、缶けりをしにこの島へ向かった。


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[Re-Fort PROJECT 2]
-竹橋フォークジャンボリー2005-
-Takebashi Folk Jamboree2005-

2005.4..11
千鳥ヶ淵高射砲台跡/Chidorigafuchi Anti-aircraft gun / Tokyo

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花見シーズンの北の丸公園の砲台跡をブルーシートで場所取り(スクワット)して、ヒッピー風仮装で集まった。砲台の台座は歌を歌う台にした。僕らは戦争もフォークも知らない。


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exhibition[六本木クロッシング2013]

森美術館 Mori Art Museum
2013


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exhibition[Re-Fort Archive]

αM Gallery
2011.Mar


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物語となった記憶

2010年10月 5日 12:05 下道 基行 */?>


 考古学者になりたかった下道少年は、カメラをもったアーティストになった。だが、感心を寄せる対象は少年時代とそれほど変わっていないとみえる。下道基行は、特有の歴史や記憶が有形無形に遺る場を訪れ、その場や物がたずさえる人々の記憶を取材し、写真に納め、ときにそれについて書くことを作品としている。題材は社会的なものから個人的なものまでと幅があるが、自分の足で歩き自らの五感で確認し、その場や物に留まる記憶に直にコンタクトする実地調査の手法は共通している。
 国内に遺る戦争遺跡や旧占領地に建てられた鳥居を追跡調査してつくった他の作品に比べると、私的な性質が際立つ本作《日曜画家/Sunday Painter》は、日曜画家だった祖父の遺した油彩を下道本人が訪ねつくった、写真とお手製の本からなるシリーズ作品だ。
 だが、不思議なことに、これらの写真は祖父の遺した絵を主題としながらも、必ずしもその肝心の絵に焦点があわされていない。絵はときに構図の中心から外され、ピントがあっていないものさえある。撮影者の視点は、祖父の絵というよりむしろ、絵の持ち主である人や、その人の営みがうかがえる部屋へ向けられている。下道が写真を通して本作でとらえているのは、つまり、絵そのものではなく、その周辺にあるものであり人であるといえる。
 一方、写真と対につくられた本は、下道が絵のもらい手たちから聴取した、祖父にまつわるさまざまな記憶に焦点をあてている。下道は、語られた記憶を話し手の口調やなまりをそのままに残し、口語体で文章化した。語り口調がいかされた文章の書き方は、取材した素材に忠実な記述であるという印象を読み手に与える。だが、私たちが目にするのは、語られた言葉のなかから下道が取捨選択したものにほかならない。記憶は編集されるとしばしば言われるように、事実のある部分は無意識的に誇張され、また別の部分は忘却される。本作で絵の持ち主が語った記憶もその例外ではないだろう。言い換えれば、この本は、「記憶」という名のもとに語られた脚色された事実を、下道がさらに編集して仕上げた、一種の「物語」なのである。
 人の主観によって知らず知らずのうちに変容する歴史や記憶。下道の視点の先にあるのは、有形の遺跡や遺品そのものではなく、潜在意識下で変形し、もとの形を失ってぼんやりとしている記憶ではないだろうか。下道が本作を通して行ったことのひとつは、過去から現在へと至る間にズレや歪みをうみ「かたち」の定まらなくなった記憶に改めて「かたち」を与えること、そして個々人のなかにかすかに残る逸話を引き出し、物語へと整えたことである。
 祖父の絵を追うという自ら定めたルールにそって、下道が人びとを訪ね、彼/彼女らの記憶を収集し編集した《日曜画家/Sunday Painter》は、「かたち」を与えられた記憶を通じて、どこか懐かしい身近な物語を見る者に伝える。すると、似たような想い出が鑑賞者の内奥からも呼び出され、それに付随する逸話が浮かび上がってきはしないだろうか。もしそうだとすれば、自らの「記憶」という名の「物語」に耳を傾けてみるのも一興だ。


竹久侑(水戸芸術館現代美術センター学芸員)


"Memories transformed into stories"

Shitamichi Motoyuki, who wanted to become an archeologist when he was young, has now become a camera-toting artist. The things that captured his interest as a boy, however, seem not to have changed much. Shitamichi visits places where trace of specific histories and memories remain, in forms that are both tangible and intangible. He interviews the people associated with a particular place or object, collecting information about their memories and recording the results of his research in the form of photographs, occasionally presenting his own thoughts and musings on these topics as part of his work. the subject of his research ranges from social themes to individual anecdotes, but what all of Shitamichi's work shares in common is its field study approach: first-hand investigations that consist in verifying facts using his own senses, and making direct contact with the memories that lie embedded in places and objects.
 Compared with other works that emerged as a result of follow-up investigations of war ruins in Japan and torii gates (typically found at the entrance to Shinto shrines) in Japan's former territories, "Sunday Painter" has a conspicuously personal tone to it. Comprising several photos and a handmade book, this series was created after several visits spent tracking down some oil painting left behind by his grandfather, an amateur artist.
Curiously enough, however, although the subjects of these photos are the works left behind by his grandfather, their focus is not always on the paintings. In some of photos, the paintings are removed from the center of the composition, and others are even somewhat unfocused. The photographer's gaze appears to be trained not so much on paintings, but rather on their current owners and the rooms that reveal something about their lives. In other words, what Shitamichi captures in this work through his photographs is the things and people that surround these paitings.
The book that accompanies the photographs, on the other hand, focuses on the rich variety of memories related to Shitamichi's grandfather that were told to him by the recipients of the paintings. Transcribed into stories written in a colloquial style, the recounted memories retain the accent, tone of voice and expressions unique to each person. Shitamichi's style of writing, which makes use of the distinctive voice of each speaker, gives the reader the impression that this is a faithful rendering of the material that was collected during his research. What we see, however, is nothing but a selective part of what was actually recounted to the artist. Just as memory is often said to be edited, elements with any truth to them become unconsciously exaggerated, while other parts are completely forgotten about. The memories recounted by the owners of the paintings in the work, as it turns out, are no exception. To put it another way, this book is a kind of "story" based on dramatized truths, recounted in the form in the form of "memories" that Shitaimichi father edited and polished.
History and memory are often transformed by human subjectivity without us ever being aware of it. Shitamichi's gaze is trained not on the tangible remnants or concrete traces left behind by history, but rather the things that undergo a metamorphosis, losing the contours of their from and becoming only a vague recollection in our subconscious. One of the things that he has done through this work is to restore a semblance of from to memories that have been shifted or distorted in the interval between the past and the present and become misshapen, so to speak. In so doing, Shitamichi teases out anecdotes whose faint traces still remain in the minds of these individuals, and reworks them into stories.
For "Sunday Painter," Shitamichi set himself the task of tracking down his grandfather's painting. by paying visits to the owners of the paintings to collect their memories, he transformed them into his own work through the act of editing. These recollections, which have recovered some sort of "shape" thanks to Shitamichi, recount to the viewer stories that are somehow nostalgic and familiar. Similar memories are evoked in the deepest recesses of the viewer's mind-and along with them, perhaps the anecdotes attached to those memories will also start to rise to the surface. If they do, perhaps the viewer will find his/her own joy in listening to the stories that their own so-called memories have been transformed into.

Yuu Takehisa (curetor, Contemporary Art Center, Art Tower Mito)

インタビュー掲載

2010年9月29日 00:58 下道 基行 */?>
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『じぶんを切りひらくアート』
違和感がかたちになると

8月26日発売!

石川直樹、下道基行、いちむらみさこ、遠藤一郎、志賀理江子、山川冬樹、高嶺格、三田村光土里 著/高橋瑞木+フィルムアート社
編/菊地敦己 デザイン/四六判/264頁/2,000円+税/ISBN 978-4-8459-1049-6
8月26日発売!

マイクロポップ、芸術起業論以降、アーティストたちが目指す “切実さのかたち”と“場”
アートが絵画や彫刻といったモノをつくり出すことだけではなく、ひとの思考そのものを具現化する行為であることが自明である今日、造形技術に長けていたり、美術館で作品を展示するひとだけがアーティストと呼ばれるわけではありません。
本書で登場する8人のアーティストは、閉塞した制度、あるいは慣習に違和感を抱きながら、自ら表現の「場」を開拓し続けてきました。ポスト・バブルの文化的に豊かだった90~00年代とは違って、今の時代にアートをはじめとしたカルチャーの担い手として生きていくには、それなりの覚悟が必要なのです。
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彼/彼女たちに共通して言えるのは、自分の内部に耽溺せずに、外部との接触や摩擦を引き受け、自分の可能性を試し、既成の枠にとらわれない、世界との新しい結節点(ノード)を具現化しようと試みているところです。だから、アートは自分からはじまる。自らの責任において、既成の枠にとらわれない自由を求める意思があること、そしてそれを行動に移す勇気があること。そして、そうした彼らの生き方や考え方は、閉塞感に満ちた時代に生きるわたしたちに勇気を与えてくれるのではないでしょうか。──高橋瑞木(編者まえがきより)
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■「みんな自分の生活が不安だし、まずそこから。
切実な部分を正直に出せるのもアーティストだと思う」
──いちむらみさこ
■「僕らがモノをつくらなくても、地球は回ってる。
だけど、それらすべてが尊い光だってことを受け入れなくちゃいけない」
──遠藤一郎
■「生き方を含めたアウトプットをどうするか。
アーティストとしてやっていく、ということは、そういうことなのかもしれない 」
──下道基行
■「どんな状況でも、その環境の中で自分にとって愛しいと思える点を見つけていくことが、
何かをつくるうえでは大切なことだと思います」
──三田村光土里
■「僕は単に記録っていうより、
記録を突っ切って主体性とか主観とかを排除して、世界の方にゆだねていきたい」
──石川直樹
■「イメージへの強い愛があって。
どうしようもない写真との関係、絶対に切れない関係」
──志賀理江子
■「僕の夢はふつうの「歌手」になること。
そのちっぽけなゴールへ至るために、遠回りの旅をしているんだと思う」
──山川冬樹
■「人間の底が知りたいんです。
ボトムを。すべての人に向けて表現したいんです。
大多数に向けてではなく、少数派だけにでもなく」
──高嶺格

去年の今日の日記

2010年4月20日 00:04 下道 基行 */?>

成田空港から朝一に出る便に乗る為に、東京と空港の中間あたりに住む友人の家に泊めてもらった。
ちょうどその日、彼の奥さんは妊娠中で体調が優れないと2階で休んでいた。
旅行自体は、ある尊敬する人のクロアチア取材にカメラマンとして同行するという仕事だった。
夜、友人が、大学の頃からの親友でさらに久しぶりということもあって、案の定深夜まで呑んでしまった。
2階に奥さんの様子を見に行っていた友人が階段を転がるように降りて来て「もしかするともうすぐ生まれるかもしれない…」と酔いがふっとんだ顔で言った。妊娠中の彼の奥さんの陣痛が突然はじまったらしい。僕はのんきに「めでたいね」とコップに酒をつぎ乾杯をしようとしたが、彼はそれどころでもない様子で(当たり前だ…)、完全に落ち着きを失っていた。友人と僕は徹夜を覚悟した。1時間くらいたって奥さんが2階から大きなおなかを抱えて降りて来て「なんかまだ大丈夫そうだから、少し眠って」と言った。仕事のこともあったので、彼がそわそわしている横で少し仮眠をとった。
どのくらい寝ていたのか、彼が慌ただしく動いているので目が覚めた。「今破水した…」。時計を見ると僕ももうでないと行けない時刻になっている。3人で車にとびのった。

車内は今にも生まれそうな雰囲気の奥さんと彼の緊張感が充満していた。ただ窓の外は春の朝の千葉ののどかな田園風景が流れて、僕はと言うと、車に揺られながらボケボケとして頭と身体で、幸せがはじまるような温かさを感じて、なぜか少しうるっときていた。

結局、病院の近所の駅で降りた。そこは空港からは遠かった。空港の待ち合わせ場所に予定時間を20分遅れ、汗だくになって走った。目はうつろで、口からは酒の匂いを漂わせ、「友人の奥さんが朝破水して…車で病院へ…」と明らかに嘘っぽい言い訳をする…、なんと胡散臭く不安なカメラマンを雇ったものだと思ったろう…。

