文章/essay


この一年以上、小さな手作りの学校を自分でやろうと、ない知恵をしぼっている。ま、時間だけはあるので。

これまでは、いろんな遠い場所を旅して、新しいビジュアル的な体験/視覚芸術作品を作ろうとしていたが、
コロナ禍の島での子育ての中で、制作やプロジェクトの方向性を少しシフトチェンジしている。

自分にとって、高校までの学校の経験というのを厳しめに書くと、
近所に住んでいると言うだけでバラバラの個性や性格の同じ年に生まれた子供があつめられ、興味もモチベーションもないことを色々とさせられる場所。(中学校などはさらに授業を妨害する生徒もいるわけで。数少ないモチベーションのある子まで邪魔される。)
先生はそういう子たちを数十人とかを同時に動かしながら同じ目標まで一緒に連れていく努力をする。社会で協調性を持って、一人で労働者として働けるまでに子供を仕上げる(工場のような場所)。(いや、個性を尊重して伸ばしてくれる良い先生もいた。でも現代、やる気のない生徒に「やる気がないならやめてしまえ」はパワハラになるし、みんな同等にケアしないといけない。そのせいで先生すら脱個性でモチベーションを失い工場の機械になっていく。)
個人的に高いレベルや教科以外の興味には対応しにくい特性もある。これまで、より高度な受験に対応できない学校に代わって、進学塾が発展した。今後は、それぞれの個性を伸ばすのも対応できない学校に代わって、勉強以外の塾/フリースクールは発展していくだろう。さらに、日本の学校は、お金がなくなり、どんどん保守化し、国際力を失っていくし、人間性や個性を伸ばせない方向へ。反面教師としては十分効果的な存在ではある。
つまり、学校は近代の歪みに満ちているのは明確で、近代の歪みと人々の生活と環境や風景に興味を持っていた僕がこの辺りに興味を持つのは真っ当な流れかもしれないなとも思う。さらに、この疑問に対してイメージの力で批判とか愚痴を言うのではなく、アクションを起こして実際に小さな変化を生み出してみたいと考えるようになった。自分でできる範囲で、家庭菜園を作るみたいに。


本当なら、学校は、
興味やモチベーションのある生徒が来る場所で。目標はバラバラでその子の個性に合わせて変化していくカリキュラムで。新しい仕事を作っていける生徒を輩出できたら最高だけど。
でも、もし、そんな学校を作るなら、ものすごく学費の高い学校になってしまい、結局、お金を稼げて意識の高い「親」のいる子供だけの特権になってしまうだろう。(逆に、今の日本でも、親は貧しくなるばかり、貧富の差が激しくなり、実力ややる気以外のヒエラルキーが社会に蔓延る。)
いや。でも。できる範囲でやってみても良いんじゃないかな。と思って、はじめてみる事にしたのだ。

今、僕自身、子育てをしていることもあって、「教育」に今までになく興味やモチベーションがあるし、まだ脳もそこまで硬くない状態なので、今のうちに自分のプロジェクトとして「教育」について関わってみたいと考えている。
その手探りで手作りの学校が、「しまけん!(小学生向け)」と「新美塾!(中高生向け)」なのかも。生徒は「しまけん!」が4人、「新美塾!」が13人。17人の個性と向き合うだけでも結構な仕事量と充実感。いつも脳のどこかで彼らのことを考えている。
「しまけん!(小学生向け)」は、僕の小さな島での実験として、無料で行なっている。生徒は逆指名性。僕が選んで声をかける。こんなの都市部ではできないだろう。さらに、「新美塾!(中高生向け)」は国立の美術館の企画で、無料。だけど、美術館の教育普及チームと本気で作っているし、無料なのに美術館独特の知恵と贅沢さがある。

問題があるとすると、すごい労力がかかっているが、稼ぎにはならないということ。それ以外はベストができている。今は収入にならないけど、時間があるから、今のうちに、こういう実験や実践をしておくことは、将来に何かの道になるだろうと、思っている。
でも、相当な負担がかかる。しかも、その逆に、すごい達成感もある。
だから、これまで仕事の中心になっていた「自分の作品を作る」「展示を作る」というモチベーションが、一気に色褪せていく。
その場所で専門性が出てきた瞬間に、野に下る癖なのかもしれない。

A425DE09-73C4-4ED3-9EDF-736AE260A6D3_1_105_c.jpg
4BEA96D6-75DA-422D-A323-62CA944580A0_1_105_c.jpg 40030A64-0CAE-42AE-88BA-31FCFB2F5BAC_1_105_c.jpg 683847B4-7C23-41D1-B4B3-EF5986C93B16_1_105_c.jpg 1C1EF0BD-F4AA-4CAE-AFD2-F51CAAF63FCD_1_105_c.jpg

ヨーロッパは3年ぶりだろうか。デンマークのオーフスに来た。人口30万人なので首都コペンハーゲンとは比べられないほどのんびりした中規模都市。有名大学があって学生が多く、お洒落な店は全然ないが、夕方からバーや公園でビールを楽しむ学生や人々。清潔感があって、雪解けの春のような爽やかなエネルギーの満ちたこの街がすぐに気に入った。
オーフスには二つ現代美術館がある。僕が展示するのは、(オラファー作の屋上展望台が有名な)大きな美術館「アロス・オーフス美術館」ではなく、そこから歩いて5分の小さくてかわいい美術館「オーフス現代美術館」のほう。今回は海外での初個展の設営のために、一人異国に来た。大きな方の美術館は、現代的な巨大なホワイトキューブとコレクションを有するのに対して、こちらは平屋で焚き火もできる庭があって、展示室とカフェが緩やかに繋がっていて展示のためにくるというよりは公園に遊びに来るような感じ。照明も天窓から自然光を取り込んでいて、空間も人もリラックスしている。歴史も100年以上あるから、人々は愛着を感じているようだ。

今回は、度重なる展示期間の延長、コロナ禍の移動のストレスに加え、輸送費や保険などが厳しくてたくさんの作品を手持ちで運ぶことや、ロシアを迂回して飛ぶ飛行機と高騰するサーチャージ、さらに現地でのワークショップがなくなるなど、出発前には大きく気持ちが落ちていました。(逆に家族や友人たちから「北欧、いいなぁ〜。」と羨ましがられすぎて、ストレスを溜めていた。)ただ大変なストレスを抱えつつもこちらに来てみると、美術館やスタッフ全体からリラックスした空気にすぐに感染した。デンマークではマスクは誰もしていない、コロナ禍の日本に閉じ込められている2年以上の時間から少し未来の世界へタイムトラベルしたような感覚で、目が覚める思い。
展示空間は広くはないですが狭くもなく。何より自然光が美しい空間に励まされ、元気が出る。スタッフはさなまざな国出身の多国籍チーム。展示前なのにみんなリラックスしててそれにも励まされる。設営準備中でも人々は公園やカフェに来るようにこの小さな美術館に来る。僕の小さな作品たちには十分な小中規模の個展。内容は一昨年の都現美のTCAAのような作り方を実践。僕がこれまでやってきた、ある意味バナキュラーな旅、東アジアの境界線上という限定されたフィールドで思考しつくられた作品たちを別の地域の観客たちはどのように受け取るのか。今回はオーフス現代美術館の企画展は、韓国との交換プログラムがベースで、韓国のキュレーターのヘジュさんが誘ってくれた。ここまで僕の活動を深く理解してくれている彼女に感謝しかない。

なんて言えばいいのだろう。公共施設を回し予算を使うたために作られるモチベーションが強くない企画とかもそうだけど、作品を地球の反対側までお金や労力をかけて運んで展示して、1回1回作っては壊しを繰り返す展示とか、そういう自分が関わっている環境の後ろめたい部分?に疑問を感じる最近。数年前の現美のオラファー展を見た時にそれは考えさせられたけど、別にオラファー展にその解決はなされていなかったし。ユーモアを武器にモチベーションを取り戻そうと力みすぎるとパワハラになってしまうのではと急ブレーキ。誰のため?自分のため?これ誰がやりたいの?誰が見たいの?自己顕示欲?承認欲求?美術の歴史のため? その自分が置かれた場所に疑問を持ち、実践していきいたいと考えている道がここにも続いている。その疑問への答えを探す船のように、小さな直島に自ら閉じ込められ住みながら進めている小さな地域のアーカイブ/美術館を作るプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》は(2つの瀬戸芸を越えて)最新作として、さらにゆっくり強くなっていくはずだと信じている。さらに、はじまった「新美塾!」も未来。

色々大変な思いの末の異国での日常が始まった昨日。展示空間はまだ空っぽ。さらに、明日から連休らしく、みんな休む気まんまん。でも、ここまできたら、なるようにしかならないので、ベストを尽くすだけ。なるようになるし、なるようにしかならない。
小さな島(直島ではなく日本だろうな)から少し連れ出してくれた友人に感謝。
いや、まぁ、やはりこれは羨ましがられる機会というわけなのだろうかな。
自分のベストで。

2022.5.25


瀬戸芸が始まり5月のゴールデンウィーク、直島にはすごい人数の人が押し寄せている。
時間帯によっては、フェリーに乗れない人も出てきている。
コロナで海外からのお客さんがいないし、美術館などでも人数制限があるとはいえ、「ゴールデンウェーク」の「直島」は想像以上。なるべく家から出ないようにしていたが、外はお祭り騒ぎなので、なんだかソワソワしてしまう。

瀬戸内「 」資料館にも多くの人が訪れている。そんな中で、スタッフへの一番多い質問は「入口のライターはなんですか?」だという。それに対して製作者として、その”返し”を簡単に考えてみると。
『浜辺の汚いゴミを”標本”のように集めて並べるだけで、ステンドグラスとして美しく転化してみた』
ということだろうか。シンプルに。
瀬戸内「 」資料館との接続としては、コンセプトの根底にあるのは、
オブジェや絵画をうまく作るだけがアートではなく、ただただ「調べてまとめる」とか「集めて並べる」だけ。でもその面白さがビジュアル的に形になって伝わればと思っている。「調べて自分なりの発見を視覚化して人に発表する」その楽しさ。それは僕だけができる特殊能力ではなく、子供でもできるはずでそれが「しまけん」であり、カラミ調査であり。


・ゴミのステンドグラス

瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、元パチンコ屋のリノベーション建築だ。
瀬戸内「 」資料館は、そこに寄生する形でプロジェクトは展開している。
建築として、パチンコ屋当時の面影を伝えるのは、入り口のガラスでできたファサード。

瀬戸内「 」資料館は、いや、宮浦ギャラリー六区は、直島観光マップに記載されている。
しかし、普段はオープンしていない。企画展が行われている時だけ開く。
そんな建築内で資料館で、日々仕事をしていると、レンタサイクルに乗った観光客が日々やってきて、開館していないことをぼやいたり、鍵のかかった入り口の扉をガタガタと動かして閉館を再確認している。

そのファサードに新しい作品を作ってみた。
漂着ライターのゴミのステンドグラス。光を通して美しい。
漂着物の標本のようなイメージ。資料館の新しい目玉。

海に流れ着く漂着物の100円ライターを浜辺で拾った。
でも、こういう漂着物は誰しもがオブジェにして”アート”にしやすいから”気をつけている”。
漂着物にはすでに偶然性や”味”や”物語”がある。それをパーツに立体物を作れば”アート?”になりやすい。僕も漂着物には魅力を感じるし、異国の南の島から流れ着いた椰子に思いを馳せる。でも、それで作品を作るなら、注意する。(見る人によっては微妙な差かもしれないが)漂着物を加工してくっつけて魚やロボットや何かしらの立体物にするようなことはしたくない、そのままに”並べる”だけで、よりシンプルでより深い作品にしてみたい。方法は、まず、漂着物ならなんでもいいからいろんな物を並べるのではなく、
・一つの漂着物だけを選ぶ
・並べ方や置く場所を選ぶ
・並べる順番は意味を与えない、偶然に任せる。
・なるべくシンプルに。なるべく複雑な意味を内包する。
それだけだけ。
ここには、瀬戸内「 」資料館のコンセプトである、”集めると並べる”のみの、標本的な見せ方、そして、パチンコ屋のイメージや大量消費社会に対する疑問などなど、いろんなコンセプトがあるのだけれど、ま、一言で言えば、”映え”を狙ってみたかった。
いやいや、”映え”というとSNSに振り回されているように聞こえるが、通常閉館しているこの施設は、いつも観光客が中には入れないが、そういう人が見たり参加できる要素を通りに向けて作りたかった、ということかもしれない。

20220411_141219 (1).jpg


・「このギャラリーはいつも開館していない」

この建築で、ファサードの可能性や重要性を考える上で外せない理由は、「このギャラリーはいつも開館していない」ということ。閉館しているからファサードの重要性が高まっている。これは建築家の理由ではなく、使う側としての理由だ。(僕は通常開館したいが。)
地元民たちは「宮浦ギャラリー六区はほとんど開いていない」という。宮浦ギャラリー六区が、いつも開館していない理由をよく聞かれるので、そのことにつういて書いてみたい。

宮浦ギャラリー六区は、元々、ギャラリーとして作られたので、作品あっての空間で、ただの空っぽの空間しかない。その中で企画展が開かれた時に開館するために作られているから、企画展が行われていないときは閉館している。当然といえば当然。だからと言って、美術館のように常に新しい企画をここで展示し続けられるか?といえば、ここを管理運営する福武財団は、”このギャラリーを企画展で回し続ける”ためのギャラリストや学芸員はいない。つまり、宮浦ギャラリー六区は、通常、ハードのみが存在している空き家状態で、たまーに展示でオープンしている状況にあった。ただし、直島観光マップには他の施設同様に掲載されているので、観光客は回ってくる、しかし、基本的に閉館状態。というわけだ。(建築家の作品として外観を鑑賞する、という見方もできるが。)

瀬戸内「 」資料館は、僕は、そこに寄生することになった。
しかし、この企画の構想段階では宮浦ギャラリー六区ではない場所が想定されていたが二転三転してここに流れ着いたし、資料館の企画は宮浦ギャラリー六区という建築家によるギャラリー建築と合わないと直感で感じていた。(その理由は以前に何度も書いたのでここで書かない。)
結局、僕は移住し、通常は空っぽだった宮浦ギャラリー六区に、テーブルと椅子、空っぽの本棚を置き、毎日ルーティーンワークを始めた。月曜日から金曜日、9:00-17:00は、館長が作業をしていて、ふらりと立ち寄る島民と話したり、島民と何かを一緒にやったり、自分の仕事をしたり、アーカイブや企画展を構想し制作し始め、すでに3年目である。

移住までした理由は、やはり子育ての環境が第一だったが。自分が島で資料館を作るのなら、その土地の日常を見ながら、ゆっくりと時間をかけて積み上げていくべきだと思ったからで。それは、これまで”置いて終わり”のプロジェクト作品をこれまで何度も見てきたし。プロジェクト型の作品はそのコンセプトの中に”継続性”と結びつきを持ち、従来の作品形態の”置いて終わり”や”完成”を嫌う部分もあるはずだが、結局多くのプロジェクト作品はその”継続性”を産まず、そういうコンセプトやデザインだけが残された、”置いて終わり”の作品ばかりであることへの疑問。そんな中で、僕自身、これまでの数年かけて旅をして写真シリーズを作ってきたが、さらにその先の新しい作品として、プロジェクト型の作品、本当の”資料館”であり”アーカイブ”を作るのであれば、間違いなく、”継続性”について考え、できる限り僕がそこにい続けることが作品にとって重要になると、なんとなく感じたし、それは移住の一つの理由であった。

話が大きくそれてしまったので軌道修正する。

では。
宮浦ギャラリー六区が、瀬戸内「 」資料館として、いつも開館している施設になることができるか?
について書きたい。
なぜなら、僕としては、瀬戸内「 」資料館を近い将来、本当の直島の資料館にしたいと考えている。(作品として資料館的な体裁ではなく、作品であり普通の資料館として。)僕としては、瀬戸内「 」資料館は図書館でありミュージアムなので、公共の施設として島民にも活用してほしい。企画展の時だけではなく、銭湯のように通常営業したい。つまり「鑑賞者が入館料を払って見れる」と「島民が無料で利用する」の両方、つまり言い換えると「現代美術の作品として見れる」と「普通の図書館として利用できる」の両方を持つものにしたい。さらには、当たり前のことだけど、継続していくためには、最低限赤字を出さない、ということが普通に大切だと考えている。(素晴らしい理念のもと、過去の遺物を収集した民俗資料館が運営できず休館や埃をかぶっている光景をよくみるし、そうじゃない民俗資料館の在り方を提示したいし実験したい。)
この施設を客に開くには、作品を管理する受付や監視をする人や光熱費が必要となる。(あり得ないほどどんぶり勘定で)簡単な計算をしてみると、1日人を一人雇い、他の費用も考え、例えば、10000円/1日コストがかかるとする。そうすると赤字を出さないためには、入場料500円だとすると、毎日20人の入館者が必要となる。監視の人が2人必要なら毎日の入館者はもっと必要になる。こういう簡単な計算なしで、スタートして継続できなかった資料館は全国にどのくらいあるのだろうか、僕の作る資料館がそうならないためには、こういうこともある程度考えておきたい。
宮浦ギャラリー六区の空間はとても小さい。空間内をゆっくり歩き回っても数分。入り口から全てを見回すことができる。さらに、僕には島内の他の作家のようなネイムバリューもない。そこに500円払って入館するか?

現在は、年間1-2本の企画を資料館内で行い、その1ヶ月や2ヶ月のみ集中的に開館している。さらに今回のような3年に1回の芸術祭の期間もあいている。
では、さらに、通常営業をするためにできることは?

今、すでに挑戦しているのは。
・受付と監視を1人でできる動線。
・空間を小さく感じさせない。(密度を増し、さらに裏のへんこつにつなげて展開を作る)

今後やっていきたいこと。
・Webサイトを作り、蔵書の検索やイベントなどを見られるようにしていく。
・さらに、空間内の密度や展開を増やす

さらに先の可能性。
・週1や週2で開館していく
・アーカイブを継続的に続ける
・島民によっての資料館になるために地域と連携していく

どちらにしても、ファサードは資料館の顔。
今まではギャラリーとして、いろいろな可能性を持った無機質な雰囲気だったが、
もうそろそろ、瀬戸内「 」資料館としての個性をむき出しにして、宮浦ギャラリー六区に閉じ込められた中身ではなく、殻を破る挑戦の時期がきたのだろう。
とにかく、元パチンコ屋の宮浦ギャラリー六区が残している当時の建物の部分はファサードだけであり、さらに、瀬戸内「 」資料館は内部(入口ホワイトキューブ以外)は撮影禁止にしているので、このファサードをどう使うかは、作家に投げられた一つのミッションであり遊べる場である。

娘は自宅待機。
でも、子供は外に出たがる。
コロナとか自宅待機とか言っても3歳児は理解できないし。
歩いて数分の誰もいない浜辺に一緒に行くくらいは良いと思う。でも、外に出るとそこは小さな島で気を遣う。
結局娘は症状もなく、幼稚園も来週から通常に開くみたいだし。(僕はPCR陰性。)
家族三人でずーっと家にいるのも悪くないが、ドライブに出たくなる。

そこで、「よし!秘密基地作ろう!」と娘を駐車場の軽バンに連れていく。
後ろの荷台部分を掃除して、マットをひいたり机を作ったり、Ipadやスピーカーを置いたり、お気に入りのぬいぐるみも連れて行くと、子供部屋みたいに。

家族三人でフェリーに乗ってドライブへ。
娘は基本車を降りない方向で。
時々、妻が買い物をしている間に、駐車場に停めたその子供部屋で遊ぶ。
また、場所を移動して、また遊ぶ。
窓の外の風景が変わるだけで自宅とは全然違うし、
小さな島から出て、ご飯もテイクアウトで車内で食べるだけでも気分は変わる。
旅する子供部屋を得たような1日だった。

先週、瀬戸芸が始まった。
なのに平日昼間から家にいる。傍には娘、そして妻。
つまり自宅待機をしているのだ。
京都で開催予定だったイベントも中止に。

週末にはやはり多くの観光客が島にやってきた。
翌日の月曜日は美術館が休みで少し静かになったが、
火曜水曜も平日だが通りには観光客の姿があった。

で、
昨日、島内で17名の陽性が発表された。

一昨日、娘の園で別の学年に7名陽性(クラスター?)の連絡。
娘は陽性者の誰かと給食の席が一緒だったらしく濃厚接触の疑いとの連絡。
しかしPCRは受けられないので何もわからないまま、休園、全園児が自宅待機。
観光業や芸術祭自体に関わる人も多いので、この久しぶりの書き入れ時、
子供が預けられず、バタバタとしている人も少なくない。

ま、うちは、娘はいつものまま元気だから心配ご無用。
しかし、役場で働く妻も僕も大事を取り、自主的に自宅待機をしている。
ただ、調べると、別に濃厚接触の家族には特に制限はないが。

国や県はPCRを受けられるハードルを上げているので、
全国で実際には目に見えない感染者はもっといるだろう。
これは陽性者を増やさない策なのだろうか。
それとも、もうすでにコロナはインフル程度と考え、
深く調べる必要性はない方向にカジきりしていくのか。

僕自身としては、もう日々感染者数を追わなくなったし、
いつかかかってもおかしくないと思っている。
疑いがある誰もがPCRを受ける必要もない気がするが、
濃厚接触とわかっても受けられないのは困る人もいる。
だから普通に、受けたい人はいつでも簡単に安く受けられる環境になってほしい。
選択できるのが重要ではないかと思う。

もし僕が、この小さな”島の新聞記者/ジャーナリスト”なら、
この状況を今、こう書くだろう。
「芸術祭開始早々、島で感染者増大か!?」と。
沖縄だって、観光客が増えると途端に感染者が増大するわけで、
観光客のせいにする必要はないが、可能性はあると考えられる。


”実行委会長を務める香川県の浜田恵造知事は4日の記者会見で、前回の実績や感染状況などを踏まえた試算を基に、「県外からの来場者の発症見込みは多くて1日当たり2人程度だ」と述べた。「風通しの良い屋外で作品を鑑賞する上、屋内でも大声を出すことは想定されていない。来場者のクラスター(感染者集団)の発生は考えにくい」と説明した。”
 (「毎日新聞」4月13日)


直島だけでなく、高齢者の多い小さな島で何も起こらなければ良いが、やはり心配だ。
島内のバスなどは観光客で一杯だし、それを島民も使うし、
島民の運営する飲食店には時間帯には行列ができているし、
観光業を営む島民も多いので接触は避けられない。

小さな島々を観光客が巡る芸術祭。
コロナの中で何が浮き彫りになるのだろうか。
関わっているアーティストとして、運営している人々の頑張りに泥を塗る気は全くない。
美術館以外に”芸術祭”があるから国内のアーティストたちに発表の場が増えているのも事実。
さらに、コマーシャルギャラリーやマーケットに乗れない作家たちにとってもそう。
しかし、”芸術祭”というフレームに疑問を持ち、変化していく真っ只中に自分達は立たされている。
僕は、コロナ禍において、転ばぬ先の杖で、全てのイベントを中止にしていくタイミングは終わったと思っているし、瀬戸芸をおこなっているのは賛成。ただ、何かが起こった時にどのように対処していくか、によって未来は大きく変化していく局面だろう。

IMG_3882.jpg

(執筆中)

瀬戸内国際芸術祭の1日。
4月14日は、学生の春休みも終了した平日だし、雨で寒いし、コロナも治まっていないし、観光客の姿はまばらだった。
資料館のプロジェクトにとっては、久しぶりに外からのお客さんに見てもらえる機会が素直に嬉しい。だからと言って「展覧会オープン」の特別な日かというと、何か変な感覚。なぜなら今日も、展示空間の裏では「窯工部」の人々がワイワイ集まっているし、夕方からは小学生向けの塾「しまけん」も動いていて、これまで2年(プロジェクト的には3年)の毎日毎日積み上げてきた日常の延長でしかないのかもしれない。

資料館は芸術祭や展示のために作るオブジェ的な作品形態ではない。「準備期間→完成→オープン」や「準備期間→完成しなかった→オープン(作業を見せながら)」とは全く違い、準備期間と完成が分けられないのにオープンしている。前回の2019年瀬戸芸では空っぽだった空間内の棚にもだいぶ埋まって重みが出てきた。しかし、作品の完成(完全な完成はないが)はまだ遠い。そういう状況でのオープンだ。


・資料館の変化

この1年くらいで資料館のプロジェクトは大きく動いた。もちろん地元を調査して展示を作りアーカイブを作ることは進行中だが、そのほかが大きく動き始めている。
一つ目は、展示や収蔵庫/アーカイブの機能を「宮浦ギャラリー六区」に集約させ、それとは別に裏の廃墟だった元焼肉屋「へんこつ」に島民との活動や財団スタッフの課外活動を展開すること。空間の拡張。
2021年3月に始まり1年経った「直島窯工部」は、島民やスタッフや移住組などが徐々に集まり、コロナ禍で家に篭もりがちの人々が作陶をしながら交流(日常の愚痴や他愛もない会話)を楽しむ、重要な場所になってきている。僕も含め移住組の同年代の部員にとっては、日常の多くが子育てや家族のために時間をさく中で、大学の部活動のような「窯工部」はそれぞれ自分自身のための時間を取り戻す場になるのかもしれない。それはさらに横へとつながりながらコロナ禍での小さな島で大きな意味を持っているのではないかと思っている。そして、「宮浦ギャラリー六区」では手狭になった「窯工部」を元焼肉屋「へんこつ」へ移動させるべく、大掃除とDIYが行われた。「宮浦ギャラリー六区」とお隣の元焼肉屋「へんこつ」の廃墟は徐々に接続していく。「へんこつ」自体は財団が管理する建物で、財団としてはゆるゆると使いたい思惑もあり、スタッフの課外活動「なおラボ」や「寺子屋」も動きつつあるが、雨漏りがひどく、焼肉屋の匂いもきつかったので、大きく活用はされない状況。「窯工部」や「なおラボ」や「寺子屋」など財団や島民の課外活動やさらには資料館のアーカイブに関わるような”野良”研究所的な部室的な場所を「へんこつ」を中心に動かしていく方向性が徐々に見えてきて、「へんこつ」の本格的な修理が始まることに。つまり、

瀬戸内「 」資料館=「六区」+「へんこつ」

「六区」=展示/アーカイブ/収蔵庫/プロフェッショナル →外のお客さんが直島を知る(有料)/島民の図書館(無料)

「へんこつ」=課外活動/”野良”研究/島民交流/勉強会/塾/憩いのば/食事会/レジデンス →島内のさなまな人々が集まり会話し学ぶ場所。ここでできた”野良”研究がアーカイブにさらに接続する

となる。
実は、密かに困っていたのが、これまで、「宮浦ギャラリー六区」で自分の作品/プロジェクトを行なっていて、外にPRする際に常に「宮浦ギャラリー六区」という(サイトスペシフィックな)建築家の作品に包まれてしまい見えにくくなってしまっていた。どうしても、それを消すことはできないジレンマがあった。島内のマップや瀬戸芸の作品紹介もまずは建築家の名前があり、その下に僕のプロジェクト名がくる。(美術館で展示した場合に、まず建築家の名前は来ないが、ここは特殊でそれを外すことができないのだ。)
ただ、「宮浦ギャラリー六区」を消す方向ではなくて、どんどん増幅して「へんこつ」も合体して、DIYで使いやすいように増幅して、ブリコラージュ的に、生命体のように変化していくイメージが徐々にできてきた。ある意味”スマートさやわかりやすさを放棄して、必要に応じて変化し増幅し、実験もどんどん行なって、カオスとなって進んでいく場”で良いのではないかと思うようになってきた。それは、初めの2年間、ずっと「宮浦ギャラリー六区」という建築家の作品に閉じ込められていたことへの反発かもしれない。”戦うより、もうどうでもいいや、やっちゃえ、カオスになっちゃえ”と。その場合、誰の建物かわからなくなると同時に、僕の作品であることも曖昧になっていくだろう、それを受け入れるということになる。
そういう意味では、資料館は僕の作品だけど、映画みたいにキャプションで、僕は「総指揮」みたいな感じで良いのかもと思えてきて、ではそこに「アドバイザー」「メインスタッフ」「空間設計」「デザイン」「スペシャルサンクス」なども書かれるようになっても良いかもだし。僕のものではなく、みんなのものとして手放しても良いのではないかと思うようになってきている。(その場合、さらに、この資料館を財団の物から島民のものへと”セミパブリック”?”半公共”にしていく必要も出てくるだろう。)


・資料館の作品性

僕にとってこのプロジェクトは、この2年を家族も巻き込み移住してやっているし、僕の中では、やはり、この20年、メインで長期で制作してきた写真シリーズ作品の流れの最新作であるという認識である。つまり、
「戦争のかたち(2001-2005)」→「torii(2006-2012)」→「津波石(2014-)」→「瀬戸内「 」資料館(2019-)」
さらにいうと、これまでの制作プロセスは、一人で旅を繰り返し制作してきたシリーズ作品に対しては、定住型。
「戦争のかたち(日本国内)」→「torii(日本国境外)」→「津波石(日本国境周辺)」
国内調査が国外へそして、沖縄という境界線上へ向いていき、ついに、生まれ故郷の近所の島に移住し、コロナ禍において移動を制限され、→「瀬戸内「 」資料館(故郷定住)」と流れきた。
制作スタイルも、
「戦争のかたち(旅/フィルム写真)」→「torii(旅/フィルム写真)」→「津波石(旅/動画)」→「瀬戸内「 」資料館(定住/アーカイブ・場作り)」
という感じで変化してきている。ただ、この流れの中に「Re-Fort Project(2004-)」が入るともう少しわかりやすい。このプロジェクト作品で2004年からやってきた”いろいろな人との協働としての作品”が、2019年のヴェネチアの「宇宙の卵」展でさらに加速して、そっちの流れと、写真シリーズ作品系の流れが瀬戸内で合流する形で、「瀬戸内「 」資料館」は動いている。個人の作品ではなく、個人の作品とは呼べない存在と向き合ってきたことや、いろんな人々と一緒に作って思いもよらない形になることを受け入れることを楽しめる土壌がここでさらに別の形態になってきているのかもしれない。

そして、もう一つ書いておかねばなのは、「戦争のかたち」「torii」はある意味で自分で始めて一人で完成させた作品に近いが、例えば「14歳と世界と境」はあいちトリエンナーレ2016のキュレーションがないと始まらなかったしその後の韓国や香港などのキュレーターや通訳など多くの協力者/並走者がないとできなかったし、今回の「瀬戸内「 」資料館」でも、福武財団による継続的なサポートや三木あき子さんによる並走、さらに建築の能作文徳さんやデザインの橋詰宗さんの力など、さまざまな能力の結集であることはさらに新しい。
作家の作品性を否定する動きが”地域アート”の中でもてはやされ始めているが、作家の作品性自体が変化し続けていることに僕は興味を持っているし、”なんでもあり”ではなく、(現代美術において中心ではなく周縁にいる)自分としても「作品」(英語では”Art work”であるが)として、批評性や評価軸の上で仕事を成立させることを放棄する気持ちはない。


・シリーズ作品の完成のタイミング

「瀬戸内「 」資料館」の完成とは?と考える。

「戦争のかたち(2001-2005)」「torii(2006-2012)」「津波石(2014-)」などの作品の制作プロセスとして、まず、①何かに出会い、疑問や興味を持つと、その対象を調査し撮影し収集を始める。(ここで途中で興味を失う対象も多々) 次に、②旅や収集を重ねて、さらに調査を進めていくと、ぼんやりしていた興味が自分の中でシンプルになっていく、その時、撮影/調査対象がはっきりして(写真で言うと風景の中に主人公が決まる)、シリーズ作品として流れとコンセプトができてくる。 ③さらに旅や収集を重ねて、ある量感やバリエーションやバランスが整っていく(主人公の決め方、シンプルに仕方、バランスと量感、あたりが僕らしさかも)。で、④ある時、それらすべてのバランスがある一定を超えた時、「あ、発表できるな」となる。その時、アウトプットの形が自ずと見える。ただし、⑤その後も、作品のバランスは流動的で、継続的に撮影/調査対象と向き合い続けるので、基本的に終わりはない。
と、簡単に書くとこんな感じ。
では、「瀬戸内「 」資料館」の今の状況は?完成のタイミングは?と言うと。
②から③へと移行し始めたあたりかと思う。
ただやはり「瀬戸内「 」資料館」にも完成はないかもしれない。なぜなら「瀬戸内「 」資料館」はアーカイブであるので継続的な収集が必要であり、プロジェクトを生き物だと考えると新陳代謝(展示や館長やスタッフの交代)しながらの継続が必要だと考える。そう言う意味で、まずは10年(あと6年程度)の継続は必要ではないかと思う。(その数字の根拠は僕のネタがそのくらいあるのと、僕が興味を持続し継続的にしっかり関われるだろう年月。)

