文章/essay

ワークショップ「見えない風景」について。
朝起きるとFacebookが2年前の記事をシェアしろと写真を見せて来て、2年前の今日、芦屋市美術館で「見えない風景」を開催し、大変に盛り上がったなぁと思い出した。(FBは最新の新しい骨董製造機。)そういえば、先週は丸亀市にて開催しました。紙に文字が書けなくなるほどの雨が降って来て途中で中止。7年間で初の雨天中止。しかし、なかなかこちらも盛り上がった。そして、清澄白河でも11月11日に開催予定です。チラシやワークショップの様子は「MOTサテライト」にて入手できますので是非。

嬉しい事にこのワークショップをいろいろな場所で開催している。ただ、たまに「展示ではなくてワークショップが多いですね?」と言われるので、ワークショップについての考えを少し書くと。僕自身、風景と人の営みに興味を持って、制作を行なっている。それを写真を使って風景から切り取って/借用して別の場所で見せることが多いけど、やはりそれ自体への疑問やジレンマをいつも抱えていて、そのひとつの答えがこのワークショップだと思っている。これは写真のように複製できないし沢山の人と一度に共有できないけど、風景の中で一緒になって新しい感覚を開く発見や体験に満ちている。つまり、ワークショップは表現活動でありライブだと考えている。

そういえば、「見えない風景」の英語タイトルは『walk with your eyes』。(このタイトルはサウンドアーティストmamoruが考えてくれた。)
現在開催中の「MOTサテライト」では東京芸大にて「MOTサテライト」のサテライト展が開催中。キョンファさんキュレーションで行なわれていて、こちらのテーマは「地域とのつながりに根ざしたMOTサテライトのように、現代美術を通して地域や人々と関わることの意義について考えます。」とのこと。つまり、現代美術館が開催する地域アート的イベント「MOTサテライト」をさらに引きで考える為の展示位置づけか。。。そしてこちらには《Walk, Hands, Eyes 》と題されたミリアム・レフコウィッツ (Myriam Lefkowitz)の作品があります。少し似たタイトルで展示前から気になっていた。内容は「参加者が、ガイドとなるパフォーマーに導かれ、目を閉じてまちを歩きます。音、におい、触覚など、視覚以外の感覚を研ぎ澄ませ、かつそこから織り成される想像を通じて、まち空間を体験するというもの。」とある。僕は見に行きましたが「見えない風景」との面白い違いが発見できました。両方見た方は感想を是非聞かせてください。

最後に、このワークショップは、もっともっといろんな街でやりたいと思っている。だから、このワークショップにかかる準備や予算を正直に書きますと。
依頼があると、まずそのエリアでどこならワークショップが可能か街を歩き回ります。「下見」は1泊2日(上手くいけば1日)。そしてエリアが決まれば、ワークショップ前日に地図の準備、そしてワークショップ当日。1泊2日もしくは2泊3日。
【交通費=名古屋から2往復】
【宿泊費=2泊もしくは3泊】
ワークショップに必要な「物」は基本的に紙とペンとバインダーのみ。
ただ、出来るなら、告知用のチラシを作りたいと考えています。下見の時に下道が表紙写真を撮影をします。
【チラシ予算=10万】
そして下見と準備と本番、約3日〜4日。
【謝礼=7万5千円】
ということで、場所にもよりますが、全部で25-30万円(どうしても予算がたりない場合はチラシ制作を削除すると、15-20万円)であればできますので是非よんでください。
予算をこういうところに書くのは好きではないけど、興味のある方の参考になればと思いか書きました。
よろしくお願いします!


2017.10.17

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ソウルのレジデンスに滞在している。
隣の敷地からは何やら運動会の練習か何かの子供たちのかけ声が聞こえてくる。
窓から下を覗き込むと、子供の手には韓国と中華民国(台湾)の国旗が揺れている。
韓国の華人のほとんどは中華民国系だという。
日本植民地時代とその後の冷戦時代の影響だろう。
日本は1972年まで、韓国は1988年まで、中華民国を中国として関係を続けていた。
韓国の友人の話しでは、最近では中国語を学ぶために子供を中華学校へ入学させる事も増えているそうだ。

2017.9.20


与論島1日目。2015年9月18日朝5:30。
部屋の戸をノックされて目覚める。
「津波が来るから、6:30に高台に避難します!」
寝ぼけ眼に民宿のおかみさんの慌てた声。外はまだ暗い。夜洗ったシャツは乾いていない。

6:20。スリッパをぺたぺた言わせてロビーに向かう。キッチンでは民宿の家族やスタッフ総出で大きなおにぎりを握っている。傍らのテレビではニュース番組がつけっぱなしになっている。南米チリで大きな地震があったという。津波の到達予定時刻は7:30となっている。
「ごめんね。びっくりして早くおこし過ぎちゃったね。」

僕ともうひとりの宿泊者そして宿の家族とスタッフ、全部で7人、宿の名前のプリントされた小型のバスに乗り込む。その頃には、外はすっかり明るくなっている。
高台につく。島で一番高い場所だと言う小さな公園には、おばあちゃんと小さな孫娘らしい子がふわふわと風船を片手にぼんやりとしている。
駆け上がると、周囲340度くらいがすべて水平線で、本当に地球が丸くてその上に立っているように感じた。
おかみさんは一畳くらいの大きさの公園のベンチに、作ってきたおにぎりや沢庵を広げ始める。ベンチをちゃぶ台のようにして朝飯を食べる。チリのある東の方の海を意識しながらも、それぞれ自分の自己紹介や色々な話をする。おかみさんは、宝石や大切な物たち、長期戦に備えて本まで持って来ていた。
僕らは、地球の裏側からやってくるかもしれない波を待ちながら、時間を過ごした。

7:30。ひとりが「島を囲むリーフにいつも出来る白波が消えていない?」と話す。
みんなで遠くの海を眺める。そして、少しして、また普段の海に戻った。

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『ヘテロトピア通信 第6回』2015.12.16寄稿

「旅先から絵葉書を書いてくれない?」
いつも旅先から的外れなお土産を買ってくる僕に、妻はこんな課題を出した…。それ以来、旅先から自宅へ絵葉書を送るのが習慣になっている。
まず、旅先のお土産物屋やキオスクで、適当な絵葉書を選ぶ。
次に、時間を見つけて、公園のベンチに腰をかけたり、ホテルのベッドの上に寝転がったり、移動中の車窓を見ながら、紙にペンを走らせる。
「元気ですか?今、○○の××に来ています。こちらは……。×年×月×日」
目の前の情景を描写したり、色々な事を書きながら、日本で流れているだろう日常の事を想像してみたりする。
書き終えた絵葉書に切手を貼って、街角のポストに投函する。
その瞬間、自分の手から切り離され、旅立っていく。
絵葉書は、たぶん地元の郵便配達員や何人もの人の手を渡り、自宅のポストへと運ばれ、(時々僕が絵葉書を追い越して先に帰宅してしまう事や届かない事もあるが)、たぶん帰宅した妻が郵便受けから発見するだろう。

最近では、旅先でも毎日PCを開きメールを書くことが多くなった。
ただ逆に、絵葉書は以前より増してメッセージを伝えること以外に特別な何かを発生させているように思うようになった。
それを言葉にすると、ひとつは、『遠くを想う』ことかもしれない。
遠くで暮らす家族や恋人や友人を想う(という当たり前の事)。
この感覚は他に、僕の場合、旅先で目の前の海の向こうに異国の町並みを眺めた時や、自宅で深夜に机に向かいながらつけたラジオからの声に耳を傾ける時にも発生している。
この “遠く”には、“空間的な遠さ”を感じることに加えて、同じ時間を過ごしながらも、越えることのできない“空間の断絶”がそこにある。
そう考えるともうひとつ。
絵葉書として旅先から送られた数日前の出来事を受け取った時、
そこには“空間”以外に“時間的な遠さ”を感じているのではないか。
それはどこか、古代の遺跡や遺物の欠片を手にした時の感覚に似ている。
そこには、“時間的な遠さ”があり、同じ場所に立ちながら決して遡れない“時間の断絶”がある。
絵葉書は、『空間的/時間的な断絶を感じ、遠くに想いを馳せる』為の小さな装置であり、メッセージを正確に伝えることやそのメッセージを正確に読み解くことからはみ出した豊かさを多いに含んでいる。

旅は日常からの“断絶”なのではないか。
そして、目の前の“断絶”を受け止め、その先に思いを馳せる時、心の中に何かが生まれてくる。


2015年11月『旅するリサーチラボラトリー2016』冊子へ寄稿

R:eadという企画で、日本韓国中国台湾の作家などが集まって、1ヶ月以上を過ごした。その時に書いた文章。すごく濃密な時間だった。

文章はこちら。
http://r-ead.asia/report-shitamichi2/?lang=ja

『○○の虜』というお題のコラムに、『移動の虜』という文章を書きました。

http://magcul.net/focus/toriko2_shitamichi/

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2013年1月
広島県広島市

原爆ドームの大通りを挟んで向かい側の、柵で囲まれた大きな円形の工事現場が音を立てている。この場所は数年前まで広島市民球場が建っていた。柵の外側を一周してみると、思ったよりも小さい球場のサイズが伝わってくる。柵の向こうにライトスタンドの一部がぽつんと残されているのが見えた。このスタンド跡を町はモニュメントとして残してその周囲を公園にしようと計画したが、様々な市民の声があがり計画は中止となったままだという。それにしてもこの町はモニュメントだらけだなぁと思った。曇り空から光が射した瞬間、シャッターを切ってみると、どっち付かずの曖昧な風景がそのまんま写った。
 広島を後にして東京に向かう新幹線。隣の席でおしゃべりをしていたおばさん二人は、高速で通り過ぎる車窓の向こうに富士山を見つけ、目を輝かし、カメラを縦や横にして写真を撮りはじめた。数分後、写真に満足したのか、急にまた元の話に戻った。富士山はまだ同じ様に見えている。
 速いスピードで変わって行く風景を前にして、消えてゆくコトやモノを「残したい/伝えたい」と、人はモニュメントを作る。写真を撮ることもそうなのかもしれない。でも、過去をモニュメントとして捕まえた瞬間から、逆に忘却が加速する気がするのはなぜだろうか。生暖かかく漂っていた過去が、急に標本のように冷たくなってしまうように。美しさや驚きや悲しさや忘れたくないこと…そんな曖昧だけど大切な感情や瞬間を誰かと共有し残したい時、僕らは何ができるのだろうか。


母の友 2013年 05月号掲載


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沖縄の古道具市でこの皿を見つけた。たたいてみるとカンカンと金属の音がした。古道具市の亭主はこれが「ジュラルミン製の皿」だと教えてくれた。2000円。
読谷村の民族博物館で同じ物をみつけた。「村で家の立て替えとかの時に捨てるのはもったいないからと博物館に集まってくるんです」の学芸員の方は教えてくれた。
読谷村には戦中に日本軍の飛行場があり、戦後に破壊された戦闘機が沢山放置された。その戦闘機の残骸を材料に、地元のナベ屋“ナービヤー”が溶かして型に流し込んで作ったものがこの皿。ジュラルミン製民具製造が地域の第一産業にまでなった。しかし5年ほどで、戦闘機の残骸を使い切り、ジュラルミン民具産業は徐々に消えたという。
皿の裏の高台を見ると、何やら型を作ったときの元の皿の文様が残っているに気がついた。紙と鉛筆でこすってみると「WATRTOWN WARE」という文字が解読できた。ネットで調べてみると、ニューヨーク近代美術館に収蔵されたプスチック製の皿と全く同じ形だった。1944年に海軍によって作られた強化プラスチック製の皿で、今ではデッドストックだと言う。
戦時中か戦後に、アメリカによって持ち込まれたプラスチック製の皿は、沖縄のナベ屋さんの手に渡りこの皿の鋳込みの型になったのだ。
アメリカと日本による悲惨な戦場になってしまったこの小さな島で、戦後その二つの国家が捨てていったモノを、沖縄の職人が混ぜ合わされて結晶化した民具。重たい歴史を抱えた小さな「モニュメント(歴史的記念碑)」でもあるこの皿は、今から新たに料理をのせることができる空っぽの器でもあり実に軽やかで可能性に満ちている。光を当てると、影が現れ、鈍く銀色に輝いていた皿を眺めながら、「月」のようだと思った。

