文章/essay

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島で小学校2~5年生への私塾を始めます。
内容は以下。
すでに第1期生の募集は終了しています。

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美術家で写真家の下道基行が島で小中学生向きの私塾を始めます。
でも、絵も描かないし、写真も撮らないし、アートはしません。
何をするかと言うと、「自分で、ぎもんを持ち、しらべて、まとめる」ことを経験します。
最終的には、。子供による「子供論文」を作って大人に読んでもらえると嬉しいなぁと思います。

インターネットによって情報が簡単に手に入る時代、その情報は自分で選んで手に入れられていますか?誰かによって与えられているだけではないですか?島の子供の研究室(しまけん)では、子供達が自ら様々な事に「疑問」を持ち、それについて自ら「調べ」、調査成果をレポート/論文としてまとめ「発表」します。これは子供が論文を書くことを想定しています。「疑問を持ち」「情報を集め」「深く考え」「発表/表現する」力をつける私塾です。
僕自身がこのような私塾を始める動機としては、美術家として本当に大切なのは、「作るセンスや技術ではなく」、「色々な事に疑問を持ち」「自ら考え解決していく」力だと考えています。それはアートだけではなく、すべてのクリエイティブな仕事につながることではないか、全ての仕事をクリエイティブにできる人として育つのではないか。美術大学などで教える機会も多いのですが、もっと根本的な考える力を子供と共に学びたいと考えています。3~5カ月程度継続するもので、夏休みの自由研究には助けになりません。実験的な企画ですが、ご興味のある方はごお連絡ください。

場所 :瀬戸内「   」資料館
住所 :香川県香川郡直島町2310-77
駐車場 :無し
講師 :下道基行(資料館館長、写真家、美術家)
回数 :月2~4回(水曜日?) 3~5カ月程度
時間 : 参加者の家族と話し合いたいです
対象 :小学校2~5年生程度 
募集人数:3 -5名
費用 :実費(研究成果を掲載する紀要の発行費用など)
連絡先 :090-●●●●-●●●●(下道)

※資料館への往復の安全確保をお願いいたします。
※活動中の保護者の同席、見学はお控えください。

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やりたいこと。どんどんやっていこう。
「それ、もう誰かやってましたよ」とか、知るか。
当たり前のこと、普通のことを自分でやるだけ。
これは、僕なりの、コロナと五輪への反旗である。
誰かを批判して、気持ちよくなってる暇はない。
小さくて大切な歩みを進める。


戦後の日本は俺たちが繁栄させた という、おじさまたちの作った夢の「東京オリンピック」号は明日船出。国民の気持ちは置いてけぼり。東北の福島の復興、コロナに人類の勝利、などなど、全て何も成果を出せないまま、莫大な借金作って、空中分解寸前。明日は、世界中が見守る中、打ち上げ大失敗をオンエア予定。おじさまたちは我先にと責任押し付け逃亡/脱出している最中。2021年7月22日。
この恥さらしの歴史的大失敗を目の前で静かに胸に刻むのだ。忘れまじこの夏を。

きゅうはベロベロに酔っていますが。
文学賞や色々あり。
どうやら、このessayコーナーを読んでくれている人が、少なからず、。いらっしゃらることがわかりました。
よってm、最近はなんか作品やら自分のネイ面やらごちゃごちゃ、聞いてもくれない専門家に向けてかいていましたが。その専門家というのが投げる方向として間違っていたのかもしれないので。まずは、普通の日記に戻りmす。
、文学賞で、たくさんの人から感想など聞けたので、楽になれました。ありがおう。

『下道本欲しいぞ文学賞』の内容は、前回の日記で書いた。
これによって、毎日5人くらいから、今回の展示の感想が届いている。普段は聞けないような、今回の展示のリアルな感想、下道作品に対する感想などを、知らない人々から聞くことができたのは面白い。これはtwitterならではだった。(エゴサしてSNSの書き込みを見てみても、気の抜けたコメントや、逆に本人が見ることを意識した営業トークや、本人が見ることを意識した悪口などなど、為にならない書き込みが「ほとんど」であまり見ないのだけど、つい見てしまうと後悔してしまうことが多かったのでtwitterは辞めて気持ちが楽になったが、今回ははじめて有効に使えた気がする。)
ネット以前、展示を開催したり、本を出版しても、読んでくれた人の感想などはほぼ届いてこないものだし、ほとんど諦めていたのに、ネット以降は、誰かが書いたどうでもいい感想をみたくて仕方ない。ネット以前、人々の評価を知れるとしたら、売れ行きが良いか悪いかだった。でも商品ではなく作品の場合、売れる作品と良い作品はイコールではない。特に展覧会の場合、売れ行きなどでそこまで反応を見れるわけでもないので、何も反応を受けないまま、自分なりに反省や満足感を得ながら次へ進むことが多い。なのに、エゴサをしてしまうと、どうでもいい悪口一つに落ちこまされる。

そういう意味では、今回の『下道本欲しいぞ文学賞』は、ネット以前でもない、SNSでもない、ただ、ネット以降でないと体験できない、”聞こえてこない声を集められる機会”になった。さらに、エゴサはほぼ無意味なのも分かった。

漂着瓶が職人の手によって沖縄ガラスの作品になる。何気なく寄った浜辺から石を拾い上げ、ただ転がっている意味を持たない石から人の語りを聞く。日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだなと。今まで見てきたアート作品とは違っていて、作品の作り方にこういった技術があることが新鮮でした。


上の文章はメールで送られてきた展示の感想の一部。
(とてもいい文章だったので少しコピペさせてもらいます。。すみません。。)
これ以外にも、感想のメールの多くは現代美術の関係者ではなく、建築や社会学など美術とは別ジャンルだけど、風景と人々を深く観察するジャンルの人々からが多かったのが特徴だった。
そうか。つまり、僕の作品は現代美術の関係者ではない人々に届いている。
いや、もう少し詳しく書くと、普段僕自身が、”A面”と呼んでいる「戦争のかたち」「torii」「津波石」という作品のラインは、美術関係者からの反応はなくはないが、"B面"と呼んでいる「14歳」「沖縄硝子」などはほぼ反応がないのはなぜだろう?作品として小粒だからかなぁ?などと考えていたが、どうやらそうではないのかもしれない。別の場所に届いていたのかも。

学問の世界ではアウトプットは文章であり論文である。競い合う舞台は展覧会ではなく学会やジャンル内の書籍や発表会なのだろう。
ただ、人類学の川瀬さんのようにフィールドワークを動画で記録し、それ自体が論文であり映像作品であることを目指しているように。論文と表現の間の存在、文章ではない論文、いや論文とは別の形の調査の出口を探す研究者は現代たくさんいる。
多分、そういう人々に僕の作品は届いているし、新鮮に映っているのかもしれない。
そうか。
最近、「美大で学生たちがフィールドワークをしながら作品を作るので、教えてほしい」と特別講師として呼ばれるが、その授業の生徒の中には「もうフィールドワークでネタは手に入ったので早く絵を描かせてください、作品作らせてください」みたいな空気があって、がっかりしたことがあった。今回気が付いたのは、美大ではなく「普通大でフィールドワークをしながら論文を書くのですが、もっと色々な人に届くアウトプットの可能性を教えてほしい」という方向の方が僕にあっているのではないか?と。(誰が読んでくれませんか?笑)

僕の作品は、調べたことを文章化せず、様々な情報を圧縮して表現としてまとめる。そこには、フィクションがそこまで介在しない。フィクションがあるとすぐに表現/作品になるし、その作家の創造物になる。例えば、ゴミを素材にオブジェを作った瞬間にそれは”アート”になるように。誰でも簡単に表現者になれる。そこに素材やオブジェに対して深い思考はなくても、instagramやSNSを発表の場所にして、完全に表現者になれる。
僕自身、調べたことネタにしてすぐにフィクション化/オブジェ化してしまう自称”アート”だけでなく現代美術作品への嫌悪がどこかにあるのだと思う。

日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだな

その通りなのだと思う。
僕がこういう手法になったのは、偶然。美大を卒業して、旅をしながら雑誌に写真と文章を連載するスタイルからスタートし、雑誌連載から書籍を作るスタイルを目指したが、デビュー作「戦争のかたち」以降、それは叶わなかった。持ち込みをし続けたがすでに雑誌の連載にはスター文化人が並び入る隙間がなく、そのうち雑誌自体も衰退し廃刊していった。フィルムカメラも劇的にデジタルに変わっていた。つまり、頼れるメディアや舞台がない中で、専門家になれず、自分で発表するスタイルを作る必要に迫られてきたに過ぎない。いや、もちろん、美術の作品の中に興奮するほど面白いものは存在する。でも、それは美術に限ったことではない。

最後に、
『下道本欲しいぞ文学賞』は文学賞なので、実は送られてきた感想はフィクションだったのかもしれない。でも、それによってこの一週間は”褒めの布団”でぐっすりいい気分だったのは事実なので。それはどちらでも成功であったのかもしれない。
多くの感想ありがとうございました。明後日から発送作業します。


TCAAの展示が終了する日。
2年ぶりにtwitterに書き込みをした。
『下道本欲しいぞ文学賞』と題して、モノグラフを部数限定(部数未定)で配布しようと考えて、その告知にはtwitterがベストだと考えたから。

【都現美TCAA展終了!感謝のニュース!非売品の最新作品集モノグラフ「下道基行」(ADは田中義久さん!)を、部数未定で譲ります。【展示感想やメッセージ/住所/電話番号/名前】をonkochisin1214@gmail.comにメールくれた方から選び、【着払い】で突然送ります。(返事しません)無料。6月末〆切。】
↓↓↓
【メールを読んで選び発送します。あなたの名前とサインを書かせていただきます。転売防止用。笑 このモノグラフは国内外の美術館図書館や関係者などに配布用し。トークイベントで配る予定がオンラインになったので。本当に欲しい方の手に渡ってくれると嬉しいです。「下道本欲しいぞ文学賞」宛まで。】
↓↓↓
【2年ぶりのtwitter。いろんな人が知れるよう、リツイートなどよろしくお願いします。月末にメール読んで選んで発送しますので。ちなみに、風間さんのモノグラフは残念ながら付きませんので、そちらが欲しい方はどうにか自分で探すか直談判してみてください。こんな時期に展示見てくれた方ありがとう!】

このモノグラフは関係者に配る用の物で、有料では売れないし本屋にも置けないのは、悩ましい。ただ、無料で配布だと、転売目的やそこまで欲しくない誰でもが手を伸ばすだろう。本当に欲しいと思っている人々の手に渡っていないことはやはり気持ちが悪い。
会期中にトークイベントが企画されていたので、トークイベントに来てくれた方に無料配布という形を取ろうと計画していたが、イベントはオンラインになってしまい、やはり欲しい人の手に渡ることはなかった。
無料だけど、それなりの強い気持ちがないと手に入らない方法、さらに、自分の赤字や疲労にはしたくないということで、ルールを決めて配布することにした。
・感想やメッセージを書くこと →気持ちがないと書けない
・配布する人は感想やメッセージを読んで決める →全員ではない
・名前と住所を明記する →送るためでもあるが、名前を出して書く責任
・こちらからメールでの返事はしない →作家と直にやり取りをしただけの人への対策
・名前入りでサインをする →転売対策
・着払いで送りつける  →赤字を避ける

twitterに書き込みをするとすぐに反応が返ってきた。毎日5人くらいからメールが来る。全く会ったこともない人から展覧会の感想や僕へのメッセージが届く。絶対にエゴサでは読めないような感想をダイレクトに聞けて驚く。僕自身、褒められて伸びるタイプだが、最近中堅になったせいか褒められなくなったので、本当に励みになる。赤字にはならないようにしたが、発送作業などで大変かもと想像していたが、それ以上の収穫であった。さらに、自分の作品が届く人や場所を知れる機会として貴重な経験となった。(詳しい内容に関してはまた今度。)
あと、このtwitterへの書き込みは、配布終了後に消そうと思っている。

スクリーンショット 2021-06-23 11.20.48.png スクリーンショット 2021-06-23 11.21.14.png

https://twitter.com/michilaboratory/status/1407216340834820097


昨日終了した展示TCAAで、
「14歳と世界と境」に興味を持ってくれた人が結構いたようで地味に嬉しい。
2013年以来、発表してきたし悪くないと思っていたのに、全然反応はなかったから。(旅する本は反応はあったが新聞に対しての反応は皆無だったかと。)

興味を持ってくれた人が、深く知りたくてこのページまでたどり着いた時のために、作品の表面では見えないプロセスについて書いておこうと思う。いや、自分の頭の整理のため。(殴り書きです)興味ない人は意味がわからないと思いますので。


以前書いた「14歳と世界と境」の記事も添付する。旅する本について。(5ページ目)
https://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2021/02/news232.pdf

「14歳と世界と境」という作品(シリーズ?プロジェクト?ワークショップ?)は今も継続的に制作していて、
一応、作り方を書いておく。と

①中学校の美術の授業の2コマ(二週間)使わせてもらう。
②1時間目、美術の科目の延長で社会人として活動する職業として”アーティスト”として大切にしていることとか作品の話や子供の頃の話をしながら(職業教育的に”芸術家”という仕事について話し)、「日常を観察すること」の面白さを話す。みんなもやってみよう!と宿題を投げかける。「それぞれの日常から「境界線」を探してください」と。さらに書いた文章の中から、地元の新聞に連載を作ることを発表。匿名でも発表できることなどを伝える。
③自宅や帰り道、家族や友人との関係、いろいろな日常の風景から「境界線」を探してみる。2時間目ではそれを文章として書く。基本、これらの文章は僕しか読まないことを先生にも了解を得ている。それは彼らと僕が共犯関係を結び、新聞の連載を社会に投げかけるため。文章が良くて採用する生徒には一人ずつ放課後に教室に呼び出しをして、実名か匿名かニックネームかを選んでもらい、掲載する許可をもらい、さらに文章を使わせてもらう代わりに僕から境界線の水をプレゼントする(文章と水の交換)。
④前もって交渉していた新聞社の方に出来上がった文章を二つセットにして10回程度の連載を新聞社の担当者と作っていく。毎回連載タイトルのロゴや文章の掲載方法は担当者との話し合いで決めている。
⑤週一で毎回2人の生徒の文章が掲載され続ける。人々が読む。コンビニでも買えるし、学校には送るので生徒たちも読むだろう。自分たちの文章が社会の中で公開されて、紙に印刷され、たくさんの人に読まれている。生徒達もドキドキしているだろう。
⑥展示する場合、掲載誌の連載部分に赤鉛筆で四角で囲み、紙面をそのまま額装して、展示する。ただ、街の中で新聞が売られ連載されている時点で作品としては成立しているが、それをアーカイブする場所を作るイメージで展示を作る。

※基本的に、このプロジェクトは中学校や先生が興味を持って手を上げてもらう必要があり、さらに地元新聞の無償の協力体制や理解も不可欠であり、あいちトリエンナーレに始まったが、その後も芸術祭とのマッチングがとても良く、芸術祭への参加の時に提案させてもらうことが多い。芸術祭側としては地元と関わりたいし、展示会場以外の街中で展示が行われることも期待しているし。つまり国内外の芸術祭を1回1回の連載のように繋ぎながらシリーズを成長させていると言える。ただ、芸術祭のために作ったシリーズというよりは、良い意味で芸術祭の置かれた環境や期待を”活用”させてもらっている。と思っている。
「下道、またあの企画を別の場所でやっている。ちゃんとサイトスペシフィックな新作作れよ」という外野からの声を聞いたことがあるが、国内は愛知と岡山(沖縄は芸術祭ではなく個人で実行)の2箇所のみだし、求められないのにこれ以上僕から押し付けてやる気はないし、その他は一つの国で1回しかやっていないし。それらが、大きな連載のようにつながりながら一つのシリーズ作品になる構想は、爆増する地域アートに踊らされて短期間にサイトスペシフィックな新作を作り続ける事を作家へ強いる現状への疑問と、それに対する自分なりの一つの回答/提案ですので。


それはそうと、
このプロジェクトは複雑だけど、最終的に圧出され抽象化もできているし、何よりやっていて僕自身が苦しくも本当に経験になっている。
毎回、中学校に行き、廊下を歩きながら異物として見られながら、教室で教壇に(先生でもないのに)立って、話し始める瞬間の緊張感、中学生達の眼差しとガチのやりとり、彼らから出てきた文書を初めて読める読者になり、彼らが放課後に会いにきてくれたり、出来の悪そうな生徒がキラキラしてたり、彼らの文章が街の中で新聞連載として大々的に発表されていくことや、新聞社の方とのヒリヒリする交渉や、一緒に紙面を作らせてもらう楽しさや、新聞社の方々の感想を聞くときや、、、、、ホントに全てが緊張感にあふれ、一度だけのライブを作っている感じや、新聞を記録メディアとしてシリーズ作品が出来上がっていくことや、全てが楽しいし毎回感動してしまう。


ただ、これまで、いろいろな場所でこのプロジェクトを作品として見せてきたが、反応はイマイチだった。(プロセスでもある中学校と新聞連載まではいい感じなのだが)、芸術祭での展覧会出品作品としての反応は、本当にかなりイマイチだったと思う。まぁ、ものすごい長いプロセスを経て、新聞の小さい記事を作っているのに、そのプロセスを一切公表せず、新聞記事のみを展示しているのだから当たり前か。と諦めつつ、プロセスをダラダラと展示で見せるのを絶対にやらないようにしていた。
(プロセスを映像にまとめて見せながら、その横に出来上がった物を置く、みたいな作品って正直野暮だと思うし、できるなら「プロセスも内包した物だけ」か、「プロセスが面白いならプロセスのみがより際立つ作品」が良いし、「映像と物/プロセスと結果」みたいなのはやりたくなるけど、どうしても僕には中途半端に感じてしまう。)

多分なのだけど反応がないのは、このプロセスを見せないこともあるだろうが、僕の中では「14歳と世界と境」が何年も続けて成長した状態を頭の中で想像しながらやっているその構想のようなもの、完成予想図のようなものがあまりに分かりづらかったのかもしれないと今になって思う。
例えば、5年かけて作ったシリーズ作品「torii」と比べてみるとわかりやすい。シリーズ作品は出来上がるまで公開せず、何年も旅をしながら撮りたまり編集が出来上がった段階で初めて発表される。プロセスなどはもちろん公開しない。逆に、台湾で撮影した写真を採れたてで台湾で発表するとか、韓国で撮影したものを韓国で発表するかと、、、そういう感じでプロセスごと見せながら徐々にシリーズとして完成する、そういう作り方を「14歳と世界と境」ではやっているようなものかも。いや、逆算しながらやっている1回1回も成立するよう作っているんだけど。
今回TCAAでは初めて今までのアーカイブ展としてシリーズ作品的に見せられる機会になって、ようやく全貌が伝わったのかもしれないし、だから今回、初めて、反応が返ってきたのかも。(2019年に香港の大館美術館でもアーカイブ展を行なったが、その時も反応はイマイチだった。)8年続けてきたし、来年はデンマークでの開催が決まっているが、「14歳と世界と境」は間違っていなかったし、まだ成長して、下手するとA面作品になるかもしれない。

さて、
もう少し踏み込んで別の角度から書いてみる。

「14歳と世界と境」は、”作品”として、変な構造を持っている。
生徒たちにとっては「ワークショップ」であり、新聞読者には「連載」であり、美術館の来館者にとっては「プロジェクト作品」として映るように、時間によってプロジェクトの”役割”が変化していくのだ。もちろん意識的に。つまり、まず、中学校を舞台に生徒たちが体験する時は、アーティストが美術の授業にやってきて、自分の仕事のことや日常を観察する方法を聞いて、自分でも日常の観察を行って、その文章が地元新聞に連載として載るという出来事。次に、僕は新聞社の方と協働して連載を作るが、その新聞を舞台に人々が体験するのは、新聞を購入して読むと毎日の様々な記事の中に、中学生が書いた文章と出会う出来事。さらにその先に、美術館でこのプロジェクトを見る人は、すでに国内外様々な場所の新聞で連載された新聞紙(に連載の部分だけ作家が赤鉛筆で囲んだもの)が額装されて並んでいるのを鑑賞することになるだろう。で、僕は、ワークショップという中学校でのライブ体験を作ることと、その成果を別の形で社会の中にぶつける場所を作ること、さらに新聞紙面の束という形で美術館に持ち込む、という全体のプロジェクトを設計して形にしている。

プロジェクトは中学校や生徒たちや新聞社の協力によって成り立っているし、下手すると作家作品への搾取構造になるかもしれないので注意している。(ワークショップで子供の作った●●を使って、最終的にはアーチストが大きな作品を作りました、という時に搾取は起こりやすい。)そうならないように「ワークショップ」「連載」「プロジェクト作品」というのをプロセスを同等の力で行ない、それぞれがその場で成立するように心がけている。プロセスを展示で見せないのはそのせいもある。多分、「プロジェクト作品」にすることだけに力を入れると搾取の構造が生まれるのはないか。


僕自身、美大で教員免許を取得まではしたが、常勤として中学教師/高校教師になることは考えなかった。でも、どこかで、中学校の美術の授業の可能性を感じているのは確かだし、「14歳と世界と境」への想いはそれもあるのだと思う。毎回、常勤の先生への敬意を忘れないようにしながら、思いっきり普通の授業ではできない授業をやってみる。生徒も先生もびっくりするが、上手くいくとものすごいグルーヴ感が生まれる。

岡山のある中学のクラスでは、少しやんちゃな男子が一番後ろに座っていてクラスの空気を支配していて。さらに、他の男子のグループが前を向かず会話をしていて、明らかに授業を妨害する空気が流れていた。結構辛い状況の中で聞いてくれている生徒に集中して授業を進めていると、一番後ろの席のその男子が急に「お前ら黙れ!授業が聞こえん!」と男子グループの態度を制した。放課後に担任先生から「彼が今まで一番興面白い授業だった」と興奮してたと教えてもらった。
他にも、フランスのパリ郊外の少し荒れている中学校で授業をやった時、やはり何人かの生徒の妨害によって、授業が進まないとき、こちらから「じゃ、僕が中学生の時に好きだった歌を歌うから聞いてよ」と言って、歌を歌った。そうしたら少し空気が良くなったので「誰か、好きな歌を聴かせてよ?」と聞いたら、何人かが教壇に立ち、歌を歌った。それは何かメッセージソングだったみたいで、みんなが聞き入った。そのあと、授業の集中力がすごく上がっていったし、「授業面白かった!」と感想を言ってクラスを出て行く生徒がいた。他のパリの学校でも、放課後に一人の女の子がわざわざ残っていてくれて、授業の感想を一生懸命伝えてくれたり。韓国では、日本のことや歴史のことを質問してくる生徒に面と向かって色々話していると、質問大会みたいになったり、校長先生が授業内容を気に入ってくれて話し込んだり。
一つのクラスを1年間担当するという先生の仕事は本当に大切だし難しい仕事だし、
僕がやっているのは”美味しいとこどり”なのかもしれないけど、
何か重要なことに少しだけだけど関わらせてもらっている責任を感じながら、毎回楽しみながらやっている。

あと、このプロジェクトで、作品では見えなくなる、影の立役者。すごく大切なのが、通訳さん。
結局、僕の話たギャグやメッセージはその通訳さんによって生徒に届く訳で、教壇という舞台で僕と通訳さんは一心同体で、毎回授業の後に、反省会をしながらライブをより制度を上げて行く。文章を読むのも大変だし。

まぁまぁ、長くなってしまいましたが、「14歳と世界と境」について、作品では視覚化されていない部分を思いつくままに書きました。
いやもちろん、作品を見るのに必要な情報ではないので。


今、2021年6月22日の深夜です。
なんか眠れません。
この国は、国民を乗せた暴走列車として、さらに加速しようとしている。五輪の話。ただ、半数の人々は、来年には笑えるジェットコースターだと思っているようだ。上下運動を次第に大きくしながら、すでに15000人の死者を出しながら、運転手はさらにアクセルを踏み込む。「止めてー!」「スピード遅くしてー!」という声に運転室は耳を貸す気など毛頭ない。ほとんどの人は諦めてしまいただただ席に座り、ある人は隣の席の人と苦笑い。誰も半年後の状況を明確に予想することができない。ワクチンによるコロナ収束後の未来からみた今は、一体どう見えているのだろう。

小さな島に引っ越して1年。
3年前の島の夕暮れ、神社にオレンジ色の明かりの中で秋祭りの練習している子供達の光景に遭遇したの移住を決めたきっかけの一つ。娘に見せたかった地域のお祭りや運動会や全て、中止のまま2年目に突入している。まずは3年住もう!と思っていたのに、まだ一度もどの行事も経験できていない。多分、国内の全ての中学生や高校生は、部活動や運動会や修学旅行とか思い出深い経験をできないまま1年以上をすでに過ごしただろう。少なくとも、これだけ国民を拘束しておきながら、そんな真っ只中で東京で特例のお祭り騒ぎを開こうというのは気が狂っているとしか言いようがない。
欧米ではワクチン普及で、収束ムードが流れ始めている。でもこの国では遅れていて、まだあと数ヶ月かかるはず。つまり、あと数ヶ月、延期できれば、世界は変わるはず。でも、ある一部の誰かが延期を許さないことで、この国はそれに巻き揉まれようとしている。その責任はIOC?政府?都?僕ら? 多分、国会答弁よろしく、うやむやのままにして、先人たちが築きあげた信頼感に泥を塗る。

香港では、1年前、いや数ヶ月前まで当たり前のことを口にしていた人々が、どんどん逮捕されて牢屋に送り込まれている。毎日。市民全員が精神的な拷問を受け、人間として当たり前の発言を強制的にできないように再教育させられている。僕が出会った香港の友人たちの息子娘はまだ小学校以下なので、ついこの前まで存在した西洋的な民主主義の生き方を知らないまま、今後中国人になる(すでに厳しい監視体制の中で同化教育が始まっている)だろう。彼らのことを考えると、日々ニュースに胸が痛む。遅かれ早かれ10-20年後にはこのような同化政策が行われたであろうが、日々、目の前で起こる強制的な同化政策の波。今、中国が香港や別の地域で行う行為に感じている胸の痛みや強い違和感を、100年ちょっと前の韓国で日本が行なった同化政策、自分たちが加害者である立場と置き換えて、今のことをもう一度心に刻む。
時代が違う?立場が違う?内容が違う?
そうやって逃げずに、前向きに学び続ける必要があると言いたいだけだ。
今と過去を同時に感じ、行き来しながら、自分で考える、自分の言葉を持つこと。それ以外に未来を見る方法はない。


僕はというと、早寝の加速が止まらない。
昨日は19:30に寝てしまい、今、深夜2:00に起きている。
昨日は夏至(19:20日の入り)、外はまだ明るかった。
もう一回寝てみます。

「なぜ、”フィールドワーワーク”を授業にはじめて取り入れようと思ったのですか?」

ある美大のファイン系(デザイン系ではなく絵画/彫刻などの総称)の授業で”フィールドワーワーク”をはじめてを取り入れるらしく、外部からほんの少し関わることになり、昨日先生方とオンラインミーティングを行ったので、こちらから先生に質問してみると。その答えはこういうことだった。
「作品を制作するときに、”自分の中から”何かを生み出そうとしている生徒がほとんどなんです。さらに、制作のために調べ物をするときにそのほとんどがインターネットの情報からなのも気になるんです。」
という問題点。
”自分の中から”という響きにどことなく懐かしい感じがした。なんだかすっかり忘れていたが、美大のファイン系の学生というのは、哲学書や美術史の本を片手にアトリエに籠って、自分の内面と向き合いながら作品を作るイメージってなくはないし、現在華々しく活躍する作家の中にも”自分の内面と向き合う”タイプは全然普通にいる。もちろん、そういうのが嫌いな学生は感情や自我を極端に排除しながら美術史や素材/メディウムと向き合いロジカルでドライな作品制作へと向き合っていたように思う。ただ、泥臭タイプorスマートタイプ、どちらにしても、制作はアトリエ/スタジオで完結できることになるし、”フィールドワーワーク”をする必要はない。そして実はどちらのタイプも「作品を制作するときに、”自分の中から”何かを生み出す」方向であり、「自分」そして「素材」と向き合う傾向が強いとういことから見えるのは、外部の「対象」への興味の欠落なのかもしれないし、その「対象」さえも「自分」であり「素材」の中でに入り込んで内向きになりがちなのかもしれない。(そう言う方が美大生としては健全であり、別にそれが悪いとは一言も言うつもりはないが。)
そういう意味では、僕という美大生は、そういう美大の流れから早々にドロップアウトしてしまい、社会に半分足を突っ込みながら、まずはただの旅人になったのだと思う。現代美術を目指すわけではなく、旅をしながらその先で、風景と人々と出会い、手帳にスケッチすることをカメラに変えさらに文章を書き、そして、疑問を感じる社会や表現や素材の問題をその都度、独学しながら自分勝手に、、、、、と変化してきたに過ぎない。その中で最も影響を受けたのがジャーナリストであればジャーナリストに近い存在になっていたかもしれないが、写真家や現代美術家の影響も結構受けているし、民俗学や建築などの影響も多かったから、今ここにいるだけなのかもしれない。(だから、美術関係者が僕の作品/活動に強く興味を示さないのも、美大生が憧れないのも、自分なりに納得はしている。)


しかし、今の時代、僕たちの時代に比べて、経済的な豊かさは目に見えるように低くなってきているし、少子化が進んでいるので、美術大学のファイン系は特に、生徒も先生も、現実的にならざる得ないのも事実。つまり、昔のようなモラトリアムや”寄り道”が出来にくくなっている。一直線に目的地に到達して安定したいと思う学生が多い。作家を目指す学生も「ロジックを学んで、センスが良く作品を作って、卒業と同時にギャラリーに青田買いされて」と言うのを目指すのは普通なのかもしてない。
でも、そんなにすぐに自分の道ってわかるか? 
先生や誰かの言う通りに進めば、早道できるのか?


僕個人が考える「作品や表現者の面白さ」と言うのは、「ロジックを学んで、センスが良くて、出来たすごくいい一つの作品」みたいなのでもなく、そういう創作活動の先に、自分の中で譲れない何かや、深い興味の研究対象みたいなのを、ずーっと追い続けている状態や姿勢だと思っていて、センスのいい作品や写真が作れてさらに続けられるならそれは一番かっこいいけど、そう言う作品が作れなくてもがいている状態を継続している孤独の中に居続けられるか、と言う意識もすごく重要だと思っているし、作品からはそういいう事が伝わってくるものだと思う。これは現代と逆行した精神論だとか言えるかもしれないけど、表現者でも研究者でも、自分が見つけたテーマを変化しながらも追い続ける姿勢をみるのが好きだし、自分もそうありたいと思っている。
そう言う意味では、逆に今や、ネットとスマホで”みんなが表現者”みたいになっているし、表現者になる時間もハードルも下がっているのは理解できるが(例えば、スマホで魅力的な写真を撮れてinstagramにアップして多くの人に支持されるような事)、僕自身はそれに対しても、上のような理由で僕なりの明確な線引きをしている。つまり、もがきながら、寄り道しながらも、時間をかけて、それを続けている事。

僕自身は、それをさせてもらえたし、応援してくれる人々がいたから、続けてこれた、それは本当に幸運でしかない。そして、他人にそれを押し付けたりはしないように気をつけたい。


と、まぁ書かなくても良いような事を最近書いているのは、授業をするための自分の頭の整理と。8月に展示があって、そこで文章を書くために、文章を書くモードに自分を入れていってます。
こう言う内容って、twitterとかに書くと、すぐに粘着質な対応を受けたりするので、自分の場所で書くのがやはり良いですね。

では良い木曜日を。

近所に住んでるのに、出会わないしほとんど思い出さない人がいる。
もうとっくに死んでしまっているのに、たまに思い出す人がいる。

基本、facebookは告知に使うようにしています。
その書き込んだ展覧会告知に「週末、見に行きます!」的コメントを書いてくださる方々に一言。展示をみて面白くなかった場合、次のコメントに困るだろうし、逆にこちらとしては見に行っただろう日にちを過ぎても何も言われないと結構気になりますし。行く気があっても、事前予告は避けて、行った後に、「見に行きましたー」と事後報告の方が、お互いに良いかなぁと思います。もちろん、お気持ちは本当に嬉しいのですが。


僕自身のSNSとの関係やバランス感としては。

facebook→展示などの告知のみに使用 (昔は、メールで関係者に一斉送信していたのがこれになった)
さらに、
twitter→ついつい、いらないことを呟いてしまったり、粘着質な人に噛み付かれたりしたので、かなり前にやめました。
そこで、
日記やつぶやきは、この自分のwebの中で行うのが、徐々にできたバランス感覚です。

作品や経歴を載せている作家のwebが数年前で止まっている現象をよく見かけるけど、僕の場合、SNSやblogで書くような日記部分をここの作家webにしてこまめにアップして、web自体も頻繁に整理整頓し続けるので、常に一定の人が訪問してくれているみたいです。大人数が見ないけど、逆に興味のある人だけがたまにわざわざ見てくれる場所になっていたら嬉しいし、このバランスは密かに気に入っている。
ま、何度か書きましたが、ここの日記は「土に埋めるつもりで書いています」ので。

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旅先のある田舎町で、朝早くからパチンコ屋に行列を作る人々を見ながら、スマホを手放せない理由について述べられたある本の一節(というかそれについて話されたネット動画)を思い出していた。


人類は、農耕を手にする新石器時代までの長い期間、狩猟採取の時代であったとされ、その長い時期に人類は狩猟採取しながら生存するための仕組みが脳内に作られ、しかも今でもその脳は機能し続けている。ついついスマホを触って時間を使ってしまうのは、狩猟採取の時代に作られた脳のシステムによって今でも人々を中毒化させることだった、ように思う。
その脳内の仕組みとは、生存するために不可欠な狩猟採取のための行動によって脳内に報酬系ホルモンが分泌されるといった話だったが。例えば、森の中に分け入り食料を探す時、その探す行為はただただ空腹によって嫌々行われるのではなく、探す行為自体が宝探しのような快楽として脳が反応しているという。まぁ人はギャンブルが好きな脳を初めから持っている訳で。つまり、食べ物を発見し手に入れる行為だけに快楽物質が出ているのではなく、探しているだけのプロセス時にすでに報酬系ホルモンが出ているということ。

(※うる覚えです。注意!)

最近、テレビを見なくなって久しい。時々、出張先のホテルなどで夜、何の気なくテレビをつけてみると、つまらない番組だらけで消せば良いので、リモコンをいじりながらついつい何周もザッピングをしてしまう。その8番組そこらのテレビ番組のザッピング行為、つまり情報を探し求めて彷徨う行為が、現代でいうスマホいじりになるのだろうと話していた。ネットの世界はテレビと違い、何か見つかるのではないかと彷徨える情報の森はとことん広大である。もっと有効な有益な情報を得られるのではないかという期待だけを持ちながらやはり無益で広大なザッピング行為を行なっている。何も得られるものがない、いや得たいものすら存在しないのに、深い森の中に分け入り食料を探す行為を行ってしまうのかもしれない。

人類は生存のために狩猟採取する必要がなくなったにも関わらず、日々、シャドー狩猟採取行為をしてしまう運命にある…………森をさまよい、浜辺をさまよい、食料を探す行為が、完全に生存には無意味な行為として、都市生活の中で形骸化して残されてしまった、ということか。
パチンコ屋という獲物が隠れた森を彷徨う人々もまた、その脳に支配されている。

そういえば。
最近、瀬戸内に引っ越して、サーフィンができなくなって一年が経つが、ようやくサーフィンという行動を客観的に見れるようにいなった。そうするとサーファーの行動の奇妙さが少し見えてくる。サーファー達はスマホを手に波や気候のコンディションを日々チェックし続け、陸にいながら波の様子を意識し続けている。波の立ちやすい浜辺=サーフスポットというのは海という大自然だが、有名なスポットだと、早朝から待ちきれないサーファー達が押し寄せる。彼らは、時々出会える奇跡的な波に取り憑かれている。最高の波に乗った瞬間の興奮は忘れられないのだ。サーファー達は海に浄化されたキラキラした目で「波は一期一会だ」という。何だかかっこいいけど、ただただ今考えてみると、この状況は完全に脳内が狩猟物質でギンギンに慢性化している状況で、これを利用して人工的に作られているのがパチンコなのかもしれない。連チャンやらの確率やら何やらを勉強して計算して、最高の状態のパチンコ台との「一期一会」を夢見て、我先にと朝から並ぶ人々、それもサーフィンも同じ要素が多い。分かる人だけが分かるルールや用語やらもあって、パチンコとサーフィンは似てなくない。
僕はパチンコはやらないけど、サーフィンにどハマりしていた愛知の三年。もちろんそのことで僕は生まれて初めて自分の体や健康を意識するようになったし、日々の天気や季節や自然などを気にするようになって、豊かな経験ではあったが。一方で、僕は日々、頭のどこかで波のことばかりを気にしていたし、スマホで波情報をチェックしていたし、暇を見つけてはせっせと海に通っていた。波があるだろう情報の日、朝一で海に向かう車の中では、脳内ギンギンにキマリまくっていた。
今では、「瀬戸内の島に移住」という絶対的なサーフィンと隔離された環境=禁サーフィン牢屋に監禁されて、ある意味で依存症が癒えてきたのか、今ぼんやりとそう思う。サーフィンは大自然と向き合うエコなスポーツだけど、みんな狩猟採取の時代の脳に支配されている状況なのだろう。でも、パチンコやスマホ依存と比べるともちろんエコではあるが、ただ、波の取り合いでルールや喧嘩もよくあるし意外と穏やかではないし、サーフィンも毎シーズン新しいウェットスーツやサーフボードやらの新製品や新流行が次々と出るし、意外とお金はかかる。

※参考リンク=【 Yahoo知恵袋「サーフィンとパチンコが趣味です。サーフィンと、パチンコ ...」】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1235260462

パチンコとサーフィン、同時にハマる人っているのかな?と思い、検索すると、上のリンクのページ出てきた。
パチンコにサーフィンは勝る、と書かれている。
それなら、ギャンブル依存症で困っている家族や本人の解決として、サーフィンは有効なのかもしれない?
サーフィンは、海の上だからタバコも吸えないし、スマホも持てないし、自然の中で気持ちもスッキリするし、実は中年でもデブでも始められる乗れるし、健全なドラッグと言える?