さて。
朝5時からこの日記を書いているが、ただの覚書である。それともう一つ、瀬戸芸が動き始めた今日、何か、「瀬戸内「 」資料館」が自分のシリーズ作品の延長として、自分の作品になるという一つの手応えを密かに感じたからかもしれない。

島での写真ワークショップが終了した。
僕が写真を教えるとか先生生徒ではなく、僕自身も宝箱を開けるような楽しい体験だった。
島の6歳から10歳までが参加し、内容はフィルムカメラで1日3枚づつ日常や家族を写真に撮り、現像した後みんなでそれをノートに貼って写真集を作る、というもの。なんかこう内容の企画は、今まで考えなかったしやろうと思ったこともなかった。作家としては、誰でもやりそうな事や、すでに誰かがやって有名になっているようなことは基本的はやりたくないし、そういう意識で活動を続けてきた。だから、今まで距離を取ってきた内容かもしれない。「写真を撮って写真展とか写真集とかを作ろう!」みたいな。
ただ、意識的に考えたのは対象年齢。カメラを意識的にギリギリ取れる6歳からさらに大人になりすぎない10歳という年齢だけ、新しい実験ができたかもしれない。この選択は間違っていなかった。なぜなら、「写真家に写真が教えてもらえる」という期待が彼らにはない。「上手に撮ろう」という気持ちすらあまりない。体が反応して写してみた、それに近い。さらに、フィルムカメラなので、何が写っているか確認もできないので、より、いい写真を撮ろうなどと考えない状態だっただろう。まず、一人1個のインスタントカメラを渡して1週間撮って、みんなで集合したとき、実はストロボをうまく使えていなくて、ほとんどの子が夜部屋で撮った写真が写っていない事態が発生した。ただ、それも、撮ったけど写っていなかったという新しい体験になっていたように感じた。でもそれだと残念なので、もう一個みんなに配って、もう1週間延長した。
彼らは日常から、彼らの眼差しを拾い集めてきた。それをみているだけで、子供の目で旅をしているような新鮮で楽しい体験になった。こういう、一方的に何かを体験させるのではなく、こちらには新しい経験が生まれるのはWSとして成功だと思う。

IMG_6005.JPG たまに文章を書いてみたり。いい感じ。 IMG_6010.jpg

あと、写真を撮ってみるだけではなくて、貼り方を考えて、ノートに貼って、写真集にしたのも、結構成功したので。WSを開催した会場で写真集の展覧会をささやかに開くことにした。結構いい展示になっていると思う。

IMG_0538.JPG IMG_0595.JPG IMG_0555.JPG IMG_0603.JPG IMG_0726.JPG IMG_0789.JPG IMG_0800.JPG IMG_0792.JPG IMG_0809.JPG
photo by なおしまキッズポート
IMG_0762.JPG IMG_0444.JPG IMG_0489.JPG IMG_0498.JPG IMG_0466 (1).JPG IMG_0553.JPG IMG_0558.JPG
photo by なおしまキッズポート


IMG_5906.JPG

直島で密かに行っている私塾「しまけん」。
小学3〜5年生と一緒に調査や表現の楽しさを何かの形にするプロジェクト。
毎週彼らと向かい、彼らが得意な部分やそうではない部分を見つめつつ。みんなで何かの形を作る方法を模索した結果、なぜか、偶然直島を調べて作った「直島クロスワードパズル」が生まれた。それを「広報直島」に売り込み、コーナー化がついに実現!「広報直島」は島全域に配られる島内の最強メディア。「直島クロスワードパズル」は問題がゆるいのと、島民しか答えられない回答が多いのが特徴。昨夜、家のテーブルにそれを置いておいたら、妻が早速やっていたようなので、クロスワードは誰でも参加しやすいし、制作面ではリサーチからのアウトプットとしても有効かも。
僕も子供達もクロスワードに興味もなかったし作ったこともなかったが、今では立派なクロスワード職人になってきてきてる。クロスワードを作りきっかけは、みんなでつくる媒体としての試行錯誤が、「直島ウソ新聞」→「答えのないテスト」→「問題が難解で答えが超簡単なテスト」という流れの先に生まれた。詳しく書くと、まず彼らに日々の発見をノートに書かせていて、それから直島の日常をフィクションにした「直島ウソ日記」を書かせて、その流れで「直島ウソ新聞」を作ろうとしたが失敗。その後、「テスト」というフレームが子供達の共通の興味/言語だなぁと思い、面白いテストを作って誰かにやってもらおう!と「答えがないテスト」や「問題が難解で答えが超簡単なテスト」などを作ってみてすごく盛り上がったが、結局誰もやってもらえないことが判明、作るのは難しいし楽しいがやってくれる人がいないので失敗。そこから、「直島島民しかわからないクイズ」を考えるようになって、テストではなくてクロスワードパズルが良いのでは?となった。経緯。
クロスワードパズルは作ってみると、まず、答えから考えるわけで、直島につながる文字を考えて、完全に6×6のコマを埋めるのがすごく難しく時間もかかる。でもそれが全てが埋まった瞬間には歓声が上がるほど嬉しい。そこから、クイズを作っていく。そんなプロセスも面白い。さらに、先日、クイズに出てきた場所に実際に探検しに行ったり、島への関心は上がっていくきっかけになっている。

他のプロジェクト「14歳と世界と境」は中学生と地元新聞をジャックするプロジェクトだったが、今回は小学生と島内紙をジャックする。連載に向けて子供達と編集会議。これは僕の作品とかではなく子供達のアウトプット、だから僕の名前はない。でも、それを見て「ミッチーの名前がない!?なんで?」と気遣ってくれました。「ミッチーは縁の下の力持ちという役目なので」と。
新しいメディアを作るのではなくて、すでにある場所に余白を見つけて寄生するっていうのは、新しく作るよりも交渉とか関係を作るのも大変だけど、それも含めて自分らしいやり方のひとつだし、それが小さな形になったなぁと思います。広報直島の担当者の方々の協力に感謝です。そして、島の方が、島の子供の作るこのコーナーを楽しんでもらえると嬉しいなぁと願うばかり。来月の仕込みしないと。

IMG_5907.JPG

瀬戸内「」資料館のことをいつも考えている。それは作りかけのシリーズ作品のことをずっと頭のどこかで考えながらすごいしているのに近いなぁと最近思う。僕の作るスタイルがシリーズ作品ばかりなのは、大きな何かをドンとおいて終わりのような作品ではなく、じわじわじわじわ要素が増えながら形が徐々に出来上がっていく感覚。写真シリーズの場合、旅先や日常で1枚の写真が撮れて始まり、その旅が次の旅につながりながら、展開し、枚数が増えて、徐々にコンセプトも自分の中で言語化できていく。瀬戸内「」資料館はまだ言語化できていない部分もあるので、まだ完成は先かもしれないが、その時は突然やってくるだろう。
「直島クロスワードパズル」は額に入れて展示するわけでもないので、瀬戸内「」資料館、全体への影響は資料館の本棚に並べられると厚みが2ミリくらい増えるくらいにしか変化しない。収集した本屋購入した本を一冊ずつ選んで並べていっても、ほとんど変化はない。作品を作って置くという行為には程遠い、気が遠くなるような蓄積がこの資料館の力になると考えているので、このシリーズの完成形が見えるにはまだあと3-5年くらいは最低必要なのかもしれない。

IMG_5544.JPG

『シナモン500円弁当アーカイブ展』
コロナ以降、直島で安くてホカホカのお弁当を始めたカフェ”シナモン”。
500円(税込+ドリンク)で毎日毎日やるのはなかなか体力がいるはずだ。
今では、人気メニューの日は行列&即完売がなじみの風景に。
お腹が減ってはアートもできぬ!
資料館ではシナモンに毎日書かれる段ボールの弁当の看板を収集中。
コロナかでの”島の日常の記録物”として。

IMG_5551.JPG IMG_5562.JPG IMG_5563.JPG


第2回 2022年1月末

第1回 2021年1月末

IMG_7861.JPG IMG_7869.JPG IMG_7863.JPG IMG_7864.JPG

shit painting by my cat


IMG_5419.JPG

写真のワークショップをした。のは初めてだ。
参加者は5歳から10歳。となかなか若め。
今日はその一日目。

僕自身、写真家で(も)ありながら写真を写すことに自信がない(特に人物は無理)。写真を教えられる/教えたいと全然思っていない。そんなこともあって、写真家だから写真ワークショップをこれまでに何度か求められることもあったがしてこなかった。ただ、そういう中で、写真”的体験”をカメラなしで行うワークショップとして『見えない風景』というのをこれまで2010年から継続的にやってきていて、僕のカメラ感覚の共有体験としてのワークショップはこれ以上はないっと思っているのもやらない理由だったりしたが。ただ、今回は幼い子供が対象ということもあり、『見えない風景』ではなく、”普通の”写真ワークショップに踏み切って見たのは時間の流れがあったのかも。それは、彼らがスマホやデジタルカメラにネイティブだから。つまり、僕が手にしている(た)カメラと彼らが感じているカメラは似て非なるものになった。彼らと僕の持つカメラ感覚や意味の違いの部分をうまく抽出できたら、それは僕のワークショップ(写真を教えるのではないワークショップ)になるのではないか。ま、そういう期待。彼らと一緒に、フィルムカメラ(27枚どりインスタントカメラ)を使うことで、日常が”自分だけのものであること”や”有限であること”を強く感じる体験になるのではないか、さらに写真というメディアが映えるイメージを作るものではなく、過去と未来をつなぐ存在であることをより感じられるのではないかと期待して、(インスタントカメラを使った普通に日常を撮るワークショップという誰でも考えるしできることを)やってみることにした。写してもすぐに画像が見れない時間差、そして、他愛もないある日常のスナップを写真集にして保管し未来に開封される(だろう)タイムカプセル感(これに子供達は気がつかないだろうが、いつか。)。 テーマはシンプルに「自分だけの風景をとる」「近い人を毎日撮影する」「フィルムカメラで1日4枚1週間」だ。わかりやすいのが一番。これも新しい挑戦。
アイデアのベースには、『ようこそ先輩』の荒木経惟「イイ顔を撮ろう」(2002年1月27日)の記憶があった。その影響が今更結実した感がある。2002年といえば、ようやくデジカメが普及し始めた頃、200万画素の時代(現在は2000-3000万画素)。荒木の授業は母を撮るような内容で、「メメントモリ」が根底にあったように思う。人物写真などを決して撮らない僕としても、今更だからこそ、ようやく子供とフィルムカメラで何か特別な時間を作れる気がしたのかも。

開催場所はキッズポートという児童館的な子供のための島の新しい場。参加者が幼いこともあるし、工作が得意な子が集まるので、まずは内容を説明した後、インスタントカメラに愛着をもつために、ポスカで色を塗ったり絵を描いたりしてみることに。すると、見に来ていたお母さんがたから「この感覚懐かしい!」と声が上がる。確かに、高校生とかの頃、プリクラとともにインスタントカメラを自分で色付けして持ち歩く友達いたかも(さらにプリントした写真は無印のクリアアルバムに入れたっけ。)。意図せず、この世代を超えた妙な一体感を得ること。。

さて、意気揚々とカメラを手にそれぞれの日常へ帰って行った子供たち。何を捕まえてくるのでしょうか。
みるのが楽しみ。

WS_photo.jpg

ひとつ小言を書いておくと、参加者が顔の知っている移住組ばかりだったことは少し気になったかな。
基本的に、島の移住組は教育や文化的な意識の高い人たちではあるが、チラシは小学校全校生徒にばら撒かれたはずだから、何人かはじめての子がいても良いのに。。
なぜでしょうか? 島では文化イベントに無料で慣れてしまっているから? カメラや現像などの費用もあるので2000円(実際は3500円くらいかかるから安いのだが)がハードルになった? もし無料に慣れているのであれば、それも結構問題じゃない? 1日数時間のワークショップではなく、毎日写真を撮り計2回もあるのが面倒?
しかし、都市の美術館でワークショップをしても常連さんばかりだったりするし、原因はそれだけでもないだろう。
でも、僕の作るワークショップは時間もかかるし、絵や工作が上手いとか興味があるとかそういう人ではない人にも響く内容を考えているので、なんというか残念ではある。やはり『14歳と世界と境』(は『ようこそ先輩』を一つのモデルにしているが)のように、学校のクラスにお邪魔して生徒全員とかにやらないと、本当の意味がないと思ったりする。が、これは根が深い難しい問題だ。

小言が多いっすね。おやすなさい〜。

スクリーンショット 2022-01-04 9.12.43.png

明けましておめでとうございます。
今年もよろしくお願いします。

-

oh.jpg


:::::::::::::::

2020年はパンデミックの1年であった。
コロナ禍での巣ごもり生活の中、SNSで監視しあうそれはさながらSF世界のディストピアのようであった。
画像情報によって処理され、いいねの数で優劣が決まる優勢思想的表現をこぞって競う現代暗黒情報社会。
SNS監視社会をつぶさに観察し過ごす巣ごもり生活の中、自分が透明人間になっている事に気づいた。
年齢も重ね活動も過渡期を過ぎ、新しいムーブメントや流行、派閥そういった物とも距離を取り、
粛々としただ消費される情報を眺めているその様はいてもいなくても変わらない透明人間だ。
通常私は展覧会を3人称で作るのだが、この個展に限っては1人称、主観にまみれた利己的な物にする事にした。
それこそがこの現代暗黒情報社会での自分在りかだと信じて疑わなかったからだ。
そうして実態を持った透明人間に還ろうともするのでもあった。 
……

個展[透明人間]についての日記  小川泰 2021.12.27 facebookより

:::::::::::::::

友人のfacebbookの日記をここに勝手に埋めておく。
怒られたら消そう。

IMG-4874.jpg
(今回の展示で映像制作担当はmamoru)


今回『丸亀での現在』MIMOCAでは、旅ラボは美術館でのデビュー戦となる。
だから、旅ラボのことや、丸亀で旅ラボが行ったことを書きたい。

旅ラボの結成は、Tokyo Art Research Lab(TARL)がきっかけだ(もちろんmamoruと僕との過去の関係性あってだが)。まず、TARLの森司さんが十和田でmamoruが行なっていたプロジェクトを見て「TARLで何かやってみないか?」と声をかけ、そのmamoruが下道を誘って、旅ラボは結成されスタートした。
TARLとは「新しい分野である「アートプロジェクト」は、必要な職種や専門性などもまだ確立されていません。TARLではその新たな領域を開拓するために、アートプロジェクトの最前線の現場や各種専門分野から、講師やゲストをお招きし、人材育成や研究・開発を進めています。(プロフより)」という組織。つまりは、TARLというのは従来のアート作品ではなく、プロジェクト型アート作品が生まれてくる現場を立ち会ってきた人々が立ち上げた、”新しい分野である「アートプロジェクト」”を支えるためのスキルや人材を生み出す組織。つまり旅ラボは、「アートプロジェクト」を研究開発するための組織から依頼によって結成した「アートプロジェクト」グループということだ。(バンドに例えるなら、結成したバンドが大手レコード会社と契約を結び活動していくのではなく、大手レコード会社の企画によって結成したバンドがその後独立して活動の幅を広げた「モンキーズ」みたいなもんか。)
でも、「アートプロジェクト」というか「プロジェクト型アート」作品っというのは、従来の作品スタイルには収まらない形で(アトリエで描いた絵をギャラリーに飾るのではなく、街の中で市民を巻き込み作品が生まれてくるみたいな方向で)生まれてきたわけで、TARL内で「アートプロジェクト」を行うのはまさに絵に描かれた虎を捕獲せよ、と依頼されたような状況でもある。その中で僕たちに課せられていたのは”作品を作らない”ことだった。さらに、TARLを退職した芦部さんをグループ内に巻き込んでいくなどなど。なんか、メタ的すぎて、自分たちでもよくわからない構図の中で生まれたグループと言える。


TARL内で旅ラボが期待されていたのは、「アートプロジェクト」で行われている”リサーチ”の研究開発と言える。この”リサーチ”というのはアカデミックな世界でいう”研究調査”、とは少しズレた場所(アートの世界)で発達していきている”アーティステック・リサーチ”を指すだろう。当初は、旅ラボ自体がアートプロジェクト的な何かを行いそのリサーチのプロセスを記録し残す、という期待もあったと思うが、その場合、リサーチのプロセスを記録し残すためにアートプロジェクトを行う、というあってはならない逆転がすぐに予想できるわけで。そこで、旅ラボが行ったのは、「アカデミックの枠を超えてリサーチを行い表現を行う人々を調査し発表すること」。アートではなく「アカデミックの枠を超えて」いる人たちを対象にした。例えば、世界のお菓子を食べながら旅をして、その後、お菓子屋さんをつくった人、とか。旅ラボのプロフには「フィールドワークの手法やアウトプット、リサーチ過程における様々な要素、ふるまいに関するグループリサーチを旅やイベントを通して行う。」と書いている。あらゆるジャンルで実践の中でリサーチを活用しながら、別のアウトプットに至る過程や表現をしている人を探し歩いた。しかし、そんな中、やはり、いつかやってみたいなぁと思ってきたのが、「本気で”プロジェクト型”作品を作ろうとしている作家に張り付き、最新作の制作の裏側で彼らを記録しアーカイブをつくり、作品が生まれる瞬間や手捌きを再提示すること」だったが、TARL内で活動していく期間でそれは叶わなかった(4年目はその企画も提案していたが)。最終的に、4年間のmamoruとの試行錯誤で旅ラボだけが扱える記録方法と表現方法を開発はできていた。その一つは《フィールドノートの同時筆記》という感覚だろう。しかし、それもまた、試験管の中で開発された表現のようなものであって、本当の意味での”実践”として使われることはなかったと言える。鍛えられた筋肉が本番で動くのか分からないまま、TARL内での活動は終了し、旅ラボは活動の継続を考え、TARL内での最後の仕事として自らのWEBを制作。

そんな中で、丸亀でのグループ展の話が舞い込む。
対バンはKOSUGEとナデガタ。現在のアートプロジェクトを牽引するような2グループだし、古くからの知り合いでもある。こんなグループ展の作家の選択が本当にあり得るのだろうか?内容を見てmamoruと笑ってしまった。これはまさに旅ラボにとっての”実践”の場が舞い込んだわけだった。


IMG-4857.jpg

(今回の展示で空間制作担当は下道)

今回『丸亀での現在』MIMOCAでは、旅ラボは初めての実践を行なった。
参加作家として、他の参加作家の2組を調査することを表現として空間内に持ち込んだ。
しかも、最後にフィクション化したりして作品化するわけでもなく、記録して調べただけ。

2組の作家側からしたら、居心地が悪かっただろうし、最後の最後まで「お前ら(旅ラボ)のモチベーションは一体なんだ!?目的は一体なはんだ!?」と疑われ続けた。笑 それはそうだ、グループ展の最後の部屋に他の作家を紹介したり、語っているような映像を作っているんだから、気味が悪いだろう。

上では、旅ラボの成り立ちからのモチベーションを書いたが、もう一つ、作家としてのモチベーションというか僕自身(mamoruもかもしれないが)のモチベーションを書いてみようと思う。


昨年、自分の作品集を自分で編集しながら、自分の作品についての解説を自分で客観的に書きながら、「あぁ、誰か僕の作品について書いてくれないかなぁ…」と悶々としていた(寄稿者として2名より素晴らしい文章を書いてもらったが、常日頃からの悩みとして)。自分で作った作品について自分が語れるのはもちろんだが、予定調和で退屈であるし、恥ずかしい作業でもある。そんなある日、ナデガタの中崎と話す機会があった。彼もちょうど、自分の作品集を自分で編集制作していて、「結局、新しい角度から語ってくれる人って、中々いないよねぇ…。だからと言って、自分で何か書くのもねぇ…」みたいな会話になった。さらに、大学の一つ後輩の作家であり批評家の石川卓磨の書く展評がすごく刺激的だった事などもあったし。
「生み出された作品の批評を今の専門家たちが言葉にしていないのではないか?作家の友人たち(後輩同期先輩など)が言葉にした方がよっぽど新しい角度から新しい光を与えてくれるのではないか?」などという感情がストレスが溜まりに溜まっていた。批評や言葉の専門家が育っていない、それはこれまで多くの人がそれには言及してきたし、最近では、卓磨や他のアーティストが批評を意識した私塾のようなものを始めたりする動きも出ている。

例えば僕の経験として、よくある事といえば、展示を見に行って誰かの新作を見て衝撃を受けたが、専門家から何も光を当てられないまま(もしくは噂レベルの高評価で)終わっていくのを何度も見ているし、(だからと言って作家としてライバルたちが声を出すこともないのは普通だろうし)、逆に、語りやすいだけの擦られまくったネタやロジカルで作られた新作らしい作品を堂々と語っている専門家(批評家や学芸員)を見るのは日常化している。
(いや、やっている人はやっている。もちろん。そして、下道の作品が語られるに値しないだけかもしれないが、もう少し続ける。)

正直、批評家や学芸員のような事は全く僕の仕事ではないし、そこを自分みたいな中途半端ができることではない。そこはしっかりと理解してるつもりだが…、なんか溜まっているストレスが…。
そして、この2組と僕らのグループ展という奇跡が起こってしまったって事で。なんだか、色々な気持ちも相まって、「おっしゃー!ガチで作家として他の作家を近距離からガン見して記述し語ってみようじゃないかー!こいつらここが面白いぞーって!やったる!これが最初で最後だー!」と、妙なテンションで立ち上がってみたわけだ。

もう一度書くと、批評家や学芸員のような事は全く僕の仕事ではないし、そこを自分みたいな中途半端ができることではないと思っている。
でも、この機会に、一度くらい、作家として、他の作家を全力で間近でガン見して、語ってみてもいいんじゃないかと思ったのだ。そういうのを、居酒屋とかでやるんではなくて、大舞台で人前でやってみた方がこちらも見る人も本気で届くんじゃないか、と。

ざっくり書くとそういうモチベーション「も」あった、ということ。


(つづく)

IMG_5177.JPG 丸亀で始まったグループ展は、コロナ以前に企画が始まり、延期が続き、寄り道しまくった挙句に、先週末ようやく完成した。まだまだ頭が混乱している中、経験を書き留めておこうかと思う。

最近では参加したグループ展が不本意な形で中止したり、リモートでの下見や設営を余儀なくされたりする中で。今回は同年代の作家が集められたこともあって、こんな状況下でのグループ展は何ができるかを話し合ったし、いつ始まるかわからないこのグループ展をみんなで進めてきた。作家が期待されることとして、”知らない地域をリサーチして”とか、”地元民と触れ合いながら”とか、”たくさんの来客を呼べる”みたいな、そんなのすべてが無残にもひっくり返っていく中で(移動できない、関われない、集まれない)。通常のグループ展がキュレーターとそれぞれの作家の間のみで進行するが、今回は参加作家やキュレーターそれぞれが住む地域から劇的に変化していく世界を見つめながら、月一回、馬鹿話を交えながらZOOMミーティングを重ねた。(その様子がレンチキュラー として形に。

紆余曲折しながらも、最終的には”普通のグループ展”に着地したし、タイトルも初めの企画書の『地方都市の現在、丸亀の場合(仮)』が2年経って『丸亀での現在』。これは最初の目的地と近いようで、似て非なるものだろう。僕にとって「コロナによって翻弄された」これまでの展示とは違い、受動的ではなく能動的にコロナと向き合って完成した展示はこれが初めての経験だった。ナデガタのように直接コロナを”ネタ”にした作品はわかりやすいが、そうはないKOSUGEと旅ラボの2組もコロナを経験した上で生まれてきた新作になっている。


旅ラボ作品は空間内には存在しません。(実際には外にもないし、作品でもない。)
僕らの展示物の内容は、KOSUGEとナデガタの制作プロセスを間近で観察し彼らを比較しながら調査したフィールドノート。2組の展示空間のすぐ後に作られた「KOSUGE&ナデガタ資料館」のような空間。マモルはそれを「カステラの耳の美味しい食べ方の提案」と表現したが、作家が作品を作るプロセスで削ぎ落として捨てていった部分を拾い集めて、再提示するような表現になっている。これはアーカイブの醍醐味であり、瀬戸内「」資料館での経験が違う形になったとも言える。マモルも僕もお互いに作家として個人個人の表現を作り続けた結果見つけた一つの実験場かもしれない。


そういえば、展覧会オープンの前日に、隣の空間で展示しているナデガタの山城くんが訪ねてきて、「僕らの音、うるさいかなぁ…?」と聞いてきた。僕はナチュラルに「僕らの空間はどんな音が響いていても、ここの環境として考えているから大丈夫だから。好きな音でいいよ。」と答えた。(そういえば、数日前に彼らの映像作品内の曲をマモルに作ってくれないか?と勧誘に来た。絶妙な越境案だが、こちらも佳境なので断ったり。)
2012年のあるグループ展で、あの時は、自分の写真作品の展示空間に壁を越えて流れてくる彼らの作品の音楽が許せなかった。(あの時の企画は横のつながりを意識されていたが、残念ながら、)作家同士は壁を隔てて自分の作品を守りあっていたし、逆に相手を出し抜こうとしていた。あの時も同年代の作家たちだった。でも、その多くは初めての大きなグループ展で殺気立っていたし、経験者たちは達観視してアウトボクシング的に仕掛けてくるし、なんだか色々後味も良くなかった。(もちろん仲良しこよしがグループ展ではないが。)ただ今回、コロナという不可抗力も働いて、グループ展という根本に触れる機会があり、あの時のモヤモヤが一つ消化される瞬間が起こったようだ。
KOSUGEの絵画は自分の壁を超えて、ナデガタの空間まで動いていくし。笑 僕らの空間は、壁で閉じられているが、逆に他の二組との新しい関係性に開こうとしている。さらに、旅ラボは、展示が始まった今、カタログの編集作業に入っている(展示のポスターなども製作した)。風桶展でできなかったことを少しづつ更新して、さらに日本館での経験も底力になっている。


まぁ、誰になんて言われるかは分からないが、二度とできない展示になっている。今をしっかり刻んで、全部過去としてほり捨てながら、前進あるのみ。
挑戦の場を与えてくれた人々と一緒に作り上げてくれた人々に強く感謝している。

丸亀での展示がようやくスタートした。
コロナで延期に延期になっていたが、久しぶりにオンラインではなく1週間展示空間と向き合い仕上げた。今回は旅ラボでの参加なので個人作品ではないが、実験的な空間づくりになったと思う。この内容についてはまたもう少し落ち着いたらここに書きたい。

しかしもう師走。直島の生活も、もうすぐ2年。
今年2021年は基本的に、コロナであり、移動も大きく制限されていた。直島の資料館で日々のルーティーンを過ごしながら、子育て、さらに資料館で「窯工研」や「島研」などの島での島民との活動にも力を入れていた。これは、コロナで外からたくさんの観光客が来ないうちに、地元の島民同士との関係を作りながら楽しんでしまおう(忙しいとそうはいかない)と思ったからなのだが、結局は島での日常に加え、今まで通り活発に展覧会などの活動も行なっていたので混乱。さらに、様々な面で相談相手だった妻が島の役場での激務で、相談できる相手が全くいない中の孤独な戦いの日々。(島には愚痴を言う人も場所もないのは本当に参った。)とにかく、新しい制作生活スタイルに翻弄され続けた1年。
愛知に住んでいるときもそれ以前も、住む場所は”寄港地”のような場所であり、そこでの日常は次への準備のための補給である感覚が強かったが、直島での生活は子供という存在を中心とした日常のルーティーン(子育てを生活の中心にしたいと自分が考えたのだが)、これはある意味で初めての”定住”を意味した。それはコロナの世界を生き抜く方法としては偶然マッチしていたが、予想に反して展覧会などの仕事がこれまでと変化なく(さらにオンラインという慣れない方法も加わりながら)押し寄せたのでかなり激務となった。
まぁ、コロナによって翻弄される1年だった。
活動とコロナの関係を意識しながら、今年を振り返り書き残そうと思う。

(「忙しさ自慢」とかでは全然ないので、そういう目で見てしまう人は見ない方が良いだろう。)


【1月】

・展示『下道館長の自己紹介展』(瀬戸内「 」資料館)
島の閑散期1月に直島で島民向けに企画した展示。少し下道の作品を紹介し、地元の方に資料館の活動を理解してもらい、今後の協力のためにと。瀬戸内「 」資料館では1年に1本の企画ではなく、1年に2本企画展をしたいと思っていたし、島民の理解のためと思い、強引にやってみたが、自らの作品に対して中途半端な見せ方をしたことを大いに悔いる結果に。あと、自分で自分の作品を説明することにあまりにも疲れ果てた。逆説的に勉強になったということかもしれない。

・展示『次元の衝突点』(The 5th Floor)
東京の若いキュレーターのグループによって運営されるギャラリーでのグループ展。東京なので完全にオンラインでのミーティングと設営で行い、一度も現場を見ることはなく終了。空間が広くないこともあるし、担当者がとても繊細に状況などを共有してくれたこともあり順調に展示することができた。

・展示『コレクション展』(愛知県美術館)
新しく若手の作品を収蔵し開催されたコレクション展に参加。コロナの中、若手の作家を支援する意味もある活動。担当の学芸員さんと綿密に内容を詰めて粛々と進めてきた。デビュー作「戦争のかたち」をシリーズ作品として収蔵するために、地元の職人と額を考えて作って、良い出来栄え。さらに、愛知で始まったシリーズ「14歳と世界と境」の新聞を収蔵されたのはとても嬉しい出来事だった。この時期に収蔵された若い作品たちはこの美術館の中でどのように残され活用されていくのか。

・展示『境界のかたち』(おおぶ文化交流の社)
愛知県大府市の図書館で「14歳と世界と境」のアーカイブ展示を行う。新聞コーナーの近くで行ったので、結構たくさんの方が読んでくれていたみたい。愛知県美でのコレクション展では一部の新聞のみの展示であったが、ここでは全ての新聞のアーカイブを展示。香港の大館美術館以来にこのシリーズを整理し全貌を把握する機会になった。2013年、「14歳と世界と境」はこの大府の中学校から始まったので、その時の生徒にインタビューをしたいと中学校と交渉したがかなわなかった。ただ、当時の美術教師が校長先生になっていて、トークイベントに来てくれて、当時のことを好意的に覚えてくれていて感動。いつか、「14歳と世界と境」に参加してくれた生徒に感想を聞きに行きたい。

・芸大での卒業制作展の講評会
卒業する生徒からゲスト講評を依頼されて、気合いを入れていたが、コロナの状況があまりに最悪でオンラインに、しかし直接作品を見れないと全力が出せないので、断ることにする。熱い気持ちに応えたかったので残念。

・窯工部スタート
直島で陶芸の研究会をなっちゃんとスタート。


【3月】

・展示『信仰を支える地域の文化』(国立民族学博物館9
吉田館長のお誘いを受け、みんぱくでの震災から10年の企画展に参加。「津波石」を展示。みんぱくと現代美術の関係は2005年のブリコラージュ展以降、大きくは停止しているように感じていたし、川瀬さんと一緒に新しい風を吹かせてみたいと考えていたが、人類学と現代美術の展示が博物館で行われたことに静かに感動した。ただ、コロナが流行しすぎて、ほぼ開くことなく展示が終了した。

・展示『TCAA』(東京都現代美術館)
都現美のワンフロアを風間さんと二人で分け合い個展を自分で作った。TOCASはかつてのTWSでもあるので、懐かしい顔ぶれに助けられる。TOCASは都現美の空間が主戦場のキュレーターではないということもあって、巨大な空間と向き合い責任を取れるのは自分しかいなく、孤独に空間と向き合う時間。小さな自分の作品と巨大な空間。自分の作品は巨大ではないので、変な水増しはしないように細心の注意を払い、逆に照明にこだわることで空間を作り上げた。それは小さな自信になった。コロナは収まっていない時期だったので、展示からの帰りはPCR検査を受けてから島へと帰った。

・『TCAA』カタログとしての作品集出版
『TCAA』展覧会とと共に、昨年からずーっとプレッシャーを感じていた自分の作品集の制作。1作品ではなく、今までの作品をまとめる本。デザイナーは日本館で一緒に仕事をした田中義久さん、さらに編集は柴原さんに入ってもらい心強い。文章は神谷さんとドリューンが書いてくれた。素晴らしい出来になった。2百部くらいが手元に届いたが、販売ができない。下道作品の感想をメールで書いてくれた人に送料のみで送ってあげることをtwitterで発表したら、毎日”ほめの布団”で眠れる日々。新しい体験。


【4月】

・展示『compassionate Grounds』オーストラリア
震災から10年の展示。オーストラリアのメルボルンとブリスベンを巡回。「津波石」を出品。キュレーターは丁寧に進めてくれたが、コロナで空間も見れないし展示がどのような音や空間の環境に置かれているか、自分ではどうすることもできないもどかしさが募る。