日本からの飛行機は、もちろん何もなかったように普通に離陸した。病院に駆け込む彼らを想像した、友人の息子が無事生まれたかが気になったが、今日から2週間パソコンも携帯も持っていないので知ることはできそうになかった。
ウィーンを経由してクロアチアの首都ザグレブでトランジット3時間、イトウさんは今飛行機の中で読んでいた本について話した。「愛」や「自由」や「平等」って言葉を日本人は本当に理解できるのか…日本語に訳された時のズレや、そのような話だったと思う。そして僕はそれらの言葉を「美術」という言葉に置き変えながら聞いた。ザグレブから乗った小型の飛行機はドゥブロヴニク郊外の空港に夜22時に到着した。
小さな空港で、飛行機から直接滑走路を歩いてゲートに向かう。夜の匂いがした。そして湿気を含んだ風に少し爽やかな花の匂いが混じっているように感じた。

空港から出ると、最終便だったのか、何もない空港側には何台かタクシーが止まっているだけだった。ぼくらはそれらのひとつに乗り込んだ。今回の取材は、ある雑誌の記事の為にここドゥブロヴニクでカメラマンとして同行するというものだったが、取材終了後、足を伸ばしてボスニアまで行くことになっていた。何と出会うかは決めていない。
車内にはカセットテープでマンドリンの軽やかなメロディーが流れている。
「これはイタリアの音楽ですか?」ときくと
「いや、この辺の音楽だ。イタリアは対岸だからね。良く似てるんだよ」と運転手のオヤジは、観光慣れしているのか、聞き取りやすい英語で言った。
タクシーは一山越え、海岸の斜面をうねりながら走る。
「きみたち、どこに行くんだ?」
「クロアチアはドゥブロヴニクに1週間、そのあとボスニアのモスタルとサラエボに行こうと思っています」
「モスタルもサラエボもきれいな町だ。本当にとてもいい所だ」
そういうと、少し沈黙が流れた。
「でも、ここの町その町もね、戦争で破壊されたんだ。今から行くドゥブロヴニクも本当にひどかった…。美しい町だったのに…。たぶん、君たちは、この旅の中で、何度も『なぜ?』『なぜ?』…、って疑問を持つだろうよ。」
オヤジは静かにそういった。

「アドリア海の真珠」と呼ばれるドゥブロヴニクは、十数年前、セルビア人の爆撃によって破壊された。この内戦でたくさんの人が死んだ。ただ、ドブログニクの人々は、戦後、全力で街を戦前の姿に戻すため奮闘し、今はもう戦争の傷痕を見ることすらないまでになっているらしい。本で読んだ。

「あぁ、この橋渡ってまっすぐ行くとすぐにボスニアの町があって、そこも本当にいい所なんだよ。時間があったら行ってみたらいいよ」
やけに隣の国の事を懐かしそうにほめるオヤジ。
「あ~、そうかぁ…、隣の国のことほめまくってるけど、内戦が終わるまでは同じユーゴスラビアって国だったんだもんなぁ…」
とオヤジに分らないように、ひとりが日本語でつぶやいた。

タクシー運転手はもう陽気な顔で家族の話をはじめている。
英語の会話は、聞く意識を働かさなければ、言葉としての認識が薄れ、カセットテープの異国の音楽や車のエンジン音と同様に、すぐに環境音のようになる。
窓の外を、小さな港町がいくつも通り過ぎていく。
海も辺りもは既に闇に包まれ、山と海に挟まれた港町は、天の川のようにうねりながら眼下で煌めいている。そのひとつひとつの明かりが、ひとつひとつの人の生活なのだとふと思った。


(未発表「クロアチア日記」1日目より)


ちなみに、このドゥブロヴニクって街は、「紅の豚」のモデルのひとつ。
そういえば、トールと作ったこの千葉の友人の結婚式ムービーのラストもこの映画の加藤登紀子の曲だったね。偶然。


旅中には知らなかったんだけど、
友人夫婦の元気な男の子は、この日無事生まれた。
だから今日は誕生日ということ。
カイジ。
1歳のお誕生日おめでとう。

2010-04-20 00:04

2010年2月23日 22:33 下道 基行 */?>


[ RIDER HOUSE ]


2005


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RIDER HOUSE
ライダーハウス/北海道オリジナルの旅小屋
写真・文/下道基行
2005年[spectator]掲載


あれは2004年の春、過去に本誌で連載していた「戦争の遺構」の撮影のために北海道を1人バイクで旅している途中の出来事だった。
「相席いいですか?」
阿寒湖から少し行った国道沿いにあるそば屋で食事をしていると、30代前半の男性に声をかけられた。
バイクのヘルメットを片手に少し日に焼けた顔の彼は、何年間か勤めた会社を辞め、趣味のルアーフィッシングを楽しみながら、2ヶ月以上も1人で旅をしているのだという。
バイクの旅の道中は1人で過ごす時間が圧倒的に長く、そのため食事や宿泊も1人で済ませることが多くなる。そんな孤独な旅人どうしが偶然どこかで出会うと、お互いの近況や旅の情報を交換し合うことになる。久しぶりに話をする相手も見つけた歓びからか、彼は過去に釣り上げた自慢の魚の写真をテーブルいっぱいに広げ、過去に自分が体験した旅のエピソードについて楽しそうに話した。僕は、同じ北海道のなかで、全く違う目的を持って旅する彼の話に興味を持ち聞き入った。
やがて、旅先の宿についての話題がおよぶと、長旅を続けていくうえで便利な施設のひとつとして北海道特有の「ライダーハウス」について説明をしてくれた。
ライダーハウスとは、文字通り「バイク乗りのための家」のこと。北海道を旅したことのある人なら、ライダー歓迎などと書かれた看板や奇妙なかたちの小屋を見たことがあるかもしれない。しかし、その実体を知る人は少ないのではないか。
ちなみに僕も、初めて北海道を訪れた前回の旅で、道路沿いに建つ何軒かのライダーハウスを目にしたことはあったが、宿泊した経験は一度もない。バイクを「機動力があり安価な足」としてしか考えていない僕にとって、お世辞にも綺麗とは言えない外観で、敷居の高さを感じるライダーハウスに宿泊することは少々勇気のいることで、なんとなく通り過ぎていたのだ。
北海道をバイクで旅しているにも関わらず僕がライダーハウスを利用したことがないことに彼はとても驚き、その役割やシステムについて熱っぽく話し始めた。
ライダーハウスは、バイク乗りだけではなく、徒歩や自転車で旅を続けている人も利用することができる「旅人のための簡易宿泊施設」の呼び名である。無料もしくは無料に近い金額で宿泊できることから、長期に渡って北海道を旅してまわりたいと考えている旅行者からは重宝がられ、その数は北海道内だけで100軒を超えるという。
食事の会計を済ませると、彼は今連泊をしているというライダーハウスを僕のマップに印を付けてくれた。僕は彼がいることの安心感もあって、その夜ライダーハウスを訪ねてみることにした。

●遭遇・初体験
屈斜路湖畔に建つ「みどりや」は、おみやげもの屋の一階部分を改装したライダーハウスだった。
半分まで閉じられたシャッターをくぐると、かつて店舗として利用されていた室内は、すべてが取り払われた土間の上に20畳ほどの床がベニヤ板で底上げされる。部屋の中には、緑色のマットとテーブルそして裸電球以外は何もなく、隅にそば屋で出会った彼のであろう寝袋が一式だけ広げられていた。
2階に住む管理人(※1)のおばちゃんに宿泊料の700円を手渡すと、共同のキッチンや近くにある温泉の話など、一通りの施設の説明を受けた。無料も多いという話を聞いていたので、一泊700円と言う値段が高く感じられた。
しかし実際に泊まってみると、徒歩数分の場所にある湖畔にせり出すように作られた無料混浴天然露天温泉は大自然を体感できる絶対に旅館の風呂が勝てるような代物ではなかったし、上に住む管理人のおばちゃんは「作りすぎたから」なんて夕飯や朝飯を持ってきてくれる。
「ライダーハウスは、地元の人の厚意で運営されていることが多い。数百円取るところもあるがそれは電気水道代などの設備・運営費として最低限のモノだ」と、そば屋で出会った彼が夜話してくれた。

ここがとても安価な旅人宿だということは分かったが、「本当に厚意だけなのか?」「なぜ無料で運営できてるのか?」「なぜ北海道で誕生し根付き、どのような歴史を辿ってきたのか?」など詳しい知識を、彼は具体的に持ち合わせていなかった。
僕はこの日本の北端の町で出会ったこの小さな旅文化について、利用しながらもっと深く探ってみたいって思った。

●「カニからハチへ」(ライダーハウスの起源とは?)
国内旅行は1970年代に、大きく変化する。その発端は、国鉄によって行われた「DISCOVER JAPAN(日本再発見)」キャンペーン(※2)だ。背景には大阪万博(70年)や高度経済成長により、マイカーの普及や国内航空路線の充実によって旅行客を奪われた国鉄の集客の思惑があった。さらに、創刊からのファッション要素に加え旅の要素を大きく取り入れた、雑誌「アンアン」「ノンノ」などの影響も大きく、若者達の国内旅行ブームが社会現象となった。その中、若者達が電車でバックパックを下げ横歩きしている姿は、北海道を中心に「カニ族」などと呼ばれた。(※3)
1980年代に入ると、今度はバイクブームが始まる。1978年に世界の耐久レースシリーズを意識して「第1回鈴鹿8時間耐久レース」が開催され、国内のバイクレースも飛躍的に発展し、バイク産業の激しい競い合いは「HY(ホンダ・ヤマハ)戦争」とまで言われた。さらに、バイクレースを扱った漫画「バリバリ伝説(※4)」(83年)や映画「汚れた英雄(※5)」(82年)など多くのメディアも取り上げ、ブームはさらに加速した。
しかし 、 80年代のバイクブームは都市部での暴走族の最盛期として大きく取り上げられる傍ら、国内旅行文化として70年代と比べ語られることは少なく、「ライダーハウス」についての文献もほとんど皆無に近い。

ライダーハウスの成り立ちとして、 北海道で旅する者の間で語り継がれるエピソードがある。それは 「かつて、雨に降られた旅人が困っているのを見た地元の人が、家の納屋を貸したのが始まり」という話だ。
実際に、 道内でも老舗のライダーハウス「白鳥の宿」(室蘭)は、80年代前半に駅の軒下などに寝袋だけで寝ていた旅人が多くて商店街の青年部が町の空き物件を改装し旅人に開放したらしく、 バイクブーム当時に誕生したライダーハウスの多くは、若い貧乏旅行者への厚意からは始まっていたのだ確かなようだ。この時代、北海道へはかなりのライダーがツーリングに訪れ、ライダーハウスが誕生し口コミで次々と増えていった。以前までの「カニ族」が形を変え、北海道を襲来したライダーたちはブンブンというエンジン音から地元の人に「みつばち族」「ハチ族」などと呼ばれ、現在でも「みつばち村」「ハチの家」などライダーハウスの名前にその名残を見ることができる。その頃のライダーハウスは「雨風が防げる小屋」といった極シンプルなものだったようだ。


●「電車の宿」(ライダーハウスの種類 )
苫小牧から少し東南へ行った門別からさらに内陸へ30キロほど山道を登ると、振内という集落にたどり着く。見過ごしてしまいそうなこの小さな町に、僕のお気に入りのライダーハウス「すずらん号」がある。
1987年の国鉄民営化にともない、この町で生活の足として利用されていた富内線は全国の他の赤字路線同様に廃止された。奇しくもその時期はちょうどバイクブームと重なり、駅舎の跡地はこの町を鉄道が走っていた記念にと鉄道記念館が建てられ、さらに国からいただいた2台客車は、そのままプラットホーム跡に横付けされライダーハウスへと転用された。
ライダーハウスとなった客車内部は、網棚やトイレや天井の扇風機などは元の機能のままで利用しながら、椅子は大半が取り外されフラットな自由空間に作り替えるなど、想像以上に仕組みが面白く、使い勝手も良い。料金は580円で有料だがシャワーがあるのもうれしい。 ハイシーズンの雨の日には、床一面に寝袋がしかれ泊まるスペースが無いくらいの人気だ。

僕が実際に訪れたことのあるライダーハウスの数は30軒程度、おそらく総数となると100軒を超えるだろう。
現在ライダーハウスと名の付く仮設泊施設の料金は0円〜1000円とばらつきがあるが、これは各ライダーハウスの運営のスタイルの違いからである。
例えば「元祖ライダーハウス」とも言える、商店街の空きテナントを利用したものや、空いた土地に町が小屋を建てたものは、無料または光熱費や施設費として数百円程度を払う非営利的なタイプだ。他には、定食屋で食事したり買い物をしたら店舗の2階に泊まって良いタイプや、バイクや旅好きのオーナーがやっている民宿に近いタイプなど、運営者の多少の利益も関係している半営利タイプも多く。さらにはライダーハウスの看板を掲げつつ運営者が厚意のふりをして飲食をさせ、お金を請求するという話しも旅人から聞いた。
運営のスタイルは多様化し、暖房やシャワーなどの設備も充実した場所も増え、単に「親切心で運営されている質素な小屋」だけでもないようだ。