「14歳と世界と境」はデュシャンの引用を多用した作品です。

というのは嘘で。
「14歳と凹と凸」もそうなのですが。
14歳も凸凹も彼らの”影響”かも。
https://youtu.be/Hu_w-0dwbBU
【十四才/THE HIGH-LOWS】
ダサいでしょ。笑
中二病?
僕はその言葉に強い疑問を持っています。大人ぶった冷ややかな。アツいのがサムいというのがかっこいい感じのダサさというか。

僕はこの人の音楽を14歳で触れ、その影響をもとに音楽ではない手段で、
さらに他の影響を混ぜ合わせてこれを作っています。
くそダサいでしょ。笑

金沢21世紀美術館でのグループ展がようやくオープンし、石川県内の鉱山跡を調査。小さな資料館のおやじさんと4時間も話し込んで余裕で船を逃す。
ようやく直島の自宅にたどり着くと、GWの観光地に押し寄せる関西ナンバーに怯えながら子守をする元の日常に戻る。
2020年はすでに遠い過去。展覧会は、コロナで中止や延期などもありほぼ消滅したが。その静寂からの、2021年1月から始まった怒涛の展示ラッシュが、ようやく山場を越えた今。いやはや、メールは滞るわ、記憶がないわ。いや、大変だった。コロナでオープニングもなく、始まったのか終わったのか実感も乏しい。
都現美にしても、作品集にしても、他の展示にしても、出せる力を存分に出したし、自分の中では色々と新しい体験/挑戦はあったが。今の所、良い感想はほとんど届いてこず、それらを言語化する機会もない。引き続き、非常に孤独な歩みを進めるのみだ。

このスマホの時代にみんなが表現者になり、日常と向き合う写真家という職業はほぼ絶滅した。それを許されるのは過去の作家のみ。それでも僕は、今の目の前のあたり前の光景に向き合い、独自の角度と切れ味で調査収集するだけのただの観察者であるので。
そんなものはSNSにあふれているしそこから収集すべき?ネット上に落ちている画像を収集して編集して作るべき? 本当にそうだろうか?

多分、それでも僕は旅をしてその場所に立つことを優先するし、古臭い過去の方法であっても。

1/3ー「下道館長自己紹介展」瀬戸内「」資料館、直島
1/8ー「次元の衝突点」The 5th Floor, 東京
1/15ー「2020年度第4期コレクション展」愛知県美術館、愛知
1/23ー「境界のかたち 現代美術 in 大府」おおぶ文化交流の杜、愛知
3/4ー「復興を支える地域の文化―3.11から10年」国立民族学博物館、大阪
3/14 作品集完成
3/20ー「Tokyo Contemporary Art Award 2019-2021 受賞記念展」東京都現代美術館、東京
4/11ー「Compassionate Grounds: Ten Years on in Tohoku」Composite, オーストラリア
4/29ー「日常のあわい」金沢21世紀美術館、石川


次は、8月に瀬戸内「」資料館の新しい展示。銅精錬所と風景をテーマにします。取材したり本を読まねば。
今年の後半は、8月、10月、12月、翌2月、と展示が続きます。この初夏に色々準備をしないと。。。


8月ー 「瀬戸内「鍰」資料館」瀬戸内「」資料館、直島
10月ー 未定
12月ー 「未定」丸亀市猪熊弦一郎美術館
2022年
1月ー 「瀬戸内「?」資料館」瀬戸内「」資料館、直島
2月ー 海外・中規模個展
春?夏?秋? 「瀬戸内「?」資料館」瀬戸内「」資料館、直島(瀬戸芸)


こうやってみると、来年夏までは結構埋まっているな。


焼き物の部活動”直島窯工部”をはじめた。
武蔵美窯工部の後輩、なっちゃんが直島に住んでいたことがあり、僕ら家族も直島に移住したのだけど、そこから「島で窯工部をやろう!」と盛り上がり、(なっちゃんが密かに準備していたことも手伝って)勢いで作ってしまったのだ。
そういえば、美術大学時代に二年くらい油絵科に行かず毎日陶芸ばかりしていた日々。大学卒業後に三年ほど陶芸教室で先生をバイトでやっていた時間。それから18年たって、再び作陶の時間がやってきた。久々に作ってみたが能力がそこまで衰えていないな。(元々そんなに上手くはないが。)
学生の頃は、部活動で陶芸を勉強するのは、先輩からであったり、雑誌や専門書を読み実際に窯場巡りだったが、今の時代作りたい形や作り方が、SNSやyoutubeなどで簡単に大量に調べられるので、ネットの深掘りも楽しい。(特にビジュアル的なアイデアは格段に探しやすい状況に変わったが、逆にいい意味でも悪い意味でもパクリなどもやりやすい環境なのだとも思う。ネットによって、アイデアやビジュアル的パクリは簡単になったし作りやすくなったが、やはり深さの無い存在が爆発的に増えているのだろう。石川くん的に言うと、作家ではなくクリエイターになり”全員が表現者”に、そして作品は消えコンテンツに。)

ただ、
陶芸を初めてみて、ぼんやりと「これはいけるぞ!」、という手応えがあった。
何が「これはいけるぞ!」かをここに書きながら考えてみる。


その手応えの一つは、普段、自分の”作品”を作っているときにもどかしかった何かがズレた感覚。一言で言うと、”食器”なら作品とは違ってガンガンプレゼントできるぞ、という感覚かもしれない。笑 いや、作品もお世話になった人にあげたりはするが。作品を作ることは今ではいつの間にか僕に取って大切な仕事になっている現実があり、それは大切なのだけど、変なプライドやら何やらも沢山くっついてきていて、なんか面白くないところもあって。ただ、自分にとって陶芸はそこに属さない自由さをまだ持ち得ている新しい場所/ラインなるかもな、と。
いや、島にくる前に同じように陶芸に出会い直ししていたら、陶芸すらも作品内に取り込んでいたかもしれない。ただ、直島移住と陶芸部が偶然に重なって、今の「これはいけるぞ!」を感じている。

島に移住してきてまず驚いたのは、多く採れた魚や野菜などもらうことが多いこと。「食べ助け」と島の人はいう。(”私がたくさん持っていても腐らせるだけだから、貰ってもらうのは私への協力よ”と言う、人に贈与しながらへりくだる、素敵な言葉。)直島では、とにかく、ご近所さんに何かをよくもらう環境がある。ただ、だからと言って、僕が「今度はこちらの番だ」と魚や野菜を自分で取ったり作ったりして、「食べ助け返し」をできるわけでもなく。引っ越したままの状態の家でなかなか人も招待できず(コロナもあるし)、これまで一年人からもらうばかりの生活になってしまっていた。”お金を介さない交換”の中でプレイヤーになれていないジレンマ。そんな中で、陶芸部で自分自身が作る食器によって、僕は独自の生産者になり、この交換の輪に入れるかもしれないというのが、”手応え”の一つなのかもしれない。(交換がモノである必要はないし、これが正解かはまだわからないが。。)

今の所、売り物としても、そして作品としても、陶芸を考えていない。
それは僕の周辺に陶芸家が沢山いるからかもしれない。僕にとって陶芸がプロではなくただの趣味だからかもしれない。でも、自分の制作活動の中には、根本的に”物の値段”への興味に関係していて、それが今くすぐられている。
例えば、食器というのは誰しもが使うものだから、値段が結構シビアに判断される。「このくらいのコップなら手作りでも1500円から高くても3000円以下でしょ」みたいなバランス感覚が誰しもあって、それ以上の値をつけると、すぐに「高い!」と判断される。労力に対してこの値段はシビアだし、すごくキャリアのある人でも値段がそこまで上がらない傾向にあって、生業としては大量生産になっていく。逆に、陶器でもそれが「置物」の場合は食器とは別の評価軸で値段をつけることが可能だったりする。さらに器だけど「茶碗」「花瓶」みたいな特別な価値がつけやすいものも存在している。「置物」は”使える”という判断基準から外れるし、「茶碗」「花瓶」が普通の食器と別の価値観を持っているのは茶道や花道というパフォーマティブな舞台をもつ世界がすでに作られている枠内だからだし、どちらもある意味でアート的な枠内(既存のリングと言うべきか)を持っているわけ。逆に、食器からお金的価値を排除して、贈与のアイテムと考える事で、既存のリングでは測れない場所に創作を持ち込みたいとか、リング自体を作りたいという欲望が作品制作と結びついているところがあって。(これは窯工部の先輩や、陽光くんの影響だな。ヨウコウ。)
まぁ、そんなことをゴタゴタ考えながら、逆に、今作っている”採れたての食器たち”は、”値段をつけない存在”として価値を考えるのはどうだろう、と夢を膨らませてしまう。

島の自宅に帰ると、採れたての鯛がコンビニ袋に入ってドアノブにかけられている出来事に対して、自分がどう立ち振る舞うのか…、これは試されているのだ。(これはアートでありロックの問題ではないだろうか、と。)

島に住む数年の間に、しっかりと技術もつけて、島の様々な家庭で普段使いに色々と使われていくと良いなぁ。いつか、「うちには下道さんの作品があるぞ。見るか?」とか島のおじさんが言っている光景、、面白いだろうなぁ。。。何十年か後に割れて注がれた食器になっていたり。。。さらに、僕とかなっちゃんの手を離れて、直島窯工部の部員にレジェンドが生まれてくるといいなぁ。。。


……………と、、、そのためにも、人々が喜んで使ってくれるレベルまで技術を持っていかないと。

忙しい忙しい。



TCAAの都現美での展示全体の制作で考えたポイント。
ここで書く内容は、こう見て欲しいということではなく、展示空間を作る時に考えていたことのメモ。書いとかないと忘れるので。忘れてもいいが。だから、作品単体の内容には一切触れていない。読み解き方は自由であるし、複数の作品のインスタレーションをどの程度意識的に作ったか、というだけの話。参考まで。
「作品自体が素晴らしければ、どんな空間や壁に飾っても素晴らしい」という人がいるならこの文章は蛇足かもしれないが、それは正しくもあり間違っている、と僕は思うのでかく。
メモがわりに、さらに展示に興味を持ってくれた人のために、書いておく。

【作品選び、空間構成】
・今回、展示空間に何をどのように置くか、なるべく決めないように進めた。ただし、展覧会スタッフ側はかなり前段階から、何を何点どのように置くか?という質問を締め切りを決めながらせっついてきたが、なるべくぼやかしながら進めるように、動いた。空間内にも、多めに持ち込みながら、どんどん削っていくスタイルをとった。
・最終的に選んだ内容は、「津波石」+「漂泊之碑/沖縄硝子」+「14歳と世界と境」+「新しい石器」+「Drawing the line (仮)」+「瀬戸内「 」資料館」の6プロジェクト。
・2011年以降、この10年間、シリーズ「torii」がたくさんのグループ展に参加するきっかけになったし、国内外で発表され続け旅をした。ただ、2011年以前に「torii」はすでに7割完成して2012 年にはしっかりと発表していた。そういう意味で、2011年以降は「津波石」やその他のシリーズを作りはじめ続けてきたが、「torii」ばかりが目立ち、代表作となっていった。その流れは、2019年に「津波石」がヴェネチア日本館で発表されたのと同時に終わっていった感じはあったが、実は、「津波石」やその周辺で、”「torii」以後”の思考と制作を進めていた10年。それを一堂に見せる。
シリーズ作品からプロジェクト作品への移行を見せる。個人作品から別の形へ。
さらに、その2011年ー2021年という10年、”「torii」以後”の作品は「津波石」をそのA面的作品にしながら様々なB面的作品と共にある。「津波石」だけが華々しくデビューしてしまったので、そのA面とB面同時に紡ぐ「アルバム」的な展示として今回は意識的に作った。(A面的作品=「津波石」「torii」「戦争のかたち」)
さらにいうと、まだ未完成の「瀬戸内「」資料館」は、「津波石」の先のA面的作品をプロセス段階から開示しながら進める現在進行形の最新作として位置付けて展示をしたことで、さらに先を意識させられるよう。「津波石」と「瀬戸内「」資料館」というA面作品の間に、B面で挟む感じ。これは、今回のカタログでも実践している。
・2Mくらいの壁が一つ立っているのは、この裏に中途半端な位置に柱があり、その柱がむき出しだと導線がかなり複雑になってしまうことと、さらに、柱を隠すこの小さな衝立によって、入った時には見えない作品がいくつか作れれるので、ページをめくるような体験が少し作れるから。


【照明と空間】
・空間が薄暗くなっていて、少し変わった照明器具で空間を作っている。この照明は特注でゼロから照明担当者と考えて作った。もちろん、フラットな照明でも作れる展示内容なのだが、このようなインスタレーションを作った理由を書くと、全ての作品が別々のプロジェクトでありながら、混ざり合っている箇所が多く、関連性を持っているから。壁によって一つ一つ囲まず、それを鑑賞しながら、客は回遊できて、どこまでがどのシリーズであるかが少し分かりにくくしている。そのシリーズの枠組みを、上から垂らす照明で光の「島」を作り、壁を使わず囲う。そういう意図で作っている。
もちろん、作品の全体が「島」に関わることもあるし、「海」をテーマにした作品も急遽制作し入れている。「島」に対して「海」、隔たりと接続。
・高さ3Mあたりまで垂らされた特注の照明のコンセプトは、「空間内に光で島を作る」「ボルタンスキーみたいに裸電球や光源の意味が出ないように注意する」「高い天井を意識させないために下に光を落とすが、傘や電球自体がカフェみたいにデザイン的になりすぎない」「あったかい雰囲気は少し残しつつ、研究所や博物館のように機能的でドライな照明」。

【展示空間内や作品内の文章】
・「14歳と世界と境」「瀬戸内「」資料館」「漂泊之碑」にしても、作品内の文章が半端なく多い。ように見えるが、別に読まなくても伝わるようにできている。(読んだらさらに面白いかもしれないが、全然全部読んでもらおうとは思っていない。)文章や読み物の存在感である程度完成している。文章が多くてそれだけで見る気をなくす人には申し訳ないが、意識的に読むのに辛い量を用意している。

【海図】
今回、この展覧会の全体のつながりを作る存在として、照明とともに「海図」を意識的に扱っている。
使用した意味としては、デザインがかっこいいからではなく、この海図は「海」の移動/航海の為に作られた地図であることがまず第一。さらに、現在では海図は世界で共有されているものではあるが、近代の国民国家の枠組みを作る際に作られ、現在日本では海上保安庁が発刊していること。陸地の記されていない日本海だけの海図が存在し、「Drawing the lines(仮)」では、その日本海だけの海図を使用しているが、地図上に印刷された言葉/名前を全て消して使用している。
「津波石」+「漂泊之碑/沖縄硝子」+「瀬戸内「 」資料館」では、この海図にトレーシングペーパーを重ねてマッピングに利用しているが、「Drawing the lines(仮)」では、海図の上に書かれた文字を削り取って、ただの海の地図として使用し、シリーズとの関係性を作っている。


【地味にうまくいった箇所】
・風間さんの空間との切り替わり部分。この部分にも壁や布はない。照明のグラデーションを細かく指示しながら、緩やかな空間の切り替わりを、照明担当者と風間さんと話し合いながら何度も作った。このように、別作家との空間の切り替わりは様々な問題が発生しやすく、なかななかうまくいかないが、その部分をお互いに共有しながら、とてもいい形になっている。風間さんが協力的でこちらの意図を理解してくれたのも大いにあるが。この部分がうまくいっていれば、お客さんは気がつかない部分だろうし、そうなっていることを祈る。
この辺りは、ヴェネチア日本館での壁の立てない共同作業や展示制作が生かされたかと思う。


山下道ラジオがおかげさまで1周年!
人のために話している感覚はなく、人に聞かれている感覚を持ちながら自分たちの話したいことを喋るだけのラジオですが。
一週間のルーティーンの重要な一つの要素になっています。
今後とも、適当にお付き合いください。


https://youtu.be/yliUgxhRqHs


ようやく東京都現代美術館での展示がオープンできた。
東京都のアワードの受賞記念展示。美術館の巨大なワンフロアを風間さんと二人で分けて、それぞれこの一年以上かけて作ったものを空間内で完成まで持っていけた。のはたくさんの協力があったからだ。結構いい展示になっている。

今回の僕の展示は、2011年以降の作品を一堂に集めて、それらの作品群が独立して見えながらも、緩く接続しながら一体化する展示空間を目指したし、それは形になって見えた。2012年、同美術館のグループ展内で、シリーズ「torii」を国内でデビューした同じ場所で、シリーズ「torii」以降の10年の試行錯誤の現在進行形を見せる機会となった。3倍近いの巨大な空間でもなんとかできるし、もっとでかくてもビビらないなと自信になる経験だった。

しかし、今回は色々と疲れた。。。

ヴェニスでは、メンバーそれぞれの持ち場を分け合っていたし、キュレーターによる並走があった。お金の話とか事務的な話とかはキュレーターがさばいてくれて作家が気を揉むことがないようにしてくれていたし、建物や空間との関係は建築家やインストーラーさんとの協力があったし、展示中に「本当にこれで良いのか?」という疑問をなんどもなんどもみんなで話し合いながら完成に向かっていったし、完成後にも語り合ったし。
それに比べ今回は、アワードの展示なので、展示にキュレーター不在の環境の中で、メールのやり取り、空間から壁たてから、ライティングから作品の展示方法、カタログの構成や文章や写真などなど、一人で考え、一人で決定し、一人で指示を出し、一人で筆を擱く。いや、もちろん様々な人々の協力を得ている。ただ、僕にしか「考え」「決定」できないことが多すぎた。。。
それは自分で決められるという特権であり、孤独な作業だ。
大きな経験をさせてもらった。

今回の賞は中堅に向けてのもの。いつまでも若手気分じゃダメだぞ、と。
中堅になると、誰も褒めてくれないし、アドバイスもコメントもくれないし、どんどん孤独になっていくのだろう。その入り口に立たされたのだろうか。
これまで中堅以降の作家が、中身が更新されないまま、作品の規模だけが肥大化していくのをなんども見てきたが、そうなるのも頷ける。 多分、一人孤独なまま、展覧会の規模と期待だけが大きくなるのだろう。(しれっと悪口?W) さらに、芸能人が占い師とかにはまってしまうのも、孤独が背後にあるんだろうね。誰も、相談できる人や強い意見を言ってくれる人がいない、ということかもれないなぁとか。

どうやって、思考を進め、柔軟なまま、前へ進んでいけるのだろうか。
楽しみながら、自らを深めていけるのだろうか。
布陣を考え直す時期にきているのか?
このまま個人経営、家族経営でいけるのか?

隣の部屋で、風間さんが所属ギャラリーのスタッフと一緒に戦い、出来上がった展示について、ワイワイと話していた光景が羨ましく映った。ギャラリーに所属するとこういういいことがあるのだなぁと思いつつ。
美術館から帰った夜や朝に、遠くの家族に電話しても、子育てと仕事が忙しく、電話も繋がらない。コロナだし東京の展示は見にも来れないだろう。これまで、家族経営でコンパクトで動きやすい布陣だからやってこれたのもある。でも、そのことで家族に期待しすぎていたのかも。家族経営の夢を捨てて、ギャラリーに所属したり、自分で誰かを雇うなど新しいプロジェクトの進め方を考える必要がきているのだろうか。


美術館と宿舎を往復するのみの生活。コロナもあるので、弁当を買って一人で食べて、ビール飲んで、寝るだけの日々。いや、本当に一人孤独な10日間だった。肌は荒れるし、腰も痛いし、ボロ雑巾のような状態でようやく完成。
制作はいつも孤独な作業だけど、今回はとにかく、孤独だった。
いやいや、まだ始まったばかりだ。

そして、コロナかだから、展示の完成を大勢で祝うこともなく、しれっと展示は始まった。

一つ、今回の場合は、同じ立場である、風間さんがいてくれたのは心強かった。彼女は一体どんな展示や本を作ってくるのだろう…とたまに考えることもあった。お互いに出来上がった空間と本を見ながら、言葉を掛け合った。多分、孤独の中で、道無き道を歩む中で、ライバルたちは時に一番の同志なのかもしれない。


今帰りの新幹線。
次の展示予定のリマインドの中で、
頭がぼんやりしている。


島に帰るために、PCR検査を自分で受けにいった。
結果が出るまでは1日、岡山で隔離生活だ。

【art for all|アーティストのための実践講座③|アーティストの「生活と移動」】
というオンラインイベントで。
サイパンや東大東島で調査や制作をしている若い作家さんから質問を受けてたのですが、タイムオーバーでブチっと切れてしまって、話が途中になってしまったので、ここにその答えたかったことを書いておきます。


■質問:
知らない土地でどのようにして調査や制作を手伝ってくれる方を探すのでしょうか?

■答え:
いろんなケースがあるのですが。
一言で言うと、とにかく、現地の人に、どんどん自己紹介をしながら、探し物を聞いて行くしかない。
ただ作家の場合、その土地のレジデンスや展示や芸術祭などに参加する場合は、現地の協力を受けやすいと思います。なので、そういう機会を利用するのも手かもしれません。例えば、僕の場合、「14歳と世界と境」というプロジェクトの場合、中学校でのWSと地元新聞での連載がセットで完成するので、こういう機会を最大限に活用しながら、プロジェクトを進めましたし。
ただ、シリーズ[torii]や[津波石]のように、いつ完成するかわからないプロジェクトを一人で継続的にやっているプロジェクトに関しては、その土地で自分が何をしに来ているかを伝えて、詳しい方や協力者を探し求めるしかないのではないかと思います。閉鎖的な土地の場合でも、やはりその土地に継続的に通いながら、宿の人や近所の人や役場の人やいろんな人に自己紹介をして、探していくしかないと思います。

コロナで色々と旅をしながら作品制作が難しい時期ですが、頑張ってください。

東京に向かって電車へ乗っている。
足が重い。
東京の美術館の巨大な空間に自分の作品を展示する仕事だから、僕が現場に行かないとかなり難しい仕事。
足が重いのは、緊張するのは、展示を作る前はいつものこと。

ただ今回、
自分に用意された空間は、27×16メートルで天井も相当高くて、これまでに体験したことのない空間だ。自分の作品はそこまででかくもないし、大胆なインスタレーションもしないので、一体どのようにこの巨大な空間と向き合い、納得いくものにできるか、不安しかない。でも、いつものこと。いつも搬入前は孤独だ。

さらに、
小さな島を離れてコロナの非常事態宣伝下の東京に10日も滞在しなくてはいけないストレスも重なる。本当に嫌だ。(美術館の側の宿に宿泊しそこの往復だけで基本済まそうと考えているが。)
今、直島で僕は、子育てや仕事や部活動など、日々のルーティーンがいい感じに回るようになってきたし、それをこの春からもっと加速させようとしている。この日常を加速させて、来年の芸術祭に日常感で挑もうと思っている。そんな時期に10日間もそのルーティーンを止めてしまうことへのストレスがあるのかもしれない。
だから、多分、僕は、今までになく、この小さな島に意識的に根を下ろそうとしている。ただ、島での妻の仕事や僕の仕事には近い将来終わりはあるし、ダラダラと長く住みたいとは思わないが。直島でのプロジェクトを、”置くタイプの作品”ではなく”根が生える作品”を目指そうとし始めたのかも。
だからこそ、東京へ行く足が重い。

すべてうまくいく。
すべてうまくいく。
重い足を前へ。
ただただ前を見て進めば良い。


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写真家とは、他の芸術家とは異なり、固定した自意識を展開、展示してゆく事では 無く、自ら造り上げた自意識を基点として出発するのであるが、逆に、自意識と異なる人々、事事を自ら発見した、その瞬間から撮影を開始するのである。

(中平卓馬 1993年7月号「芸術新潮」)

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芸術家は、ある意味で「固定した自意識を展開、展示してゆく」人たちである。
(さらに蛇足を付け加えると、”売れる芸術家”は、「社会的コンテクストを考え、メディア/メディウムへの配慮を行い、気の利いたタイトルをつけて、美術史や哲学史などの引用を上手に行い歴史との接続も忘れずに、固定した自意識をもしっかり見せれる」人たち、それが自分の仕事であると理解し行動できる人たちである。)

それはさておき、
ここで、中平が語っている写真家というのは、今では”古風な”写真家スタイルではある。ただ、この職業の流れの中に自分はいると読んで感じたのでここに貼り付けた。
(「写真」という言葉自体の意味に付いての言及はここではしないで話を進める。)
写真家の歴史は、写真とアートとの接続の歴史であり、写真を扱う芸術家である写真家は、やはり「固定した自意識を展開、展示してゆく」人である。写真家が「写真というメディア自体を考える研究者」である側面は共通しているが。中平が語っている写真家というのは、写真家が持っていた「観察者」であるというプロ意識かもしれない。それはスマホやSNSによって、全員が「観察者」であり「表現者」になったのかもしれないが、今でも写真家は”映え”や”いいね”とは関係のない世界の「観察者」として自分の仕事を理解し行動できる人たちであると僕は考えている。ただ、これは今では”古風な”写真家スタイルではある、かもしれない。かつてはより、そういう側面を持っていた、と言える。ここでいう写真家というのは、カメラや写真を眺めて美術史やメディアと向き合うこと以上に、カメラを通して他者と向き合う人を指しているということ。

芸術家はすぐに地面の上に自分の自意識を創造する、のが当たり前だけど、そこに違和感や劣等感を抱えてきた僕自身が大切に思っていることは、写真家が自分の足元をカメラをスコップにして、もしくはソナーにして、目の前の風景から新しい何かを発掘するような感覚と作業と表現なのだと思う。しかし、これはスタンダードなアーティストのスタイルではないのだろう。求められる「表現者」像は「創造者」であり、「観察者」ではない、そう常に感じてきた。
僕自身、これを今日、書いているのは、別に中平さんを利用して自分が写真史や美術史に接続したいからでもないし、写真家と芸術家の比較の大発見をしたいからでもなく、ただ、足元すら見えない暗闇の道を歩いている時に、かつて先人の置いた消えそうな明かりを見つけたように感じがして、書いてみただけだ。
この文字も土に埋めておく気持ちで。
未来のプロの「観察者」が発掘するかもしれないので。


美術家というのは、美とは何かを考える人たちなのだろうけど、その実態はメディア(伝達方法)/メディウム(制作素材)の歴史の研究者のように、それらの歴史の中で思考し存在してきたのではないか。油絵の歴史、彫刻の歴史、写真の歴史、、、といいう風に。
美術大学に入ると、油絵、日本画、版画、木彫、石彫、写真などと、扱う素材によって学部が分けられるし、美術館やギャラリーもそういう専門性があるし、やはり、作品を作るメディア/メディウムによって、世界が分けられていた。美術家たちも、自分の生きる/挑戦するメディアの歴史/専門性の中で自らを位置付け、新たな1ページを生み出そうと奮闘していた。それぞれの作家がそれぞれの根っこを持つように。

僕の場合、大学で油絵を専攻したものの早々と油絵や平面作品への興味を失ってしまった。友人たちは「なぜキャンバスに描くのか!?とか平面作品の今は!?」と議論しながら制作に励んでいたのに。その頃の僕は、焼き物にはまって、毎日、アトリエではなく、焼き物サークルの部室へと直行する毎日を過ごしていたし、民俗学の授業の面白さから民俗学の本を読むようになった。多分、メディアの歴史や枠組みの中で何かを作ることに全く興味を感じないまま時が流れた。
様々な文化も研究も、専門性やルールやリングがあるから成立する。最近、M-1で「これは漫才なのか?」という議論があったが、リングがあるからそれをはみ出る楽しさがあるのかもしれないし、そうやって美術のジャンルも脈々とつながってきていた。なのに僕の場合、どうしても、既存のリングの上に上がるのに、興味を持てなかったし、すぐに降りてしまう。それに強いコンプレックスを持っていた。根っからの根無し草である。

デビュー作となった「戦争のかたち」だって、最初はタイポロジーやモノクロ写真を実践しながら始めたのに、最終的にはあんなゆるゆるな形になっていき、完成間近の時に意見を聞きに行ったのは、大学時代の民俗学の先生と建築の雑誌と都築さんの事務所への持ち込みだったし。

ただ、美術の世界でメディウムの縛りがリングやルールにはなり得ない時代になってきているのも事実。大学の学部も崩れてきているし、常に新しいメディアを扱ってきた”メディアアート”というジャンルが過去の言葉になってきていることからも理解できる。今は、自分の表現したい何かしらを見つけ、その内容から様々なメディアを選び、そのメディアの歴史を調べた上で最良の組み合わせを探し制作することが増えているように感じる。(もちろん前からやっている人はやっているが、枠組みの輪郭が曖昧になっている。)

ただ、逆に、同じメディア/メディウムをずっと思考しつづけて制作してきた過去や現在の作家たちの硬派な格好良さに唸ることも多く、憧れてしまうのは常にある。画家や彫刻家や写真家を名乗り続ける先輩や友人たちに対して。


「旅先から絵葉書を書いてくれない?」

いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。

最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝える事以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。

旅はそもそも日常からの“断絶”である。
別に遠くへ行かなくても旅ははじまるし、逆にも然り。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。

([旅するリサーチ・ラボラトリーⅡ]に寄稿 2015)

小学校低学年の頃、岡山のど田舎から岡山の若干都会に引っ越してきて間も無く。誕生日会に招待されて、山の斜面に立つある友人の自宅にはじめて行ったのを覚えている。それ以降、彼の家に遊びにくことはなっかったし、あれが誰だったのかすら思い出せないが。
そこで覚えているのは、山の中腹の大きな一軒家が立ち並ぶ、学区内でも高級住宅街とされるエリアにはじめて足を踏み入れた感覚、そして芝生が青々とする彼の家の中に入ると、巨大なレゴブロックの飛行機やおもちゃや物で溢れていたこと。羨ましさを通り越して、ぼんやり立ち尽くし、おもちゃも触るに触れなかったのを覚えている。誕生日会というのも、それが最初だったし、最後だったのではないか。誕生日会というのが何なのか?分からないまま、「プレゼント交換」というのがあるというので、僕は家に転がっていた、スプリングでできた握力を鍛えるアレを、綺麗めなチラシに包んで持っていった。なぜあんなのを持って行ったのか今でも分からないが、プレゼント交換の時に、綺麗な堤に包まれた友人のプレゼントと一緒に、セロテープで適当に貼られた自分のボロボロの包み紙が、友達から友達に回っていくのを見ながら冷や汗をかいていたのを覚えている。

なぜこんな、ちびまる子ちゃんみたいに、幼い頃のことをふと思い出し書き始めてしまったかというと。
昨日、愛知県の妻の実家の近くにある、ビレバン(ビレッジバンガード)が閉店し、壊されている写真が友人から送られてきたのがきっかけのようだ。そこには僕も妻もたまにふらりと行っていた。やることのない夜とかに。今でいうドン・キホーテに行くみたいに理由もなく。郊外の住宅街に立つビレバン3号店で、天白区にある一号店とほぼ同じような木やトタンで作られたカントリー風の大きな倉庫/ガレージのような建物。コカコーラの看板、アメ車、ビリヤード、ジャズ、そして雑貨、サブカルの雑誌や本。そのビレバンのコンセプトを体現するかのようだった。その建物が無残にも、ショベルによって壊されている写真。美大生になった僕は、吉祥寺にあるビレバンに通った。それが愛知県の天白からやってきたとも知らず。友人たちの家に行くと、小さなビレバンでも作るかのように店内からかってきたような”物たち”で小さな室内を埋めようとしていた。僕も雑誌をよく買って読んでいたし、ここで買った雑誌「spectator」の”あなたの記事求む!”のページをみて、持ち込むことではじめての連載や文章を書き始めるきっかけになっていった。ただ、大学に入りたての友人たち(特にデザイン科の学生)の部屋にはすでにアップルのパソコンが置かれ始め、インターネットも普及し始めていた。これが次の主役になるとも知らず僕も触れ始めていた。

いや、ビレバンには思い出がある、そして送られてきた写真によって感じてしまったのは、戦後から日本で続いていた「かっこいいアメリカ像や裕福の形」が終わったのだという、それを自分の思い出の地が崩れはてた廃墟となって出会うように、強く再確認したのだろう。アメリカからやってくる雑誌や物に囲まれる生活(雑誌も雑貨などの特集も多かったし)が豊かだという憧れた世代の次の世代としての自分と、それがいつの間にか終わり、全てがインターネットに飲まれて行った今に。


今、島で暮らす家には、雑貨や本が何もない。日々、使うものしかない。家具も前からこの家にあったものをそのまま使っているし、棚も必要になる度に、その都度ベニア板を買ってきて、その寸法で作っている。

時代は劇的に変わった。
僕も、大学生の途中からは自分もパソコンを買って、雑誌の真似事自分でも始め、文章をブログに書くようになり、ホームページを作るようになり、SNSで世界中の人とリアルタイムでチャットするようになり、自分で編集した自費出版した本をネットで売っているし、ネットで動画をみてネットで買い物をして、ネットでテレビ電話してミーティング、そこでトークイベントや授業までやって、、、。
時代は劇的に変わっている。
そういう中で、どこか遠い異国からやってくるものをありがたがる感覚がすっかり薄れてきたというのか。物に囲まれた生活が豊かだという感覚が失われてきたのか。
素人が本や雑誌やポスターを作るようになり、素人が文章を書くようになり、素人が映像番組を作るようになり、素人がラジオをやり、、、寡黙な専門職やプロの仕事が減り、「いいね」の数で素人にすり替わっていく。今も、アメリカ製のGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の支配下ということなのか。文化人が電力会社の電気を使わないとか自分で家を立てるとか農業するとか言っても、そういう生き方こそ、余計にGAFAMがないと生きていけない生活である、というジレンマはないだろうか。


時代が激変する?
いやいや、来る波に呼吸を合わせて、リラックスして乗ればよいのだ。
生き方も種類も広がっていくはずだから。

隠遁生活ってどうやったらおくれるんでしょうか。
後々田さん?

幼い頃からの関係が深い親や兄弟ではなく、新しい家族である甥っ子姪っ子というのは、どこか奇妙な距離感であり、浅くない面白い関係だと思う。その関係性はどこかの本とかに書いてあった気がするので、ここでは語らないが。まぁ、寅さんとミツオの関係のような、ね。
僕の姪っ子は姉の娘なのだけど、いつの頃からか、「お医者さんになりたい」と言うようになり、その目標のために昨年は医大の入試を受けるも不合格。一浪をしていた。僕の周りには医者の家族や親族はいなかったので、医大や医学部の事を今までよく知らなかったが。並並ならぬ努力をもう何年も継続していた彼女の、この不合格によって医大医学部の壁の高さを家族は痛感することとなった。そして、彼女の努力を知っている家族は、もう彼女に「頑張れ」と声をかけられなかった。誰よりも頑張っているのだから。

うちの家系は多分、そんなに頭が悪くはないが、そんなに飛び抜けていい方でもない、と僕は思っているので。彼女は自分の脳や遺伝子の限界への挑戦をしているのではないかとさえ思う。フリーダイビングのように、一人で、深い暗い海の底へ息を止めて、苦しくてもひたすら潜っていくように。ただただ、自分の限界と向き合い続ける日々。
そのまま息切れして、暗い海底へと沈まないように、「頑張れ」ではない言葉を探して呼びかけるだけしかできなかった。

今年も受験で良い発表を聞かないままだった、昨日、とある医学部の特待生(学費免除)として合格の報告を受けた。家族全員はただただ涙し、彼女をねぎらう言葉をかけた。彼女の努力と成果に。
医者という生き方を目指す家族の一人を、アーティストという叔父がどのようにサポートしたり役に立つことが出来るのか不明だが。まぁ、たまに苦笑いされるような土産を手にフラリと現れ、悩み事を聞くくらいには立つかもしれない。

ようやく道の入り口に立った彼女は、
今から、生きることの辛さや豊かさに全身で立ち向かい、自分の道を作るのだろう。
とにかくおめでとう。

お互い、下道をとぼとぼ歩みましょう。

http://baikado-diary.sblo.jp/article/82860583.html

って、死んどるやんけー!

くそー!
もっともっと色々アドバイス欲しいかったのにー!
もう四〇にもやったら誰も教えてくれないしー!