・展示『日常のあわい』(金沢21世紀美術館)
シリーズ「ははのふた」を21美の1空間で大々的に見せる初めての機会に。かなりシンプルな空間構成にしたが、成功だったと思う。担当キュレーター二人は以前、一緒に仕事をしたことがあり、心強かった。中学校でワークショップを行なったが、コロナの中で閉塞感のある生徒たちは楽しんでいたように感じた。WSの時期に、美術館から近い海でサーフィンができたのは精神衛生上とても良かった。展覧会がコロナで期間中にかなり閉鎖になってそのまま終わってしまったことは大変に残念だった。


【8月】

・展示『瀬戸内「カラミ造景」資料館』(瀬戸内「 」資料館)
直島での資料館での企画展の第3弾。この春は時間を作って、久しぶりに東北にフィールドワークを行なった。コミッションワークとして、このレベルのリサーチを行い新作を作ったのは、初めてに近い経験だった。このコロナの中で、田舎の山奥を車で旅をしながら、孤独に思考と発見を形へと持っていったのは静かで楽しい経験でもあった。直島の主要産業である三菱を新しい角度で描く、それを島民の雄大くんとアンドリューと実践し、話し合いながら「直島の新しい地図」として形になったのも大きい。秋田から珍品も借りてきたり、展示は結構好評で延長して開かれた。犬島と直島をカラミでつなぐ新しいツアーも考えたり、色々と新しい”協働”や”コラボレーション”が生まれた。

【9月】

・「しまけん」スタート
直島で自らの私塾を始める。生徒は小学3年生ー5年生。三人。

・『瀬戸内「カラミ造景」資料館』インスタライブ
コロナによって、観光客が外から来れなくなった直島から財団スタッフとともにインスタライブで展覧会とトークイベントを開催。

・ようこそ先輩
直島の小学校で授業。全校生徒に存在を知られてしまう。


【10月】

・展示『ビエンナーレ・ジョグジャ』
インドネシアのビエンナーレに参加。と言っても、3ヶ月前くらいにメッセンジャーで以来が突然きて、「津波石」の出品依頼。「津波石」の作品をphotoと言っていたので、内容も理解してくれているか心配ではあったし、オンラインでの設営でさらに海外、さらにアジア。予想通りで、ざっくりとしていて、どのように展示されたのかもよく把握されないまま、展示はスタート。こういうことがコロナでは起きてしまう。自分の作品のクオリティを責任持って展示できない。そのことは予想していたのに参加した理由は、今後、インドネシアに取材に行ったり滞在する時の関係づくりのためでもあったし、そういう布石だと思う。しかし今後、コロナが落ち着いても、予算削減もできるし、展覧会でこのようなオンラインのみで設営をする依頼は消えないだろうし、作品によっては断る勇気が必要だろう。

・展示『コレクション展・絶対現在』(豊田市美術館)
『ビエンナーレ・ジョグジャ』のように、今年は、コロナの中で、自分で設営できず作品を出品しているケースに悩まされている日々だが、自分の手を介さないという意味では、収蔵された作品が展示される場合も同じだということを気付かされる。実際に展示された後に展示されていることを知り、見に行ったが。この展示では、とても丁寧に展示されていて、「本当の意味で作品が自分の手から離れて、生きている様子」を見れて幸福な体験であった。

【11月】

・展示『石に耳を澄ます』(ドレスデン美術館)
来年度開催予定のドイツでの展示が急遽、予定が早まって11月に。今年は「津波石」の出品依頼が多くて、とても嬉しい。ただ、展示現場も見れない、他の作品との関係も見れない中で、オンラインで展示を作ることにもうそろそろ苛立ちを感じていた。キュレーターは親身になって一緒に考えてくれたし、最善を尽くしてくれた。しかし、展示の状況も見れないのは辛い。

【12月】

・展示『丸亀での現在』(丸亀市猪熊弦一郎現代美術館)
この展示は、コロナで延期が続いたし、同年代の作家が集まったこともあって、コロナの中でグループ展は何ができるかをかなり話し合いながら展示を進めてきた。紆余曲折ありながら、最終的には”普通のグループ展”になったが、「コロナによって翻弄された」これまでの展示とは違い、意識的にコロナを意識しながら作り上げた展示になっている。受動的ではなく能動的。ナデガタのように直接コロナを”ネタ”にしたのはわかりやすいが、そうはない2組もコロナを経験した上で生まれてきた新作になっている。そう言う意味では、僕の中では意味は大きい。

小学3年むっちゃんと小学5年生あやのと本気で作ってみる。正解のないテスト。
私塾「しまけん」の初の表現はこのようなテストプリントになりました。
コピーしてみんなで持ち帰りました。

しまけんテスト02.jpg

作:あやの、むく

しまけんテスト01.jpg

作:あやの、むく

2020年3月11日にスタートした『山下道ラジオ』(山下陽光と下道基行)が、ついに100回を迎えました。たくさんのお祝いありがとうございます。ちょうどコロナが流行し始める直前に始めたこのラジオ。全世界がこんな状況になるとは予想もしないまま、毎週毎週しゃべり続け、1年半ほど続けてきました。徐々に閉塞感が支配する中で、常にどこか違う別の場所に存在する日常を意識しながら、自分の足元をこれまで以上見続ける毎日。そんな日々に欠かせない週一の一時間のルーティーン。多分、リスナーも50人以上はいるようです。これは自分のためでもあるけど、聴く人々も自分の地域に閉じ込められながら、どこか遠く離れた日常を送る僕らの日常や思考が刺激になってくれていることを祈りつつ。もう少し続けていこうと思います。
ありがとう。

『山下道ラジオ 第100回』
https://youtu.be/VQoa_AQkilE

『山下道ラジオ アーカイブ(1回)』
https://www.youtube.com/watch?v=gyYYGZFpcuw&list=PLI14yGCeRYoUejQYyzGPeSqUtU2f-xC2J&index=17

半袖からジャンバー。秋を飛び越して、急に寒くなった。
休日、島から出て、岡山県美の星野道夫写真展に行く。
大自然とか動物とかにそこまで興味がない自分なのだが、彼の地球上の人間以外の生き物に対するまなざしは僕にも強く伝わってくるし、様々な存在の持つ様々な時間の感覚に思わず感動してしまった。そして、写真というメディアが撮影者のまなざしを宿すことができるのだという当たり前のことの再確認できた。コロナを理由に、色々と展示が見れていないのはやはりダメだ。誰かの作品に触れるのは栄養だという再確認にも。

10/7
朝、いつものように娘を保育園に連れて行こうと、本村の自宅から車に乗った。
しかし、この日も役場を過ぎたあたりから交通渋滞につかまり、10分で行ける距離に30分以上かかってしまった…。直島の朝のラッシュ、なんとかならないものか。

10/8
今朝の朝刊で、本村と宮浦との間に発生する慢性的な交通渋滞を解決するために、本村ー(学校エリア経由)ー宮浦間に地下鉄を作る計画が議会に提出されたことを知る。確かにあさや夕方の時間帯はバスも渋滞に捕まるので可能性はあるな、とタイムリーなニュースに驚いた。おそらく、宮浦から三菱に向かう道も朝の渋滞がひどいので、本村ー宮浦ー三菱となる計画なのかも。

10/9
直島三菱マテリアルの北側にある寺島。この小さな島の中腹に密かに存在し、一部の島民から信仰されてきたとある形状の岩「ち●こ岩」と「ま●こ岩」。これら岩が島南部のアートサイトに移動され公開されることが決まった。関係者は「これでもっと島の老人たちが元気になるのでは」と語ったという。”アートの島”の次は”子宝の島”にする気か?


………と、
次で8回目の小学生向け私塾《しまけん》で、「ウソの日記を書いてくるように」と宿題を出してみたので、自分でも少し書いてみている。直島の島民しか笑えない、小さなウソ。

さて、みんなはどんな「ウソの日記」を書いてくるのだろう。楽しみ。
子供と毎回分担して「直島嘘新聞」を発行していくのもいいなぁ。

仕事場の隣の公園で、ゆっくりとしたリズムの歌が聞こえた。小さな息子をあやすお母さんの優しい声で。「パプリ〜カ、花が咲いた~ら、晴~れた空に、種~をまこう、、、」。一瞬何の歌か分からないがどこか懐かしさが秋空に漂う。オリンピックに子供達を動員するために制作されたプロパガンダソング。「パプリカ」が遠い過去の子守唄のように聞こえた。

2021.10.6

〜執筆中ー

島で小学生に対する私塾を始めた。すでに5回目。
小学校3年4年5年の男女に1時間半の授業を週一でしている。
内容は書かない。
このアクションは、明らかに、キャリアを積んだ美術家の次のステップとして美術大学の先生になることへの、自分なりの抵抗/反抗ではあった。ただ、それは今考えると、美大生に対する教育への疑問ではなく、小学生に対する可能性に期待してるのだと思う。
たださらに別の角度から考えると。僕自身がもっと自分の可能性を見たいから、だと思う。
まだ、自分を歴史化したくない。何でもない流動的な自分で居たいから。
極端に言うと「まだ、消防士にもなりたい」しなれると思っている自分を消したくない、と言うか。美術のキャリアに頼りたくないと言うか。
つまり、僕の美術のキャリアが通用しない全然未知の小学年との世界に自分を放り込む。美大生に美術を教える先生になることによって、自分の活動の展開の可能性が閉じてしまうのではないかと言う恐怖だろう。
僕の目標は、10年後、僕との経験が何か別の形で芽が出ること。それは絵が上手いとか美術に興味を持つとかではなく、クリエイティブな八百屋さんになるみたいな、自分だけの仕事を見つける底力の一つになってほしいと思っている。
来週は何しようかな。

2021.9.30

ひらがなは全て読めるようになった娘。3歳。
日々、お手本を見ながらひらがなを書く練習も始めた。自分で勝手に。
ノートを見ると「の」「こ」「し」「た」「ふ」が書けている。
今朝、娘は鉛筆で初めて単語を書けた。
「ぶた」だった。
せっかくだし初めては、自分の名前にしてあげたかったのだが「ぶた」になってしまった。
さらに2番目は「たこ」だった。
何か罵る時に使うような単語になってしまったが仕方ない。

2021.9.6

無くしたと思っていた財布が出てきた。
島内ではなく、対岸の山中の駐車場に捨てられていたという。
無くしてから2週間後の出来事だった。
自宅前の小さな港の駐車場に停めていた車内から財布を盗み、現金などを抜き取ってその場所で捨てたのだろう。
しかし、2週間後でこの距離の場所に捨てた事を考えると、犯人は遠くから来た観光客ではないように思う。
もし、島民ではなく、犯人が対岸から仕事で島に来る人であっても、今日も何食わぬ顔で近くにいる可能性もあるわけだ。いっその事、現金を抜いて海にでも捨ててくれたら良かったのに。
すでに中身のカード類は停止し更新した訳だし、対岸の警察署に財布を取りに行くのが憂鬱だ。
気持ち悪い。


「小さな島にはプロはいない。」
そんなことを直島のある島民が話していた。さらに
「小さな島の人々は色々な仕事や役目を複数持ちながら支え合って暮らしているのだ」とも。
全くその通りだろう。
僕自身、最近、島にプロフェッショナルな意識が低すぎることを「海の家」的だと書いたばかりだったが、そのことについて、もう少し思考を進めてみたい。

「小さな島の人々は色々な仕事や役目を複数持ちながら支え合って暮らしているのだ」
と言われて思い出すのは、小笠原諸島父島に行った時のこと。週一回だけ東京から船で24時間で行ける孤島。
東京湾を出てそのまま南へ、甲板に上がっても周囲に全く陸地の見えない船旅を丸一日経てようやく島にたどり着く。まず島内で地図や情報を得ようと観光案内所に行くと、小さな島にそこまでたくさんの情報はないのだが、そこで島のガイドツアーの多さに驚いた。海や山の自然系ガイドツアーや歴史系や様々ガイド。都会なら一つずつおしゃれにデザインされたガイドがA4のチラシになっているだろうが、この島ではA4用紙1枚にずらりと15行くらいのガイドリストが何ページにもわたって並び、リストになっている。なぜこんなにもガイドツアーがあるのだろうか……。僕と友人たちは、その中で戦争遺跡のガイドを頼んでみることにした。60代の島民男性の方が数時間ほど島の戦争遺跡を詳しくガイドしてくれた。そのガイドさんは夜はバーを営むと話していた。
色々と島民と出会い話していくと、これらのガイドツアーは普段は色々な仕事をしている島民が得意な分野で観光客相手にガイドをやっているいわば副業の一つであることがわかった。小さな孤島で島民が様々な役割を持ちながら生きていくのは、とうに終始雇用が崩壊した都市部での仕事の在り方でも様々なアイデアを与えてくるように感じた。

その上で直島に関して思うことを、整理する。
直島も「人々は色々な仕事や役目を複数持ちながら支え合って暮らしているのだ」という部分はある。例えば、役場のAさんは夕方から子供にサッカーを教える指導員でもあり、お祭りでも何か大切な役割を持っている、とか。そういうことはあるだろうし、それは都会では少なくなった小さなコミュニティならではかもしれない。

ただ、この島の観光の産業を支えるのは、”アート”であり、世界に通用するプロフェッショナルな芸術や建築の仕事があるから人々が集まる。つまり「この島にはプロの仕事はある」のだ。
いや、かつてこの島を訪れた観光客はプロの仕事を見に来る目の肥えた人々だったというが、今はどうだろう?
2010年あたりから、芸術祭やSNSの影響で観光客の数は激増したがその反面で質はどうだろうか? 
僕は、アーティストにとってのハレの場所にケを持ち込んでしまったのだろうか?
…………

今の直島は、年間を通して安定した観光客がやってくるし、おしゃれなイメージがあるから、小さな島にはカフェやお店や宿が溢れている。船で岡山から15分(高松から30分)でコンビニもスーパーもあるし、島に住んでいる感覚が少ないが、観光客にとっては行きやすい”離島”と言える。言ってしまえば、都会的。日本いや世界有数の観光地であり、日々、観光の商いの人々が風景をどんどん変化させている。地元の人用の飲食店はほぼなくなった。島とはいえど「江ノ島」みたい?
ただ、逆に、この島は対岸から通う人々も多いし、島の工場では転勤する人も多いし、観光客にも慣れているし、言ってしまえば、離島などではありがちの「コミュニティの閉じた感じ」「移住者に冷たい感じ」がびっくりするくらい無い。そのこの島が持っている、都会から移住し生活するにはハードルの低い離島とも言える部分を、別の方向に活かせないか?と。 「おしゃれな観光地」ではなく「生活しやすい島」として。
直島は島としての良さも十分に持っているから。

(いや、島にプロはいる。
タコ取り名人もいるし、”アート”を支える人々もプロの意識を持っている。
まぁ、やはり、ただただ”アート”を観光で消費する事が加速しすぎて、生産的では無い現状に疑問を強く感じているんだろうなぁ。)

娘が初めて読めた言葉は「ふりかけ」であった。
それから1ヶ月、
もう既にかなりの単語がひらがなで読めるようになった。


昨日は朝から疲れていて、仕事場に行かずコンビニに行って、そのまま車で帰宅して、寝ていた。
5時間ほど車を家の前の海岸沿いの駐車場に留めたままだった。
だが、どうやら、車には鍵をかけていなかったし、助手席に財布を置きっぱなしだったみたいだ。
夕方、財布を探すとどこにもなく、そのことに気がついたが、すでに遅かった。
僕はお金やカードや身分証、全てを失った。
財布の中には、引っ越した時から貴重品を入れる場所を作れずにいて、全ての貴重品が入っていた。銀行やらキャッシュカードやらポイントカードだけではなく、パスポートから免許書、保険証やマイナンバーカードやら全ての個人情報も入っていた。

翌日の今朝、何もないので、妻から2千円を借りてポケットにねじ込んで家をでた。
妙に新鮮な感覚だった。
今日はなんだか体が軽い。
半分負け惜しみかもしれないが、事実でもある。

昨夜はカードを停止したりとバタバタと動き回った。
ただ、これで不必要だったポイントカードやらなんやらでパンパンになっていた財布を全て捨てられた。
自分の情報までも全て無くしてしまい、なんだか自分の存在が少し軽くなったようだ。
妙に清々している自分に気がついた。

近所のおじさんにそのことを話すと「島で車なんか鍵かけんし、今までなんもなかったのになぁ。外から来た業者とかかなぁ。」と。確かに僕も、いまだに誰かに取られたという気がしない。僕がどこかにおいてしまったのか、勝手に飛び跳ねて車の窓から海にジャポンと落ちたのか、信じられないし他人事のような感覚。
おじさんは一通り心配してくれた後、「まぁ今日は、新しく生まれ変わった日かぁ。そりゃええなぁ」と爆笑しながら去っていった。

新しく生まれ変わった日。それもいい。

昨日失った全ては複製可能なものたちだった。だから落ち込んでいないし、逆に清々しているのかもしれない。逆に、2年くらい使っているボロボロの手帳とかを無くした方がショックは大きかっただろう。


先日、土曜日。夕食後、(娘を風呂に入れて寝かしつけて)家で妻とつまみを食べながらダラダラと飲んでいた。この1年半の島の事、これからの1年半の島の事。僕だけ深夜まで痛飲し、翌日起きたら記憶がなかった。こういうのは初めてだった。

いや、1年ほどかけて作った展示がスタートしたのに打ち上げがない事ばかり。いや、打ち上げを企画して、みんなで飲んでクラスターとかになったら色々と迷惑もかかるし、なんでもかんでも理由つけて呑みたがる輩だと思われたくもないし、展示が完成してもオープンしても、しれっと「お疲れ様でしたー」と家に帰る。島外から友人が見にきてくれても、「ありがとー」って別れる。オープニングパーティーや友人との会食をしないのが当たり前のようになってきている。お互いに労をねぎらい、感想などを交換したり、雑談に花を咲かせたり、そういう機会が消えた。

あれ?そういえば、直島に引っ越してきたとき、開かれる予定だったパーティーもなんだかんだコロナで中止になった。コロナが流行し始めた第一波によって。
移住を決断した一つの理由だった、娘に体験させたかった島の秋祭りも島民運動会も一度も開かれないまま3年が過ぎ去りそうな勢いだ。小さな島の1年の禊ぎのような祭りや集会が開かれないのは様々な影響があるのではいか?

心を割って、近い距離感で話す。そういう機会が少ない。
デトックスがないまま、ダラダラダラダと日常が続いていく感覚。
小さな蟠り(わだかまり)みたいなモノはやはり顔を突き合わせて話すことで流されていく。
心のすれ違いや、不必要な喧嘩や、色々起こらないといいが。。。

そう言えば。尾崎さん!
ちょっとこのessay部分をファイリングするために、プリントするペースが早いと思います。
僕、結構書き直しているんで。1ヶ月に1回程度で良いかと思います。
引き続きよろしくお願いします。


IMG_3248.jpg


このessay部分、直島に移住して以降のものは「館長直島移住日記」として瀬戸内「」資料館内にファイリングしています。さらに、instagram上のアーカイブ「直島鍰風景研究室」も「日本鍰造景資料館」も、プリントしファイリングしています。紙化。

IMG_3246.jpg

しまけん とは?
http://m-shitamichi.com/daily-archive/post-225.php

ー(編集中)ー

島に引っ越して1年以上が経ち、色々と見えてくる。
島の良い部分もあるが、そうではない部分も。良くない部分をここに書くことは、ご近所さんや知り合いを責める言葉になるだろう。ただ、この島に住み、このコロナの今の島を記述するのは観察者である自分の仕事だと考えて、さらに自責の念も込めて書くとする。

直島では都会からいろんなスキルのある人々が移住してくる。彼らは自分のスキルを活かした新しい何かを作りたがる。(移住者の多い田舎ではよくあるのかもしれないが。)
「自分はこの島で何をやろうか。何か新しいやられていないことを立ち上げたい!」と。
僕自身も島に引っ越してすぐはそういう気持ちを持っていたし、今でも、この島で僕は何ができるか考えているし、何かを始めようとしている。
新しい何かを立ち上げる!とは、聞こえはいいが、田舎に住む地元民からすると、そういった新しい持ち込まれる物や変化はそこまで求めていないケースがほとんどであり、なのに移住者の多い田舎では様々な都会的な何かを良かれと思って持ち込もうとする。注意しないといけないのは、新しいものを持ち込まれると、前までの島の持っている環境や風景は変わってしまう。良くも悪くも。

もちろん移住者だけではない、そういう田舎に持ち込まれる都会的な何かは、どこか都会より尖っていないし、素の島の良さを引き出すというよりも、外から見られる島/田舎を内面化したような存在。それらは「海の家」的であるかもしれない。
直島は観光客が絶えないのもその傾向を絶対的に後押ししている。都会では買わないレベルの質や金額の物が売れてしまう環境。芸術祭の時にはバブル期のようななんでもバカ売れする状況がくる。「海の家」的とは、プロフェッショナルな意識やオリジナリティが少し低く、値段は観光客への値段で地元の人には高く、季節や流行が終わるとすぐに消えてしまいそうな。もちろん都会でもそう言うことは起こっているが数が多いので見えないだけかもしれないが、島の場合、「島にまだ無い、新しい何かを先にやったもの勝ち」「今のうちにやってお金を稼いで流行が過ぎたら潰せば良い」と言う感じがあって、小さな閉じたコミュニティ内でその椅子取りゲームもそのプロフェッショナルな意識を低下させているのかもしれない。もちろん移住者を責めたいわけではないのは理解してほしい。観光地という土地に住んで感じたことを書いている。いや、もしかするとここは「生活する」土地ではないのかもしれない。という疑問への答えは後で書くつもり。

まぁ、さて、
直島に約30年前に”現代アート”が持ち込まれた時、島にはカフェすらなかったし、観光客用に何も存在しなかったという。2005年に初めてのカフェができたときは、観光客も地元民も喜んだという。ただ、今ではほっておいても毎年10万人くらいの観光客が来るし、芸祭期間は50万人くらいは来る島。小さな島内はカフェや宿がひしめき合い、”直島”や”アート”というブランドに乗っかった様々なお土産が溢れている。来年の芸術祭を控えた島内は、今日も島の空き家や空き地に新しく宿やお店をやりたい人や会社が群がっている。
でも、少なくとも何もなかったこの島は、先人によって海外にも轟くアートの観光地になった。その産業を消費するばかりではなく、この島だからこそ都会では出来ない存在が生まれてくる可能性はまだまだあるはずなのに、と直島に住んで思ってしまう。小さな新しい産業の種を。

ここまで批判ばかり書いてしまったので、
ここから僕なりのこの現状に対しての前向きな提案/動きを書きます。

私事ではありますが、まずは、僕自身が実践していることを書く。
1、島の歴史や民俗などをアーカイブする図書資料館「瀬戸内「 」資料館」。
2、島の風景に何も触れずに、アートに頼らず、新しいガイドを作る「直島からみ風景地図」。
3、島民の人々と島の生活をよりクリエイティブにする焼き物の部活動「直島窯工部」。
4、アートはしない、でも勉強もしない、子供のための研究所であり私塾「しまけん」。

と、ここまで書いて、
「下道さん、これでお金を儲けられるのですか?産業になるんですか?」という批判の声が聞こえる。その通りであるので反論はしない。僕は既得権益の中で遊んでいるだけ? かもしれないし、そうではないかもしれない。でも、まずお金のためではない遊びの部分を最大限に広げて考えてみたい。
僕は、この島での活動は福武財団のサポートによる部分が大きい(もちろん島外で別の仕事も色々同時にしていますが)、さらに、妻が役場で働いていて共働きスタイルにしてくれているサポートも大きい、その上で自分が持てる小さな自由や小さな余裕を最大限利用して、この「お金にならない活動」を行なっている。
僕自身、今の直島の状況は「アートの観光のコンテンツをみんなで消費し続けている」状況だと思っている。それに将来を感じないから、上で愚痴を書いてしまったが。でも、その気持ちを胸に、この島の好きな部分をアートを使いさらに別の形に発展させたいと思っている。それは未来につながるタネになると思うからだ。すでに30ねん前に植えられたタネが発芽して出来た果実を消費しかせず、過去にリスペクトを持たず、そういう現状はいつか枯渇する運命にあるはずだ。今から新しいタネを植えて水をやらないと未来はない。
多分、そのタネを植える人々が少ないのがすごく気になって仕方ない。新しい何かを始める人も、結局は”アート”や既にある”直島”ブランドに頼っているのだ。いや、いるはいる、あの人やあの人。でも、ほとんどの人は、消費する人たちだらけ。できた果実に群がる人々。いや、いいんです、商いはそれで。でも、僕が話したいのは商いの話ではないではない。

実際に、この島に住み始めてみると、見えてくる良さがある。まずはしっかりとローカル感があり、ご近所づきあいなどは都会とは全く別の島感覚が残る。娘には色々と良い影響が出ていて、ご近所の大人や子供に遊んでもらい、挨拶なども上手にできるようになった。さらに「1歳からのネイティブによる英語教育があり」「外国人のご近所さんも多く」「外国人観光客も多い」ので英語の環境が近い、というのも小さな島という閉塞感がなく、外国人や英語が身近にあるのも面白い。他にもこの島は特別な色々と良さを持っている。だから、アートや憧れではなく、この奇妙に文化的に充実した住み心地をもっと膨らませていくことで、大人も子供もそういう”生活”ができるから移住したくなるような場所になったらいいなぁと思う。上に書いたすでに始めている実験はそういうタネである。

1、「瀬戸内「 」資料館」=アート作品ではなく、アーティストによる民俗図書館。
2、「直島からみ風景地図」=アートの観光地図には乗らない、直島の別の産業と人々の生活をみる地図。
3、「直島窯工部」=観光用陶芸教室ではなく、島民たちの集う部活動。
4、私塾「しまけん」=地元の子供と、絵もアートもしない私塾。

ま、どうなることやら。です。
僕の実験もちゃんと発芽するのか。

まぁ、成果が出てきたらここに報告します。ただ結構な未来になると思いますが。

IMG-3189.jpg 3歳の娘、ひらがなが少しずつ分かり始めています。 手探りで世界を掴み取って自分の感覚にしていく彼女の毎日が凄すぎて。 間近で感じながら、自分のやっていることがバカみたいな気持ちになりますが。 42歳のおっさんも”手探りで世界を掴み取って自分の感覚にしていく”のを これからもギンギンにぶっちぎるので夜露死苦。と静かに心で思うのでした。
IMG_3047.jpg
IMG_3012.jpg 初めて家族全員の顔を描いた。猫も含めて。

3歳の娘は、かれこれ半年前、いやそれ以上前から、文字の存在には気がついていた。
絵本の中に書かれたグニャグニャした羅列が文字でありそれを大人は音として読んでいること。
ただ、そのどれがどの音で発音されて読まれているかや、どのようなルールで書かれているかなどは理解していない。ノートにグニャグニャした羅列を書いてみたりすることが増えてきた。文字を書きたい気持ちが膨れていくのを間近で感じていたがその壁は中々超えられなかった。それは暗号を解読するようだ。
そこについ突破口が開いたのは先日、寝る前にいつものように絵本を取り出し表紙を読んだ時だ。
『ぶたぶたくんのおかいもの』をみて「どれが「の」なの?」と聞いてきた。そして、2つの「の」を指をさして教えてあげると本の中や別の本の中から「の」を探し始めた。たまに「め」も間違えて入っていたが、大きな第一歩だった。
翌日、紙に僕が「の」を書いて、下に書かせてみた。

IMG_2858.jpg

上が僕が書いた「の」で、下はそれをみながらゆっくり娘が書いた「の」。
なるほど。確かにこう見える。
それ以来、文字の練習に目覚めた娘。徐々に「の」が「の」らしくなってきている。
IMG_2851.jpg

文字を書いたり、本を読んだり、そのはじめての第一歩。
「の」かぁー。

スクリーンショット 2021-07-30 12.09.50.png

平日9:00-16:45以外は子供との時間として全力で島の夏を楽しみたい。
それにしても、コロナ直前のタイミングで小さな島に引っ越したのは奇跡だった。
もし3年住んだとして、あと、1年半。娘は5歳になる。5歳までの3年を島で過ごした経験はどのように影響するだろうか。記憶にはほとんど残らないだろうが。多分、「魚料理が好き」とか「海を見ると懐かしい感じがする」とか「ご近所さんに挨拶ができる」とか、いろんな影響は残るんじゃないかな。
島や瀬戸内の風景と向き合いながら過去や未来の長い時間の感覚を持って制作を進める。さらに、「ゾウの時間 ネズミの時間」ではないが、この3年は、僕にとっては一瞬でも、彼女にとっては別の時間の長さと意味を持つに違いない。このいくつもの異なる時間感覚を肌で感じながら、島の時間を毎日を歩む。


_

文化もいいが運動もいいね。選手たちの積み重ねた練習と精神に感動。
ただ、本当に日本でやっている意味はあるのだろうか。ね。
ここまでお金をかけて、コロナが爆増する中で。そう言う疑問を消し去れない。
毎回ギリシャ案も出ていたが、どこかの国境の境の砂漠の真ん中に毎回使うオリンピック村があって、そこからの中継で良い。どれだけ選手が頑張っても人々が感動しても、この時期に東京でやったことの功罪をきっちりと問わなければいけない。

IMG-2482.JPG

2020年3月、瀬戸内海に浮かむ直島に移住してすぐに、島の街並みに部分的に使われている「黒く鈍く光る煉瓦」が気になり調べると鍰(カラミ)煉瓦だった。鍰煉瓦は犬島でも有名なのは知っているし、先輩の現代美術家がこの鍰を使ってオブジェを作っていることも知っているので、簡単には手を出さないように考えていたが、直島の風景の中に生きた形で使われる鍰煉瓦を見ていると、何かこの対象物に対して自分らしい触れ方ができる気持ちが湧いてきた。
島の人々に聞くと、島内に戦前より稼働する三菱の製錬所でかつて作られたこと以上には詳しく情報は得られなかった。島民のアンドリュー・マコーミックと岡本雄大と一緒に「直島鍰風景研究室」を作り、日々、鍰煉瓦の風景を見つけるたびに記録しマッピングするようになった。そこで煉瓦だけではなく、直島だけで作られた鍰の瓦やタイルなどの発見をした。1年間、収集した写真や情報を元に、2021年8月「直島鍰風景地図」が間も無く完成。刷り上がってくるのが楽しみで待てない……。

僕が島で「直島鍰風景研究室」をやる意識としては、ただただ外から都会的なものを持ち込むのではなく、「プロフェッショナル」な意識を持った島民と長期的で制作して、どこで見せても見劣りしないちゃんとしたものを一緒に島から生み出し、世界に発表したいと思うからだし、メンバーの2人は一緒に協働することで、さらに一人では考えつかない方向に進んでいるし、一緒にそういう経験をしていること自体も面白い体験だった。

1年以上、Instagramをベースに島内の調査を3人で行い。最終的にデザイナーの橋詰くんに入ってもらい、「直島鍰風景地図」が完成した。1年半というのは長くはないが、それでも、きっちりと時間をかけて話し合って考えて調べた上で、世界中どこに出しても恥ずかしくないし新しいアウトプットが、小さな島でコラボレーションによって出来た。それはとても嬉しいこと。

僕なりにメンバー紹介すると。岡本くんは風景を見て深く考えることができるし、文章の構成/校正など編集者的ポジショニングが取れる、さらに島出身で三菱の工場に勤めている超ローカルであるバランス感覚も助かる。アンドリューは印刷物に対して素晴らしいセンスを持っていて、視覚的に深いコミュニケーションが可能であること、そしてアイデアマンで行動力があるし、あとよく日本の印刷物の英語訳にケチをつけているから今回は彼自身による完璧な英語訳を見せてくれるだろうし。笑 何より、二人ともそれぞれのプロとしての目の厳しさを持っている。

今回は、直島の鍰煉瓦をテーマに、僕らしく、風景に指一つ触れずに、新しい小さな視点を作れたと思っている。それは、犬島や直島で先輩の現代美術家が生み出したようなパワフルでオブジェ的な作品ではない、もう一つの道。それが地図という形で島で使われ続けるの可能性も最高だ。パブリックアートとしてではなく地図としてその土地に残る。何より素晴らしい3人のバランスだった。これは大きな一歩であり、早くメンバーとともに祝いたい。

内容についてはまた追々。まずは、昨日校了した喜びを描いてみました。

2021.7.28
IMG_2361.jpg

島で小学校2~5年生への私塾を始めます。
内容は以下。
すでに第1期生の募集は終了しています。

:::::::::::::::

美術家で写真家の下道基行が島で小中学生向きの私塾を始めます。
でも、絵も描かないし、写真も撮らないし、アートはしません。
何をするかと言うと、「自分で、ぎもんを持ち、しらべて、まとめる」ことを経験します。
最終的には、。子供による「子供論文」を作って大人に読んでもらえると嬉しいなぁと思います。