● 「沈没者の発生」(ライダーハウスの問題点)
「うちでは平成元年にサイクリングロードの休憩所としてはじめて以来、管理は地元の老人の方に任せていまして、いろいろと交流がありました。宿泊者ノートにもたくさんの思い出が描き込まれていて、管理人との交流を求めてくるリピーターさんもいたようです。昨年閉鎖になってしまったのは単純に町として維持していくのが難しくなったためです。本当にライダーさんには大切に利用されていたのですが・・・」( 「富野休憩所」※去年閉鎖)
取材を続けるなかで、「自分たちの土地で、いい思い出をつくってもらいたい」という住民の気持ちがライダーハウスを支えることを直に感じた。しかし、90年代以降のライダー数の減少と近年の不況を理由に、閉鎖するライダーハウスは少なくない。
ライダーハウス内に置かれた宿泊ノートの旅人達のコメントを見ると、旅の思い出や落書きの他に「管理をされている方、ご苦労さまです。一泊させていただきました」などという感謝の気持ちも多く書き込まれている。さらに「昨日泊まった○○って言うライダーハウスは最悪だった。布団はないし、汚いし・・。みんな行かない方がいいぞ。」などという描き込みにはわざわざ矢印がされ、他の旅人によって「ライダーハウスはおまえみたいなヤツが泊まるところではない!おまえみたいな奴は金を払ってホテルでもとまれ!屋根があるところを提供してくれただけでも感謝しろ!」などと書かれているなど、想像以上に旅人達も減少していくライダーハウスへの危機感を持っていて、「何とかここを残していきたい!」という気持ちは強く根付いているようだ。
さらに一方では「町に足を止めて欲しい」という気持ちが仇となってか、住み心地が最いいライダーハウスは沈没者(長期滞在者)の住処になっているところもある。ライダーハウス利用者の中でこの沈没者達は「主(ぬし)」と呼ばれ、長期連泊するだけならまだしも、ひどい場合は他の旅人を寄せ付けないくらいにライダーハウスを私物化し問題になることもある。さらには、そんな「主」への苦情から、連泊を禁止したり有料化に踏み切るケースもあるというのだ。
今でも営利目的ではないライダーハウスは、駐在の管理人を雇われているわけでもなく、スペースや貴重品など管理で旅人に委ねられている部分も多い。それはある種の適当さで、地元の人々が旅人を信頼しながら運営してきたライダーハウスの特性だろう。そして旅人もそれを知って自分たちでルールを伝え合って来たのだ。
しかし、一部のマナーを守れない旅人によってこのバランスは崩れ、せっかく地元の人の厚意で開設されたスペースが、有料化され管理人を常駐させるようになり、多くの規則が決められるようになると、今までライダーハウスの姿は失われていくのではないだろうか。

●「新しいライダーハウス」
ライダーハウスを旅していく中で、ニュータイプのライダーハウスの噂を耳にした。
場所はなんと九州の阿蘇。4年前にオープンしそれ以来1日も客が途切れることなく大盛況だいう。実際に訪ねてみると、バイクで日本1周を果たしたここのオーナーはまだ20代後半と若く。旅行で経験したこと特にライダーハウスでの体験を元に、「九州のちょうど中心に旅の拠点になるようなライダーハウスをつくりたい」と、旅でとても気に入った阿蘇の鄙びた小さな温泉地を選び運営していた。しかしライダーハウスを全く知らない町の人の「バイク=不良」と言うイメージを払拭し、説得するのにはかなり時間がかかったそうだ。
そして、地元の町と共に生きるライダーハウスを模索しつくりあげていくなかで、独特のルールが誕生した。
まず初めてそこを訪れると、いろいろと描き込まれた手作りの町のマップが1人1人に渡され、オーナーから直々に10分程度の説明を受ける。(初めて利用する人だけ)
例えば、騒音などで町の人に迷惑にならないように無料で貸し出してる自転車。光熱費や設備の維持費として1泊1000円で、連泊していくごとに100円ずつ安くなる料金システム。コンビ二もあるがこの町にはたくさん他にもいい店があり、是非利用して欲しいとつくられたマップや情報。ライダーハウス内には風呂がないが町の中には安くてとてもいい共同浴場(町湯)がたくさんあることと注意。小さなライダーハウスでよく問題になるが、宴会の音がうるさくて他の人が寝れないなどのトラブルを避けるために、飲食談話は談話室、寝室(女性用部屋もある)は寝るだけのスペースと完全にわけてあることなど。
それらは別に窮屈なものではなくて、町との共生や それは北海道と同様にライダーハウスを維持していくために重要なことで、実際に彼が 旅(ライダーハウス)の経験を元によく考慮してつくられた最低限のルールだった。北海道ではライダー同士が暗黙の了解というか見えないルールを伝えていく環境が時間をかけ整っているが、ここにはいろいろな旅人がやってくる。だから管理人が率先してルールを伝えているにすぎないのかもしれない。
常に日本全国から旅人が集まり、週末にはさらに九州全土から休日に旅の気分を味わいにやってくるリピーターも多い。地元の若者も集まってくるし、次の旅へ資金をためながら住み着いている旅人もいる。町をレンタサイクルで走っている時や共同浴場にいる時などに触れる、町の人の友好的な態度からもこのライダーハウスがすでに町にとけ込み共生していることを十分に伺える。
独自のルールは旅人を縛る窮屈さは全くなかったし、地元とのコミュニケーションをとりながら運営されていく姿は、もしかすると時代とともに形を変え残っていく新しいライダーハウスのスタイルなのかもしれない。



ライダーハウス原点は、「雨風を防ぐだけの何もない小屋」である。
地元の人の厚意で開いたスペースに作られたライダーハウスは、旅人達の宿や情報交換の場所、さらにはライダーハウスや旅のルールや感謝の気持ちを確認し合う場所として、20年以上もの間残ってきた。
ここでは旅行者と宿との間に「お金とサービス」の交換ではなく、「感謝と厚意」という目には見えない人間関係が双方を繋ぎバランスを取っているのである。

数年前、話し相手の誰もいない静かなユースホステルで、色あせた70年代の宿泊ノートを見つけた。そこには、旅の情報そして人との出会い騒いだ様子、さらには人との出会いがなかった者達が書いた「よかったら誰か手紙を下さい」「ペンパル募集」といった出会いへの欲求などが沢山書き込まれ、その時代の若者達が新しい出会いや経験を求め、国内を彷徨った熱い空気が充満していた。
僕は暇つぶしに何冊も読み進めていくなかで、過去の幻影を追い廃墟を探検するかのような錯覚に陥った。若者たちの国内旅行ブームは遠い過去の物となり、数十年で旅の感覚は大きく変わってしまったのだ。

今や、世界中の情報が目の前に溢れ、人とので合いも出会いは自宅で簡単にできてしまう(錯覚の)なかで、旅への感覚が変わらない方がおかしい。旅の中でも様々サービスが溢れ、お金と携帯電話さえあれば、他人との会話がほとんど無くても旅は成立してしまう。
旅は知らないモノを見つける冒険ではなくなり、また帰るであろう個人的日常を一瞬忘れさせてくれるご褒美に過ぎず、旅の中にこそ贅沢を求めてはいないだろうか。

都市部だけでなく、旅行者の中にも、過剰な個人主義の中で公共意識は薄れ、人間関係が希薄になっている。それは、独自のルールを持つ九州の例や「主」などの出現など、ライダーハウスへも少なからず影響をあたえているのではないだろうか。
しかし、ライダーハウスが全滅する事なく残っているのは、旅人と地元の人々との気持ちの交換が今でも成り立っているからだ。
今後も、一見何もないこの宿泊施設は、ここが人との出合いや発見が溢れる貴重な旅の拠点であることを知る人々によってしっかりと残っていくことだろう。

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(※1)管理人…ライダーハウスで旅人から宿泊費を集金したりや掃除などの仕事をする人。運営する人(オーナー)と管理人が違う場合が多く、ここでは「管理人」と統一する。

(※2)ディスカバージャパン…新企画「いい日旅立ち」がはじまるまで6年間も続いたキャンペーン。アメリカの農商務省が行った「ディスカバー・アメリ」を参考にしたらしい。

(※3)帯広市が運営する人気のライダーハウス「大正カニの家」は、その名の通り元々かに族のために作られた簡易宿泊施設がライダーハウスに変化したもので、ライダーハウスの原型と言える珍しい例だ。

(※4)通称「バリ伝」。1983年から8年間、で連載された、漫画「頭文字D」著者しげの秀一の本格的デビュー作。同時期の週刊少年「マガジン」にはもう一つバイクを扱った人気連載「あいつとララバイ」もあった。 

(※5)草刈正雄・木の実ナナ主演、角川春樹監督のハードボイルド・バイクレーサー・アクション映画。

《参考資料》
・『TUORING MAPPLE 北海道』(昭文社)
ライダーが使いやすいように計算され作られているライダー御用達のマップ。スタッフが実際に取材して得た、いろいろな情報書き込まれていて非常に便利だ。

・『0円マップGO!GO!北海道』三栄書房
ライダーハウスやキャンプ場など安く北海道を旅する情報が多く掲載されたガイドブック。利用しやすいが、お土産物や食事の店情報は広告的な部分もあるのだろう、あまり当てにならない。

・『振り返れば地平線』(佐々木譲著)集英社文庫
旧友との約束の地「開陽台」を目指す北海道ライダーを描いた小説。82年に出版された当時のバイクブーム時代の雰囲気を伝える貴重な資料と言える。

・『旅行ノススメ』(白幡洋三郎著)中公新書
・『anan』(no.1〜74)

《注意事項》
・布団がある場所もありますが、基本的には寝袋持参。ロッカーなどはないので、貴重品の自己管理。
・他人との共有スペースです。当たり前のことですが、他人への思いやりを持って行動すること。
・ライダーハウスを管理されている方への感謝を忘れないこと。出ていく際は、軽く掃除、整頓しましょう。
・道内には素晴らしい無料のキャンプ場も多いので、晴れた日はキャンプもおすすめ。

※記事内の「白鳥の宿」は閉鎖してしまいました。(2015年更新)


中之島

2009年12月 9日 21:19 下道 基行 */?>

国立国際美術館に向かう途中、中之島の川沿いの道を歩いた。
今年の夏、水都大阪の為に何度も自転車で走った道。
途中、ダイビルというレンガ作りのデコラティブな柱が印象的な建築が、人気がなく柵で囲まれているのが気になる。ボケッと立ち止まって見ていると、少し離れたところで、熱心に建物を撮影しているサラリーマン風のおやじさんが目についた。近寄って話しかけてみると、
「この建物、もうすぐ壊されるんですよ…。若い頃、この建物で働いていたから、来てみたんです…」と寂しそうにシャッターを切る。
なんか薄汚れたレンガ作りでロンドンっぽいいい味が出ている、装飾もごちゃごちゃしてて気持ち悪くてかっこいい…。
「僕もこの建物、気になっていたし、こういう建物が残ってるから中之島ってなんか、東京にはないいい風景だなぁって思ってたのに残念ですねぇ…というか、腹が立ちますね…」と俺。
「関東大震災のあたりに建てられたらしくて、大阪一のビルってことでダイビルって名前になったらしいです。立派な建物なんですけどねぇ…」
二人で何かしんみり。

お別れを言い、国立国際に向かう。
おやじさんは、垣根の中に足を突っ込んで、まだ熱心にシャッターをきっていた。
なんか、分るよ、おやじ。。

長い時間かけて残っていたモノは、一瞬で壊せる。残ってきた労力の遥かに少ない労力で、一瞬で消せる。そして、壊してしまったモノは、二度と見ることはできない。建物だけの問題じゃない、風景自体の問題。当たり前だけど、そういうことだ。
どうせ、壊す側の主張は、この辺りが一等地でこの古くさいこじんまりしたビルでは、モッタイナイからでしょう。
「町として需要な歴史が詰まった建物をつぶすのはモッタイナイ」 VS「一等地にこんなに低い建物モッタイナイ」
友人が住んでいた阿佐ヶ谷住宅もそうだった。勝者は大体後者の方。

帰りにジュンク堂へ行く。
本屋が入っている真新しい高層ビルの前の広場に、かつてココに建っていた旧毎日新聞の重厚な石造りの建築物の入り口部分の壁がポツンとモニュメントとして残されている。取って付けたような寒々しい保存だ。
「だから、こういうことじゃないんだよ…アホ…」