(執筆中)

2019年に東京都の賞を受賞したことを受けて、今、初めての僕自身の作品を集めたモノグラフを製作している。作品集であり、執筆者の文章や自らの考察も書き込まれ充実した内容。ただいま編集作業中。。。

内容は、デビュー作の「戦争のかたち」「torii」「津波石」という大きなテーマ設定を持つ”A面”だけではなく、「Re-Fort Project」「漂泊之碑」「新しい石器」というどちらかというと”B面”的な作品、あとは、最近作である直島の「瀬戸内「 」資料館」まで掲載されている。タイトルも「下道基行」。
豪華なゲスト執筆陣によって、自分のこれまでを俯瞰して語られると、なんか、もう死んだ作家の本を作っているようで、奇妙な気持ちになる。自分を歴史化するような本を作ることへの妙な居心地の悪さというか、こそばゆさというか、もちろん嬉しいし光栄なのだけど。ただ、この40前半で一回死んだ、と思うと、これまでの自分の枠をさらに越えて、もっと新しいことをしたくなってくる。これまで、後ろを見ずに歩んできたが、その歩みによってできた細い獣道を振り返るような行為。そういうのは自分ではまだやりたくなかったが、新しい船出のために、今までの港で過去を清算するのがこの本を製作する意味になっているのかもしれない。
ただ、これまで、作品や活動について誰も語ってくれなかった事をこの本にはもう自ら執筆しているし、今回は、執筆陣も深い部分を掘り起こしてくれていて、なんというか、2001-2021年の20年、表現活動を続けた一人の表現者の”物語”として面白く読めるはず。(すでに他人事のよう。。。)

実は、
この本、実は販売ができない。東京都で制作費を出しているので、それを僕の儲けにはできないし、さらにこの本はPDFとして誰でもダウンロードできる形態をとる。ただ、本は、デザイナーと共に作り上げる立体の表現物なので、PDFとは別の体験となるだろう。どう配ろうか考えていることろ。。。


これまでの僕の本、出版社michilaboratoryで出版した本の販売の仕方を書くと、

・「戦争のかたち」(2005年リトルモア)3000部(10年かかって完売。絶版)
・「日曜画家」(2010年、自費出版)100部(完売、デザインし直して再販し完売)
・「torii」(2013年michilaboratory)1000部(michilaboratory立ち上げ、6年で完売)
・「Dusk/Dawn」(2015年michilaboratory)800部
・「Bridge」(2017年michilaboratory&)5部(60メートルの本、5部、20万円、完売)
・「14歳と世界と境」(2019年michilaboratory&大館)300部(販売せず「旅する本」として様々な国で配付中)


このように、最初の本「戦争のかたち」だけ、出版社からの出版であり3000部という”普通”の出版ルートに乗せて作られたが、その後は、写真集やアート系の本が大手からは出版できない時代背景もあり、自費出版で出版形態や部数や価格も挑戦しながら、楽しみながら作ってきた。
そして、今回は、「販売できない」のが一つのミッションであり一つのテーマになった。

今、考えているのは、
①まず、あげたい人に配る
②次は、欲しい人を募集。住所を教えてもらい、送料のみを振り込み。そして、無料であげるかわりに、感想を僕、もしくはSNSにアップする。
②欲しい人に住所を教えてもらい送る。そして、送料まで無料にしているので、何かお金以外の物を送ってもらう。
③有料で上映会やトークなどのイベントを行い、そこで全員に配る。イベント参加者には無料で本を配布することは告知。
とかね。無料だからって、誰でも手に入るのでは、この本が勿体無い。興味のある人や、モチベーションのある人に届ける方法を考えたい。(以前のように「旅をする本」も良いが、僕の作品集というのは「旅をする本」とのマッチングが悪い。)

本は、作って終わりではなく、人に届ける方法や人が体験することを想像するのが楽しい。
今は、生みの苦しみの中にいるが。。。

「直島窯工研究会」
直島でやっているプロジェクト《瀬戸内「」資料館》の中で、陶芸のサークル活動が始まろうとしている。
大学時代、ムサビ窯工研究会の一年後輩のなっちゃんがこの島にいたから僕たちの家族はこの島へ引っ越してこれた。そして、プロジェクト《瀬戸内「」資料館》をやっている。本や資料を収集しながら、島の郷土図書館のような物を作ろうとしている。さらに、スペースで島民のサークル活動もやりたいなぁと考えていて、「そうだ!焼き物なら僕も教えられるな」(東京で3年ほど陶芸教室の先生経験あり。)と思い、なっちゃんに相談してみたところ。なっちゃんもちょうど陶芸をやろうと準備をしていて、スペースを探していた。そこから、資料館のスペースで「直島窯工研究会」を一緒に始めるというアイデアになった。なっちゃんは部長。下道は管理人。資料館は、島民としては中々入りづらいアートのギャラリー空間であるから、この機会にいろんな人が出入りが始まり、気軽に入れる空気が流れるようになってほしいという願いがある。とにかくやってみよう!と動き出した。

もし、誰かが、芸術祭に参加して、作品として郷土資料館や図書館のような存在を作ろうとしても、それっぽくしかならないと思う。それは、目には見えないが時間の蓄積が圧倒的に足りないからではないか。作品を作るとき、フィクションにしてしまうのは、フィクションを描きたいからという理由とともに、本物への疑いがあるからだろう。《瀬戸内「」資料館》は将来、作品であることが本物か偽物かわからない存在にまでなってほしいと考えている。僕はアーティストとして、《瀬戸内「」資料館》をやっているのだけれども、今、館長と名乗っているのは、自分がこれまでやってきた「作家と作品という関係」を壊してみたいからかもしれない。

さて、どこまでいけるのだろうか。
そして、この新しい挑戦は、新しい水脈になるのだろうか。
そのためには全力で楽しみながら、転がっていくしかない。

この数日、愛知に車で帰ったので。
なんだか、暇を見つけて、何人か旧友に用事もそこまで無いのに突然電話をしてみている。
電話は、結局、用事が終わった後も、だらだらと1時間近く話してしまう。
なるべく、向こうが忙しそうだったり、切りたそうなら切れるようには観察しているが、意外と長電話になる。
この感覚。15年くらい前では当たり前だった。
「電話は突然かかってくるもの」から、「まずはメールで都合の良い時間や都合を聞いてから、話さないといけない理由も書いてからするもの」に変わってしまった。用事もないのに、電話で話す機会は、文字でのチャットになった。メール社会の中で相手の時間を無理矢理に奪う電話は悪になった。でも、僕は文字でのチャットが苦手。でももちろん、頑張ってる、自分なりに。

そして、このコロナで。居酒屋や飲食店でダラダラと話す機会も失われた今、なんだか、すごく意味もなく、ダラダラと長電話するのが貴重だ。(あっちもそうであってほしい。ついつい長電話になってしまうのを見るとそうであるのではないか。)

コロナによって、制限されているのは本当に「移動」なのだろうか?
多分、もうわかってきたが、移動中ではなく。移動に伴う飲食、さらにはそこで行われる会話。(そういう意味で、GO TOキャンペーンは悪くないが、例えば、それで東京の人が北陸に行って、カニとか日本酒とか飲食しない方がおかしいし、そういう意味ではGO TOは感染拡大の理由になったと僕は思う。)
つまり、コロナによって、制限されているのは「話すこと」。学校でも、食事中に話すことはNGになっているし、会話するにも、マスクと一定の距離が必要であるし。他愛もない会話が押し殺されているように思うようになってきた。そんなことみんな分かっているが、その当たり前のことを少し我慢していることで何かがずれてしまってくる。

ちょうど昨日も、展覧会オープンして、作家やスタッフが集まっていたが、「よし、夕飯でも行くか!」って誘えない。そんなことって、今までになかった。みんなバラバラに帰っていった。僕も、帰りにコンビニでビールとつまみを買って一人で帰った。愛知県主催のイベントだしね。

そう考えると、僕の場合、月曜日は「山下道ラジオ」(福岡在住のファッションデザイナー山下陽光と)、金曜日は「微妙な放送」(香港在住のひんさんとひこさんと)、という2つのインターネットラジオで、その一週間のことを毎週喋っているは、なんだか精神状態に良いのかもと思えてきた。1時間程度、気になったことをお互いに喋り合うだけの放送。誰でも聞けるので、もちろん言えないこともあるが、それなりに言えるようになってきているし、良い息抜きになっているのかもしれない。
島や近所に、本当に話したいことが話せる人っている?
愛知にいるときは、2ヶ月に一回くらい、誰か誘って、居酒屋で毒づいていたが、今はそれがない。
作品制作のこと。家族のこと。年齢のことや社会への不安や不満。そういうことを、誰かと話すことで前に進めることは大きい。
ラジオを聞く人にも、何か効果があるのかな?
同じような悩みを抱えてる人が、そのラジオを聞いて、少し何かが軽くなったり、送ろうと思えば、こちらに質問メールもおくれるってこと。
この2つのラジオは、「話すこと」「吐き出すこと」を僕に与えてくれている。
と、ふと思った。

展示「次元の衝突点」 
 2021年1月9日ー2月7日
 The 5th Floor 東京

「Drawing the Lines(仮)」という新作の小さな品を出品。
新作というか再編集である。リモートでの搬入は初めてだった。
実は、とあるスペースで、国境など大きな境になっている様々な”水”を集めるプロジェクトをやっていて、毎年旅先から一つずつ集めて、数年かけて7個まで集まっていた。僕としてはこのプロジェクトを「境界のかけら」という同列の過去作の延長として、”水”だけに絞り込んで収集し、この空間/サイトのためのプロジェクト”コミッションワーク”だと位置付けていた。ただ、昨年、”これはこのスペースへのコミッションワークではない”という主張があって、困りこんでしまったが。考えた結果、それならそれに争わず、再編集して場所と切り離して普及盤的も作ってみようと実験していたのだ。
「Drawing the Lines(仮)」とはベタな名前であるが。でも、わかりやすいのは悪いことではない。見えないし流動性のある”水”によって人々は線を引きつずけ、隔てつずける。っていうね。「境界のかけら」の中から”水”だけを主人公に絞り、より鋭角にしようとしていたサイトスペシフィックな進行形の作品はプロセス段階で、この作品はこの場所に作られたものではない、とサイト側から切り離された形になり、おかげで逆に自由になった。


展示「境界のかたち 現代美術 in 大府」
 2021年1月23日ー2月14日
 おおぶ文化交流の杜、愛知

「境界のかたち」というグループ展に参加。
今回は、シリーズ「14歳と世界と境」の新聞掲載記事のアーカイブを見せる初めての展示のために準備をしてきた。このシリーズが2013年にスタートしたきっかけの地で出来るのは感慨深い。
愛知県大府市の図書館での展示の搬入のために島から現場まで車でダイレクトに行き、翌日プレスの対応をする。新聞社の協力があって出来上がったプロジェクトなので丁寧に対応した。プレスの方からの質問に答え終わり人がはけた頃、ある参加者が近づいてきて「新聞に中学生の連載をして、多分連載料ももらわず、どうやってお金を稼いでいるんですか?」と少し意地悪な表情で質問してきた。僕は「このプロジェクトは芸術祭の枠内で行うことが多く、それは中学校や新聞社の協力を得やすいというのもあるのですが、連載料はもらいませんが、芸術祭に参加することへの謝礼としてお金は入ってきているので…」と話すとそれを遮るように「でも、新聞で連載をしても…」と食い下がってきた。その方は連載をした新聞自体を展示することへ「これが美術作品なのですか?売れるんですか?」と聞きたいようだった。それについて答えようとした瞬間、後ろにいたもう一人の男性が「ちょっと失礼しますが。。私、愛知県美の館長で。今美術館では、新収蔵作品展が行われていて、これらの新聞もコレクションとして展示されています。」と…。プレスの方はそそくさと次の展示室へ。

展示「2020年度第4期コレクション展」 
 2021年1月15日〜4月11日
 愛知県美術館

ということで、「新収蔵作品展」に「14歳と世界と境」と「戦争のかたち」が出品されています。この2つのシリーズが、まとまった形で愛知に保存されること。とても嬉しい。両シリーズともに、しっかりとした写真作品である「torii」に比べて、図やら文章やら写真やらが組み合わさるプロジェクトベースの作品で、作った当時のまま倉庫に眠っているような状態だったので、それらをプロジェクト作品として編集し直しを昨年末より行っていてようやく形になった。新しく額装や小物の設えを一緒に考えてくれたミラクルファクトリーとなっちゃんに感謝。コレクションになると、僕の手を離れて展示されるので、なるべく”使いやすい”形を考える日々だった。色々な作品とともに新しい視点で発表されることを想像しながら。

昨年は春以降、移住先の直島以外で展示もなく、ただ準備を粛々と進めていた。こんなに展示を作らないのは10年ぶりくらいだろうか。今年1月からは準備していた作品が徐々に形になって旅立っていきます。これらは、新しく旅をして作った新作ではない。移動は制限されているし。ただ、これまで作り倉庫に眠っていたプロジェクトベースの作品をその作った場所などから切り離して別の場所でどのように見せることが可能かを考えて再編集している。コロナかで棚を作って整理をしていたりしている人が多かったが、そういう作業に近い。そういう中で、様々な事件なども起こりますが、その事件も好転させながら自分の力にして乗り越えていきたい。1月から始まった展示ラッシュ、4月まで続く。なんとか駆け抜け、終わった頃には体が軽くして、春の海で思いっきり遊びたい。
にしても、展示を見るもの、作るのも本当に楽しくてたまらん!
まだまだ気の抜けない日々を綱渡り。

4月以降は、予定はスカスカです。大丈夫か。。
いや、昨年から共働きなので、仕事が無いなら無いで子育てに専念!

”アートな島”として年間数万人の観光客が押し寄せる直島には、たくさんカフェや飲食店がある。
味は美味しいし、こだわりもある店が多いが、値段はやはり島値段で、さらに観光値段なので少し高い傾向だ。店内は観光客でいっぱいだったりもするし、島内で島民が外食をするのはそこまで頻繁ではないだろう。観光客というのは財布の紐がゆるいが、島民にとっては日常。それは仕方ないことかも知れない。愛知では外食産業が盛んで当たり前だった「日曜の午後に家族でサクッと何か食べる」とか「金曜日の夜に家族で外食を…」するような店は島にはほぼないと言える。(少し島値段のうどん屋とか、スタッフとの打ち上げとか晴れの場に使える飲み屋はあるが。)
そんななかコロナ流行で、観光客がいなくなり、お弁当をはじめる島の飲食店も出てきた。
都市部のオフィス街や郊外住宅地の飲食店も同じようにコロナかでお弁当を出す店が増えているそうだが、店内飲食が難しいので買って帰る客が多いのではないかと想像する。つまり同じ客層。ただ、この島の場合、飲食店を使う大半は観光客であり、この時期に島へやってきた観光客でさえお店でゆっくり食べたいし、お弁当を買って外では食べない。つまり、お弁当を販売する場合、ターゲットは島民になる。
島民がこれまでお弁当が欲しい時には、島唯一のコンビニセブンイレブンかスーパーCOOPにいっていただろうから、ライバルはコンビニ弁当とスーパーの弁当となる。島内でいくつもの飲食店がお弁当を販売し始めたが、コンビニ弁当より格段にヘルシーでホカホカで美味しいが、値段が下げられなかったりそれぞれの理由で、お弁当をやめていった店も少ないくない。

さて、こういう島の特殊な現状の中で、昨年4月くらいから弁当を新しく始めたカフェ「シナモン」。値段はワンコイン500円(税込ワンドリンク付き)と一番安かった。ただ始めた当初は、揚げ物と漬物がご飯の上に乗った”白身魚フライのり弁”的なものが多く、客足もそこまででもなかったと記憶する。島民は値段と内容に厳しい。良いメニューは噂になり、そうでないときは客足もまばら。そんな中で、値段据え置きで、日々挑戦を続け、徐々に内容が充実していき、最近では島民の行列も頻繁になり、12時には売り切れてしまうメニューもあるほど。
(他にも、美味しくてお買い得な弁当を出す店は、「みやんだ」の焼き魚弁当650円はボリュームも栄養満点。夜のお刺身弁当が950円で超美味しい。そのほかは、最近”弁当屋”としてオープンした「潮の道」はカオマンガイ(タイ料理)など650円など。島民に定着している店はもちろん他にもある。)
島民たちが通う飲食店というのは、うどん屋以外には今まで少なかったと思うので、飲食店が作るホカホカのお弁当の登場は、観光客が激減する中で、飲食店が観光客中心のメニューと値段を島民むけに少しだけ変化したという、コロナかで起こった島内の大きな変化ではないか。

僕も昼間は忙しいので、お弁当で済ませる。
カフェ「シナモン」は歩いて1分なので、毎日店頭に出されているメニューを見に行くのが日課に。1日1メニューのみ、手書きで書かれたダンボールのメニュー看板が画鋲で貼り出される。メニューを見てから買うか決める。ざまざまな種類の揚げ物やカレーを中心としたメニューが多い。一週間に2回くらいは買う。だから、この数ヶ月、500円(税込ワンドリンク付き)という価格で、島民が喜ぶメニューや内容を試行錯誤しているのを日々弁当から感じてきた。
日々張り替えられる店頭の手書きダンボール看板にはその日の日付と「寒い日が続きますが頑張りましょう!」など店員のコメントが書いてある。日記のよう。昨年より、店長にお願いして、こっそりこのダンボール看板の保存収集を始めた。コロナで変化し続ける島の今の記録物として。
今回、ある程度量が溜まったので、資料館が閉館時にもみれるように窓ガラスに貼ってみた。
「シナモンの500円弁当アーカイブ展」
始まりました。
コロナに負けるな。

139045637_10158853145904709_1985024648601071746_o.jpg 上は店頭の今日の看板です。

下の写真は、展示の様子。


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展示は気に入っていますが、懸念としては、この展示がシナモンだけを応援しているように見えてしまうのではないか?ということ。小さい島ですしね。でも、他の飲食店もちゃんと日々観察しています。”コロナかでの日常が記録された物”としてはシナモンの看板しかなかったので、島民の方にはご理解いただけたら嬉しいです。他にも見つけていたら、収集して展示していたはずですので。さらに、この展示は、コロナの大変な日常を、しかめっ面ではなく俯瞰して考える材料になればとも思って作りましたー。
(つか、今まで旅人だったのに、島に定住すると急に普通の観察記録が書きたいように書けなくなるのって怖いですね。この日記ももしかして読む島民の読者のことを考えず、フォローを入れないなら半分の量でかけるのですが。回りくどくなってしまうな。その辺、大きな世界でも発言しずらくなってきているし、島というより狭い環境で過度に鍛えられている今なのだろうし、今後バランスをよくしていきたいですね。)以上!

IMG_7214.jpg 2歳半の娘、大きすぎる


2018年、広島市現代美術館で、「新しい骨董」として展覧会を作った。
地下の展示室、そしてミュージアムショップを会場として。(いや、youtuberにもなってみようとしたし、様々な外にも繰り出したので、空間は展示室&ショップ&ネット、いや陽光くんのいう場所ップということか?)
ミュージアムショップでは、美術館のガラスケースを持ち込み、陽光くんと海で拾った漂着物/ゴミを並べて、100円ショップを作っていた。展示終了後もその「新しい骨董のゴミの百均」はミュージアムショップに残されて、運営されている。感覚としては、2018年から終わらない展示をやっている感じ。これは結構小さな奇跡なのではないかと思っている。

なぜなら、海からのゴミは、(僕が一緒に拾うこともあるが)福岡の陽光くんがせっせと車で海へ出かけて拾って、ダンボールいっぱいに詰めて送料かけて広島へ送ってくれていて、それを学芸員さんやスタッフさんが綺麗に陳列し、さらに販売してくれている。送料や労力から考えると全員で大赤字を叩き出していて、これは遊び心に支えられる贅沢であり、大人たちの全力の遊び場である。
瀬戸内の島は、福岡の浜辺ほど海洋ゴミは流れてこないが。ただ、ご近所さんで船を持っている方と知り合うことができたことだし、船から見える無人島の浜辺には大量の海洋ゴミが山積みなので今度、収穫しに行きたい。

美術館の「新しい骨董のゴミの百均」の人気商品としては、陽光くんの拾っている漂着物「100円ライター」。
漂着物の100円ライターは、異国から流れてくるので様々なお店の名前や情報も残されているし、初代漂着物学会会長の石井忠さんも愛した存在である。しかも、世の中、急激な反タバコの社会の中で、「100円ライター」はかつてのマッチ箱のように哀愁を帯び始めている気がする。さらに異国の読めない情報(店の名前や電話番号)をくっつけて、ボロボロに骨董感を帯びた「100円ライター」に、未来の眼差しを先取りして感じる骨董感を感じずにはいられない。(それにしても、大学生の時に、ライターを手にして火を付ける行為を非常に恐る後輩がいて、みんなでいじっていたが、こういう若者は増えているのだろうね。)

では。さあ、日記は土に埋めて。仕事だ仕事だ。今日も島は美しいなぁ。

先日、美大時代の同級生(卒業してからも一緒にスタジオを借りていた)友人のFから、娘にプレゼントが送られてきた。開けてみると靴だった。絵本のはらぺこあおむしの青虫の顔がそのまま靴になっているもの。ショッキングな色と絵柄の靴に驚いた。僕や妻にはないセンスだ。
その時、そういえば娘の保育園で2歳児の靴箱に並ぶのはニューバランスの靴ばかりだなぁと思い出した。小さい子供の靴は選択肢が少ない。そんな中、ニューバランスは、値段は安くないがかっこいいし、丈夫だし、履きやすいし、色も落ち着いていて種類も多いから男子も女子も履けるし、ついつい買ってしまうのだが。でも、1−3歳児がニューバランスだらけなのは以前から気にはなっていた。

朝、保育園に行く前に、その靴を娘の足に履かせてみた。恐る恐る。娘はビビットな色のその新しい靴を気に入ったようで嬉しそうにはいた。さらに、かけてあった傘を手に持った。晴れているのに。猫の絵が前面に描いた赤い傘は妙にその靴と合っている。
保育園に向かいながら、娘の後ろ姿をみていて、明らかに、グレーや落ち着いたシンプルなコーディネートの中で靴と傘だけ目立っている。でも実は、逆に僕や妻の趣味で出来上がった服装の方が妙に気になっていた。
今まで、お古とかでもらっても趣味が合わないからとしまいこんでいた服も、どんどん彼女に選ばせて、僕らの意図しない、ブリコラージュみたいな服装になっても良いかも知れないなぁと静かに考えていた。

僕や妻の趣味からは大きく外れた存在を投げ込んできたFは、さすがアーティストだなぁと、妻と笑った。


作品を作って発表すると、よく質問されるのが。
「●●の●●って作品を知ってますか?」
というコメントだろうか。

自分もそういう質問をやってしまうことがあるかもしれないけど、結構気をつけている。
ある作品を見て、深い思考もなく、違いを提示した上で会話をするのでもなく、ただただ似ている作品が思い浮かんで、ただただそれを作者に投げつけるというのは、クリエイティブではないと思うので。

もし、●●が本当に誰も知らない古い作品だったり、
全く別のジャンルの別の存在であったりすると、もしかすると、作者のためになるかもしれないし、面白い会話の往復も始まる気がする。

実際には、●●はテーマや手法が似ている作家や作品が挙げられることが多く、少し前に発表された自分と似ている作品であることが多い。そんな作品は作家はもちろん知った上で作っていることが多いだろうし。
そういう質問者は良かれと思って言っているのかもしれないが、
「●●の●●って作品を知ってますか?」=「●●の●●と似ていますね?」
という意味にしか聞こえない。質問ではなく、ただの指摘のように聞こえる。
さらにいうと、作者はその質問者以外にも同じ質問を多数されていることが多い。そういう質問者が多いということだ。

作品を見た感想/質問として、製作者に対して、
「●●の●●って作品を知ってますか?」
には、
「私、あなたの作品で●●を思い出しましたよ。」
という意味なのだと思うので、
はっきりいうと、よく考えいてセンスの良い●●を入れた方が良いのではないか。
ただただ似ている●●を質問で出してくる質問者を相手はどう思うかを想像してみて、緊張感を持って発言した方がより創造的なコミュニケーションを楽しむことができるのではないか。
(もし、その作者を●●のパクリだと指摘して追求したいのでなければ、堂々と喧嘩を売れば良いが。)
もしくは、「●●の●●って作品を知ってますか?」の後に、「でも、●●と違ってどうしてこのように作ったのですか?」という風にさらに深く質問をしていくとか?


と、
これを読んで「あぁ、シタミチさん、最近、誰かと比較されて嫌だったんだ。。」と思うかもしれないが、実はその逆で、僕の作品と比較されている場面に遭遇したので書いているのだ。
もちろん、僕もこういう経験はずーっとしてきているが。こういう●●のような存在があるからこそ、新しい面白い作品は生まれてくるし、作品が鋭くなっていくのだと思うんだけど。こういう質問してくる人がいなくても、すでに自問自答が終わった上で作品は発表してることが多い。

(さらにいうと、このような●●どうしの「似たような作品を集めたグループ展」というのは、参加するのは辛いだろうなぁ。お互い得しないなぁ。と今想像してしまった。。。)

まぁ、質問というのは、
会話を引き出すきっかけを作る重要な要素だなぁと、ラジオをしていてもつくづく思う。
質問はただの指摘にしかならない場合もあるし、逆に会話を膨らまし、アイデアの種になることもある。


移り住んだ直島で、地元の人から質問されることがある。
以下の2つの質問が最も多い。このような質問と答えが日々繰り返されているので、この場所に書き留めておこうと思う。

【質問ケース1】
(僕が日々フラフラしていて、福武財団が運営するスペース「宮浦ギャラリー六区」で毎日作業をしているので。)

島民A:「下道さんはどうやって普段お金をどのように稼がれているのですか?」
島民B:「下道さんは、福武財団に勤務されているのですね?」
下道:「いえ、アーティストは自由業なので、誰かに雇われてはいません。現在、国内外の美術館や企画でのプロジェクトを動かしていますし、その一つがこの直島ということです。」
島民B:「はぁ。。じゃ、福武財団の所有するスペースに毎日来ていて作業されているようですが、どのようにお金をもらうんですか?」
下道:「そうですね。直島は様々なアート作品がありますよね?それら作品はアーティストや建築家から購入して設置してるわけですが。僕の場合も、そういう作品の一つを今作っているのです。ただ、まだ完成していない。数年後に完成する作品をこの場所で、今作っています。しかも、そのプロセスも公開しながら。」
島民AB:「………」
下道:「こういう作り方は、僕にとっても財団にとっても初めてのことなので、どのようにお金をもらうかは、今一緒に考えながら動いているんですよ。」
(そう答えても、「なるほど!わかりました!」とはいかない。。。でも、そうだからこそ新しい挑戦である。)

【質問ケース2】
(僕が使っている「宮浦ギャラリー六区」というスペースは、”ギャラリー”なのに、展示をしていない時期があるし、僕が作業を行なっているので。。)

島民C:「空いているなら、島民の誰々が写真を取っているし、誰々が絵を描いているから、展示したらいいじゃないですか?」
島民D:「私たちがやっているサークルの展示会をさせてほしいわ」
下道:「そうですね。。「ギャラリーなのだし空いているし作品を飾ったり使った方が良い」のは理解できます。ただ、何か展示するか、というのはなかなか簡単ではないです。例えば、福武財団は三十年以上前からこの島で、国際的な芸術家や建築家を選び、そして一緒に作ってきたから、今の直島の”アートの島”というブランドがあるわけで、観光業もそのブランドによって保たれている部分は大きいのではないかと思うんです。直島には他にも魅力はありますが、ね。その福武財団の美術館やギャラリーの中に、どのような作品を入れて展示するか、誰と一緒にやるか、っていうのはとても繊細な話だと思うんですよ。」
島民CD:「………」
下道:「うーん。例え話をすると、島で”こだわり”の飲食店をやっていて繁盛しているとする。そこに善意であっても、周囲の人から持ち込まれた食べ物や、提案されたアイデアをなんでも入れるわけにはいかないと思うんです。そのこだわりの部分を選ぶセンスや技術がその店のクオリティや人気を作っているので。」
島民CD:「なんとなくわかるのですが………」

とまぁ、理解してもらえているかはわかりませんが、こんな感じで、率直な疑問をぶつけられるのは好きなので、今後も正直に答えていきたいと考えているのです。

大根1本100円は安いけど300円は高いから買わないとか、バスの運転手はどういう仕事であるとか、何曜日が休みだとか、スーツを着るとか着ないとか、そういう、お金の感覚や職業の日常感覚ってある程度共有していると思っているが、たまにそこからはみ出す人や存在がいる。日常的な尺度に合わない存在や生き方と出会った時に、自分の持つ物差しで考えようとするが、それに合わない存在との衝突自体がアートであったりする。ま、僕がそのような超えた存在かは疑問だが。

でも、10000円の大根って言われると、逆に食べてみたくなるし、実はバスの運転手の仕事の詳細を僕らは知らないんじゃないかなぁ。。と。


「宮浦ギャラリー六区」について書くと。
ここは、これまで様々な作家を選んで展覧会を行なってきた。ただ、ギャラリーというのは
、中が入れ替わり循環するのでいつも新しい状態にしておける良い点と、反面、常に面白い作家を探して、依頼して一緒に中身をつくらないといけない大変さがある。美術館には学芸員、ギャラリーにはギャラリストという専門家がいて、展示の企画をプロとして考えて運営している訳で。常に今の現代美術の展示を見て情報を集めて動向を知っておき、さらに様々なアーティストに合わせながら新しい挑戦を日々行わないといけない。だから、空間を作ったら、そこからたくさんの仕事が始まり、最初はよくてもそれをクオリティーを維持しながら、長期に運営していくことはとても大変なことだろう。
さらに、「宮浦ギャラリー六区」は、パチンコ屋だった小さな建物を建築家が個性的に改修した時点で、すでに”作品”であり、一つ完結している。それもこの空間の運営していくのは難しいところだろう。直島の他のプロジェクト「家プロジェクト」は空家+作家=作品が完成しているし、「直島銭湯」も銭湯+作家=作品、「地中美術館」も3作家+建築家=作品として完成している。ここだってパチンコ屋+建築家=作品なのだけど、中身が空っぽだから、その上に何かを入れないといけないのだ。

この「宮浦ギャラリー六区」のために、僕のプロジェクトである《瀬戸内「」資料館》は作られた訳ではない。しかし、このスペースが空いていたこともあって、というべきか、縁があって、、、このスペースを仮住まいとしている。偶然ではあるが、これも縁であるし、そのことで、様々な島民とのやり取りは生まれてくるが、これも面白いと思っている。
島民の方からの素朴な質問によって「アーティストの職業」「スペースの活用」について気づかされ、それに答えることで、僕の中で意識化され言語化されていく。
その記録も、このブログに残しておこうと思う。


『山下道ラジオ』の放送が、ついに50回を超えた。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLI14yGCeRYoUejQYyzGPeSqUtU2f-xC2J
視聴数は毎回100回程度なので、よく聞いている人はだいたい50人くらいいるのかもしれない。まぁ、すでに視聴者数を気にしないようになっている。このラジオは、おそらく多くのリスナーを獲得するためのものではなく、ラジオという形を使った「遠く離れた2人による日記の同時筆記」なのかもしれない。つまり、これはラジオという”産業”とは全く別のものとして存在している。二人の日々の思ったことやアイデアを話し合う公開ミーティングであり、公開の飲み会であり、他愛もない日常を繋いだだけの“場所”であり、その記録である。
(産業としてのラジオとは、スポンサー収入や芸能人やミュージシャンとかの営業や告知など、いろんなレベルでお金が発生しているしその関連の存在。『山下道ラジオ』が何にも産業として意味がないのもどうなのか?と思うが、仕事や考え方や生き方を考えたり発言することで脳を回し続ける、”無宗教の寺”みたいな存在なのかもしれない。自分のためでもあり、時に誰かの役にもたつかもしれない。アイデアのオープンソース。)

鬼才・山下陽光氏との他愛もない会話の中から始まったこのライジオの特徴は、毎回、彼の住む福岡と僕の住む愛知(途中から直島)をメッセンジャーでつないで録音する、というアナログなもので、「離れた場所どうしをつないで面白いことをしたいね」という『新しい骨董(2013年より活動をする山下と下道と影山のグループ)』の試行錯誤の延長上にあった企画/実験であった。ただ、このラジオは2020年3月11日に開始され、当初本人たちは「離れた場所を繋いで話してラジオ作る全然できるし、たのしいー!」と狂ったように毎日毎日盛り上がって収録していたのだが、1ヶ月後、毎日はやりすぎでしょ、と週一になった。ちょうどその頃、新型コロナが中国以外でも爆発的に流行しはじめ、4月16日にロックダウンが起こると、人々は遠隔で様々なことをしなくてはいけない状況になり、ラジオやテレビ、会議や学校までも、遠隔でオンラインで行うのが“普通”になってしまっていった。(ちなみに、「山下道ラジオ」の第一回テーマは「住む場所と移住」でコロナの話題はまだない。僕自身のこのラジオへの当初の期待は、愛知から直島への移住を準備していた時期に、「どこで暮らすか」をより深く掘り下げて考えることだったと記憶する。)世の中では徐々にウィルスが流行する中で、展覧会やイベントの多くが中止になり、「オンラインで世界が繋がる」という趣旨のイベントが多数行われるようになった。離れた場所どうしでイベントや収録を行うのが当たり前になる感覚は、もし人類がこのウィルスに勝利した後も続くだろうと考えると、『山下道ラジオ』は1ヶ月だけ世界より早くその感覚を手にしていたのかもしれない。いやいや、鬼才は、youtubeが始まる一年前の2004年に(中古のフェミカセに書かれた名前をたよりに本人を探す動画を撮ったり、色々と)すでにyoutuberのようなことを始めていた人物でもあるし、ネットラジオというのもかなり早い段階から行なっていたので、この出来事も妙に納得できる。彼は”前衛”であり、0から1の壁を突破する人で、1になった瞬間にそれは世間で”当たり前”になるものだから。(『山下道ラジオ』がそこまで新しくはないが。)

僕はというと、2014年から「旅するリサーチラボラトリー」というサウンドアーティストmamoruとのコラボの中で、「旅のフィールドノートの同時筆記」を試行錯誤し、一緒に旅をしながらラジオを収録することを意識的に行なっていたので、その筋力が今ようやく自由に生かされているようにも思っている。
https://www.travelingresearchlaboratory.com/


そして
今週、『微妙な放送』という、香港と日本をつなぐラジオ、広東語と日本語で同時に聞けるラジオをはじめた。毎週、直島と香港の日常を毎週繋ぎ、日々の出来事、作品制作や家族の事や色々話す。2年前までかなり頻繁に香港に行っていて、初めは仕事の出会いから、飲み仲間になった3人。香港在住の美術家のヒンさんと通訳のヒコさん。同時通訳ヒコさんは香港と日本、両方がネイティブ。そして、日本のラジオもよく聞くそうで、そんなヒコさんがふたりの美術家を 同時通訳で繋ぎながらMC/DJをします。ヒンさんは素晴らしい美術家であり、四年前に香港の学生を連れて日本を一緒に旅行しながら、毎日ラジオを録音した経験を持つ。いや、3人の関係性や専門性がないとなかなか成立しないし、半分意味の分からない間がある奇妙なラジオ『微妙な放送』。この同時通訳者が二つの国や言語をまたいでつなぐラジオ、これがなかなか新感覚で面白い。(聞いてみないと伝わらないのでリンクを。)
https://www.youtube.com/channel/UC2bHrW1IIVv2xYEM9qSO5Qw

このラジオ『微妙な放送』も「遠く離れた2箇所による日記の同時筆記」。僕とヒンさんとヒコさんが、香港で3人でよく飲んでいて、深夜とかになてくると、僕は日本語で語り、ヒンさんも香港語で語り、ヒコさんがそれをひたすらつなぐ、みたいな飲み会がたまにやっていて(プロの通訳に対してリスペクトのない行為…)、そういう関係性や経験があったからナチュラルにスタートしたのだけれど。
今後、誰か真似できるもっと面白い人々が、韓国と日本とか、日本と全く知らないアフリカの人々とか、同じようなことを始めたりしたら、面白いだろうなぁ。聴きたいなぁ。と勝手に想像している。

さて、話を最後にまとめると、
なんだか、国家や政権というのは民衆のことを全く考えないし暴力的で、他者に対して排他的にどんどん進んでいる。(違うか。実はその国の多数がそういう政権を欲している、という国家はその民度の映し鏡。)でも、それって今始まったことでもない。もちろん、反対の声をあげるのは重要だし継続していくべきだけど。何万人もの民衆の声を堂々と無視する人たちだから。(香港のことを書いている。)もしかすると、こういうラジオが離れた人と人や閉ざされた国と国の壁をヒュッと飛び越えて、それぞれの普通の“日常”を繋いで、普通でポジティブに、風穴をいろんなところで開けていくって、結構面白い実験なのではないか。と思うんです。

いやいや、そんな大それたことでもないし、日々ストレッチするくらいの気持ちで楽しんでいるだけですが。。

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( ↑クリックすると読みやすくなります。)

さて、
新聞記事とは関係ないが、気になる事を少々。


最近、私設図書館が増えている。
《瀬戸内「」資料館》も個人ディレクションの図書館であるといえばそうなので、違いを考えてみたい。

個人が○○図書館を作る場合、その多くは”自らの蔵書”を元に図書館を作る。
つまり、「この本、面白いよ」とか「この本は貴重なので共有したい」がベースにあるのかもしれないが、これでは”図書館”としては少々自分勝手ではないか…。多分、個人で”図書館”を作る深層心理としては、蔵書の共有だけではなく、もうひとつ、パブリックスペースのような”人々の集う場”を作りたい!という希望があるのではないか。読み聞かせのために子供達が集まったり、サークル活動やトークイベントや勉強会など、そういう文化的な施設としての”図書館”。
本を並べて”図書館”と名付ける事で、人々が繋がる”場”を作りたいのかもしれない。”図書館”というのは様々な機能やイメージを持っている。

少し話はずれるが”自らの蔵書”でいうと、最近、美術作品展にも、本や資料の展示が併設される展示を見ることがあるが、それは「私はこの本を読んでこの作品を作りました」という趣旨のものが多い。その場合、その作家のファンであれば楽しいが、展示を体験しにきた人には蛇足であることも多いのではないか。

では、《瀬戸内「」資料館》の場合だが、
まずは、資料館の本棚に、僕の蔵書は一切入れないようにしている。
アーカイブしようとしている「瀬戸内の風景や歴史が記録された書籍など」をゼロから探して収集している。
なぜなら、これまで瀬戸内にそこまで興味を持ったことがなかったのもあるが、
僕の好きとか嫌いとかを抜きにして集める事が重要であるし。できる限り網羅するために本を探すのを日課にしている。
ただ、収集するジャンルなどアーカイブの背骨の部分は僕が決定し、特色があると思うが、”自らの蔵書”をこの図書館のベースにしようとは考えたことがない。”自らの蔵書”は僕の中に咀嚼され入っていて、それが別の形になって出ていれば良い。場を作ろうとは思っているが、それ以上に記録物の「収蔵庫」「アーカイブ」をタイムカプセルとして作りたいと考えている。

なんか、”自らの蔵書”を見せる展示や手法が気になったので書いてみました。
こういう色々な別のジャンルの近い事例と自分のプロジェクトの違いを意識化しながら、少しづつ独自のあり方を探るので、他人の批判ではないです。。

はじめて写真集を出版した2005年に、はじめて舞い込んできた写真の仕事。それは大好きだったinax booklet の新刊『泥小屋探訪』。左官の研究者の方の取材に同行して泥小屋を探して里山を歩き撮影すること。様々なことを学ばせてもらう印象深い経験だった。
さらに、、、撮影した写真を手に編集部と戦後を代表するデザイナーに、会いに行くと。「あなたは写真が下手だし向いてないから、他の道に進んだ方が良い」と言われたのは今でも鮮明に覚えてるし、それ自体も今の自分の血肉になっている。笑
今日は京都の大学生に特別講義があるから、ぼんやり昔の事を思い出しながら、久しぶりの電車に揺られてます。