インターネットによって情報が簡単に手に入る時代、その情報は自分で選んで手に入れられていますか?誰かによって与えられているだけではないですか?島の子供の研究室(しまけん)では、子供達が自ら様々な事に「疑問」を持ち、それについて自ら「調べ」、調査成果をレポート/論文としてまとめ「発表」します。これは子供が論文を書くことを想定しています。「疑問を持ち」「情報を集め」「深く考え」「発表/表現する」力をつける私塾です。
僕自身がこのような私塾を始める動機としては、美術家として本当に大切なのは、「作るセンスや技術ではなく」、「色々な事に疑問を持ち」「自ら考え解決していく」力だと考えています。それはアートだけではなく、すべてのクリエイティブな仕事につながることではないか、全ての仕事をクリエイティブにできる人として育つのではないか。美術大学などで教える機会も多いのですが、もっと根本的な考える力を子供と共に学びたいと考えています。3~5カ月程度継続するもので、夏休みの自由研究には助けになりません。実験的な企画ですが、ご興味のある方はごお連絡ください。

場所 :瀬戸内「   」資料館
住所 :香川県香川郡直島町2310-77
駐車場 :無し
講師 :下道基行(資料館館長、写真家、美術家)
回数 :月2~4回(水曜日?) 3~5カ月程度
時間 : 参加者の家族と話し合いたいです
対象 :小学校2~5年生程度 
募集人数:3 -5名
費用 :実費(研究成果を掲載する紀要の発行費用など)
連絡先 :090-●●●●-●●●●(下道)

※資料館への往復の安全確保をお願いいたします。
※活動中の保護者の同席、見学はお控えください。

:::::::::::::::


やりたいこと。どんどんやっていこう。
「それ、もう誰かやってましたよ」とか、知るか。
当たり前のこと、普通のことを自分でやるだけ。
これは、僕なりの、コロナと五輪への反旗である。
誰かを批判して、気持ちよくなってる暇はない。
小さくて大切な歩みを進める。


戦後の日本は俺たちが繁栄させた という、おじさまたちの作った夢の「東京オリンピック」号は明日船出。国民の気持ちは置いてけぼり。東北の福島の復興、コロナに人類の勝利、などなど、全て何も成果を出せないまま、莫大な借金作って、空中分解寸前。明日は、世界中が見守る中、打ち上げ大失敗をオンエア予定。おじさまたちは我先にと責任押し付け逃亡/脱出している最中。2021年7月22日。
この恥さらしの歴史的大失敗を目の前で静かに胸に刻むのだ。忘れまじこの夏を。

_

きゅうはベロベロに酔っていますが。
文学賞や色々あり。
どうやら、このessayコーナーを読んでくれている人が、少なからず、。いらっしゃらることがわかりました。
よってm、最近はなんか作品やら自分のネイ面やらごちゃごちゃ、聞いてもくれない専門家に向けてかいていましたが。その専門家というのが投げる方向として間違っていたのかもしれないので。まずは、普通の日記に戻りmす。
、文学賞で、たくさんの人から感想など聞けたので、楽になれました。ありがおう。

『下道本欲しいぞ文学賞』の内容は、前回の日記で書いた。
これによって、毎日5人くらいから、今回の展示の感想が届いている。普段は聞けないような、今回の展示のリアルな感想、下道作品に対する感想などを、知らない人々から聞くことができたのは面白い。これはtwitterならではだった。(エゴサしてSNSの書き込みを見てみても、気の抜けたコメントや、逆に本人が見ることを意識した営業トークや、本人が見ることを意識した悪口などなど、為にならない書き込みが「ほとんど」であまり見ないのだけど、つい見てしまうと後悔してしまうことが多かったのでtwitterは辞めて気持ちが楽になったが、今回ははじめて有効に使えた気がする。)
ネット以前、展示を開催したり、本を出版しても、読んでくれた人の感想などはほぼ届いてこないものだし、ほとんど諦めていたのに、ネット以降は、誰かが書いたどうでもいい感想をみたくて仕方ない。ネット以前、人々の評価を知れるとしたら、売れ行きが良いか悪いかだった。でも商品ではなく作品の場合、売れる作品と良い作品はイコールではない。特に展覧会の場合、売れ行きなどでそこまで反応を見れるわけでもないので、何も反応を受けないまま、自分なりに反省や満足感を得ながら次へ進むことが多い。なのに、エゴサをしてしまうと、どうでもいい悪口一つに落ちこまされる。

そういう意味では、今回の『下道本欲しいぞ文学賞』は、ネット以前でもない、SNSでもない、ただ、ネット以降でないと体験できない、”聞こえてこない声を集められる機会”になった。さらに、エゴサはほぼ無意味なのも分かった。

漂着瓶が職人の手によって沖縄ガラスの作品になる。何気なく寄った浜辺から石を拾い上げ、ただ転がっている意味を持たない石から人の語りを聞く。日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだなと。今まで見てきたアート作品とは違っていて、作品の作り方にこういった技術があることが新鮮でした。


上の文章はメールで送られてきた展示の感想の一部。
(とてもいい文章だったので少しコピペさせてもらいます。。すみません。。)
これ以外にも、感想のメールの多くは現代美術の関係者ではなく、建築や社会学など美術とは別ジャンルだけど、風景と人々を深く観察するジャンルの人々からが多かったのが特徴だった。
そうか。つまり、僕の作品は現代美術の関係者ではない人々に届いている。
いや、もう少し詳しく書くと、普段僕自身が、”A面”と呼んでいる「戦争のかたち」「torii」「津波石」という作品のラインは、美術関係者からの反応はなくはないが、"B面"と呼んでいる「14歳」「沖縄硝子」などはほぼ反応がないのはなぜだろう?作品として小粒だからかなぁ?などと考えていたが、どうやらそうではないのかもしれない。別の場所に届いていたのかも。

学問の世界ではアウトプットは文章であり論文である。競い合う舞台は展覧会ではなく学会やジャンル内の書籍や発表会なのだろう。
ただ、人類学の川瀬さんのようにフィールドワークを動画で記録し、それ自体が論文であり映像作品であることを目指しているように。論文と表現の間の存在、文章ではない論文、いや論文とは別の形の調査の出口を探す研究者は現代たくさんいる。
多分、そういう人々に僕の作品は届いているし、新鮮に映っているのかもしれない。
そうか。
最近、「美大で学生たちがフィールドワークをしながら作品を作るので、教えてほしい」と特別講師として呼ばれるが、その授業の生徒の中には「もうフィールドワークでネタは手に入ったので早く絵を描かせてください、作品作らせてください」みたいな空気があって、がっかりしたことがあった。今回気が付いたのは、美大ではなく「普通大でフィールドワークをしながら論文を書くのですが、もっと色々な人に届くアウトプットの可能性を教えてほしい」という方向の方が僕にあっているのではないか?と。(誰が読んでくれませんか?笑)

僕の作品は、調べたことを文章化せず、様々な情報を圧縮して表現としてまとめる。そこには、フィクションがそこまで介在しない。フィクションがあるとすぐに表現/作品になるし、その作家の創造物になる。例えば、ゴミを素材にオブジェを作った瞬間にそれは”アート”になるように。誰でも簡単に表現者になれる。そこに素材やオブジェに対して深い思考はなくても、instagramやSNSを発表の場所にして、完全に表現者になれる。
僕自身、調べたことネタにしてすぐにフィクション化/オブジェ化してしまう自称”アート”だけでなく現代美術作品への嫌悪がどこかにあるのだと思う。

日々の断片から痕跡を見つけ、収集し、調査していく社会学に似たかたちを感じました。ただ、社会学と違い、分析するのではなく、集めた素材の順序、文体やスタイルを、下道さんはデザインを自らし、編集していく、その力が美術としての作品になっているんだな

その通りなのだと思う。
僕がこういう手法になったのは、偶然。美大を卒業して、旅をしながら雑誌に写真と文章を連載するスタイルからスタートし、雑誌連載から書籍を作るスタイルを目指したが、デビュー作「戦争のかたち」以降、それは叶わなかった。持ち込みをし続けたがすでに雑誌の連載にはスター文化人が並び入る隙間がなく、そのうち雑誌自体も衰退し廃刊していった。フィルムカメラも劇的にデジタルに変わっていた。つまり、頼れるメディアや舞台がない中で、専門家になれず、自分で発表するスタイルを作る必要に迫られてきたに過ぎない。いや、もちろん、美術の作品の中に興奮するほど面白いものは存在する。でも、それは美術に限ったことではない。

最後に、
『下道本欲しいぞ文学賞』は文学賞なので、実は送られてきた感想はフィクションだったのかもしれない。でも、それによってこの一週間は”褒めの布団”でぐっすりいい気分だったのは事実なので。それはどちらでも成功であったのかもしれない。
多くの感想ありがとうございました。明後日から発送作業します。


TCAAの展示が終了する日。
2年ぶりにtwitterに書き込みをした。
『下道本欲しいぞ文学賞』と題して、モノグラフを部数限定(部数未定)で配布しようと考えて、その告知にはtwitterがベストだと考えたから。

【都現美TCAA展終了!感謝のニュース!非売品の最新作品集モノグラフ「下道基行」(ADは田中義久さん!)を、部数未定で譲ります。【展示感想やメッセージ/住所/電話番号/名前】をonkochisin1214@gmail.comにメールくれた方から選び、【着払い】で突然送ります。(返事しません)無料。6月末〆切。】
↓↓↓
【メールを読んで選び発送します。あなたの名前とサインを書かせていただきます。転売防止用。笑 このモノグラフは国内外の美術館図書館や関係者などに配布用し。トークイベントで配る予定がオンラインになったので。本当に欲しい方の手に渡ってくれると嬉しいです。「下道本欲しいぞ文学賞」宛まで。】
↓↓↓
【2年ぶりのtwitter。いろんな人が知れるよう、リツイートなどよろしくお願いします。月末にメール読んで選んで発送しますので。ちなみに、風間さんのモノグラフは残念ながら付きませんので、そちらが欲しい方はどうにか自分で探すか直談判してみてください。こんな時期に展示見てくれた方ありがとう!】

このモノグラフは関係者に配る用の物で、有料では売れないし本屋にも置けないのは、悩ましい。ただ、無料で配布だと、転売目的やそこまで欲しくない誰でもが手を伸ばすだろう。本当に欲しいと思っている人々の手に渡っていないことはやはり気持ちが悪い。
会期中にトークイベントが企画されていたので、トークイベントに来てくれた方に無料配布という形を取ろうと計画していたが、イベントはオンラインになってしまい、やはり欲しい人の手に渡ることはなかった。
無料だけど、それなりの強い気持ちがないと手に入らない方法、さらに、自分の赤字や疲労にはしたくないということで、ルールを決めて配布することにした。
・感想やメッセージを書くこと →気持ちがないと書けない
・配布する人は感想やメッセージを読んで決める →全員ではない
・名前と住所を明記する →送るためでもあるが、名前を出して書く責任
・こちらからメールでの返事はしない →作家と直にやり取りをしただけの人への対策
・名前入りでサインをする →転売対策
・着払いで送りつける  →赤字を避ける

twitterに書き込みをするとすぐに反応が返ってきた。毎日5人くらいからメールが来る。全く会ったこともない人から展覧会の感想や僕へのメッセージが届く。絶対にエゴサでは読めないような感想をダイレクトに聞けて驚く。僕自身、褒められて伸びるタイプだが、最近中堅になったせいか褒められなくなったので、本当に励みになる。赤字にはならないようにしたが、発送作業などで大変かもと想像していたが、それ以上の収穫であった。さらに、自分の作品が届く人や場所を知れる機会として貴重な経験となった。(詳しい内容に関してはまた今度。)
あと、このtwitterへの書き込みは、配布終了後に消そうと思っている。

スクリーンショット 2021-06-23 11.20.48.png スクリーンショット 2021-06-23 11.21.14.png

https://twitter.com/michilaboratory/status/1407216340834820097


昨日終了した展示TCAAで、
「14歳と世界と境」に興味を持ってくれた人が結構いたようで地味に嬉しい。
2013年以来、発表してきたし悪くないと思っていたのに、全然反応はなかったから。(旅する本は反応はあったが新聞に対しての反応は皆無だったかと。)

興味を持ってくれた人が、深く知りたくてこのページまでたどり着いた時のために、作品の表面では見えないプロセスについて書いておこうと思う。いや、自分の頭の整理のため。(殴り書きです)興味ない人は意味がわからないと思いますので。


以前書いた「14歳と世界と境」の記事も添付する。旅する本について。(5ページ目)
https://www.nmao.go.jp/wp-content/uploads/2021/02/news232.pdf

「14歳と世界と境」という作品(シリーズ?プロジェクト?ワークショップ?)は今も継続的に制作していて、
一応、作り方を書いておく。と

①中学校の美術の授業の2コマ(二週間)使わせてもらう。
②1時間目、美術の科目の延長で社会人として活動する職業として”アーティスト”として大切にしていることとか作品の話や子供の頃の話をしながら(職業教育的に”芸術家”という仕事について話し)、「日常を観察すること」の面白さを話す。みんなもやってみよう!と宿題を投げかける。「それぞれの日常から「境界線」を探してください」と。さらに書いた文章の中から、地元の新聞に連載を作ることを発表。匿名でも発表できることなどを伝える。
③自宅や帰り道、家族や友人との関係、いろいろな日常の風景から「境界線」を探してみる。2時間目ではそれを文章として書く。基本、これらの文章は僕しか読まないことを先生にも了解を得ている。それは彼らと僕が共犯関係を結び、新聞の連載を社会に投げかけるため。文章が良くて採用する生徒には一人ずつ放課後に教室に呼び出しをして、実名か匿名かニックネームかを選んでもらい、掲載する許可をもらい、さらに文章を使わせてもらう代わりに僕から境界線の水をプレゼントする(文章と水の交換)。
④前もって交渉していた新聞社の方に出来上がった文章を二つセットにして10回程度の連載を新聞社の担当者と作っていく。毎回連載タイトルのロゴや文章の掲載方法は担当者との話し合いで決めている。
⑤週一で毎回2人の生徒の文章が掲載され続ける。人々が読む。コンビニでも買えるし、学校には送るので生徒たちも読むだろう。自分たちの文章が社会の中で公開されて、紙に印刷され、たくさんの人に読まれている。生徒達もドキドキしているだろう。
⑥展示する場合、掲載誌の連載部分に赤鉛筆で四角で囲み、紙面をそのまま額装して、展示する。ただ、街の中で新聞が売られ連載されている時点で作品としては成立しているが、それをアーカイブする場所を作るイメージで展示を作る。

※基本的に、このプロジェクトは中学校や先生が興味を持って手を上げてもらう必要があり、さらに地元新聞の無償の協力体制や理解も不可欠であり、あいちトリエンナーレに始まったが、その後も芸術祭とのマッチングがとても良く、芸術祭への参加の時に提案させてもらうことが多い。芸術祭側としては地元と関わりたいし、展示会場以外の街中で展示が行われることも期待しているし。つまり国内外の芸術祭を1回1回の連載のように繋ぎながらシリーズを成長させていると言える。ただ、芸術祭のために作ったシリーズというよりは、良い意味で芸術祭の置かれた環境や期待を”活用”させてもらっている。と思っている。
「下道、またあの企画を別の場所でやっている。ちゃんとサイトスペシフィックな新作作れよ」という外野からの声を聞いたことがあるが、国内は愛知と岡山(沖縄は芸術祭ではなく個人で実行)の2箇所のみだし、求められないのにこれ以上僕から押し付けてやる気はないし、その他は一つの国で1回しかやっていないし。それらが、大きな連載のようにつながりながら一つのシリーズ作品になる構想は、爆増する地域アートに踊らされて短期間にサイトスペシフィックな新作を作り続ける事を作家へ強いる現状への疑問と、それに対する自分なりの一つの回答/提案ですので。


それはそうと、
このプロジェクトは複雑だけど、最終的に圧出され抽象化もできているし、何よりやっていて僕自身が苦しくも本当に経験になっている。
毎回、中学校に行き、廊下を歩きながら異物として見られながら、教室で教壇に(先生でもないのに)立って、話し始める瞬間の緊張感、中学生達の眼差しとガチのやりとり、彼らから出てきた文書を初めて読める読者になり、彼らが放課後に会いにきてくれたり、出来の悪そうな生徒がキラキラしてたり、彼らの文章が街の中で新聞連載として大々的に発表されていくことや、新聞社の方とのヒリヒリする交渉や、一緒に紙面を作らせてもらう楽しさや、新聞社の方々の感想を聞くときや、、、、、ホントに全てが緊張感にあふれ、一度だけのライブを作っている感じや、新聞を記録メディアとしてシリーズ作品が出来上がっていくことや、全てが楽しいし毎回感動してしまう。


ただ、これまで、いろいろな場所でこのプロジェクトを作品として見せてきたが、反応はイマイチだった。(プロセスでもある中学校と新聞連載まではいい感じなのだが)、芸術祭での展覧会出品作品としての反応は、本当にかなりイマイチだったと思う。まぁ、ものすごい長いプロセスを経て、新聞の小さい記事を作っているのに、そのプロセスを一切公表せず、新聞記事のみを展示しているのだから当たり前か。と諦めつつ、プロセスをダラダラと展示で見せるのを絶対にやらないようにしていた。
(プロセスを映像にまとめて見せながら、その横に出来上がった物を置く、みたいな作品って正直野暮だと思うし、できるなら「プロセスも内包した物だけ」か、「プロセスが面白いならプロセスのみがより際立つ作品」が良いし、「映像と物/プロセスと結果」みたいなのはやりたくなるけど、どうしても僕には中途半端に感じてしまう。)

多分なのだけど反応がないのは、このプロセスを見せないこともあるだろうが、僕の中では「14歳と世界と境」が何年も続けて成長した状態を頭の中で想像しながらやっているその構想のようなもの、完成予想図のようなものがあまりに分かりづらかったのかもしれないと今になって思う。
例えば、5年かけて作ったシリーズ作品「torii」と比べてみるとわかりやすい。シリーズ作品は出来上がるまで公開せず、何年も旅をしながら撮りたまり編集が出来上がった段階で初めて発表される。プロセスなどはもちろん公開しない。逆に、台湾で撮影した写真を採れたてで台湾で発表するとか、韓国で撮影したものを韓国で発表するかと、、、そういう感じでプロセスごと見せながら徐々にシリーズとして完成する、そういう作り方を「14歳と世界と境」ではやっているようなものかも。いや、逆算しながらやっている1回1回も成立するよう作っているんだけど。
今回TCAAでは初めて今までのアーカイブ展としてシリーズ作品的に見せられる機会になって、ようやく全貌が伝わったのかもしれないし、だから今回、初めて、反応が返ってきたのかも。(2019年に香港の大館美術館でもアーカイブ展を行なったが、その時も反応はイマイチだった。)8年続けてきたし、来年はデンマークでの開催が決まっているが、「14歳と世界と境」は間違っていなかったし、まだ成長して、下手するとA面作品になるかもしれない。

さて、
もう少し踏み込んで別の角度から書いてみる。

「14歳と世界と境」は、”作品”として、変な構造を持っている。
生徒たちにとっては「ワークショップ」であり、新聞読者には「連載」であり、美術館の来館者にとっては「プロジェクト作品」として映るように、時間によってプロジェクトの”役割”が変化していくのだ。もちろん意識的に。つまり、まず、中学校を舞台に生徒たちが体験する時は、アーティストが美術の授業にやってきて、自分の仕事のことや日常を観察する方法を聞いて、自分でも日常の観察を行って、その文章が地元新聞に連載として載るという出来事。次に、僕は新聞社の方と協働して連載を作るが、その新聞を舞台に人々が体験するのは、新聞を購入して読むと毎日の様々な記事の中に、中学生が書いた文章と出会う出来事。さらにその先に、美術館でこのプロジェクトを見る人は、すでに国内外様々な場所の新聞で連載された新聞紙(に連載の部分だけ作家が赤鉛筆で囲んだもの)が額装されて並んでいるのを鑑賞することになるだろう。で、僕は、ワークショップという中学校でのライブ体験を作ることと、その成果を別の形で社会の中にぶつける場所を作ること、さらに新聞紙面の束という形で美術館に持ち込む、という全体のプロジェクトを設計して形にしている。

プロジェクトは中学校や生徒たちや新聞社の協力によって成り立っているし、下手すると作家作品への搾取構造になるかもしれないので注意している。(ワークショップで子供の作った●●を使って、最終的にはアーチストが大きな作品を作りました、という時に搾取は起こりやすい。)そうならないように「ワークショップ」「連載」「プロジェクト作品」というのをプロセスを同等の力で行ない、それぞれがその場で成立するように心がけている。プロセスを展示で見せないのはそのせいもある。多分、「プロジェクト作品」にすることだけに力を入れると搾取の構造が生まれるのはないか。


僕自身、美大で教員免許を取得まではしたが、常勤として中学教師/高校教師になることは考えなかった。でも、どこかで、中学校の美術の授業の可能性を感じているのは確かだし、「14歳と世界と境」への想いはそれもあるのだと思う。毎回、常勤の先生への敬意を忘れないようにしながら、思いっきり普通の授業ではできない授業をやってみる。生徒も先生もびっくりするが、上手くいくとものすごいグルーヴ感が生まれる。

岡山のある中学のクラスでは、少しやんちゃな男子が一番後ろに座っていてクラスの空気を支配していて。さらに、他の男子のグループが前を向かず会話をしていて、明らかに授業を妨害する空気が流れていた。結構辛い状況の中で聞いてくれている生徒に集中して授業を進めていると、一番後ろの席のその男子が急に「お前ら黙れ!授業が聞こえん!」と男子グループの態度を制した。放課後に担任先生から「彼が今まで一番興面白い授業だった」と興奮してたと教えてもらった。
他にも、フランスのパリ郊外の少し荒れている中学校で授業をやった時、やはり何人かの生徒の妨害によって、授業が進まないとき、こちらから「じゃ、僕が中学生の時に好きだった歌を歌うから聞いてよ」と言って、歌を歌った。そうしたら少し空気が良くなったので「誰か、好きな歌を聴かせてよ?」と聞いたら、何人かが教壇に立ち、歌を歌った。それは何かメッセージソングだったみたいで、みんなが聞き入った。そのあと、授業の集中力がすごく上がっていったし、「授業面白かった!」と感想を言ってクラスを出て行く生徒がいた。他のパリの学校でも、放課後に一人の女の子がわざわざ残っていてくれて、授業の感想を一生懸命伝えてくれたり。韓国では、日本のことや歴史のことを質問してくる生徒に面と向かって色々話していると、質問大会みたいになったり、校長先生が授業内容を気に入ってくれて話し込んだり。
一つのクラスを1年間担当するという先生の仕事は本当に大切だし難しい仕事だし、
僕がやっているのは”美味しいとこどり”なのかもしれないけど、
何か重要なことに少しだけだけど関わらせてもらっている責任を感じながら、毎回楽しみながらやっている。

あと、このプロジェクトで、作品では見えなくなる、影の立役者。すごく大切なのが、通訳さん。
結局、僕の話たギャグやメッセージはその通訳さんによって生徒に届く訳で、教壇という舞台で僕と通訳さんは一心同体で、毎回授業の後に、反省会をしながらライブをより制度を上げて行く。文章を読むのも大変だし。

まぁまぁ、長くなってしまいましたが、「14歳と世界と境」について、作品では視覚化されていない部分を思いつくままに書きました。
いやもちろん、作品を見るのに必要な情報ではないので。


今、2021年6月22日の深夜です。
なんか眠れません。
この国は、国民を乗せた暴走列車として、さらに加速しようとしている。五輪の話。ただ、半数の人々は、来年には笑えるジェットコースターだと思っているようだ。上下運動を次第に大きくしながら、すでに15000人の死者を出しながら、運転手はさらにアクセルを踏み込む。「止めてー!」「スピード遅くしてー!」という声に運転室は耳を貸す気など毛頭ない。ほとんどの人は諦めてしまいただただ席に座り、ある人は隣の席の人と苦笑い。誰も半年後の状況を明確に予想することができない。ワクチンによるコロナ収束後の未来からみた今は、一体どう見えているのだろう。

小さな島に引っ越して1年。
3年前の島の夕暮れ、神社にオレンジ色の明かりの中で秋祭りの練習している子供達の光景に遭遇したの移住を決めたきっかけの一つ。娘に見せたかった地域のお祭りや運動会や全て、中止のまま2年目に突入している。まずは3年住もう!と思っていたのに、まだ一度もどの行事も経験できていない。多分、国内の全ての中学生や高校生は、部活動や運動会や修学旅行とか思い出深い経験をできないまま1年以上をすでに過ごしただろう。少なくとも、これだけ国民を拘束しておきながら、そんな真っ只中で東京で特例のお祭り騒ぎを開こうというのは気が狂っているとしか言いようがない。
欧米ではワクチン普及で、収束ムードが流れ始めている。でもこの国では遅れていて、まだあと数ヶ月かかるはず。つまり、あと数ヶ月、延期できれば、世界は変わるはず。でも、ある一部の誰かが延期を許さないことで、この国はそれに巻き揉まれようとしている。その責任はIOC?政府?都?僕ら? 多分、国会答弁よろしく、うやむやのままにして、先人たちが築きあげた信頼感に泥を塗る。

香港では、1年前、いや数ヶ月前まで当たり前のことを口にしていた人々が、どんどん逮捕されて牢屋に送り込まれている。毎日。市民全員が精神的な拷問を受け、人間として当たり前の発言を強制的にできないように再教育させられている。僕が出会った香港の友人たちの息子娘はまだ小学校以下なので、ついこの前まで存在した西洋的な民主主義の生き方を知らないまま、今後中国人になる(すでに厳しい監視体制の中で同化教育が始まっている)だろう。彼らのことを考えると、日々ニュースに胸が痛む。遅かれ早かれ10-20年後にはこのような同化政策が行われたであろうが、日々、目の前で起こる強制的な同化政策の波。今、中国が香港や別の地域で行う行為に感じている胸の痛みや強い違和感を、100年ちょっと前の韓国で日本が行なった同化政策、自分たちが加害者である立場と置き換えて、今のことをもう一度心に刻む。
時代が違う?立場が違う?内容が違う?
そうやって逃げずに、前向きに学び続ける必要があると言いたいだけだ。
今と過去を同時に感じ、行き来しながら、自分で考える、自分の言葉を持つこと。それ以外に未来を見る方法はない。


僕はというと、早寝の加速が止まらない。
昨日は19:30に寝てしまい、今、深夜2:00に起きている。
昨日は夏至(19:20日の入り)、外はまだ明るかった。
もう一回寝てみます。

「なぜ、”フィールドワーワーク”を授業にはじめて取り入れようと思ったのですか?」

ある美大のファイン系(デザイン系ではなく絵画/彫刻などの総称)の授業で”フィールドワーワーク”をはじめてを取り入れるらしく、外部からほんの少し関わることになり、昨日先生方とオンラインミーティングを行ったので、こちらから先生に質問してみると。その答えはこういうことだった。
「作品を制作するときに、”自分の中から”何かを生み出そうとしている生徒がほとんどなんです。さらに、制作のために調べ物をするときにそのほとんどがインターネットの情報からなのも気になるんです。」
という問題点。
”自分の中から”という響きにどことなく懐かしい感じがした。なんだかすっかり忘れていたが、美大のファイン系の学生というのは、哲学書や美術史の本を片手にアトリエに籠って、自分の内面と向き合いながら作品を作るイメージってなくはないし、現在華々しく活躍する作家の中にも”自分の内面と向き合う”タイプは全然普通にいる。もちろん、そういうのが嫌いな学生は感情や自我を極端に排除しながら美術史や素材/メディウムと向き合いロジカルでドライな作品制作へと向き合っていたように思う。ただ、泥臭タイプorスマートタイプ、どちらにしても、制作はアトリエ/スタジオで完結できることになるし、”フィールドワーワーク”をする必要はない。そして実はどちらのタイプも「作品を制作するときに、”自分の中から”何かを生み出す」方向であり、「自分」そして「素材」と向き合う傾向が強いとういことから見えるのは、外部の「対象」への興味の欠落なのかもしれないし、その「対象」さえも「自分」であり「素材」の中でに入り込んで内向きになりがちなのかもしれない。(そう言う方が美大生としては健全であり、別にそれが悪いとは一言も言うつもりはないが。)
そういう意味では、僕という美大生は、そういう美大の流れから早々にドロップアウトしてしまい、社会に半分足を突っ込みながら、まずはただの旅人になったのだと思う。現代美術を目指すわけではなく、旅をしながらその先で、風景と人々と出会い、手帳にスケッチすることをカメラに変えさらに文章を書き、そして、疑問を感じる社会や表現や素材の問題をその都度、独学しながら自分勝手に、、、、、と変化してきたに過ぎない。その中で最も影響を受けたのがジャーナリストであればジャーナリストに近い存在になっていたかもしれないが、写真家や現代美術家の影響も結構受けているし、民俗学や建築などの影響も多かったから、今ここにいるだけなのかもしれない。(だから、美術関係者が僕の作品/活動に強く興味を示さないのも、美大生が憧れないのも、自分なりに納得はしている。)


しかし、今の時代、僕たちの時代に比べて、経済的な豊かさは目に見えるように低くなってきているし、少子化が進んでいるので、美術大学のファイン系は特に、生徒も先生も、現実的にならざる得ないのも事実。つまり、昔のようなモラトリアムや”寄り道”が出来にくくなっている。一直線に目的地に到達して安定したいと思う学生が多い。作家を目指す学生も「ロジックを学んで、センスが良く作品を作って、卒業と同時にギャラリーに青田買いされて」と言うのを目指すのは普通なのかもしてない。
でも、そんなにすぐに自分の道ってわかるか? 
先生や誰かの言う通りに進めば、早道できるのか?


僕個人が考える「作品や表現者の面白さ」と言うのは、「ロジックを学んで、センスが良くて、出来たすごくいい一つの作品」みたいなのでもなく、そういう創作活動の先に、自分の中で譲れない何かや、深い興味の研究対象みたいなのを、ずーっと追い続けている状態や姿勢だと思っていて、センスのいい作品や写真が作れてさらに続けられるならそれは一番かっこいいけど、そう言う作品が作れなくてもがいている状態を継続している孤独の中に居続けられるか、と言う意識もすごく重要だと思っているし、作品からはそういいう事が伝わってくるものだと思う。これは現代と逆行した精神論だとか言えるかもしれないけど、表現者でも研究者でも、自分が見つけたテーマを変化しながらも追い続ける姿勢をみるのが好きだし、自分もそうありたいと思っている。
そう言う意味では、逆に今や、ネットとスマホで”みんなが表現者”みたいになっているし、表現者になる時間もハードルも下がっているのは理解できるが(例えば、スマホで魅力的な写真を撮れてinstagramにアップして多くの人に支持されるような事)、僕自身はそれに対しても、上のような理由で僕なりの明確な線引きをしている。つまり、もがきながら、寄り道しながらも、時間をかけて、それを続けている事。

僕自身は、それをさせてもらえたし、応援してくれる人々がいたから、続けてこれた、それは本当に幸運でしかない。そして、他人にそれを押し付けたりはしないように気をつけたい。


と、まぁ書かなくても良いような事を最近書いているのは、授業をするための自分の頭の整理と。8月に展示があって、そこで文章を書くために、文章を書くモードに自分を入れていってます。
こう言う内容って、twitterとかに書くと、すぐに粘着質な対応を受けたりするので、自分の場所で書くのがやはり良いですね。

では良い木曜日を。

_

近所に住んでるのに、出会わないしほとんど思い出さない人がいる。
もうとっくに死んでしまっているのに、たまに思い出す人がいる。

基本、facebookは告知に使うようにしています。
その書き込んだ展覧会告知に「週末、見に行きます!」的コメントを書いてくださる方々に一言。展示をみて面白くなかった場合、次のコメントに困るだろうし、逆にこちらとしては見に行っただろう日にちを過ぎても何も言われないと結構気になりますし。行く気があっても、事前予告は避けて、行った後に、「見に行きましたー」と事後報告の方が、お互いに良いかなぁと思います。もちろん、お気持ちは本当に嬉しいのですが。


僕自身のSNSとの関係やバランス感としては。

facebook→展示などの告知のみに使用 (昔は、メールで関係者に一斉送信していたのがこれになった)
さらに、
twitter→ついつい、いらないことを呟いてしまったり、粘着質な人に噛み付かれたりしたので、かなり前にやめました。
そこで、
日記やつぶやきは、この自分のwebの中で行うのが、徐々にできたバランス感覚です。

作品や経歴を載せている作家のwebが数年前で止まっている現象をよく見かけるけど、僕の場合、SNSやblogで書くような日記部分をここの作家webにしてこまめにアップして、web自体も頻繁に整理整頓し続けるので、常に一定の人が訪問してくれているみたいです。大人数が見ないけど、逆に興味のある人だけがたまにわざわざ見てくれる場所になっていたら嬉しいし、このバランスは密かに気に入っている。
ま、何度か書きましたが、ここの日記は「土に埋めるつもりで書いています」ので。

スクリーンショット 2021-06-16 1.56.00.png


旅先のある田舎町で、朝早くからパチンコ屋に行列を作る人々を見ながら、スマホを手放せない理由について述べられたある本の一節(というかそれについて話されたネット動画)を思い出していた。


人類は、農耕を手にする新石器時代までの長い期間、狩猟採取の時代であったとされ、その長い時期に人類は狩猟採取しながら生存するための仕組みが脳内に作られ、しかも今でもその脳は機能し続けている。ついついスマホを触って時間を使ってしまうのは、狩猟採取の時代に作られた脳のシステムによって今でも人々を中毒化させることだった、ように思う。
その脳内の仕組みとは、生存するために不可欠な狩猟採取のための行動によって脳内に報酬系ホルモンが分泌されるといった話だったが。例えば、森の中に分け入り食料を探す時、その探す行為はただただ空腹によって嫌々行われるのではなく、探す行為自体が宝探しのような快楽として脳が反応しているという。まぁ人はギャンブルが好きな脳を初めから持っている訳で。つまり、食べ物を発見し手に入れる行為だけに快楽物質が出ているのではなく、探しているだけのプロセス時にすでに報酬系ホルモンが出ているということ。

(※うる覚えです。注意!)