2009/12/09 21:19

休日

2009年9月30日 20:39 下道 基行 */?>

休日が、何曜日なのか…何日なのか…いつなのか…、そんな事が分らなくなって2年がすぎた。
今日はなにか休日感があったので、休日。

二日酔いの頭で、一階へおりると、鹿児島在住の作家がネットを使いにやって来ている。
その横でゴロゴロしながら、何かを話していた。たぶん「マツトウヤユミってどういう漢字だっけ?」とかそんな話。よくおぼえていない。

ゴロゴロしていると、名古屋の彼女から電話がある。
会社に行く途中みたいで、電話の向こうには町の雑音とともに、彼女のカツカツと仕事に向かう靴の音が、少し速いリズムで聞こえる。

隣の隣の家に、食器を返しに行くと、コスゲチームの女性がひとりが、薄暗いキッチンで怖い顔をしている。
「最近わたしひとりしかいないはずなのに…、知らない間に…、冷蔵庫の中が変わってて…怖い…誰か侵入者がいるのかも…」
少し青ざめた彼女の目の前のテーブルの上には、冷えたどら焼きが4つ置いてある。
それらは、昨日の夕方にウチの宿の冷蔵庫がいっぱいだったので、彼女たちの家の冷蔵庫に少し避難させてたモノだった。すまん。。驚かせて。。

昼から、近所の梅香堂というギャラリーに行く。本棚作りのお手伝い。
なんだか、壁いっぱいに作られた木製の特注のやつで、素敵で。白い壁もいいけど、図書館のような壁にびっしりいろんな背表紙の色が雑音として入ってくる空間がなんか気に入って。で、来月に展示をする話になった。

今日から新しいお客さんがもうひとりやってくる。メキシコ在住の方らしく、今日飛行機で到着するらしい。メキシコかぁ…。
ご近所さんに、サボテンを借りて来て、談話室の円卓の上に置いてみた。反応はいかに。。

家に帰って、ボンヤリ文章を書いていると、なんとなく、友人透のブログを見てしまっていて、
1時間半が経っていました。
なんだろう…、外が暗くなってる…。

今日は休日らしかったのだろうか…、と考えると、
今日は休日だったんだという意識を持つと、妙にその日がもったいない気持ちで終わることが多く感じた。逆に何かせなばと思いつつ何もできない、のんびりしようと思いつつ忙しい、みたいな。
毎日普通の日でいいのかもしれないし、いやその逆でいいのかもしれない。

どゆこと?


2009/09/30 20:39 (大阪でゲストハウス管理人していた時のもの)

2婆

2009年9月14日 19:39 下道 基行 */?>


(窓から入って来た2人のおばさんの声)

1:「なんとかさんのおばあさん、最近見たんやけど、歩くの前よりずいぶんゆっくりになっとったわ」
2:「あれ、旦那さん、どうしたんやっけ?」
1:「亡くなったよぉ」
2:「そうかぁ。まぁ、私らみんな、結局入るとこはいっしょやからなぁ」
1:「そやなぁ(笑)」
2:(笑)


| 2009-09-14 11:10

管理人仕事

2009年8月20日 01:51 下道 基行 */?>

パリで出会った文筆家の人が言っていたんだけど。
「最近やりたい事を書き出してみたんだよ。伊豆に行くとか、小さい事から。俳優になって映画にでたいって、非現実的なものまで。そうしすると数十個はあって、ちょっとづつそれにやったよってバツをつけていきたいんだ」

誰かの本でも「若い頃にやりたい事を100個書いてみた」ってのがあったけど。その人は「美人なモデルとヤる」とかいろいろ書いてた。
そういうのって単純におもしろいよね。

俺は、「サーフィンを始める」とか「35までに本を2冊あれとあれでだす」とか、つまらないものから、いろっっいろあるけど。
この話を書くのは、今回、山口滞在中に、おしゃれカフェで働いたり、大学で臨時講師やったり、ラジオに出演したり…、色々経験させてもらって、それはただ「アーティストの下道です。こんなことをやってます!」とか、それを紹介します、ってことではない気がしてる。単なる営業じゃないというか。
今管理人しているのも、いろんな人に出会って「俺はこんなことやってて、面白いでしょ!名刺あげるから…、よろしく」とか、そんいうんじゃなくて。なんか、吸収したいというかね。
村上春樹が他人の本を翻訳をする理由のひとつが、自分にないモノや、その技術(?)を吸収するため、みたいな事を言っていたけど、そういう気になる人と同化しながら自分的に編集するのって必要だし、自分の場合、攻め攻め状態だとできないきがする。
なんだろう、いろんな可能性を持っていて、その可能性を幼い頃から360度から徐々に狭めて行く事が、大人だったり、プロフェッショナルなことみたいに、思っていたけど、意外とそんな事でもないんじゃないかなって、実体験で感じる事は多くて。
岡本太郎が、晩年本気でスキーを始めたり…、趣味といえばそうだけど、生きてる可能性ってのは、広げる事も狭める事もできるんだなと思う訳ですよ。
もちろん、狭くした中の美味しい所もあるし、狭める中での深めかたもある、でもただ狭めて行くことの危険性ってのを感じるって話です。

今日は今さっきまで、ここに一郎君がダラダラしにきてました。
現場アートに関わってないけど、いい時間かもね。
こういうあつい系の日記を書くと、「シタミチがんばってるね」っていわれるけど、がんばってるのは体でも頭でもなく、ただ何かを解放しよう肩の力を抜こうとしてるだけなんで。その言葉はフィットしません。

あ、そう今日
宮本常一の未完の全集「宮本常一著作集」の31を買いました。シンプルでぐっときます。高いけど徐々に欲しい所から集めて行きたいですね。
これもやりたい事のひとつ。

では、明日。
まだ、山口余韻があるね。夏だね。

2009-08-20 01:51
(大阪)

関門

2009年7月17日 12:30 下道 基行 */?>

昨日は今度のイベントの許可申請と下見をかねて、門司と下関にだいや君と行った。
下関で平楽寺くんと会う。商店街の彼んちのタバコ屋さんの中で話をした。ちょくちょくお客さんがタバコを買いに来て、あのタバコ屋の小窓からタバコとお金を交換している。
タバコ屋の話、町の話、モノを作る話、家族やルーツの話。。今後に繋がるとても濃い話ができた。
本州の西の端っこのちょっと廃れた商店街のタバコ屋は、表はもちろんタバコ屋だが、裏から入ると彼の作業場兼ギャラリーと、リバーシブル空間。展示作品について話を聞く。来週は地元の郵便局跡でイベントを開くそうだ。東京とかじゃなくて、自分の場所をここに持って(ある意味縛られつつも)、制作しながら、発信しながら、活動している。

タバコは年々売れなくなるし、それには歯止めは利かないだろうと彼は言う。(それは写真でいうフィルムのように)値段は高騰し町では喫煙場所は減る一方。今よりもっと趣味的にたしなむ傾向は強くなるだろういう気がする。
町のタバコ屋はどうなるのだろう。
8月から滞在する(管理人をする)大阪のアーティストの宿泊施設に利用される空き家は、もとはタバコ屋で。何か考える事が多い。

自分とかと近い世代の友人は、内面的な自分探しとかじゃなくて、自分らしい住処を求めている人は結構多い。どこで暮らすか…。
土地と住民を縛った慣習を、すぐには取り壊せないだろうから、探しながらさまよっているんだと思う。けど、一軒家を持って一人前!みたいな考えは明らかに薄いし、とにかくみんなさまよってるんだと思う。


下関では地元の歴史を研究している野村さんと喫茶店でお話をする。
下関駅ビルでタンクトップを3枚買う。
学校帰りの高校生で込み合う電車に揺られて、1時間半、ひとり湯田温泉駅下車、友人たちがシェアするの住処へ。


明日からは
山口市内のレストラン&バー「ハブ」で、ランチタイムに働く事になった。ウェイターです。
移動→滞在→制作→移動
という感じのアーティストって結構いると思うけど、
結局費用は、作品を売るか、助成金をとるか、別の仕事でためるか、だれかにもらうか…、そんなところ。
今回、地元でリアルに働ける(さらにその場所で展示も計画中)のは、作品制作を考える上で、本当にいい経験だと思っていて、仕事として普通にしっかり働きたいと思っている。紹介してくれた友人、理解ある店長赤池さんに感謝。なんとマカナイ付!食職降臨です!
なんか、写真は撮ってるけど、少しプロジェクト系作品に触れたり作ってみる時期なのかもしれないな。でも、参加型プロジェクトだからって、アウトプットの形は、やりっぱなしじゃなく、単なる記録を残すのではなく、しっかりと落とし込むプロジェクトにしたいですね。


2009-07-17 12:30

Re-Fort PROJECT vol.5

2009年7月 7日 00:05 下道 基行 */?>

地味にもうかれこれ4年目の活動になるRe-Fort PROJECTがまた、夏に帰ってきますよ。
今回のメンバーは、言い出しっぺの下道ほか、
会田大也、中崎透、服部浩之、山城大督と、かなり強力で素直なアート陣が集まり、熱い夏になりそうです。是非参加してください。
(詳細は下↓)


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Re-Fort PROJECT vol.5
日食に花火/前夜はビール呑み砲台 

太陽が隠れるとき、ぼくらの花火が打ち上がる。


7月21-22日 夏合宿@下関〜北九州
7月22日 花火打ち上げ@打ち上げ;北九州市めかり公園、鑑賞;下関市火の山公園
8月1日-23日展覧会『戦争のかたち』@ハブ
8月8日-31日展覧会『Re-Fort PROJECT Vol.5』@MAC

Re-Fort PROJECT vol.5 メンバー(会田大也、下道基行、中崎透、服部浩之、山城大督)

※プロジェクト詳細情報

■7月21-22日
夏合宿!日食に花火/前夜はビール呑み砲台
21日夏合宿 参加費 6,000円(宿泊/食事込)※宿泊地 下関市火の山ユースホステル
※「夏合宿」からの参加だといっそう花火も夏も楽しめますよ!(遠足、ユースホステル、バーベキュー、ひと夏の...)また22日の花火打ち上げは午前中に予定しております。遠方からご参加の方は「夏合宿」からの参加をおすすめします。
22日打ち上げ花火 参加費無料(会場;火の山公園)

スケジュール
[7月21日]
14:00 火の山ユースホステル集合
14:30 関門トンネルを歩いて門司に渡り、めかり公園内の砲台跡を目指す。
18:30 門司港より連絡船にて下関にわたる
20:00 火の山ユースホステルにて前夜祭
[7月22日]
09:00 火の山公園の砲台跡へ向けて出発
10:55 花火鑑賞&撮影


展覧会par t1 『戦争のかたち』
8月1日(土)- 8月23日(日)12:00-27:00(火曜定休)
会場;ハブ(山口市道場門前2- 4 -19 2F TEL.083- 932- 5166)
料金;無料(飲食店のため要一品オーダー)

展覧会par t 2 『Re-For t PROJECT Vol.5』
8月8日(土)- 8月30日(日) 19:30-24:00
会場;Maemachi Ar t Center (MAC)
料金;300円(ドリンク付き)
*オープニングパーティ 8月8日19:30-

プロジェクトに関するお問い合わせや宿泊のご予約はMAC(服部、会田)まで
e-mail; maemachiartcenter@gmail.com
ユースホステル宿泊ご希望の方は、7/18までになる早でご予約ください。