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島にはスーパー「生協」が2件ある。宮浦集落の生協と本村集落の生協。

昨日、
「そういえば、大根がなかったなぁ」と宮浦生協で大根を見ていて、「1本198円で高いし、1本だと長いし使いきれないなぁ」と、半分118円のを買った。葉っぱ側。岡山産。最後の一つだった。
で、夕方、家に帰って冷蔵庫を開けると、すでに大根が入っている。「あぁやってしまった。。」

妻が帰って来て、聞いてみると、僕と同じ時間帯に、本村の生協で半分の大根を買ってきたのだという。最後の一つだったと。
妻の買ったのは、先っぽ側の半分の大根。118円。岡山産。
「あれ?」
取り出してみて、二つの断面をくっつけてみると、ピッタリと合った。
二つはもともと一つの大根だったのだ。


切られて、別々の集落に送られた半分ずつの大根を、僕ら夫婦はわざわざ買い集めて、今、台所で一つとなった。巡り巡って出会った奇跡…とでも言っておきましょうか。
いやいや、割高なんですけど。。

夕飯で、カレイと煮物にしました。

(おしまい)



直島に住んでみて見えてくる、この半年で見えた事を引き続き書きます。


まずは【食】の問題。
想像しやすい事としては、島は物価が高い。スーパーの食材は選択肢が少なく値段も高い。島だからしょうがないが、船で15分の対岸では250円のビールが200円、食材も豊富。薬や文房具や電化製品など手に入りにくいものも多いが、通販は早いし独自のルールで便利。ただこれの対応として、島民たちは15分の対岸の巨大スーパーへ二週間に1回とかで大量の買い出しに行く。ここでは、3000円以上で生鮮食品以外は無料で翌日島へ届けてくれるサービスをやっている。
あと、愛知の時は、週末に外食で様々な選択肢があったしよく利用していたが、直島の場合、飲食店やおしゃれな居酒屋もあるがほぼ全て観光客用で、島民はあまり利用しない。あるアート関係者は「昔の静かな直島は好きだったが、数年前に行ったら原宿竹下通りみたいな店が立ち並んでいて興ざめした」と話していたが、それもうなづける。悪くいうと味的にも値段的にも「海の家」的な存在の店が多い。店構えもある意味”竹下通り”的な店もある。カフェは多数、たこやき屋、タピオカ屋、タコス屋、カレー屋とか。つまり、観光客のための飲食店であり、日常生活者のための存在にはならない。ただ、観光客はそれでも並ぶ。そういう外に向いた飲食店しかない状況は事実。それを責めようとは思わないが、650円で定食が食べられる店とか、こだわりのあるラーメン屋とか、行きたいなぁ、と二週間に一回くらいは思ってしまう。あと、観光業に流され、古い街並みの残る場所がどんどん変化していくのは大丈夫?と気になる。


もう一つ、小さな田舎の島の問題は【家】事情。
まずは、空き家がない。あるにはあるが大家さんが家具や荷物そのままに放置している家が多く、なかなか貸してくれない。島内は、貸していない空き家だらけなのだ。(若い移住者や役場はその対応を行なっているが。)その中で、貸している家の家賃としては、かつては一軒家で2万3万円と安く借りられたというが、近年、島がアートの観光で盛り上がるようになって、大きく変化してしまっている。カフェやカレー屋や民宿をしたい都市からの移住希望者は後を絶たないし順番待ちの状況。(近所のうどん屋も毎週末大行列ができているしそれを見たら商売人は反応するよな。)なので、借りられる家の家賃は、対岸の岡山側よりも高級かも。さらに付け加えると、光熱費は島値段でかなり高い。(綺麗なワンルームで光熱費込みで5万とか。)しかも、幸運に一軒家を借りられても、借りられた家も直さないと住めない家も多いし、虫や雨漏りと戦わないといけない物件も多い。直島が好きで移住した人で、もっと好きになった人で、仕事もある若い人は、綺麗な家に住むためには、自分で土地を買って家を建てるしか方法はない。それは高価だし最終手段であるが、この島で都会的な生活をしたいならその選択肢しかない。人気の島、需要は高く、供給が追いついていないので、自動的にそうなってしまう。そういう意味では、福岡とか京都とか愛知とか千葉とか、地方都市の郊外とかの方が家も綺麗で破格の安さの物件だらけだろう。直島は離島なのに特殊と言える。

つまり、直島は小さな島で、自然もあるし古い文化もあるが、観光客が多く、移住希望者も多く対岸も近くかなり都会的であり、つまり、家賃や光熱費や食費など、ランニングコストがかかる島でもある。だから、直島の観光業で働く人々も、往復500円の船代(1ヶ月1万円以上)かけても、対岸から通う人も多い。

基本的に、僕は、定期的な収入が見込めない生活をしているので、これまで家賃やランニングコストを最小限に抑えられる努力をしてきた。だからこそ、制作を続けられてきたし、このコロナかでも影響は少なかったと言える。都市部で、家賃8-10万円とかで住むというのは、安定的な定期収入が見込めないとできない、だから、みんな自分の時間を売って仕事やバイトをやり続けないと、制作しながら生きられなくなる。まずは、家賃やランニングコストを最小限に抑えられるのが、制作をしながら生活していく第一歩ではないかとも思える。
(僕の場合、2008-2009年フランスレジデンス、帰国後2009-2010年友人宅を転々として、2010−2011年東京のレジデンス滞在、2012-2019年妻の実家。そして直島と、この十年以上家賃を普通に払ったことがなかった。)
だから、直島が子育てにぴったりで、自分のプロジェクトもあるので、移住の可能性をぼんやりと検討した時。まずは、家賃がほぼ無料である事は大前提だった。そこで妻が島の役場での仕事を得ることができて、そのことで家の紹介や住宅支援を得られて、格安で綺麗な家に住める条件を見つけたのはターニングポイントだった。それがないと移住を考えることすらなかっただろう。(どうしても直島に住みたい移住者は小都会並に高い家賃でボロボロの家に住んでいる現状。)そして、引っ越してみて、直島の子育てや家の事情が見えてきた。そして、僕らが綺麗な家を安価で借りられたことが非常に幸運であったことをあとで知る。
だだし、妻の役場の仕事も3年のみ。住宅も手当も3年のみ。2023年3月まで。その頃娘は5歳だろうか。なんとかその後、新しく仕事や家を見つけて、あと3年、娘が低学年まで暮らしてみるか。僕のプロジェクトがどのくらい続くか。まぁ、なるゆき次第だろう。笑

ご近所さんから「下道さんは福武財団で働いているのですか?」という質問が多いので、一応書いておくが。僕自身、直島のプロジェクトだけをやっている訳ではない。他の様々なプロジェクトが同時進行で進んでいる。その様々な仕事で生活費や制作費をまかなっている。その拠点であるスタジオを、愛知から直島に移動させた。移動の利便ではなく家族との生活を考え。島のスタジオを資料館として”生きた”プロジェクトにしようというのも初の実験。ここは、常にゆっくり考え進めていく場所/基地であり、ここから関東や関西、国外へと移動し仕事をしている起点だ。島という他への移動が少し不自由な場所だが、コロナで移動が出来ない時期だし、より、ゆっくりと深く考える時間を過ごせているのは幸運だったと言える。

2020.10.1

なぜ、直島での【子育て】を選んだか、書いておく。

僕ら家族が暮らしていた愛知県の郊外は完全に車中心の生活だった。
保育園が終わって公園へも車、公園から家へも車。買い物へも車。駅までも車。
公園の周りも、家の玄関の前も、車が多いので娘と出るのが怖いくらい。つまり、家ー保育園ー公園ー買い物ー駅、と言った場所を車で繋いでいる生活。つまり、それらの間の世界は車で繋がっていて、路上がないみたいな途中との接触が少ない。空き地も柵がしていて子供も入らない。もちろん娘がまだ幼いのもあるが、ここで「作られた遊んで良い場所」以外ってどこにあるんだろうか。

人間関係でいうと、保育園への送り迎えの時、他の子供の親とは会釈するレベルで、集まりがあっても、なるべく距離をとる人だらけだった。それぞれ暮らしいている場所が広範囲で仕事や生活のレベルもバラバラだからだろうが、「他人に関わりたくない」というオーラを出す親が多い。保育園は必要だから子供を預けけて、横の関係やそれ以外は期待していないのだろう。

で、直島は。
人口は3000人だけど、その割に子供は少なくない。保育園では1クラス10人程度で前の保育園と変わらない。ただ、小さい島なので、親はそれぞれがどこの誰かわかっているし、挨拶や会話もある。さらに、放課後に校庭や園庭で他の子供と年齢を超えて遊ぶ機会も多いし、その時は他の親と話す機会もある。まぁ、家族も先生もそれぞれの素性がある程度筒抜なわけでそれによって、「他人と関わらない選択肢が難しい」のだろう。人と関わるのが嫌な人は地獄かも。笑
島では車が少ないし、車の入れない路地が多いので、一緒に歩いて散歩をする機会が多い。そして、そうすると近所のおじいちゃんおばあちゃんが、子供がいるととても親切にしてくる。子供にお菓子、家族にはとれたての魚や野菜などをくれたり、色々と。
どちらにしても、「他人に関わりたくない」タイプの人間は都会の方がオススメであるが、僕も妻も人と話したり関わるのが好きな方なので、島の生活での人との距離感は都市よりも向いていると言える。ただ、距離が近い分、情報は筒抜だし、色々と関わらないといけないことも多い。

島には、海や山が近くにある。つまり、「作られた遊んで良い場所」以外の場所が当たり前のようにたくさんある。そして昆虫や植物(海の生物や植物)の量がすごい。。これも嫌いな人は無理だろうが、幼い頃に色々な生物に触れることは重要だと考えているので、これも移住した理由の一つ。娘は変な場所に住み着いたカニを発見して「カニマンション」と読んで夏場は毎日パトロールしている。子供は意図しない場所を遊び場にする天才なはず、公園やゲーム機みたいな「作られた遊んで良い場所」ではない場所を自分で発見して欲しい。(いや「作られた遊んで良い場所」ですら新しく遊びを発見するだろうが。ね)
実は直島は山は豊かではない。それはかつての工場の公害や元々水が豊富ではない場所が関係している。ただ、海が本当に豊かだし美しい。波が穏やかで身近。見てよし食べてよし。保育園の帰りに、海でヤドカリや貝を探したり、魚を釣ったり。自然に囲まれていると季節を感じる感受性が高まる。


島に住んでみて思うのは、
幼い娘の記憶に、この風景や経験は残るのだろうかということ。僕自身もそうなのだけど、大人になって持っている過去の記憶って、幼稚園くらいからうっすらあって、小学校低学年くらいから強くなる。だから、2歳の娘にとって今の経験は潜在的なものになるだろう。それはそれで良いけど、どのくらいまでここで子育てをやるのが良いだろう、少なくとも。そんなことを考える。だから、幼稚園の後のこともよく考える。いつまでこの島に住むのだろうか、と。
島の小学校はどうなのだろう?
きっと、娘が小学校に上がると、僕ら自身が動きづらくなるだろう。根が生えてしまう。
僕らは移動をどんどんやってきたし、それによっていろんな発見をして、仕事をしてきたし、そういう意味ではまだまだ根を生やしたくはない。いつも「次はどこに住もうかなぁ」と考えている。とは言っても、一箇所には3年から10年は住むけど。
娘が小学校に上がる=家族で定住、かもしれない。では、小学校上がるまで島で、そこから別の場所へ?と想像してみる。僕自身は小学校低学年の時の経験がすごく今影響があるなぁと思うことが多いので、自然の多い環境で育てるのは良いと思っている。逆に直島以上に田舎でも良いくらい。

そんな悩みの中で、島の小学校のことを、島民の移住者の先輩から聞いたのが。
「小さい島の学校だから伸び伸び育つか?というとそうでもないよ。1学年1クラスしかなくて20人しかいなくてクラス替えもなくて。そういうずっと同じクラスメイト。場合によってはコミュニケーション能力が低下する傾向がある(話さなくても伝わるから)。さらに、友人関係がうまくいかないと逃げられる場所がない。さらに、みんな一緒な感じも強くて保守的な部分もあり、外からの異物に敏感。」と。
確かに。逆に、人数の多い小学校なら、同級生の誰かと上手くいかなくても、クラス替えがある。すごく変わっている性格や個性的でも、ほっといてくれる。
これは全てに当てはまること。東京のような様々な場所から来た人が入り混じっている場所だと、人と人の関わりが希薄な分、「ほっといてくれる」から、多様性は生かされる。逆に、島や小さなコミュニティだと、いい意味でも悪い意味でも、「ほっといてくれない」傾向がある。閉ざされた場所では保守的になる傾向もこれかも。まぁ全てはバランスだから、合うか合わないかは人それぞれ。
ただ、直島は風通しが良いので他者には寛容な方、さらにアートも身近だから異物にもアレルギーは少ないかも、そして移住者や観光客が多いしかなり都会的な島だと思う。日本中探しても中々ない珍しい島。

かつて、僕も妻も、小学校低学年で転校した経験がある。
僕は岡山のど田舎から、岡山の都会へ。妻は東京から愛知の郊外へ。二人とも、低学年の時の体験を強く持っているし、今への影響を感じている。ぼんやりと、小学校低学年までは重要だと思っている。
それなら、娘も「低学年まで田舎、そのあと都市へ」それも良いかもしれない。
それにしても、色々と考えてしまう。
しかし、自分たちで今のところは選択できるというのは本当に幸せだ。
まぁ、考える時間はまだある。
なるようにしかならない。成るように成る。

2020.9.29
瀬戸内映画館03_2_w.jpgのサムネール画像

瀬戸内はこれまでたくさんの映画の舞台になっている。
(もっと過去を辿れば、詩や物語の舞台にもなってきた。)
それらは観光とも密接に結びついている。
瀬戸内の風景が登場する映画を上映する小さな島の映画館を作ってみた。
展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》の展示終了後に、空間を映画館へと変化させて。
壁の展示はそのままに。
《瀬戸内「百年観光」資料館》→《瀬戸内「百年観光」映画館》。

新型コロナウィルス流行によって、展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》は、展示期間の2ヶ月間、毎週土曜午後だけ無料で開けることになった。展示を開催することすら危なかったので、財団やスタッフの尽力に感謝するほかない。展覧会がオープンしてみると、客層は、普段より少ない観光客、ただ同じくらいの島民の来館があったのは嬉しかった。さらに、島民の方の様々な記憶と結びついて話の広がるイベントとなった。
当初、展覧会のイベントとして、様々なゲストを交えてのトークイベントを企画していたが、ウィルス流行もあって見直しを行った。その中で出てきたのが、トークイベント開催の予算(ゲストへの謝礼や交通費など)を映画上映に当てるアイデアだった。
島民限定イベントとして。島外には告知しないシークレットイベント。全てはウィルス拡大防止への考慮がまずあった。この上映企画は資料館が島民との距離を縮める目的と、ウィルス流行によって息苦しい毎日を送っていた島民の人々の一つの”楽しみ””息抜き”になれば、そして島民の方がこの資料館に関わる機会と考えた。

展示が終了した後。空間内の本棚を片付け、暗幕を張り、椅子を並べ、スクリーンを設置。映画のセッティングために、スタッフで『二十四の瞳』の頭の部分を流してみた時、60年以上前の瀬戸内の風景がそこに広がった。僕もスタッフもその場に立ち尽くし映画を見入ってしまった。そして「このイベントは面白くなるかもしれない」と思ったし、この展示の企画の延長線にある企画だと確信。

9月7日(月)13:30~ 「二十四の瞳」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子 台風で9/21に
9月12日(土)13:30~ 「喜びも悲しみも幾歳月」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月14日(月)13:30~ 「釣りバカ日誌1」 監督:栗山富夫 主演:西田敏行
9月19日(土)13:30~ 「男はつらいよ 寅次郎の縁談」 監督:山田洋次 主演:渥美清

全4回の映画上映は全て満員状態。といっても、席の間隔を1メートル開けているので20人程度で満員なのだが。映画内の古い瀬戸内の風景をみんなでドライブしているかのような楽しい時間。会場には笑いが起こり、感動に浸り、なかなか良い機会となった。映画という大衆文化の強さを再確認。僕は、毎回、来客の「楽しかった」という言葉そして無事帰ってくのを見守り、なんだかライブハウスやシアターのスタッフになったような気持ちであった。(自分の作品を見せているわけではないシチュエーションは珍しいので。)4回上映が終わった後には「またやってほしい」という声も聞かれ、この資料館は映画館としてのもう一つの新しい顔も持ったわけだ。それがなんだか心地よい。(ちなみに、当初は屋外上映会を検討していましたが、映画を個人ではなく上映会で借りる場合、指定した時間と場所のみで上映可能で、雨で延期などになると、もう一度支払う必要が出てくるので、雨の多い時期ですし屋外上映会は泣く泣くやめた経緯があります。でも、資料館自体のの色々な可能性を見れたので良かったですね。)

古い映画なんてネットで見れるから意味ない、とか考えてしまうこともあったのですが。やはり良いですね。映画館。このイベントは、展覧会とセットで、トークイベントを行うように、続けていきたい。


瀬戸内「」映画館02_w.jpg

アフターかポストか、知らないが。
もし、新型コロナの感染を止められるワクチンとか薬が出た後の世界を想像してみる。
そこで、まず思いつくのは、今年の3月に移住した土地で、マスクを外した島民やご近所さんから親しげに声をかけられて、誰だか分からないという事態だろうか。

小さな瀬戸内の島に住み始めて、一つ疑問に思ったことがある。
”浜辺や港や島中で、海の「臭さ」をあまり感じない”
ということ。

これまで、旅の中で色々な港町や海岸に近づくと感じる「海の匂い」「磯の香り」の中には、独特の「海の臭さ」を少なからず混じっているように感じていた。ただ、この島には引っ越したばかりの頃からそのような「海の匂い」を感じることが少なく、もちろん「海の臭さ」を感じることなどないのだ。

様々な人にそのことを質問してみると、
「昔より海が綺麗になったからじゃないかなあ?」と話す島民。
もちろん、僕が幼少期に過ごした1980年代の瀬戸内海は、まだ高度経済成長期で傷ついていただろうし、その後公害問題や自然破壊の意識の変化でこの海は明らかに綺麗になった。そのことも関係しているのかもしれない。
さらに、「瀬戸内海は元々、狭い内海で、陸地から川の水が大量に流れ込むので、他の海よりも薄いらしい」という話も聞いた。そう言われてみると、沖縄で海に入った時に比べて、瀬戸内の海で海水浴をしても水がさらさらとしていて、上がった後にもベタつかないような気もする。気もする。。でも、瀬戸内はかつては古代から塩田がたくさんあって塩が産業だったことを考えると、明らかな塩分濃度が薄いとは考えにくい?
あとは、、、そこまで漁業が盛んでもなく、ガンガン水揚げとかもしていないし、海岸に雑魚が転がったり、そういう生臭い匂いの発生源が少ない、とか?うーん。。。

(こういう日記って、facebookに書くとすぐに、親切な誰かがコメントで「正解」を書いてくれてしまう。それがいい時もあるし、利用もできる。
でも、今回は答えを探すのは少し置いておきたい。この文章を書くことは「プロセス」の記述であり楽しさ。文頭に掲げた「疑問」という「目的地」は、たどり着くためのものではなく「プロセス」のためにある。今回は。)

ウチの家は海に面して立っている。
ただ、残念なのは、海方向の壁に窓がない。いやあるにはあるが、階段の上の空気の入れ替え用で30cm程度の小窓のみで、曇りガラスで風景も見えないのだ。
一週間前のある日、
朝起きて、階段を降りている途中急に、「海の匂い」を感じて、その方をみると、珍しくその小窓が空いているのに気が付く。妻が開けたのだろう。
薄暗く密閉性の高い室内の階段スペースへ、小さな小窓から吹き込む外の空気に混ざる「海の匂い」は鮮やかで朝の脳を刺激する。そして、やはり「臭く」なかった。ただ外にいる時より「海の匂い」を感じる瞬間でもあった。
その日から、朝、階段を降りるとき、嗅覚のスイッチがパチンと入る。
日々、「海の匂い」は変化しているようだった。
嗅覚を元に仮説を立てる楽しさが日々行われている。
(誰かからすれば当たり前の事で答えが出ているだろうが。当たり前になったすぐ隣に大発見とはある。かも?)

2020.8.3. 直島

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夕飯を食べていると、曇りガラスの向こうの空が赤く染まっている。
食事をやめて、家族で外へ出てみる。
本村の船着場には、夕方になると地元の人々が五人ほど集まってしゃべっている。
防波堤に腰を下ろし、太陽が熱が弱くなり、海を撫でた風が心地よい。
また、Hさんが直島の夕焼けや朝焼けの美しさを話してくれる。
どの季節にどの島のどのあたりから太陽が登り沈むか、そんな話。
波のない瀬戸内の水面は鏡のように夕焼けを写して、空の中にいるようだ。
海のそばに住む人だけの特権? いやいや、きっと田植え前の田園風景でみるのもきっと綺麗だろう。

都市部に住んでいた時より、明らかに、毎日の気候の変化、風景の変化、季節の変化を感じている自分に気がつく。毎日毎日。
少し前まで、娘は大量発生した毛虫に興味津々で、でも今は、カニを探し用水路を覗き込む日々。昨日、セミの抜け殻を初めて見つけて不思議そうに観察していた。
僕はというと、スタジオへの行き帰りを少し遠回りして、山の上から海を眺めることが多い。遠回りといっても、左回りで8分のとこを右回りで15分かけるだけだが。小さな島なので。


https://youtu.be/iTwXULUGEgA

瀬戸内「百年観光」資料館。
地元で放送されました。動画で見れます。
微妙にニュアンスが違うんだけど。ま、こんなのが始まっています。

前回は写真集をアーカイブし始めましたが、今回は過去のガイドブックなどを取集。記録物を集めながら、瀬戸内の図書館をゼロから作っています。観光をテーマにしたのは、京都だけじゃなくて、直島でも”オーバーツーリズム”ってのが起こっているんだと思うんです。とくに瀬戸芸の三年に一度は。3000人の島に観光客75万人。それを考えるきっかけです。観光学の研究者でもないので、穴だらけの展示ですが。。僕としてはガイドブックも記録物だと見ていて、今と100年前が地続きで感じられるのを意識しました。地元の人や研究者の指摘もどんどん受け止めて変化しいく柔軟さで。
最近、個人の蔵書から小さな図書館を作るケースが増えていますが、このプロジェクトはゼロから収集しながら展示にしながらアーカイブを作ってるのが少し特徴かも。本を収集したりやカテゴリーを考える時は、自分の作品だとかを考えず、万人ウケも考えず、島民や旅人がふと訪れ、本を手に取り体験できることを第一に想像しています。資料館と言いながら図書館を作る【きっかけ】は、僕自身が旅しながら撮影をする時、絶対にその土地の図書館や郷土資料館に立ち寄理、郷土資料を探すようにしていて、沖縄の島々の図書館はそれぞれの島の図書館は個性を持っていて、撮影に疲れた時に休息と読書の時間をあたえてくれるし、そういう存在を目指したいと思った。(では、プロジェクトタイトルをなぜ瀬戸内「 」図書館にしなかったのか?は、一言で言うと、感覚的に妙にしっくりきすぎるからあえて外した。つまり、すでにそういう私設の図書館はあるし、近年まさに色々な個性的な新設の図書館もオープンしているし、本棚一つでも「図書館」と名ずければ「図書館」になる使いやすさは(「美術館」と言う言葉と同じで、)、だから逆に、誰もあまり使わない資料館という名前を選んだ。ただの天邪鬼かもしれない。あと、今回でいうガイドブックだけではなくポスターのように、本だけではなくて「物」も扱いたいし。あと、変な男が作っちゃった○○資料館とか○○博物館とかそういうアウトサイダーなプライベートミュージアムへの憧れもあったり。)

今、プロジェクト二年目。移住して4ヶ月目。できる限り続けていく中で答え?を探します。1回1回の展覧会はアートでもなんでもない普通の興味なんだけど、それらを積み重ねてアーカイブすることで、島に妙にとんがった郷土図書館/資料館が作られていくこと自体を俯瞰してみているところも同時に進んでいる感覚。その辺りが、今、自分の中に出来上がってしまっていた作品のあり方をぶっ壊しながら進んでいて、これが何なのか?よくわからないけど、面白いのが生まれそうな時って、そういう感じがあるので、突き進むしかない。福武財団のスタッフの方々もこの「何なのかよくわからない」のを絶妙にサポートしてくれていて、島民の方も徐々に歩み寄ってくれている。

来年とかは別のテーマ展示になってるので、この機会に是非。8月末まで毎週土曜日のみ開館


明日から、北海道の小学校に下見に行く。
これはあるプロジェクトへの参加がきっかけ。
小学生とのワークショップを新しく作る。何が発見できたり、共有できるか。
でも、こんな時期だし、距離は密に取れないし、何をしようかなぁと考えている。
世界は何が変わったのか?変わっているのか?
ふと、美大でオンライン授業をやっている友人たちの話を思い出し。その記憶と山下道ラジオで話しいていた内容がごちゃ混ぜになって。ぼんやりと考えている。


学校がオンラインになって、未来に変わること、を少し想像してみる。

クラスで、声が大きい生徒が目立たなくなり、
逆に書き込みが上手い生徒が一目置かれるようになる。とか? 
すると、ただただ声が大きくて、喧嘩っ早いような、ジャイアンのようなタイプは死滅するかもしれない。近い未来。
ジャイアンのいない世界か…。悪くない。でも、僕の中にもジャイアンはいるから少し寂しい。
でも、ジャイアンの存在がホントに煙たかった生徒は嬉しいだろうな。

インターネットは、使い方が上手ければ、名もなき匿名の小さな声が、大きな社会にインパクトを与えられる。今まで大きな障害に邪魔されていた声が直接人々に届き動かす。それは、インターネットの面白いところであり、世界は変わった。(でも、まだそれに気がつかない世代が社会を牛耳っている。でも、それももう少しで終わる。ジャイアンは徐々にパワハラで消える。)
オンラインの授業はその感じの小さな世界になる。授業中には先生の風刺画が紙飛行機で飛ぶのではなく、SNSやネット書き込みになる。名もなき匿名の小さな声が、無能な「先生」を登校拒否に追い込む事だってできる。そんなの簡単。親だけではなく、外の世界と繋がって攻撃だってできる。

あと、一緒の年齢で横並びで授業受ける必要もなくなる?
年齢を飛び越えて、オンラインで受けられる枠があると面白いね。
高校の授業を、学校へ行く理由がわからなくなった中学生が受けたり。勉強し直したい老人が受けてたり。

ただ、そのように発しられた「名もなき匿名の小さな声」ってのも、その事を理解した新しい人種の発した声であって、ある意味、現代的な「大きな声の出し方」を知っているに過ぎないのかもしれない。
違うかな?
それは、目には見えない現代のジャイアンを生み出す?
でも、冷静に相手を書き込みで論破するなら、そのジャイアンは清い?そんなのジャイアンじゃない?陰湿な書き込みで相手を攻撃するのは、それは、、、ジャイアンではない?
あれれれ、なんか、話がわけわからなくなってきたぞ。。。
もう少し書き進めようか?
いや、こんなの、ネット上ですでにかかれまくってるのだろう。。

もう、寝よう。。。
おやすみなさい。。

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昨年直島で始まったプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》の第2弾。瀬戸内「百年観光」資料館がオープン。
プロジェクト名が《瀬戸内「 」資料館》。この「」の中に毎回色々なテーマを入れ替えて行きながらプロジェクトを進め、最終的に、瀬戸内の景観や歴史をテーマにした図書館/資料館をゼロから誕生させるプロジェクト。今回は、「百年観光」と題して、観光についてを調査し展示。直島と瀬戸内の観光を振り返る。

このプロジェクトは、上の写真にあるように、空間内には4つの本棚とテーブルと椅子さらに壁にも棚があり、毎回それらを組み替えながら、展覧会を作る。本棚の一部には前回展示した瀬戸内をテーマにした写真コーナーがすでに完成していて、この「百年観光」の展示が終わるとそれらの本は本棚に入り、「観光」というカテゴリーが出来上がる。毎回、調査し収集した本や物を展覧会という空間に広げて見せるような展開を作りながら、その後、その展示のアーカイブと共に、本棚に納める、それを続けながら徐々に独自の図書館/資料館を作っていく。(すでに出来上がった本棚内も継続的に買い足していく。)

まだまだ本棚はスカスカですが、前回よりも少しは迫力が出てきました。のんびり続けながら、最終的には、旅人や地元の人に愛される図書館/資料館になればいいなぁ、と考えている。つまり、僕の作家としての作品ではあるが、それは見えないでよくて、普段は島で愛され利用される図書館/資料館であることを最優先に考えている。ただ、そのプロセスや展示やアーカイブの方法で僕自身のこれまでの経験を注ぎながら、新しい挑戦をいくつもしていく作品。福武財団のコミッションワークであり、長期的なサポートを個人で受けながら、プロジェクトであり作品は進行している。
直島へ移住したのはこのプロジェクトも一つの理由だが、一番の理由は子供を育てる環境だった。ただ、それによって、家族は新しい挑戦する場所を選べた。


そうそう、昨年のヴェネチアビエンナーレ日本館2019の企画「宇宙の卵」からちょうど一年。
ようやく、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)で、”帰国展”が今日、オープンしました。
東京駅から徒歩5分。皆様是非。


この展示について少し書く。
”帰国展”という奇妙なシチュエーションと向き合った展示になっているとでも言おうか。。
ベネチアに行かずにベネチアを体験はできない、けど、”帰国展”というタイトルの元で、思考し制作した展示となっている。
(つまり、、、この展示は直接的な鑑賞表現を制作したのではなく、過去のプロジェクトをどのように残すか、に重点を置きながら取り組んだ展示になっている。逆に一年前の、ヴェネチアの日本館での展示の際は文字情報極力無い状態で、プロセスはカタログに納め、説明を排除した展示を行った。)

美術家と作曲家と人類学者と建築家とキュレーター(とデザイナー)で、日本館に向き合い、その一年後にさらにこの”帰国展”と向き合った。(その展示の間で2冊のカタログも制作)
2018年から1年間かけて、日本館での五人のコラボレーションに集中してきたし、それが日本館やベネチアビエンナーレという会場でようやく完成した。日本館での”出来事”は、作品自体は僕たちの手は離れているけど”出来事”であり”ライブ”だった。(このヴェネチアが決まってすぐに日本での”帰国展”を行うことも決まっていた。)
ただ、この五人のコラボレーションである「宇宙の卵」は、ヴェネチアや日本館という場所があったからこそ出来上がった作品であり展示。日本館という建築が持つ穴から降る自然光や重厚な大理石の床の素材やジャルディーにという場所性、ヴェネチアという土地など、それら全てと関係を持って制作は進んでいったし。別の場所なら全く別の形になっていただろう。その過去のコラボの出来事を、別の場所にどうやって持っていくべきか?そのことでメンバーで頭を悩ませた。アーティゾン美術館のために最初から作られたのならまだしも、やはりこれは”帰国展”なのである。

まずは、日本館でやったことを解体して、アーティゾン美術館の空間を考え、もう一度別の形で組み直すこと、も考えた。これは、空間が変わるのだから、形を変えてもう一回”ライブ”を作るという考え方。ただ、その場合、どこまでいっても、アレンジを変えた再演になってしまうし、日本館を超えるような”表現”にはならないように思えた。
そういった思考の結果、アーティゾン美術館の空間内には、日本館の展示を再現して、ベネチアの作品をそのまま入れる、という方向へと思考が変化していった。多分、日本館でやったことを再現はできない、そこから考え始めることにしたのだ。

ある出来事をその出来事を体験したようには伝えられない。ではどのように過去の出来事と向き合うか?
と、これは、戦争や災害のモニュメントの話と同様であり、作品「津波石」やプロジェクト「宇宙の卵」とも深く関わる問題だし、考え続けた結果がこれになった。

展示は出来上がった。
多分、この展示を見る多くの人は、それが作品でああり、表現であり、ライブだと思うかもしれないが。これはライブ音源の CDアルバムみたいなものかもしれないが、さらにその先を考えている。過去の出来事をどのように残し伝えるか、それが可能か不可能か、を考えた作品であり、それをさらに考えるための装置になっている。美術館へ来る人の多くは「本物はやっぱり素晴らしいなぁ」をしにくるのだろうが、僕らの展示は本物がそこにないことから始まっている。ただあえて疑似体験は持ち込んだが。
ひねくれている? はい。そうかもしれないです。
ベネチアには来れなかったけど、応援してくれたり、期待してくれていた人に、見てもらえる機会だから、そういう人に何が見せられるかもあった。メンバーで全力で作った表現であるので、是非楽しんでみていただけたら嬉しい。(上の階で、鴻池さんが作品表現をパワフルに展示内で展開しているが、それと対比させながら、この奇妙な展示をみていただけたら、少し僕らが何をやりたかったのかが伝わるのかもしれない。)

このような二年以上にわたる思考を、異なる専門性をもつメンバーと行いながら、大きな展示を2つも(さらに2冊のカタログも)作れたことに本当に感謝している。

そして、メンバーはこれを経て、すでにそれぞれの新しい道に進んでいて、それにとても刺激されている。

【勝手にyoutube動画書き起こし】

NHKスペシャル
「2000年への対話 第1回 日本人はいまどこにいるか 井庭 崇×宮崎 駿」


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井庭崇:
(アニメーションの「美術担当(背景画担当)の才能」について質問)

宮崎 駿:
例えば、美しい夕焼けを描く、なんていう時に。
(記憶の中に)自分がどんな夕焼けを持っているかによって決まるんです。
それは本当に面白いですけど。
持っていない人間はどっかのアニメーションのような夕焼け描くんですよ。あるいは、テレビで見たような夕焼けを描くんですけど。自分が郷里で育って、郷里で何度もその夕焼けをみてきた人間ってのは、特有の夕焼けを持っているんですね。
(略)
経験の違いではなくて、才能ですね。笑
だからその、どういう形であれ、風土性を持っている人が美術(背景画担当)になるべきだと思っているのですね。風土性を持っていれば、何らかの形で世界に対する手がかりになるんですよ。だから一番ダメなのは、多分、アニメーションが好きでずっとアニメーションの美術に憧れて、アニメーションの映画ばかりをずっとみてきた人が、一番学んでいないんだと思うんですよ。


::::::::::::::::::

僕自身が背景画担当とかには興味はないんだけど。
どんな創造性のある仕事においても、こういう、過去の記憶のストックをどのように蓄積されていて、どのように引き出せるか、が、重要なポイントだと思う。
そう言うと。「学生の時に、たくさん作品を見ました。それも記憶のストックです!」と主張する人もあるだろうし、それもそうなんだけど。大人になって学ぶのはロジックとかが多くて。
作品とかと出会う以前の幼い頃の記憶や出会い。そういうもの影響力の巨大さを感じることがある。


と、
ここまで書いて、ふと思ったのは。
だから、
瀬戸内の島へ移住しようと思ったのだな。と言う確信というか。
僕の娘は2歳になるのだけど。
彼女が大人になったらほぼ忘れてしまうだろうこの今の数年に、どんな環境でどんな出会いや体験をできるのだろうか、と最近考え続けていた。その時間はどんどん過ぎ去っていく。そして、それは、住んでいた都市部への疑問になっていた。
愛知では、保育園へ行っても、他の子供や家族との繋がりはほぼない(それちがいに挨拶しても、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、保育園の後に、車が多いので遊ばせる場所も公園だけになるし、公園でも挨拶すらしない人々(挨拶程度で、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、家族や親しい友人家族以外ほぼ会話がない環境、路上も遊ぶには危ないし、自然のような場所も車で行かないとない。

一年前に直島へ滞在した時に、近所の子供達が年齢や性別を超えて元気に遊びまわる光景や、夜になると秋祭りの太鼓の練習が聞こえてきたり、海が近くて小さな森もあって、車のこない路地がたくさんあって、小さな島だけど、多分彼女には十分すぎる大きさだろうし、こういう環境の方が。まず、彼女が小学校に上がるまでは、本気でこういう環境へ移ってみても良いのでは、と思った。そしてすぐに家や仕事の事も考えると、色々な条件が「今の僕らの家族に」ぴったりだった。(「アートの島」にアーティストが住む必要はないかもしれないし。多分、直島へ住むことは全ての人々にすすめられることではないかもしれないし。「今の僕らの家族に」ぴったりだった、だけで、もっと田舎の可能性だってあっただろうし。これも偶然の出会い。)

直島へ移住して3ヶ月。
最近、娘は上手に挨拶をするようになって、ご近所さんにめちゃくちゃ可愛がってもらっている。
全力で「可愛いねぇ」と言ってもらって、たまにプレゼントとかももらってくる。
保育園の後も、校庭や公園で色々な子供達と遊んでいるし、日が暮れるまで外で遊びたがる。
公園に行こうと散歩に出ると、路地にしゃがみこんで昆虫や植物をじっと眺めて動かないくて、目的地であった公園にいく必要がなくなってくる。
もちろん、家ではyoutubeとかをみているけど。

ま、直島は僕自身の仕事へのチャレンジでもあり、家族のチャレンジでもある。
ま、そういう事を再認識した。


昨日、日曜日の島には、急に岡山や香川の外からの観光客や釣り客が増えた。
徐々に、コロナの流行が収束に向かおうとしているようで、
人々は急激に日常に戻ろうとしているようだ。
昨日の朝、家の入り口の扉を開けると、目の前の普通の道路脇に、テントをはって堂々と食事をする一家がいた。息子は上半身裸だ。
僕の日常に「日常から離れてきた特別な時間(=観光)」がドカンとぶつかってきた瞬間だった。これが直島か。うむ、なるほど。
田舎にいながら、「都市部では急激に人の移動が増えたのでは」と想像していたら、
今朝のニュースでまんまとその予想は当たったようだった。
僕は観光地に住んだことがないが、この島はどんどん観光客が溢れていくのだろうし、僕の日常はどうなっていくのだろう。恐ろしくもあり楽しみでもある。新しい観察の対象であり新しい日常だ。

僕は、手書きの手帳を愛用していて、そこにスケジュールを書くことがもうこの十年くらい続いていた。
それは、ただ、スケジュールを書き込むリマインド的機能だけではなく、
新しく入った展覧会予定を未来に書き込みながら心の準備と興奮を感じたり、終わったイベントに感想を書き込みながら、経験を反芻して満足感や反省に浸ったり、そう言う存在だった。
ただ、今年の手帳は白紙に近い。
それは、ヴェネチア後に国内の仕事が減るのではないか?ということを手帳を眺めながら感じ、島へ移住する気持ちも加速させたし。さらに、入っていた少しの展覧会やイベントもことごとく延期や中止になったし。この2ヶ月間、手帳を開かなかったし、書き込みもしなかったし、そういう気持ちにもならなかった。ある意味で手帳は、自分のペースを確認する道具であり、いつも身に付けて見ていた腕時計であったが、今回はそれを外したまま、忘れていたような2ヶ月だった。

ただ、
先週から再び、予定が再開したり増え始め、急に忙しくなり始めた。
今日、久しぶりに手帳の出番と、引っ張り出して書くことになった。
「よし!仕事だ!やったるで〜!」と言う興奮とともに。
虫の鳴き声を初めて聞き夏休みの終わりを感じるような感覚でもある。

もちろん、前のような日常感覚にすぐには戻らないが、震災の後と同様に、都市部では巨大な正常性バイアスがまた動いているし、一瞬にして前の日常に戻ろうとするのだろう。
リモート飲み会も、いつもは集まれないメンツで集まれて最高だったけど、居酒屋でガヤガヤしたいし。展覧会やトークイベントに浸って静かに脳みそぐるぐる回したいし。嬉しいけど怖い。
7月4日から、ウチの資料館もオープンする。嬉しい。今回は 瀬戸内「百年観光」資料館 と題した展覧会を始める。瀬戸内と直島の百年の観光の移り変わりを考える場所を作ります。過去100年間のガイドブックを集めている。まずは観光客以上に、島民の人にも是非遊びにきて、過去を思い出したり未来を考えたりするゆったりとした時間が作れたら嬉しいし。僕にこの島や瀬戸内の過去の体験を教えて欲しいなぁ。そう言う機会になると嬉しいなぁと思います。毎週土曜、僕が開けます。無料。

当たり前にあった文化や体験の素晴らしさを貴重に感じられる瞬間がまさに来ようとしている。
忘れまじ、この夏を。



近所の方と話している。

僕:「最近、暑くて夏みたいですねー」
A:「そうですねー。なんか、誰か海に入っている人もいるみたいですからねー(笑)」
僕:「へー。」
B:「…」(Aさんに耳打ち)
A:「…(苦笑)」

(島の噂は高速である)

目に見えないウィルスによって、世界中が同時に翻弄されてる中で、

僕は家ではなく移住したばかりの直島というコミュニティに閉じ込められている。

徐々に外からの観光客がいなくなり、逆に島民たちの生活が見えてくるようになった。

時計が過去へと逆戻りして、数十年前のような小さな島での日々で、
瀬戸内の静かな光や音がキラキラと鮮やかで、それを体全身で受け止める。

家族の新しい登場人物「幼い娘」の存在は、人々との優しい距離感を生み出し、
心のスピードを徐々に減速させていってくれる。

鮮やかに感じているのは、視覚や聴覚ではなく、時間の感覚かもしれない。

時間の流れは子供の頃には戻れない、あの頃のようにゆったりは流れない、ただ、時間の粒子の輝きが子供の頃のようだ。
懐かしいとかそういう感覚は、今の風景に過去の風景を合わせて眺める行為だけど、そういうことではなく、今、この目の前の時間があの頃の感触を持っているようだ。


2011年、東北地方で震災があり、原発事故が起こり、突然、日常の見え方が崩れた。

それは「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにして、それらを疑い続けて生きていくことが、この出来事を忘れないための抵抗だと今も思って生きている。

2020年、今。
2011年と似たような、日常の見え方が崩れる感覚。再び「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにしている。しかも、日本だけではなく、世界中で。(例えば、2011年、関東の電気が福島から来ていたことを初めて知った人も多かったし、2020年、世界中のマスクが中国で生産されていて中国が輸出規制をできることを世界中の人々が初めて知っただろうし。)

ただただ、2011年みたいに、この出来事を心に刻んで忘れない、とか、疑い続ける、という感覚を今の状況では感じていない。
何だろう。その違いは。

2011年に、急に日常が視覚化されさらにガラガラと崩れたように感じるたのを例えるなら、日常が線路の上を走る電車や、道路の上を走る車、に乗って生活していた感覚が崩れた感覚。でも今感じる日常は、すでに、空気の中を進む飛行機や海の上を進む船の感覚に変化したよう。 つまり、引かれた線の上を走る「直線的」で内側や中心からアクセスする感覚ではなく、「空間的」で外側から世界中にアクセスできる感覚、いや内側に外側を感じるような感覚。かな?