最近、テレビを見なくなって久しい。時々、出張先のホテルなどで夜、何の気なくテレビをつけてみると、つまらない番組だらけで消せば良いので、リモコンをいじりながらついつい何周もザッピングをしてしまう。その8番組そこらのテレビ番組のザッピング行為、つまり情報を探し求めて彷徨う行為が、現代でいうスマホいじりになるのだろうと話していた。ネットの世界はテレビと違い、何か見つかるのではないかと彷徨える情報の森はとことん広大である。もっと有効な有益な情報を得られるのではないかという期待だけを持ちながらやはり無益で広大なザッピング行為を行なっている。何も得られるものがない、いや得たいものすら存在しないのに、深い森の中に分け入り食料を探す行為を行ってしまうのかもしれない。

人類は生存のために狩猟採取する必要がなくなったにも関わらず、日々、シャドー狩猟採取行為をしてしまう運命にある…………森をさまよい、浜辺をさまよい、食料を探す行為が、完全に生存には無意味な行為として、都市生活の中で形骸化して残されてしまった、ということか。
パチンコ屋という獲物が隠れた森を彷徨う人々もまた、その脳に支配されている。

そういえば。
最近、瀬戸内に引っ越して、サーフィンができなくなって一年が経つが、ようやくサーフィンという行動を客観的に見れるようにいなった。そうするとサーファーの行動の奇妙さが少し見えてくる。サーファー達はスマホを手に波や気候のコンディションを日々チェックし続け、陸にいながら波の様子を意識し続けている。波の立ちやすい浜辺=サーフスポットというのは海という大自然だが、有名なスポットだと、早朝から待ちきれないサーファー達が押し寄せる。彼らは、時々出会える奇跡的な波に取り憑かれている。最高の波に乗った瞬間の興奮は忘れられないのだ。サーファー達は海に浄化されたキラキラした目で「波は一期一会だ」という。何だかかっこいいけど、ただただ今考えてみると、この状況は完全に脳内が狩猟物質でギンギンに慢性化している状況で、これを利用して人工的に作られているのがパチンコなのかもしれない。連チャンやらの確率やら何やらを勉強して計算して、最高の状態のパチンコ台との「一期一会」を夢見て、我先にと朝から並ぶ人々、それもサーフィンも同じ要素が多い。分かる人だけが分かるルールや用語やらもあって、パチンコとサーフィンは似てなくない。
僕はパチンコはやらないけど、サーフィンにどハマりしていた愛知の三年。もちろんそのことで僕は生まれて初めて自分の体や健康を意識するようになったし、日々の天気や季節や自然などを気にするようになって、豊かな経験ではあったが。一方で、僕は日々、頭のどこかで波のことばかりを気にしていたし、スマホで波情報をチェックしていたし、暇を見つけてはせっせと海に通っていた。波があるだろう情報の日、朝一で海に向かう車の中では、脳内ギンギンにキマリまくっていた。
今では、「瀬戸内の島に移住」という絶対的なサーフィンと隔離された環境=禁サーフィン牢屋に監禁されて、ある意味で依存症が癒えてきたのか、今ぼんやりとそう思う。サーフィンは大自然と向き合うエコなスポーツだけど、みんな狩猟採取の時代の脳に支配されている状況なのだろう。でも、パチンコやスマホ依存と比べるともちろんエコではあるが、ただ、波の取り合いでルールや喧嘩もよくあるし意外と穏やかではないし、サーフィンも毎シーズン新しいウェットスーツやサーフボードやらの新製品や新流行が次々と出るし、意外とお金はかかる。

※参考リンク=【 Yahoo知恵袋「サーフィンとパチンコが趣味です。サーフィンと、パチンコ ...」】
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1235260462

パチンコとサーフィン、同時にハマる人っているのかな?と思い、検索すると、上のリンクのページ出てきた。
パチンコにサーフィンは勝る、と書かれている。
それなら、ギャンブル依存症で困っている家族や本人の解決として、サーフィンは有効なのかもしれない?
サーフィンは、海の上だからタバコも吸えないし、スマホも持てないし、自然の中で気持ちもスッキリするし、実は中年でもデブでも始められる乗れるし、健全なドラッグと言える?

「14歳と世界と境」はデュシャンの引用を多用した作品です。

というのは嘘で。
「14歳と凹と凸」もそうなのですが。
14歳も凸凹も彼らの”影響”かも。
https://youtu.be/Hu_w-0dwbBU
【十四才/THE HIGH-LOWS】
ダサいでしょ。笑
中二病?
僕はその言葉に強い疑問を持っています。大人ぶった冷ややかな。アツいのがサムいというのがかっこいい感じのダサさというか。

僕はこの人の音楽を14歳で触れ、その影響をもとに音楽ではない手段で、
さらに他の影響を混ぜ合わせてこれを作っています。
くそダサいでしょ。笑

金沢21世紀美術館でのグループ展がようやくオープンし、石川県内の鉱山跡を調査。小さな資料館のおやじさんと4時間も話し込んで余裕で船を逃す。
ようやく直島の自宅にたどり着くと、GWの観光地に押し寄せる関西ナンバーに怯えながら子守をする元の日常に戻る。
2020年はすでに遠い過去。展覧会は、コロナで中止や延期などもありほぼ消滅したが。その静寂からの、2021年1月から始まった怒涛の展示ラッシュが、ようやく山場を越えた今。いやはや、メールは滞るわ、記憶がないわ。いや、大変だった。コロナでオープニングもなく、始まったのか終わったのか実感も乏しい。
都現美にしても、作品集にしても、他の展示にしても、出せる力を存分に出したし、自分の中では色々と新しい体験/挑戦はあったが。今の所、良い感想はほとんど届いてこず、それらを言語化する機会もない。引き続き、非常に孤独な歩みを進めるのみだ。

このスマホの時代にみんなが表現者になり、日常と向き合う写真家という職業はほぼ絶滅した。それを許されるのは過去の作家のみ。それでも僕は、今の目の前のあたり前の光景に向き合い、独自の角度と切れ味で調査収集するだけのただの観察者であるので。
そんなものはSNSにあふれているしそこから収集すべき?ネット上に落ちている画像を収集して編集して作るべき? 本当にそうだろうか?

多分、それでも僕は旅をしてその場所に立つことを優先するし、古臭い過去の方法であっても。

1/3ー「下道館長自己紹介展」瀬戸内「」資料館、直島
1/8ー「次元の衝突点」The 5th Floor, 東京
1/15ー「2020年度第4期コレクション展」愛知県美術館、愛知
1/23ー「境界のかたち 現代美術 in 大府」おおぶ文化交流の杜、愛知
3/4ー「復興を支える地域の文化―3.11から10年」国立民族学博物館、大阪
3/14 作品集完成
3/20ー「Tokyo Contemporary Art Award 2019-2021 受賞記念展」東京都現代美術館、東京
4/11ー「Compassionate Grounds: Ten Years on in Tohoku」Composite, オーストラリア
4/29ー「日常のあわい」金沢21世紀美術館、石川


次は、8月に瀬戸内「」資料館の新しい展示。銅精錬所と風景をテーマにします。取材したり本を読まねば。
今年の後半は、8月、10月、12月、翌2月、と展示が続きます。この初夏に色々準備をしないと。。。


8月ー 「瀬戸内「鍰」資料館」瀬戸内「」資料館、直島
10月ー 未定
12月ー 「未定」丸亀市猪熊弦一郎美術館
2022年
1月ー 「瀬戸内「?」資料館」瀬戸内「」資料館、直島
2月ー 海外・中規模個展
春?夏?秋? 「瀬戸内「?」資料館」瀬戸内「」資料館、直島(瀬戸芸)


こうやってみると、来年夏までは結構埋まっているな。


焼き物の部活動”直島窯工部”をはじめた。
武蔵美窯工部の後輩、なっちゃんが直島に住んでいたことがあり、僕ら家族も直島に移住したのだけど、そこから「島で窯工部をやろう!」と盛り上がり、(なっちゃんが密かに準備していたことも手伝って)勢いで作ってしまったのだ。
そういえば、美術大学時代に二年くらい油絵科に行かず毎日陶芸ばかりしていた日々。大学卒業後に三年ほど陶芸教室で先生をバイトでやっていた時間。それから18年たって、再び作陶の時間がやってきた。久々に作ってみたが能力がそこまで衰えていないな。(元々そんなに上手くはないが。)
学生の頃は、部活動で陶芸を勉強するのは、先輩からであったり、雑誌や専門書を読み実際に窯場巡りだったが、今の時代作りたい形や作り方が、SNSやyoutubeなどで簡単に大量に調べられるので、ネットの深掘りも楽しい。(特にビジュアル的なアイデアは格段に探しやすい状況に変わったが、逆にいい意味でも悪い意味でもパクリなどもやりやすい環境なのだとも思う。ネットによって、アイデアやビジュアル的パクリは簡単になったし作りやすくなったが、やはり深さの無い存在が爆発的に増えているのだろう。石川くん的に言うと、作家ではなくクリエイターになり”全員が表現者”に、そして作品は消えコンテンツに。)

ただ、
陶芸を初めてみて、ぼんやりと「これはいけるぞ!」、という手応えがあった。
何が「これはいけるぞ!」かをここに書きながら考えてみる。


その手応えの一つは、普段、自分の”作品”を作っているときにもどかしかった何かがズレた感覚。一言で言うと、”食器”なら作品とは違ってガンガンプレゼントできるぞ、という感覚かもしれない。笑 いや、作品もお世話になった人にあげたりはするが。作品を作ることは今ではいつの間にか僕に取って大切な仕事になっている現実があり、それは大切なのだけど、変なプライドやら何やらも沢山くっついてきていて、なんか面白くないところもあって。ただ、自分にとって陶芸はそこに属さない自由さをまだ持ち得ている新しい場所/ラインなるかもな、と。
いや、島にくる前に同じように陶芸に出会い直ししていたら、陶芸すらも作品内に取り込んでいたかもしれない。ただ、直島移住と陶芸部が偶然に重なって、今の「これはいけるぞ!」を感じている。

島に移住してきてまず驚いたのは、多く採れた魚や野菜などもらうことが多いこと。「食べ助け」と島の人はいう。(”私がたくさん持っていても腐らせるだけだから、貰ってもらうのは私への協力よ”と言う、人に贈与しながらへりくだる、素敵な言葉。)直島では、とにかく、ご近所さんに何かをよくもらう環境がある。ただ、だからと言って、僕が「今度はこちらの番だ」と魚や野菜を自分で取ったり作ったりして、「食べ助け返し」をできるわけでもなく。引っ越したままの状態の家でなかなか人も招待できず(コロナもあるし)、これまで一年人からもらうばかりの生活になってしまっていた。”お金を介さない交換”の中でプレイヤーになれていないジレンマ。そんな中で、陶芸部で自分自身が作る食器によって、僕は独自の生産者になり、この交換の輪に入れるかもしれないというのが、”手応え”の一つなのかもしれない。(交換がモノである必要はないし、これが正解かはまだわからないが。。)

今の所、売り物としても、そして作品としても、陶芸を考えていない。
それは僕の周辺に陶芸家が沢山いるからかもしれない。僕にとって陶芸がプロではなくただの趣味だからかもしれない。でも、自分の制作活動の中には、根本的に”物の値段”への興味に関係していて、それが今くすぐられている。
例えば、食器というのは誰しもが使うものだから、値段が結構シビアに判断される。「このくらいのコップなら手作りでも1500円から高くても3000円以下でしょ」みたいなバランス感覚が誰しもあって、それ以上の値をつけると、すぐに「高い!」と判断される。労力に対してこの値段はシビアだし、すごくキャリアのある人でも値段がそこまで上がらない傾向にあって、生業としては大量生産になっていく。逆に、陶器でもそれが「置物」の場合は食器とは別の評価軸で値段をつけることが可能だったりする。さらに器だけど「茶碗」「花瓶」みたいな特別な価値がつけやすいものも存在している。「置物」は”使える”という判断基準から外れるし、「茶碗」「花瓶」が普通の食器と別の価値観を持っているのは茶道や花道というパフォーマティブな舞台をもつ世界がすでに作られている枠内だからだし、どちらもある意味でアート的な枠内(既存のリングと言うべきか)を持っているわけ。逆に、食器からお金的価値を排除して、贈与のアイテムと考える事で、既存のリングでは測れない場所に創作を持ち込みたいとか、リング自体を作りたいという欲望が作品制作と結びついているところがあって。(これは窯工部の先輩や、陽光くんの影響だな。ヨウコウ。)
まぁ、そんなことをゴタゴタ考えながら、逆に、今作っている”採れたての食器たち”は、”値段をつけない存在”として価値を考えるのはどうだろう、と夢を膨らませてしまう。

島の自宅に帰ると、採れたての鯛がコンビニ袋に入ってドアノブにかけられている出来事に対して、自分がどう立ち振る舞うのか…、これは試されているのだ。(これはアートでありロックの問題ではないだろうか、と。)

島に住む数年の間に、しっかりと技術もつけて、島の様々な家庭で普段使いに色々と使われていくと良いなぁ。いつか、「うちには下道さんの作品があるぞ。見るか?」とか島のおじさんが言っている光景、、面白いだろうなぁ。。。何十年か後に割れて注がれた食器になっていたり。。。さらに、僕とかなっちゃんの手を離れて、直島窯工部の部員にレジェンドが生まれてくるといいなぁ。。。


……………と、、、そのためにも、人々が喜んで使ってくれるレベルまで技術を持っていかないと。

忙しい忙しい。



TCAAの都現美での展示全体の制作で考えたポイント。
ここで書く内容は、こう見て欲しいということではなく、展示空間を作る時に考えていたことのメモ。書いとかないと忘れるので。忘れてもいいが。だから、作品単体の内容には一切触れていない。読み解き方は自由であるし、複数の作品のインスタレーションをどの程度意識的に作ったか、というだけの話。参考まで。
「作品自体が素晴らしければ、どんな空間や壁に飾っても素晴らしい」という人がいるならこの文章は蛇足かもしれないが、それは正しくもあり間違っている、と僕は思うのでかく。
メモがわりに、さらに展示に興味を持ってくれた人のために、書いておく。

【作品選び、空間構成】
・今回、展示空間に何をどのように置くか、なるべく決めないように進めた。ただし、展覧会スタッフ側はかなり前段階から、何を何点どのように置くか?という質問を締め切りを決めながらせっついてきたが、なるべくぼやかしながら進めるように、動いた。空間内にも、多めに持ち込みながら、どんどん削っていくスタイルをとった。
・最終的に選んだ内容は、「津波石」+「漂泊之碑/沖縄硝子」+「14歳と世界と境」+「新しい石器」+「Drawing the line (仮)」+「瀬戸内「 」資料館」の6プロジェクト。
・2011年以降、この10年間、シリーズ「torii」がたくさんのグループ展に参加するきっかけになったし、国内外で発表され続け旅をした。ただ、2011年以前に「torii」はすでに7割完成して2012 年にはしっかりと発表していた。そういう意味で、2011年以降は「津波石」やその他のシリーズを作りはじめ続けてきたが、「torii」ばかりが目立ち、代表作となっていった。その流れは、2019年に「津波石」がヴェネチア日本館で発表されたのと同時に終わっていった感じはあったが、実は、「津波石」やその周辺で、”「torii」以後”の思考と制作を進めていた10年。それを一堂に見せる。
シリーズ作品からプロジェクト作品への移行を見せる。個人作品から別の形へ。
さらに、その2011年ー2021年という10年、”「torii」以後”の作品は「津波石」をそのA面的作品にしながら様々なB面的作品と共にある。「津波石」だけが華々しくデビューしてしまったので、そのA面とB面同時に紡ぐ「アルバム」的な展示として今回は意識的に作った。(A面的作品=「津波石」「torii」「戦争のかたち」)
さらにいうと、まだ未完成の「瀬戸内「」資料館」は、「津波石」の先のA面的作品をプロセス段階から開示しながら進める現在進行形の最新作として位置付けて展示をしたことで、さらに先を意識させられるよう。「津波石」と「瀬戸内「」資料館」というA面作品の間に、B面で挟む感じ。これは、今回のカタログでも実践している。
・2Mくらいの壁が一つ立っているのは、この裏に中途半端な位置に柱があり、その柱がむき出しだと導線がかなり複雑になってしまうことと、さらに、柱を隠すこの小さな衝立によって、入った時には見えない作品がいくつか作れれるので、ページをめくるような体験が少し作れるから。


【照明と空間】
・空間が薄暗くなっていて、少し変わった照明器具で空間を作っている。この照明は特注でゼロから照明担当者と考えて作った。もちろん、フラットな照明でも作れる展示内容なのだが、このようなインスタレーションを作った理由を書くと、全ての作品が別々のプロジェクトでありながら、混ざり合っている箇所が多く、関連性を持っているから。壁によって一つ一つ囲まず、それを鑑賞しながら、客は回遊できて、どこまでがどのシリーズであるかが少し分かりにくくしている。そのシリーズの枠組みを、上から垂らす照明で光の「島」を作り、壁を使わず囲う。そういう意図で作っている。
もちろん、作品の全体が「島」に関わることもあるし、「海」をテーマにした作品も急遽制作し入れている。「島」に対して「海」、隔たりと接続。
・高さ3Mあたりまで垂らされた特注の照明のコンセプトは、「空間内に光で島を作る」「ボルタンスキーみたいに裸電球や光源の意味が出ないように注意する」「高い天井を意識させないために下に光を落とすが、傘や電球自体がカフェみたいにデザイン的になりすぎない」「あったかい雰囲気は少し残しつつ、研究所や博物館のように機能的でドライな照明」。

【展示空間内や作品内の文章】
・「14歳と世界と境」「瀬戸内「」資料館」「漂泊之碑」にしても、作品内の文章が半端なく多い。ように見えるが、別に読まなくても伝わるようにできている。(読んだらさらに面白いかもしれないが、全然全部読んでもらおうとは思っていない。)文章や読み物の存在感である程度完成している。文章が多くてそれだけで見る気をなくす人には申し訳ないが、意識的に読むのに辛い量を用意している。

【海図】
今回、この展覧会の全体のつながりを作る存在として、照明とともに「海図」を意識的に扱っている。
使用した意味としては、デザインがかっこいいからではなく、この海図は「海」の移動/航海の為に作られた地図であることがまず第一。さらに、現在では海図は世界で共有されているものではあるが、近代の国民国家の枠組みを作る際に作られ、現在日本では海上保安庁が発刊していること。陸地の記されていない日本海だけの海図が存在し、「Drawing the lines(仮)」では、その日本海だけの海図を使用しているが、地図上に印刷された言葉/名前を全て消して使用している。
「津波石」+「漂泊之碑/沖縄硝子」+「瀬戸内「 」資料館」では、この海図にトレーシングペーパーを重ねてマッピングに利用しているが、「Drawing the lines(仮)」では、海図の上に書かれた文字を削り取って、ただの海の地図として使用し、シリーズとの関係性を作っている。


【地味にうまくいった箇所】
・風間さんの空間との切り替わり部分。この部分にも壁や布はない。照明のグラデーションを細かく指示しながら、緩やかな空間の切り替わりを、照明担当者と風間さんと話し合いながら何度も作った。このように、別作家との空間の切り替わりは様々な問題が発生しやすく、なかななかうまくいかないが、その部分をお互いに共有しながら、とてもいい形になっている。風間さんが協力的でこちらの意図を理解してくれたのも大いにあるが。この部分がうまくいっていれば、お客さんは気がつかない部分だろうし、そうなっていることを祈る。
この辺りは、ヴェネチア日本館での壁の立てない共同作業や展示制作が生かされたかと思う。


山下道ラジオがおかげさまで1周年!
人のために話している感覚はなく、人に聞かれている感覚を持ちながら自分たちの話したいことを喋るだけのラジオですが。
一週間のルーティーンの重要な一つの要素になっています。
今後とも、適当にお付き合いください。


https://youtu.be/yliUgxhRqHs


ようやく東京都現代美術館での展示がオープンできた。
東京都のアワードの受賞記念展示。美術館の巨大なワンフロアを風間さんと二人で分けて、それぞれこの一年以上かけて作ったものを空間内で完成まで持っていけた。のはたくさんの協力があったからだ。結構いい展示になっている。

今回の僕の展示は、2011年以降の作品を一堂に集めて、それらの作品群が独立して見えながらも、緩く接続しながら一体化する展示空間を目指したし、それは形になって見えた。2012年、同美術館のグループ展内で、シリーズ「torii」を国内でデビューした同じ場所で、シリーズ「torii」以降の10年の試行錯誤の現在進行形を見せる機会となった。3倍近いの巨大な空間でもなんとかできるし、もっとでかくてもビビらないなと自信になる経験だった。

しかし、今回は色々と疲れた。。。

ヴェニスでは、メンバーそれぞれの持ち場を分け合っていたし、キュレーターによる並走があった。お金の話とか事務的な話とかはキュレーターがさばいてくれて作家が気を揉むことがないようにしてくれていたし、建物や空間との関係は建築家やインストーラーさんとの協力があったし、展示中に「本当にこれで良いのか?」という疑問をなんどもなんどもみんなで話し合いながら完成に向かっていったし、完成後にも語り合ったし。
それに比べ今回は、アワードの展示なので、展示にキュレーター不在の環境の中で、メールのやり取り、空間から壁たてから、ライティングから作品の展示方法、カタログの構成や文章や写真などなど、一人で考え、一人で決定し、一人で指示を出し、一人で筆を擱く。いや、もちろん様々な人々の協力を得ている。ただ、僕にしか「考え」「決定」できないことが多すぎた。。。
それは自分で決められるという特権であり、孤独な作業だ。
大きな経験をさせてもらった。

今回の賞は中堅に向けてのもの。いつまでも若手気分じゃダメだぞ、と。
中堅になると、誰も褒めてくれないし、アドバイスもコメントもくれないし、どんどん孤独になっていくのだろう。その入り口に立たされたのだろうか。
これまで中堅以降の作家が、中身が更新されないまま、作品の規模だけが肥大化していくのをなんども見てきたが、そうなるのも頷ける。 多分、一人孤独なまま、展覧会の規模と期待だけが大きくなるのだろう。(しれっと悪口?W) さらに、芸能人が占い師とかにはまってしまうのも、孤独が背後にあるんだろうね。誰も、相談できる人や強い意見を言ってくれる人がいない、ということかもれないなぁとか。

どうやって、思考を進め、柔軟なまま、前へ進んでいけるのだろうか。
楽しみながら、自らを深めていけるのだろうか。
布陣を考え直す時期にきているのか?
このまま個人経営、家族経営でいけるのか?

隣の部屋で、風間さんが所属ギャラリーのスタッフと一緒に戦い、出来上がった展示について、ワイワイと話していた光景が羨ましく映った。ギャラリーに所属するとこういういいことがあるのだなぁと思いつつ。
美術館から帰った夜や朝に、遠くの家族に電話しても、子育てと仕事が忙しく、電話も繋がらない。コロナだし東京の展示は見にも来れないだろう。これまで、家族経営でコンパクトで動きやすい布陣だからやってこれたのもある。でも、そのことで家族に期待しすぎていたのかも。家族経営の夢を捨てて、ギャラリーに所属したり、自分で誰かを雇うなど新しいプロジェクトの進め方を考える必要がきているのだろうか。


美術館と宿舎を往復するのみの生活。コロナもあるので、弁当を買って一人で食べて、ビール飲んで、寝るだけの日々。いや、本当に一人孤独な10日間だった。肌は荒れるし、腰も痛いし、ボロ雑巾のような状態でようやく完成。
制作はいつも孤独な作業だけど、今回はとにかく、孤独だった。
いやいや、まだ始まったばかりだ。

そして、コロナかだから、展示の完成を大勢で祝うこともなく、しれっと展示は始まった。

一つ、今回の場合は、同じ立場である、風間さんがいてくれたのは心強かった。彼女は一体どんな展示や本を作ってくるのだろう…とたまに考えることもあった。お互いに出来上がった空間と本を見ながら、言葉を掛け合った。多分、孤独の中で、道無き道を歩む中で、ライバルたちは時に一番の同志なのかもしれない。


今帰りの新幹線。
次の展示予定のリマインドの中で、
頭がぼんやりしている。


島に帰るために、PCR検査を自分で受けにいった。
結果が出るまでは1日、岡山で隔離生活だ。

【art for all|アーティストのための実践講座③|アーティストの「生活と移動」】
というオンラインイベントで。
サイパンや東大東島で調査や制作をしている若い作家さんから質問を受けてたのですが、タイムオーバーでブチっと切れてしまって、話が途中になってしまったので、ここにその答えたかったことを書いておきます。


■質問:
知らない土地でどのようにして調査や制作を手伝ってくれる方を探すのでしょうか?

■答え:
いろんなケースがあるのですが。
一言で言うと、とにかく、現地の人に、どんどん自己紹介をしながら、探し物を聞いて行くしかない。
ただ作家の場合、その土地のレジデンスや展示や芸術祭などに参加する場合は、現地の協力を受けやすいと思います。なので、そういう機会を利用するのも手かもしれません。例えば、僕の場合、「14歳と世界と境」というプロジェクトの場合、中学校でのWSと地元新聞での連載がセットで完成するので、こういう機会を最大限に活用しながら、プロジェクトを進めましたし。
ただ、シリーズ[torii]や[津波石]のように、いつ完成するかわからないプロジェクトを一人で継続的にやっているプロジェクトに関しては、その土地で自分が何をしに来ているかを伝えて、詳しい方や協力者を探し求めるしかないのではないかと思います。閉鎖的な土地の場合でも、やはりその土地に継続的に通いながら、宿の人や近所の人や役場の人やいろんな人に自己紹介をして、探していくしかないと思います。

コロナで色々と旅をしながら作品制作が難しい時期ですが、頑張ってください。

東京に向かって電車へ乗っている。
足が重い。
東京の美術館の巨大な空間に自分の作品を展示する仕事だから、僕が現場に行かないとかなり難しい仕事。
足が重いのは、緊張するのは、展示を作る前はいつものこと。

ただ今回、
自分に用意された空間は、27×16メートルで天井も相当高くて、これまでに体験したことのない空間だ。自分の作品はそこまででかくもないし、大胆なインスタレーションもしないので、一体どのようにこの巨大な空間と向き合い、納得いくものにできるか、不安しかない。でも、いつものこと。いつも搬入前は孤独だ。

さらに、
小さな島を離れてコロナの非常事態宣伝下の東京に10日も滞在しなくてはいけないストレスも重なる。本当に嫌だ。(美術館の側の宿に宿泊しそこの往復だけで基本済まそうと考えているが。)
今、直島で僕は、子育てや仕事や部活動など、日々のルーティーンがいい感じに回るようになってきたし、それをこの春からもっと加速させようとしている。この日常を加速させて、来年の芸術祭に日常感で挑もうと思っている。そんな時期に10日間もそのルーティーンを止めてしまうことへのストレスがあるのかもしれない。
だから、多分、僕は、今までになく、この小さな島に意識的に根を下ろそうとしている。ただ、島での妻の仕事や僕の仕事には近い将来終わりはあるし、ダラダラと長く住みたいとは思わないが。直島でのプロジェクトを、”置くタイプの作品”ではなく”根が生える作品”を目指そうとし始めたのかも。
だからこそ、東京へ行く足が重い。

すべてうまくいく。
すべてうまくいく。
重い足を前へ。
ただただ前を見て進めば良い。


:::::::::::::::::

写真家とは、他の芸術家とは異なり、固定した自意識を展開、展示してゆく事では 無く、自ら造り上げた自意識を基点として出発するのであるが、逆に、自意識と異なる人々、事事を自ら発見した、その瞬間から撮影を開始するのである。

(中平卓馬 1993年7月号「芸術新潮」)

:::::::::::::::::

芸術家は、ある意味で「固定した自意識を展開、展示してゆく」人たちである。
(さらに蛇足を付け加えると、”売れる芸術家”は、「社会的コンテクストを考え、メディア/メディウムへの配慮を行い、気の利いたタイトルをつけて、美術史や哲学史などの引用を上手に行い歴史との接続も忘れずに、固定した自意識をもしっかり見せれる」人たち、それが自分の仕事であると理解し行動できる人たちである。)

それはさておき、
ここで、中平が語っている写真家というのは、今では”古風な”写真家スタイルではある。ただ、この職業の流れの中に自分はいると読んで感じたのでここに貼り付けた。
(「写真」という言葉自体の意味に付いての言及はここではしないで話を進める。)
写真家の歴史は、写真とアートとの接続の歴史であり、写真を扱う芸術家である写真家は、やはり「固定した自意識を展開、展示してゆく」人である。写真家が「写真というメディア自体を考える研究者」である側面は共通しているが。中平が語っている写真家というのは、写真家が持っていた「観察者」であるというプロ意識かもしれない。それはスマホやSNSによって、全員が「観察者」であり「表現者」になったのかもしれないが、今でも写真家は”映え”や”いいね”とは関係のない世界の「観察者」として自分の仕事を理解し行動できる人たちであると僕は考えている。ただ、これは今では”古風な”写真家スタイルではある、かもしれない。かつてはより、そういう側面を持っていた、と言える。ここでいう写真家というのは、カメラや写真を眺めて美術史やメディアと向き合うこと以上に、カメラを通して他者と向き合う人を指しているということ。

芸術家はすぐに地面の上に自分の自意識を創造する、のが当たり前だけど、そこに違和感や劣等感を抱えてきた僕自身が大切に思っていることは、写真家が自分の足元をカメラをスコップにして、もしくはソナーにして、目の前の風景から新しい何かを発掘するような感覚と作業と表現なのだと思う。しかし、これはスタンダードなアーティストのスタイルではないのだろう。求められる「表現者」像は「創造者」であり、「観察者」ではない、そう常に感じてきた。
僕自身、これを今日、書いているのは、別に中平さんを利用して自分が写真史や美術史に接続したいからでもないし、写真家と芸術家の比較の大発見をしたいからでもなく、ただ、足元すら見えない暗闇の道を歩いている時に、かつて先人の置いた消えそうな明かりを見つけたように感じがして、書いてみただけだ。
この文字も土に埋めておく気持ちで。
未来のプロの「観察者」が発掘するかもしれないので。


美術家というのは、美とは何かを考える人たちなのだろうけど、その実態はメディア(伝達方法)/メディウム(制作素材)の歴史の研究者のように、それらの歴史の中で思考し存在してきたのではないか。油絵の歴史、彫刻の歴史、写真の歴史、、、といいう風に。
美術大学に入ると、油絵、日本画、版画、木彫、石彫、写真などと、扱う素材によって学部が分けられるし、美術館やギャラリーもそういう専門性があるし、やはり、作品を作るメディア/メディウムによって、世界が分けられていた。美術家たちも、自分の生きる/挑戦するメディアの歴史/専門性の中で自らを位置付け、新たな1ページを生み出そうと奮闘していた。それぞれの作家がそれぞれの根っこを持つように。

僕の場合、大学で油絵を専攻したものの早々と油絵や平面作品への興味を失ってしまった。友人たちは「なぜキャンバスに描くのか!?とか平面作品の今は!?」と議論しながら制作に励んでいたのに。その頃の僕は、焼き物にはまって、毎日、アトリエではなく、焼き物サークルの部室へと直行する毎日を過ごしていたし、民俗学の授業の面白さから民俗学の本を読むようになった。多分、メディアの歴史や枠組みの中で何かを作ることに全く興味を感じないまま時が流れた。
様々な文化も研究も、専門性やルールやリングがあるから成立する。最近、M-1で「これは漫才なのか?」という議論があったが、リングがあるからそれをはみ出る楽しさがあるのかもしれないし、そうやって美術のジャンルも脈々とつながってきていた。なのに僕の場合、どうしても、既存のリングの上に上がるのに、興味を持てなかったし、すぐに降りてしまう。それに強いコンプレックスを持っていた。根っからの根無し草である。