今年の春、山口県下関市の火の山公園に登った。
この公園内には明治時代の砲台跡がある。僕たちは夏に砲台を使ったイベントをできないかボンヤリ企画して、ロケハンに来たのだ。
きれいに整備された園内には、戦争の遺構がゴロゴロと点在しており、その奇妙な存在感が遊具や花壇とのコントラストを形作っている。至って普通の日常風景に顔を出した冷たい質感のコンクリート建造物群は、僕らの想像の及ばない遠い世界の遺物のようだった。
僕らはそれを土の中から掘り当てたような...、日常にポッカリ開いた戦争への落とし穴を見つけたような...、そんな複雑な興奮を感じた。
「ここの砲台一帯は国定公園に指定されとるからイベントはできんじゃろぅなぁ...。向かいのあの山も昔の砲台じゃし、あっちなら公園になっとらんけぇ、もしかしたらバーベキューとかイベントもできるかもなぁ。」
公園清掃のおばちゃんはそう教えてくれた。関門海峡方向にせり出すようにつくられた、真新しいウッドデッキから海峡の対岸を見ると、向かい側にきれいなお椀型の山が見える。
「あの砲台の山の上に打ち上げ花火が上がったら、面白くない?」
一人が言った。
「火薬」を使って「ドンッ!」と花火を「打ち」あげる...。それは、既に武装解除されて70年近く経つ、かつての砲台とダブるイメージをいくつも持っている。
そしてこの打ち上げ花火は、リアリティが薄れていく戦争やその時代と僕らとをリンクさせる「落とし穴」になるかもしれない...、そんなことを思った。
早速、関門橋を福岡側に渡って門司からその山に登ると、そこには要塞の跡があり、それは森の中で人知れず朽ちていた。明治維新以降、欧米に対抗し軍国主義に猛進する中で日本全国にいくつもこのような砲台がつくられた。太平洋戦争末期、対軍艦用の砲台の一部には対空高射砲が設置されたそうだ。そして 1945 年の終戦を境に、この場所も含めて日本全国の砲台は完全に武装解除される。機能を一切失ったコンクリートの固まりがこの山にも残された。僕らの目の前で、日常と忘却の中に埋もれていくこの遺構は、敗戦からこの国が根底に持ち続ける違和感やねじれを表している存在のように見える。
「この砲台跡から花火を上げて、対岸の火の山公園からそれを見よう!」
話し合いの結果、花火の打ち上げは 7月22日の10時55分から1分間に決まった。
それは46年ぶりに訪れる日食の一瞬。そんな真昼の空に打ち上げようというのだ。
今回この日食の見える地域の人達の気持ちは、日食の持つある種の「高揚感」と「一体感」の中で、太陽を中心にひとつになるだろう。
そして、(これは些か強引な結び付けかもしれないが)その「高揚感」や「一体感」はこれらの砲台の造られた時代が持っていた大衆を飲みこむ空気に似ているのではないか ? 初夏の真っ昼間に、隠された太陽の下、砲台跡から花火を打ち上げてみる。それがこのイベントだ。
「何のため?」
「花火は見えるの?」
それはよくわからない。でも、見えにくくなっていたものが少しだけ見えてくるはずだ。例えばそれは、戦争があった事実や、日々消えていく記憶や、今この世界に生きていること...。そしてまた何かを感じるだろう、そのことについて僕たちは自分の言葉で話せるのではないか。
この日、僕らは打ち上げ花火で落とし穴をつくってみるから、みんなで落ちに来てくれたらうれしい。これは机上のお勉強じゃない。もしかすると、この落とし穴で地球の反対側まで落ちてしまう人もいるかもしれない。
あなたも参加してみませんか?
僕らが作った落とし穴に。
火の山公園で日食の花火に。


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『Re-Fort PROJECT』プロフィール
200X 年に下道基行が中心となって発足。日本全国で放置されている戦争の遺構を使い、イベントを起こしたり、※スクウォットする。またそれを記録していくプロジェエクト。 このような遺構の多くは過去に国(軍)が造ったもので、現在では建造物自体の権利が曖昧になり、したがって所有についてもグレーゾーンとなっていることがある。そのため転用しやすい。 イベントの参加者はこれらの遺構に直接触れ、この国と戦争とが地続きであったことにリアリティを感じることで、何かしらの戦争との接点を持ってもらう。
また、ここ数年、戦争体験者が減少していくことを受けて、行政による遺構の見直しが始まっている。しかし、遺構を柵で囲み“平和公園化”“モニュメント化”することは、むしろ遺構の持つ時間の流れを遮断し、歴史に遺構を埋没させていくことにもなる。本プロジェクトでは、保存対象にならないような遺構に対して、その都度さまざまなアーティストがそれに合わせた趣向で一時的にリノベーションを試みる。
『Re-Fort』はリフォートと読む。再生や再利用を意味する「Re」と、要塞や砲台を意味する「Fort」を組み合わせた造語。
Re-Fort PROJECT vol.5 メンバー(会田大也、下道基行、中崎透、服部浩之、山城大督)

※スクウォット(squat)とは、元々は“居座る”の意。ヨーロッパに見られる運動で、放置されたままになっている建造物を勝手に使用する。これには利用価値の無くなった物件の有効利用のプレゼンテーションという意味合いがあり、アーティストがスクウォットした建物が後にアートセンターとして利用される等、土地利用の柔軟な解釈として存在する。

画伯

2009年7月 6日 20:08 下道 基行 */?>

撮影に行ったフナハシさんちの子供が絵を描いていた。3兄弟みんな画伯です。
末っ子はまず、紙に、赤で太陽、黒で地面を描いた。
地面の上には、大中小の宇宙人のような、3兄弟。
そのあと、画面の上のほうから、ぐるぐると黒色で雲を描き始めた。


お兄ちゃんが「雲が真っ黒じゃなぁー!?」というと、
「雨の雲じゃけー」と言って、上から下へどんどん黒く画面を塗りつぶしてく。
そして、遂に太陽まで黒く塗りつぶされ、
雨が降り始め、雷が描かれ、
ほぼ真っ暗な土砂降りの絵になった。

画伯曰く
「朝は晴れとったのに、今雨ふっとっるしな、今日の絵」

晴れの時から、後ろで見ていたので、絵が朝から夕方までの時間が入り込んでいるのを体験できて、静かに感動しました。
言い値、紙で作った10円でその絵を買いました。


2009-07-06 00:50

2009年6月29日 15:43 下道 基行 */?>



[ 日曜画家/Sunday Painter ]


2006 - 2010






祖父はよく旅をして絵を描いた
祖父が描いた絵をさがす旅に出た


My grabdfather traveled and painted a lot.
I made a trip after his paintings.








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ママ

ウチのお店、町のお偉いさんがずいぶん来るんやけど、みんな飲んだら普通のおっちゃん。
みんな「ママ~、ママ~」言うてくんねん、子供みたいでかわいいでぇ。
この絵、よぉお客さんから「誰の絵なん?」て聞かれるんやけど、
私、おじいちゃんに会うた事ないやろ。
そやから「友達のお父さんの絵やねん」て答えてるんやわぁ。
そしたら今度、「これどこの風景やの?」て聞かれるやろ、
それもよう知らんから「たぶん日本とはちゃうなぁ…」言うて、いっつもごまかすんや。
この絵のこと、何もしらんなぁ。はははっ。 
少し前まで、ウチにあったおじいちゃんの別の絵、町役場の重役さんが気に入ってなぁ。
無理や言うてんのに、「地元の風景の絵やし、絶対欲しい!」て。
今は役場の部屋に飾ってあるんよ。
おじいちゃん、えらい紳士やったらしいし、会いたかったわぁ~。


Mama

My pub is visited by many people.
for example, policemen, firemen, and many important people of my town.
Whenthey drink, they become common folk.
Then they look like my children, they are youthful and sweet.
Many visitors asked me "Who painted this picture?".
Then I answer "My friend painted it"< because I hadn't met him.
Next, VIsitors often asked me "Where is the land scape in this picture?".
I dodge this question "Maybe... this is not Japan", becouse Ididn't know about it.
I don't know any this picture, hahaha...
Now I remember, often the direcotor of town office came to my pub.
One day hetook the other picture that i had prior to this one.
He said "I want this picture, because it's drown our town!".
Now That picture is displayed at his office.
I wanted to meet your grandfather just once...
because people say "He was such a gentlemen".


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妻の妹の夫

この絵はねぇ…、大阪からこっちに引っ越して来た時にもろたから、もう20年くらいはこの玄関にあるねぇ。
後ろからの東大寺の絵って珍しいやろ?
大阪に住んでるころ、ハイキング行ったら、東大寺の裏山からの景色が良うてなぁ。にいさんにそれを話したら「ほんなら、行ってみるわ」いうてね。この絵をすぐに描いてくれたんです。
あの頃、にいさん元気やったから、バイクでいろんなとこ走り回っとったな。

A husband of his wife's sister

Let's see... I got this painting when I moved from Osaka, so that makes it like 20 years by now that we have it in the entrance.
Don't you think it is kind of unusual to paint the backside of Todaiji-temple?
Back in those days when I was still living in Osaka, I visited Todaiji-temple, and found that a view from backside hill was great.
When I told him about it, he said "Then, I will go see it," and came back and painted it right after.
He went around many places with his motorcycle in those days.



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お父さんのアトリエを取り壊すとき、棚や倉庫にホントにたっくさんの絵が残っとってなぁ。
うちにも結構持って帰ってきたし、ええなぁと思う絵は親戚や友達に送ったんよ。ただ、ホントたくさん絵あってなぁ…。
全部は持って帰れんぶんは、最終的には廃棄業者に持っていってもらったんよ。もったいないことしたなぁ…。
まだウチにもたくさんの絵があるでしょ。たまに人にあげてるから、これでもずいぶん数減ったたけど、15枚くらいくらいかなぁ。
季節に合わせて、「この部屋の夏はこれ!」って、絵を掛け変えれるくらいは残しとかんとね。


His daughter

We found a lot of his paintings on the shelf and in the storage when we pulled down my father’s studio.
I took many of them to our home, and also sent the good ones to his relatives and friends.
But you know, there were so many...so I needed to make a decision to throw some of them that had nowhere to go...
I still regret that.
Even though I keep giving it away to people, I guess we still have lots of them at home. Maybe around 15 or so?
I think I'd like to keep enough to change the paintings in each room in every season.



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娘婿の姉

おじさんとはもう長いこと会ってなかったけど、テレビ見ていて「アタックチャンス」の児玉清を見る度に、今でも主人とおじさんのことを思い出すんです。 少し似てない?
おじさんの個展に絵を見に行ったこともあるし、毎年おじさんから手彫りの版画入りの素敵な年賀状が届きました。だからいつか絵が欲しいなぁと前から思ってたんです。結局、おじさんが亡くなられて、家を壊す時に、たくさんの絵が残っていると聞いたので、何枚か絵をいただくことになりました。
この海辺のブルーの油絵は、すごく気に入って玄関に飾っています。絵をもらったときに、「この絵は玄関だ!」って思ったんです。実はこの絵が来るまでは、この壁にはモネの睡蓮の絵のコピーが飾ってあったんですよ。


The elder sister of his son-in-law

I haven’t seen my uncle for long time, but every time I watch the TV quiz show ‘ATTACK CHANCE’ and see the actor Kiyoshi Kodama, I remember both my husband and him. Don’t you think they look similar?
I saw his paintings at his solo exhibitions, and every year he sent me a new years card which was a woodcut print. So I’ve wanted to own one of his work one day. When he passed away, his house was going to put down, and then, Somebody told me that there are a lot of paintings left in the house. So I went there and picked up some for myself.
This blue seaside oil painting is my favourite one and that’s why I hang in the doorway. I immediately thought “Yes, this should be at the entrance!” when I got it. There was a fake copy of Monét’s ‘Water lilies’ before that.



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ご近所さん

フジカワさんと出会ったんは、地元の自治会の当番の時やね。
静かなおじいちゃんやったけど、ある時自治会の話し合いで「助成金を値上げしてくれ!」って言い寄ってきたおっちゃんがおってな。そん時フジカワさんが「自分で遊ぶ金くらい自分で出したらええねん!」って言ったら、みんなから拍手がおこってなぁ。カッコエエおじいちゃんやなぁて思って、帰り道で呼び止めて、一緒に近所まで帰ったんよ。そやから、私がナンパしたんやなぁ。(笑)
この絵は、あなたのお母さんがくれたんよ。
色きれいやし、奈良の雰囲気でとるし、いい部屋に飾ったらもっと栄えると思うんやけど、ウチには飾るとこないんよ。家建て替えんととあかんなぁ。
でもおばちゃん、台所にいる時間が多いから、ここに飾ってあると、いつもボケッと眺められるんよ。


His neighbour

Well, I met Mr. Fujikawa at a town meeting.
He was a quite an old man. In one of the town meetings some old folk cried out, “We need more funding!”, he yelled back at him, “Can’t you afford even your spending money, huh?”, and everybody applauded. I thought he was so cool, and caurht him on the way home and we walked back to the neighbourhood together. Sure, you could say that I flirted with him.
You know, it was your mother who gave this painting to me.
I think the colour is good, and it really shows how Nara is like. I think it would look better in a better room, but there is no such space in my house. I should rebuild this house, perhaps.
But if it’s hung here, it’s good. I can see it at any time because I spend lots of time in the kitchen every day.