とにかく、
時は進む。

2011年にこの国も根底から変わる可能性があったし、その疑問の扉は一瞬開いたが、何も変わらずその扉は閉じて、元の日常が支配し始めた。

2020年、コロナの状況の中、この国が根底から変わろうなどと考えていないこと、そんな希望さえ持つことがバカらしいことが露呈し続けている。
つまり、未来の日常をも、「何も変わらない過去」が支配し続けている。
変わることを期待した2011年、期待することすら馬鹿げていることを十分に理解できた2020年。
そんな感覚。
でも、この国を脱出する必要はない、まずは感覚的/身体的に内側に空や海を持つ事。
もうそれぞれが変わっていき、生きる力を身につけるしかない。

(ただ、外海は結構荒い。笑 「海は世界と繋がっている!」なんて誰しもが考えるが、向き合ってみると、その道が困難である事を同時に感じさせる存在でもある。だから、瀬戸内は穏やかな想像力(妄想力)が膨らむ。のかも。
愛知の海でサーフィンをする時、度々死の恐怖を感じたが、瀬戸内の海に浮かんでいると同じ海だと思えない。)


2020.5.9


今の生活のリズム。
それは愛知に住んでいる時とは全く違うリズム。
それが今は心地よい。

朝5-6時に起きる。で、7時に娘とお妻が起きてくる。コーヒーを飲み朝食を食べる。
妻が役場へ出勤。娘を連れて車で保育園へ(約五分)。娘を送り出し車に乗り込む瞬間に気持ちが切り替わる。その足で仕事場/資料館へ行く(約五分)。9時半くらいから、自分の作業に没頭する。11時半スーパーで買い物、自宅に戻り妻と昼食。13時半から16時まで再び「資料館」で作業。16時半に娘を迎えに行き、公園や浜辺で夕飯まで遊ぶ。夕飯の準備をして食事。風呂に入り、娘と寝てしまう。21時。
このルーティーン。

休日は、全ての仕事を家に持ち込まず、娘と遊ぶ。
(幼い娘といる時、彼女の前で、スマホや仕事など自分の事をするなら、彼女にもスマホや動画や何かしらを与えるべきで、それができないなら、彼女と遊ぶことに集中る方が、お互いに健全な時間を過ごせる)

僕自身の展覧会やワークショップなどの今年の予定は、ほぼほぼコロナで延期や中止になった。
国内も海外の予定も無い。つまり、40過ぎて、今、無職に近い。
コロナが騒がれ出す前、今年のはじめに突然、島へ移住する事や、妻が島の役場で新しい仕事を始める事、娘の島の保育園へ移る事を準備しはじめた。3月には車一台、トトロの草壁一家のように引っ越した。愛知の家は妻の実家なので、作品や大きな荷物はそのままにして、最小限の荷物のみで、島でやってきた。(捨てていないので)断捨離ではないが、どのくらいミニマムな状態で生活できるかの実験のようで、身を軽くした。そこにコロナがやってきて、移動もできないし、入っていた仕事も潰れていった。

飲食店や旅行業やたくさんの人が大変な思いをしているのだろう。
ただ、僕も真っ白のスケジュール帳を目の前に、妻が育休から新しい仕事に復帰したこともあって、なんとか持ちこたえている。これまでも、自転車操業の家族経営。その乗り方が変化したに過ぎない。

僕はというと、毎日、資料館の椅子に座り、いつ完成するかもわからない未来の制作の空想をしはじめた。
これも結構忙しくて、すぐに娘を迎えにいく時間になってしまう。
昨年までは”予定に追われる忙しさ”だった。それは、自分の表現の蓄えを消費していくような状態だったのかもしれない。消費しながらもその経験で新しく蓄積も作れるのがベストだが、それはなかなか難しい。表現者は”若手”で発表のチャンスを与えられてキャリアをはじめられても、中堅で継続していく壁にぶつかることは少なくないのではないか。さらに、中堅ではある程度認知されている分、扱い辛いのか、発表の声も若手に比べて減る傾向にはあるだろう。
僕の場合、コロナは予想していなかったが、(”中堅”に押し上げられ、また別のフェーズに入り)仕事が少し減ることも少し予想をしていて、このような動きをとった。貯蓄するための時間を、作る速度をギアを少し落とす生活スタイルを実験する。有名になって左うちわで島に移住では全くない。
以前も書いたが、まずそのためにはベースが必要で、ギアを下げるのに重要なのは「家賃を低コストに抑え」「家族やミニマルなサイクルで助け合い生きる」こと。

ただ、数日前にある用事があり、お世話になっている大先輩にこの自分の置かれた状況をメールすると、
「下道さんはキャリアもあるのだから、学校の先生をやるなり、奥様に何かあった場合も考えて、
確実な収入の道を確保されることをすすめます。」と返信があり、落ち込んでしまった。
なぜなら、本当にそれはその通りだから。美しい事を言っているようで、実は妻に頼りすぎなのだろうし、痛いところ。
でも、もし、学校の先生をすると、先生という職業に専念したくなると思うし、それは表現者である事をやめるくらいの出来事になるかもしれないし、(妙に安定してしまうし、)それは慎重にしたい、というのも事実で。
僕はこの数年である程度消費された僕の中身や外身をもう一回自らひっくり返して生まれ変わらないといけない時期にきていると思う。人の真似でもなく、自分の過去も真似ない、受けたネタを使いまわすこともしない、と決めて、新しい歩みをはじめている。そういう、毎日を過ごすのも恐ろしくも、ドキドキしながら、冒険者のような気持ちなのだ。まずは3年。なんとか生き抜き、その間に。


で、
朝5時半とかに、最近、こっそり、誰もいない海に浸かりに行っている。ボード片手に。

それは実は色々な島民にばれはじめていて、波もない海に浮かぶ黒い影は「ナオッシー」と呼ばれている。。。

2020.5.8
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瀬戸内の直島に移住して1ヶ月がすぎた。
コロナウィルスの影響で、タイミングが数週間ズレてたら移住できなかったかもしれない。
島内では観光客は日増し少なくなり、美術館などが全て閉まってからは、ほぼいなくなった。
美術館は人気だし、世界中から観光客がやってくる。ある意味それは小さな京都みたい。常に様々な場所に観光客がいる島は、もう20年くらいこういう風景が当たり前だったようだ。
静まり返った風景を「アート以前の島に戻ったみたいだなぁ」と島民は言う。
もちろん、生活を観光に依存していた人々はとても苦しい時期だ。散歩をしたり釣りをしたり浜辺で子供と遊んだり、そう言う光景が増えた。島では夕方のスーパー以外3密にはなかなかならない。
時たま、関西や関東ナンバーの車とかの見知らぬ人や外国人が島をうろうろしていたりする。明らかにこういう観光客は「車で田舎まで行けば問題ないだろう」と思っているのだけど、”田舎”にも人は住んでいるし、小さな島の住民にして見れば、高齢者も多いし「都市部から人が来なければ、こんな自体には、、、」という悪い想像をしてナンバーを見ては身構える。できれば、車で海とか山だけ行くのなら良いけど、スーパーとか生活圏には来ないで欲しい。 
「この島へ移住」って、前向きな挑戦も色々考えたからこそ決断したのだけど、そんな中で”諦めたこと”だってある。その一番は「サーフィン」かな。これは遊びだけど、1-2週間に1回の大切な心と体のリフレッシュだった。「ギャンブルよりはましかぁ」と家族も理解してくれて、細々と続けてきた。笑。
瀬戸内の島に波は立たない。家から海が見えるのに。。。
もし行きたくなったら、フィリーと高速道路を使って高知か徳島。片道3-4時間はかかる。絶望的だ。だけど引っ越しの時、こっそりサーフボードは持ってきた。。。台風とか?_もしかしたら? と淡い期待を持って。

最近、都心部では、コロナの状況で、仕事がなく自由な時間が増えたのか人々が、人の少ない”だろう”場所や自然を求めて、周辺の地域へ押しかけ逆に混雑を招くことが問題になっている。別荘地もそうだし、ビーチやサーフィンもそう。湘南に人が押し寄せて、さらにメディアも煽り、サーフィン協会から自粛のアナウンスが出て、様々な人気のビーチや駐車場が閉鎖される始末。日本中のローカルも(やっているだろうど)自粛ムード。
でも、海の中って、基本的には”都市近く”の”相当有名なビーチ”で”休みの日”とかで”混雑”しないと『3密』にはならないし。今の時期、「人々の移動」は絶対に自粛!!!しつつ、も、それぞれの地元で散歩したり、体力づくりしたり、釣りしたり、様々な楽しいアクティビティとかは各自が気をつけたら良い地域とかもいっぱいあると思う。
全国一律にする必要がどこまであるのか?グラデーションがあっても良いのでは?
サーフィンもパチンコもそうだけど、この時期、叩ける奴らはネットで袋叩きにあうのとかも見てて疲れた。
「こんな時期に娯楽?娯楽は敵だ!」って言うのは、戦時中みたいで正直怖い。
 
で、島の話。
瀬戸内海の島では、絶対に波が立たないし、今は夏じゃないし、誰もビーチにはいないし、絶対に海には入らない。観光客もいないのでなおさら。 島にサーファーはいない。(ウィンドサーフィンは一度流行ったらしいが。)
春日和で浜辺に人が増えても、海の上は絶対にゼロ。つまり、『3密』の逆。絶対に誰とも接触をしない場所。さらに、僕のこの行為をみて、わざわざやってくるサーファーもいないし、サーフィンを始める島民もいない。と言うことだ。
昨日の夕方、こっそり、サーフボードとウェットスーツを車に積んで五分。浜辺へ行ってみた。
誰もいない海。少しだけ暖かい水に滑り出し、パドリングしたり、穏やかな水面にぷかぷか浮いてみたり。
時間も忘れて。時間や会話や人工的な物から切り離される。思った以上に素敵な時間。
朝とか夕方にちょくちょく通おう。波はなくても、体力づくりやパドリングやドルフィンスルーの練習にもなるし。ただ、波がないと30分くらいで飽きる。でもまぁ、それもちょうど良い。(良い波を自粛していないサーファー、ではなく、春に近所の池で海水浴しているバカと思ってください。)
こういう機会だからこそ、ベストじゃなくてもやってみる事、そこから発見できる事もあるだろうし。

(ただ、外に干したウェットスーツを早朝取り込むも、近所の人に、「干していたのは何?ウエットスーツ?何んで?」と。。。島の噂は早いのだ。)

『連載【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】』
という文章を一つ下の日記で貼り付けましたが。
この連載は、2020年の2月末、コロナウィルスが中国で感染者を拡大させている”対岸の火事”の時、まだまだオリンピックも開催予定のまま突き進んでいた時、に書いた文章。
この中には、島へ移住する理由を書いていますが、これを考えた理由のなかにコロナは全く入っていなかった。
今、直島に引っ越し3週間近くが経つ。
コロナウィルスは世界中で流行し死者も多く出し、日本も国内で温度差はあるにせよ、緊急事態事態が続き、外出規制も始まり、展覧会やイベントは尽く中止になり、飲食店はバタバタと潰れ、政府の隠蔽体質は戦時中のようで、大変な状況。
島でも、学校は休校になり、観光客は来ず店も閉まり、人々はマスクをして出歩いている。
ただ、ギアをローに入れて、生活と制作を行うために、移り住んだ僕にとって、驚く程、以前より静かな生活が日々、流れている。ある島民は「2-30年前の、アートが島へ来る以前の島に戻ったみたいに静かだなぁ」と話してる。頑張って自宅で待機しつつ、この貴重な時間を大切に使いたいと思っている。

そんな中で、連載に続いて、山下陽光氏と遠隔でラジオを始めることになり、それは1ヶ月を超えた今でも続いている。コロナの流行が刻一刻と変化し深刻化する中での日々が、別の形で記録されてると思う。もちろんまだ渦中にいるのだが。
連載に興味を持って読んでくれた方には。このラジオもぜひ。
ラジオなんで、だらだらと作業のお供に。


山下道ラジオ
http://m-shitamichi.com/yamashitamichiradio


山下陽光氏の《途中でやめる》のメルマガで連載をしていたので、コピペしておきます。
メルマガの読者を意識しているので、こういう文章になっています。がお時間あれば。


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連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】①


本連載を書くにあたり、山下陽光氏が付けてくれたタイトルが、それを読むとすでに活動のネタがバレてしまっているので……、少し過去から遡って、無理に遠回りしながら、この件を連載として書きたいと思う。さらに、この陽光氏のメルマガを僕は読んだことが無いけど、日記のような結構ラフな文章だと思うので、僕も、だらだらと書きながら、校正もせずに、のせていきます。その方が、このメルマガのグルーブ感にもあうと思うので。
では、始めます。

幼い頃、僕は、瀬戸内海の見える小さな自然豊かな集落で育った。小高い山に登ると日々変化する海と島々がキラキラと見えた。通っていた小学校は1クラスのみで信号も1箇所のみのド田舎。小学校の帰り道、小さな駄菓子屋があったが、子供は”買い食い”を禁止されていた。少年の僕はそのルールがどうしても嫌だったみたいで、「学校帰りの山や路地で無料で食べられる物を記した【地図】を作って学校で配布する」という抵抗に出たそうだ。(ある意味”0円”マップ。)そこには様々な山の木の実などが多く記されていたという。ただ、この昔話の結末というのは、クラスの友人たちがその地図で喜びました、おしまい……というものではなくて、実は…その地図内には○○さんちのスイカや農家の畑の野菜も記されていたため、先生が発見するや否や、ウチの親とで謝りに回ったという結末……。この僕の記憶には無い地図の話は、最近になって母親からこの話を聞いた。

で、その昔の自分の話を聞いて、脳の接続で思い出したことがあって、それを次に書くと…。
台湾で農業をやっている地元の友人のアーティストがいて、彼は、ちょっと前に、”ある古い本”を手にしてそれを読み込んで「都市で手に入る植物とその料理」を農業雑誌に連載していた。その古い本というのは、日本が台湾を植民地にするにあたって書かれた本で、台湾全土の植物を調査し、名前や種類や”どのように食べられるか”まで記した物。その中には「味=★☆☆☆☆、苦いが食えなくない」みたいな項目まであって面白そうに彼が見せてくれた。(2009年頃の記憶でうる覚えだが…。)これは当時の日本が台湾を戦時の食糧庫としての価値を考えていて、稲作を持ち込んだりした頃に書かれたものだろうと思うが。その100年くらい前の調査を記した古い本を手に、今の町の風景を見比べながら、今では”観賞用”になった街路樹や様々な”見向きもされない”植物を「食べ物」として再考するプロジェクト(ったと記憶している)があったなぁ、と思い出した。

まぁ、そうそう、僕は、今まさに。”戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクで落札しまく”っているんだけど、今から書こうとしているこの話は、【自分で地図を描く】体験であるだろう。そして、それはただただ自分が思いついた【新しい地図を描く】ということではなくて、【見向きもされない古い地図を発見することによって始まる】のかもしれない。ということ……。

そこから三十年が経った数年前。
突然メールで、「ある瀬戸内の島に研究所を作って欲しい」という依頼を受けて、僕のプロジェクトは動き出す、……のだけど、それは次回!!!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】②


今、瀬戸内海。フェリーの中で、この文章を書いている。
なぜなら、島への移住を決めて、4月から住む家を見に来たから。
新しいプロジェクトをよりディープに動かすために。子育ての環境とかも考えて。
妻と娘と猫と一緒に、島で暮らすことを選んだ。

そういえば、全然話が変わるが、
二年くらい前に、アーティストたちと人類学者たちの対談があり、参加をしていた。(その背景には、人類学者が旅をフィールドノートで記述し論文にまとめる従来の流れから、映像で記述しアウトプットすることが増え、表現やアートというジャンルとの接点が日増しに増えていること、逆にアーティストがある地域に入り込み調査をしながら作品を作る傾向を強め人類学への興味関心が増えている傾向が挙げられるだろう)、その中で、人類学者がプレゼンで映像を空間で見せることを”インスタレーション”という言葉を多用して話していたことに違和感を持った会場のアーティストがそれを指摘した際に、逆に「では言わさせもらいますけど、最近のアーティストたちは”リサーチ”という言葉を簡単に多用しすぎなのが学者としては気になるし、あなたたちがやっているのは”サーチ”ですから!」と反撃を受けたことを記憶している。(まぁ、それぞれの言葉の意味が様々なジャンルを横断して使われ、誤訳されて行くのは逆に面白いことだが、アーティストも心して”リサーチ”という言葉を使わないとと、気を引き締める機会であったが。)そう、リサーチという学術的な「調査」という言葉がアート界では和製英語のような存在で広まっている。そこには”地方での芸術祭”の影響、アーティストの作品の作り方が大きく関係しているのではないかと思う。

現在日本では、行政主導で芸術祭などが花盛りで。オリンピックに向けてお金もどんどん降りている。「現代美術で村おこし」という奇妙な現象がこの20年ほど現在進行形で進んでいる。
現代のアーティストたちは、アトリエで作品を作るのではなく、【依頼された土地を”リサーチ”して】【数ヶ月の滞在で】【地元の記憶などをテーマに】【フィクションなどを手法を交え】【作品を制作する】ことが多くなっている。(もちろん、それも一部だが。)
で、僕自身はというと、過去に芸術祭に参加もしてきたが、最近は特に制作しながら意識しているのは……、【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】こと。そういう創作活動をしてみたいと考えている。そう、天邪鬼なのだ。

そんなある日、ある関係者から突然メールで(メールは突然なものだが)、「ある瀬戸内の島にラボ/研究所を作って欲しい」という依頼を受ける。
さらにその内容は《瀬戸内の風景》に関するラボラトリーのような存在を、《長期》でプロジェクトとして企画運営して欲しく、まずは3年を提案された。その時僕は、幼い頃に瀬戸内で過ごした風景を思い出した。そして、生まれたばかりの娘をどういう環境で育てるか悩んでいるタイミングだったので、移住するのも面白いのではないか、と妄想が進んだ。さらに、この企画は行政主導の”芸術祭”からの依頼ではなく、一つの企業からの依頼であることも面白いと思った。
そして何よりこれは。【自分で場所を決めて”サーチ”して】【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】【地元の記憶には簡単には手を出さず】【すぐにフィクションなどに逃げず】【作品を制作しない】。ことを実現するチャンスだと感じた。
つまり、
【自分で場所を決めて”サーチ”して】=瀬戸内は広い。島を自分で決めてアプローチもできるかも。
【数年の滞在、いや一生付き合うつもりで】=最低3年は決まってる。し、移住もいいかも。
【地元の記憶には簡単には手を出さず】+【すぐにフィクションなどに逃げず】+【作品を制作しない】=地元の人や旅人が使える図書館のような場所をゼロから作れないかな。
空間内にはまず何もない本棚を用意する。1年に1回か2回、あるカテゴリーを決めて、瀬戸内を調査しながら本や物を蒐集し、展示しアーカイブされ、本棚になっていく。トークイベントや勉強会やメンバーを集めて。最終的には、地元の人や旅人たちが立ち寄る図書館になって行く。でも、物も集めるかもしれないから、図書館ではなく、資料館かもしれない。編集者のように”図書館”を作る。

そう、この話は、瀬戸内のある島に、ゼロから図書館を作るプロジェクト。そして、島へ家族と移住するプロジェクトでもある。
そして……。
次回へ続く!




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】③


こんにちは。
瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男(と陽光くんに名付けられた)。下道基行(シタミチモトユキ)です。
陽光くんとは「新しい骨董」というグループを組んでいて。肩書きは美術家/写真家と言われることが多く、今回、直島では”資料館館長”という肩書きも加わりました。みなさま、自己紹介が遅くなりましたが、どうぞよろしくお願いします。
瀬戸内海の島にゼロから図書資料館を作る長期プロジェクトを始動するにあたり、家族で島へ移住を決め、アーティストから資料館職員に転職するくらいの勢いで、愛知県で引っ越し作業中。

さて。
これまで書いてきたプロジェクトの名前は《瀬戸内「 」資料館》と名付けました。「」には毎回テーマを変えて入れていきます。第一回は《瀬戸内「緑川洋一」資料館》。その第二弾を、《瀬戸内「旅の本」資料館》にしようと考え準備を始めていて、だから、ガイドブックを買いまくっている。ということ。
この《瀬戸内「旅の本」資料館》の構想としては、「戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく」って、1920年くらいから2020年まで100年間の瀬戸内のガイドブックが空間に100冊くらいが時系列にバーーーと並んでいるイメージを持って進めている。テーマの一つは《瀬戸内の「観光」を再考する》。資料館の立地は香川県の直島の港の側で、旅人にも地元の人にも愛される資料館にしたい。(新刊で販売されている書籍は著者や出版社へのリスペクトも込めて、新品で購入するようにしている、ことを書き加えさせてください。。)

例えば、僕の勝手なイメージ。
何気なく直島へ来た旅行者が、ふらりとこの資料館に立ち寄る…、するとガイドブックが並んでいて「やったー!このガイドブック、旅行前に買おうと思っていたんだぁー」とか言ってパラパラめくっていると、その横に数年前のガイドブックが……、さらに横には……とずらりと過去のガイドブックも並んでいて、手に取り開いていく……。行くつもりだったカボチャのオブジェやカフェ飯屋もタピオカ屋もない世界へ……。徐々にタイムスリップしていく……。そんな仮説的な図書館。

今、ヤフオクやメルカリで買いまくっている「るるぶ」等は、今も本屋で毎年更新されながら大量に売られているガイドブック。数年前の「るるぶ」やガイドブックって、お店も変わるし、情報も古くなるので、すぐに使えなくなってしまうことが多い。だから、人々はどんどん捨てるし残らない。公共の図書館にもあまり残されていないし、価値が少ないからbookoffとかでもなかなか手に入らない。もしヤフオクで見つけても、価格も100円程度で、誰とも競り合わない。ある意味、今、ここは独壇場。
この捨てられているガイドブック=情報を、蒐集し、並べてみることで、過去から新しい発掘、いや未来を想像してみよう、というだ。
民俗学者の宮本常一たちは1960年代高度経済成長期に、生活スタイルが変化し、古い道具を人々が捨てていく中で、それに危機感を持ち、道具の蒐集を行った。なんか、そういう感じで、捨てられる情報を蒐集して、そこから何かを見つけることをやってみたいなぁと。

この100年のガイドブックが並ぶと、どのような発見が起こるのだろうか?

例えば、直島だけに、フォーカスを当ててガイドブックを読み進めると。
1990年代の「るるぶ 山陽瀬戸内」や「るるぶ 香川」で、直島を探すと、”その他の島々”というあたりのコーナーに、白黒ページで少しだけ載っている。まずは海水浴場やキャンプ場のみ。そして徐々に美術館も記載され始める。ページも1ぺーじの半分くらい。それが急に、2000年代から徐々に”アート”という言葉が目立ち始め、カラーページになる。さらに2010年には瀬戸内国際芸術祭が始まり、カラーで数ページの特集が組まれるようになる。さらに、最近はこのインターネット時代に様々な出版社から”アートで島旅”的なガイドブックが続々出版されている。
そんなこの島で起こっている20−30年の急激な「観光」の変化が見えてくるだろう。

島で図書館のようなものを始めようと思った時に、まずは、島の2件の小さな図書館を調査することから始めた。なかなかこじんまりとして素敵なのだが、まず誰にも使われていない状況が目に付く。そして、本棚にどのような本が並んでいるかを見てみる。その時代ごとの流行りの小説やある意味”島民の娯楽”のために本を購入していた傾向がみえる。色あせたトレンディードラマが並んでいるような本棚は循環を止めている。そしてインターネットの波が押し寄せ、誰にも使われなくなっている。
そういう意味で、みんなが使える図書館を始めようと思うと。まずは、ありとあらゆる種類の本を購入して並べていく必要があるだろう。もちろん、今流行りの本もいるし、もっと時間の尺度の長い専門書や絵本など色々な取り揃えが必要になるだろう。(もちろん、これは空間の話ではなく本棚の話。空間によって”みんなが使える”ことも考えられるのだけど。今は本のセレクトの話を書いている。)
ただ、前回書いたように、僕は天邪鬼タイプの人間で、さらにわざわざ作家として図書館をゼロから作るのなら、”みんなが使える”という”公共”方向で”浅く広く”ではなく、超片寄った蒐集を行い特化した本棚を作りたいと考えている。司書でもない男が勝手に作る”アウトサイダーライブラリー”。目指せシュヴァルの理想宮。もちろん、テーマ自体が「瀬戸内」なので、すでに特化している図書館ではあるが、さらに、極端な…。そういう意味で、毎回テーマを決めて蒐集し展示を行うのだけど、そのテーマで日本で一番蔵書が多い図書館にしたいと密かにチャレンジしている。
例えば、第一回の瀬戸内「緑川洋一」資料館では、瀬戸内の写真を生涯撮り続けたこの写真家の書籍を集め、展覧会も開催したし、本棚/アーカイブも作ったのだけど。日本で一番!の「緑川洋一」の蔵書を作りたい!と考えた。現在のチャンピオンは、(国立国会図書館以外では)東京都写真美術館の図書館であり、僕は密かにここを超えることを目指した。で、今回の「瀬戸内のガイドブック」に関しては、高松市図書館も多いが、何と言っても日本交通公社(JTB)がやっている「旅の図書館」がチャンピオン。日本一の旅行業者が運営する「旅の図書館」であり、『るるぶ』もJTBが出しているわけで、なかなかの強敵。ただ、「瀬戸内のガイドブック」に関しても、すでにうちの方が蔵書は「旅の図書館」に匹敵する。なぜなら、「瀬戸内」に特化しているから。
つまり、今の所、ホームページはないが、「緑川洋一」「瀬戸内のガイドブック」を探し求める人にとっては日本一行ってみたい場所にはなっている(はず)なのだ。
では、次回。




連載
【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】④

”リサーチ”という言葉を使ったことはあるだろうか?
本来、学術的な調査の意味で使用されるべき”リサーチ”という言葉が単に”調べる”くらいの意味で誤読されて使われている話を一昨日書いた。では、”アーカイブ”という言葉はどうだろう。最近色々な場所でよく聞くようになった。アーカイブというのも、「保存する」とか「残す」とか「集める」とかその程度の意味で使われているかもしれないが。本来、アーカイブというのは、収集する者のこだわりや取捨選択を排除して、徹底的に集め保存することを言う。だから、そのアーカイブという存在は、蒐集者の意図を超えて、未来に様々な人々が様々な利用価値を見つけ使えることを含んでいる。
僕は、プロジェクトで本棚のカテゴリーは自分で取捨選択して考えるが、そのカテゴリーの中で蒐集する本に関しては個人的な取捨選択はせず、できる限り全て集めるつもり行っているのが《瀬戸内「 」資料館》の特徴だろうか。
《瀬戸内「旅の本」資料館》に関しても、同様に、旅行ガイド本を徹底的に集めている。そして、前回、それらの集められた旅行ガイド本から「直島」だけを探しながらこの30年を見ていくと感じられる事を書いたが。多分、発掘できる大枠としては「観光」ということにはなる。つまり、僕の興味としては、「直島」「アート」という検索ワードであったが、別の人は別の検索ワードでこの本棚から何かを発掘できるだろう。例えば、、、「映画」の専門家と「瀬戸内の映画と観光」を考えるとか? この旅行ガイド本を、色々な興味のある人々と読み解き、色々な発掘をしてみたいなぁと考えている。
ま、つまり、このプロジェクトの中には、「作家の意識的な編集」と「作家の意図を排除したアーカイブ」の両方を持たせながら、自分の範囲を超えた存在にしていきたいなぁ…と妄想している。
(そういう意味では、今回陽光くんがやっていた”0円ショップ”も蒐集する人の意図を排除しているからこそ、他の人が新しい価値を発見することができるのかもしれない。)
よって、”瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまく”っているのだ。そして、すでに、「るるぶ山陽瀬戸内」「るるぶ香川」に関しては、すでに買い占めていしまい。大海に釣り糸を垂らす釣り人のようなに、新しい出品を待つ状態になっている…。

と。なんか難しい話になってきたので、
次回は、直島へ移住を決めた理由を話して、最終回としたい。




連載【誰も関心がないかも知れないけれど戦前から現在までの瀬戸内海の旅行ガイド本をヤフオクやメルカリで落札しまくる男の話】最終回  ー後日加筆ありー


昨年、このプロジェクト、《瀬戸内「 」資料館》の準備のために、直島に滞在制作していた時。ぼんやりと、家族でこの島へ移住してしまうことを想像した。本当に島へ移住するためには絶対に外せない条件を考えたら、次のような事を思った。それは、島の生活が、【自分の新しい表現活動の実験場になること】【家計を支える方法があること】【子育ての環境が良いこと】【猫も一緒に住めること】【家賃がかからないこと】【東京にも出やすいこと】など。

【自分の新しい表現活動の場になること】
瀬戸内の島々を調査してみたいし、その拠点になる。
さらに、このプロジェクトを行うために与えられた空間/物件が、ただの展示空間ではなくて、本当に僕自身の研究室(のよう)になると、もっと僕自身に館長らしさが生まれ、空間も資料館らしさが出て最高だろうなぁと思った。そのためには通える近さに住むのが良いと。(いや、逆にこの空間の近所に住めば、自宅の側にスタジオ/仕事場を持つ夢の環境を手に入れられる?実際は展示を準備し続ける公開制作として。)さらに、空間の地元に住めば、アートのための旅人だけではなく、地元の人が近づいてきて、通ってくれるような場所にするにもそれが必要なのではないか?そんなことを感じた。

【家計を支える方法があること】
家族での"共働き"の可能性も考えている。し、島でその可能性が見えて、家族で挑戦しようと踏み切れそうだ。
これまで、2001年に大学を卒業をして、東京で仕事をしながら、細々と表現活動を始め、2005年に写真集を出版、さらに、2010年くらいから幸運にも”アーティスト”としてデビューの場が与えられ、その後も展示の機会や表現の場が徐々に得られる環境にあり、(大学卒業から)20年くらい経った今。震災後くらいから、展示やプロジェクトの仕事が増えて、年間に5個くらいの企画を持っていると、徐々に大学卒業後からお世話になっていた仕事場に出られる機会が難しくなり、ギリギリながら”アーティスト”として「だけ」で生活をしていくことになり。そこで結婚し子供が生まれ。生活はギリギリながらも、東京を離れ、実家に寄生したりすることでなるべくランニングコストを抑えつつなんとか家族とサバイブしてきた。
そして、年齢としては40歳を超え、経歴に書く活動も年々増えた、(それは本当に幸運で恵まれている) が。それはつまり、、、「下道?あぁ、あの作品の作家ね」と、”ある程度認知”され、”中堅”というキャリアに押し上げられたというタイミングなのだ、今。それは、デビューできて、さらに活動を続けた20年があり、幸運なことなのだけど。”中堅”になり、国内で認知された瞬間に、(言い方が非常に難しいが、、つまり)”若手のように仕事を誘われなくなる”ようになるだろう、と感じる。そしてその予兆をこの年末になんとなく感じた。(そこには僕の作家スタイルが「コマーシャル」ベースではなく、「プロジェクト」ベースであることも関係しているかもしれないが。) キャリアや略歴は一つの”信用”を得る大切なものだが、それを持っていても、仕事がなければ、収入はゼロなのだし。(いや、企画展で展示をしても、いつも収入的には非常に厳しいが。)
で、生き方のギアを入れ替えよう、と。本気で実験。
(もちろんアーティストとしてのキャリアアップの方向性も考えられるが、まず)アーティストとして「だけ」で食べていく、とかではなく、共働きや副業やそういう可能性や、もっと根本的にいろんな生き方を、もう一度挑戦してみよう。と。(←山下陽光の影響かも)

もちろん、加えておくと。表現活動をさらに洗練して作り続けることは、大前提で考えている。それが自分の”仕事”だと思っているから。だから、発表や新しい挑戦の場所はいつでもウェルカムなのだけど。
(まだその渦中にいるので、なかなか書くのが難しい話だが、書いてみた)