デビュー作となった「戦争のかたち」だって、最初はタイポロジーやモノクロ写真を実践しながら始めたのに、最終的にはあんなゆるゆるな形になっていき、完成間近の時に意見を聞きに行ったのは、大学時代の民俗学の先生と建築の雑誌と都築さんの事務所への持ち込みだったし。

ただ、美術の世界でメディウムの縛りがリングやルールにはなり得ない時代になってきているのも事実。大学の学部も崩れてきているし、常に新しいメディアを扱ってきた”メディアアート”というジャンルが過去の言葉になってきていることからも理解できる。今は、自分の表現したい何かしらを見つけ、その内容から様々なメディアを選び、そのメディアの歴史を調べた上で最良の組み合わせを探し制作することが増えているように感じる。(もちろん前からやっている人はやっているが、枠組みの輪郭が曖昧になっている。)

ただ、逆に、同じメディア/メディウムをずっと思考しつづけて制作してきた過去や現在の作家たちの硬派な格好良さに唸ることも多く、憧れてしまうのは常にある。画家や彫刻家や写真家を名乗り続ける先輩や友人たちに対して。


「旅先から絵葉書を書いてくれない?」

いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。

最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝える事以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。

旅はそもそも日常からの“断絶”である。
別に遠くへ行かなくても旅ははじまるし、逆にも然り。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。

([旅するリサーチ・ラボラトリーⅡ]に寄稿 2015)

小学校低学年の頃、岡山のど田舎から岡山の若干都会に引っ越してきて間も無く。誕生日会に招待されて、山の斜面に立つある友人の自宅にはじめて行ったのを覚えている。それ以降、彼の家に遊びにくことはなっかったし、あれが誰だったのかすら思い出せないが。
そこで覚えているのは、山の中腹の大きな一軒家が立ち並ぶ、学区内でも高級住宅街とされるエリアにはじめて足を踏み入れた感覚、そして芝生が青々とする彼の家の中に入ると、巨大なレゴブロックの飛行機やおもちゃや物で溢れていたこと。羨ましさを通り越して、ぼんやり立ち尽くし、おもちゃも触るに触れなかったのを覚えている。誕生日会というのも、それが最初だったし、最後だったのではないか。誕生日会というのが何なのか?分からないまま、「プレゼント交換」というのがあるというので、僕は家に転がっていた、スプリングでできた握力を鍛えるアレを、綺麗めなチラシに包んで持っていった。なぜあんなのを持って行ったのか今でも分からないが、プレゼント交換の時に、綺麗な堤に包まれた友人のプレゼントと一緒に、セロテープで適当に貼られた自分のボロボロの包み紙が、友達から友達に回っていくのを見ながら冷や汗をかいていたのを覚えている。

なぜこんな、ちびまる子ちゃんみたいに、幼い頃のことをふと思い出し書き始めてしまったかというと。
昨日、愛知県の妻の実家の近くにある、ビレバン(ビレッジバンガード)が閉店し、壊されている写真が友人から送られてきたのがきっかけのようだ。そこには僕も妻もたまにふらりと行っていた。やることのない夜とかに。今でいうドン・キホーテに行くみたいに理由もなく。郊外の住宅街に立つビレバン3号店で、天白区にある一号店とほぼ同じような木やトタンで作られたカントリー風の大きな倉庫/ガレージのような建物。コカコーラの看板、アメ車、ビリヤード、ジャズ、そして雑貨、サブカルの雑誌や本。そのビレバンのコンセプトを体現するかのようだった。その建物が無残にも、ショベルによって壊されている写真。美大生になった僕は、吉祥寺にあるビレバンに通った。それが愛知県の天白からやってきたとも知らず。友人たちの家に行くと、小さなビレバンでも作るかのように店内からかってきたような”物たち”で小さな室内を埋めようとしていた。僕も雑誌をよく買って読んでいたし、ここで買った雑誌「spectator」の”あなたの記事求む!”のページをみて、持ち込むことではじめての連載や文章を書き始めるきっかけになっていった。ただ、大学に入りたての友人たち(特にデザイン科の学生)の部屋にはすでにアップルのパソコンが置かれ始め、インターネットも普及し始めていた。これが次の主役になるとも知らず僕も触れ始めていた。

いや、ビレバンには思い出がある、そして送られてきた写真によって感じてしまったのは、戦後から日本で続いていた「かっこいいアメリカ像や裕福の形」が終わったのだという、それを自分の思い出の地が崩れはてた廃墟となって出会うように、強く再確認したのだろう。アメリカからやってくる雑誌や物に囲まれる生活(雑誌も雑貨などの特集も多かったし)が豊かだという憧れた世代の次の世代としての自分と、それがいつの間にか終わり、全てがインターネットに飲まれて行った今に。


今、島で暮らす家には、雑貨や本が何もない。日々、使うものしかない。家具も前からこの家にあったものをそのまま使っているし、棚も必要になる度に、その都度ベニア板を買ってきて、その寸法で作っている。

時代は劇的に変わった。
僕も、大学生の途中からは自分もパソコンを買って、雑誌の真似事自分でも始め、文章をブログに書くようになり、ホームページを作るようになり、SNSで世界中の人とリアルタイムでチャットするようになり、自分で編集した自費出版した本をネットで売っているし、ネットで動画をみてネットで買い物をして、ネットでテレビ電話してミーティング、そこでトークイベントや授業までやって、、、。
時代は劇的に変わっている。
そういう中で、どこか遠い異国からやってくるものをありがたがる感覚がすっかり薄れてきたというのか。物に囲まれた生活が豊かだという感覚が失われてきたのか。
素人が本や雑誌やポスターを作るようになり、素人が文章を書くようになり、素人が映像番組を作るようになり、素人がラジオをやり、、、寡黙な専門職やプロの仕事が減り、「いいね」の数で素人にすり替わっていく。今も、アメリカ製のGAFAM(グーグル、アップル、フェイスブック、アマゾン、マイクロソフト)の支配下ということなのか。文化人が電力会社の電気を使わないとか自分で家を立てるとか農業するとか言っても、そういう生き方こそ、余計にGAFAMがないと生きていけない生活である、というジレンマはないだろうか。


時代が激変する?
いやいや、来る波に呼吸を合わせて、リラックスして乗ればよいのだ。
生き方も種類も広がっていくはずだから。

隠遁生活ってどうやったらおくれるんでしょうか。
後々田さん?

幼い頃からの関係が深い親や兄弟ではなく、新しい家族である甥っ子姪っ子というのは、どこか奇妙な距離感であり、浅くない面白い関係だと思う。その関係性はどこかの本とかに書いてあった気がするので、ここでは語らないが。まぁ、寅さんとミツオの関係のような、ね。
僕の姪っ子は姉の娘なのだけど、いつの頃からか、「お医者さんになりたい」と言うようになり、その目標のために昨年は医大の入試を受けるも不合格。一浪をしていた。僕の周りには医者の家族や親族はいなかったので、医大や医学部の事を今までよく知らなかったが。並並ならぬ努力をもう何年も継続していた彼女の、この不合格によって医大医学部の壁の高さを家族は痛感することとなった。そして、彼女の努力を知っている家族は、もう彼女に「頑張れ」と声をかけられなかった。誰よりも頑張っているのだから。

うちの家系は多分、そんなに頭が悪くはないが、そんなに飛び抜けていい方でもない、と僕は思っているので。彼女は自分の脳や遺伝子の限界への挑戦をしているのではないかとさえ思う。フリーダイビングのように、一人で、深い暗い海の底へ息を止めて、苦しくてもひたすら潜っていくように。ただただ、自分の限界と向き合い続ける日々。
そのまま息切れして、暗い海底へと沈まないように、「頑張れ」ではない言葉を探して呼びかけるだけしかできなかった。

今年も受験で良い発表を聞かないままだった、昨日、とある医学部の特待生(学費免除)として合格の報告を受けた。家族全員はただただ涙し、彼女をねぎらう言葉をかけた。彼女の努力と成果に。
医者という生き方を目指す家族の一人を、アーティストという叔父がどのようにサポートしたり役に立つことが出来るのか不明だが。まぁ、たまに苦笑いされるような土産を手にフラリと現れ、悩み事を聞くくらいには立つかもしれない。

ようやく道の入り口に立った彼女は、
今から、生きることの辛さや豊かさに全身で立ち向かい、自分の道を作るのだろう。
とにかくおめでとう。

お互い、下道をとぼとぼ歩みましょう。

http://baikado-diary.sblo.jp/article/82860583.html

って、死んどるやんけー!

くそー!
もっともっと色々アドバイス欲しいかったのにー!
もう四〇にもやったら誰も教えてくれないしー!

(執筆中)

2019年に東京都の賞を受賞したことを受けて、今、初めての僕自身の作品を集めたモノグラフを製作している。作品集であり、執筆者の文章や自らの考察も書き込まれ充実した内容。ただいま編集作業中。。。

内容は、デビュー作の「戦争のかたち」「torii」「津波石」という大きなテーマ設定を持つ”A面”だけではなく、「Re-Fort Project」「漂泊之碑」「新しい石器」というどちらかというと”B面”的な作品、あとは、最近作である直島の「瀬戸内「 」資料館」まで掲載されている。タイトルも「下道基行」。
豪華なゲスト執筆陣によって、自分のこれまでを俯瞰して語られると、なんか、もう死んだ作家の本を作っているようで、奇妙な気持ちになる。自分を歴史化するような本を作ることへの妙な居心地の悪さというか、こそばゆさというか、もちろん嬉しいし光栄なのだけど。ただ、この40前半で一回死んだ、と思うと、これまでの自分の枠をさらに越えて、もっと新しいことをしたくなってくる。これまで、後ろを見ずに歩んできたが、その歩みによってできた細い獣道を振り返るような行為。そういうのは自分ではまだやりたくなかったが、新しい船出のために、今までの港で過去を清算するのがこの本を製作する意味になっているのかもしれない。
ただ、これまで、作品や活動について誰も語ってくれなかった事をこの本にはもう自ら執筆しているし、今回は、執筆陣も深い部分を掘り起こしてくれていて、なんというか、2001-2021年の20年、表現活動を続けた一人の表現者の”物語”として面白く読めるはず。(すでに他人事のよう。。。)

実は、
この本、実は販売ができない。東京都で制作費を出しているので、それを僕の儲けにはできないし、さらにこの本はPDFとして誰でもダウンロードできる形態をとる。ただ、本は、デザイナーと共に作り上げる立体の表現物なので、PDFとは別の体験となるだろう。どう配ろうか考えていることろ。。。


これまでの僕の本、出版社michilaboratoryで出版した本の販売の仕方を書くと、

・「戦争のかたち」(2005年リトルモア)3000部(10年かかって完売。絶版)
・「日曜画家」(2010年、自費出版)100部(完売、デザインし直して再販し完売)
・「torii」(2013年michilaboratory)1000部(michilaboratory立ち上げ、6年で完売)
・「Dusk/Dawn」(2015年michilaboratory)800部
・「Bridge」(2017年michilaboratory&)5部(60メートルの本、5部、20万円、完売)
・「14歳と世界と境」(2019年michilaboratory&大館)300部(販売せず「旅する本」として様々な国で配付中)


このように、最初の本「戦争のかたち」だけ、出版社からの出版であり3000部という”普通”の出版ルートに乗せて作られたが、その後は、写真集やアート系の本が大手からは出版できない時代背景もあり、自費出版で出版形態や部数や価格も挑戦しながら、楽しみながら作ってきた。
そして、今回は、「販売できない」のが一つのミッションであり一つのテーマになった。

今、考えているのは、
①まず、あげたい人に配る
②次は、欲しい人を募集。住所を教えてもらい、送料のみを振り込み。そして、無料であげるかわりに、感想を僕、もしくはSNSにアップする。
②欲しい人に住所を教えてもらい送る。そして、送料まで無料にしているので、何かお金以外の物を送ってもらう。
③有料で上映会やトークなどのイベントを行い、そこで全員に配る。イベント参加者には無料で本を配布することは告知。
とかね。無料だからって、誰でも手に入るのでは、この本が勿体無い。興味のある人や、モチベーションのある人に届ける方法を考えたい。(以前のように「旅をする本」も良いが、僕の作品集というのは「旅をする本」とのマッチングが悪い。)

本は、作って終わりではなく、人に届ける方法や人が体験することを想像するのが楽しい。
今は、生みの苦しみの中にいるが。。。

「直島窯工研究会」
直島でやっているプロジェクト《瀬戸内「」資料館》の中で、陶芸のサークル活動が始まろうとしている。
大学時代、ムサビ窯工研究会の一年後輩のなっちゃんがこの島にいたから僕たちの家族はこの島へ引っ越してこれた。そして、プロジェクト《瀬戸内「」資料館》をやっている。本や資料を収集しながら、島の郷土図書館のような物を作ろうとしている。さらに、スペースで島民のサークル活動もやりたいなぁと考えていて、「そうだ!焼き物なら僕も教えられるな」(東京で3年ほど陶芸教室の先生経験あり。)と思い、なっちゃんに相談してみたところ。なっちゃんもちょうど陶芸をやろうと準備をしていて、スペースを探していた。そこから、資料館のスペースで「直島窯工研究会」を一緒に始めるというアイデアになった。なっちゃんは部長。下道は管理人。資料館は、島民としては中々入りづらいアートのギャラリー空間であるから、この機会にいろんな人が出入りが始まり、気軽に入れる空気が流れるようになってほしいという願いがある。とにかくやってみよう!と動き出した。

もし、誰かが、芸術祭に参加して、作品として郷土資料館や図書館のような存在を作ろうとしても、それっぽくしかならないと思う。それは、目には見えないが時間の蓄積が圧倒的に足りないからではないか。作品を作るとき、フィクションにしてしまうのは、フィクションを描きたいからという理由とともに、本物への疑いがあるからだろう。《瀬戸内「」資料館》は将来、作品であることが本物か偽物かわからない存在にまでなってほしいと考えている。僕はアーティストとして、《瀬戸内「」資料館》をやっているのだけれども、今、館長と名乗っているのは、自分がこれまでやってきた「作家と作品という関係」を壊してみたいからかもしれない。

さて、どこまでいけるのだろうか。
そして、この新しい挑戦は、新しい水脈になるのだろうか。
そのためには全力で楽しみながら、転がっていくしかない。

この数日、愛知に車で帰ったので。
なんだか、暇を見つけて、何人か旧友に用事もそこまで無いのに突然電話をしてみている。
電話は、結局、用事が終わった後も、だらだらと1時間近く話してしまう。
なるべく、向こうが忙しそうだったり、切りたそうなら切れるようには観察しているが、意外と長電話になる。
この感覚。15年くらい前では当たり前だった。
「電話は突然かかってくるもの」から、「まずはメールで都合の良い時間や都合を聞いてから、話さないといけない理由も書いてからするもの」に変わってしまった。用事もないのに、電話で話す機会は、文字でのチャットになった。メール社会の中で相手の時間を無理矢理に奪う電話は悪になった。でも、僕は文字でのチャットが苦手。でももちろん、頑張ってる、自分なりに。

そして、このコロナで。居酒屋や飲食店でダラダラと話す機会も失われた今、なんだか、すごく意味もなく、ダラダラと長電話するのが貴重だ。(あっちもそうであってほしい。ついつい長電話になってしまうのを見るとそうであるのではないか。)

コロナによって、制限されているのは本当に「移動」なのだろうか?
多分、もうわかってきたが、移動中ではなく。移動に伴う飲食、さらにはそこで行われる会話。(そういう意味で、GO TOキャンペーンは悪くないが、例えば、それで東京の人が北陸に行って、カニとか日本酒とか飲食しない方がおかしいし、そういう意味ではGO TOは感染拡大の理由になったと僕は思う。)
つまり、コロナによって、制限されているのは「話すこと」。学校でも、食事中に話すことはNGになっているし、会話するにも、マスクと一定の距離が必要であるし。他愛もない会話が押し殺されているように思うようになってきた。そんなことみんな分かっているが、その当たり前のことを少し我慢していることで何かがずれてしまってくる。

ちょうど昨日も、展覧会オープンして、作家やスタッフが集まっていたが、「よし、夕飯でも行くか!」って誘えない。そんなことって、今までになかった。みんなバラバラに帰っていった。僕も、帰りにコンビニでビールとつまみを買って一人で帰った。愛知県主催のイベントだしね。

そう考えると、僕の場合、月曜日は「山下道ラジオ」(福岡在住のファッションデザイナー山下陽光と)、金曜日は「微妙な放送」(香港在住のひんさんとひこさんと)、という2つのインターネットラジオで、その一週間のことを毎週喋っているは、なんだか精神状態に良いのかもと思えてきた。1時間程度、気になったことをお互いに喋り合うだけの放送。誰でも聞けるので、もちろん言えないこともあるが、それなりに言えるようになってきているし、良い息抜きになっているのかもしれない。
島や近所に、本当に話したいことが話せる人っている?
愛知にいるときは、2ヶ月に一回くらい、誰か誘って、居酒屋で毒づいていたが、今はそれがない。
作品制作のこと。家族のこと。年齢のことや社会への不安や不満。そういうことを、誰かと話すことで前に進めることは大きい。
ラジオを聞く人にも、何か効果があるのかな?
同じような悩みを抱えてる人が、そのラジオを聞いて、少し何かが軽くなったり、送ろうと思えば、こちらに質問メールもおくれるってこと。
この2つのラジオは、「話すこと」「吐き出すこと」を僕に与えてくれている。
と、ふと思った。

展示「次元の衝突点」 
 2021年1月9日ー2月7日
 The 5th Floor 東京

「Drawing the Lines(仮)」という新作の小さな品を出品。
新作というか再編集である。リモートでの搬入は初めてだった。
実は、とあるスペースで、国境など大きな境になっている様々な”水”を集めるプロジェクトをやっていて、毎年旅先から一つずつ集めて、数年かけて7個まで集まっていた。僕としてはこのプロジェクトを「境界のかけら」という同列の過去作の延長として、”水”だけに絞り込んで収集し、この空間/サイトのためのプロジェクト”コミッションワーク”だと位置付けていた。ただ、昨年、”これはこのスペースへのコミッションワークではない”という主張があって、困りこんでしまったが。考えた結果、それならそれに争わず、再編集して場所と切り離して普及盤的も作ってみようと実験していたのだ。
「Drawing the Lines(仮)」とはベタな名前であるが。でも、わかりやすいのは悪いことではない。見えないし流動性のある”水”によって人々は線を引きつずけ、隔てつずける。っていうね。「境界のかけら」の中から”水”だけを主人公に絞り、より鋭角にしようとしていたサイトスペシフィックな進行形の作品はプロセス段階で、この作品はこの場所に作られたものではない、とサイト側から切り離された形になり、おかげで逆に自由になった。


展示「境界のかたち 現代美術 in 大府」
 2021年1月23日ー2月14日
 おおぶ文化交流の杜、愛知

「境界のかたち」というグループ展に参加。
今回は、シリーズ「14歳と世界と境」の新聞掲載記事のアーカイブを見せる初めての展示のために準備をしてきた。このシリーズが2013年にスタートしたきっかけの地で出来るのは感慨深い。
愛知県大府市の図書館での展示の搬入のために島から現場まで車でダイレクトに行き、翌日プレスの対応をする。新聞社の協力があって出来上がったプロジェクトなので丁寧に対応した。プレスの方からの質問に答え終わり人がはけた頃、ある参加者が近づいてきて「新聞に中学生の連載をして、多分連載料ももらわず、どうやってお金を稼いでいるんですか?」と少し意地悪な表情で質問してきた。僕は「このプロジェクトは芸術祭の枠内で行うことが多く、それは中学校や新聞社の協力を得やすいというのもあるのですが、連載料はもらいませんが、芸術祭に参加することへの謝礼としてお金は入ってきているので…」と話すとそれを遮るように「でも、新聞で連載をしても…」と食い下がってきた。その方は連載をした新聞自体を展示することへ「これが美術作品なのですか?売れるんですか?」と聞きたいようだった。それについて答えようとした瞬間、後ろにいたもう一人の男性が「ちょっと失礼しますが。。私、愛知県美の館長で。今美術館では、新収蔵作品展が行われていて、これらの新聞もコレクションとして展示されています。」と…。プレスの方はそそくさと次の展示室へ。

展示「2020年度第4期コレクション展」 
 2021年1月15日〜4月11日
 愛知県美術館

ということで、「新収蔵作品展」に「14歳と世界と境」と「戦争のかたち」が出品されています。この2つのシリーズが、まとまった形で愛知に保存されること。とても嬉しい。両シリーズともに、しっかりとした写真作品である「torii」に比べて、図やら文章やら写真やらが組み合わさるプロジェクトベースの作品で、作った当時のまま倉庫に眠っているような状態だったので、それらをプロジェクト作品として編集し直しを昨年末より行っていてようやく形になった。新しく額装や小物の設えを一緒に考えてくれたミラクルファクトリーとなっちゃんに感謝。コレクションになると、僕の手を離れて展示されるので、なるべく”使いやすい”形を考える日々だった。色々な作品とともに新しい視点で発表されることを想像しながら。

昨年は春以降、移住先の直島以外で展示もなく、ただ準備を粛々と進めていた。こんなに展示を作らないのは10年ぶりくらいだろうか。今年1月からは準備していた作品が徐々に形になって旅立っていきます。これらは、新しく旅をして作った新作ではない。移動は制限されているし。ただ、これまで作り倉庫に眠っていたプロジェクトベースの作品をその作った場所などから切り離して別の場所でどのように見せることが可能かを考えて再編集している。コロナかで棚を作って整理をしていたりしている人が多かったが、そういう作業に近い。そういう中で、様々な事件なども起こりますが、その事件も好転させながら自分の力にして乗り越えていきたい。1月から始まった展示ラッシュ、4月まで続く。なんとか駆け抜け、終わった頃には体が軽くして、春の海で思いっきり遊びたい。
にしても、展示を見るもの、作るのも本当に楽しくてたまらん!
まだまだ気の抜けない日々を綱渡り。

4月以降は、予定はスカスカです。大丈夫か。。
いや、昨年から共働きなので、仕事が無いなら無いで子育てに専念!

”アートな島”として年間数万人の観光客が押し寄せる直島には、たくさんカフェや飲食店がある。
味は美味しいし、こだわりもある店が多いが、値段はやはり島値段で、さらに観光値段なので少し高い傾向だ。店内は観光客でいっぱいだったりもするし、島内で島民が外食をするのはそこまで頻繁ではないだろう。観光客というのは財布の紐がゆるいが、島民にとっては日常。それは仕方ないことかも知れない。愛知では外食産業が盛んで当たり前だった「日曜の午後に家族でサクッと何か食べる」とか「金曜日の夜に家族で外食を…」するような店は島にはほぼないと言える。(少し島値段のうどん屋とか、スタッフとの打ち上げとか晴れの場に使える飲み屋はあるが。)
そんななかコロナ流行で、観光客がいなくなり、お弁当をはじめる島の飲食店も出てきた。
都市部のオフィス街や郊外住宅地の飲食店も同じようにコロナかでお弁当を出す店が増えているそうだが、店内飲食が難しいので買って帰る客が多いのではないかと想像する。つまり同じ客層。ただ、この島の場合、飲食店を使う大半は観光客であり、この時期に島へやってきた観光客でさえお店でゆっくり食べたいし、お弁当を買って外では食べない。つまり、お弁当を販売する場合、ターゲットは島民になる。
島民がこれまでお弁当が欲しい時には、島唯一のコンビニセブンイレブンかスーパーCOOPにいっていただろうから、ライバルはコンビニ弁当とスーパーの弁当となる。島内でいくつもの飲食店がお弁当を販売し始めたが、コンビニ弁当より格段にヘルシーでホカホカで美味しいが、値段が下げられなかったりそれぞれの理由で、お弁当をやめていった店も少ないくない。

さて、こういう島の特殊な現状の中で、昨年4月くらいから弁当を新しく始めたカフェ「シナモン」。値段はワンコイン500円(税込ワンドリンク付き)と一番安かった。ただ始めた当初は、揚げ物と漬物がご飯の上に乗った”白身魚フライのり弁”的なものが多く、客足もそこまででもなかったと記憶する。島民は値段と内容に厳しい。良いメニューは噂になり、そうでないときは客足もまばら。そんな中で、値段据え置きで、日々挑戦を続け、徐々に内容が充実していき、最近では島民の行列も頻繁になり、12時には売り切れてしまうメニューもあるほど。
(他にも、美味しくてお買い得な弁当を出す店は、「みやんだ」の焼き魚弁当650円はボリュームも栄養満点。夜のお刺身弁当が950円で超美味しい。そのほかは、最近”弁当屋”としてオープンした「潮の道」はカオマンガイ(タイ料理)など650円など。島民に定着している店はもちろん他にもある。)
島民たちが通う飲食店というのは、うどん屋以外には今まで少なかったと思うので、飲食店が作るホカホカのお弁当の登場は、観光客が激減する中で、飲食店が観光客中心のメニューと値段を島民むけに少しだけ変化したという、コロナかで起こった島内の大きな変化ではないか。

僕も昼間は忙しいので、お弁当で済ませる。
カフェ「シナモン」は歩いて1分なので、毎日店頭に出されているメニューを見に行くのが日課に。1日1メニューのみ、手書きで書かれたダンボールのメニュー看板が画鋲で貼り出される。メニューを見てから買うか決める。ざまざまな種類の揚げ物やカレーを中心としたメニューが多い。一週間に2回くらいは買う。だから、この数ヶ月、500円(税込ワンドリンク付き)という価格で、島民が喜ぶメニューや内容を試行錯誤しているのを日々弁当から感じてきた。
日々張り替えられる店頭の手書きダンボール看板にはその日の日付と「寒い日が続きますが頑張りましょう!」など店員のコメントが書いてある。日記のよう。昨年より、店長にお願いして、こっそりこのダンボール看板の保存収集を始めた。コロナで変化し続ける島の今の記録物として。
今回、ある程度量が溜まったので、資料館が閉館時にもみれるように窓ガラスに貼ってみた。
「シナモンの500円弁当アーカイブ展」
始まりました。
コロナに負けるな。

139045637_10158853145904709_1985024648601071746_o.jpg 上は店頭の今日の看板です。

下の写真は、展示の様子。


138782180_10158851253269709_5488153859172839483_o.jpg
138682129_10158851253344709_3988068810826437879_o-1.jpg

展示は気に入っていますが、懸念としては、この展示がシナモンだけを応援しているように見えてしまうのではないか?ということ。小さい島ですしね。でも、他の飲食店もちゃんと日々観察しています。”コロナかでの日常が記録された物”としてはシナモンの看板しかなかったので、島民の方にはご理解いただけたら嬉しいです。他にも見つけていたら、収集して展示していたはずですので。さらに、この展示は、コロナの大変な日常を、しかめっ面ではなく俯瞰して考える材料になればとも思って作りましたー。
(つか、今まで旅人だったのに、島に定住すると急に普通の観察記録が書きたいように書けなくなるのって怖いですね。この日記ももしかして読む島民の読者のことを考えず、フォローを入れないなら半分の量でかけるのですが。回りくどくなってしまうな。その辺、大きな世界でも発言しずらくなってきているし、島というより狭い環境で過度に鍛えられている今なのだろうし、今後バランスをよくしていきたいですね。)以上!

IMG_7214.jpg 2歳半の娘、大きすぎる


2018年、広島市現代美術館で、「新しい骨董」として展覧会を作った。
地下の展示室、そしてミュージアムショップを会場として。(いや、youtuberにもなってみようとしたし、様々な外にも繰り出したので、空間は展示室&ショップ&ネット、いや陽光くんのいう場所ップということか?)
ミュージアムショップでは、美術館のガラスケースを持ち込み、陽光くんと海で拾った漂着物/ゴミを並べて、100円ショップを作っていた。展示終了後もその「新しい骨董のゴミの百均」はミュージアムショップに残されて、運営されている。感覚としては、2018年から終わらない展示をやっている感じ。これは結構小さな奇跡なのではないかと思っている。

なぜなら、海からのゴミは、(僕が一緒に拾うこともあるが)福岡の陽光くんがせっせと車で海へ出かけて拾って、ダンボールいっぱいに詰めて送料かけて広島へ送ってくれていて、それを学芸員さんやスタッフさんが綺麗に陳列し、さらに販売してくれている。送料や労力から考えると全員で大赤字を叩き出していて、これは遊び心に支えられる贅沢であり、大人たちの全力の遊び場である。
瀬戸内の島は、福岡の浜辺ほど海洋ゴミは流れてこないが。ただ、ご近所さんで船を持っている方と知り合うことができたことだし、船から見える無人島の浜辺には大量の海洋ゴミが山積みなので今度、収穫しに行きたい。

美術館の「新しい骨董のゴミの百均」の人気商品としては、陽光くんの拾っている漂着物「100円ライター」。
漂着物の100円ライターは、異国から流れてくるので様々なお店の名前や情報も残されているし、初代漂着物学会会長の石井忠さんも愛した存在である。しかも、世の中、急激な反タバコの社会の中で、「100円ライター」はかつてのマッチ箱のように哀愁を帯び始めている気がする。さらに異国の読めない情報(店の名前や電話番号)をくっつけて、ボロボロに骨董感を帯びた「100円ライター」に、未来の眼差しを先取りして感じる骨董感を感じずにはいられない。(それにしても、大学生の時に、ライターを手にして火を付ける行為を非常に恐る後輩がいて、みんなでいじっていたが、こういう若者は増えているのだろうね。)

では。さあ、日記は土に埋めて。仕事だ仕事だ。今日も島は美しいなぁ。

先日、美大時代の同級生(卒業してからも一緒にスタジオを借りていた)友人のFから、娘にプレゼントが送られてきた。開けてみると靴だった。絵本のはらぺこあおむしの青虫の顔がそのまま靴になっているもの。ショッキングな色と絵柄の靴に驚いた。僕や妻にはないセンスだ。
その時、そういえば娘の保育園で2歳児の靴箱に並ぶのはニューバランスの靴ばかりだなぁと思い出した。小さい子供の靴は選択肢が少ない。そんな中、ニューバランスは、値段は安くないがかっこいいし、丈夫だし、履きやすいし、色も落ち着いていて種類も多いから男子も女子も履けるし、ついつい買ってしまうのだが。でも、1−3歳児がニューバランスだらけなのは以前から気にはなっていた。

朝、保育園に行く前に、その靴を娘の足に履かせてみた。恐る恐る。娘はビビットな色のその新しい靴を気に入ったようで嬉しそうにはいた。さらに、かけてあった傘を手に持った。晴れているのに。猫の絵が前面に描いた赤い傘は妙にその靴と合っている。
保育園に向かいながら、娘の後ろ姿をみていて、明らかに、グレーや落ち着いたシンプルなコーディネートの中で靴と傘だけ目立っている。でも実は、逆に僕や妻の趣味で出来上がった服装の方が妙に気になっていた。
今まで、お古とかでもらっても趣味が合わないからとしまいこんでいた服も、どんどん彼女に選ばせて、僕らの意図しない、ブリコラージュみたいな服装になっても良いかも知れないなぁと静かに考えていた。

僕や妻の趣味からは大きく外れた存在を投げ込んできたFは、さすがアーティストだなぁと、妻と笑った。


作品を作って発表すると、よく質問されるのが。
「●●の●●って作品を知ってますか?」
というコメントだろうか。

自分もそういう質問をやってしまうことがあるかもしれないけど、結構気をつけている。
ある作品を見て、深い思考もなく、違いを提示した上で会話をするのでもなく、ただただ似ている作品が思い浮かんで、ただただそれを作者に投げつけるというのは、クリエイティブではないと思うので。

もし、●●が本当に誰も知らない古い作品だったり、
全く別のジャンルの別の存在であったりすると、もしかすると、作者のためになるかもしれないし、面白い会話の往復も始まる気がする。

実際には、●●はテーマや手法が似ている作家や作品が挙げられることが多く、少し前に発表された自分と似ている作品であることが多い。そんな作品は作家はもちろん知った上で作っていることが多いだろうし。
そういう質問者は良かれと思って言っているのかもしれないが、
「●●の●●って作品を知ってますか?」=「●●の●●と似ていますね?」
という意味にしか聞こえない。質問ではなく、ただの指摘のように聞こえる。
さらにいうと、作者はその質問者以外にも同じ質問を多数されていることが多い。そういう質問者が多いということだ。

作品を見た感想/質問として、製作者に対して、
「●●の●●って作品を知ってますか?」
には、
「私、あなたの作品で●●を思い出しましたよ。」
という意味なのだと思うので、
はっきりいうと、よく考えいてセンスの良い●●を入れた方が良いのではないか。
ただただ似ている●●を質問で出してくる質問者を相手はどう思うかを想像してみて、緊張感を持って発言した方がより創造的なコミュニケーションを楽しむことができるのではないか。
(もし、その作者を●●のパクリだと指摘して追求したいのでなければ、堂々と喧嘩を売れば良いが。)
もしくは、「●●の●●って作品を知ってますか?」の後に、「でも、●●と違ってどうしてこのように作ったのですか?」という風にさらに深く質問をしていくとか?