沖縄の土地で、この皿は博物館の隅の「戦争」もしくは「戦後の貧しい時代」のコーナーに置かれている。僕がこれを、この土地で展示しても「あぁ、あの民具ね。。」というふうにしか思われないだろうと想像した。ただ、この皿をそのまま見せても、少しいつもと違ったふうに感じることは可能なのではないか、と考え始めた。これは『戦争のかたち』と同じ思考かもしれない。
海岸で流れ着いたゴミから見つけた漂着瓶を加工して作った「漂泊グラス」と「ジュラルミンの皿」並べてみると、今回の取材と制作の興味が、”様々な時間や移動を内包した物体”だったのではないかなぁと思った。そして、重要なのは、表面的な造形ではなく、いくつかの素材の出会い方であり、身近な日常の存在の中にそれを見つけたいのだと言う風に思った。

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沖縄と八重山諸島を旅した。
台風19号の後だということもあり、美しいビーチはゴミの山だった…。ペットボトルや発泡スチロールが多く、その他にも漁業の道具やビーチサンダルや生活用具など。台湾、中国、韓国、東南アジアなど、様々な国から色々な物が流れて来ていた。
旅のなかで、島々の海岸を漂着物を見ながら歩くことを日課にすると、すぐに風景の風景の見え方が変わっていった。まずは、漂着物が多い海岸とそうではない海岸があることに気がつく。理由は様々あるが、季節風や観光の為の清掃や海岸の地形などが関係するようだ。もうひとつ気がついたのは、実は少なくない人数が、頻繁に海岸の漂着物を見て何かを集めてまわっていること。朝、浜辺に新しくできた漂着物のラインには必ず新しい足跡が残されている。西表島のある海岸で出会った人は、海岸に打ち寄せた藻を集めて干していて、「肥料として畑に蒔くとトマトが美味しくなる」と話す。その他、漂着物の中で種子やおもちゃを集めている人や漂着物を組み合わせてお土産物を作っている人々や様々な人々にも出会って、いろいろな話しを聞く事ができた。全く知らない世界と住人がいることに気がついた。
数ヶ月前、福岡県の玄界灘の海岸を歩き続ける漂着物の第一人者石井忠さんにお話を聞く機会があった。「漂着する木は、かつては集めて薪にしたり、海辺の社は寄木や寄船で造営されることもあった」と話されていた。さらに、「見つけた物が大きすぎる場合、石をのせて印を付けたり、隠したりするが、再び戻ると無くなっていることがある。」と悔しそうに話されていた。
海の幸は、漁で取れる魚介類だけではなく、浜辺に寄せる物も生活の資源になるし海の幸だ、ということを感じた。そして、そう考えるとペットボトルや発泡スチロールが簡単に再生できないのは非常に残念に思えてくる。
沖縄には様々な国から様々な物が流れつく宿命をもった地理。船も人も文化も流れてくるし、文化も侵略者も…。ニライカナイという沖縄の思想には、海の向こうから神が豊かさをもたらしまた帰るとされる。沖縄という土地は様々な善くも悪くも「寄せるもの」を受け入れ、付き合って来た(編集してきた)歴史がある。武器ではなく、生きる力で戦って来たように感じる。

沖縄には琉球ガラスの工房が沢山ある。琉球ガラスの歴史は、明治時代に長崎や大阪からやってきたガラス職人によって始まったが、戦後は、進駐軍が使用し廃棄されたコーラやビールの瓶を材料に再生ガラスとして彼らのお土産用の器が作られ始め、現在に至る。現在でも多くの工房は、コーラの瓶にかわり泡盛の空き瓶を回収して再生し食器を作っている。
「海に流れ着く様々な漂着瓶でガラス食器が作れないか?」そんなことを思い、海岸に流れ着くガラス瓶を集めるようになった。漂着する瓶から再生ガラスを作る。調べたり相談してまわると、そこにはふたつ大きな問題が出てきた。「ガラスは種類によって膨張係数が違うので、色々なガラスを混ぜると必ず破れること」と「工房のガラスの窯の坩堝に外から持ち込んだ色々な見知らぬガラスを入れることは大変な労力のいることで、やってくれる職人はいないのではないか」ということ。
普通に使用するのにむずかしい食器は職人は作らない。使えない食器、などあり得ない。ただ、形成した後、ガラスが破れてしまうことも含めて興味が湧いて来た。そして何よりガラスに関わる人が口を揃えて「破れるからやった事はない」と聞いていると、逆に作ってみたい気持ちをかき立てられた。
制作協力をお願いできる職人さんを捜した結果、奇跡的に興味を持って協力して頂ける方に出会うことができた。素敵な出会いの連鎖だった。
拾い集めたガラスボトルは、ハンマーで砕いた。炉の中に入れ、1日かけて溶かした。翌日、職人さんの指導で溶けたガラスを吹いて食器を作る。熱せられ赤々と光るガラスにはいくつものスジが見え、職人さんは「これは混ぜたからだし、普通より吹いた時にも丸くなりにくいな」と話した。
出来上がった食器を除冷を行いさらに翌日、工房に行く。制作した食器は破れていなかった。「混ぜ合わした様々なガラスの相性が偶然良かったのかも。奇跡的」と。少し亀裂が入る事を期待していたこともあり、少し複雑な気持ちで見ていると、「これから数ヶ月後に突然破れる事もあるよ」と職人さんは言った。
ガラスは固まっているように見えて、非常に流動性のある存在だという。陶芸は土と言う生ものを焼くことで固める感覚があるが、ガラスは少し逆の感覚を受けた。漂着したぼろぼろの瓶は窯で焼かれ新しくより生なものに生まれ変わったように、緊張感がある。
出来上がったグラスに光に当てると、置いた台に、様々な瓶の混ざりあわないガラスの層が影として見えて、非常に美しい。何より、実際に見えないが、このコップの中に様々な場所や時間が混ざりあっているということが、不思議な気持ちにさせる。
出来上がったグラスの中の2つを自宅に持ち帰り、家で乾杯した。洗っている時に、コップの中に少し亀裂がピキッと入った。嬉しいような悲しいような気持ちになった。

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ここの地名は“泊(トマリ)”という。
沖縄県那覇市泊3-4-13。フェリーターミナルが角を曲がったすぐの所にある。汽笛の音が時々この空間まで聞こえてくる。少し歩くと漁港があり市場が賑わっている。空にはカモメもとんでいる。港の隅には古い外人墓地がある。鮮やかな色の造花と芝生の緑と白い十字架。中国やフランスやスウェーデンやアメリカなどの色々な国籍の人々の名前が並ぶ。その敷地内に『ペルリ提督上陸之地』という石碑が立っている。ペリーは浦賀の前年、この泊に上陸した。石碑には『琉球人の繁栄を祈り且つ琉球人とアメリカ人とが常に友人たらんことを望む。1853年6月6日、大美御殿における招宴席上のペルリ挨拶』とある。アメリカが、すでにこの時期に沖縄の地理的重要性に目を向けていたこと、そしてこの島が今でも様々な国の間で揺れていることにまっすぐに繋がるように感じる。

“泊”の意味は、【船が停泊すること。また、そのところ。】とある(『日本語大辞典』小学館)。ただ、船だけでなく「旅人が宿泊する」ように、漂う人や物がある場所に「(寄せて)停止する」というイメージを思い浮かべることもできる。
泊という地名は、ここの他にも沖縄県内にも他にもあるし、国内に多く存在していて、そのほとんどは港町や海沿いにある。北海道の原発の町も泊だし、青森や富山…、今は国内ではないけどサハリン(旧樺太)を旅した時にも、トマリという日本語の音だけがロシアの寂れた港町の名前に残されていたりもした。
“泊まる”は、“止まる”などの「停止する」意味合いだけではなく、その後、船や旅人が再びどこかへ「漂泊」をはじめる、「再び“漂う”可能性」「変化し続ける可能性」を文字の中に帯びている。色々な漂泊と定着が幾度と無く繰り返してきた人や物の往来の時間が地名から想像される。

今回、僕はこの泊に流れ着いた。ペリーのように計画的ではない…が、ただ偶然でもあり必然でもある漂着。そして、ここから沖縄本島や徳之島や八重山諸島、さらに台湾との国境の海上まで旅をした。様々な過去や人や風景に出会い、強く心が動かされた。この小さな島々は、様々な境界線が交わっていて、外から寄せてくるモノたちに常に翻弄され、逆にしたたかに利用しながら力強く漂っている。緩やかに混ざりあいながら変化し続けるこの場所に停泊しながら、たくさんの旅のはじまりの予感を感じた。


西九条の駅を降りて、大阪の下町の梅香へ向かう。スーパーを越えると、運河につく。
そこはかつて昔の船着場だったところ。石碑だけがそのことを伝えている。
運河にかかる橋を越えながら、人々とすれ違う。運河にはいつものように水鳥がぷかぷかと浮いている。その向こうの川縁に“梅香堂”の明かりがいつものように見える。

梅香堂は後々田さんの手作りのギャラリー。いつも“船”のようだと思う。本人もここを船に例えていた記憶がある。停泊中の船。船長は後々田さん。
船長は多く過去を語らない男で、「後々ちゃんはミステリアスやから」とたこ焼き屋のてっちゃんも話していた。昔は、大きな船の船長をしたり、大学で航海術を教えたりしていたらしいが、それらをやめて、4年前からこの小さな梅香堂を近所の人々の手を借りてひとりで作り、操業を始めた。
停泊する梅香堂の船長室からはいつも川の水面がキラキラと眺められた。部屋には遠い世界のたくさんの土産物や難しそうな本がある一定の規則のもときちんと並んでいた。たまにふらりと立ち寄ると、他の国からやって来た別の船長と酒を飲みかわしながら難しい話を子供のように楽しそうに語り合っていた。そうかと思えば、近所の子供が訪ねてきたりもした。
停泊中の梅香堂の扉はいつも開かれていたが、“普通の社会”の人々は怪しがってなかなか近付かなかったように思う。ただその“普通”のようなものをどうしても素直に受け入れられない人にも船長は優しかったし、船長自身も“普通”への疑問を持つ人だったんだと思う。
「もしかすると、梅香堂は、この“普通”とされる世界と戦える数少ない“戦艦”だったのかもしれない…」と、書き始め、船長曰く“吹けば飛んで行きそうな”あの手作りの梅香堂を思い出してひとり吹き出してしまった。

梅香堂には若い船乗りたちが集まるようになった。彼らもまた、そんな“普通”に疑問を感じ、『作品を生み出すことで世界とぎりぎりつながっている』ような、どこか不器用である意味で強い船乗りが多かった。『芸術作品は人によっては装飾品かもしれないけど、人によっては船を前に進めるためのオールのようなモノだったりもする』から。
定期的に、梅香堂は船長と若い船乗りをのせて、共に少し長い旅をすることがあった。知らない港に停泊し、様々な料理を一緒に食べ、夜な夜な怪しげなワインをちびちびと飲みながら、いつも船長は静かに話しを聞いてくれ、たまに昔の話をしてくれた。航路については、一切を任せてくれるので、えらく遠回りをして、結局別の港につくこともあった。船長は僕らに上から教えるのではなく、いつも静かに見守ってくれた。
僕の1回目の梅香堂での航海は2009年冬。そして昨年末、4年ぶり2回目の航海の途中、突然、船長は消えてしまった。僕と船を港に置いたまま。