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物語となった記憶

 考古学者になりたかった下道少年は、カメラをもったアーティストになった。だが、感心を寄せる対象は少年時代とそれほど変わっていないとみえる。下道基行は、特有の歴史や記憶が有形無形に遺る場を訪れ、その場や物がたずさえる人々の記憶を取材し、写真に納め、ときにそれについて書くことを作品としている。題材は社会的なものから個人的なものまでと幅があるが、自分の足で歩き自らの五感で確認し、その場や物に留まる記憶に直にコンタクトする実地調査の手法は共通している。
 国内に遺る戦争遺跡や旧占領地に建てられた鳥居を追跡調査してつくった他の作品に比べると、私的な性質が際立つ本作《日曜画家/Sunday Painter》は、日曜画家だった祖父の遺した油彩を下道本人が訪ねつくった、写真とお手製の本からなるシリーズ作品だ。
 だが、不思議なことに、これらの写真は祖父の遺した絵を主題としながらも、必ずしもその肝心の絵に焦点があわされていない。絵はときに構図の中心から外され、ピントがあっていないものさえある。撮影者の視点は、祖父の絵というよりむしろ、絵の持ち主である人や、その人の営みがうかがえる部屋へ向けられている。下道が写真を通して本作でとらえているのは、つまり、絵そのものではなく、その周辺にあるものであり人であるといえる。
 一方、写真と対につくられた本は、下道が絵のもらい手たちから聴取した、祖父にまつわるさまざまな記憶に焦点をあてている。下道は、語られた記憶を話し手の口調やなまりをそのままに残し、口語体で文章化した。語り口調がいかされた文章の書き方は、取材した素材に忠実な記述であるという印象を読み手に与える。だが、私たちが目にするのは、語られた言葉のなかから下道が取捨選択したものにほかならない。記憶は編集されるとしばしば言われるように、事実のある部分は無意識的に誇張され、また別の部分は忘却される。本作で絵の持ち主が語った記憶もその例外ではないだろう。言い換えれば、この本は、「記憶」という名のもとに語られた脚色された事実を、下道がさらに編集して仕上げた、一種の「物語」なのである。
 人の主観によって知らず知らずのうちに変容する歴史や記憶。下道の視点の先にあるのは、有形の遺跡や遺品そのものではなく、潜在意識下で変形し、もとの形を失ってぼんやりとしている記憶ではないだろうか。下道が本作を通して行ったことのひとつは、過去から現在へと至る間にズレや歪みをうみ「かたち」の定まらなくなった記憶に改めて「かたち」を与えること、そして個々人のなかにかすかに残る逸話を引き出し、物語へと整えたことである。
 祖父の絵を追うという自ら定めたルールにそって、下道が人びとを訪ね、彼/彼女らの記憶を収集し編集した《日曜画家/Sunday Painter》は、「かたち」を与えられた記憶を通じて、どこか懐かしい身近な物語を見る者に伝える。すると、似たような想い出が鑑賞者の内奥からも呼び出され、それに付随する逸話が浮かび上がってきはしないだろうか。もしそうだとすれば、自らの「記憶」という名の「物語」に耳を傾けてみるのも一興だ。


竹久侑(水戸芸術館現代美術センター学芸員)


"Memories transformed into stories"

Shitamichi Motoyuki, who wanted to become an archeologist when he was young, has now become a camera-toting artist. The things that captured his interest as a boy, however, seem not to have changed much. Shitamichi visits places where trace of specific histories and memories remain, in forms that are both tangible and intangible. He interviews the people associated with a particular place or object, collecting information about their memories and recording the results of his research in the form of photographs, occasionally presenting his own thoughts and musings on these topics as part of his work. the subject of his research ranges from social themes to individual anecdotes, but what all of Shitamichi's work shares in common is its field study approach: first-hand investigations that consist in verifying facts using his own senses, and making direct contact with the memories that lie embedded in places and objects.
 Compared with other works that emerged as a result of follow-up investigations of war ruins in Japan and torii gates (typically found at the entrance to Shinto shrines) in Japan's former territories, "Sunday Painter" has a conspicuously personal tone to it. Comprising several photos and a handmade book, this series was created after several visits spent tracking down some oil painting left behind by his grandfather, an amateur artist.
Curiously enough, however, although the subjects of these photos are the works left behind by his grandfather, their focus is not always on the paintings. In some of photos, the paintings are removed from the center of the composition, and others are even somewhat unfocused. The photographer's gaze appears to be trained not so much on paintings, but rather on their current owners and the rooms that reveal something about their lives. In other words, what Shitamichi captures in this work through his photographs is the things and people that surround these paitings.
The book that accompanies the photographs, on the other hand, focuses on the rich variety of memories related to Shitamichi's grandfather that were told to him by the recipients of the paintings. Transcribed into stories written in a colloquial style, the recounted memories retain the accent, tone of voice and expressions unique to each person. Shitamichi's style of writing, which makes use of the distinctive voice of each speaker, gives the reader the impression that this is a faithful rendering of the material that was collected during his research. What we see, however, is nothing but a selective part of what was actually recounted to the artist. Just as memory is often said to be edited, elements with any truth to them become unconsciously exaggerated, while other parts are completely forgotten about. The memories recounted by the owners of the paintings in the work, as it turns out, are no exception. To put it another way, this book is a kind of "story" based on dramatized truths, recounted in the form in the form of "memories" that Shitaimichi father edited and polished.
History and memory are often transformed by human subjectivity without us ever being aware of it. Shitamichi's gaze is trained not on the tangible remnants or concrete traces left behind by history, but rather the things that undergo a metamorphosis, losing the contours of their from and becoming only a vague recollection in our subconscious. One of the things that he has done through this work is to restore a semblance of from to memories that have been shifted or distorted in the interval between the past and the present and become misshapen, so to speak. In so doing, Shitamichi teases out anecdotes whose faint traces still remain in the minds of these individuals, and reworks them into stories.
For "Sunday Painter," Shitamichi set himself the task of tracking down his grandfather's painting. by paying visits to the owners of the paintings to collect their memories, he transformed them into his own work through the act of editing. These recollections, which have recovered some sort of "shape" thanks to Shitamichi, recount to the viewer stories that are somehow nostalgic and familiar. Similar memories are evoked in the deepest recesses of the viewer's mind-and along with them, perhaps the anecdotes attached to those memories will also start to rise to the surface. If they do, perhaps the viewer will find his/her own joy in listening to the stories that their own so-called memories have been transformed into.

Yuu Takehisa (curetor, Contemporary Art Center, Art Tower Mito)

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■写真集『日曜画家』

(写真+文+図:下道基行/袋とじ仕様60p/A4/ 日・英/2010年/1800円)(NADIFF)

■『Sunday painter』

photograph+text+figure: Moyoyuki Shitamichi
Edit: Moyoyuki Shitamichi
Pages: 60p
Dimensions: 21cm×29cm
Binding: double-leaved centerfold
Publication year: 2010

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exhibition『Art trip vol.01窓の外、恋の旅。/風景と表現』
芦屋市立美術博物館 Ashiya city museum of art
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撮影:表恒匡


exhibition[ 日曜画家/Sunday Painter ]
水戸芸術館クリテリオム79 Art Tower Mito
2010.Jul.
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トーキョーワンダーサイト青山オープンスタジオ
Tokyo Wonder Site Aoyama Openstudio
2010.Sept.


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2009年6月10日 17:10 下道 基行 */?>



[ 旅をする本/Toraveling books ]
2009 / 2011




[旅する本 2011/traveling books 2011]


準備中






[旅する本 2009/traveling books 2009]

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フランスに1年間滞在し、帰国の準備を始めた頃。
本棚に並ぶ文庫本を日本へ持って帰るか、古本屋に売ってしまうか迷っていた。
知らない異国の地で大切に読んだ日本の文庫本たち。
これらの本に図書カードと説明を付けて、友人やヨーロッパ旅行で出会った人に譲る事にした。
《書き込み用のブログ》を作ると、たまにいろいろな場所から書き込みがあった。

《書き込み用のブログのコメント欄》

『ノーザンライツ』
Commented by 下道 at 2009-05-25 12:06 x アドリア海に面した城塞都市、クロアチア・ドブロヴニクを離れる前日、旧市街のメインストリートの水のみ場で出会った女性に手渡しました。

Commented by なつ at 2009-05-28 18:01 x
ノーザンライツはルーマニアのサプンツァ村で次の人の手に渡りました。なかなか日本人に逢うことがなく、日付を記入すると受け取ってからちょうど1ヶ月がたっていました。ここのところ田舎町を転々とさまよってきました。下道君と出会ったクロアチアでのツーリスティックな日々が同じ旅とは思えないほど前の事に感じます。私の身体同様、旅する本も大分くたびれ、少し補強しました。なぜなら、この1ヶ月に何度も感動を与えてくれたこの本に、少しでも長く旅を続けて欲しいと願うからです。

Commented by Nair [E-mail] at 2010-03-20

To Mr. Shitamichi
The book "Northen Lights", by Michio Hoshino is still travelling around he world (arrived to South America last december).
The picture attached shows the book on the city center landmark at Sao Paulo, Brazil.
The book is now with my sister, who works in the japanese consulate in Sao Paulo. I think there are a lot of potential readers and travellers close to her but at this moment, she's "the reader of the moment". I'm sure the book will keep travelling - the person who gave me the book, miss. Miho, was expecting to make the book leave Europe and go to other continents. And here we are now.

Mr. Shitamichi, your project had inspired me a lot. Actually, I'm also gratuated in arts and I was travelling through Europe, trying to find my way to the future when I met "Northen Lights". It gave me hope and a extra push to follow something I would define as a "call": the art field.

Glad for being part of this project and wishing all the best,

Nair Sasaki




『津軽』



Commented by 下道 at 2009-06-10 16:48 x
「恐山に登りたい!」と、青森一人旅行を計画していた女性に東京で渡しました。

Commented by mami at 2009-06-21 10:21 x
青森はどこも人がいなくて、旅人なんてもっての他の状況。
恐山なんて貸し切りでしたノ。
そこがまた良かったのですがノ焦りました。
でもどうしてもちゃんとした所?でしっかり手渡したかったので
時期を見計らっていたら、最終日になってしまいました。
いよいよ帰路目前の県立青森美術館の出口にてやっとすれ違った
十和田からやってきた東京在住の旅人に手渡しました。
強行旅程で美術館巡りをしている方でした。
旅人に渡してくれる事をお約束しました。
奇しくも手渡せた6月19日は太宰治生誕100年のその日でした。
良い課題をありがとう。

Commented by shin at 2009-06-22 00:51 x
青森で受け取り、現在東京の目黒に本が来ています。
この本がどこに行くか、楽しみです。

Commented by 下道 at 2009-06-26 22:21 x
>mamiさん
ありがとう。
また、旅の話を聞かせてくださいませませ。

>shinさん
はじめまして。
偶然にも太宰の特別な日だったみだいで。すごいですねぇ。
今は青森から東京へ来たんですね。
次もよろしくお願いします。
近所の友人でまわすのも良し、旅に行く人でもよし、電車や飲み会で隣になった人でも良し。本に面白い旅をさせてくださーい。

Commented by shin at 2009-07-31 15:09 x
本が僕の手から旅立ちました。
実家名古屋の旅好きの母に受け継ぎました。
名古屋から、また未知の土地へ旅していって欲しいです。
早速母は本を読み始めていました。
しっかりと次につながるように監視しときます。





『カスパの男』


Commented by 下道 at 2009-05-09 02:02 x
大阪に引っ越すという友人にパス。

Commented by O皮 at 2009-12-11 14:47 x
これから欧州/アジア/アメリカ/南米に長期旅行するという大阪在住のアグレッシヴな女子にパス。

Commented by moto-michi at 2010-01-03 23:28
>O皮さん
ありがとう!!!!!!
どこへ行くのでしょう






『トゥルー・ストーリーズ』


Commented by tomo at 2009-10-19 23:54 x
2009年の3月末、山口で受け取りました。旅をする予定が延び延びになり、半月以上経った10月。
パリの街並みを眺めながらノートルダム寺院の塔の上で知り合った日本人女性に渡しました。
彼女は、作者のポール・オースターが好きだという。偶然、いや必然だったのだのかなぁ。
またどこかで誰かから「旅する本」を受け取りたいなぁ、と、思う。また旅したい。

Commented by Naoko at 2009-11-02 20:25 x
パリでこの本を受け取りました。
ノートルダム寺院の塔は、一気にたくさんの人が上に出られるほど広さがないので、入り口で20人ぐらい?ずつ入場制限があります。本当は私の前で切られそうだったのだけど、私の後ろが中国人の団体さんで、ガイドさんが「この人だけ日本人だから、先に行かせてあげてよ。僕説明できないし」と係りの人に言ってくれたおかげで、tomoさんに出会えたし、本も受け取れました。オースターっぽい偶然の出会いですよね。
30代後半の勤め人なので、自分もそうしょっちゅう旅行できないし、バックパッカー的長旅に出る知人もいないのですが、1週間まえ、渋谷のスタバで、少なくとも今年中には旅に出る予定の友人に渡しました。頼むよ?。