と、
これを読んで「あぁ、シタミチさん、最近、誰かと比較されて嫌だったんだ。。」と思うかもしれないが、実はその逆で、僕の作品と比較されている場面に遭遇したので書いているのだ。
もちろん、僕もこういう経験はずーっとしてきているが。こういう●●のような存在があるからこそ、新しい面白い作品は生まれてくるし、作品が鋭くなっていくのだと思うんだけど。こういう質問してくる人がいなくても、すでに自問自答が終わった上で作品は発表してることが多い。

(さらにいうと、このような●●どうしの「似たような作品を集めたグループ展」というのは、参加するのは辛いだろうなぁ。お互い得しないなぁ。と今想像してしまった。。。)

まぁ、質問というのは、
会話を引き出すきっかけを作る重要な要素だなぁと、ラジオをしていてもつくづく思う。
質問はただの指摘にしかならない場合もあるし、逆に会話を膨らまし、アイデアの種になることもある。


移り住んだ直島で、地元の人から質問されることがある。
以下の2つの質問が最も多い。このような質問と答えが日々繰り返されているので、この場所に書き留めておこうと思う。

【質問ケース1】
(僕が日々フラフラしていて、福武財団が運営するスペース「宮浦ギャラリー六区」で毎日作業をしているので。)

島民A:「下道さんはどうやって普段お金をどのように稼がれているのですか?」
島民B:「下道さんは、福武財団に勤務されているのですね?」
下道:「いえ、アーティストは自由業なので、誰かに雇われてはいません。現在、国内外の美術館や企画でのプロジェクトを動かしていますし、その一つがこの直島ということです。」
島民B:「はぁ。。じゃ、福武財団の所有するスペースに毎日来ていて作業されているようですが、どのようにお金をもらうんですか?」
下道:「そうですね。直島は様々なアート作品がありますよね?それら作品はアーティストや建築家から購入して設置してるわけですが。僕の場合も、そういう作品の一つを今作っているのです。ただ、まだ完成していない。数年後に完成する作品をこの場所で、今作っています。しかも、そのプロセスも公開しながら。」
島民AB:「………」
下道:「こういう作り方は、僕にとっても財団にとっても初めてのことなので、どのようにお金をもらうかは、今一緒に考えながら動いているんですよ。」
(そう答えても、「なるほど!わかりました!」とはいかない。。。でも、そうだからこそ新しい挑戦である。)

【質問ケース2】
(僕が使っている「宮浦ギャラリー六区」というスペースは、”ギャラリー”なのに、展示をしていない時期があるし、僕が作業を行なっているので。。)

島民C:「空いているなら、島民の誰々が写真を取っているし、誰々が絵を描いているから、展示したらいいじゃないですか?」
島民D:「私たちがやっているサークルの展示会をさせてほしいわ」
下道:「そうですね。。「ギャラリーなのだし空いているし作品を飾ったり使った方が良い」のは理解できます。ただ、何か展示するか、というのはなかなか簡単ではないです。例えば、福武財団は三十年以上前からこの島で、国際的な芸術家や建築家を選び、そして一緒に作ってきたから、今の直島の”アートの島”というブランドがあるわけで、観光業もそのブランドによって保たれている部分は大きいのではないかと思うんです。直島には他にも魅力はありますが、ね。その福武財団の美術館やギャラリーの中に、どのような作品を入れて展示するか、誰と一緒にやるか、っていうのはとても繊細な話だと思うんですよ。」
島民CD:「………」
下道:「うーん。例え話をすると、島で”こだわり”の飲食店をやっていて繁盛しているとする。そこに善意であっても、周囲の人から持ち込まれた食べ物や、提案されたアイデアをなんでも入れるわけにはいかないと思うんです。そのこだわりの部分を選ぶセンスや技術がその店のクオリティや人気を作っているので。」
島民CD:「なんとなくわかるのですが………」

とまぁ、理解してもらえているかはわかりませんが、こんな感じで、率直な疑問をぶつけられるのは好きなので、今後も正直に答えていきたいと考えているのです。

大根1本100円は安いけど300円は高いから買わないとか、バスの運転手はどういう仕事であるとか、何曜日が休みだとか、スーツを着るとか着ないとか、そういう、お金の感覚や職業の日常感覚ってある程度共有していると思っているが、たまにそこからはみ出す人や存在がいる。日常的な尺度に合わない存在や生き方と出会った時に、自分の持つ物差しで考えようとするが、それに合わない存在との衝突自体がアートであったりする。ま、僕がそのような超えた存在かは疑問だが。

でも、10000円の大根って言われると、逆に食べてみたくなるし、実はバスの運転手の仕事の詳細を僕らは知らないんじゃないかなぁ。。と。


「宮浦ギャラリー六区」について書くと。
ここは、これまで様々な作家を選んで展覧会を行なってきた。ただ、ギャラリーというのは
、中が入れ替わり循環するのでいつも新しい状態にしておける良い点と、反面、常に面白い作家を探して、依頼して一緒に中身をつくらないといけない大変さがある。美術館には学芸員、ギャラリーにはギャラリストという専門家がいて、展示の企画をプロとして考えて運営している訳で。常に今の現代美術の展示を見て情報を集めて動向を知っておき、さらに様々なアーティストに合わせながら新しい挑戦を日々行わないといけない。だから、空間を作ったら、そこからたくさんの仕事が始まり、最初はよくてもそれをクオリティーを維持しながら、長期に運営していくことはとても大変なことだろう。
さらに、「宮浦ギャラリー六区」は、パチンコ屋だった小さな建物を建築家が個性的に改修した時点で、すでに”作品”であり、一つ完結している。それもこの空間の運営していくのは難しいところだろう。直島の他のプロジェクト「家プロジェクト」は空家+作家=作品が完成しているし、「直島銭湯」も銭湯+作家=作品、「地中美術館」も3作家+建築家=作品として完成している。ここだってパチンコ屋+建築家=作品なのだけど、中身が空っぽだから、その上に何かを入れないといけないのだ。

この「宮浦ギャラリー六区」のために、僕のプロジェクトである《瀬戸内「」資料館》は作られた訳ではない。しかし、このスペースが空いていたこともあって、というべきか、縁があって、、、このスペースを仮住まいとしている。偶然ではあるが、これも縁であるし、そのことで、様々な島民とのやり取りは生まれてくるが、これも面白いと思っている。
島民の方からの素朴な質問によって「アーティストの職業」「スペースの活用」について気づかされ、それに答えることで、僕の中で意識化され言語化されていく。
その記録も、このブログに残しておこうと思う。


『山下道ラジオ』の放送が、ついに50回を超えた。
https://www.youtube.com/playlist?list=PLI14yGCeRYoUejQYyzGPeSqUtU2f-xC2J
視聴数は毎回100回程度なので、よく聞いている人はだいたい50人くらいいるのかもしれない。まぁ、すでに視聴者数を気にしないようになっている。このラジオは、おそらく多くのリスナーを獲得するためのものではなく、ラジオという形を使った「遠く離れた2人による日記の同時筆記」なのかもしれない。つまり、これはラジオという”産業”とは全く別のものとして存在している。二人の日々の思ったことやアイデアを話し合う公開ミーティングであり、公開の飲み会であり、他愛もない日常を繋いだだけの“場所”であり、その記録である。
(産業としてのラジオとは、スポンサー収入や芸能人やミュージシャンとかの営業や告知など、いろんなレベルでお金が発生しているしその関連の存在。『山下道ラジオ』が何にも産業として意味がないのもどうなのか?と思うが、仕事や考え方や生き方を考えたり発言することで脳を回し続ける、”無宗教の寺”みたいな存在なのかもしれない。自分のためでもあり、時に誰かの役にもたつかもしれない。アイデアのオープンソース。)

鬼才・山下陽光氏との他愛もない会話の中から始まったこのライジオの特徴は、毎回、彼の住む福岡と僕の住む愛知(途中から直島)をメッセンジャーでつないで録音する、というアナログなもので、「離れた場所どうしをつないで面白いことをしたいね」という『新しい骨董(2013年より活動をする山下と下道と影山のグループ)』の試行錯誤の延長上にあった企画/実験であった。ただ、このラジオは2020年3月11日に開始され、当初本人たちは「離れた場所を繋いで話してラジオ作る全然できるし、たのしいー!」と狂ったように毎日毎日盛り上がって収録していたのだが、1ヶ月後、毎日はやりすぎでしょ、と週一になった。ちょうどその頃、新型コロナが中国以外でも爆発的に流行しはじめ、4月16日にロックダウンが起こると、人々は遠隔で様々なことをしなくてはいけない状況になり、ラジオやテレビ、会議や学校までも、遠隔でオンラインで行うのが“普通”になってしまっていった。(ちなみに、「山下道ラジオ」の第一回テーマは「住む場所と移住」でコロナの話題はまだない。僕自身のこのラジオへの当初の期待は、愛知から直島への移住を準備していた時期に、「どこで暮らすか」をより深く掘り下げて考えることだったと記憶する。)世の中では徐々にウィルスが流行する中で、展覧会やイベントの多くが中止になり、「オンラインで世界が繋がる」という趣旨のイベントが多数行われるようになった。離れた場所どうしでイベントや収録を行うのが当たり前になる感覚は、もし人類がこのウィルスに勝利した後も続くだろうと考えると、『山下道ラジオ』は1ヶ月だけ世界より早くその感覚を手にしていたのかもしれない。いやいや、鬼才は、youtubeが始まる一年前の2004年に(中古のフェミカセに書かれた名前をたよりに本人を探す動画を撮ったり、色々と)すでにyoutuberのようなことを始めていた人物でもあるし、ネットラジオというのもかなり早い段階から行なっていたので、この出来事も妙に納得できる。彼は”前衛”であり、0から1の壁を突破する人で、1になった瞬間にそれは世間で”当たり前”になるものだから。(『山下道ラジオ』がそこまで新しくはないが。)

僕はというと、2014年から「旅するリサーチラボラトリー」というサウンドアーティストmamoruとのコラボの中で、「旅のフィールドノートの同時筆記」を試行錯誤し、一緒に旅をしながらラジオを収録することを意識的に行なっていたので、その筋力が今ようやく自由に生かされているようにも思っている。
https://www.travelingresearchlaboratory.com/


そして
今週、『微妙な放送』という、香港と日本をつなぐラジオ、広東語と日本語で同時に聞けるラジオをはじめた。毎週、直島と香港の日常を毎週繋ぎ、日々の出来事、作品制作や家族の事や色々話す。2年前までかなり頻繁に香港に行っていて、初めは仕事の出会いから、飲み仲間になった3人。香港在住の美術家のヒンさんと通訳のヒコさん。同時通訳ヒコさんは香港と日本、両方がネイティブ。そして、日本のラジオもよく聞くそうで、そんなヒコさんがふたりの美術家を 同時通訳で繋ぎながらMC/DJをします。ヒンさんは素晴らしい美術家であり、四年前に香港の学生を連れて日本を一緒に旅行しながら、毎日ラジオを録音した経験を持つ。いや、3人の関係性や専門性がないとなかなか成立しないし、半分意味の分からない間がある奇妙なラジオ『微妙な放送』。この同時通訳者が二つの国や言語をまたいでつなぐラジオ、これがなかなか新感覚で面白い。(聞いてみないと伝わらないのでリンクを。)
https://www.youtube.com/channel/UC2bHrW1IIVv2xYEM9qSO5Qw

このラジオ『微妙な放送』も「遠く離れた2箇所による日記の同時筆記」。僕とヒンさんとヒコさんが、香港で3人でよく飲んでいて、深夜とかになてくると、僕は日本語で語り、ヒンさんも香港語で語り、ヒコさんがそれをひたすらつなぐ、みたいな飲み会がたまにやっていて(プロの通訳に対してリスペクトのない行為…)、そういう関係性や経験があったからナチュラルにスタートしたのだけれど。
今後、誰か真似できるもっと面白い人々が、韓国と日本とか、日本と全く知らないアフリカの人々とか、同じようなことを始めたりしたら、面白いだろうなぁ。聴きたいなぁ。と勝手に想像している。

さて、話を最後にまとめると、
なんだか、国家や政権というのは民衆のことを全く考えないし暴力的で、他者に対して排他的にどんどん進んでいる。(違うか。実はその国の多数がそういう政権を欲している、という国家はその民度の映し鏡。)でも、それって今始まったことでもない。もちろん、反対の声をあげるのは重要だし継続していくべきだけど。何万人もの民衆の声を堂々と無視する人たちだから。(香港のことを書いている。)もしかすると、こういうラジオが離れた人と人や閉ざされた国と国の壁をヒュッと飛び越えて、それぞれの普通の“日常”を繋いで、普通でポジティブに、風穴をいろんなところで開けていくって、結構面白い実験なのではないか。と思うんです。

いやいや、そんな大それたことでもないし、日々ストレッチするくらいの気持ちで楽しんでいるだけですが。。

IMG_6287.jpg

( ↑クリックすると読みやすくなります。)

さて、
新聞記事とは関係ないが、気になる事を少々。


最近、私設図書館が増えている。
《瀬戸内「」資料館》も個人ディレクションの図書館であるといえばそうなので、違いを考えてみたい。

個人が○○図書館を作る場合、その多くは”自らの蔵書”を元に図書館を作る。
つまり、「この本、面白いよ」とか「この本は貴重なので共有したい」がベースにあるのかもしれないが、これでは”図書館”としては少々自分勝手ではないか…。多分、個人で”図書館”を作る深層心理としては、蔵書の共有だけではなく、もうひとつ、パブリックスペースのような”人々の集う場”を作りたい!という希望があるのではないか。読み聞かせのために子供達が集まったり、サークル活動やトークイベントや勉強会など、そういう文化的な施設としての”図書館”。
本を並べて”図書館”と名付ける事で、人々が繋がる”場”を作りたいのかもしれない。”図書館”というのは様々な機能やイメージを持っている。

少し話はずれるが”自らの蔵書”でいうと、最近、美術作品展にも、本や資料の展示が併設される展示を見ることがあるが、それは「私はこの本を読んでこの作品を作りました」という趣旨のものが多い。その場合、その作家のファンであれば楽しいが、展示を体験しにきた人には蛇足であることも多いのではないか。

では、《瀬戸内「」資料館》の場合だが、
まずは、資料館の本棚に、僕の蔵書は一切入れないようにしている。
アーカイブしようとしている「瀬戸内の風景や歴史が記録された書籍など」をゼロから探して収集している。
なぜなら、これまで瀬戸内にそこまで興味を持ったことがなかったのもあるが、
僕の好きとか嫌いとかを抜きにして集める事が重要であるし。できる限り網羅するために本を探すのを日課にしている。
ただ、収集するジャンルなどアーカイブの背骨の部分は僕が決定し、特色があると思うが、”自らの蔵書”をこの図書館のベースにしようとは考えたことがない。”自らの蔵書”は僕の中に咀嚼され入っていて、それが別の形になって出ていれば良い。場を作ろうとは思っているが、それ以上に記録物の「収蔵庫」「アーカイブ」をタイムカプセルとして作りたいと考えている。

なんか、”自らの蔵書”を見せる展示や手法が気になったので書いてみました。
こういう色々な別のジャンルの近い事例と自分のプロジェクトの違いを意識化しながら、少しづつ独自のあり方を探るので、他人の批判ではないです。。

はじめて写真集を出版した2005年に、はじめて舞い込んできた写真の仕事。それは大好きだったinax booklet の新刊『泥小屋探訪』。左官の研究者の方の取材に同行して泥小屋を探して里山を歩き撮影すること。様々なことを学ばせてもらう印象深い経験だった。
さらに、、、撮影した写真を手に編集部と戦後を代表するデザイナーに、会いに行くと。「あなたは写真が下手だし向いてないから、他の道に進んだ方が良い」と言われたのは今でも鮮明に覚えてるし、それ自体も今の自分の血肉になっている。笑
今日は京都の大学生に特別講義があるから、ぼんやり昔の事を思い出しながら、久しぶりの電車に揺られてます。

IMG_5895.jpg

島にはスーパー「生協」が2件ある。宮浦集落の生協と本村集落の生協。

昨日、
「そういえば、大根がなかったなぁ」と宮浦生協で大根を見ていて、「1本198円で高いし、1本だと長いし使いきれないなぁ」と、半分118円のを買った。葉っぱ側。岡山産。最後の一つだった。
で、夕方、家に帰って冷蔵庫を開けると、すでに大根が入っている。「あぁやってしまった。。」

妻が帰って来て、聞いてみると、僕と同じ時間帯に、本村の生協で半分の大根を買ってきたのだという。最後の一つだったと。
妻の買ったのは、先っぽ側の半分の大根。118円。岡山産。
「あれ?」
取り出してみて、二つの断面をくっつけてみると、ピッタリと合った。
二つはもともと一つの大根だったのだ。


切られて、別々の集落に送られた半分ずつの大根を、僕ら夫婦はわざわざ買い集めて、今、台所で一つとなった。巡り巡って出会った奇跡…とでも言っておきましょうか。
いやいや、割高なんですけど。。

夕飯で、カレイと煮物にしました。

(おしまい)



直島に住んでみて見えてくる、この半年で見えた事を引き続き書きます。


まずは【食】の問題。
想像しやすい事としては、島は物価が高い。スーパーの食材は選択肢が少なく値段も高い。島だからしょうがないが、船で15分の対岸では250円のビールが200円、食材も豊富。薬や文房具や電化製品など手に入りにくいものも多いが、通販は早いし独自のルールで便利。ただこれの対応として、島民たちは15分の対岸の巨大スーパーへ二週間に1回とかで大量の買い出しに行く。ここでは、3000円以上で生鮮食品以外は無料で翌日島へ届けてくれるサービスをやっている。
あと、愛知の時は、週末に外食で様々な選択肢があったしよく利用していたが、直島の場合、飲食店やおしゃれな居酒屋もあるがほぼ全て観光客用で、島民はあまり利用しない。あるアート関係者は「昔の静かな直島は好きだったが、数年前に行ったら原宿竹下通りみたいな店が立ち並んでいて興ざめした」と話していたが、それもうなづける。悪くいうと味的にも値段的にも「海の家」的な存在の店が多い。店構えもある意味”竹下通り”的な店もある。カフェは多数、たこやき屋、タピオカ屋、タコス屋、カレー屋とか。つまり、観光客のための飲食店であり、日常生活者のための存在にはならない。ただ、観光客はそれでも並ぶ。そういう外に向いた飲食店しかない状況は事実。それを責めようとは思わないが、650円で定食が食べられる店とか、こだわりのあるラーメン屋とか、行きたいなぁ、と二週間に一回くらいは思ってしまう。あと、観光業に流され、古い街並みの残る場所がどんどん変化していくのは大丈夫?と気になる。


もう一つ、小さな田舎の島の問題は【家】事情。
まずは、空き家がない。あるにはあるが大家さんが家具や荷物そのままに放置している家が多く、なかなか貸してくれない。島内は、貸していない空き家だらけなのだ。(若い移住者や役場はその対応を行なっているが。)その中で、貸している家の家賃としては、かつては一軒家で2万3万円と安く借りられたというが、近年、島がアートの観光で盛り上がるようになって、大きく変化してしまっている。カフェやカレー屋や民宿をしたい都市からの移住希望者は後を絶たないし順番待ちの状況。(近所のうどん屋も毎週末大行列ができているしそれを見たら商売人は反応するよな。)なので、借りられる家の家賃は、対岸の岡山側よりも高級かも。さらに付け加えると、光熱費は島値段でかなり高い。(綺麗なワンルームで光熱費込みで5万とか。)しかも、幸運に一軒家を借りられても、借りられた家も直さないと住めない家も多いし、虫や雨漏りと戦わないといけない物件も多い。直島が好きで移住した人で、もっと好きになった人で、仕事もある若い人は、綺麗な家に住むためには、自分で土地を買って家を建てるしか方法はない。それは高価だし最終手段であるが、この島で都会的な生活をしたいならその選択肢しかない。人気の島、需要は高く、供給が追いついていないので、自動的にそうなってしまう。そういう意味では、福岡とか京都とか愛知とか千葉とか、地方都市の郊外とかの方が家も綺麗で破格の安さの物件だらけだろう。直島は離島なのに特殊と言える。

つまり、直島は小さな島で、自然もあるし古い文化もあるが、観光客が多く、移住希望者も多く対岸も近くかなり都会的であり、つまり、家賃や光熱費や食費など、ランニングコストがかかる島でもある。だから、直島の観光業で働く人々も、往復500円の船代(1ヶ月1万円以上)かけても、対岸から通う人も多い。

基本的に、僕は、定期的な収入が見込めない生活をしているので、これまで家賃やランニングコストを最小限に抑えられる努力をしてきた。だからこそ、制作を続けられてきたし、このコロナかでも影響は少なかったと言える。都市部で、家賃8-10万円とかで住むというのは、安定的な定期収入が見込めないとできない、だから、みんな自分の時間を売って仕事やバイトをやり続けないと、制作しながら生きられなくなる。まずは、家賃やランニングコストを最小限に抑えられるのが、制作をしながら生活していく第一歩ではないかとも思える。
(僕の場合、2008-2009年フランスレジデンス、帰国後2009-2010年友人宅を転々として、2010−2011年東京のレジデンス滞在、2012-2019年妻の実家。そして直島と、この十年以上家賃を普通に払ったことがなかった。)
だから、直島が子育てにぴったりで、自分のプロジェクトもあるので、移住の可能性をぼんやりと検討した時。まずは、家賃がほぼ無料である事は大前提だった。そこで妻が島の役場での仕事を得ることができて、そのことで家の紹介や住宅支援を得られて、格安で綺麗な家に住める条件を見つけたのはターニングポイントだった。それがないと移住を考えることすらなかっただろう。(どうしても直島に住みたい移住者は小都会並に高い家賃でボロボロの家に住んでいる現状。)そして、引っ越してみて、直島の子育てや家の事情が見えてきた。そして、僕らが綺麗な家を安価で借りられたことが非常に幸運であったことをあとで知る。
だだし、妻の役場の仕事も3年のみ。住宅も手当も3年のみ。2023年3月まで。その頃娘は5歳だろうか。なんとかその後、新しく仕事や家を見つけて、あと3年、娘が低学年まで暮らしてみるか。僕のプロジェクトがどのくらい続くか。まぁ、なるゆき次第だろう。笑

ご近所さんから「下道さんは福武財団で働いているのですか?」という質問が多いので、一応書いておくが。僕自身、直島のプロジェクトだけをやっている訳ではない。他の様々なプロジェクトが同時進行で進んでいる。その様々な仕事で生活費や制作費をまかなっている。その拠点であるスタジオを、愛知から直島に移動させた。移動の利便ではなく家族との生活を考え。島のスタジオを資料館として”生きた”プロジェクトにしようというのも初の実験。ここは、常にゆっくり考え進めていく場所/基地であり、ここから関東や関西、国外へと移動し仕事をしている起点だ。島という他への移動が少し不自由な場所だが、コロナで移動が出来ない時期だし、より、ゆっくりと深く考える時間を過ごせているのは幸運だったと言える。

2020.10.1

なぜ、直島での【子育て】を選んだか、書いておく。

僕ら家族が暮らしていた愛知県の郊外は完全に車中心の生活だった。
保育園が終わって公園へも車、公園から家へも車。買い物へも車。駅までも車。
公園の周りも、家の玄関の前も、車が多いので娘と出るのが怖いくらい。つまり、家ー保育園ー公園ー買い物ー駅、と言った場所を車で繋いでいる生活。つまり、それらの間の世界は車で繋がっていて、路上がないみたいな途中との接触が少ない。空き地も柵がしていて子供も入らない。もちろん娘がまだ幼いのもあるが、ここで「作られた遊んで良い場所」以外ってどこにあるんだろうか。

人間関係でいうと、保育園への送り迎えの時、他の子供の親とは会釈するレベルで、集まりがあっても、なるべく距離をとる人だらけだった。それぞれ暮らしいている場所が広範囲で仕事や生活のレベルもバラバラだからだろうが、「他人に関わりたくない」というオーラを出す親が多い。保育園は必要だから子供を預けけて、横の関係やそれ以外は期待していないのだろう。

で、直島は。
人口は3000人だけど、その割に子供は少なくない。保育園では1クラス10人程度で前の保育園と変わらない。ただ、小さい島なので、親はそれぞれがどこの誰かわかっているし、挨拶や会話もある。さらに、放課後に校庭や園庭で他の子供と年齢を超えて遊ぶ機会も多いし、その時は他の親と話す機会もある。まぁ、家族も先生もそれぞれの素性がある程度筒抜なわけでそれによって、「他人と関わらない選択肢が難しい」のだろう。人と関わるのが嫌な人は地獄かも。笑
島では車が少ないし、車の入れない路地が多いので、一緒に歩いて散歩をする機会が多い。そして、そうすると近所のおじいちゃんおばあちゃんが、子供がいるととても親切にしてくる。子供にお菓子、家族にはとれたての魚や野菜などをくれたり、色々と。
どちらにしても、「他人に関わりたくない」タイプの人間は都会の方がオススメであるが、僕も妻も人と話したり関わるのが好きな方なので、島の生活での人との距離感は都市よりも向いていると言える。ただ、距離が近い分、情報は筒抜だし、色々と関わらないといけないことも多い。

島には、海や山が近くにある。つまり、「作られた遊んで良い場所」以外の場所が当たり前のようにたくさんある。そして昆虫や植物(海の生物や植物)の量がすごい。。これも嫌いな人は無理だろうが、幼い頃に色々な生物に触れることは重要だと考えているので、これも移住した理由の一つ。娘は変な場所に住み着いたカニを発見して「カニマンション」と読んで夏場は毎日パトロールしている。子供は意図しない場所を遊び場にする天才なはず、公園やゲーム機みたいな「作られた遊んで良い場所」ではない場所を自分で発見して欲しい。(いや「作られた遊んで良い場所」ですら新しく遊びを発見するだろうが。ね)
実は直島は山は豊かではない。それはかつての工場の公害や元々水が豊富ではない場所が関係している。ただ、海が本当に豊かだし美しい。波が穏やかで身近。見てよし食べてよし。保育園の帰りに、海でヤドカリや貝を探したり、魚を釣ったり。自然に囲まれていると季節を感じる感受性が高まる。


島に住んでみて思うのは、
幼い娘の記憶に、この風景や経験は残るのだろうかということ。僕自身もそうなのだけど、大人になって持っている過去の記憶って、幼稚園くらいからうっすらあって、小学校低学年くらいから強くなる。だから、2歳の娘にとって今の経験は潜在的なものになるだろう。それはそれで良いけど、どのくらいまでここで子育てをやるのが良いだろう、少なくとも。そんなことを考える。だから、幼稚園の後のこともよく考える。いつまでこの島に住むのだろうか、と。
島の小学校はどうなのだろう?
きっと、娘が小学校に上がると、僕ら自身が動きづらくなるだろう。根が生えてしまう。
僕らは移動をどんどんやってきたし、それによっていろんな発見をして、仕事をしてきたし、そういう意味ではまだまだ根を生やしたくはない。いつも「次はどこに住もうかなぁ」と考えている。とは言っても、一箇所には3年から10年は住むけど。
娘が小学校に上がる=家族で定住、かもしれない。では、小学校上がるまで島で、そこから別の場所へ?と想像してみる。僕自身は小学校低学年の時の経験がすごく今影響があるなぁと思うことが多いので、自然の多い環境で育てるのは良いと思っている。逆に直島以上に田舎でも良いくらい。

そんな悩みの中で、島の小学校のことを、島民の移住者の先輩から聞いたのが。
「小さい島の学校だから伸び伸び育つか?というとそうでもないよ。1学年1クラスしかなくて20人しかいなくてクラス替えもなくて。そういうずっと同じクラスメイト。場合によってはコミュニケーション能力が低下する傾向がある(話さなくても伝わるから)。さらに、友人関係がうまくいかないと逃げられる場所がない。さらに、みんな一緒な感じも強くて保守的な部分もあり、外からの異物に敏感。」と。
確かに。逆に、人数の多い小学校なら、同級生の誰かと上手くいかなくても、クラス替えがある。すごく変わっている性格や個性的でも、ほっといてくれる。
これは全てに当てはまること。東京のような様々な場所から来た人が入り混じっている場所だと、人と人の関わりが希薄な分、「ほっといてくれる」から、多様性は生かされる。逆に、島や小さなコミュニティだと、いい意味でも悪い意味でも、「ほっといてくれない」傾向がある。閉ざされた場所では保守的になる傾向もこれかも。まぁ全てはバランスだから、合うか合わないかは人それぞれ。
ただ、直島は風通しが良いので他者には寛容な方、さらにアートも身近だから異物にもアレルギーは少ないかも、そして移住者や観光客が多いしかなり都会的な島だと思う。日本中探しても中々ない珍しい島。

かつて、僕も妻も、小学校低学年で転校した経験がある。
僕は岡山のど田舎から、岡山の都会へ。妻は東京から愛知の郊外へ。二人とも、低学年の時の体験を強く持っているし、今への影響を感じている。ぼんやりと、小学校低学年までは重要だと思っている。
それなら、娘も「低学年まで田舎、そのあと都市へ」それも良いかもしれない。
それにしても、色々と考えてしまう。
しかし、自分たちで今のところは選択できるというのは本当に幸せだ。
まぁ、考える時間はまだある。
なるようにしかならない。成るように成る。

2020.9.29
瀬戸内映画館03_2_w.jpgのサムネール画像

瀬戸内はこれまでたくさんの映画の舞台になっている。
(もっと過去を辿れば、詩や物語の舞台にもなってきた。)
それらは観光とも密接に結びついている。
瀬戸内の風景が登場する映画を上映する小さな島の映画館を作ってみた。
展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》の展示終了後に、空間を映画館へと変化させて。
壁の展示はそのままに。
《瀬戸内「百年観光」資料館》→《瀬戸内「百年観光」映画館》。

新型コロナウィルス流行によって、展覧会《瀬戸内「百年観光」資料館》は、展示期間の2ヶ月間、毎週土曜午後だけ無料で開けることになった。展示を開催することすら危なかったので、財団やスタッフの尽力に感謝するほかない。展覧会がオープンしてみると、客層は、普段より少ない観光客、ただ同じくらいの島民の来館があったのは嬉しかった。さらに、島民の方の様々な記憶と結びついて話の広がるイベントとなった。
当初、展覧会のイベントとして、様々なゲストを交えてのトークイベントを企画していたが、ウィルス流行もあって見直しを行った。その中で出てきたのが、トークイベント開催の予算(ゲストへの謝礼や交通費など)を映画上映に当てるアイデアだった。
島民限定イベントとして。島外には告知しないシークレットイベント。全てはウィルス拡大防止への考慮がまずあった。この上映企画は資料館が島民との距離を縮める目的と、ウィルス流行によって息苦しい毎日を送っていた島民の人々の一つの”楽しみ””息抜き”になれば、そして島民の方がこの資料館に関わる機会と考えた。

展示が終了した後。空間内の本棚を片付け、暗幕を張り、椅子を並べ、スクリーンを設置。映画のセッティングために、スタッフで『二十四の瞳』の頭の部分を流してみた時、60年以上前の瀬戸内の風景がそこに広がった。僕もスタッフもその場に立ち尽くし映画を見入ってしまった。そして「このイベントは面白くなるかもしれない」と思ったし、この展示の企画の延長線にある企画だと確信。

9月7日(月)13:30~ 「二十四の瞳」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子 台風で9/21に
9月12日(土)13:30~ 「喜びも悲しみも幾歳月」 監督:木下惠介 主演:高峰秀子
9月14日(月)13:30~ 「釣りバカ日誌1」 監督:栗山富夫 主演:西田敏行
9月19日(土)13:30~ 「男はつらいよ 寅次郎の縁談」 監督:山田洋次 主演:渥美清

全4回の映画上映は全て満員状態。といっても、席の間隔を1メートル開けているので20人程度で満員なのだが。映画内の古い瀬戸内の風景をみんなでドライブしているかのような楽しい時間。会場には笑いが起こり、感動に浸り、なかなか良い機会となった。映画という大衆文化の強さを再確認。僕は、毎回、来客の「楽しかった」という言葉そして無事帰ってくのを見守り、なんだかライブハウスやシアターのスタッフになったような気持ちであった。(自分の作品を見せているわけではないシチュエーションは珍しいので。)4回上映が終わった後には「またやってほしい」という声も聞かれ、この資料館は映画館としてのもう一つの新しい顔も持ったわけだ。それがなんだか心地よい。(ちなみに、当初は屋外上映会を検討していましたが、映画を個人ではなく上映会で借りる場合、指定した時間と場所のみで上映可能で、雨で延期などになると、もう一度支払う必要が出てくるので、雨の多い時期ですし屋外上映会は泣く泣くやめた経緯があります。でも、資料館自体のの色々な可能性を見れたので良かったですね。)

古い映画なんてネットで見れるから意味ない、とか考えてしまうこともあったのですが。やはり良いですね。映画館。このイベントは、展覧会とセットで、トークイベントを行うように、続けていきたい。


瀬戸内「」映画館02_w.jpg

アフターかポストか、知らないが。
もし、新型コロナの感染を止められるワクチンとか薬が出た後の世界を想像してみる。
そこで、まず思いつくのは、今年の3月に移住した土地で、マスクを外した島民やご近所さんから親しげに声をかけられて、誰だか分からないという事態だろうか。

小さな瀬戸内の島に住み始めて、一つ疑問に思ったことがある。
”浜辺や港や島中で、海の「臭さ」をあまり感じない”
ということ。

これまで、旅の中で色々な港町や海岸に近づくと感じる「海の匂い」「磯の香り」の中には、独特の「海の臭さ」を少なからず混じっているように感じていた。ただ、この島には引っ越したばかりの頃からそのような「海の匂い」を感じることが少なく、もちろん「海の臭さ」を感じることなどないのだ。

様々な人にそのことを質問してみると、
「昔より海が綺麗になったからじゃないかなあ?」と話す島民。
もちろん、僕が幼少期に過ごした1980年代の瀬戸内海は、まだ高度経済成長期で傷ついていただろうし、その後公害問題や自然破壊の意識の変化でこの海は明らかに綺麗になった。そのことも関係しているのかもしれない。
さらに、「瀬戸内海は元々、狭い内海で、陸地から川の水が大量に流れ込むので、他の海よりも薄いらしい」という話も聞いた。そう言われてみると、沖縄で海に入った時に比べて、瀬戸内の海で海水浴をしても水がさらさらとしていて、上がった後にもベタつかないような気もする。気もする。。でも、瀬戸内はかつては古代から塩田がたくさんあって塩が産業だったことを考えると、明らかな塩分濃度が薄いとは考えにくい?
あとは、、、そこまで漁業が盛んでもなく、ガンガン水揚げとかもしていないし、海岸に雑魚が転がったり、そういう生臭い匂いの発生源が少ない、とか?うーん。。。

(こういう日記って、facebookに書くとすぐに、親切な誰かがコメントで「正解」を書いてくれてしまう。それがいい時もあるし、利用もできる。
でも、今回は答えを探すのは少し置いておきたい。この文章を書くことは「プロセス」の記述であり楽しさ。文頭に掲げた「疑問」という「目的地」は、たどり着くためのものではなく「プロセス」のためにある。今回は。)

ウチの家は海に面して立っている。
ただ、残念なのは、海方向の壁に窓がない。いやあるにはあるが、階段の上の空気の入れ替え用で30cm程度の小窓のみで、曇りガラスで風景も見えないのだ。
一週間前のある日、
朝起きて、階段を降りている途中急に、「海の匂い」を感じて、その方をみると、珍しくその小窓が空いているのに気が付く。妻が開けたのだろう。
薄暗く密閉性の高い室内の階段スペースへ、小さな小窓から吹き込む外の空気に混ざる「海の匂い」は鮮やかで朝の脳を刺激する。そして、やはり「臭く」なかった。ただ外にいる時より「海の匂い」を感じる瞬間でもあった。
その日から、朝、階段を降りるとき、嗅覚のスイッチがパチンと入る。
日々、「海の匂い」は変化しているようだった。
嗅覚を元に仮説を立てる楽しさが日々行われている。
(誰かからすれば当たり前の事で答えが出ているだろうが。当たり前になったすぐ隣に大発見とはある。かも?)