今はまだそれから2ヶ月しかたたないので、僕はまだ船長はひょっこりと帰ってくるのではないかと思ったりもするんだけど、たぶんそれはないことも徐々に理解してきている。もっといろんな話をしたかったのに…。
僕は今パソコンに向き合いながら、後々田さんと出会ったことや、梅香堂で展示したこと、この四年間のことを思い出しながら、このおかしな文章を書いている。最後に『船長は一体どこに行ってしまったのか…』そのことを僕は自分なりに言葉にしてみようと思う。

「船長は、実は僕らに内緒で、梅香堂とは違う新しい船をこっそり作っていたのかもしれない。それは手作りの“宇宙船”。今まで誰も見たことのないような最新鋭の”宇宙戦艦“…。こっそり行なっていたテスト飛行中、うっかり宇宙にまで行ってしまったのではないか…。」

以上、僕を育ててくれた後々田さんに感謝と敬意を込めて


下道基行

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(フリーペパー「FLAG」掲載)


2014年 1月5日 朝8時前
コーヒーのフタをポンと開けて中を覗き込む。
豆がだいぶ減ってきていてる。あと10杯分くらいだろうか。
先日、内祝に後々田さんからもらったコーヒー豆だ、と気がつく。
急に悲しくなってくる。
豆は早く飲まないと古くなってしまうし、飲んだらどんどんなくなってしまう。
2杯分少し少なめに取る。椅子に座って、ミルをまわしてコーヒー豆をひきながら、涙がこぼれてくる。
良いにおいが漂う。

温かいコーヒーを手に机につく。

昨日見つけた、ちょうど4年前に書いた日記を貼付けてみる。


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書類つくりに追われている。
息抜きに、書くことにする。


展示中の梅香堂について。

ここは去年の秋にオープンした。
梅香堂は、和菓子屋ではない。
トタンのバラックのような倉庫を改装した秘密基地のような場所で、寝るとこもシャワーもトイレもピカピカのが付いていて、アーティストが一人滞在しながら制作し展示もできる、町ともマッチしている(駄洒落)、「過去からやって来た妙に近代的なシェルター」のようなスペース。
川の側に建っていて、台風が来たらそのまんま川にどぶんと行ってしまいそうな、そのまま、海まで流れて行きそうな…、それいいね、旧ユーゴの監督の映画みたい。

で、
オーナーは、今まで美術館などで学芸員として一線を走ってきながら、50歳を前に突然の転身(ドロップアウト)して、この大阪の画廊ひとつない超下町に、このスペースを作ってしまった。
長野でそば打ちをはじめるように…?
いやいや、何か違う…。「アートってなんや!?それ儲かんのか!?食えんのか!?」そんな大阪の下町に、「なにかよく分らない『場所』」を作ったのだ。
最近、町の人もおそるおそる近寄って来ている。
おかしなキャラの常連も増えて来てる。
なにか、はじまりそうな空気が満ちている。
窓から見える川には鴨がプカプカ浮いている。

僕はというと、
「新しいことをはじめた」
ここのそんな新鮮な空気を大きく吸い込んでいる。

[書類作成(戦場)にもどる]をクリック


2010/01/04 01:11


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2010年年始、ちょうどこの日記を書いた頃、まだオープンしたばかりの梅香堂で、僕は展示させてもらっていた。
さらに、日記内で書いている「書類」というのは、アーティストインレジデンスTWSへの応募書類。
推薦状の一枚は後々田さんに書いてもらった。
本当に素晴らしい推薦状を書いてくれた。
お陰で合格し1年間東京で本当に素晴らしい出会いと経験をすることができた。

その半年くらい前に僕は後々田さんと出会った。
2009年夏、僕は山口での花火打ち上げのプロジェクトを終えて、そのまま、偶然にも大阪の梅香に住み始める事になった。理由は、その夏行なわれた「水都大阪」というアートイベントの為の作家や関係者様の臨時の宿の管理人として働く為。2ヶ月の期間限定の住み込みの季節労働。管理人仕事を始めてみると、昼間はお客さんもいないので、シーツを洗ったりしつつ、大阪の梅香という下町を散策するのが日課となる。梅香は工場で働く労働者の住む下町で、消毒されていないノイズが多くて本当に散歩していて楽しい。それを『昭和』とか「懐かしい」で片付けるのにはおしい程、「大阪らしい汚さと活気」を持っている町。(後々田寿徳・リレーコラム「大阪の優しさ」http://www.nettam.jp/topics/column/88/

「梅香に変わったスペースを作っているおじさんがいる」
最初はそんな情報だったと思う。
それが、梅香堂と後々田さんとの出会いだったと思う。

梅香堂はまだ、オープン前で、真新しい本棚に本を入れるのを手伝った。
「傷だらけの天使」のサウンドトラックが流れていた。「ここはこの人の秘密基地なのだ」と思った。
宿に来るお客さんを連れて、よく梅香堂に遊びに行くようになった。飲みながらたくさんの話しをするようになった。お金がないといいながら、いつもおごってくれたのはいつも心苦しかった。後々田さんは多くは語らなかったが、梅香堂をつくるにあたった経緯をぽつりぽつりと話してくれた。
「嫌なことをしていることを感じないように麻痺させながら生きて行くのが嫌になったんだ。あと10年遅かったら、もうこんなスタートは切れなかっただろうなぁ」
と大学教員を辞め梅香堂を始めた事を話していた。
後々田さんは、福井での学芸員生活→ICC学芸員→東北芸工大教員→梅香堂と、7年周期ぐらいで、今の場所に疑問を感じて、それを無視せず、変化し続けてきたのかなぁ、、と想像する。だからか、梅香堂は古ぼけた雰囲気でまったりとしているけど、どこか刺激的で新鮮だった。
そして、福井県美での経験も、ICCでの経験も、東北芸工大での経験も、あったから、梅香堂はあのような唯一無二の存在として、様々な年代の人が集う奇妙な場所になったのは間違いない。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『『大阪人』に紹介いただきました』   2010/10/01 13:13


『月刊 大阪人』11月号「特集満開此花区」に、梅香堂をご紹介いただきました。ありがとうございました。

関西以外で販売されているのかどうかわかりませんが、本屋さんに立ち寄った際にでもご笑覧いただければ幸いです。

此花メヂアさんも紹介されています。

最近、こうしたメディアへの露出がちょこちょことあるのですが、それにふさわしい活動をしているのか、と問われるとお恥ずかしい限りです。

梅香堂は家族をはじめ、友人知人の方々などの有形無形のサポートによってかろうじて続いているような状況ですが、今後ともご支援お願い申し上げます。

昨夜は下道君来堂。いろんなプロジェクトでほんとに忙しそう・・・。

先日KOSUGE1-16の土谷君とも話したのですが、日本ではアーティストは忙しくなればなるほど持ち出しが増えて、貧乏になっていきます。

彼や下道君のようなプロジェクト型のアーティストは、作品が直接お金に結びつくことが難しいためです。

日本のアート業界は、展覧会やイヴェントでアーティストを「消費」していくだけで、こうしたアーティストを「サポートする」という意識が低いように思います。

私にもっと力があれば、彼らのようなアーティストをサポートしていきたい、といつも思いますが、現実は厳しい。話を聞いてあげること(反対にいつも愚痴ってるような・・・)くらいしかできないのが残念です。

ただ、美術館などに勤めていたころとは異なり、最近はアーティストとのいろんな意味での「距離」が小さくなってきた、と感じます。つまり、彼らの気持ちがよりわかるようになった気がします。

単にビンボーになったから?かも知れませんが、それだけではない。社会的な立場が近くなったからだと思っています。

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梅香堂がオープンしてすぐに展示をさせてもらった時、
オルタナティブ・コマーシャル・ギャラリーを自称する梅香堂がはじめて販売した作品であり作家になったのは光栄な事だ。
「美術館で雇われた学芸員だった頃は分からなかった…」と話しながら、小さな自分のスペースで、若い作家が厳しい環境で制作をしている事を良く理解してくれて、控えめながら懸命に営業を行なってくれていた。
その後、岡山や水戸や東京まで僕の展示に足を運んでくれて、
「展示はむずかしいな…下道くん…」
とあの口調で、いつもしかられ。。時々褒められ。。
出がらしのお茶と酒を飲みながら。
そして、いつもお別れのときは、見えなくなるまで見ていてくれる。

2013年末、今回は、梅香堂4周年記念に、4年ぶりに2回目の展示をさせてもらった。
展示のオープニングの夜中、後々田さんの姿を探して1階に降りると、ひとりでぽつんと椅子に座って展示を眺めていて、
「いい作品だな、感慨深いなぁ…」
とはなしてくれて、とてもうれしかった。

本当に大切な人を失ってしまった。
残念でならない。。
俺の展示、途中だぞー!

僕は、大学を卒業するまで、学校とか先生という存在を無視したり反発してきたとおもう。自分でえらぶ事をせず、なのに、ひかれたレールには乗りたがらないたちの悪い生徒だった。
大学を卒業して、引っ張られていた糸やレールが全部外されてみて、はじめて「自分は何がしたかったのか」「何をしていくのか」を徐々に考えるようになって、自分や人と向き合うようになった。本当に遅すぎるしバカだ。
その後、自分也にあまちゃん也に歩み始めたが、本当にいろいろ甘かった。
そんな僕にいろいろな事をわざわざ教えてくれる先輩が何人もいてくれたのは幸福だった。それでも気がつかない僕を時にしかってくれた。
「誰に影響を受けましたか?」とか「誰が師匠ですか?」みたいな事をたまに聞かれるけど、僕は自分のせいで、学校では師匠と呼べる関係を作る事ができなかったが、卒業後10年で何人かの師匠というか先輩というか先生というかそういう人に出会えた。
後々田さんもそんな存在だ。
永久欠番。

最近でもたまに教えていたみたいだし、名古屋だったし、行っとけば良かったなぁ。
http://prj.smt.jp/~r2012b/?p=30

不思議なのは、後々田さんの死は、多くの人たちによって今からの未来に対して、生かされていく気がしている。
僕の中でも、既に現像され定着し始めている。
ただ、もっともっと会いたかったな。。
もっと褒めてもらいたかった。しかられたかった。。
いろんな話しをしたかったぁ。。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『死者のブログ』 2010/09/15 18:18


以前、Yangjahさんとホームページの話になった時、私が独自ドメインを取ってブログなども統合したら?と話したところ、「無料ブログは、書いていた本人がもし亡くなっても、その運営会社がある限り残り続けるのでよい」と言われて、「なるほど、確かに」と思ったことを想い出しました。

独自ドメインやレンタルサーヴァーは、維持費を支払い続けないと消滅してしまいます。亡くなった個人が運営されていた場合、そのご遺族などが維持し続ける例は多くはないでしょう。

「たかがブログなんて」と思う方もおられるでしょうが、個人のアーカイヴとしては貴重なものであり、一般人がその方を偲ぶ唯一のものである場合もあると思います。

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これを書きながら、後々田さんの日記を読み返している。
ここからもまだまだ学ぶ事があるな。前進。
文章化するというのは、自分の中で定着させる作業で、思い出があふれてくるのと、同時に過去になっていく感じとで、泣けてくる。後々田さーん。。

http://gogota.iza.ne.jp/blog/


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::