Commented by moto-michi at 2010-01-03 23:31
>tomoさん
>Naokoさん
何か素晴らしい出会い、そして書き込み、うれしく思います。
その本がまた「渋谷のスタバ」でまた誰かの手に渡るノ。なんかいいですね。。





『沈黙』


Commented by 下道 at 2009-05-09 02:04 x
パリに遊びにきた友人がスペイン旅行に持っていきました。

Commented by 佐藤 尚理 at 2009-05-10 09:08 x
パリで受け取りその後スペイン巡礼の旅を歩きスペインのサンティエゴ デ コンポステーラからのポルトガルのポルト行きの電車の中で知り合った方に渡しました。

Commented by 下道 at 2009-05-10 18:46 x
パリ→スペイン→ポルトガル かぁ。。
ポルトガル行ってみたいなぁ。
ありがとね。





『この国のかたち』



Commented by 下道 at 2009-05-09 02:00 x
パリで旅行中の方に手渡す。
Commented by zwei at 2009-06-12 16:53 x
帰国中の飛行機の中で読みました。かなりのタイミングでキラーパスが飛んできた感じでした。
帰国後の琵琶湖の空が特別なものに見えた。

京都にてこれからフィンランドへわたるという友人にパス。その後のよい旅を願う。





「既にそこにあるもの」


Commented by 尚理 at 2009-05-10 09:12 x
パリで受け取りその後スペイン、ポルトガル、モロッコ、を旅行してドイツで知り合った美大生にわたしました。

Commented by 下道 at 2009-05-10 18:45 x
ナオミチ君、お久しぶりです。
ありがとーー!ナイスパス!!






tbnaibu.jpg この本は、旅をしています。 この本を、どこかへ連れて行ってください。 読み終えたり、読まなくなった本は出会った誰かに譲ってください。 手渡す時に、「図書カード」にその日と場所と相手のサインを書いてもらい、人に手渡すのがルールです。

 以前、ヨーロッパを旅行中にホステルで出会った日本人旅行者と交換した文庫本は、今でも自宅の棚にあって、偶然手に取る度にその旅の記憶がよみがえってきます。本を読んだ時間や、風景や出会った人の事…。
最近では小説や文章はウェブサイトでも読めます。でも、「本」はその内容や物語を超えて、物体/オブジェとして、旅や生活の「記憶や時間をため込む装置」になっているのではないかと思います。

この『旅をする本』は人から人へ渡りながら、人と旅とをつながいで、移動していきます。そしてそれぞれの旅や風景や出会いの記憶や本との時間はこの本にため込まれていくでしょう。
(メモや落書き等はご自由にどうぞ!)

 そして本が旅をはじめた日付から1年ほど経った頃お持ちの方、下記の僕のメールアドレスにご一報いただけますと助かります。
 最終的には、戻ってきた本を手に、この本を手にした人達の旅の記憶を拾い集め、『旅をする本/traveling books』として一冊の本にまとめたいと思っています。(今度はバイリンガルで!世界を旅する本に)
 是非メルアドを、「図書カード」に書くか、本を渡された方と交換してくださいますとうれしいです。下記のホームページの「TRAVERING BOOKS」コーナーには書き込みも是非。ご協力よろしくお願いいたします! 
本と共に素晴らしい旅を!






exhibition[ 旅をする本/Traveling books ]
倉敷市立中央図書館 Kurashiki city library
2010.Nov


kurashiki-musium13.jpg
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パリにて

2007年10月 2日 07:46 下道 基行 */?>

現在パリ滞在中。(滞在は2008年8月まで)
その後は今のところ、タイとベトナム辺りをフラつこうかと思っています。

写真展『戦争のかたち』INAXギャラリー

2007年9月26日 13:35 下道 基行 */?>

 ある日掩体壕や滑走路、トーチカなど、戦後まもなく生まれの私でさえほとんど見たこともない構築物ばかりを写したファイルを持って、若い作家がやってきた。紙焼写真に写っていた
ものは、道路を跨ぐように建設された弓形の曲線の奇妙なかたちの開口部をもったものや、海辺の突端に置き去りにされたような、窓のない四角な箱のようなものなどがいくつもあった。日本が第二次世界大戦に敗れて、そのまま放置された「戦争のかたち」だった。
下道基行は4年ほど前アルバイトの途中で、2階建ての廃墟に遭遇した。壁には弾丸が打ち込まれた無数の傷が残り、説明看板には太平洋戦争の折、敵戦闘機が打ち込んだ機銃の弾のあとだと書かれてあったと言う。まもなく様々な資料を手がかりに、その不思議なかたちを探し歩き始めた。戦争の遺物を探しながら、見つかるたびにきっとUFO基地か宇宙基地のような未来感に包まれていたのではないだろうか。対象物への傾倒は、劇画やアニメや圧倒的な映像に囲まれて育った、青年から大人になりたての下道基行の年齢でなければ起こりえなかった。彼の世代にとって、60余年前の戦争は、映像や書物の中にしかない。廃墟も戦争の構築物も、いま囲まれている都市の皮膜のつるつるぴかぴかしたものと対極にあるからこそ下道基行の目にとまった。
長い間私たちの父母や祖父母が語り伝えてきたのは、身近な日常をいきる些事や喪失ばかりで、戦争が残した遺物は、見えていても見えなかった。修羅のような日々では、これらは忘れたい装置だった。
今夏が戦後60年目だ。毎日のようにどこかの国とのあいだで、敗戦のぎこちない対応や処理が尾をひいているらしいとニュースが流れる。それらの画像に下道基行の写真を二重写しにしてみる。偵察のためのコンクリートの小さな箱のような建物や、飛行機を格納し飛び立っていく不可思議な開口部をもった構造物を、突貫工事でつくっている何千人もの人々の火の玉のようになって働く姿が見えてくる。槌音や掛け声、罵声や祈りも聞こえてくる。
長年にわたる放置ですっぽりと緑に覆われて輪郭のかたちさえ定かではなくなった掩体壕や砲台は古墳の面差しをしはじめている。都市に近い砲台の一部は、公園の遊具に溶け込んでいたり、民家と隣り合わせ、倉庫や仕事場に利用されているものもある。「国敗れてトーチカあり」「砲台やつわものどもが夢の跡」と、人口に膾炙したフレーズに紛れこませてみると、戦争とはコンクリートや鉄や木材やアスファルトを蕩尽し、そこここに奇妙な建造物を置き去りにするものでもあったことを知る。日本というオープンエアにたつミニマルアート、抽象彫刻に見えなくもない。これらの装置がふってわいたように建つどの場所も、どことも知れない非現実的な場所に見えてくる。どこも無音で、かげろうがたちのぼっているように揺らめいている。若い下道基行に掴み取らせこの光景が、深く眼裏に刻まれる。

INAXギャラリーチーフディレクター 入澤ユカ

日記

2007年9月26日 05:38 下道 基行 */?>

こっち着て、このブログが書ける環境になるまで、ノートに書いてた日記をアップします。
別にどうって事ないので、暇な人はどうぞ。

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9月4日

6時40分時間通りにパリシャルルドゴール空港着。
空港のアメックスでTCをユーロにして、Roissybus乗り場でシンガポール人の華僑系?カップルと話す。
彼らのパリ滞在は4日間だけらしく、こちらが1年というと「いいねぇ」とうらやましそう。今まで1、2週間程度の海外旅行中にこの反対の状態を経験して来ていたので、少し優越感。
バスに乗り、終点オペラガルニエを目指す。地下鉄の方が安いし目的地までのアクセスもいいのだが、ガイドブックに旅行者を狙った犯罪が大変に多く特に朝晩は要注意とのことだったので、市内へはバスを選んだ。バスに揺られながら、空港から兎町の中心に向かう郊外の閑散とした風景は、成田や台北やサイパンやどこも似ていると感じた。建物は町に比べて少ないが、廃墟がやけに目立つし、どこか牧歌的でそうではない風景。巨大なショッピングセンターIKEAがあったりして、部屋の事とかも考えつつオペラガルニエ着。
朝日に照らされたベタベタなゴッシック町並み、9月頭なのにもう冬の始まりのようなカチンと張りつめるような冷たい空気の中、背中に10キロ以上のカメラが入ったリュック、前に貴重品類を詰め込んだ肩掛け、さらに手には95リットツのスーツケースを押していて、数分歩くと汗が吹き出してきた。さらに先月日本で買ったばかりのスーツケース(リモア似の安物)のタイヤは石畳の通りでガタガタと壊れそうな音を出している。
まずはオペラ大通りをルーブルまで出て、そこからセーフ川沿いにひたすら歩く。仕事に向かうのだろう慌ただしい人の流れの中をもたもた歩きながら、あーーとんえもないパリ中心街に来たんだなぁと思いながら1時間、思った以上に遠い我が家に不安になり始める。何度か通り沿いの店の店員に道を聞きながら歩く。笑顔で自信満々で全然違う場所を教えてくるヤツも多かったが、文句の一つも言えず全て「メルシー」で。
目的地であり今日から我が家になるcite international des arts着。しかし、ノートルダム寺院要する超有名観光地でもありパリ市の発祥の地でもある「シテ」を名前に付けたかったのは分かるが、施設はシテ島の対岸を通り過ぎる事10分(手ぶらで5分)、サンルイ島の対岸である。
一階の受付で面倒くさそうに片言の英語を話すTシャツ姿の小太りの野郎に入居の作業をしてもらい部屋へ入る。4階のセーヌ川側の部屋、ガランとした10畳くらいのアトリエとドアは無く壁だけで隔たれた3畳ほどの寝室、あとキッチンとシャワー&トイレと1畳半くらいの倉庫。東京都内で借りるなら15万円前後くらいはする物件だろうか。(後日談によるとこの辺りでもそのくらいはする部屋らしい)広さは十分すぎるほど。
強いて言えば、入居前に学校の留学課や色々な人からも「セーヌ川沿いで、窓からノートルダムやエッフェル塔までも見える素敵な部屋ですよ」と聞いていて期待していた部屋の窓からの風景は、ノートルダムとエッフェル塔の上の方以外は建物のすぐ前に鬱蒼と茂る並木に阻まれことごとく見えない…。期待は残念の元。(造語)
何もないアトリエにぽつりと置かれたテーブルで小太りの差し出した書類にサインすると、契約完了らしく小太りは出て行った。

とりあえず、バッグを置いてシテ島に橋で渡りノートルダム寺院に行く。施設を出ると、もう町は朝の通勤モードから観光モードに変わって、通りに観光客が溢れている。やけに中国人団体観光客が目につく。中国人のおやじはNIKONの巨大なデジタルカメラでバジャバシャ写真を撮りまくっている。日本を発つ前に読んだ「ニューズウィーク」にそんな中国人観光客を世界の観光地の人々は「21世紀の日本人観光客だ」と書いていたのを思い出した。日本人観光客は数人単位でポツポツといて、意外と地味にしている。こういった話をすると「日本人観光客はもう成熟した」などと聞くことがあるが、本当にそうだろうか。多分人それぞれ。

これまで1年に2、3度の国内外旅行(取材)をして来た。そのほとんどがバイトの休みの関係もあって1、2週間の旅だ。そんな旅に出かける時は、ある程度の行く場所の予習計画を建てるし、それなりの意気込みというかある種の旅のテンションを持って出発し行動していたように思う。観光地は好きな方じゃないけど、「せっかく来たんだしとりあえずコレくらいは見とかないと」で、こういった場所も押さえてきた。つまりはこうした、その土地の有名な食事を食べて有名な風景をを眺めるのが「観光」というものなのだろうし、「観光地が嫌いだ」などと言う旅人でさえ、この巡礼的な「観光」からはなかなか逃れる事ができない。
でも今はこの場所に1年住むということで、テンションを見つける事もできず日本のままのテンションを引きずりながらここにつっ立っていた。昨日まで日本にいた自分がこのベタな観光地のど真ん中に目的の無くフラフラしている事の違和感に満ちているのだ。

お腹がすいたので、散歩で見つけた地元っぽいパン屋でクロワッサンとチーズの入ったパンを買い部屋に帰って食べる。ムサビから来ているもう一人の日本人ナホシ君に内線で連絡をしてみる。彼は寝ていたみたいで、一時間後にウチに来てくれ、この施設についてや町の事、便利な店、インターネット、居るものとかいろいろな事を教えてもらう。その後、実際に近所の安いスーパーや電気屋、雑貨やを教えてくれながら2人で2時間ほど散歩をして、その後、七星君の部屋でビールを飲みながら夜に夜になるまで色々とくっちゃべる。七星君は髪を後ろで束ね痩せた村上隆の様な風貌だが、温厚というか刺々しさが無い雰囲気、制作もコンセプチャルアート云々じゃなくて純粋に描く行為を楽しもうとするタイプみたいでいい感じ。ビールは500ml8本で8ユーロと意外と安い。