2020.8.3. 直島

IMG_5013.jpg

夕飯を食べていると、曇りガラスの向こうの空が赤く染まっている。
食事をやめて、家族で外へ出てみる。
本村の船着場には、夕方になると地元の人々が五人ほど集まってしゃべっている。
防波堤に腰を下ろし、太陽が熱が弱くなり、海を撫でた風が心地よい。
また、Hさんが直島の夕焼けや朝焼けの美しさを話してくれる。
どの季節にどの島のどのあたりから太陽が登り沈むか、そんな話。
波のない瀬戸内の水面は鏡のように夕焼けを写して、空の中にいるようだ。
海のそばに住む人だけの特権? いやいや、きっと田植え前の田園風景でみるのもきっと綺麗だろう。

都市部に住んでいた時より、明らかに、毎日の気候の変化、風景の変化、季節の変化を感じている自分に気がつく。毎日毎日。
少し前まで、娘は大量発生した毛虫に興味津々で、でも今は、カニを探し用水路を覗き込む日々。昨日、セミの抜け殻を初めて見つけて不思議そうに観察していた。
僕はというと、スタジオへの行き帰りを少し遠回りして、山の上から海を眺めることが多い。遠回りといっても、左回りで8分のとこを右回りで15分かけるだけだが。小さな島なので。


https://youtu.be/iTwXULUGEgA

瀬戸内「百年観光」資料館。
地元で放送されました。動画で見れます。
微妙にニュアンスが違うんだけど。ま、こんなのが始まっています。

前回は写真集をアーカイブし始めましたが、今回は過去のガイドブックなどを取集。記録物を集めながら、瀬戸内の図書館をゼロから作っています。観光をテーマにしたのは、京都だけじゃなくて、直島でも”オーバーツーリズム”ってのが起こっているんだと思うんです。とくに瀬戸芸の三年に一度は。3000人の島に観光客75万人。それを考えるきっかけです。観光学の研究者でもないので、穴だらけの展示ですが。。僕としてはガイドブックも記録物だと見ていて、今と100年前が地続きで感じられるのを意識しました。地元の人や研究者の指摘もどんどん受け止めて変化しいく柔軟さで。
最近、個人の蔵書から小さな図書館を作るケースが増えていますが、このプロジェクトはゼロから収集しながら展示にしながらアーカイブを作ってるのが少し特徴かも。本を収集したりやカテゴリーを考える時は、自分の作品だとかを考えず、万人ウケも考えず、島民や旅人がふと訪れ、本を手に取り体験できることを第一に想像しています。資料館と言いながら図書館を作る【きっかけ】は、僕自身が旅しながら撮影をする時、絶対にその土地の図書館や郷土資料館に立ち寄理、郷土資料を探すようにしていて、沖縄の島々の図書館はそれぞれの島の図書館は個性を持っていて、撮影に疲れた時に休息と読書の時間をあたえてくれるし、そういう存在を目指したいと思った。(では、プロジェクトタイトルをなぜ瀬戸内「 」図書館にしなかったのか?は、一言で言うと、感覚的に妙にしっくりきすぎるからあえて外した。つまり、すでにそういう私設の図書館はあるし、近年まさに色々な個性的な新設の図書館もオープンしているし、本棚一つでも「図書館」と名ずければ「図書館」になる使いやすさは(「美術館」と言う言葉と同じで、)、だから逆に、誰もあまり使わない資料館という名前を選んだ。ただの天邪鬼かもしれない。あと、今回でいうガイドブックだけではなくポスターのように、本だけではなくて「物」も扱いたいし。あと、変な男が作っちゃった○○資料館とか○○博物館とかそういうアウトサイダーなプライベートミュージアムへの憧れもあったり。)

今、プロジェクト二年目。移住して4ヶ月目。できる限り続けていく中で答え?を探します。1回1回の展覧会はアートでもなんでもない普通の興味なんだけど、それらを積み重ねてアーカイブすることで、島に妙にとんがった郷土図書館/資料館が作られていくこと自体を俯瞰してみているところも同時に進んでいる感覚。その辺りが、今、自分の中に出来上がってしまっていた作品のあり方をぶっ壊しながら進んでいて、これが何なのか?よくわからないけど、面白いのが生まれそうな時って、そういう感じがあるので、突き進むしかない。福武財団のスタッフの方々もこの「何なのかよくわからない」のを絶妙にサポートしてくれていて、島民の方も徐々に歩み寄ってくれている。

来年とかは別のテーマ展示になってるので、この機会に是非。8月末まで毎週土曜日のみ開館


明日から、北海道の小学校に下見に行く。
これはあるプロジェクトへの参加がきっかけ。
小学生とのワークショップを新しく作る。何が発見できたり、共有できるか。
でも、こんな時期だし、距離は密に取れないし、何をしようかなぁと考えている。
世界は何が変わったのか?変わっているのか?
ふと、美大でオンライン授業をやっている友人たちの話を思い出し。その記憶と山下道ラジオで話しいていた内容がごちゃ混ぜになって。ぼんやりと考えている。


学校がオンラインになって、未来に変わること、を少し想像してみる。

クラスで、声が大きい生徒が目立たなくなり、
逆に書き込みが上手い生徒が一目置かれるようになる。とか? 
すると、ただただ声が大きくて、喧嘩っ早いような、ジャイアンのようなタイプは死滅するかもしれない。近い未来。
ジャイアンのいない世界か…。悪くない。でも、僕の中にもジャイアンはいるから少し寂しい。
でも、ジャイアンの存在がホントに煙たかった生徒は嬉しいだろうな。

インターネットは、使い方が上手ければ、名もなき匿名の小さな声が、大きな社会にインパクトを与えられる。今まで大きな障害に邪魔されていた声が直接人々に届き動かす。それは、インターネットの面白いところであり、世界は変わった。(でも、まだそれに気がつかない世代が社会を牛耳っている。でも、それももう少しで終わる。ジャイアンは徐々にパワハラで消える。)
オンラインの授業はその感じの小さな世界になる。授業中には先生の風刺画が紙飛行機で飛ぶのではなく、SNSやネット書き込みになる。名もなき匿名の小さな声が、無能な「先生」を登校拒否に追い込む事だってできる。そんなの簡単。親だけではなく、外の世界と繋がって攻撃だってできる。

あと、一緒の年齢で横並びで授業受ける必要もなくなる?
年齢を飛び越えて、オンラインで受けられる枠があると面白いね。
高校の授業を、学校へ行く理由がわからなくなった中学生が受けたり。勉強し直したい老人が受けてたり。

ただ、そのように発しられた「名もなき匿名の小さな声」ってのも、その事を理解した新しい人種の発した声であって、ある意味、現代的な「大きな声の出し方」を知っているに過ぎないのかもしれない。
違うかな?
それは、目には見えない現代のジャイアンを生み出す?
でも、冷静に相手を書き込みで論破するなら、そのジャイアンは清い?そんなのジャイアンじゃない?陰湿な書き込みで相手を攻撃するのは、それは、、、ジャイアンではない?
あれれれ、なんか、話がわけわからなくなってきたぞ。。。
もう少し書き進めようか?
いや、こんなの、ネット上ですでにかかれまくってるのだろう。。

もう、寝よう。。。
おやすみなさい。。

IMG_1518_w.jpg

昨年直島で始まったプロジェクト《瀬戸内「 」資料館》の第2弾。瀬戸内「百年観光」資料館がオープン。
プロジェクト名が《瀬戸内「 」資料館》。この「」の中に毎回色々なテーマを入れ替えて行きながらプロジェクトを進め、最終的に、瀬戸内の景観や歴史をテーマにした図書館/資料館をゼロから誕生させるプロジェクト。今回は、「百年観光」と題して、観光についてを調査し展示。直島と瀬戸内の観光を振り返る。

このプロジェクトは、上の写真にあるように、空間内には4つの本棚とテーブルと椅子さらに壁にも棚があり、毎回それらを組み替えながら、展覧会を作る。本棚の一部には前回展示した瀬戸内をテーマにした写真コーナーがすでに完成していて、この「百年観光」の展示が終わるとそれらの本は本棚に入り、「観光」というカテゴリーが出来上がる。毎回、調査し収集した本や物を展覧会という空間に広げて見せるような展開を作りながら、その後、その展示のアーカイブと共に、本棚に納める、それを続けながら徐々に独自の図書館/資料館を作っていく。(すでに出来上がった本棚内も継続的に買い足していく。)

まだまだ本棚はスカスカですが、前回よりも少しは迫力が出てきました。のんびり続けながら、最終的には、旅人や地元の人に愛される図書館/資料館になればいいなぁ、と考えている。つまり、僕の作家としての作品ではあるが、それは見えないでよくて、普段は島で愛され利用される図書館/資料館であることを最優先に考えている。ただ、そのプロセスや展示やアーカイブの方法で僕自身のこれまでの経験を注ぎながら、新しい挑戦をいくつもしていく作品。福武財団のコミッションワークであり、長期的なサポートを個人で受けながら、プロジェクトであり作品は進行している。
直島へ移住したのはこのプロジェクトも一つの理由だが、一番の理由は子供を育てる環境だった。ただ、それによって、家族は新しい挑戦する場所を選べた。


そうそう、昨年のヴェネチアビエンナーレ日本館2019の企画「宇宙の卵」からちょうど一年。
ようやく、アーティゾン美術館(旧ブリジストン美術館)で、”帰国展”が今日、オープンしました。
東京駅から徒歩5分。皆様是非。


この展示について少し書く。
”帰国展”という奇妙なシチュエーションと向き合った展示になっているとでも言おうか。。
ベネチアに行かずにベネチアを体験はできない、けど、”帰国展”というタイトルの元で、思考し制作した展示となっている。
(つまり、、、この展示は直接的な鑑賞表現を制作したのではなく、過去のプロジェクトをどのように残すか、に重点を置きながら取り組んだ展示になっている。逆に一年前の、ヴェネチアの日本館での展示の際は文字情報極力無い状態で、プロセスはカタログに納め、説明を排除した展示を行った。)

美術家と作曲家と人類学者と建築家とキュレーター(とデザイナー)で、日本館に向き合い、その一年後にさらにこの”帰国展”と向き合った。(その展示の間で2冊のカタログも制作)
2018年から1年間かけて、日本館での五人のコラボレーションに集中してきたし、それが日本館やベネチアビエンナーレという会場でようやく完成した。日本館での”出来事”は、作品自体は僕たちの手は離れているけど”出来事”であり”ライブ”だった。(このヴェネチアが決まってすぐに日本での”帰国展”を行うことも決まっていた。)
ただ、この五人のコラボレーションである「宇宙の卵」は、ヴェネチアや日本館という場所があったからこそ出来上がった作品であり展示。日本館という建築が持つ穴から降る自然光や重厚な大理石の床の素材やジャルディーにという場所性、ヴェネチアという土地など、それら全てと関係を持って制作は進んでいったし。別の場所なら全く別の形になっていただろう。その過去のコラボの出来事を、別の場所にどうやって持っていくべきか?そのことでメンバーで頭を悩ませた。アーティゾン美術館のために最初から作られたのならまだしも、やはりこれは”帰国展”なのである。

まずは、日本館でやったことを解体して、アーティゾン美術館の空間を考え、もう一度別の形で組み直すこと、も考えた。これは、空間が変わるのだから、形を変えてもう一回”ライブ”を作るという考え方。ただ、その場合、どこまでいっても、アレンジを変えた再演になってしまうし、日本館を超えるような”表現”にはならないように思えた。
そういった思考の結果、アーティゾン美術館の空間内には、日本館の展示を再現して、ベネチアの作品をそのまま入れる、という方向へと思考が変化していった。多分、日本館でやったことを再現はできない、そこから考え始めることにしたのだ。

ある出来事をその出来事を体験したようには伝えられない。ではどのように過去の出来事と向き合うか?
と、これは、戦争や災害のモニュメントの話と同様であり、作品「津波石」やプロジェクト「宇宙の卵」とも深く関わる問題だし、考え続けた結果がこれになった。

展示は出来上がった。
多分、この展示を見る多くの人は、それが作品でああり、表現であり、ライブだと思うかもしれないが。これはライブ音源の CDアルバムみたいなものかもしれないが、さらにその先を考えている。過去の出来事をどのように残し伝えるか、それが可能か不可能か、を考えた作品であり、それをさらに考えるための装置になっている。美術館へ来る人の多くは「本物はやっぱり素晴らしいなぁ」をしにくるのだろうが、僕らの展示は本物がそこにないことから始まっている。ただあえて疑似体験は持ち込んだが。
ひねくれている? はい。そうかもしれないです。
ベネチアには来れなかったけど、応援してくれたり、期待してくれていた人に、見てもらえる機会だから、そういう人に何が見せられるかもあった。メンバーで全力で作った表現であるので、是非楽しんでみていただけたら嬉しい。(上の階で、鴻池さんが作品表現をパワフルに展示内で展開しているが、それと対比させながら、この奇妙な展示をみていただけたら、少し僕らが何をやりたかったのかが伝わるのかもしれない。)

このような二年以上にわたる思考を、異なる専門性をもつメンバーと行いながら、大きな展示を2つも(さらに2冊のカタログも)作れたことに本当に感謝している。

そして、メンバーはこれを経て、すでにそれぞれの新しい道に進んでいて、それにとても刺激されている。

【勝手にyoutube動画書き起こし】

NHKスペシャル
「2000年への対話 第1回 日本人はいまどこにいるか 井庭 崇×宮崎 駿」


::::::::::::::::::

井庭崇:
(アニメーションの「美術担当(背景画担当)の才能」について質問)

宮崎 駿:
例えば、美しい夕焼けを描く、なんていう時に。
(記憶の中に)自分がどんな夕焼けを持っているかによって決まるんです。
それは本当に面白いですけど。
持っていない人間はどっかのアニメーションのような夕焼け描くんですよ。あるいは、テレビで見たような夕焼けを描くんですけど。自分が郷里で育って、郷里で何度もその夕焼けをみてきた人間ってのは、特有の夕焼けを持っているんですね。
(略)
経験の違いではなくて、才能ですね。笑
だからその、どういう形であれ、風土性を持っている人が美術(背景画担当)になるべきだと思っているのですね。風土性を持っていれば、何らかの形で世界に対する手がかりになるんですよ。だから一番ダメなのは、多分、アニメーションが好きでずっとアニメーションの美術に憧れて、アニメーションの映画ばかりをずっとみてきた人が、一番学んでいないんだと思うんですよ。


::::::::::::::::::

僕自身が背景画担当とかには興味はないんだけど。
どんな創造性のある仕事においても、こういう、過去の記憶のストックをどのように蓄積されていて、どのように引き出せるか、が、重要なポイントだと思う。
そう言うと。「学生の時に、たくさん作品を見ました。それも記憶のストックです!」と主張する人もあるだろうし、それもそうなんだけど。大人になって学ぶのはロジックとかが多くて。
作品とかと出会う以前の幼い頃の記憶や出会い。そういうもの影響力の巨大さを感じることがある。


と、
ここまで書いて、ふと思ったのは。
だから、
瀬戸内の島へ移住しようと思ったのだな。と言う確信というか。
僕の娘は2歳になるのだけど。
彼女が大人になったらほぼ忘れてしまうだろうこの今の数年に、どんな環境でどんな出会いや体験をできるのだろうか、と最近考え続けていた。その時間はどんどん過ぎ去っていく。そして、それは、住んでいた都市部への疑問になっていた。
愛知では、保育園へ行っても、他の子供や家族との繋がりはほぼない(それちがいに挨拶しても、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、保育園の後に、車が多いので遊ばせる場所も公園だけになるし、公園でも挨拶すらしない人々(挨拶程度で、それ以上踏み込むなオーラをみんな持っている)、家族や親しい友人家族以外ほぼ会話がない環境、路上も遊ぶには危ないし、自然のような場所も車で行かないとない。

一年前に直島へ滞在した時に、近所の子供達が年齢や性別を超えて元気に遊びまわる光景や、夜になると秋祭りの太鼓の練習が聞こえてきたり、海が近くて小さな森もあって、車のこない路地がたくさんあって、小さな島だけど、多分彼女には十分すぎる大きさだろうし、こういう環境の方が。まず、彼女が小学校に上がるまでは、本気でこういう環境へ移ってみても良いのでは、と思った。そしてすぐに家や仕事の事も考えると、色々な条件が「今の僕らの家族に」ぴったりだった。(「アートの島」にアーティストが住む必要はないかもしれないし。多分、直島へ住むことは全ての人々にすすめられることではないかもしれないし。「今の僕らの家族に」ぴったりだった、だけで、もっと田舎の可能性だってあっただろうし。これも偶然の出会い。)

直島へ移住して3ヶ月。
最近、娘は上手に挨拶をするようになって、ご近所さんにめちゃくちゃ可愛がってもらっている。
全力で「可愛いねぇ」と言ってもらって、たまにプレゼントとかももらってくる。
保育園の後も、校庭や公園で色々な子供達と遊んでいるし、日が暮れるまで外で遊びたがる。
公園に行こうと散歩に出ると、路地にしゃがみこんで昆虫や植物をじっと眺めて動かないくて、目的地であった公園にいく必要がなくなってくる。
もちろん、家ではyoutubeとかをみているけど。

ま、直島は僕自身の仕事へのチャレンジでもあり、家族のチャレンジでもある。
ま、そういう事を再認識した。


昨日、日曜日の島には、急に岡山や香川の外からの観光客や釣り客が増えた。
徐々に、コロナの流行が収束に向かおうとしているようで、
人々は急激に日常に戻ろうとしているようだ。
昨日の朝、家の入り口の扉を開けると、目の前の普通の道路脇に、テントをはって堂々と食事をする一家がいた。息子は上半身裸だ。
僕の日常に「日常から離れてきた特別な時間(=観光)」がドカンとぶつかってきた瞬間だった。これが直島か。うむ、なるほど。
田舎にいながら、「都市部では急激に人の移動が増えたのでは」と想像していたら、
今朝のニュースでまんまとその予想は当たったようだった。
僕は観光地に住んだことがないが、この島はどんどん観光客が溢れていくのだろうし、僕の日常はどうなっていくのだろう。恐ろしくもあり楽しみでもある。新しい観察の対象であり新しい日常だ。

僕は、手書きの手帳を愛用していて、そこにスケジュールを書くことがもうこの十年くらい続いていた。
それは、ただ、スケジュールを書き込むリマインド的機能だけではなく、
新しく入った展覧会予定を未来に書き込みながら心の準備と興奮を感じたり、終わったイベントに感想を書き込みながら、経験を反芻して満足感や反省に浸ったり、そう言う存在だった。
ただ、今年の手帳は白紙に近い。
それは、ヴェネチア後に国内の仕事が減るのではないか?ということを手帳を眺めながら感じ、島へ移住する気持ちも加速させたし。さらに、入っていた少しの展覧会やイベントもことごとく延期や中止になったし。この2ヶ月間、手帳を開かなかったし、書き込みもしなかったし、そういう気持ちにもならなかった。ある意味で手帳は、自分のペースを確認する道具であり、いつも身に付けて見ていた腕時計であったが、今回はそれを外したまま、忘れていたような2ヶ月だった。

ただ、
先週から再び、予定が再開したり増え始め、急に忙しくなり始めた。
今日、久しぶりに手帳の出番と、引っ張り出して書くことになった。
「よし!仕事だ!やったるで〜!」と言う興奮とともに。
虫の鳴き声を初めて聞き夏休みの終わりを感じるような感覚でもある。

もちろん、前のような日常感覚にすぐには戻らないが、震災の後と同様に、都市部では巨大な正常性バイアスがまた動いているし、一瞬にして前の日常に戻ろうとするのだろう。
リモート飲み会も、いつもは集まれないメンツで集まれて最高だったけど、居酒屋でガヤガヤしたいし。展覧会やトークイベントに浸って静かに脳みそぐるぐる回したいし。嬉しいけど怖い。
7月4日から、ウチの資料館もオープンする。嬉しい。今回は 瀬戸内「百年観光」資料館 と題した展覧会を始める。瀬戸内と直島の百年の観光の移り変わりを考える場所を作ります。過去100年間のガイドブックを集めている。まずは観光客以上に、島民の人にも是非遊びにきて、過去を思い出したり未来を考えたりするゆったりとした時間が作れたら嬉しいし。僕にこの島や瀬戸内の過去の体験を教えて欲しいなぁ。そう言う機会になると嬉しいなぁと思います。毎週土曜、僕が開けます。無料。

当たり前にあった文化や体験の素晴らしさを貴重に感じられる瞬間がまさに来ようとしている。
忘れまじ、この夏を。



近所の方と話している。

僕:「最近、暑くて夏みたいですねー」
A:「そうですねー。なんか、誰か海に入っている人もいるみたいですからねー(笑)」
僕:「へー。」
B:「…」(Aさんに耳打ち)
A:「…(苦笑)」

(島の噂は高速である)

目に見えないウィルスによって、世界中が同時に翻弄されてる中で、

僕は家ではなく移住したばかりの直島というコミュニティに閉じ込められている。

徐々に外からの観光客がいなくなり、逆に島民たちの生活が見えてくるようになった。

時計が過去へと逆戻りして、数十年前のような小さな島での日々で、
瀬戸内の静かな光や音がキラキラと鮮やかで、それを体全身で受け止める。

家族の新しい登場人物「幼い娘」の存在は、人々との優しい距離感を生み出し、
心のスピードを徐々に減速させていってくれる。

鮮やかに感じているのは、視覚や聴覚ではなく、時間の感覚かもしれない。

時間の流れは子供の頃には戻れない、あの頃のようにゆったりは流れない、ただ、時間の粒子の輝きが子供の頃のようだ。
懐かしいとかそういう感覚は、今の風景に過去の風景を合わせて眺める行為だけど、そういうことではなく、今、この目の前の時間があの頃の感触を持っているようだ。


2011年、東北地方で震災があり、原発事故が起こり、突然、日常の見え方が崩れた。

それは「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにして、それらを疑い続けて生きていくことが、この出来事を忘れないための抵抗だと今も思って生きている。

2020年、今。
2011年と似たような、日常の見え方が崩れる感覚。再び「当たり前の日常があっけなく終わってしまうこと」と「自分たちの生活が見えない大きな力や慣習に依存していたこと」を目の当たりにしている。しかも、日本だけではなく、世界中で。(例えば、2011年、関東の電気が福島から来ていたことを初めて知った人も多かったし、2020年、世界中のマスクが中国で生産されていて中国が輸出規制をできることを世界中の人々が初めて知っただろうし。)

ただただ、2011年みたいに、この出来事を心に刻んで忘れない、とか、疑い続ける、という感覚を今の状況では感じていない。
何だろう。その違いは。

2011年に、急に日常が視覚化されさらにガラガラと崩れたように感じるたのを例えるなら、日常が線路の上を走る電車や、道路の上を走る車、に乗って生活していた感覚が崩れた感覚。でも今感じる日常は、すでに、空気の中を進む飛行機や海の上を進む船の感覚に変化したよう。 つまり、引かれた線の上を走る「直線的」で内側や中心からアクセスする感覚ではなく、「空間的」で外側から世界中にアクセスできる感覚、いや内側に外側を感じるような感覚。かな?

とにかく、
時は進む。

2011年にこの国も根底から変わる可能性があったし、その疑問の扉は一瞬開いたが、何も変わらずその扉は閉じて、元の日常が支配し始めた。

2020年、コロナの状況の中、この国が根底から変わろうなどと考えていないこと、そんな希望さえ持つことがバカらしいことが露呈し続けている。
つまり、未来の日常をも、「何も変わらない過去」が支配し続けている。
変わることを期待した2011年、期待することすら馬鹿げていることを十分に理解できた2020年。
そんな感覚。
でも、この国を脱出する必要はない、まずは感覚的/身体的に内側に空や海を持つ事。
もうそれぞれが変わっていき、生きる力を身につけるしかない。

(ただ、外海は結構荒い。笑 「海は世界と繋がっている!」なんて誰しもが考えるが、向き合ってみると、その道が困難である事を同時に感じさせる存在でもある。だから、瀬戸内は穏やかな想像力(妄想力)が膨らむ。のかも。
愛知の海でサーフィンをする時、度々死の恐怖を感じたが、瀬戸内の海に浮かんでいると同じ海だと思えない。)


2020.5.9


今の生活のリズム。
それは愛知に住んでいる時とは全く違うリズム。
それが今は心地よい。

朝5-6時に起きる。で、7時に娘とお妻が起きてくる。コーヒーを飲み朝食を食べる。
妻が役場へ出勤。娘を連れて車で保育園へ(約五分)。娘を送り出し車に乗り込む瞬間に気持ちが切り替わる。その足で仕事場/資料館へ行く(約五分)。9時半くらいから、自分の作業に没頭する。11時半スーパーで買い物、自宅に戻り妻と昼食。13時半から16時まで再び「資料館」で作業。16時半に娘を迎えに行き、公園や浜辺で夕飯まで遊ぶ。夕飯の準備をして食事。風呂に入り、娘と寝てしまう。21時。
このルーティーン。

休日は、全ての仕事を家に持ち込まず、娘と遊ぶ。
(幼い娘といる時、彼女の前で、スマホや仕事など自分の事をするなら、彼女にもスマホや動画や何かしらを与えるべきで、それができないなら、彼女と遊ぶことに集中る方が、お互いに健全な時間を過ごせる)

僕自身の展覧会やワークショップなどの今年の予定は、ほぼほぼコロナで延期や中止になった。
国内も海外の予定も無い。つまり、40過ぎて、今、無職に近い。
コロナが騒がれ出す前、今年のはじめに突然、島へ移住する事や、妻が島の役場で新しい仕事を始める事、娘の島の保育園へ移る事を準備しはじめた。3月には車一台、トトロの草壁一家のように引っ越した。愛知の家は妻の実家なので、作品や大きな荷物はそのままにして、最小限の荷物のみで、島でやってきた。(捨てていないので)断捨離ではないが、どのくらいミニマムな状態で生活できるかの実験のようで、身を軽くした。そこにコロナがやってきて、移動もできないし、入っていた仕事も潰れていった。

飲食店や旅行業やたくさんの人が大変な思いをしているのだろう。
ただ、僕も真っ白のスケジュール帳を目の前に、妻が育休から新しい仕事に復帰したこともあって、なんとか持ちこたえている。これまでも、自転車操業の家族経営。その乗り方が変化したに過ぎない。

僕はというと、毎日、資料館の椅子に座り、いつ完成するかもわからない未来の制作の空想をしはじめた。
これも結構忙しくて、すぐに娘を迎えにいく時間になってしまう。
昨年までは”予定に追われる忙しさ”だった。それは、自分の表現の蓄えを消費していくような状態だったのかもしれない。消費しながらもその経験で新しく蓄積も作れるのがベストだが、それはなかなか難しい。表現者は”若手”で発表のチャンスを与えられてキャリアをはじめられても、中堅で継続していく壁にぶつかることは少なくないのではないか。さらに、中堅ではある程度認知されている分、扱い辛いのか、発表の声も若手に比べて減る傾向にはあるだろう。
僕の場合、コロナは予想していなかったが、(”中堅”に押し上げられ、また別のフェーズに入り)仕事が少し減ることも少し予想をしていて、このような動きをとった。貯蓄するための時間を、作る速度をギアを少し落とす生活スタイルを実験する。有名になって左うちわで島に移住では全くない。
以前も書いたが、まずそのためにはベースが必要で、ギアを下げるのに重要なのは「家賃を低コストに抑え」「家族やミニマルなサイクルで助け合い生きる」こと。

ただ、数日前にある用事があり、お世話になっている大先輩にこの自分の置かれた状況をメールすると、
「下道さんはキャリアもあるのだから、学校の先生をやるなり、奥様に何かあった場合も考えて、
確実な収入の道を確保されることをすすめます。」と返信があり、落ち込んでしまった。
なぜなら、本当にそれはその通りだから。美しい事を言っているようで、実は妻に頼りすぎなのだろうし、痛いところ。
でも、もし、学校の先生をすると、先生という職業に専念したくなると思うし、それは表現者である事をやめるくらいの出来事になるかもしれないし、(妙に安定してしまうし、)それは慎重にしたい、というのも事実で。
僕はこの数年である程度消費された僕の中身や外身をもう一回自らひっくり返して生まれ変わらないといけない時期にきていると思う。人の真似でもなく、自分の過去も真似ない、受けたネタを使いまわすこともしない、と決めて、新しい歩みをはじめている。そういう、毎日を過ごすのも恐ろしくも、ドキドキしながら、冒険者のような気持ちなのだ。まずは3年。なんとか生き抜き、その間に。


で、
朝5時半とかに、最近、こっそり、誰もいない海に浸かりに行っている。ボード片手に。

それは実は色々な島民にばれはじめていて、波もない海に浮かぶ黒い影は「ナオッシー」と呼ばれている。。。

2020.5.8