【子育ての環境が良いこと】
島は地元のコミュニティがかなり強い。で、僕は幼い頃にそういう”田舎な”環境で育って、大人になって、東京や愛知など都市部で暮らしてみると、しがらみのない都市部ではなくコミュニティが小さい地域に住むと色々と面倒なことも多いけど、人と人の付き合いがやはり深いと感じることが多い。人と人との付き合いを大切にする土地で子育てをしてみたいなぁと漠然と考えていたから、そこも挑戦してみたい。なんとなく、都市部では子育ての環境っていうのもサービスとして提供されている気がするけど、田舎ではちょっと違うと思っている。持ちつ持たれつ。(←KOSUGE1-16の影響かも)
ただ、直島は「アートの聖地」なんて呼ばれていて、なんだかそれは引っかかる。それに付随しての観光業も盛んなのも引っかかる。でも、小さな地方の島なのに、外国人が島内でよく目にする環境、それは面白いかもしれないし、その客層が独特で少し変。上品?な客が多いとでも言おうか。多分その理由は、この島へ来る観光客は美術館が目当てであること。島の美術館全てを見て回るとそれだけで6000円くらいかかるので、アートや文化への理解と興味のある人々しか来ない。治安がなかなか良い。で、夜になると、このど田舎の飲み屋は外国人だらけだったりするが、逆に、秋の夜に、フラフラ集落の路地を歩いていると、秋祭りのための島内に笛や太鼓の音が聞こえてきて、急に古い日本のローカルな風景を感じる。昨年滞在制作をしながら、このどこにもない環境に、子育てが結びついた。
今後、瀬戸内国際芸術祭を中心とした「アートで観光」はすぐに過去になるのではないかと思う。ただ、この島はアートの関係の仕事だけで回っているわけではない。で、今のこの島のバランスはかなり特殊で面白い。もちろん、海や山はすぐ目の前。車はほとんど走ってなくて静か。瀬戸内の島の風景は日々の気象状況で激減するような、繊細な季節な気象を感じる風景というのは、都市部では感じにくい。島内の保育園や学校もなかなか充実している。
これらは子供が育つ環境としては、面白いのではないか?と。
ま、今から、住んでみないとわからないが。

【家賃がかからないこと】
2008年からもう10年以上、実は、家賃を払ったことがない。難しいようだが無理ではない。それは色々な人や隙間に寄生していきてきたから。例えば、8万円くらいの家賃が0円になったらそれだけで結構暮らせる、いや死なないし。逆に、浮き沈みのある職業で、常に毎月8万円とかを払っていたら、何かあった時にすぐにマイナスに転落する可能性がある。頑なではないが、できれば、家賃をほぼ払わない生活を目指したい。島では、まずは三年それに近い生活が可能になりそう。

【猫も一緒に住めること】
だって、大切な家族ですから。

【東京にも出やすい】
いやいや、島から東京までは4時間半かかるから、これは無理だ。ただ、年間3回くらいしか東京へは行かないから問題ないかも。その時にみたい展示とかも見れれば。友人たちもそこまで東京だけにいるわけでもないし、。いつも考えてしまう項目だけど、もう、要らないかなぁ…。まぁ直島は岡山や高松に15分とか30分程度で行けるし。ネットもあるから。


という感じ。で書いてきましたが。
多分、簡単にいうと、
根底には、自分たちの生活を大きな何者かに極力依存させられたくない、という感覚が強いだろう。「たくさんお金を稼げるし持ち家があって貯金しているから、何かが起きても安心」なのではなく、人との繋がりを大切にして、家賃などのランニングコストを抑えることで、逆に「何が起きても動じない」生活を確保する。さらに、「いつでもどこかへ動けるような気持ち」を持つ。これは、震災以降から変わってしまったこと。疑い続けてやる。
だから、なんか、これまで、移住、移住、書いたが、引いてみれば、ただの移動ですね。これは。なんか、移住という言葉には「田舎へ」とか「上京の反対」の感じがするので。
下道、直島に、移動しまーす。


ということで、
下道基行でした。

《瀬戸内「 」資料館》の写真もあるので見てみてください。
http://m-shitamichi.com/setouchi

《瀬戸内「旅の本」資料館》は今年の夏頃、オープンします。
オリンピック見たくない人、是非、ゆっくりと島へ遊びに来てくださーい。

拙文、失礼しましたー。


以下のネット販売商品が「偽札」と見なされて、ページが停止されてしまいました。購入者の方には自動的にキャンセルになってしまい、ご迷惑をおかけしました。今後ともよろしくお願いします。


新しい骨董_ピンク01.jpg新しい骨董_ピンク03.jpg


年月日:2019.06
サイズ: 85×45mm
素材:紙
場所:長春、中国
発見者:下道基行

date:06.2019
size:85×45mm
material:paper
place:ChangChun, China
discoverer: Motoyuki Shitamichi

10年ぶりの中国。旧満州の首都だった長春は劇的な変化をしていた。
駅は大々的に改装され地下も整備されていて同じ街とは思えないほど。ただ駅から離れるとすぐに古い路地や住宅街が広がっていたが、それでもそんな通りですらゴミが落ちていないのには驚いた。常に掃除をする人が歩き回っている。ぱっと見、海外からの観光客はほとんど居なそうだが、逆に国内の観光旅行客がバスや電車でたくさん訪れているようだった。人々が裕福になり、日本に爆買い中国人が来ているくらいだから、国内ももっと観光客が動いているのだろう。「DISCOVER CHINA」みたいに国内観光も花盛りということか。旧満州国皇宮(偽満州国皇宮博物館)も以前はボロボロな地方観光地だったが、今回行くと巨大な駐車場やインフォーメーションや建築自体も大きく変貌していた。
夕方になってフラフラと街の中をさまようと、10年前の通りを煙だらけにした羊肉串屋台やそれを焼くウィグル系のおじさんの深い表情…、記憶が蘇ってくる。記憶を頼りに歩くと、駅前の通りの屋台はほぼなく、店舗の一階に組み込まれるような状態になり、少し寂しかった。さらに屋台的な店でも、1本数十円の串焼きを多くの客は携帯スマホでQRコードを読み込み、キャッシュレスで支払っている光景には驚く。

羊肉串を数本買ってコンビニでビールを買い、駅前のビジネスホテルに帰り、薄暗い廊下の突き当たりの部屋の戸を開いた瞬間、バサッ!!と何かが足元に落ちて散らばった。よく見ると少し小さいが中国100元のように見える。拾い上げるとそれは風俗のピンクチラシ。名刺くらいのサイズで片方の面にはエロい写真と電話番号と客引きの言葉、もう一方は中国100元のコピー。
床や道路でお金だと思って拾うことを想定したのだろうか?
まんまと拾ってしまった…。
今は見ないが日本のピンクチラシは水着アイドルの写真が使用され電話ボックスに無数に貼られていたが、こちらでは札を模す、とは。
それにしても、お金と性。その表裏一体感の見事さ。
ビールを開け羊肉をかじりながらその紙っぺらをまじまじと眺め、一人唸る。クミンの香りが脳を刺激する。ここでもスマホとQRコードで会計しているのだろうか…。

旅から数ヶ月経った昨日、手帳に挟まっていたこの紙が偶然パラッと家の床に。
あ。
「これ出品して捕まらないかな?」とすぐに陽光くんにメール。「最高!」との返信。
ということで出品します。
価格は、100中国人民元のレート(2019年10月29日)を調べ、1541円。


サイズは名刺サイズと小さいです。ご了承ください。


I Picked up this paper on the floor at cheep hotel that I was staying in China.
Because I thought I found money.
This paper is "Sex Flyer".
it is fake bill.
"Front and back" made one.
I want to sell it ¥1541 (100CNH=1541JPY / 29,OCT,2019).

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大原美術館・有隣荘の展示期間もあと少し。
今回、浜辺でガラス瓶を広い、空間のために窓を製作した。
空間や床の間には何もおかず、ささやかな展示となった。

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娘はもう1歳4ヶ月になる。
少し子供の名前に関して少し書こうか。
出産前、妻と僕が意見を同じくしていたのは「男女どちらでも良い名前にしたいね」ということくらいだった。ただ、僕の中では密かに「親の希望などを名前の漢字によって”意味”として込めるのではなく、その子にピッタリくる美しい”音”で決めたいなぁ」と思っていた。
妻は妊娠中に時々、いくつかの「男女どちらでも良い名前」をあげていた。そして、娘が生まれてから実際に彼女と対面して、僕はその名前候補の中から一つを選ぶ形となった。
名前はひらがなで記す方向になった。妻はその事を「彼女が大きくなって漢字が良ければ自分で考えたら良いのよ」と話した。
”名付け”は人間ができる最もシンプルで難しい”創造”であるのではないかと思う、大きな経験だった。

名付けはある意味やりがいのある仕事だが、簡単に踏み込んではいけない部分でもあり、出産はその役割が自動的に親に回ってくるし、それを放棄できない。

(名前はここに書かず、今度会った時に音で伝えますね)

本人がいつか、いつのタイミングか知らないけど、意味のないこの言葉や音が気にいいってくれるといいな。

以前はブログに日記を書いていた。twitterやfacebookをやるようになると日記や告知はそこに書くようになりブログは使わなくなった。例えば、SNSに「展示が始まりましたー!内容は…」って書くと、一瞬でフォロワーしている数百人くらい(あるいはそれ以上)に伝わる。数時間や数日の間に。認知はされる。ただ、その記事は並ぶ大量の情報の中にすぐに流れていってしまう。
最近は、展示のことや作品のことを、この自分のホームページのエッセイの所に書くようになった。このすぐに伝わらない感じが妙に脳を刺激する。ノートにつける日記のように、「自分の脳の整理のため」という利用価値が高い(もちろん誰かにみられるかもという緊張感もあり)。さらに、いつか誰かが調べたりしてここにたどり着いて読むかもしれないとも思う。ブログ以下の感覚。
このスピード感覚は、土に埋めておくような気持ちに近い。

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《瀬戸内「  」資料館》について。
瀬戸内国際芸術祭2019秋会期のページ内の表記が複雑なので、
そこが、気になったり疑問を持った人のために、自分の整理のために書いておきます。
https://setouchi-artfest.jp/artworks-artists/artworks/naoshima/
上の表記だと作品名が「瀬戸内「緑川洋一」資料館」、作家名が「緑川洋一」「西沢大良」となっている。
この場所名は元パチンコ屋を改装した「宮浦ギャラリー六区」、それを設計したのは「西沢大良」、今回から始まる長期プロジェクトが「瀬戸内「  」資料館」、それを企画監修するのは「下道基行」、《第一回 瀬戸内「  」資料館》が「緑川洋一」を取り上げる「瀬戸内「緑川洋一」資料館」。ということ。複雑ですね。
よって、作品名が「瀬戸内「緑川洋一」資料館」というのは正解。で、作家名はプロジェクト名として「瀬戸内「  」資料館」なのかもしれません。
宮浦の他の展示だと、銭湯を「大竹伸朗」が改装した「I♡湯」。作品名は「I♡湯」、作家名は「大竹伸朗」、という風にシンプルなのですが…。
なぜこのように複雑になるかというと、この「宮浦ギャラリー六区」は中身を入れ替え自由な”ギャラリー”として作られたから、その中に入る作家は一つの企画/中身でしかなく、常にこの場所の作家は常に「西沢大良」ということになる。そこは土地の名前のように残る部分。ですので、あえてそこへわざわざ中身を入れ替え自由な”資料館”を入れ子状に作りました。
僕としては、「瀬戸内「  」資料館」はプロジェクト名なので、「新しい骨董」とかと同じ感覚なので、現在メンバーは下道のみだが、扱いとしては作家名になるのかな、と考えています。資料館というハード名なのに、実際はプロジェクトというソフトであるのです。下道は作家名ではないのか?というと、資料館館長という扱いにしています。複雑ですね。でもこれはわざとでもあり、いつか
《瀬戸内「瀬戸内「  」資料館」資料館》
という展示もやってみたいなぁと思っています。
どこか別の場所や空間に、この資料館を移動してみても面白いかもしれません。

新しいプロジェクト。瀬戸内へ遊びに来る時は是非。

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福岡のこの浜辺で、新しい骨董の展示が開催中。
浜辺の崖にあった穴に、拾った漂着物を選んで並べています。
期間は不明。全て無料。急げ。

(以下動画あり)


https://twitter.com/ccttaa/status/1176694511084408832

https://twitter.com/ccttaa/status/1168485777715544065


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size: 300×300×9mm

浜辺に漂着した様々な国のガラスを砕いて並べて「板ガラス」を作っている。
2015年から食器を作り始めて以来、どうしても作りたく思っていて、ようやく着手でした。

沖縄の浜辺で拾うガラスで最も多いのが台湾の”PAOLYTA"保力達"という名のドリンク剤の《茶色》の瓶。
さらに、次に多いのは中国の白酒(中国の焼酎)の《透明》の瓶。
あとは、風の向きと関係するが、韓国の焼酎の《緑》の瓶も多い。
そう思って見てみると、浜辺に流れ着くガラスは、3色《透明》《緑》《茶色》がほとんど。
(《緑》=ビールなど、《茶色》=ドリンク剤系、ウィスキー系なども)
それらを窯で混ぜて再生せず、3色を残すために、板の上に並べてそのまま焼くフュージングという手法で今回は制作。バキバキに割れるのでひびを継いでいる。
今回はタイトルを「沖縄ガラス」から「渚三彩」(なぎさんさい、とリエゾン/駄洒落)に変更し別シリーズにした。
理由は沖縄だけではなく福岡の海岸も歩いて瓶を収集したから。福岡で行きつけの海岸は漂着物研究家石井忠さんの歩いた浜辺。さらに、制作協力は倉敷芸術科学大学のガラス工房と凄腕のガラス作家さんたち。
たくさんの協力の元、2014年から始めた浜辺の漂着瓶からのガラス製作も最終段階に入ってきている。
公開は2019年10月18日、大原美術館/有隣荘での個展。さらに11月に韓国ソウルでグループ展。
漂着したガラス瓶は別の形になって再び旅を始める。

まだ試作品ですが、とても美しく、日々、窓に立てかけて眺めている。

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夏休みの最終週だという高校一年の”甥っ子”を家から引っ張り出して、一緒に南の島へと向かった。
悶々としているみたいだし、浜辺での漂着瓶拾いを手伝わせるために。
二人、車でドライブしたり、真夏の浜辺を歩いたり、民宿の畳でゴロゴロしたり、沖縄そばの名店で食ったり、友人宅に泊まったり。
陶芸家、芸術家、古本屋さん、、色々な生き方をしている友人知人と会った。
大人の生き方は、学校の科目みたいに簡単に分けられないし、
大人もみんないつも悩みながら考えながら模索しながら生きているし、
でも結構楽しそうでしょ?ってのが、少ーし伝わっていたらうれいいな。
そして、悩み事は海に流してしまえばよい。
しかし、甥っ子よ、
おじちゃんみたいなフーテンにはなるなよ。

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2019年9/28より、瀬戸内の直島で新しいプロジェクトが始まります。
” 瀬戸内「 」資料館 ” と言います。
瀬戸内の景観/風景をテーマに「何かしら」を調査し発表していくプロジェクト。
なんかぼんやりしていますが、風景と写真と本を中心に、結構硬派なプロジェクトを展開していこうと思います。(上の写真をクリックすると文章も読めます。)
直島の宮浦地区にある元パチンコ屋を建築家が改装して作られたギャラリー6区という場所をさらに少し改装して間借りして使います。と、なかなか混乱する内容なのですが、有能なデザイナーHと建築家Nそしてスタッフの力を借りて、毎日転がるように準備をしています。

第一回目は岡山出身で歯科医をしながら瀬戸内を撮影し続けた写真家・緑川洋一をテーマに、
” 瀬戸内「緑川洋一」資料館 ”を準備中。

”作品”を黙々と作る方向ではなく、これまでやっていた、宇宙の卵や旅ラボや新しい骨董やRe-Fortやら、そういう中に充満していた、みんなで作る楽しさ、自分の作品を是が非でも守る姿勢ではなく、ぶっ壊しながら遊ぶ姿勢を、さらに先に進めるために、このプロジェクトを全力でやっているのかもしれない。

お楽しみに。
さらに、興味ある人連絡ください。



【松任谷由実 SONGS NHK 2009年】

●歌が生まれる時、について

” 遊びの中から曲を作っているので。
忘れちゃってる夢みたいにね。どっかに。入り込んでいるんですね。
作ろうとした時に、どこかしまっている引き出しが開いて、
うまく開いたいくつかが組み合わさって、作品になって出てくる。”


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お変わりありませんか?こちらはこんなですよ!と。

Facebookとtwitter から少し距離を置いた。
アーカイブは消さず、「辞めます」と日記に書き込んだ。
全然何も考えず、突然思いついて実行してみた。

今日、別の用事で陽光くんに電話したら「辞めたみたいだけど、何かあったの…?」と心配され。
そうか、突然やめると、何か嫌な思いをしたのでは?と心配されるのか…。理由を考える。
きっかけがあるとすると、うーーーん、、、例えば。先日、中国に旅に行った時に、せっかく知らない土地にいるのに、面白いことがあった時にすぐにtwitterにアップしていた自分がいて、さらに、その後の旅の中でバス移動の時とかに、その記事への反応が気になってtwitterをよく開くようになったこと。とか。
見てしまうし、あげてしまう。だから、断ち切ってしまう方が良いのではないかと思った。やっていても付き合えるのなら良いが僕の場合何かを奪われている感覚が最近強かったので。

さらに、最近、このホームページに日記を始めた事も理由の一つ。
誰が見ているか、わからないが、たまに草抜きとかをやっている自分の庭のような場所。
先日、沖縄に行った時、「ホームページで日記始めたね。見てるよ」と一人から突然言われた。
あぁ、見る人は見るし、見ない人は見ない。それで良いのかもと思った。
みんなが同時に見て、同時に反応し、反応される、それは時として静かな過剰な期待になってしまう。僕の場合。
幼い頃、見せてもらえないテレビ番組や買ってもらえないゲームや雑誌があって、クラスの話題についていけない事があったが、今思うと何の問題もなかった。それに近い事が起きるのではないかと思う。つまりシェアできない事が増えるが、さほど問題がない程度のこと。
少し孤独な作業が欲しいのかな。人にではなくただ自分と向き合う方向性。人からの反応への過剰な期待に煽られている自分。 孤独に書いて、それを誰かが覗き見るだけ、の方が今は良いのかな。娘の事とか、サーフィンのこととか、SNSにはあげないようにしていたが、この自分の場所なら何か書いてみようかな。
とにかくとにかく、Facebookとtwitter をやめてみた。
小さな実験。

Tokyo Contemporary Art Awardという第一回の新しい賞をいただくことになった。これについて少し書いておく。
この数カ月間、美術手帖のサイトのトップページに記事がバンバン出ていたのでご存知かもしれないが。笑
東京都が、いや元ワンダーサイトが、いや、名前が変わったばかりの東京都のアーティストレジデンスTOCASが(くどくてすみません…)、新しい賞を作った。風間サチコさんと共にいただけたのは何より嬉しいし心強い。
(色々とご意見もあるかもしれないが、)僕自身は2010年から1年間、ワンダーサイトに滞在し、何よりたくさんの世界中のアーティストと出会えたことは本当にその後10年近い年月の原動力になっていたし、財産だと思っている。
今回のこの賞は、「中堅」に与える賞だという。だからと言って、今までの活動に対しての”頑張ったで賞”ではなくて、今回の審査員のスタジオビジットや相談をしやすい環境作りやこの賞を企画し支えるのがアーティストレジデンスのTOCASであることからも、「中堅」の海外での活動やさらなる活躍のために送られる応援、”あなたならもっとできるで賞”だろうと思った。で、僕に何ができるのだろうか悩んでいる。いや、悩んでいる暇はない進め。
今年は、5月に娘が生まれて、数週間の旅から帰るたびに劇的に成長する彼女に驚きながら過ごしている。「生きる」「生かされる」と言う感覚が揺さぶられて仕方ない。
「中堅」と言う言葉は重い。2010年くらいから若手としてポツポツ仕事が増えてきたが、2013年くらいからようやくバイトをやめて作品づくりのみの生活になったが、そこから5 年程度で、もう中堅。ま、中堅なのだ。
少年時代から大学生まで、溜め込まれていた”世の中に出るための準備”が一気に吹き出していくのを「若手」とする。(音楽でもそうだけど、デビューアルバムはいつも美しいのかもしれない。そこには様々な言葉にできない混沌と様々な過去の影響がないまぜになって発散されるから。)そこで幸運にもデビューできて少し認知されると、今度はそれを自ら乗り越えながら進んでいくだろう。その途中に「中堅」があるのか? いや、振り返る暇などまだない。
今、僕が何を書いても、「リア充」だ「自慢」だと言われるだけなのだろうけど。笑。いや、全然笑えない。今、沖縄那覇の1800円のゲストハウスのドミトリーのベットの上で、発表の予定もない作品の構想を悶々と考えている。韓国資本らしく、スタッフの青年が政府同士のいざこざで起こったお客のキャンセルを嘆いているのを聞きながら。
もちろん恵まれているとは思う。こんな時間を与えてくれる家族や応援してくれる人々。ただ正直、なぜ生きているか分からないほどの生活が目の前にある。詳細は書かないが本当だ。安定を求める気持ちをぐっと抑えながら、不安定極まりない状況下を、道無き道を手探りで進む日々。後戻りなどできない一本の道を、自分の感覚を頼りに。
そして、なんか、注目されることで、色々と人に好き勝手言われて、心が少し落ちることもあるけれど。足を引っ張られてる暇はない、進むしかない。杭は出てしまった。叩かれたら凹んでしまう心がここにはあるのだけれど。自分の前のこの世界を自分で全力で楽しみながら駆け抜けるしかない。娘が免疫を作るためによく高熱を出しているが、僕も熱を出して免疫を作っているのだろう。


TCAAはすでに2回目の公募を開始した。
TCAAは、選んで賞金あげて終わりではなく、色々と相談にも乗ってくれるし、並走してくれると思う。
もし、興味のある方は是非。

ご報告まで。

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沖縄に来ている。
2014年から始まったガラス製作のため。
1年に1,2回のペースで琉球ガラスの職人さんの工房にお邪魔しいる。今年も。
普通、展示の滞在制作でやってきたら、展示が終わったら、その土地との関係は切れがちだけど、
僕の場合、2015年の展示の時点でスタートラインにも立てなくて、悔しいので毎年通っている。
これは、地域芸術祭や参加作家の一過性を否定したいのではなく、
僕の場合、短時間でのスマートな作品へ落とし込めず、全然終わりが見えないだけなので、
本当に自慢にも何にもならない。本当にいつも悩んでいる。
無理に関わり続けるなんてホントお互いに良くないし。
でも、この島になんとなく顔見知りや行きつけがずいぶん増えたのは嬉しい。これは自慢かも。


[14歳と世界と境]について文章を書いた。
http://www.nmao.go.jp/publish/news232.pdf
文章は5ページ目にある。このプロジェクトに興味を持ってくれる方にはオススメ。


ただ、さらに、
そこでは書ききれなかったことやよく質問を受けることを少しここに書いておこいうと思う。
上の文章を読んでからの方が読みやすいです。

【無料である事の難しさ】
この1ヶ月で札幌と沖縄で朗読会を行なった。
どこかの会場で[14歳と世界と境]の本を僕が読んだりみんなで読む。
本は電気がいらないので、どこでも気軽にできるのは良い。
友人がスペースに呼んでくれたり、今後は河原とか公園でもやりたい。
朗読会というのを、生まれて初めてやってみているのだから、これが正解かはわからない。でもなぜ朗読会を行うのかというと。実は朗読会をしたかったわけではなく…この本を作りたい気持ちや本を旅させたい気持ちが、朗読会という形になった…のだ。
なぜなら、「この本は無料」だから。無料でもらえるものは無料の扱いを受ける可能性が高いから。だから、「イベントに自分で予約をして来てくれる人」に「僕がサインを書いて手渡しをする」ことによって、お金ではない何かを交換したいと考えている。実は今回沖縄ではたまたま誰かの誘いで朗読会に来ていた人がいて、その人は本を会場に忘れて帰っていた。ま、自分にモチベーションがなくて、無料となると悲しいかなそうなってしまうのだ。300部しか作っていない。会場の椅子に置いて帰ったり、家に帰って本棚にポンと置いてそれでおしまいではなくて。一人目だけでも、なるべくモチベーションのある人に手に取ってほしい、と。その気持ちは薄れていくにしても、回っていくうちに何人目かの誰がこの本自体から感動してモチベーションがまた現れるかもしれないし、自信作だし1人目くらいはしっかりと渡したいな、と思っている。そういう理由。
あと、他の理由としては、プロジェクト「14歳と世界と境」を香港の美術館で発表した展示の中で、この本の制作を思いついて、展覧会内で制作を行うことになった。そこで、展覧会の中で1冊ではなくて300冊の本を作る理由として、「これはパフォーマンスの道具です」という言葉で語った。それは「この本を人に配る方法」を決めた瞬間だった。本を使った下道のパフォーマンスとしての朗読会でもある。ただ、パフォーマンスも朗読会も未経験だったものとして、「この本を人に配る方法」を模索している。というわけです。


【なぜアジアなのか?】
もう一つ、「このプロジェクトは欧米ではやらないのですか?なぜアジアなのですか?」という質問への気持ちをかくと。
この本は、僕がシリーズ「torii」で、韓国をはじめとしてアジアの国々を何度も旅をしたり滞在制作をした時の経験や疑問から始まっている。それは、人と人はもちろんすべて分かり合えるわけではないを前提にしながらも、ただ、歴史などの”学校教育”の違いによって、政府同士でもないただの個人と個人のただの夕食のテーブルに時折登ってしまう、分かり合えないような関係性にもどかしさを感じること、そのようなそれぞれの国家によって植えつけられる”教育”を飛び越えて、いや、◯◯人と▷▷人という立場、さらに大人と子供という立場をぐるりと入れ替えて、お互いのことを考えられるような体験を作ってみたいと思ったのがきっかけ。
この本は、政府の悪口などは一切書いていない。トランプ?安倍?キム云々?そんなの一切書いてない。ただの14歳の世界の話。だから、政府に疑問を持とう!という方向性ではなくて、小さな世界の話をシャアする事で人々の気持ちを揺さぶってみようと考えている。子供の感覚から大人が影響されるような。
中国では他の国のニュースや新聞を持ち込む事は難しいそうだ。ただ、この本には何も政府を転覆を広めるための言葉は一切書いていないし、それを望んでいる方向すらない。だから、普通に自分の幼い頃を思い出して、誰しもが読めるただの本に仕上がっている。だから中国の人も普通に読んでほしいなぁと思っている。ただ、根っこには、学校教育の問題への疑問がある。でもそれは、自分自身の日本の歴史や道徳やその他学校教育に対する疑問でもある。14歳の言葉を隠喩として使って国家や政府の悪口を言いたいわけではなく、14歳の世界観に触れる事で、国境を飛び越えられる共有感覚があるのではないかという希望。
14歳は大人の常識を受け入れなくて最後に抵抗する時期。この頃の疑問に大人は答えられるのだろうか?


【マレーシアのWS】
そういえば、実はマレーシアでもこのプロジェクトは行われた。ただ、ちゃんとした新聞連載にはならず、新聞社の方針が強い状態での掲載になった。奥付の中に協力者の名前などは入れているが、あとがきの文章内に、マレーシアの文字が入っていないが、これはミス。台湾は括弧書きで書いていたし。

という事で。
ちょっとtwitterとか色々疲れるのでやめました。
facebookもやめたいのだけど、メッセンジャーをものすごく使っているから、やめられえない。。
だから、たまに「ここに」日記を書く方向は続けようかな。
少しオープンな日記帳みたいな。たくさんの人に読んでもらう必要はない。
自分の頭を整理しながら言葉にしたい。

以上

14歳の小さな風景/旅する小さな物語


 時が過ぎ、忘れられられてしまうような些細な日常を、記録しながら世界を旅して本にまとめてみたい。そんな活動に憧れていたのは大学時代に出会った『忘れられた日本人(宮本常一著、一九七四年、岩波書店)』を読んで以来だろうか。

 かつて、そんな表現活動に最も適しているのは「旅をしながら、雑誌に連載してプロジェクトを進め、最後に一冊の本にまとめる」という手法だった。大学卒業後に、旅をしながら制作した作品を手に様々な出版社を回った。そして一度だけ、雑誌連載と本の出版を経験した。ただ、僕が大学生の頃にはまだまだ元気だった雑誌や書籍はインターネットの台頭によって次々に出版が難しくなり、さらにスマホの普及で誰しもが日常を記録しアウトプットするような時代の急激な変化を肌で感じながら、表現手段を常に模索してきた。そんな中で、2012年に自分自身で小さな出版社を立ち上げ自ら本を作り販売を始めた。さらに、もう一つ、地域に根ざした芸術祭や展示への参加が増え、2013年よりそれらの枠内で、それぞれの土地の人々のインタビューを行い、それぞれ別の土地の新聞内に同じ連載を行なっていくことを始めた。それが「14歳と世界と境」というシリーズ。

 具体的には、様々な場所の中学校で特別授業を行い、授業の中で生徒たちに「あなたの日常にある境界線を探してきてください」という課題を出した。数日後、2回目の授業内で、彼らは日常の中から見つけたそれらについての文章を書く。彼らが書いた文章は、地元新聞の協力を得て紙面上に小さなコーナーを作り週1回の連載として発表した。彼らの小さな世界の境界線の話は国際問題などの大きなニュースと並んで発表される。

このプロジェクトは、あいちトリエンナーレ2013、アジアン・アート・ビエンナーレ2013(台湾・新聞連載は実現せず)、岡山芸術交流2016、光州ビエンナーレ2018(韓国)その他、香港や、今年(二〇十九年)はフランスで行う予定で進行している。生徒たちの文章を少しここで紹介したい(引用は原文のまま)。


・男女に違いがあるため、私は男の子と存分に遊べない。小さい頃はこんな感じはなかった。以前、ある男の子とすごく仲良くしてたが、いつも周りから付き合ってるみたいと言われたから、一緒に遊ぶのも気をつけるようになった。
(香港の14歳/将来の夢:看護師)

・僕は今まで犬を2匹飼ったことがある。一匹は、2年前にあの世に行って、一匹は1年前に連れてきて今飼ってる。今飼ってる犬を見るたびに死んだ犬のことが思い浮かぶ。死んだ犬によくしてあげられなかったから、今の犬にしてあげること全てが、死んだ犬を差別してる気にもなる。だけど死んだ犬は死んだ犬だし、生きている犬は生きている犬だ。死んだ犬に申し訳なさとして、今いる犬によくしてあげて、できることをしてあげるのが正しいと思う。
(韓国の14歳/ 将来の夢:小説家)

・僕は家で生物を飼うのが好きです。魚は飼ってもいいんだけど、この前に蛙を飼ったら、「汚いから飼っちゃダメ」と怒られました。なので、虫やカエルなどはこっそり裏の外で飼っています。
(日本の14歳/将来の夢:親の仕事を継ぎたい)

 中学生の心はいつも揺れている。その理由のひとつは、大人の社会の”常識”をまだ受け入れられない境界線の時期だからなのではないか。ただ、彼らはすぐに大人になり、”常識”を身につけていく。彼らの言葉にはまだ「常識に対する疑問や反発」がある。そして、彼らの小さな世界の境界線の話は、大きな世界の境界線を越えて世界を繋ぐ力を秘めているのではないか…。僕はこのプロジェクトでそれをすくいあげて形にしたいと思っていてる。

 2019年3月、香港の大館現代美術館でこの14歳のプロジェクトの展示をした際に、このプロジェクトを本にまとめることになった。日本語、中国語(繁体字)、韓国語、英語の4ヶ国語で読める本。300部制作。ただ、”販売はせず”、”朗読会を開き無料で配布する”ことを計画している。読み終わったら人から人へと手渡され、本が旅をする仕掛けを考えた。その理由は、中学生の文章を自分が売り物にすることへの疑問があったし、何千部も本を印刷してその本がどこかの誰かの本棚に並べられて眠ってしまうよりも、印刷は少部数でも特定の誰かが所有しないシステムを考えた方が本がより生きてくるのではないかとも考えたから。特定の空間に結びつくことがない図書館の蔵書や美術館の作品みたいになってほしいが、果たしてうまくいくだろうか。まずは、香港から50冊が旅立った。
もしかすると、ある日、あなたの元に誰かからこの本が巡ってくるかもしれない。その時は少しの間を共にしていただけたら。

(「国立国際美術館ニュース232」掲載)

中国に来た。
2010年の「torii」の取材以来、もうあれから8年くらい経つだろうか。あの時はで、北京経由で長春に5日ほどだった。
今回は「大連」から入り東北方向へ電車で移動していく。北朝鮮との国境の町「丹東」、そして「瀋陽」、旧満州の首都だった「長春」、そして「ハルビン」と、2週間の中国東北部の旅。中国は、現在15日以内はビザが要らないので、今回、急なスケジュール変更で空いてしまった6月下旬の2週間でこの旅を決行することにした。
今回、フィルムカメラとデジタルカメラ、三脚と取材の構えではあるが、撮影を決めているのは、新たに見つけた「torii」が2箇所のみ。正直、最近、ただただ”旅”に身を置いてみたい、と常々思っていたのもこの旅に踏み切った理由だ。それは、日々googleやtwitterやfacebookやニュースサイトに時間を支配され過ぎていて自分から発見する能力の退化を感じることや、知らない街を歩いても開放感がなく逆に製作の”ネタ”を探しているような感覚を覚えてしまう自分の癖に嫌気がさしていた。つまり、旅や散歩自体が仕事になっていく感じ。旅は、出会いと創造の泉だ、ただプロの旅芸人にはなりたくない。だから、今回はただただ”旅”に身を置いてみよう、と。いや、実際それは可能なのだろうか。中国は、基本、googleやtwitterやfacebookやinstaも使えないのは好都合。
ただし、どこへでも行っても良い、では、どこへも行けない。タクシーに乗って大金を渡して「運転手さん、どこかへ連れてって」と言えば別だが、電車でもどこどこ行きのチケットは買わないと行けないわけだし、あてもない旅はなかなかあり得ない。だから、今回は新しく見つけた「torii」の撮影を2箇所の”目的地”にしながら(この2箇所のみの撮影なら4−7日間あれば済むが)、少し範囲を広げて「旧満州」を彷徨うことにしたのだ。目的地は点であって、旅は線だ。点がなくては線は引けない。道端で何と出会うかが重要ではないか。「旧満州」を選んでいるが、今後のテーマに何かを行う予定は全くない、ただ、自分が反応しそうなキーワードが多い場所を選んでだらここになった。例えば…、「周縁」「境界」「カオス」「生活感」「無名の」「歴史と現在」「近代と戦争」「モニュメント」「デジタルデトックス」「はじめての場所」「二度目の場所」など…。 だから、これはただの中国の旅であり、どこでもない場所に身を晒して、この自分の目や体が何に反応するかを確かめるのだ。もちろん何も期待していないと言ったら嘘になる。新しい何かと出会いたい、作りたい、生み出したい、そういう強い気持ちが根底にはある。ただ、残念ながら(幸運にも)、今は手元に何もないのだ。製作の種のようなものが。

僕はお気に入りの公園と河原を近所に持っている。
ボォっとしたくて、本とコーヒーを入れた魔法瓶を片手にそこに向かうんだけど。
平日の日本の公園や河原って、仕事や家のないおじさんしかいなくて、つまり居場所のない人の集まる、居心地の良くない場所だなぁと感じることが多い。
外から見たら俺もそう言う風景の一部に見えているんだろうなぁって思いつつ。
こう言う場所が好きだからゴロゴロと時間を使いに行く。

2009年、フランスにいる時。公園や河原はキラキラしていた。
自由を感じる贅沢な場所だった。
帰国して、お金がないけど時間だけあるときに、自宅の近所の公園にふらりと行って愕然とした。
その居心地の悪さに。
ただ、それでも、探せば、素敵な公園や河原はある。
なんの変哲も無い公園や河原。でも、整備された遊具とか花壇とかではなく、なんとなく、草原のようだったり、素敵な木が木陰を作っていたり、なんと言うか、こちらの持つ時間が入れる余白のある感じ。
でも、そう言うところには先客もいる。
ただ、そう言う良い場所を知ってるそう言う人は、その素敵な余白を知っているのか。社会から虐げられている負のオーラではなく、自分でその自由を満喫している人も少なくない。
フランス語で言うならヴァカボンドか。
ぼぉっとしていて、小学校が終わる時間になると、子供たちがワァーっとやってきて空気がまた変わる。

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photo: ArchiBIMIng

先日、ヴェネチアビエンナーレ日本館での展示がオープンした。
内覧会を体験してきたので少し書いてみようと思う。

感想を、本当に馬鹿みたいに素直に書くと、
”美術に関わる人や美術を愛する人の熱量を肌で感じた”時間だった。
いや、本当に贅沢な体験だった。
その贅沢というのが、オープニングとかの華やかさ…、という意味ではなく、人々の熱量や空気感が。
僕たちの展示の会場から出てきた人が「あなたたちの展示!素晴らしいわ!!」と全身で伝えてきてくれたり、たくさんの熱い質問を投げかけられたり。なかなか、日本では体験しない感じ。僕たちの作った作品/装置/体験を様々な形で受け止められ返された、心に残る3日間。(噂では聞いていた、関係者を集めての夜な夜な行われるディナーパーティーなどは開かず、設営や下見からずっとそうだったのですが誰かの部屋に集まり、みんなで料理をしてワインで語り合う合宿のような日々を過ごしましたが、これもこの上ない贅沢だった。)

僕たちの展示自体、それぞれ個人の制作物をベストな状況で見せる、というのと同時に、一つの15m×15mの空間でコラボレーションや共同作業を形にするか、そこに結構神経を使って制作もしてきました。展覧会を見た人から、その繊細に進めてきた展示に込めた様々な箇所がかなり伝わった上で質問や反応されていたことにまず驚いたし、さらにほかの国々の作家との間に同時代性の問題意識などを感じられたり、特に作家同士の会話では言葉を超えて伝わる感覚もあったし、美術という”仕事”の奥の深さを引いた目線で自分の肌で感じたことは得難いものだった。

展示の内容自体は、それぞれ個人が作り出した映像と音と物語/文章が空間内で混ざり合って一体化したもの。それぞれが別々の存在として独立してグループ展のようにも感じたり、逆に一体化して一個の映画のようにも感じられなくもない状況。ただ、映画のように一本のタイムラインに、映像と音やテロップが一体化したものではなく、それぞれがそれぞれの時間を持ちながら干渉しあって一体化している状態で観客はいつ来ていつ見て帰っても体験できるものになっているだろうし、建築家がメンバーにいる事で展示空間である建築物により深く関わりを持ち、”ここだけ”の体験になっていたら嬉しい。