『虫のいろいろ』   2010/08/12 23:26


小学校四年生の姪っ子の夏休みの宿題(生き物観察)のために、老父が庭から大きな芋虫を採ってきました。

姪っ子たちは「キモい〜」と大騒ぎです。

この芋虫、実は一昨日妹(姪の親)が見つけて、「キャー、でっかい芋虫がいる〜」と叫んだため、老父が裏庭に捨てに行ったやつらしい。

黒々とした長さ5cmを超える芋虫。頭が大きく、紫色の斑点をもつ彼は、おそらくアゲハチョウの幼虫でしょう。この幼虫は鳳仙花(妹たちが苗を持ってきたらしい)の葉を食べていました。

アゲハの幼虫は食べる葉を選びます。たとえば山椒の葉など。ですから産卵する場所は限られている。

そんな話を老父としたら、「そういえば毎年、庭に大きなアゲハチョウが来る」と話していました。私も見たことがあります。

ひらひらと縁側にまで入ってきて、「おや、母親の生まれかわりかな」なんて思ったことを思い出しました。

彼は昨夜台風の中、裏庭から庭まで戻ってきたのか。

虫に人格を投影する精神は、小泉八雲の指摘を待つまでもなく、われわれに共通する心性なのでしょうか。

空き瓶に入れられ、鳳仙花やレタスの葉を必死にかじっている彼を、小四の姪っ子は「意外とカワイイ〜」と、ながめていました。

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僕もよく虫とか蛙とかに人格を投影しますが、この文章、日本人っぽいし、優しいなぁ。


:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『5月9日に思う』    2011/05/09 22:34

今日、5月9日は、二年前に大阪に引っ越してきた記念日です。

もちろん梅香堂はまだ廃屋のような倉庫で(今でも外見は変わらない?)、大阪に知人などもほとんどいませんでした。

その後半年かけて倉庫を改装し梅香堂をオープンしたのですが、もうそのころの記憶が薄れつつあります。まさに「無謀」な計画でしたし、そもそも「計画」すらなかったとも言えますが、とにかく二年間大阪で生きてきました。

私を物心両面で支えてくれた家族、ご援助下さった大家さん、大工さん、作家のみな、関係者の方々、多くのお客さん、そして私のパートナーとそのご家族に、心より感謝申し上げます。

もう歳ですので、この二年間で成長?したことはあまりないと思いますが、決定的に知った─痛感したことがあります。それは「はじめて作家の気持ちが理解できた」気がしたことです。

かれこれ四半世紀もこうした業界にいながら、なぜ今さらそんなことを言うのか。それは私がいわゆる「サラリーマン」だったからです。何だかんだ言っても、実際に「アートでお金を稼いでいる」人は今の日本にどのくらいいるのでしょうか。私が経験した学芸員、大学の先生は「アートでお金を稼いでいる」人ではありません。行政などの補助金や助成金を受けるのも、お金を稼いでいることにはならないでしょう。

つまりこの国で「アートでお金を稼ぐ」ことの困難さを、ほんとうに知ったのです。そしてそれは同じ立場にある作家たちと共通するものであることも。

正直に言って、梅香堂をいつまで続けられるのか、今の私にはわかりません。ただ、この二年間は楽しかった。ちょっと大げさですが、幸せな二年間でした。できうるならば、どんなことをしてでも続けて行きたい。

吹けば飛ぶようなスペースですが、今後ともご支援、ご鞭撻をお願い申し上げます。

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:::::::「梅香堂日記」より:::::::::


『前谷康太郎展終了・ありがとうございました』     2011/07/04 00:45

本日を持ちまして、前谷康太郎 「(non) existence」展は終了いたしました。

お忙しいところ、また暑い中、おいでいただきました多くのみなさまに、前谷君ともども心より御礼申し上げます。

前谷君はまだまだ無名と言うべき若いアーティストです。しかしながら彼はアーティストにとって、必須の才能を持っている。

それは「人の言うことを聞かない」こと。すなわち、「頑固」であるということ。これは大切です。

頑固者にあれこれ言い続けることは大変ですが、今後ともよろしくお願いいたします。

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(爆笑)

"持つとおしゃれイメージ"
"道具にこだわれる"
"嗜好品"
"実は健康に良い情報"
”中毒性”
"アメリカ"
ということで、「コーヒー」。

10年前だと「たばこ」だった気が。。

「たばこ」なき後に、「コーヒー」は意識的に流行らせている気がするのは気のせい?
マルボロがスタバに、すり替わってる?

と言いながらおいしいコーヒーをすする。。
コーヒーは脳の働きも活性化するのかぁ。。

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many kinds of stakes. almost wood.
いろんなカタチの杭。ほぼ木のよう。山形

2009年頃に一度、post photoというのを作った事がある。まぁ写真のついたただのお礼状なんだけど。

2009年は、今思うと結構大きな転機だった。2008年11月に貯金を使い果たした状況でフランスより一年ぶりに帰国し、あまりにお金も活動もなく、フラフラとしていた中、4月からある写真系の高月給の会社で働く事が内定した。ただ、ちょうどその時、尊敬する人から10日間クロアチアの取材にカメラマンとして同行してほしいと頼まれる。迷い、内定の会社に「5月に10日程休みをほしい」と頼んだが、「どちらかを選んでください、こちらは別の候補の方もいますし」と言われ(あたりまえだ…)、結局クロアチア10日を選んだ。月30万程度の良い職を得て一年間生活を改善し復活する計画はなくなり、帰国後また放浪生活がはじまる。そんな放浪のなかで、様々な人と出会う。

結局、このとき、別の方の舵を切っていたら、本当に全く違った今になっていただろうと思う。そんなことは少なくないが。
クロアチアから帰って、色んな場所に転々としていろんな人と会う。いろんな話をしゃべり聞くようになった。なにかモノ作りというよりは、運び屋のような感じ。さらに料理を作り、洗い物をするようになった。泊めてもらったり親切にしてくれたお礼のような感じで始めたようなものかもしれない。そして、お礼状を作った。

今年もいろいろとあって、年賀状を始めてみようと思いたって、ようやく入稿する事ができた。数日後から恐ろしい宛名書きが待っているが、今日はなんだか清々しい。

根本は変われないんだけど、たぶん2007年くらいまでの自分とは大きく変わった部分はあるのだと思う。少なくとも、料理の腕は格段に上がって、人に食べてもらえる程度にはなってきたし。別の町の話、別の家のレシピ、ネットではない情報の運び屋、混ぜ屋か。



友人の展示に行き、いろいろと知らない事を教えてもらう。またしゃべる。

家に帰って、小さなお祝い。明日の飯の仕込み。
毎日ご飯がおいしくて。


ブログを書いて反芻。

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2012-12-17 02:49

ベトナムから帰国して、大阪→名古屋へ一週間。
その後、台湾に鳥居の取材に行ってきました。

もう何度も台湾へは来てしまっているし、前回は展示を作るために滞在して友人もできた。
最近、台湾へはじめて旅行した時の様な驚きは減っている分、居心地の良さが増えている気がする。

けど、たぶん、休日を使って目的地/観光地を急いで巡る様な旅は、自分の場所を離れ旅先に自分の居場所のない/地に足がつかない場所を求めている感覚はある。それはまた自分の場所に帰る喜びを得るための目くらましのようなものかもしれないし、言い換えると見慣れた居場所から一時期離れることが旅なら、もう一度見慣れた居場所に帰ることを前提に成り立っているのだろう。
ただ、この自分の居場所ではない/旅先に、友人や行きつけのお店ができると、少し自分の居場所を与えてもらっている感じがある。それは、日本の別の都市であっても、台湾であっても、ベトナムであっても、フランスであっても、ふらりと近くを通りかかった時に、ふらりと会えて、食事をして、互いの近況を話したり、くだらない話ができるコトや場所。ただ、通り過ぎるだけではないということかもしれない。

そして、また成田空港に帰ってきた。
やはり東京には自分の家はなくて、それは2008年にフランスから帰国したときと同じ状況が続いている。

ただ、空港まで向かえにきてくれた友人がいて、それもフランスから帰国した時と同じ光景で、そこには新しい家族が増えていて、見るたびに成長していて、いろんなお互いの近況の話しをして、夜に友人が美味しい食べ物を持ってふらっと遊びにきて……、それが物質的な意味ではなく言えるなら、こういうところの総称が自分の居場所/ホームなのかもと思ったりする。
そして、僕もそういうところがとても必要だし、それをより素晴らしいところにするってのが、まぁ、なんだろう、、なんだろうね。

2011-11-23 11:23

展示空間の撮影を行ったので、その編集作業に追われている。
終わるまで帰れん。。

昼は狂ったように音を全力でまき散らすこの町は、夜は死んだように静まりかえっている。
日本の様にのんびりした静かな昼はなく、中途半端に車等の音のする深夜もない。
オンかオフ。そんな感じ。
たぶん、コンビニや夜遊ぶ場所も少ないからかもしれないが、その極端な感じに、今、深夜作業をしながら気がついて、面白いなぁと一人思って、ブログに書いてみた。

今は、4:30をまわったところ、
家のなかは冷蔵庫のブーーーンという音とマモルのいびきが聞こえる。

外で、一匹鶏の鳴き声が聞こえた。
一台バイクが走り抜ける音。

今日もハノイのあの全力が始まるんだなぁ。

あ、
マモルが寝言。

2011-11-06 06:49

町の中心部から泊まっている家まで、線路沿いを帰るのだけど。
夜になると線路沿いの車道の脇にいろいろな露店が並ぶ。
露店と言っても自転車の荷台に山々と何かをつんで、そのまま道に止めて待つという感じ。
ある日は金魚と水の入った袋がつるされた自転車が沢山止まっていたり、かごにフルーツが積んである自転車が並んでいたり。売り子さんは大体女性で、あのベトナムっぽい円錐型の笠をリアルにかぶっている。たぶんこの時間帯やこの線路沿いの道は、ハノイの市街地から郊外へ帰宅する人が立ち寄り易いのだろう。

昨日の夕方は、花屋さんがならんでいる。花自転車たち。宝塚歌劇のフィナーレみたいに着飾ったチャリ達。そして、なぜかいつもにもまして、お客さんがたくさん群がっている。薄暗いヘッドライトに照らされた人々お表情はなんだかうれしそう。
今日は何の日なんだろう???
部屋に帰ってこちらの美大生の女の子に「What day is today? because many people bought flowers.」と電話してみると。笑いながら、「明日が女性の日だ」と教えてくれた。
今日は女性の日かぁ、おめでとうございます。
未だにルールが把握できず、たまに帰宅するとタンクから溢れている水道を、気がついたら元栓ごと止めてくれる、隣人のおばちゃんに花束を送ろうかと、マモルと話す。
埃っぽいハノイの路上がその日は時に鮮やか。

2011-10-20 10:53

シーボルトが日本地図を秘密裏に国外に持ち出そうとしたように、地図はかつて最高級の国家機密だった。地図を作るというのはそう言う事なのだと思う。
石丸元章はかつて『平壌ハイ』でその国の”食こそ国家機密だ”と書いていたいたが、それに激しく同意しつつ、それは横に置いといて、今日は地図について少し書く。