9月5日

時差ぼけのせいで、深夜2時、4時、6時と2時間おきに目が覚める。朝6時にはもう寝れなくなり起きだす。
倉庫に山積みになっていた備品や前の住人が置いていった家具をガランとした部屋に配置してみるが、絵を描いたりするような広いアトリエが、いくつかの家具で構成できるはずもなく、部屋はガランとしたままだった。
絵を描かない僕にとって、メインはフィールドワークであり、アトリエは文章を書いたりネットをしたり情報を集めまとめていく編集の場所となるだろう。
メインの仕事場になるだろう大きな黒いデスクを外に向けて置くか、今までしてきた様に壁向きにするかで1時間ほど悩み、結局中途半端な角度にしたまま散歩に出る。

Tシャツに上に一枚羽織って出ると冷たい空気がちょうどいいが、日差しが出るとすぐに暑くなった。白人の観光客なんかは元からTシャツ姿でウロウロしている。
昨日七星君に教えてもらったスーパーやショッピングモールを反芻する様に巡り、帰りは少し迷ってみる。

部屋に戻り、買う必要のある物をとりあえずリストアップして、ノートパソコンを持ってポンピドゥを目指す。最近パリは観光事業の一環で公共の場所に無料ネットサービスを行っていて、無線LANに対応していれば、ものの数秒でネットをつなげる事が出来る。展示を見る事も無く、入り口付近のネットスペースに腰を下ろし、ノートパソコンを膝に置いて溜まったメールをチェックする。
その後買い物をして部屋へ戻ると、ちょうどのタイミングで七星君からの内線が入る。この施設には最初から内線電話が繋がっていて、受話器を取って部屋番号をダイヤルすると、直通が無料で掛かるシステム。ここシテ寮で交流の為に月一で開かれるパーティーは、ナンパ目的の輩も多いらしく以前ここに住んでいた女性からは、むやみに部屋番号を教えるのは辞める様にとのアドバイスを受けた。
少し話が外れたが、ナホシ君からの内線は「今夜、ボザール(国立の美術学校)に通ってる女性がホームパーティーをするから一緒に行こう」というもの。待ち合わせの時間までまだ時間があったので、もう一度散歩に出る。
夜七時、外はまだ明るい。七別館(僕は本館)の前に時間通りに行くと、ナホシ君と日本人女性が待っている。女性はリエちゃんと言って別館の七星君の向かいに住むピアノの演奏者。3人でRER(地下鉄)でジュレス(Jaures)へ向かう。電車内も町も黒人が多く、七星君は「この辺りは治安がよくなさそうだ」と言っている。
部屋は駅から徒歩5分くらいの薄暗い建物の4階の部屋。中に入ると、家主のミロちゃん、ルームメイトのニーナ、2人ともボザールに通う予定で、あと国内の助成金を受けてパリに住む伸君。みんな日本人アーティストだ。どうやら今日ニーナはパリに着いたらしく歓迎会のようだ。ミロちゃんが作ったパエリアはとてもおいしかった。みんな歳も専門も違うけど、すぐに打ち解け、酒はビールからワインへいき、最後はよくわからない甘くて強いお酒へ移行し、記憶が無くなる。

9月6日

ソファーで目覚める。

2007-09-26 05:38

読書

2007年9月16日 04:35 下道 基行 */?>

情熱大陸で大竹伸朗がやっていた噂が、遥々パリにまで届き、知人はyoutubeで探したが見つからなかったらしい。
「そこまでしてみたいとは思わない」とかほざきつつ俺は、彼の著書「既にそこにあるもの」をスーツケースの隅に忍ばせて、パリに持って来ていた。
日本で読んでてバイブルというわけでもないが、正露丸みたいに何かあったら服用する程度で持って来ていた。


【P59−P60抜粋】
  画家とか彫刻家、美術家、造形作家、どう呼ぼうがどうでもいいが、そう自らを名乗る人間にとって、作品制作における”意図”とは一体何なのだろう。意識的な作品意図をどこかしら超える瞬間のないものは、もはや”作品”とは呼べない。僕はこの”作品”と”意図”の関係が今でも不思議でならない。
 古い佇まいを持つ料理屋の便所の壁はとてつもなく美しいものが多いが、それをそれをくりぬいて美術館の壁にかけ、タイトルが「料理屋の便所の壁」だったとしたら、多くの人はそこに抵抗を感じるだろうか。僕はそうした壁に全く異なる意図的なタイトルをつけたり、そうした行為に意味を持たせることなく、便所からはがした美しい壁に、「便所の壁」というタイトルを付け、人々がそのタイトルを見ようが見まいが同じように「美しい」と思えるようになればいいと思う。なぜならそれは便所の壁なのだし、それは美しいのだから。


ありがとう、今日の腹痛も少し楽になった気がします。
というか、今文章が書けなくて、写してみたくなっただけかも。


2007-09-16 04:35:14

宮本常一

2007年8月19日 02:35 下道 基行 */?>

かつて僕が通っていた頃、ムサビに2校舎という建物があった。
今では近代的な建物になっているが、かつてはボロくて薄暗くて、学生達は「昔女子寮で自殺があった」「レイプ事件があった」などと噂するような、どこの学校にでもありそうな怪談の舞台になるような建物だった。
事実僕らも酔っ払って探検したり、肝試しをしたりもした。でも、昼間に行くと雰囲気は、コの字型に立てられた建物の小さな中庭に作られた荒廃した小さな畑や、入り口近辺にあふれ返った民具の山。入り口には、「民俗資料館」みたいな名前の書かれた古めかしい看板が立てられていた。
少し廃墟っぽくて、大学内からは少し隔離された奇妙な場所だった。

そのころムサビの名物教授といえば、民俗学の相沢先生だった。かつてムサビで教鞭をとった宮本常一の弟子(?)らしい事は知っていた。授業内容にもなっていた先生の調査保存したという茅葺の集落「大内宿」の写真は、別冊太陽『宮本常一』のムサビ教授時代にも「武蔵野美術大学の愛弟子たちと総合調査を行った」として登場していた。

かつての2号館の持っていた独特の雰囲気は、宮本常一とそこに集まった愛弟子(学生)たちの熱気の残り香のようなものだったのだろうか。


2007-08-19 13:14:53

前回の台湾日記

2006年10月19日 15:06 下道 基行 */?>

Cのデスクトップを整理していると、前回台湾に行ったときの日記が出て来たので、今思う事と一緒にアップしておく。

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3泊4日の台湾旅行は、残念なことに台風と歩調がぴったり合ってしまった。
電車での台湾半周の予定は、電車は全線がストップのために、結局2泊3日間は全く台北に足止めをくらってしまった。しかしと言うかそのおかげで、台北の路地にひっそりとある「おおしろ」という名の日本人が多く集まるバックパッカーが集まる宿に泊まり、1日中薄暗い談話室で、「今までや今からの旅の話」や「怖い話」「恋の話」等々修学旅行の夜みたいな話をしながら多くの旅人と酒を飲み交わした。何か長い旅の途中、どこかも分からない場所に迷い込んだような時間だった。雨が小降りになると、台風に飛ばされそうになりながら何人かで夜市を散策したりもしたし、それなりに濃厚な時間を過ごせた。
「おおしろ」は、日本人が経営しているために宿泊客の多くが日本人だったことで、いい意味でも悪い意味でもラクチン過ぎた。

3日目に無理矢理走り始めた特急列車「自強号」に乗り込んで、朝一で「玉里」という田舎町を目指した。途中後ろの座席から見知らぬおじいちゃんに「あのボロい家は日本人の製糖工場の官舎」「あれはビンロウの木だよ」などと、上手な日本語で解説をしてもらいながら窓の外を眺める。噛みタバコに似た効果のあるビンロウの木は背の高いヤシの木のようで、日本統治時代に開拓されたという広大な田園風景のなかに所々茂り、台風の強い風に幹を激しく揺らしていた。
通過する駅は、、、と日本時代の名残を残している。到着した玉里は、一週間程度の旅行で日本人が立ち寄るような観光資源を持たない街。この街には神社の跡がきれいな形で残っていると言う。北回帰線よりも南なので木々や町並みは沖縄のように南国そのものだが、曇った天気のせいもあり寂れ具合が日本なら山陰の小さな街のような雰囲気を感じた。
少し雨のやんだ瞬間を狙って玉里駅の裏山近くの住宅地で、今回の旅初の撮影のセッティングをする。住宅地にまぎれて立つ鳥居跡は、針金で作られたバスケットゴールやテレビ用のアンテナがくくりつけられ、さらには一本の支柱は家の柱として取り込まれていた。
どこからとも無くチャリンコに乗ったガキ達が集まってきた。興味はあるが言葉は通じなし怖いのだろう、歩行者天国の人気のないパフォーマーのように僕はガキ5人に遠巻きで観察されている。手帳にドラえもんの絵を描くと、すぐに人懐っこい笑顔で近づいて来た。ジャパニメーションは世界共通言語か。(調子に乗って「カメハメハー!」って動作付きでやったら、ポカーーンとしてたけど…。)
一人の少年は家からしゃべる電子辞書を持って来て、こちらをちらちら見ながら「こんにちは」「さようなら」などと日本語を鳴らし始めた。片手間に少しの台湾語で電子辞書に返事をすると、ガキたちは外国人との初の会話にはしゃいでいた。
神社の跡を撮影しいると、「こっちのもあるよ」と言わんばかりに無言で森の奥にある遺構を子供たちが案内してくれた。3脚を立て、時間を忘れ撮影に没頭していると、パチパチと音が聞こえるので子供たちを見ると、ヤブ蚊の襲撃に遭い、かゆそうに足を叩いている。さらに撮影を続けていると、少年が電子辞書で叩いて、「どれぐらいかかりますか?」だって…。爆笑しながらガキたちにお礼と謝罪。
雨が降り始めたので山を下りて台北へとんぼ返り、これが唯一の予定通りの行動になった。ま、これも旅。と、思うしかない。帰りの電車で知り合ったサーファーっぽい台湾人男性は「ヒカル」という名前。窓の外が暗くなる中、僕らは筆談で会話を続けた。時折新幹線の売り子のように女性がカラカラとカートに引いたやってくる。「弁当売り」らしく、「ベントー!ベントー!」と言っている。
いろいろなところに日本の亡霊を見るこの国。

「おおしろ」に帰ると、宿泊客の唯一の韓国人の女性が、まだ夜8時半というのに談話室で話す友人たちに「うるさい!」と不機嫌そうな顔を見せに来たり、女性用の部屋でヒステリックな音を立てている。先日、テレビで韓国映画女優が日本韓国の相違を聞かれ「日本人が嫌に思った事を内面に押し込むこと」を挙げていたことを思い出す。それって悪いこと?

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陸上に誰かが引かれたり、海の上を浮遊している国の境を往復しながら旅をする。
人々の外見や家並みや風景とかは驚くほど似ていても、人々の内面の違いにはいつも驚かされる。
前者の相違は遺伝子的な流れの中で形成され、後者の相違は国境線のように政治的/人為的に形成された、そう思うことがある。

前者特に類似している部分を紐解きながら地球を旅するのも楽しそうだけど、今僕は後者を見ながら狭い範囲で観察したいのかもしれない。

旅していると、今その国にあるイデオロギーの前世代の存在/影のような物と出くわす瞬間がある。
僕が数年前に国内で出会ってしまったのは、戦前の日本。村上龍の『5分後の世界』みたいに。それは自国で異国の文化に触れるような感覚に近かった。僕は知らないうちに戦後に作られた国/国民の方向付けに乗っかって生きて来たわけで、その政策のなかで戦前がバッサリ切り離されていたのだろう。戦争なんていくつもやって来ているのに、1945年を境に戦前や戦後って言葉を使うのも独特だし、「かつてこんな国がこの島国にあった」みたいな感じで、戦前は捉えられてるように思える。

台湾は、色々な国に支配され続けた歴史のなかで形成されている部分が強くて、戦前戦後って切り離す訳じゃなくて苦悩とかも引っ括めて冷静に見つめながら動いて行ってるのだろうか。中国や韓国とは違う、独立国ではない流動性のようなものみたいに。

2006-10-19 15:25:50