キュレーター(服部浩之)と作家(下道基行)と作曲家(安野太郎)と人類学者(石倉敏明)と建築家(能作文徳)のコラボレーション自体がキュレーションの中心になっている。そのキュレーションのその実態は、未来に起こるかもしれない化学反応による新しいクリエイティブのための人選(種まき)と対話と共同作業(水やり)。それは個展やグループ展とは違う場所に力点があると思う。僕が2015年から制作してきたシリーズ「津波石」を起点に、様々な形で一緒に津波石を見に旅をして、作曲家はその旅で聞いた鳥の囀りから作曲をはじめ(ゾンビ音楽という自動リコーダー演奏器自体は彼がずっと行ってきたこと)、人類学者は津波石の存在する周辺の島々で神話を集め、建築家は日本館と言う建築と建築家に敬意を払いながら建築空間と対峙し、日本館という一つの空間内で新しい作品/体験として組み上げるというものだった。個人的にシリーズ「津波石」自体は、すでに完成間近であったが、人類学者の石倉敏明さんと2度石垣島や多良間島を二人でフィールドワークできた体験はこのシリーズ「津波石」を作る過程の中で、僕自身の考え方に大きな変化と新しい挑戦の余地を与えたし、日本館の空間内で建築家の作ったスクリーンに投影され、安野くんの音と石倉さんの文章と混ざり合った瞬間に、”作品”は新しい何かへと変化したように感じた。

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photo: ArchiBIMIng

今回、ヴェネチアの日本館で展示することが、日本代表のような立ち位置になってしまうことや、帝国主義的な磁場がある場所であること、僕のようなアウトサイドな作家がそのような舞台に立つこと自体、正直、本当に自問自答し続ける1年だった。今でも。
(さらにいうと、コンペでは僕ら以外のプランは見ごたえのあるプランもあった。僕たちのプランが採用されたのは、様々な”タイミング”の問題であり、幸運だったとしか思えない。例えば、「これまでの数回、中堅の個展が続いていたこと」もあっての、僕らの実験的なプランが採用されたのでは無いか?)
今回の日本館での展示は、今この国を代表する作家の個展やキュレーターが論文的につなぐグループ展ではなく、誤解を恐れずにいうと”様々な種の周縁の者たちが集まり一緒にバンドを組む”ような実験的な現場だった(メンバーの皆様すみません…)。
日本館の空間の中ですべての要素が一つになった時に、「(ほかの完成の形もあったかもしれないけど)これ以上ない一つのベストは出せたな」と感じたし、他のメンバーの顔にもそれが見えたように思った。自分の手を離れ、新しい作品が生まれてきた瞬間でもあった。バンド的に言うとみんなの音が一つになったグルーブ感。まとまらないで崩壊する可能性だってなくはなかった。奇妙なグループ展にも個展にも見えてしまうようなまたその逆のような、新しい展示のあり方や体験を日本館で実験する機会。なかなか理解されづらいだろうが。それは、美術館ではなく、レジデンスの学芸員としてずっとキャリアを積んで、これまで様々な新しい作家同士の出会いや化学反応を起こすことを喜びとし、これまで自らの仕事をしてきた服部くんにまんまと乗せられ、まんまと何かが生まれたな…と、その時同時の感じた。(賛辞として)
正直、鑑賞した人から「展示良かったよ」と言われると、自分だけの作品ではなく、バンドの一人のメンバーとして、それを受け止めるみんなに伝えるだろうし、この感覚は初めての体験かな。僕=津波石映像はなんだろう、やはりベースかな。だから「このベースライン最高」と言われると自分だけの喜びかもしれないし、もし誰かに「歌詞が良かったよ」と言われると、ボーカルに伝えるように石倉さんに「褒められてますよ」と伝えるだろう。

さらに、展覧会にはオープンに合わせて、制作や思考のプロセスを入れたカタログを制作した(デザイナー:田中義久)。映画のパンフのように鑑賞後に手にしてほしいと、会場では安く買えるようにした。これも重要な展示のパート。さらに、この展覧会終了後にも、もう一冊出したいと思っている。これは、今回のこの日記のように、展示が始まった後から始まる思考や、展覧会中に様々な人によって語られた事をさらに受け止めた上で言葉にしてく作業を計画しその為に、展覧会終了後に発行する文章メインのカタログ第二弾も出版を進めている。
帰国展として行う2020年アーティゾン美術館(新ブリジストン美術館)にもご期待ください。ヴェニスの展示をそのままは持っていけないので、かなり別の展示になると思います。
両方見ていただけたら、なお嬉しい。
本当にメンバーやスタッフや協力者、内覧会に駆けつけてくれた方々に感謝です。

【赤瀬川原平インタビュー [横浜市民ギャラリーあざみ野] 10:43-】

●トマソンの面白さについて

” 一般の人はそれを見ていないわけですよね。
(それは)「最初の観客」であって。
ということはね。
作者に限りなく近いんですよ。
絶対に作者にはなれないんだけど。笑 ”

https://www.youtube.com/watch?v=80hNQKGL3t0

大学で実際に行った授業を書き留めておく。

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映像実習 
A芸術大学 芸術学専攻2年
「人の話を聞きに行く−インタビューの実践−」
下道基行(写真家/美術家)

ミッション
芸術学専攻2年生6人に、映像(ビデオカメラや携帯や編集ソフトを使い)を実際に使用して、撮影・編集し映像を作る体験を作る映像実習。何を作るかの内容は任されている。1日2コマ3時間、週2回×3週間。

内容
まず最初に、もうすでにビデオカメラではなくスマートフォン(スマホ)でみんな普通に動画を撮る時代であることから、スマホを使うことを学生に提案。
そして、僕自身が作家として生徒たちと一緒に行う内容を検討。“映像を作る体験”で生徒が何を得られる授業になるのだろうかとも考える。そして、編集の面白さとか技術的な何かではなく、動画を回す事自体やその中の会話、撮影した後に動画を編集するためにもう一度向き合う事、そういう中で自分自身に何かの成長やフィードバックが起こることを目標にしようと考えた。そこで、テーマは「話を聞いてみたい誰かにインタビューを行う」ことに決定。
まず、僕自身、彼らの事を知らないこともあり、自己紹介も兼ねて、2人組×3になって、相手に対して30個の質問を考えてもらい、学内の好きな場所で、お互いに10分程度の動画を撮影してもらう。上映会は、動画は編集なしで携帯のままプロジェクターにつないで、みんなで鑑賞。学生たちからは、「自分のインタビューが恥ずかしい」「○○の知らない部分を見ることができた」「人の映像より自分の映像は相手の言葉を引き出せなかった」「動きながらインタビューすることと、座ってインタビューすることの違い」など感想があった。さらに同じテーマで撮影された6人それぞれの映像を見ることで、それぞれの撮影やインタビューの良い部分と上手くいっていない部分が際立って感じられる体験になった。
その後、下道自身が美大生時代に民俗学の授業が好きだった話、宮本常一「忘れられた日本人」を例に挙げて、“なんでもない普通の人のインタビューの面白さ”を話す。さらに、村上春樹と柴田元幸の対談「翻訳夜話」(新潮文庫)を例に挙げて、“翻訳やインタビュー、さらにその編集や書き起こし作業はその対象を自分の血肉として自分の中に取り込むより深く理解し成長するひとつの手段”であることを話す。次のインタビューの対象は、各自「自分が何かを知りたい相手」にすること。その後、映像人類学者・川瀬慈さんの映像インタビュー作品「僕らの時代は」を鑑賞。みんなで映像やインタビューについて討論。
最後の2週は、各自「誰に」「どのように」「何を聞くか」を考えて、実際に撮影し、編集して30分程度のインタビュー動画を制作。最後の日に特別講義室を借りて上映会。感想を話す。
通常、 インタビュー映像などは「新刊や展覧会のための作家にインタビュー」とか、何かしらインタビューする側とされる側、さらにはそれを受け取る側に、理由がはっきしりしていることが多い。ただ、今回の実践では「自分が知りたいことのため」に、“インタビュー”を口実に相手にいつもより深く話を聞く挑戦であった。そのために、他人が見て楽しめるような映像には仕上がっていない。しかし、彼らが芸術学を行なっていく上で、何かしらの仕事をする上で、“人に話を聞くこと”はいろいろな場面で生かされるのではないかと期待する。

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という授業内容。
前回のいう①の人間として、考えに考えたがこんな内容の授業となった。。
生徒の中に何か残る授業になったことを祈る。。
以上

先輩から聞いて心に残っている話がある。そこから、日記を書き始める。
それは、アーチストには、ざっくり2種類のタイプがいるのでは?という話。
①「誰からも頼まれていないのに作るタイプ」
②「場所や企画やネタが与えられてこそ作るタイプ」
という。
そう考えると、
①は、それをやらないと生きていけない、先へ進めない。という製作と生きることが一体化している。
②は、それをやらないと生きていけないわけではないが、ある意味でドライに自分のことを見ていて、仕事としてプライドを持ちながら製作している。
かもしれない。
さらに、
①が作る作品は、言葉にできないのパワーを秘めていることがある。つまり(しかし)、ロジカルではないことが多い。
②が作る作品は、ロジカルに製作が進められることが多い。全てが言葉で語れてしまう作品も多々ある。それが良いか悪いかは置いておく。

で、おそらく。普通に美大に行って、アーチストになる人の多くは、②ではないか。下手すると、①はアウトサイダーアートとの違いが難しい場合もあるし、美大の美術学科とかではなくても生まれてくる。
①は、製作するモチベーションが終わると活動も終わる可能性がある。
②は、自分のスタイルが確立できていれば、外からネタさえ提供されれば、ボケられる。つまり、飽きられない限り、活動は仕事として続けられる。

限りなく100%に近い①の作家を何人か知っているが。色々なアーチストが①と②とが綺麗に分かれているわけではなく、①的傾向の強い作家であっても②は持っているだろうし、その逆もある。

では、美術大学の先生はアーチストが多いが、大学で教えてもらうなら、どちらが良いだろうか?
やはり②?

実は、明らかに①寄りの僕は避けていたのだが、
今月の1ヶ月だけ、「映像実習」という授業を教えることになり、家から車で20分にある芸術大学に通っていた。この授業を受け持つある方がどうしても滞在制作で1ヶ月大学に通えないので代わりにできないか?という流れで。

(続く)

instagram&twitterを停止してみる。
facebookは連絡手段としてだけ残してみる。
twitterではなく、この自分のサイトに日記を始めよう。
instagramではなく、自分だけのスナップをアップするサイトを作ろう。
リュックに荷物とカメラを入れて旅に出よう。
電車に揺られてインドの最南端を目指す。
自分の目で見に行こう。
本を片手に。

53439554_10157028344014709_5666914055185498112_n.jpg 念願の出版社からの初めての写真集「戦争のかたち」が出版できたのは2005年。3000部。初版印税なし。もちろんこちらが印刷などを支払う必要はなく、赤字にも黒字にもならなかった。たくさんの人に見てもらえたし、たくさんの反応が返ってきたし、素晴らしいデビューをさせてもらった。それから10年、その写真集は、ようやく3000部を全て売り終わり在庫もなくなり、めでたくこの本はSOLD OUT(再販はなし)となった。担当編集者の方に久しぶりに連絡を入れ挨拶をした。 2005年からの10年、「日曜画家」「torii」と新作を完成させて、出版社を回ったが出版には至らなかった。小さな出版社を立ち上げISBNを自分で取り自費出版という形で模索を始める。「日曜画家」は会社のコピー機を安く使わせてもらい友人たちに製本作業を手伝ってもらって、2010年に袋とじの本を作った。ナディフなど本屋さんに直接持ち込みをしておいてもらうと意外とすぐに完売。何度か再製作したが、あまりに大変で割に合わなすぎるので”SOLD OUT”となった。(秋山伸さんに初めてお会いした時にこの本をとても褒めてもらった記憶がある。) 次にシリーズ「torii」は同期の武蔵美のデザイナー橋詰くんや富山の印刷会社さんと一緒に、初めて自分の作りたい本を作りたい人と全力で作りたいように作って販売した。2012年。とても貴重で興奮する経験だった。150万円くらい自腹で払って作った(のちに岡山県からの支援があった)から、自分で本を売れる場所を開拓していった。たくさんの人が買ってくれたし、光栄にも賞をいただいたりして、1年くらいで制作費は返済し、その後はちょこちょこウチの家計を助けてくれているし、現在は在庫も少なく完売は近い。その後、「torii」と同様に、自腹で「Dusk/Dawn」と言うシリーズを写真集にもした。同世代の優秀なデザイナー木村さんと激論しながら作ったハードコアな本は、素晴らしい完成度で挑戦的な内容。ただ、いまだに売れ行きが伸びず、家の一角に段ボールの壁として幅を利かせている。いつか売れ始めるだろう。笑。最後、シリーズ「bridge」の本は、これまた同世代のデザイナー丸ちゃんとのコラボで、60mの蛇腹の本。二人で制作し製本し、全て折半することにして、話し合っていくと1冊20万円でエディション5冊の本になった。4冊売れて残るはあと1冊のみ。これもすでに利益を出している。

と、ここまでは自分が頑張ったとかという思い出話ではなく前置きで、話はここから。
なんと言うか、一冊づつ、作り方や売り方や存在のさせ方、さらにはコラボレーションの時間や経験を考えながら、本づくりを行って来れた事は、展覧会を作るのと同時並行して、素晴らしい制作の経験。毎回感動するし、成長させてもらう。
写真を撮り作品を作る僕には、本はいまだに大切な表現の一つだ。ただ、時代は常に変わっているし、こう言う時代に生まれてしまった。大学生の頃、初めての一人暮らしで、吉祥寺のビレバンに行って雑貨や本に囲まれた生活に憧れたり、本を買ってきて本棚に並べ、CDを並べたりして行くことが自分の知識や豊かさが増えていくような感覚だったが、その感覚はインターネットやスマホによって一気に壊れていった気がする。2009年、本棚の本を図書カードを付けて、旅に出してみた。そう、今も本棚にはお気に入りの本があるけど、読み終えてから一度も開いていないし、だから、たまに友人が泊まりにきたら欲しい本はあげることも多いし、もう、自分自身が写真集をこの何年も買っていないことに気がついて、自分もそれを作ること自体に疑問を持っている。

今回の「14歳と世界と境」は、美術館の展示として、ワークショップを行い、地元新聞で連載記事を作り、本を作った。さらに展覧会終了後に、本の朗読会を開き、本を無償で配った。「読んだら次の人に渡して欲しい」と言うルール付きで。香港の人々からは「そんなルールはすぐに破られて、本の旅はすぐに終わるだろう」と指摘が多いが。そう。ルールのあるのは良くないし、すぐに無視されて、売られたり、所有されたり、忘れられるし、そう言うのを僕はコントロールできないししたいとは思わない。ただ、中学生の文章は僕は本当に素晴らしいと思うし、この彼らの文集を売って商売にする気もないし、上に長々と書いたように、いっぱい印刷していっぱい売る気持ちもないし。読みたい人の手に渡り、読みたそうな人の手に渡って欲しい。図書館と言う空間のない図書館の蔵書みたいに。
思い出してみる。1冊目の写真集は3000冊、10年で売れた。3000冊を手にした3000人。きっと誰かの家の本棚に置かれていて何年も開かれないのだろうか。
今回の14歳の本は、300冊のみ。多分、期待として、最低1冊の本は3人くらいにはまず手渡されるかもしれない、そうすると900人。これは写真集「torii」や「Dusk/Dawn」と同じ冊数になる。さらに、10人の手を解すると3000人。そう、最初の本「戦争のかたち」くらいの人々が色々な場所で無料でこの本を読むことになる。そのくらい行けないかなぁ。ま、これは僕の勝手な希望であり、実験。でも、本当に内容は良いと思う。とりあえず、50冊が香港に旅立ちました。

「無料」と言うのは、人をいい加減にさせたり、逆に、無理強いさせたり、するだろう。けど、この本の文章に感動したり、心が動いたら、次へ先へ本は進むかもしれない。
そして、このインターネットの時代に、4カ国語の本を作る。google翻訳、あるよね?って言われるけど。それは意味の理解を助けるけど、中学生の書いた、たどたどしいけどみずみずしい文章を訳せるだろうか。いや。たくさんの翻訳の方に関わってもらって、贅沢な体験だった。なんでもインターネットでグローバル、ではない。今、逆のことが起こっているし。この本はインターネット的だけど、古い時代からやってきた。だから、インターネット以上に境界線を越えるかもしれない。

知り合いの方に、「宣教師みたいですね」と言われました。すると、この本は経典か何か。。。うーん。確かに、無料にするとそうも言えるかも。妻に話すと「中二教」とか馬鹿にされた。。笑 ま、いいのではないか、「中二教」の経典で。普通の中二に教えられる世界のあり方。でも、これは、何かありがたいことを教える完成された存在ではなく、揺れ動く中二の境界線の話。正しい事は書かれていない。
どっちが先にレーダー打ったとかやりあって、顔も見えない距離で傷つけ合ってる隙間を縫って、顔が見える人から人へすり抜けて、ね。
すみません。ついつい、最近、前へ前へ制作をしすぎてて、思考が追いつかず、頭がパンパンになていたので、文章化してクールダウンさせています。
ふーーー、、、もう昼か。
では。


自分ももうすぐ40歳になるのに、ひとり南の島の安宿の布団に寝転がり、深夜テレビをつけてごろりとしてる。テレビの向こう側では、たまたま大阪西成の知人の活動がドキュメンタリーとして放送されていて、土地に何年も根を張り続けてきた活動に敬意を感じ見入ってしまう。

こちらは、根無し草の生活が続いているのだ。この10年間、1週間なんてサイクルもほぼ存在しない。数週間、何もないとかもざらだ。幼い頃から学校教育とかでたっぷりと仕込まれた”日本人の大人として社会人としての生き方”を、逸脱し続けることは容易ではない、不安がないと言うとウソになる。でもそのストレスを吹き飛ばす幸せを感じることもたまにあるし、なんとか生きている。この自分でも想像もしなかった実験のような生き方をもう少し続けていこうと思っている。

 ”私は思う。人間は本来怠け者、横着者なのだ。だいいち文明というのは、物質的な豊かさのためでもあるが、ひとつは楽をしようとして進歩してきたのではないだろうか。必要は発明の母というが、怠惰は発明の父といってもいいのではないか。 私たちの社会では、楽をしたいために、先人が頭をふりしぼって努力してきた。それなのに手段であったはずの労働だけがいつのまにか目的となり、それが美徳になってしまった。
『ぐうたら原始行』関野吉晴/1974年”

今回の旅に持って来た本にはそんなことが書いてあった。

そう言えば、小学生の頃に文集に書いた「夢」の事を思い出す。夢は8個書いてあって、その中に「ふつうのかていでよい」というのがあった。「普通の家庭で良い」。普通とはなんだろうか、今でもふと考える。
”私たちの社会では、楽をしたいために、” 先人たちは、常識的な生活を生み出し、なるべく考えなくても悩まなくてもいい生活や慣習を作り上げて来た。そういう”普通”というのは強固だ。でも、その叩き込まれた”普通”に疑問を持ち考えて実行し続けていく先に、自分にとっての本当の”普通”がある。
のかな?笑


(2018.10.18 少し秋を感じる那覇)

津波石


あなたがいつどこからやってきたかたずねることはしません
ただ、その静かでおごそかなまなざしに、耳をすまします

鳥たちはあなたのまわりをせんかいし祝福し、あなたの頭上に巣をつくり
よりそうことで、深いアンドをえています

人はあなたのその堂々としたたたずまいに驚嘆し、意味を付与し、祈り、
モニュメントにし、記念撮影をします

ただそのすぐあとに、鳥たちも人も、歴史といういとなみも消え去り
漠然とした、時間以前の時間があなたのまわりをふわふわとただよいます

はげしい風と波があなたの体にごうごうとうちつけ
太陽があなたの肌をじりじりとやきこがし
そのからだを削りとるでしょう

しかしただ、その静かでおごそかなまなざしが、世界をじっとみすえるだけ

世界?それは人によってつくられるようなシステムでも、ちっぽけな平面的な広がりでもなく、とほうもない時間以前の時間のひろがり、人々の祈りが、
あなたを規定するまえのひびきあい

あなたがいつどこからやってきたかたずねることはしません
ただ、その静かでおごそかなまなざしに、耳をすまします

川瀬慈

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Anthro-film Laboratoryという企画で、大阪の国立民族学博物館で映像「津波石」の発表と討論を行なった。
”Anthro-film Laboratoryは、文化人類学、映画、アートが交叉する実践のなかで、言語に依拠するだけでは伝達されえない知や経験の領域を探求し、人文学における新たな知の創造と語りの新地平を切り開くことを目指します。” という川瀬さんが企画する研究会。
映像を見た翌日、川瀬さんから「詩」を頂いた。映像からインスピレーションを受けたという。


ーカメラとスコップー

 僕は旅をしながら写真を撮影して作品を作っている。ただ、文章も書くし、物も集めて展示もする。写真家と美術家の間というよりは、いろいろな境界線の上から別々の価値観のものを繋ぐことを制作としているように思う。
 大学では油絵科に在籍していたので、現代美術というのに触れる機会は多かったが、卒業後に絵筆からカメラに制作する道具を持ち替えた。カメラは独学だった。撮りはじめて2年ほどたった頃、写真の学校に通ってみた事はあった。そこで出会った若き写真家たちには、デジタルの波が押し寄せ、“写真”という存在が激しく揺らいでいる時期でもあったので、何を写すか以上に、カメラ/写真という道具をどう扱うか、ということに関心が集中しているように感じた。ただ僕はと言うと、ストレートに“記録として”カメラを選択したばかりだったこともあり、自分だけが何か時代遅れの場所からやってきたような、場違いな所で居心地の悪さを感じた。
 幼い頃、瀬戸内の小さな海沿いの町に住んでいた。考古学者になりたくて近所の貝塚にスコップを手に穴を掘りに行ったことや、隣の空き地にでっかい大きな穴を友人と掘ったこともある。スコップで地面をザクザク掘ると色々な時代の地層や思いもよらない物とぶつかる。カメラを手に旅をして風景写真を撮影するようになって以来、僕にとってカメラはスコップに近い道具なのかもしれないと徐々に感じるようになった。目の前の風景には時折様々な人々の生活の蓄積が地層のように見える事があり、そこのある時代だけを視覚化するにはカメラは良い道具かもしれない。視覚化するには、ただ写真を撮るだけではなく、集めて選んで並べる必要がある。一枚の美しい写真を撮影することが大切に思われがちかも知れないが、「撮って集めて選んで並べる」この行程がとても重要だと思う。
 現在僕は、デジタルとフィルムの3種類のカメラを使っている。6×7、4×5、デジタル一眼レフ。これは全くの我流だし、今まで人に話した事すらなかった。ただ今回「フィールドワークとカメラ」というお題が与えられて考えてみると、色々な作品シリーズを作る度にカメラの種類を毎回変えてきていた。改めて作品を順に追いながらカメラと旅と表現について自分なりに書いてみようと思う。

・ シリーズ『戦争のかたち』(2001-2005年)
 ある日、東京郊外で戦争の廃墟を見つけた。それが数ヶ月後に壊されて駐車場になっていた。シリーズ『戦争のかたち』は、日本全国に残された、砲台/掩体壕(飛行機の格納庫)/トーチカなどが様々な場所で新しい機能として使われていたり、今の風景に混ざっている様子を撮影したシリーズ。雑誌『Spectator』での連載後、リトルモアより写真集になった 。
※写真1(キャプション)トーチカ/北海道 シリーズ『戦争のかたち』より
 僕はこのシリーズの為にはじめてカメラを購入した。写真をやっている友人に建築物を中心にした「風景写真」を撮りたいと相談すると、価格とクオリティと機動力を考え、【中判カメラ】Pentax67を勧めてくれた。このカメラは、フィルムが35mmカメラよりも大きいサイズで写真の粒子が細かく引き延ばしても美しい。Pentax67は中古品がかなり多く出回っていて安価だ。デジカメはCCDが本体に内蔵されているのに比べ、フィルムカメラはどんなに古いカメラでもフィルムさえ新しい物を入れれば、更新されて行くのは良い。
 中判カメラとフィルムをリュックに入れて日本中を巡った。道なき道を彷徨うこともあるので自動車では機動力が悪くバイクが適していた。写真もバイクも風景とコンタクトする為のメディア。その頃、別の仕事をしていたので、1年に2回2週間くらいの休みをもらい、取材旅行を重ね、このシリーズは2005年に完成した。
 フィルムは、ネガとポジ、そしてカラーと白黒などいろいろなもので実験してみた。ドイツ写真の大御所ベッヒャー夫婦の給水塔の写真への憧れもあり、白黒のフィルムやタイポロジーも挑戦してみた。ただ違和感を覚えた。白黒写真とコンクリートの建造物の相性はとても良く、建物の機能美をよりシャープに切り取るのに効果的だった。ただ、“今の日常風景の中に突然ニョキッと現れる軍事的遺構が見えてくる風景”や“戦争の為に作られた超機能的な建物が機能を失い、新しい機能を与えられて残された建造物への興味”をより拾い集め並べる為に、白黒ではなく、徐々にカラーのネガフィルムで撮影し暗室で焼く方法になっていった。暗室作業は絵画をアトリエで描く作業に近く、自分の見た風景ともう一度出会い直す、大変に特別な経験で、これがなければ写真にハマらなかっただろう。今だと貸カラー暗室もフィルムも減少しているしデジタルでもしっかり撮れるから別の表現になったかもしれない。記録の道具の感覚や表現は日々変化している。
 白黒写真は「いつの時代かわからない」時間の止め方をする。それは、色が欠如している分、人々それぞれに想像する余地が多く残されているからかもしれない。使い方によっては記憶色にもなる。カラー写真はより情報量が多く説明的とも言えるかもしれないが、僕は当たり前な感じの日常のごちゃごちゃした雰囲気が気に入っている。
※写真2(キャプション)掩体壕/宮崎県 シリーズ『戦争のかたち』より

・ シリーズ『torii』(2006-2012年)
 シリーズ『torii』は日本国内の遺構を巡ったシリーズ『戦争のかたち』の旅の延長線上で“日本国外”に残された日本植民地時代の建物を見に行ったりして、日本の外側に残された建造物を調べ始めたことに始まった。実は、『戦争のかたち』を写真展にした時、写真に“ユルさ”を感じた。それはレンズや撮影方法やプリントの問題だった。『torii』ではより硬質で均一な写真を作り、大きく引き延ばした展示や自分が好きな写真集らしい写真集を最終イメージとして目標を定め、【大判カメラ】を購入することにした。このカメラは箱状で蛇腹が付いていて、カメラの後ろから暗幕を被ってのぞいて写すようなカメラ。特徴は、フィルムが中判カメラよりもさらに大きく、粒子の細かい美しいプリントが仕上がること。そしてあおり機能で建物の水平垂直で撮影できること。あと、カメラ自体が非常に大きく機動力がない(手持ちは非常に難しい)ので、自然とゆっくり風景と向き合って撮影することになる。撮影の行程は、まずはカメラを組み立て、三脚を立てて、暗幕を被り、構図を見て、ピントを合わせ、フィルムを入れて、風景を見つめ、待ち、シャッターを切る。カメラの大きさや機動性は仕上がる写真の印象とも非常に関係があるといえる。手持ちのカメラや小さいカメラでは、写真もラフに写りやすいが、この大判カメラは、三脚に乗せて写し描写力もあるため、写真もカチッと硬めの印象になる。それは、レンズや水平垂直などの理由もあるが、カメラが写す人の気持ちを反映する道具であることも関係している。感動しながら写された写真からはその感動が伝わってくることもあるし、大きなカメラで風景の美しさや時間の体積を感じながら、ゆっくりとシャターを切る感覚も写真には写るものだと思う。
※写真3(キャプション)サハリン ロシア シリーズ『torii』より

・ シリーズ『日曜画家』(2006-2010年)
 シリーズ『torii』と同時進行で進めていたシリーズ『日曜画家』。国内の、特に関西近辺に散らばっている祖父の絵を探し、その飾られている風景を撮影した、とても私的なシリーズ。このシリーズは、当初『torii』と同じ【大判カメラ】で撮影を始め、途中で【中判カメラ】に変更した。写真4と5を見て比べると何かが分かるかもしれない。写真4は大判カメラで撮影した初期作品、写真5は中判カメラで撮影した後期の作品。
※ 写真4(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
※写真5(キャプション)シリーズ『日曜画家』より
 シリーズ『日曜画家』は、祖父の記憶を探す事とともに、風景絵画をカメラでリフレーミングし入れ子状の風景写真にすることをコンセプトにしていた。写真4は『torii』の鳥居と同様に、“主人公”である祖父の絵画を中心に置き、引きの構図で硬質に空間を捉えようとしているが、この手法だとなんだか面白みに欠けるなぁと徐々に思うようになり、中判カメラに持ち替えた。硬質な写真からラフで柔らかい画面づくりへシフトダウンさせた感じ。ただ、Pentax67よりもより軽量で手持ちの撮影のしやすい中判カメラMamiya7Ⅱを購入。中判のカメラは非常にボケ感が美しいという効果があるが、手持ちで撮影するのと、写真の “硬さ”も変わってくる。これは僕の個人的な思い込みかもしれないが、思い込みも写真は吸い込むようにして画面に定着してしまう。
 そう考えると、フィルムカメラでもデジタルカメラでもどちらでも良い。ダサい服装だと気持ちが乗らないように、自分がかっこいいと思うカメラであることも重要かもしれない。そして、フィルムカメラを旅に持って行くと、常にフィルムの残り枚数や本数を考えておかないといけないし写したイメージも見られないのデメリットは大きいが、一枚一枚への「気持ち(緊張感)」は自然と増して行くメリットもある。だから、最近でも納期のないふらりとした旅などはフィルムカメラを持って行く。撮った写真は撮影してから1年後近く放置してから暗室で焼いてみて、作品が動き始めた事もある。フィルムはそういった小さなタイムカプセルのような体験ができる。

・ シリーズ『bridge』(2011)
 このシリーズ『bridge』は2011年3月11日の震災の数日後、あぜ道に架けられた木の切れ端が橋のようになっているのを見て、「美しいなぁ!」と思い、【デジカメ】で写したのがはじまり。小さいけど感動が乗って写真をシャッター切るとき“手応え”がある。やはり撮れた写真にも強さがあった。そう考えると、カメラマンとしてプロの方々は被写体に対して「褒め上手」な人が多いなぁと思う事がある。つまりはじめに感動がない状態で、色々な被写体に写真で向かっていける。
 このような “橋のようなもの”はいつもでどこでも見てきた気がする。でも、震災の直後だったからこのモチーフと出会ったのだと思う。たぶん、いつも近くにあった日常や人々がいつか消えてしまうという当たり前のことに急に気がつき愛おしく感じられるような体験をその頃多くの人にあったのだと思う。そしてその気持ちは再び徐々に薄れていく。
※写真6(キャプション)シリーズ『bridge』より
 これらを撮影した時、今和次郎さんが関東大震災直後にみつけた廃材で建てられたバラックのスケッチと勝手に接続した。そして、その時、この橋みたいなものなら、被災地にもでき始めているのではないか?と想像してみた。
“不在であったり欠落してるから生まれてくる人間の営みや創造”。これは自分の中で選んでいるモチーフに共通する物かもしれない。つまりマイナスとプラスがぶつかっている場所でもある。マイナスだけでもプラスだけでもない。
 僕はすぐにホンダのハンターカブというオフロードも走れる中古カブを買って、日本全国をこのどこにでもある橋をさがして旅にでた。港街で船にかけられた小さな板切れの橋や田園風景の中の橋、そして津波の被害のあった町も巡った。
※ 写真7(キャプション)シリーズ『bridge』より
 写真でシリーズを作る方法というのは様々あると思うが、僕の場合は「主人公」を見つけること、そしてその対象へのカメラの選び方と向け方にある。『torii』はカメラを基本的に水平にしすべてにピントが合うようにして、建築物を撮影するベーシックな撮影方法を取っているが、前に書いた通り『日曜画家』ではそのルールを途中から破り、手持ちでよりボケ感を使って水平などを意識せずスナップのように撮影している。そして『bridge』はというと、僕が立ったままの位置からカメラを構え、足下にそれが落ちているように見下ろす形でフレーミングしている。地平線は入れないようにし、主人公と周囲の関係性は少し入れている。カメラの向きを上げて地平線を入れると、「これって京都だね」とかその土地の個性がでてしまうので、逆に「どこにでもある」感じを出したいと考えてこのようなフレーミングをした。被災地でこのような橋を見つけて撮影して展示しても、テーマ的にそこが被災地である事は分かる必要はないと想像もした。
 シリーズ『bridge』では、2011年8月からの展示開催中も僕はどこかを旅をしながら、色々な場所から展示場所に“橋のようなもの”の風景写真をデータで送り続け、展示会場ではスタッフがそれをプリントアウトし、壁に一列に貼って行った。
※写真8(キャプション)シリーズ『bridge』展示風景より(photo by Ken Kato)
 その旅の途中、山口県の周防大島の、宮本常一さんの資料が集められた周防大島文化センターに行った。ここには宮本さんが撮影したものすごい量の写真がファイリングされていて、お願いすると見せて頂けるのだが、これが非常に素敵な経験だった。愛用のカメラはオリンパスペンという【ハーフサイズ】のカメラ。ハーフサイズというのは、35mmのフィルムをカメラ内で縦割りに半分にして撮影するので、36枚撮りだと72枚撮影できるというもので、画像は粗いが、独特の風合いがあり、小型でとにかくサクサク撮れる機動力がある。今だと携帯のデジカメくらいの感覚で撮れる。宮本さんがそのカメラを手に、車や電車の移動中にもいつもシャッターを切っている様子がファイルから見えてくる。写真自体は構図が美しいとかではなく、眼に飛び込んで来るものをヒョイヒョイとつり上げるようなまなざしが映り込んでいて、実に軽快だ。メモ書きよりも軽く、でも記憶にひっかける釣り針のような。ただ、何気なく写された風景の背後も透けて見える。土地や歴史への読み込みと、時間軸の深い尺度を持っているように感じる。そして人々の生活や時間への朗らかでまっすぐな感動が伝わってくる。


ー記録と表現のバランス感覚ー

 ここまで、僕自身の作品と共に、「撮って集めて選んで並べる」の「撮って集める」部分を書いた。最後に、「選んで並べる」部分について書く。
 集めてきた写真を選んで並べることで、それによって見る人にダイレクトにも細やかにも発見や感動が伝播する可能性を生み出す事ができる。例えば、1枚の写真だけでは、その写真のどこに興味のフォーカスが合っているかすら見えてこず、見る人は「何を写した写真なのだろう?」と考えるかもしれない。その後に2枚目を並べ3枚目を並べることで、徐々に撮影者の“まなざし”が見えてくるかもしれない。ただ逆に、1枚の写真を小さなサイズでぽつんと展示するだけだと、見る人が様々な想像をできるかもしれない。沢山並べると説明的になりすぎるかもしれない。いろいろな写真があるが、写真を表現にする場合にサイズとサイズというのは重要だ。
 写真はデジタル化しようが基本的に記録メディアだ。僕は、目の前のモノを「記録」する重要性/面白さを感じていて、それと同時に編集し自分自身の「表現」にする重要性/面白さを感じている。バランス感覚が表現者それぞれにあるように思う。
 僕は元々絵を描いていたので、今和次郎さんのように写真ではなくスケッチで記録しても良いのではないかと考えることもあるが、やはり写真を使う事が多い。それは自分がフォーカスした物だけではなく、気がつかなかったものなどが入り込む余地がある事に豊かさを感じるからかもしれない。

(建築雑誌 2014年12月号掲載)

ワークショップ「見えない風景」について。
朝起きるとFacebookが2年前の記事をシェアしろと写真を見せて来て、2年前の今日、芦屋市美術館で「見えない風景」を開催し、大変に盛り上がったなぁと思い出した。(FBは最新の新しい骨董製造機。)そういえば、先週は丸亀市にて開催しました。紙に文字が書けなくなるほどの雨が降って来て途中で中止。7年間で初の雨天中止。しかし、なかなかこちらも盛り上がった。そして、清澄白河でも11月11日に開催予定です。チラシやワークショップの様子は「MOTサテライト」にて入手できますので是非。

嬉しい事にこのワークショップをいろいろな場所で開催している。ただ、たまに「展示ではなくてワークショップが多いですね?」と言われるので、ワークショップについての考えを少し書くと。僕自身、風景と人の営みに興味を持って、制作を行なっている。それを写真を使って風景から切り取って/借用して別の場所で見せることが多いけど、やはりそれ自体への疑問やジレンマをいつも抱えていて、そのひとつの答えがこのワークショップだと思っている。これは写真のように複製できないし沢山の人と一度に共有できないけど、風景の中で一緒になって新しい感覚を開く発見や体験に満ちている。つまり、ワークショップは表現活動でありライブだと考えている。

そういえば、「見えない風景」の英語タイトルは『walk with your eyes』。(このタイトルはサウンドアーティストmamoruが考えてくれた。)
現在開催中の「MOTサテライト」では東京芸大にて「MOTサテライト」のサテライト展が開催中。キョンファさんキュレーションで行なわれていて、こちらのテーマは「地域とのつながりに根ざしたMOTサテライトのように、現代美術を通して地域や人々と関わることの意義について考えます。」とのこと。つまり、現代美術館が開催する地域アート的イベント「MOTサテライト」をさらに引きで考える為の展示位置づけか。。。そしてこちらには《Walk, Hands, Eyes 》と題されたミリアム・レフコウィッツ (Myriam Lefkowitz)の作品があります。少し似たタイトルで展示前から気になっていた。内容は「参加者が、ガイドとなるパフォーマーに導かれ、目を閉じてまちを歩きます。音、におい、触覚など、視覚以外の感覚を研ぎ澄ませ、かつそこから織り成される想像を通じて、まち空間を体験するというもの。」とある。僕は見に行きましたが「見えない風景」との面白い違いが発見できました。両方見た方は感想を是非聞かせてください。

最後に、このワークショップは、もっともっといろんな街でやりたいと思っている。だから、このワークショップにかかる準備や予算を正直に書きますと。
依頼があると、まずそのエリアでどこならワークショップが可能か街を歩き回ります。「下見」は1泊2日(上手くいけば1日)。そしてエリアが決まれば、ワークショップ前日に地図の準備、そしてワークショップ当日。1泊2日もしくは2泊3日。
【交通費=名古屋から2往復】
【宿泊費=2泊もしくは3泊】
ワークショップに必要な「物」は基本的に紙とペンとバインダーのみ。
ただ、出来るなら、告知用のチラシを作りたいと考えています。下見の時に下道が表紙写真を撮影をします。
【チラシ予算=10万】
そして下見と準備と本番、約3日〜4日。
【謝礼=7万5千円】
ということで、場所にもよりますが、全部で25-30万円(どうしても予算がたりない場合はチラシ制作を削除すると、15-20万円)であればできますので是非よんでください。
予算をこういうところに書くのは好きではないけど、興味のある方の参考になればと思いか書きました。
よろしくお願いします!