ハノイに来て観光マップを購入して使ってみたが、道の描き方がいい加減で細かく書かれていない。
普通に大通りを観光するだけなら事足りるかもしれないけど、路上の物をマッピングするにはほぼ使えない代物。やはり社会主義国だから、こんなに曖昧なのか。。
こちらの友人に大きな本屋を案内してもらったが同様のモノしかない。それを見ていた怪しげなオヤジが「マップある!来い!」と怪しげな路地の店で骨董系地図を見せてくれたが、やはりない。
国際交流基金の方に聞くもたぶんない。
google mapが一番詳細が載っているみたいだがそれでも不十分。
結局、google mapをモノクロでプリントアウトして10枚くらいをはり合わせて地図をつくる。そして、それを下地に通った道や見つけた道をペンで書いていく。カフェやランドマークや撮影場所。徐々に15日間で自分の見ているこの町が立体的に見えてくる。通っていない道は薄いままだから自分の行動範囲が見えてくる。
前回、αMの個展のときは、バイクで移動しながら、日本地図(道路マップ)の通った道をマジックでラインを入れていって、ガススタの領収書を貼付けていった。
αMの時は展示を行いながら移動をしながらで、展示が終わる時、ギャラリーに帰ってきたから、この地図を見せる事は無かった。
ただ、この地図は重要なリサーチの”知ってく過程”の詰まった存在で、僕の制作スタイルには重要な存在なのだと思う。
こう書くと、GPSでも同じ様な事はできる…とか河原温もそんなことを…という声も聞こえてくるけど、今回の作品制作の場合、それがあまり意味をなさないドライすぎてアート的なポーズにしかならないと思っている。今回一番重要な事は、ハノイでの一度きりの展示。いろんな国の人が同じように感じられる作品もできたらいいんだけど、今回はハノイの人に見てもらえて感じられる展示を行いた
い。
絵画や彫刻や写真プリントのような、モニュメンタルに残る作品を作らない場合。この”地図”は”この町の自分だけの秘密を知り/作る過程”として、展示は消えても、作家として残せる価値のある存在なのかもという話。この展示がハノイの人がもう一度ハノイを感じる何かになればうれしい。

2011-10-17 16:51

ハノイの部屋の窓から入ってくるバイクやクラクションや変な音楽や声に、匂いが混じってくる。
ベッドルームの方の窓からは、下の路上で売られているドリアンやフルーツの甘い匂いがふんわりと。
入り口側の窓からは、下の食堂で炒めてる焼き飯と焼けた魚醤の匂い。
今日も腹グーーーー。

2011-10-13 10:25

ほうきで地面をはく音からはじまる。
カッカッカッ
たぶん、木の枝かなにかで作った荒めのほうき。

鶏の鳴き声。
まだまだシンと静かな町に響く。

少し肌寒く布団をかぶりながら薄く目を開ける。
窓の外はまだ青く薄暗い。

ブルブルブルブル……
バイクのエンジンの音が窓から入ってくる。
この感じ、日本の早朝の音と同じ。
ミッミッ!
クラクションの音。

人の声。
何かをトンカンたたく音。
プラスチックの容器の当たる少し間抜けな音。
鉄をたたく重い音。
隣人の音。

徐々にバイクの音が騒がしくなる。
目が覚める。

ドンドンドンドンドンーーーー
小学校の太鼓の音。
なにか歌ったり叫ぶ朝礼の子供の声。
何かのアナウンス。

ブルブルブルーーブルブルーー
いろんな種類のバイクのエンジン音が溢れ、
ミミミーーーミミミーー
いろんな音程のクラクションがぶつかる。
雷雲のなかにいるよう。

だめだ、クスクス笑けてくる。うるさすぎる。
完全に今日もハノイが目覚めたのだ。

ベッドから起き出す。椅子に座り、
パソコンのreturnキーをパチンと押して、モニターを立ち上げた。


2011-10-06 10:14

ベトナムハノイ5日目の朝。
元隣人マモルと二人でこちらへ招聘され、滞在制作中。
ベトナム人アーティストのマミが今回3人展を企画し、予算が降りて無事こちらへ来た。
3人ともトーキョーワンダーサイトで同じ時期に滞在した繋がり。
トーキョーワンダーサイトでの1年滞在は、日々の生業をしながら自分の展示等をしながら、さらに東京の家自体がアーティストとの共同生活&作業場だという、結構過酷な日々だったけど、色々な外への広がりと内への疑問を与えてくれた、濃厚ですばらしい日々だった。1年間なのに、終わる頃には、何だか学友とともに大学の寮生活を終えた様な感覚。
今日のベトナムは、少し雨で、とりあえず到着の歓迎?バタバタを終え、生活がはじまった感じ。

街角の路上のプラスチックの椅子を並べただけのお茶屋さんに腰を下ろし、3人でグループ展の内容をねる。
前回のハノイに来た時驚いたのは、この町の生活力や圧倒的な風景や生活爆音。
僕の興味は、基本的に新しくモノを作るのではなく、目の前の現実を角度を変えてフォーカスしているだけに近い(写真だし)。マモルの作品も、ほとんど作品らしいモノとしての作品は生み出さず、日用品を使って音にフォーカスするような作品。今回はたぶん、作品らしいモニュメント的オブジェのいらない展示を探りたいと思っていたし、それがこの3人展示のコアになるのではと考えていた。
お茶屋さんで、マミにその話をすると、「everything is already there」という言葉がでてきた。”既にそこにあるもの”。1番好きな大竹伸郎の本のタイトルを連想させる言葉。今回のテーマだろうと思っていた言葉。それが彼の口から出てきた。おもしろい。
その後もカフェやお茶屋さんで話している状態が続いている。
展示は今月末28日から。

昨夜は、滞在している家と近所のベトナム焼き鳥屋でビールを呑みながら、マモルと話す。
人びとの生活のノイズだらけの町で、自分たちの些細な視点/行為は意味をなすのか…ただの外国人観光客の視点になってしまうのではないか……そんな沢山のこと。

とりあえず、毎日お腹はいっぱいです。
ありがとうベトナム料理。
あと、台湾もそうだったけど、海外滞在で現地に友人がいるのは本当に素晴らしい。

2011-10-05 12:47

朝10:30分から設営、手伝ってくれる若いアーティストに作品について聞く。
手伝ってくれているひとり、海馬は雑誌に連載を持っている。彼の連載はとても面白い。
雑誌の種類は農家やガーデニングをする人が読む植物あ農業のもの。彼はその中で、都市生活で役立つ食べられる植物や料理やそのほかの情報をイラストと共に紹介している。まぁ、坂口恭平的に言うと都市的狩猟かな。彼のおもしろいとこは、食用植物の参考資料が植民時代に日本人の研究者によって書かれた本だと言う事。この本は、未知の南国台湾での、リアルサバイバルの為の研究された書かれた資料であり、それが現代の都市に置き換えられ利用される事は興味深い。
その資料の味などは”優良可”に分けられていて。昨日、食堂で海馬は少し変わった青菜の炒め物を注文して、おもむろにその本を取り出して、「これこれ」と見せてくれた、やはり味は"優"だった。"可"ってどんなだよ!?と盛り上がる。結論は「可=if you are hungry, you can eat it」。
みんな大学生かと思ったら、みんな卒業生ばかり、そして多くが今年もしくは来年から兵役らしく。
彼の連載も兵役によって、途中で終わってしまうかもしれないそうだ。
彼はこれらをまとめて本にしたいらしいが、悩ましい。

夜は大学構内でお月見BBQをする。台北芸術大学の敷地は山の上にあり夜景が美しい。東北芸工大ににている。ただ、違うのは、夜遅くまで生徒がわいわいと騒いだりBBQしたり、何かの練習をしたり、活気がある事だ。日本の大学は、構内での飲酒禁止や時間厳守など、制限が増えてきていて、なんというかこういう空気は近年劇的に失われているんじゃないかな?

何より人がいい。台湾。
あまりメディアに出ていなかったけど、東北の震災の時の世界一心配して支援してくれたし、
少しどこかでお礼を言えるといいんだけど。


レジデンスでは、ジーザスは姿を消し、代わりにクロアチア人のメディアアーティストが滞在?
彼女は台湾で結婚している様子。昨日は深夜にラウンジで爆音でピピロッティリストの新作を一緒に見ることに。全編ドイツ語を楽しそうに英語に訳してくれるが、その英語がよく理解できない。ただ、映像のみで分かる部分は多い。
その後、彼女はクロアチアの弟とスカイプ。弟はお世辞にも上手いとは言えないギターをひいてくれる。途中でつまったりする感じが妙にほっこり。弟を見る姉のまなざし、万国共通。


(続く)

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ピピロッティリスト インタビューより

しきたりは私の研究分野です。わたしたちが、自己防衛や生き延びるため、また、ある程度、平和で秩序のある生活を保つために、どのしきたりが必要なのか、必要ではないかといったことを調べています。
一方わたしたちはあまり考えずに、しきたりに従います。それは、時間がないといった理由だったり、しきたりを破るという意欲がなかったり、想像力がなかったりするためです。勇気の問題です。

映画ではしきたりは、新しく作り出すものでもあるということを指摘しています。私たちは何世代にもわたって今の世界を作り上げてきたわけで、今ある社会は前からあったわけではありません。


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2011-09-22 11:07

東京のシェアハウスを出ました。
東京を完全撤退移住!みたいに思われてしまうといけないので、
今回東京を離れる理由を書きます。

9月19日〜9月末 台湾(グループ展の為の滞在)
10月1日〜11月末 ベトナム(滞在制作)
11月末〜2月上旬 青森(滞在制作)
2月上旬〜 別の制作

有り難い事に、9月より色々な場所に滞在しながら制作することになり、9月から来年3月までは東京の拠点/家がそこまで必要なく。シェアハウス自体その為に短期用に滞在していたので、東京の荷物をまとめました。安くても5万円程度の部屋を借り続けるには、この作品滞在制作スタイルと合わない。もちろん東京に拠点を残したいし、滞在制作はなんとか生活は出来るが、東京に無人の部屋を借り続けるまでの余裕はない。
旅人のような出で立ちだと言われる。ただ、今年のこのバタバタした生活を越えて、来年4月から新しい生活を始めたい!と、ずっと思ってきている。
2007年、パリに行くため、彼女と井荻の家を出て、それ以来、移動の多い日々。
やはり、沢山の友人のいる関東で、友人を家によべるような生活をはじめたい。それが探している生活/家かなぁ。

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人々が再定住することーすなわち、将来の長い期間にわたって、自分の住んでいる場所にコミットしているかのように生活し考えることーを要求されている。これはある程度原始的なライフスタイルに戻ることであるとか、あるいはユートピア的な地方主義に回帰することを意味するのではない。それは、簡単に言えば、コミュニティに参画し、地域で生活するだけでなく、地球社会から学びそれに貢献することも可能になるような、サステナブルで洗練された経済的実践のありようを探求することを意味する。
『惑星の未来を想像する者たちへ』ゲーリー・スナイダー、p310、山と渓谷社

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ゲーリー・スナイダーをそこまで知っているわけではないですが、
今の自分のスタイルを”ノマド”と言われてしまうし、言い返す言葉もないけど、移動/移動の生活のみに未来を見ていない。前から言ってるけど、自分の生活/家を見つけたい。そしてそれは、物質的な家ではなく、東京という土地でもなく、人との繋がりがとても重要な気がしている。なんだか”人/繋がり”とは胡散臭い言葉だけど、
人との繋がりを生む事の出来る場所/拠点が再定住先ということかな。
もちろん住み心地やいろんな条件もあるけれど。

では、一曲。
1978年、生まれた年ですね。

ゴダイゴでガンダーラ。


2011-09-02 10:20

//

青森→(フェリー)→北海道→(フェリー)→新潟→東京。


am10:30小樽発。am6:00新潟着。[bridge]を撮りつつ、山道を下道で走る。途から雨。夕方、くそあつい熊谷、夕暮れ時少し涼しくなってきたなか、連絡を取って大学の同級生Nと会う。公園でノンアルコールビールで乾杯。最近の話。夕焼け。
暗くなる直前に別れて、三軒茶屋のシェアハウスに着。ドイツ人が新しくシャアメイトに加わったらしく、しっぽりパーティ。Joseも深夜から合流。

まぁそんな感じで、とりあえず2回で1ヶ月半近い旅が終わりました。
●東京→愛知→大阪→岡山→広島→山口→兵庫(バイク故障)
●(半月後/修理終了)兵庫→愛知→石川→富山→新潟→山形→宮城→岩手→青森→北海道→新潟→群馬→東京

北海道のフェリー乗り場で、バイク乗りたちと並ぶと、自分がなんと変てこな格好で旅をしているのだろうと、少し恥ずかしくなったりした。
バイク乗りたちは、バイクを愛してるし、よくバイクや装備について、話したりしている。
それに比べ、僕は近所の銭湯へカブでツッカケで行く様な格好。
でも、まぁ、それでいいのではないかと思っていた。
移動/途中下車の小回りの利便性や燃費やフェリーなどの料金やいろいろな理由でこれになってるし、”北海道にツーリング”ではなく、近所の散歩の延長が日本になった様な旅かも。

東北は近かった。(実際に足を踏み入れるまでは遠かったけど)
それが正直な感想。
小学校2年生くらいの時に、一人で自転車で学区外まで行った時より、全然近かった。
そしてやっぱり、いろんな映像や言葉では何も手にしていなかったことを知る。
目の前の光景に唖然とした。”初めて海を見た犬”みたく。


数日行った活動が地元の人の為になったのか?
なんだろう、ボランティアって?

