旅とそこから生まれるもの

「旅先から絵葉書を書いてくれない?」
いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……。×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。
その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。

最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。
ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝えること以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。
この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜に机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。
この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。
絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、
そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。
それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。

旅は日常からの“断絶”なのではないか。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。


2015年11月『旅するリサーチラボラトリー2016』冊子へ寄稿