2017.10.17

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ソウルのレジデンスに滞在している。
隣の敷地からは何やら運動会の練習か何かの子供たちのかけ声が聞こえてくる。
窓から下を覗き込むと、子供の手には韓国と中華民国(台湾)の国旗が揺れている。
韓国の華人のほとんどは中華民国系だという。
日本植民地時代とその後の冷戦時代の影響だろう。
日本は1972年まで、韓国は1988年まで、中華民国を中国として関係を続けていた。
韓国の友人の話しでは、最近では中国語を学ぶために子供を中華学校へ入学させる事も増えているそうだ。

2017.9.20


与論島1日目。2015年9月18日朝5:30。
部屋の戸をノックされて目覚める。
「津波が来るから、6:30に高台に避難します!」
寝ぼけ眼に民宿のおかみさんの慌てた声。外はまだ暗い。夜洗ったシャツは乾いていない。

6:20。スリッパをぺたぺた言わせてロビーに向かう。キッチンでは民宿の家族やスタッフ総出で大きなおにぎりを握っている。傍らのテレビではニュース番組がつけっぱなしになっている。南米チリで大きな地震があったという。津波の到達予定時刻は7:30となっている。
「ごめんね。びっくりして早くおこし過ぎちゃったね。」

僕ともうひとりの宿泊者そして宿の家族とスタッフ、全部で7人、宿の名前のプリントされた小型のバスに乗り込む。その頃には、外はすっかり明るくなっている。
高台につく。島で一番高い場所だと言う小さな公園には、おばあちゃんと小さな孫娘らしい子がふわふわと風船を片手にぼんやりとしている。
駆け上がると、周囲340度くらいがすべて水平線で、本当に地球が丸くてその上に立っているように感じた。
おかみさんは一畳くらいの大きさの公園のベンチに、作ってきたおにぎりや沢庵を広げ始める。ベンチをちゃぶ台のようにして朝飯を食べる。チリのある東の方の海を意識しながらも、それぞれ自分の自己紹介や色々な話をする。おかみさんは、宝石や大切な物たち、長期戦に備えて本まで持って来ていた。
僕らは、地球の裏側からやってくるかもしれない波を待ちながら、時間を過ごした。

7:30。ひとりが「島を囲むリーフにいつも出来る白波が消えていない?」と話す。
みんなで遠くの海を眺める。そして、少しして、また普段の海に戻った。

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『ヘテロトピア通信 第6回』2015.12.16寄稿

「旅先から絵葉書を書いてくれない?」
いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……。×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。
その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。

最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。
ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝えること以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。
この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜に机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。
この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。
絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、
そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。
それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。

旅は日常からの“断絶”なのではないか。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。


2015年11月『旅するリサーチラボラトリー2016』冊子へ寄稿

R:eadという企画で、日本韓国中国台湾の作家などが集まって、1ヶ月以上を過ごした。その時に書いた文章。すごく濃密な時間だった。

文章はこちら。
http://r-ead.asia/report-shitamichi2/?lang=ja

『○○の虜』というお題のコラムに、『移動の虜』という文章を書きました。

http://magcul.net/focus/toriko2_shitamichi/

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2013年1月
広島県広島市

原爆ドームの大通りを挟んで向かい側の、柵で囲まれた大きな円形の工事現場が音を立てている。この場所は数年前まで広島市民球場が建っていた。柵の外側を一周してみると、思ったよりも小さい球場のサイズが伝わってくる。柵の向こうにライトスタンドの一部がぽつんと残されているのが見えた。このスタンド跡を町はモニュメントとして残してその周囲を公園にしようと計画したが、様々な市民の声があがり計画は中止となったままだという。それにしてもこの町はモニュメントだらけだなぁと思った。曇り空から光が射した瞬間、シャッターを切ってみると、どっち付かずの曖昧な風景がそのまんま写った。
 広島を後にして東京に向かう新幹線。隣の席でおしゃべりをしていたおばさん二人は、高速で通り過ぎる車窓の向こうに富士山を見つけ、目を輝かし、カメラを縦や横にして写真を撮りはじめた。数分後、写真に満足したのか、急にまた元の話に戻った。富士山はまだ同じ様に見えている。
 速いスピードで変わって行く風景を前にして、消えてゆくコトやモノを「残したい/伝えたい」と、人はモニュメントを作る。写真を撮ることもそうなのかもしれない。でも、過去をモニュメントとして捕まえた瞬間から、逆に忘却が加速する気がするのはなぜだろうか。生暖かかく漂っていた過去が、急に標本のように冷たくなってしまうように。美しさや驚きや悲しさや忘れたくないこと…そんな曖昧だけど大切な感情や瞬間を誰かと共有し残したい時、僕らは何ができるのだろうか。


母の友 2013年 05月号掲載


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沖縄の古道具市でこの皿を見つけた。たたいてみるとカンカンと金属の音がした。古道具市の亭主はこれが「ジュラルミン製の皿」だと教えてくれた。2000円。
読谷村の民族博物館で同じ物をみつけた。「村で家の立て替えとかの時に捨てるのはもったいないからと博物館に集まってくるんです」の学芸員の方は教えてくれた。
読谷村には戦中に日本軍の飛行場があり、戦後に破壊された戦闘機が沢山放置された。その戦闘機の残骸を材料に、地元のナベ屋“ナービヤー”が溶かして型に流し込んで作ったものがこの皿。ジュラルミン製民具製造が地域の第一産業にまでなった。しかし5年ほどで、戦闘機の残骸を使い切り、ジュラルミン民具産業は徐々に消えたという。
皿の裏の高台を見ると、何やら型を作ったときの元の皿の文様が残っているに気がついた。紙と鉛筆でこすってみると「WATRTOWN WARE」という文字が解読できた。ネットで調べてみると、ニューヨーク近代美術館に収蔵されたプスチック製の皿と全く同じ形だった。1944年に海軍によって作られた強化プラスチック製の皿で、今ではデッドストックだと言う。
戦時中か戦後に、アメリカによって持ち込まれたプラスチック製の皿は、沖縄のナベ屋さんの手に渡りこの皿の鋳込みの型になったのだ。
アメリカと日本による悲惨な戦場になってしまったこの小さな島で、戦後その二つの国家が捨てていったモノを、沖縄の職人が混ぜ合わされて結晶化した民具。重たい歴史を抱えた小さな「モニュメント(歴史的記念碑)」でもあるこの皿は、今から新たに料理をのせることができる空っぽの器でもあり実に軽やかで可能性に満ちている。光を当てると、影が現れ、鈍く銀色に輝いていた皿を眺めながら、「月」のようだと思った。

沖縄の土地で、この皿は博物館の隅の「戦争」もしくは「戦後の貧しい時代」のコーナーに置かれている。僕がこれを、この土地で展示しても「あぁ、あの民具ね。。」というふうにしか思われないだろうと想像した。ただ、この皿をそのまま見せても、少しいつもと違ったふうに感じることは可能なのではないか、と考え始めた。これは『戦争のかたち』と同じ思考かもしれない。
海岸で流れ着いたゴミから見つけた漂着瓶を加工して作った「漂泊グラス」と「ジュラルミンの皿」並べてみると、今回の取材と制作の興味が、”様々な時間や移動を内包した物体”だったのではないかなぁと思った。そして、重要なのは、表面的な造形ではなく、いくつかの素材の出会い方であり、身近な日常の存在の中にそれを見つけたいのだと言う風に思った。

Dish and the moon

I found this dish at the antique market in Okinawa. When I knocked it I could hear metal sounds. The master of the antique shop told me that this was a “duralumin dish.” The price was 2,000 yen.
I found the same objects in the Ethnographic Museum of Yomitan village. “They brought them into the museum because they should not have been to thrown away at the time the houses in the villages were being rebuilt,” the curator explained.
In the Yomitan village, there used to be a Japanese military airfield during wartime. After the war, many destroyed fighters had been left there. The dish that Naviya (the goldsmith) made was formed by taking the wreckages of the fighters and pouring the material into a mold so that it could be dissolved. Duralumin manufacturing had become the main industry in the area. However, in about five years, the rest of wreckage had been used up and the duralumin industry gradually disappeared.

When I looked at the back of the dish, I noticed the remains of the original pattern; probably made when the model was molded. When rubbed with pencil on paper, I recognized the words “WATERTOWN WARE.” I searched on the Internet and found that exactly the same shape of dish in plastic has been kept in the collections of the Museum of Modern Art, New York. In 1944, the same type of dishes, in reinforced plastic resin produced by USA NAVY, were now dead stock. During the war or after the war, plastic resin dishes were brought by the United States to Okinawa. One of them subsequently became the mold for at casting Nabeya’s factory.
It is a crystallization of the works by
Okinawa craftsman, which fuses the things that two nations, Japan and America, abandoned in the tragic battlefield of this small island in World War II.
This dish would be a small monument, containing this heavy history but also empty enough to serve cuisine; hence, it would be lighter and full of potential. When I cast light on it, it appeared as though a shadow shined dully in silver. It looked like moon, I thought.


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沖縄と八重山諸島を旅した。
台風19号の後だということもあり、美しいビーチはゴミの山だった…。ペットボトルや発泡スチロールが多く、その他にも漁業の道具やビーチサンダルや生活用具など。台湾、中国、韓国、東南アジアなど、様々な国から色々な物が流れて来ていた。
旅のなかで、島々の海岸を漂着物を見ながら歩くことを日課にすると、すぐに風景の風景の見え方が変わっていった。まずは、漂着物が多い海岸とそうではない海岸があることに気がつく。理由は様々あるが、季節風や観光の為の清掃や海岸の地形などが関係するようだ。もうひとつ気がついたのは、実は少なくない人数が、頻繁に海岸の漂着物を見て何かを集めてまわっていること。朝、浜辺に新しくできた漂着物のラインには必ず新しい足跡が残されている。西表島のある海岸で出会った人は、海岸に打ち寄せた藻を集めて干していて、「肥料として畑に蒔くとトマトが美味しくなる」と話す。その他、漂着物の中で種子やおもちゃを集めている人や漂着物を組み合わせてお土産物を作っている人々や様々な人々にも出会って、いろいろな話しを聞く事ができた。全く知らない世界と住人がいることに気がついた。
数ヶ月前、福岡県の玄界灘の海岸を歩き続ける漂着物の第一人者石井忠さんにお話を聞く機会があった。「漂着する木は、かつては集めて薪にしたり、海辺の社は寄木や寄船で造営されることもあった」と話されていた。さらに、「見つけた物が大きすぎる場合、石をのせて印を付けたり、隠したりするが、再び戻ると無くなっていることがある。」と悔しそうに話されていた。
海の幸は、漁で取れる魚介類だけではなく、浜辺に寄せる物も生活の資源になるし海の幸だ、ということを感じた。そして、そう考えるとペットボトルや発泡スチロールが簡単に再生できないのは非常に残念に思えてくる。
沖縄には様々な国から様々な物が流れつく宿命をもった地理。船も人も文化も流れてくるし、文化も侵略者も…。ニライカナイという沖縄の思想には、海の向こうから神が豊かさをもたらしまた帰るとされる。沖縄という土地は様々な善くも悪くも「寄せるもの」を受け入れ、付き合って来た(編集してきた)歴史がある。武器ではなく、生きる力で戦って来たように感じる。

沖縄には琉球ガラスの工房が沢山ある。琉球ガラスの歴史は、明治時代に長崎や大阪からやってきたガラス職人によって始まったが、戦後は、進駐軍が使用し廃棄されたコーラやビールの瓶を材料に再生ガラスとして彼らのお土産用の器が作られ始め、現在に至る。現在でも多くの工房は、コーラの瓶にかわり泡盛の空き瓶を回収して再生し食器を作っている。
「海に流れ着く様々な漂着瓶でガラス食器が作れないか?」そんなことを思い、海岸に流れ着くガラス瓶を集めるようになった。漂着する瓶から再生ガラスを作る。調べたり相談してまわると、そこにはふたつ大きな問題が出てきた。「ガラスは種類によって膨張係数が違うので、色々なガラスを混ぜると必ず破れること」と「工房のガラスの窯の坩堝に外から持ち込んだ色々な見知らぬガラスを入れることは大変な労力のいることで、やってくれる職人はいないのではないか」ということ。
普通に使用するのにむずかしい食器は職人は作らない。使えない食器、などあり得ない。ただ、形成した後、ガラスが破れてしまうことも含めて興味が湧いて来た。そして何よりガラスに関わる人が口を揃えて「破れるからやった事はない」と聞いていると、逆に作ってみたい気持ちをかき立てられた。
制作協力をお願いできる職人さんを捜した結果、奇跡的に興味を持って協力して頂ける方に出会うことができた。素敵な出会いの連鎖だった。
拾い集めたガラスボトルは、ハンマーで砕いた。炉の中に入れ、1日かけて溶かした。翌日、職人さんの指導で溶けたガラスを吹いて食器を作る。熱せられ赤々と光るガラスにはいくつものスジが見え、職人さんは「これは混ぜたからだし、普通より吹いた時にも丸くなりにくいな」と話した。
出来上がった食器を除冷を行いさらに翌日、工房に行く。制作した食器は破れていなかった。「混ぜ合わした様々なガラスの相性が偶然良かったのかも。奇跡的」と。少し亀裂が入る事を期待していたこともあり、少し複雑な気持ちで見ていると、「これから数ヶ月後に突然破れる事もあるよ」と職人さんは言った。
ガラスは固まっているように見えて、非常に流動性のある存在だという。陶芸は土と言う生ものを焼くことで固める感覚があるが、ガラスは少し逆の感覚を受けた。漂着したぼろぼろの瓶は窯で焼かれ新しくより生なものに生まれ変わったように、緊張感がある。
出来上がったグラスに光に当てると、置いた台に、様々な瓶の混ざりあわないガラスの層が影として見えて、非常に美しい。何より、実際に見えないが、このコップの中に様々な場所や時間が混ざりあっているということが、不思議な気持ちにさせる。
出来上がったグラスの中の2つを自宅に持ち帰り、家で乾杯した。洗っている時に、コップの中に少し亀裂がピキッと入った。嬉しいような悲しいような気持ちになった。

Glass journey

I traveled around the Yaeyama islands following the typhoon 19. The beautiful beach was covered in a mountain of garbage such as bottles and polystyrene foam, fishing tools, beach sandals, and the various objects of everyday life that came flowing from Taiwan, China, Korea, and Southeast Asia.
In the itinerary of my journey, I planned to walk routinely. Watching the flotsam in the coast, I immediately began to perceive the landscape differently. First, I noticed that there are some coasts with a lot of flotsam and others with little. The reasons were various: the effects of the monsoon and cleaning up the beach for tourism purposes, as well as geographical features. Also, I noticed that people frequently walked around and collected things from the seaside. Every morning, the beach was left with fresh footprints in the new line of flotsam. People I met at the seaside in Iriomote Island collected algae that washed up on the shore and dried it. They said that “it makes tomato delicious if you spread it in the field as fertilizer.” In addition to that, I met people who were picking up the seeds and toys, and people were making souvenirs by combining and attaching flotsam. I heard various stories and encountered people who live in the world that I have never known.

A few months ago, I had the opportunity to meet and listen to Mr. Tadashi Ishii: a leading scholar in flotsam who has investigated around the Genkai coast in Fukuoka. He stated that “trees, washed ashore and collected, used to be used as firewood. The seaside shrine was also constructed from broken ships and drifting woods.” He continued, “If I find objects that are too large, I mark them by placing a stone or hiding them, but I find them gone when I go back again.” He told me this in a regretful way, I thought. The blessing from the sea means that it is not only seafood that can be taken in (via fishing) but also those things that come to the coast. I felt that it was very regrettable that the polystyrene foam and PET bottles cannot be recycled easily.
Okinawa’s geography had a destiny whereby various things have flowed into it from various countries. With ships also flowed culture, invaders...
In Okinawa, the legend of Niraikanai states that God comes to bring blessings from the other side of the sea and then returns. The land of Okinawa also has a history that has accepted the “things posting,” and edited them not by weapons but by the vitality of the people in a peaceful way.

In Okinawa there were a lot of Ryukyu glass workshops. The history of Ryukyu glass was begun by glass artisans who came from Nagasaki and Osaka in the Meiji era. After the war, they began to produce glassware souvenirs using glass discarded by the army who had occupied the area. Still in present day, many of the workshops are recycling glass from empty bottles of Awamori instead of Coke bottles.
I wondered whether it would be possible to make glassware by recycling materials from the bottles washed ashore. Two important problems emerged after I examined and consulted on this possibility. I was told that “because of the large variety and different expansion coefficient of glass types, mixing the glass always causes it to break.” Also, “it takes a great effort to put glass of various origins into a crucible of kiln glasses brought from the outside. Therefore, no craftsman wants to try it.”

It is reasonable that a craftsman does not make dishes that are difficult to use in daily life. There cannot be a table where that table cannot be used. However, what I found most interesting was the process; including the possibility for the glass to break after it had been formed with success. All those involved in glass production say, “never try it, as it will break.” In reverse, I had the feeling that I wanted to try. As a result of looking for a craftsman who could cooperate with me throughout the production, I was able to meet a person who was interested in my attempt and helped me miraculously. It was a nice bond to encounter. I crushed gathered glass bottles with a hammer, put them in a furnace, and dissolved them over one day. The next day, I blew glass melted under the guidance of craftsmen. Heated and shining brightly in red, several streaks appeared inside the glass. The craftsmen said, “Since different types of glass were mixed, it becomes difficult to form round when it blows normally.”
The following day, after cooling the formed glasses, I went to workshop and found them not broken. I thought, “It is a miraculous coincidence that these different types of glass have good chemistry.” I had expected some to have cracks, and for me to be disappointed. Nevertheless, the craftsman said that “there is probability that they will be broken by chance after a few months.”
Glasses can seem to be solidified but consist of very fluid substances. Pottery solidifies by burning raw soil, but I felt that the glasses differed. The bottles washed ashore and worn, then burned in the kiln, were reborn, as if something like new life were emerging and bringing with it a vivid tension.
When I looked upon the completed glass, there appeared to be a very beautiful shadow, projected through layers of components that were completely melted. More than anything, it was actually invisible. Various locations and various times were mixed inside this cup, and this brought me mysterious feelings.
I brought home two of the glasses and toasted with them. A little crack began to appear in one of the cups when I was washing it. I felt a little sad but a little happy.

November 17, 2014


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ここの地名は“泊(トマリ)”という。
沖縄県那覇市泊3-4-13。フェリーターミナルが角を曲がったすぐの所にある。汽笛の音が時々この空間まで聞こえてくる。少し歩くと漁港があり市場が賑わっている。空にはカモメもとんでいる。港の隅には古い外人墓地がある。鮮やかな色の造花と芝生の緑と白い十字架。中国やフランスやスウェーデンやアメリカなどの色々な国籍の人々の名前が並ぶ。その敷地内に『ペルリ提督上陸之地』という石碑が立っている。ペリーは浦賀の前年、この泊に上陸した。石碑には『琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む。1853年6月6日、大美御殿における招宴席上のペルリ挨拶』とある。アメリカが、すでにこの時期に沖縄の地理的重要性に目を向けていたこと、そしてこの島が今でも様々な国の間で揺れていることにまっすぐに繋がるように感じる。

“泊”の意味は、【船が停泊すること。また、そのところ。】とある(『日本語大辞典』小学館)。ただ、船だけでなく「旅人が宿泊する」ように、漂う人や物がある場所に「(寄せて)停止する」というイメージを思い浮かべることもできる。
泊という地名は、ここの他にも沖縄県内にも他にもあるし、国内に多く存在していて、そのほとんどは港町や海沿いにある。北海道の原発の町も泊だし、青森や富山…、今は国内ではないけどサハリン(旧樺太)を旅した時にも、トマリという日本語の音だけがロシアの寂れた港町の名前に残されていたりもした。
“泊まる”は、“止まる”などの「停止する」意味合いだけではなく、その後、船や旅人が再びどこかへ「漂泊」をはじめる、「再び“漂う”可能性」「変化し続ける可能性」を文字の中に帯びている。色々な漂泊と定着が幾度と無く繰り返してきた人や物の往来の時間が地名から想像される。

今回、僕はこの泊に流れ着いた。ペリーのように計画的ではない…が、ただ偶然でもあり必然でもある漂着。そして、ここから沖縄本島や徳之島や八重山諸島、さらに台湾との国境の海上まで旅をした。様々な過去や人や風景に出会い、強く心が動かされた。この小さな島々は、様々な境界線が交わっていて、外から寄せてくるモノたちに常に翻弄され、逆にしたたかに利用しながら力強く漂っている。緩やかに混ざりあいながら変化し続けるこの場所に停泊しながら、たくさんの旅のはじまりの予感を感じた。


西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。
そこはかつて昔の船着場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。
運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。

梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。
船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。
停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。
「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。

梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。
定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。
僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。

今はまだそれから2ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。最後に『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。

「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」

以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて


下道基行

梅香堂_3.jpg

(フリーペパー「FLAG」掲載)


2014年 1月5日 朝8時前
コーヒーのフタをポンと開けて中を覗き込む。
豆がだいぶ減ってきていてる。あと10杯分くらいだろうか。
先日、内祝に後々田さんからもらったコーヒー豆だ、と気がつく。
急に悲しくなってくる。
豆は早く飲まないと古くなってしまうし、飲んだらどんどんなくなってしまう。
2杯分少し少なめに取る。椅子に座って、ミルをまわしてコーヒー豆をひきながら、涙がこぼれてくる。
良いにおいが漂う。

温かいコーヒーを手に机につく。

昨日見つけた、ちょうど4年前に書いた日記を貼付けてみる。


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書類つくりに追われている。
息抜きに、書くことにする。


展示中の梅香堂について。

ここは去年の秋にオープンした。
梅香堂は、和菓子屋ではない。
トタンのバラックのような倉庫を改装した秘密基地のような場所で、寝るとこもシャワーもトイレもピカピカのが付いていて、アーティストが一人滞在しながら制作し展示もできる、町ともマッチしている(駄洒落)、「過去からやって来た妙に近代的なシェルター」のようなスペース。
川の側に建っていて、台風が来たらそのまんま川にどぶんと行ってしまいそうな、そのまま、海まで流れて行きそうな…、それいいね、旧ユーゴの監督の映画みたい。

で、
オーナーは、今まで美術館などで学芸員として一線を走ってきながら、50歳を前に突然の転身(ドロップアウト)して、この大阪の画廊ひとつない超下町に、このスペースを作ってしまった。
長野でそば打ちをはじめるように…?
いやいや、何か違う…。「アートってなんや!?それ儲かんのか!?食えんのか!?」そんな大阪の下町に、「なにかよく分らない『場所』」を作ったのだ。
最近、町の人もおそるおそる近寄って来ている。
おかしなキャラの常連も増えて来てる。
なにか、はじまりそうな空気が満ちている。
窓から見える川には鴨がプカプカ浮いている。

僕はというと、
「新しいことをはじめた」
ここのそんな新鮮な空気を大きく吸い込んでいる。

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2010/01/04 01:11


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2010年年始、ちょうどこの日記を書いた頃、まだオープンしたばかりの梅香堂で、僕は展示させてもらっていた。
さらに、日記内で書いている「書類」というのは、アーティストインレジデンスTWSへの応募書類。
推薦状の一枚は後々田さんに書いてもらった。
本当に素晴らしい推薦状を書いてくれた。
お陰で合格し1年間東京で本当に素晴らしい出会いと経験をすることができた。

その半年くらい前に僕は後々田さんと出会った。
2009年夏、僕は山口での花火打ち上げのプロジェクトを終えて、そのまま、偶然にも大阪の梅香に住み始める事になった。理由は、その夏行なわれた「水都大阪」というアートイベントの為の作家や関係者様の臨時の宿の管理人として働く為。2ヶ月の期間限定の住み込みの季節労働。管理人仕事を始めてみると、昼間はお客さんもいないので、シーツを洗ったりしつつ、大阪の梅香という下町を散策するのが日課となる。梅香は工場で働く労働者の住む下町で、消毒されていないノイズが多くて本当に散歩していて楽しい。それを『昭和』とか「懐かしい」で片付けるのにはおしい程、「大阪らしい汚さと活気」を持っている町。(後々田寿徳・リレーコラム「大阪の優しさ」http://www.nettam.jp/topics/column/88/

「梅香に変わったスペースを作っているおじさんがいる」
最初はそんな情報だったと思う。
それが、梅香堂と後々田さんとの出会いだったと思う。

梅香堂はまだ、オープン前で、真新しい本棚に本を入れるのを手伝った。
「傷だらけの天使」のサウンドトラックが流れていた。「ここはこの人の秘密基地なのだ」と思った。
宿に来るお客さんを連れて、よく梅香堂に遊びに行くようになった。飲みながらたくさんの話しをするようになった。お金がないといいながら、いつもおごってくれたのはいつも心苦しかった。後々田さんは多くは語らなかったが、梅香堂をつくるにあたった経緯をぽつりぽつりと話してくれた。
「嫌なことをしていることを感じないように麻痺させながら生きて行くのが嫌になったんだ。あと10年遅かったら、もうこんなスタートは切れなかっただろうなぁ」
と大学教員を辞め梅香堂を始めた事を話していた。
後々田さんは、福井での学芸員生活→ICC学芸員→東北芸工大教員→梅香堂と、7年周期ぐらいで、今の場所に疑問を感じて、それを無視せず、変化し続けてきたのかなぁ、、と想像する。だからか、梅香堂は古ぼけた雰囲気でまったりとしているけど、どこか刺激的で新鮮だった。
そして、福井県美での経験も、ICCでの経験も、東北芸工大での経験も、あったから、梅香堂はあのような唯一無二の存在として、様々な年代の人が集う奇妙な場所になったのは間違いない。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『『大阪人』に紹介いただきました』   2010/10/01 13:13


『月刊 大阪人』11月号「特集満開此花区」に、梅香堂をご紹介いただきました。ありがとうございました。

関西以外で販売されているのかどうかわかりませんが、本屋さんに立ち寄った際にでもご笑覧いただければ幸いです。

此花メヂアさんも紹介されています。

最近、こうしたメディアへの露出がちょこちょことあるのですが、それにふさわしい活動をしているのか、と問われるとお恥ずかしい限りです。

梅香堂は家族をはじめ、友人知人の方々などの有形無形のサポートによってかろうじて続いているような状況ですが、今後ともご支援お願い申し上げます。

昨夜は下道君来堂。いろんなプロジェクトでほんとに忙しそう・・・。

先日KOSUGE1-16の土谷君とも話したのですが、日本ではアーティストは忙しくなればなるほど持ち出しが増えて、貧乏になっていきます。

彼や下道君のようなプロジェクト型のアーティストは、作品が直接お金に結びつくことが難しいためです。

日本のアート業界は、展覧会やイヴェントでアーティストを「消費」していくだけで、こうしたアーティストを「サポートする」という意識が低いように思います。

私にもっと力があれば、彼らのようなアーティストをサポートしていきたい、といつも思いますが、現実は厳しい。話を聞いてあげること(反対にいつも愚痴ってるような・・・)くらいしかできないのが残念です。

ただ、美術館などに勤めていたころとは異なり、最近はアーティストとのいろんな意味での「距離」が小さくなってきた、と感じます。つまり、彼らの気持ちがよりわかるようになった気がします。

単にビンボーになったから?かも知れませんが、それだけではない。社会的な立場が近くなったからだと思っています。

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梅香堂がオープンしてすぐに展示をさせてもらった時、
オルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを自称する梅香堂がはじめて販売した作品であり作家になったのは光栄な事だ。
「美術館で雇われた学芸員だった頃は分からなかった…」と話しながら、小さな自分のスペースで、若い作家が厳しい環境で制作をしている事を良く理解してくれて、控えめながら懸命に営業を行なってくれていた。
その後、岡山や水戸や東京まで僕の展示に足を運んでくれて、
「展示はむずかしいな…下道くん…」
とあの口調で、いつもしかられ。。時々褒められ。。
出がらしのお茶と酒を飲みながら。
そして、いつもお別れのときは、見えなくなるまで見ていてくれる。

2013年末、今回は、梅香堂4周年記念に、4年ぶりに2回目の展示をさせてもらった。
展示のオープニングの夜中、後々田さんの姿を探して1階に降りると、ひとりでぽつんと椅子に座って展示を眺めていて、
「いい作品だな、感慨深いなぁ…」
とはなしてくれて、とてもうれしかった。

本当に大切な人を失ってしまった。
残念でならない。。
俺の展示、途中だぞー!

僕は、大学を卒業するまで、学校とか先生という存在を無視したり反発してきたとおもう。自分でえらぶ事をせず、なのに、ひかれたレールには乗りたがらないたちの悪い生徒だった。
大学を卒業して、引っ張られていた糸やレールが全部外されてみて、はじめて「自分は何がしたかったのか」「何をしていくのか」を徐々に考えるようになって、自分や人と向き合うようになった。本当に遅すぎるしバカだ。
その後、自分也にあまちゃん也に歩み始めたが、本当にいろいろ甘かった。
そんな僕にいろいろな事をわざわざ教えてくれる先輩が何人もいてくれたのは幸福だった。それでも気がつかない僕を時にしかってくれた。
「誰に影響を受けましたか?」とか「誰が師匠ですか?」みたいな事をたまに聞かれるけど、僕は自分のせいで、学校では師匠と呼べる関係を作る事ができなかったが、卒業後10年で何人かの師匠というか先輩というか先生というかそういう人に出会えた。
後々田さんもそんな存在だ。
永久欠番。

最近でもたまに教えていたみたいだし、名古屋だったし、行っとけば良かったなぁ。
http://prj.smt.jp/~r2012b/?p=30

不思議なのは、後々田さんの死は、多くの人たちによって今からの未来に対して、生かされていく気がしている。
僕の中でも、既に現像され定着し始めている。
ただ、もっともっと会いたかったな。。
もっと褒めてもらいたかった。しかられたかった。。
いろんな話しをしたかったぁ。。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『死者のブログ』 2010/09/15 18:18


以前、Yangjahさんとホームページの話になった時、私が独自ドメインを取ってブログなども統合したら?と話したところ、「無料ブログは、書いていた本人がもし亡くなっても、その運営会社がある限り残り続けるのでよい」と言われて、「なるほど、確かに」と思ったことを想い出しました。

独自ドメインやレンタルサーヴァーは、維持費を支払い続けないと消滅してしまいます。亡くなった個人が運営されていた場合、そのご遺族などが維持し続ける例は多くはないでしょう。

「たかがブログなんて」と思う方もおられるでしょうが、個人のアーカイヴとしては貴重なものであり、一般人がその方を偲ぶ唯一のものである場合もあると思います。

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これを書きながら、後々田さんの日記を読み返している。
ここからもまだまだ学ぶ事があるな。前進。
文章化するというのは、自分の中で定着させる作業で、思い出があふれてくるのと、同時に過去になっていく感じとで、泣けてくる。後々田さーん。。

http://gogota.iza.ne.jp/blog/


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『虫のいろいろ』   2010/08/12 23:26


小学校四年生の姪っ子の夏休みの宿題(生き物観察)のために、老父が庭から大きな芋虫を採ってきました。

姪っ子たちは「キモい〜」と大騒ぎです。

この芋虫、実は一昨日妹(姪の親)が見つけて、「キャー、でっかい芋虫がいる〜」と叫んだため、老父が裏庭に捨てに行ったやつらしい。

黒々とした長さ5cmを超える芋虫。頭が大きく、紫色の斑点をもつ彼は、おそらくアゲハチョウの幼虫でしょう。この幼虫は鳳仙花(妹たちが苗を持ってきたらしい)の葉を食べていました。

アゲハの幼虫は食べる葉を選びます。たとえば山椒の葉など。ですから産卵する場所は限られている。

そんな話を老父としたら、「そういえば毎年、庭に大きなアゲハチョウが来る」と話していました。私も見たことがあります。

ひらひらと縁側にまで入ってきて、「おや、母親の生まれかわりかな」なんて思ったことを思い出しました。

彼は昨夜台風の中、裏庭から庭まで戻ってきたのか。

虫に人格を投影する精神は、小泉八雲の指摘を待つまでもなく、われわれに共通する心性なのでしょうか。

空き瓶に入れられ、鳳仙花やレタスの葉を必死にかじっている彼を、小四の姪っ子は「意外とカワイイ〜」と、ながめていました。

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僕もよく虫とか蛙とかに人格を投影しますが、この文章、日本人っぽいし、優しいなぁ。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『5月9日に思う』    2011/05/09 22:34

今日、5月9日は、二年前に大阪に引っ越してきた記念日です。

もちろん梅香堂はまだ廃屋のような倉庫で(今でも外見は変わらない?)、大阪に知人などもほとんどいませんでした。

その後半年かけて倉庫を改装し梅香堂をオープンしたのですが、もうそのころの記憶が薄れつつあります。まさに「無謀」な計画でしたし、そもそも「計画」すらなかったとも言えますが、とにかく二年間大阪で生きてきました。

私を物心両面で支えてくれた家族、ご援助下さった大家さん、大工さん、作家のみな、関係者の方々、多くのお客さん、そして私のパートナーとそのご家族に、心より感謝申し上げます。

もう歳ですので、この二年間で成長?したことはあまりないと思いますが、決定的に知った─痛感したことがあります。それは「はじめて作家の気持ちが理解できた」気がしたことです。

かれこれ四半世紀もこうした業界にいながら、なぜ今さらそんなことを言うのか。それは私がいわゆる「サラリーマン」だったからです。何だかんだ言っても、実際に「アートでお金を稼いでいる」人は今の日本にどのくらいいるのでしょうか。私が経験した学芸員、大学の先生は「アートでお金を稼いでいる」人ではありません。行政などの補助金や助成金を受けるのも、お金を稼いでいることにはならないでしょう。

つまりこの国で「アートでお金を稼ぐ」ことの困難さを、ほんとうに知ったのです。そしてそれは同じ立場にある作家たちと共通するものであることも。

正直に言って、梅香堂をいつまで続けられるのか、今の私にはわかりません。ただ、この二年間は楽しかった。ちょっと大げさですが、幸せな二年間でした。できうるならば、どんなことをしてでも続けて行きたい。

吹けば飛ぶようなスペースですが、今後ともご支援、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『前谷康太郎展終了・ありがとうございました』     2011/07/04 00:45

本日を持ちまして、前谷康太郎 「(non) existence」展は終了いたしました。

お忙しいところ、また暑い中、おいでいただきました多くのみなさまに、前谷君ともども心より御礼申し上げます。

前谷君はまだまだ無名と言うべき若いアーティストです。しかしながら彼はアーティストにとって、必須の才能を持っている。

それは「人の言うことを聞かない」こと。すなわち、「頑固」であるということ。これは大切です。

頑固者にあれこれ言い続けることは大変ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

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(爆笑)

"持つとおしゃれイメージ"
"道具にこだわれる"
"嗜好品"
"実は健康に良い情報"
”中毒性”
"アメリカ"
ということで、「コーヒー」。

10年前だと「たばこ」だった気が。。

「たばこ」なき後に、「コーヒー」は意識的に流行らせている気がするのは気のせい?
マルボロがスタバに、すり替わってる?

と言いながらおいしいコーヒーをすする。。
コーヒーは脳の働きも活性化するのかぁ。。

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many kinds of stakes. almost wood.
いろんなカタチの杭。ほぼ木のよう。山形

2009年頃に一度、post photoというのを作った事がある。まぁ写真のついたただのお礼状なんだけど。

2009年は、今思うと結構大きな転機だった。2008年11月に貯金を使い果たした状況でフランスより一年ぶりに帰国し、あまりにお金も活動もなく、フラフラとしていた中、4月からある写真系の高月給の会社で働く事が内定した。ただ、ちょうどその時、尊敬する人から10日間クロアチアの取材にカメラマンとして同行してほしいと頼まれる。迷い、内定の会社に「5月に10日程休みをほしい」と頼んだが、「どちらかを選んでください、こちらは別の候補の方もいますし」と言われ(あたりまえだ…)、結局クロアチア10日を選んだ。月30万程度の良い職を得て一年間生活を改善し復活する計画はなくなり、帰国後また放浪生活がはじまる。そんな放浪のなかで、様々な人と出会う。

結局、このとき、別の方の舵を切っていたら、本当に全く違った今になっていただろうと思う。そんなことは少なくないが。
クロアチアから帰って、色んな場所に転々としていろんな人と会う。いろんな話をしゃべり聞くようになった。なにかモノ作りというよりは、運び屋のような感じ。さらに料理を作り、洗い物をするようになった。泊めてもらったり親切にしてくれたお礼のような感じで始めたようなものかもしれない。そして、お礼状を作った。

今年もいろいろとあって、年賀状を始めてみようと思いたって、ようやく入稿する事ができた。数日後から恐ろしい宛名書きが待っているが、今日はなんだか清々しい。

根本は変われないんだけど、たぶん2007年くらいまでの自分とは大きく変わった部分はあるのだと思う。少なくとも、料理の腕は格段に上がって、人に食べてもらえる程度にはなってきたし。別の町の話、別の家のレシピ、ネットではない情報の運び屋、混ぜ屋か。



友人の展示に行き、いろいろと知らない事を教えてもらう。またしゃべる。

家に帰って、小さなお祝い。明日の飯の仕込み。
毎日ご飯がおいしくて。


ブログを書いて反芻。

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2012-12-17 02:49