大量に流れ着いた身元不明の写真やアルバムの洗浄を行った。
メディアでは、それの写真が持ち主の手元に届く感動ドラマが流れていた。
実際は、毎日毎日発見され溜まっていく何万枚もの写真と、少しずつ写真を探しにくる地元の人の数が減っていく現実。
いろいろな場所の写真洗浄がバラバラに行われ、技術や情報の交換がなされていない現状。

ただ、僕の行った現場では、写真やアルバムを、洗浄する前に、スキャナーやデジカメで複写していた。それは洗浄によって消えてしまう画像に対する責任ともし修復する時に役立てるためらしい。
残念ながら、こういった時をきっかけに、貴重で大量なアーカイブがはじまることに気付いたりする。アフリカのパーティー写真の商売が町の若者の記録になっていたMalick Sidibé [Chemises]を思い出す。stiedlの写真集。
http://foam.org/press/2008/malick-sidibé-chemises

小学校の遠足後に廊下に張り出された、「俺、何番と何番に写ってる」的な写真のパーティ版。

たくさんの方が復旧のために動いていました。


そう言えば、明日、トークです。
ユーストもあるようですが、できれば是非会場へお越し下さい。

2011-08-12 13:16

山口を出て、10時間、走りっぱなし、夜になった。
兵庫県加古川。
プレッシャーとストレスと問題を積んだまま、考えっぱなし。
HONDAのCT110は、バッテリーが6Vだから、ヘッドライトが薄暗い。
前を走るワゴンのナンバーがやけにぞろ目が多い。治安が悪いのかと考える。
突然、バイクはブルンルッ…と遺言。動かなくなる。キックしてもウンスン。足が痛い。
初めての街で途方に暮れる。
バイクを押しながら彷徨う。
閉店後のバイク屋にバイクを残し、終電で宝塚の実家まで帰る。
バイク修理、修理代、また兵庫まで行くこと…、またいろいろと問題が増えた。

昨晩、青森で服部くんとトークを行った。
コレは、3月αM Galleryで行う予定だった[Re-Fort PROJECT]トーク。震災で中止になったもの、
リベンジ企画/中崎的にいうとパラレル企画。
ハッピーなトークではないのは分かっていたし、少し覚悟を持って行う。
1ヶ月近い旅の時間の中で、まとまりはじめていて、話せる時というか、向き合える時は、きているのかもしれない。
ちなみに、コレまで、[Re-Fort PROJECT5]DVDは、秋田、東京、岡山、山口で上映を行い、見にきてくれた人と会話を行ってきた。実は覚悟のいる作業だったりする。

[Re-Fort Project]は、軍事目的に作られ捨てられた日本全国に残る廃墟化した建造物を一時期のみ再利用し、イベントを行う。この行為は、僕が写真集『戦争のかたち』を作るために全国の軍事遺構の状態を探してまわるにあたって疑問に思ったことがきっかけとなっている。写真では伝わらないことや、場所性、記録ではないもの、発見する/出会うこと、保存か共存か、記憶をどのように残していくか、モニュメント化アンモニュメント化、などをテーマに実験的に行ってきた。
戦後、機能を完全に失った建造物に新しい機能を与える、そしてそこに実際に行く為の動線/きっかけを作る。

ただ、このプロジェクト、元砲台で缶けりをしたり、花見をしたり、不法占拠してパーティーを行ったりと、”戦争”という言葉に対して、コントラストの強い(ただ現代の日常的には当たり前ではある)行為/利用を行っているため、嫌悪感を持つ方もいる。

今回、[Re-Fort Project 5]の3月に行うはずだったが中止になったトークイベントをもう一度、震災後として踏まえた上で話せる機会が行えたことは良かった。やはり”戦争遺跡で不謹慎”という向きのコメントも出てきた。ただただ来てくれた人が「面白いトークと映像だった」という感想だけでは終わらなくて、それぞれが疑問を手にするような、着地点の美しくないトークイベントになったことは本当に良かったと思うし、そうでなくれば、ウソになるし、その曖昧なものを曖昧なままでテーブルの上に出しコミュニケーションしていくことにとても大きな意味はあるはず。
触れなくても生きていけるし、無視できる所を触れようとしているのだから、いろんな意見は出るはずだ。
僕の産み出すものも、その揺れている部分そのもので、モニュメント化されない/twitterのような短い言葉で格言するようなものではない/上手く言い表せない/そんなもの何だと思う。
分かり易いものも作りたいし、ひっくり返してニンマリお客の反応を見ていたいし、どうだ!とかいたいけど、そんな作品ではないのかもしれない。

現実はこんがらがっていて、その糸を解く為に奮闘する人もいれば、僕みたいにこんがらがった状況をそのままの形で視覚化する人もいる。
というか、こういう人がいてもいいはずじゃないか。
短い格言的な言葉の持つ強さは弱いものだし危険じゃないか。
分かった気持ちなんかになりたくない。
でも全部分かる事なんてできない。
なんじゃないか。

勘違い/読み違い/誤解を恐れず話すと、

少し被災地に行ったからって、何も語れないのは行ってみてよく分った。
津波で多くのものを失ってしまったマチを見て、僕はたぶん、風景の中に存在している人の生活や営みを発見するのが好きなのだと思った。
仙台から八戸まで海岸を下道で走った。そのなかで撮った写真は2枚のみだった(内陸での日常や[bridge]は除く)。一枚はバス停に置かれた椅子、一枚は小さな用水路の橋のようなもの。
自分が写真機で記録しないといけない風景なのか?今まで自分は写真機を持って何と向き合おうとしてきているのか?肉眼レフ(中平卓馬語録)でいいのではないか?自分自身に刻み込めばいいのではないか?…、いろんな事を考える。


これもこういうと勘違いされてしまうかもしれないけど、
”生”と”死”はテーマのひとつだと思う。”生”と”死”(”残るもの”と”消えるもの”)が隣り合わせで存在する事をなるべく意識しながら、そのなかで”生”をとらえたいと思っているのだと思う。ただ、こういう事をしうと”死”に引っ張られたコメントばかりになりそうだ。”死”は基本見えなくて恐いものであって触れたくないものだからかもしれない。ただ、僕自身、今生きているし死を意識しないと生きる意味は生まれないのかもしれない。
”戦争”という言葉も。ただただ”死”を連想するものかもしれない。ただ、『戦争のかたち』という作品でもやっぱり僕は”生”にフォーカスしたいんだと思う。おじいちゃんから聞く言葉は”生”を感じたし、目の前にはカラーの今の風景があった。”死”や”失った記憶”と隣り合う、”生”や”営み”を写したいのか。まだ言葉にならないな。

話は少しかわるが、
考現学を見つけた今和次郎は、元々民俗学をしていたが、大正時代の関東大震災の直後の、多くのものを失った土地に生まれ始めた”バラック”を見つけた。廃材を集めて立てられた家。人びとの営み。それを写真やスケッチに残した。
僕の今開催している展示は、この今和次郎の同一線上のあるのではないかと考える。小さな手作りの橋のようなもの[bridge]を撮影しながら、日本を旅している。小さな小川や用水路を渡る/隔たりをこえる為の橋のようなもの。どこにでもあるもの。
ただ今回、津波で多くのものを失ってしまったマチには、”バラック”という形はほぼ存在しなかった(見方によってはバラック的補修された家はあるものや山の方に仮設住宅はあった)。目に映るものは、重機で集められた4階建てのマンションくらいの瓦礫の山。家の粉々になったものや廃車の山。

東北の多くのものを失ってしまった巨大な風景を目の当たりにして、もちろん人の営みはあるのだけれども、初めて体験するにカメラを取り出す事すらできずにバイクで走り抜けて行く事しか出来ない。(もちろん立ち止まったりはするし、ただただ走り抜けている訳ではないと思う。)

ただ、”その現場に立った/実際にその風景を出会った人”と”そうでない人”は考える能力に差が生まれると思った。
ただ、その現場に立った人の言葉の持つ正論力を、その現場に立たない/立てない/立ちたくない人へ向ける必要はない。
暴力的な正義がそこらじゅうで拡散する。

3月11日、東京にいて地震を感じて、地下鉄に閉じ込められて、展示が中止になり、そこから数百キロ先で起こっている信じられない状況にテレビやネットから流れてくる情報で向き合う事しかできない。偏ったいるだろう現状報告や情報に惑わされる自分。
そのあとは、数ヶ月でやってくる速すぎる日常への逆戻り。

あそこはどうなっているんだろう?
なんかとんでもないことが起こっていたよね?
あれはなんだったんだろう?

僕自身は、そこに立ち、考え、話せる範囲/違う形としても、表現していくべきだとおもう。
みんな違う風に世界が見えている。そして、その違いの中で、自分なりにこの世界と向き合いたい。

つか正直、金欠の現実と向き合っている。

以上。

今日は、建築家の蟻塚学さんとACACでトークです。
今、客入りのラウンジで猛スピードで書きました。
隣の大学では、くまだまさし(吉本芸人)がお笑いライブをやっています。
くまだまさしに客を取られないか心配です。
調べてみると、お笑いライブではなく、ワークショップをしているらしい。なるほど。。


2011-07-31 12:22

『jataniさんのコメントに対して自分なりに書いてみる』

” @jatani  花火のDVDをみたよ、花火はたしかに打ち上がったけど、そこにいた私たちはまるで人のコマで花火しかうつってないように感じた。あそこにいたみんなはどう感じたのか知りたい。あの日の何を編集したの?どこまでがRe:Fort5?”

あそこにいた人はこの映像をどのように感じるだろうか。
自分だけの時間じゃなくて、あの時間に他の人が何を見ていたかをこのような形としてみてみて。編集された形として。おそろしいけど、僕ももう一度聞いてみたいと思う。

よし
自分の思っていることを書きたい。
直接、jataniさんへの答えになっていないかもしれないけど。。
何を編集したかったかについて。
(僕は、実際のところ、いまだにすべてを明確に判断できていない。)


まず、Re-Fort Projectは、放置された建物や歴史を、少しの時間/期間だけ、新しい機能を上に載せ転用/可視化して、また元の何もなかった状態に戻す。それが中心にある。

How to use?
How to know?
(「戦争のかたち」の後半は「戦争のかたちの使い方」というコーナーになっている)
かな。


ただ、RE FORT PROJECT 5では、

日食で空を見上げた時。
花火を打ち上げた時。
花火の音を体で感じた時。
花火が見えた瞬間。
花火を撮った瞬間。
ヘリコプターが近づいてきた時。

僕はひとつの高揚感いや緊張感のようなモノを感じていた。
それは映像に映し出されている/しまっている。


花火のドン!という音。
花火や日食が一瞬であることの緊張感。
写真/ビデオでそれを狙うと言う事。
ヘリコプターが近づくパタパタという音、そこに仲間が乗っているということ。


砲台や戦争とリンクさせる為に仕掛けたであろうトラップ/落とし穴に、自分自身が落ち/巻き込まれていった。そして言葉にできない大きな違和感が残った…。


僕自身は、このRE FORT PROJECT 5(Re-Fort Project自体)を、人を感動させる為に作ろうとはしていないのだと思う。(いろんな意味で心を動かしたいとは思っているが。)

たとえば、写真本「戦争のかたち」内の韓国へ行った日記もそうだけど、旅先で日韓問題に巻き込まれていく自分たちをそのままの形で見たいと思った。
もちろん、編集されたものは事実ではないが、自分が巻き込まれている事をどれだけ描けるかだと思っている。そのことは大切な部分のひとつだと思うし、そこで出来上がってきたものはさらに自分に問いかけてくる気がしている。

実際、RE FORT PROJECT 5は、「海峡のこっちとあっちでのろしを上げてコミュニケーションを取りたい」という自分の発想があって、現場へ行った時に、花火をあげることになった。その後、5人のメンバーになり話し合いを重ねる中で、ただ花火を上げるのではなく、前日も遠足を行おうとか、日食の昼間にしようとか、展示にする為に見にきた人達にビデオを持って撮影してもらおう、などという構想になっていった。

Re-Fort Projectの作品は今まで、その現場のみでイベント/ライブでしかなかったから、空間やDVDを想定しての映像作品としての編集/再構成ははじめてで、たぶんこういうライブを展示にしようとすると、事実とは違う違和感が生まれてくるきがする。

じゃあ
限りなくシンプルにするか、
混沌としたまま出すか、
それを補う為にいろいろな意見をインタビュー形式で入れてバランスをとるか。
どうなんだろう。

ただ、
表現は再現ではない。と思う。
最近たまにインタビューを受けるんだけど、インタビューアーによって拾う言葉が違うなぁと感じる。気持ちのいいことばかり書く人もいれば、「この人は僕をこんな風な人間として書きたいかぁ」を感じる事もよくある。僕は、それに違和感を感じることもあるんだけど、そんなとき、基本書き直したりはあまりしない。なぜなら、彼はそのように僕を見ようとしているわけだし、インタビュー自体表現なわけだし、人によって見える風景は別だと思う。


この作品についてもっと人に聞いてみたいと思う。

あと、12日にもαMで「Re-Fort 5について」のトークを行うので、話したいし聞いてみたいと思う。
今、展示では、11台のカメラをひとつずつすべてほぼカット無しで流し続けています。
このDVDになっている映像は、一つ一つ一人ずつの映像は細切れに編集されています。
たぶん意味合いや見え方聞こえ方はかなり違うと思う。


jataniさん、いつも投げかけてくれてありがとう。
作家は出来上がってしまったものと、向き合う期間が長い。これも既に二年経過してるんだけど、普通に引きずっています。だから、みんなに分り易い説明が欲しくなったり、たまに逃げたくなったりするもけど、いつも違和感が何なのかをいつも問うていかなきゃいけないし、きれいに答えられるものでもないし、さらされなきゃいけないし。こんな空気の読めない能天気な自分が作品を発表していっていいのかと不安にもじばじばです。
とにかく、もう一度、トークでも話してまた書きます。

朝だー

下道

2011-03-09 06:55


::::::::::::::::

『Re-Fort PROJECT について書きます』


どのように話していいのか。
自分が話せる事は、自分の中にある話だったり、
Re-Fort Projectを始めた経緯だったり、考えだったり…だと思うので、
誤解を恐れずに書きます。

ただ、このRe-Fort Projectは、「これはこういう意味なんだ」と明確なメッセージを誰かに伝える為のものではないと考えています。いろいろな人が違う意見をもったり感じたりしていいとも思っているから、揚げ足の取り合いではなくて、意見は丁寧に受け止めたい。あと、ただ、jataniさんのようなその時感じた事や彼女自身が考えた意見ではなくて、”馬鹿騒ぎ”や言葉や妄想だけが一人歩きしてほしくなはいとも思っています。
あと、僕自身ができた人じゃないことも、話す言葉も文章がいろんな誤解を生むことも、知っていて書きます。

これは、プロジェクトに関わった人達の総意ではなく、
このプロジェクトをはじめ、続けてきた僕の意見ですので。

【”きっかけ”について】

2005年写真集「戦争のかたち」を発表した。
2003年くらいから、その前身でもある写真連載「戦争のかたち」を旅系カルチャー紙「Spectator」で連載させてもらった。(それはメディアに写真がでて、展示とは違う人びとへの浸透の仕方だった。あと、自分で文章を書くということで、戸惑いながらも、沢山の経験をさせたもらった。)

元々、僕は絵を描いていたんだけど、真っ白のキャンバスの上に自分から何か新しく生み出すのではなくて、”既にそこにあるもの”を観察するスタイルに変化していって、それが戦争の遺構/遺構の残された風景との出会いによって、旅をしながらカメラで写すというスタイルで作品化/視覚化していくことになった。新しいアクションではなく、観察と編集。
じゃあ、僕は何を表現したかったのか、これらの戦争の遺構を対峙しながら考えていったから、それは今だから言えることも多い。一つとして戦争を後世に伝えたいという使命感とかではないとおもう。

(あともういちど書くと、これは本当に誤解され易い言い方かもしれないけど、)

例えるなら、アメリカの動物学者だったモースが、明治時代に電車の窓から見える斜面に貝殻の集積を見つけて、そこを掘り返してそこに人が暮らしていた痕跡(貝塚)を見つけたみたく、僕は東京の郊外で昭和初期に作られた軍事施設の跡を見つけた。それは知らなかった時代/世界と出会ってしまった。
もう少しくわしくいうと、その軍事施設跡は近くに二つあった。ひとつは柵で囲まれた”戦争遺跡”(と名前/意味の付いたもの)、もう一つは廃墟のまま建っていて、これをどのように残すか/使うかを市民の方が検討していたんだけど、数ヶ月後に跡形もなく壊されてコンビにと駐車場になっていた。
この公園内に残された”戦争遺跡”と壊されていった”廃墟”とでは、なんというか全く違うリアリティを持っていて、目の前にその存在感を感じたのは、”廃墟”とそれを取り巻く風景、そしてそれが失っていく変化だった。(それは壊された跡も含めて)

そして、旅をするようになって、日本全国に残るこれらの遺構や風景を見ていくと、
その機能を失って、転用されていて、風景と妙な馴染み方をしていて、忘れられていることに、自分なりのリアリティを感じるようになった。立て看板を立ててモニュメント化した遺構への興味はどんどんとなくなっていった。逆に”壊される前に撮影しよう”とともに”モニュメント化される前に撮影しよう”とも思うようになった。
たぶん、モニュメント化する理由も意味も分るし、肯定的ではある。ただ、自分はモニュメント化によって、終わってしまう/停止してしまうモノ/コトについて、もっと考えていかないといけないのではないかと思うようになった。それは、戦争のかたちの後半「戦争のかたちの使い方」とその後スタートする「Re-Fort Project」、さらには「Re-Fort Project」と同時期に始めたもっとプライベートな作品「日曜画家」になっていった。
祖父の絵の行方を追っていく「日曜画家」シリーズは、戦争という大きな歴史との対峙ではなく、自分なりの風景や遺構に対する同じ興味を別の形で作りたかった。(もちろん「戦争のかたち」も歴史を大きな物語としてではなく、僕自身が出会った今目の前で起こっている現実として表現を目指したもの)

How to remain? How to use? How to know?
どう使うか?どう残すか?どう知るか?

あまり話していないし、発表していないんだけど、
この時期、ヨーロッパに軍事遺構の現状を見に一人で旅行した。
その時、こういった建物は、水族館になったり、クラブやオフィスや家として普通に使われながら、その建物の一部に歴史についての紹介も書かれていたりした。逆に、とても強いモニュメント(戦勝記念館的なもの)になっているものもあった。
歴史は変化していく、ただ、日本ではこれらの建物をどのように扱っていいのか、それはまだまだジレンマのなかにあったりする。
そして、遺構の権利の関係にも興味があった。なぜなら、戦後、軍から土地が地元に返還された時、その土地の上に多くの軍事施設の跡は放置されたままだった。(例えば飛行場だった場所には、戦後も飛行機の格納庫の跡が残されていた)それらは、地元の人にとっては、壊すのにもお金のかかる国(軍)が勝手に残して行った、どうしていいか不明の存在でしかなかった。つまり、建物の管理はグレーゾーン/曖昧なまま存在し続けていた。人びとがそれらを日常の中で使っていくことやその風景は、何かしっくり来る気がしている。
これが、「Re-Fort Project」をはじめるきっかけ。


【言葉によるモニュメント化】

これらの遺構は、近年、”戦争遺跡”という名前が付けられ、ある意味言葉で柵に囲まれてきている。これらの遺構には、明治の遺構も昭和の遺構もいれられているけど。
”戦争”とはいつのことか?
イメージはあっても、この言葉を日本の歴史に当てはめて使う場合、違和感が生じる。

Re-FortのFortとは要塞や砲台を意味する。砲台や要塞の作りは、古い時代の城などの流れを汲んでいるし、東京のお台場はそういった古い時代の城でもあり砲台でもある。
明治時代の砲台は、”戦争遺跡””負の遺産”と呼ばれるものもあれば、最近ドラマになった『坂の上の雲』の時代の遺構でもあって、”近代化遺産”という言葉でも語られる。これは、このころの日本は近代化を目指して…、といういいイメージの言葉でもある。
Re-Fort 5で花火を上げた山は古城山、昔の門司城あとでもある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/門司城
あと、この場所は戦国時代15世紀には戦闘はあったが、近代要塞としてこの砲台自体の実戦はなかった。(幕末にはここの別の砲台での戦闘はあった)
ただ、日本で”戦争”という言葉は、太平洋戦争(大東亜戦争/先の大戦)の末期のイメージがすべてになっているのではないか。

ちなみに、下関の町の海岸のみもすそ公園には砲台のレプリカが設置されていて、みんなが記念撮影するスポットになっていて、100円を入れると、驚かない程度に「ドン!」と機会音がなる。この場所が幕末に実際に戦闘があった砲台をイメージして作られている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/みもすそ川公園

では、Re-Fort Project 5で、砲台から花火を上げた事、さらに、前日に実際に砲台をみにいく遠足をしたり、クイズ(内容は砲台の距離や土地の歴史について)を行ったり、明るい雰囲気でそれらを行って、ユースホステルに泊まって、ビールを飲んだり…。これらの土地の歴史は実際に勉強として、まじめな姿勢でのみ、行わなければいけないのだろうか。勉強会、歴史散歩として、砲台の歴史を勉強する企画し、それで人びとを集めないと、土地の歴史に触れる事は出来ないのだろうか。
もちろん、”戦争”という言葉に対して、とてもデリケートに扱って行かなければいけないのは分っているけど、「砲台で花見」や「砲台で花火」というイベントがただ”馬鹿騒ぎ”として扱われて、”不謹慎”として終わっていいのだろうか。
かつての砲台としての機能はなく、記憶が薄れて行く中、今の方法で砲台があった事を少しだけ視覚化したり、知るきっかけをつくることは”不謹慎”なのだろうか。
第2回目は砲台跡で花見やカラオケを行った。砲台の上はステージになった。では城跡で花見をするのは?


【どのように触れるか】

今、テレビで流れている地震の映像を横にしている。
僕や一人の人間が語れたり、想像できることは、たかがしれているし、話してはいけないこともある。逆に集団の中で、知らない間に巻き込まれていくこともある。
ただ、終わってしまった事を、ある一定の曖昧な共感/共有の中に置いてしまっていいのだろうか。Re-Fortも自分もその恐れはいつもある。失敗を露呈もしている。
知らずに行う/行ってしまうのは簡単だけど、知った上であえて行うのは本当に難しいと思う。なぜなら、どこまで知っても知りすぎるこということはないし、いろいろな方向からの意見はあるから。

とにかく、うーーん、今は。。。

とりあえず、
戦争に無関係の建物や風景へのアプローチもやりたい。風景のレイヤーの一つが戦争という時代/1945年だったけど、そうじゃないレイヤーも使ってみたい。
僕の最近の作業の「見えない風景」や「Sunday Creators」はそういう繋がりから生まれてきているし、いい作品なんだけど、インパクトは強くないし、地域系アートの風景/記憶系を跳ね返すだけのヌケはまだないかもだけど。

また、書ける事が見つかったら書きます。
長々と読んでくれてありがとう。
この日記は、非公開にしたまま、何度も何度も書き直しました。なので、3/13の日記ですが、4/2にアップします。


あと、このブロブの下のコメント欄は、自由に書いてください。Re-Fort Projectのコミュニケーションの記録の場になればとも思っています。(あまりに非常識なコメントは削除する場合もありますが)


では


下道基行

2011-03-13 15:01

お元気ですか?

大阪での企画展「絶滅危惧風景」無事/大好評にて終了しました。
皆さんありがとうございました。
僕は『Sunday Creators』と題して、西成/新世界で趣味で色々と創作している人びとを探し展示を行いました。これは、自分の祖父の絵を追ったシリーズ『Sunday Painter/日曜画家』を、プライベートではなく街という空間に置き換えたプロジェクトでしたが、本当に大阪のおじさんやおばさんのパワフルさに助けられました。
以下は、展示でハンドアウト用に書いた文章/エッセイです。
見てない方は是非。

昨日今日は、部屋の大片付け。散らかった資料やチラシやノートやメモをファイルにとじる。あぁ、やはり自分はファイリングが好きなんだと思う。二日目。。
あと、少し落ち込んでたから、去年今年とやってきた自分をメモやチラシやらで再確認して、過去の自分に負けてられんなと思ったりもするわけです。ビバファイリング。

では、文章をどうぞ↓

::::::::::::::::::::::::::::::::

●秋葉さん(98歳/男性)

 昼間っからアルコールの匂いをぷんぷんさせたおっちゃんを交わしながら、動物園前商店街を元赤線“飛田”方向に進んでいく。路上や垣根に泥酔のおっちゃんが倒れている光景や、通りすがりに意味不明の言葉を投げかけられたりするここのカオスっぷりにも、リサーチ数ヶ月で慣れてしまった。
入り組んだ小さな商店街の通りのひとつに秋葉さんちはある。木造二階建ての通りに面して掲げられた看板には薄らと『玉突き』という文字が見える。少しあけられた家のドアの中をのぞく。いつもの定位置で、秋葉さんはTVを爆音にしたままウトウトしている。98歳。
なかに入ると、今日書いたという8文字熟語(?)を見せてくれる。「萬感追憶 故郷之夢」「秋之食欲 大試食会」「岡山桃太 郎黍団子」…。日々目にしたり思いついたありとあらゆる言葉を8文字でチラシの裏に墨で書いている。

元ビリヤード場だった飴色になった板張りの床や家具。壁にはかつてきゅーを並べた棚もそのまま残っているが生活で覆い隠されている。
かつて、この街は労働者に溢れ、そして彼らの歓楽街として栄えた。この街自体は、その頃の活気をうっすらと残している。
「今度階段からおちたら、お父さん、ホンマおしまいやからねぇ」
と娘さんが言う。秋葉さんは数年前階段から落ちた。それ以来ビリヤード台の置かれていた一階フロアには、巨大なベッドが置かれるようになった。秋葉さんは、完全復活を遂げて、周囲を驚かせた。ベッドの周りや部屋の至る所に、アキバさんが書いた俳句や日記や絵が積み重なって山の様になっている。
秋葉さんに出会えたことは、この展示「Sunday Creators」の大きな転機となった。過ぎていく小さな日々の営みの蓄積やコラージュ、そして老いていくこと含め、秋葉さんのこの部屋はこの街そのもののようだと感じた。
「俳句は、小学4年の時に、先生が教えてくれたんや。そうやなぁ〜、4文字熟語は、満州におる時には、やっとったからねぇ。書かない日もあるけど、だいたい毎日今でも書いとる。」
話はよく満州の時代の話になる。工作員をしていた頃の遠い世界の長〜い話。この街をリサーチしていて、ふらりと寄ってしまうと、2、3時間帰れなくなってしまう。ただ、なんというか、時々「きみらはこんなことも知らんのんか?」的な挑発もされるので、負けじと話し返すが、こちらがトークのペースを握れたためしはない。というか、耳が遠いこともあって聞き返しても半分くらいはスルーされる。しゃべりや知識において、30歳程度の僕とスタッフ数人集まっても、98歳では歯が立たない。
気がつくと夜になっている。帰ろうと腰を上げると、娘さんがこっそり近所のうどんの出前を取ってくれている。
「ここのうどんやさん美味しいのに、主人が不器用やからかなぁ、お客さんあんまり入っとらへんで…」と娘さん。きつねうどん絶品。元ビリヤード場でテーブルを囲む。そのテーブルにも長い物語がある。食べながらも話すので、時々秋葉さんの口の中からうどんがピョコッと飛び出す。


●高木さん (70歳/男性)

その時代に生まれていたわけではないので知らないが、”飛田新地”の夜は江戸時代のようだ。実際は大正時代の街並なのだが、遠い昔の日本らしさを感じる。夜は妖艶。元遊郭、元赤線、アムステルダムでいうとレッドライト地区。高木さんちは、そんな飛田新地のはずれのマンション。
「高木さーん、制作の調子はどうですかぁ?」と、高木さんの部屋に通う僕とプロジェクトスタッフは、いつの間にか原稿を取りにきた雑誌の編集者のようになっていた。高木さんは、いつものように、こたつに座り、黙々とスーパー玉出のチラシでこよりを作っている。伝統工芸の職人さんのような鮮やかな手つきだが、もちろん趣味だ。街では”元大工さん” と言われているが、”元建設業”が正しい。
「商店街に今はブルーシートがはってあるとこ、昔あそこにお寿司屋さんがあったんや。ほんで食べに行ったら、5円か50円で出来た五重塔が置いてあって、「お客さんが作って持ってきてくれたんや。」言うんです。気になって、五重塔をABCと模型屋に色々見に行ったんです。そしたらキットで5万円とか、結構高こうに売ってましたわ。昔から手を動かすんが好きやから、船とか、模型なんか作っては子どもや誰かにやるんです。お金に余裕があったら五重塔も作ろうかなぁと思いましたけど、そんな余裕ないでしょ。(笑)
雑誌の五重塔の写真や四天王寺に行った時に写真撮ったりして。一番最初は爪楊枝で作ろうとしとったけど、爪楊枝じゃ折れてしまうんです。次に2番街の「餃子の王将」に食べに行ったとき、「割り箸置いといてくれぇ」言うたら、「なにするんや」って聞かれたけど、「なんでもええから置いといて!」言うて、洗って置いといてもらったんで作ったんです。それはそんとき住んどった三洋荘にあげたなぁ。ことぶき食堂のとこにもあったでしょ。
普通のちらしやと厚すぎてダメなんです。薄いんは玉出とJoshin電気のちらし。だから溜めとくんや。玉出はいろただけでもう分るんです。玉出のちらし、色も模様も、きれいでしょ。
今度、通天閣もつくりましょうか。
ほら、ここの窓から、通天閣みえるでしょ。夜チカチカ光ってんのが見えてきれいでしょ。」
高木さんの作品との出会いは、デイケアセンターのバザーで販売されていたチラシの五重塔をそこの職員の方に見せてもらった時だった。リサーチの帰り道、商店街の食堂の硝子ケースの中に食品サンプルと並んでディスプレーされた高木さんの五重塔を、ひとりが発見したときの感動っぷりはすごかった。店員さんに聞くとやはり高木さんはここの常連だった。その後、街のあちこちで五重塔は発見された。
「なぜ、高木さんはモノをつくるのですか?」と、NHK『プロフェッショナル』の茂木さんのように、聞いてみた。すると、「暇やからねぇ〜」と軽やかに返事が返ってきた。
時々、この街のおじさんたちの”超当たり前の言葉”に、僕は心を強く打ち抜かれる。


::::::::::::::::::::::

最後まで読んでくれてありがとう。
最近ゆっくり動き始めました。
やるぞーーーーー

なんだか、友人中崎もむくっと起き出したようです。
http://tohru51.exblog.jp/16100626/

2011-03-30 21:15

こんにちは。
まずは、今回の東北太平洋沖地震で罹災されたみなさまにお見舞い申し上げます。
さっき岩手の友人から自分も家族も大丈夫だという連絡が入りました。
まだまだ不安な日は続きます。

今、東京では、地震の直接的な影響はないのですが、すぐ近くでの被災地の映像、そして自分の無力さに呆然としつつ、今日から仕事など日常がスタートする違和感、原発の情報の不足、電気の不足などを、肌で感じています。外国人アーティストが不安がっていて、日本人アーティストで食事や情報のケアを行っています。ツイッターとユーストリームの早さと素晴らしさと、情報過多と煽られる感じに不安も感じます。


Gallery αMではじまったイベント&展示『Re-Fort Project Archive』がすべて中止になることに決定しました。

こんなにも沢山の人に手伝ってもらい、自分としてもこれからさらに展示やトークを通してたくさんの経験をしたいと思っていた矢先だったので、本当に本当に本当に残念です。そして、一緒に展示を行ってくれた方や展示に期待してくれていた方には申し訳ないと思っています。
ただ、このような状況だからこそ、見えてくる事や考える事があり、ゆっくりですが、静かなワンダーサイトで考えています。いろんな意味でさらに先に進むしかないと思っています。

大阪でのグループ展『絶滅危惧風景』は大好評で開催してます。おそらく、この展示は妙に元気づけられる展示だと思いますよ。見てない人は是非!
この展示会場では、現在別の意味で話題が吹き出してきているDVD『Re Fort PROJECT5』も販売してます。ご覧頂いて感想など聞かせて頂ければ幸いです。(jataniさんへの文章は現在かれこれ5時間以上向き合っていますが…しばしお待ちを)


こういうコトをblogで書くのはいけないのかもしれないけど、
自分自身思いつきで行動するのですが、すぐに物事を判断したりするコトがあまり得意ではなく、飲み込むのに時間がかかります。(だからフィルムカメラを使っていたり、作品のアウトプットにも数年かかってしまう)それは悪い事ではないと思っているのですが、最近のメールやツイッター等での会話には上手く付いて行けないの場合もあります。ただ、情報を取捨選択しつつ、よく考えた上で最上の判断ができればと思っています。
そしてこういうと誤解をうけてしまうのかもしれないけど、
イベントや展示が中止になり、外出を控えるような、現在の東京のこの状況下で、自分自身、急がしかった最近では出来ていなかった、ゆっくり自分と対話する時間を持っている気がしています。
また、近いうちに会いましょう。

陶芸をやっている友人は棚が崩れて大変だった思います。計画していたイベントが中止になってしまった友人もいます。家やオフィスがぐちゃぐちゃになってしまった友人もいます。未だに交通網や電気や水の供給がなく大変な思いをされている方も沢山います。大切な人を失った人達の映像をたくさん見ています。

僕は東京にいます。
脳はぐるぐる動いていますが、体は空いています。
自分に出来る事が何かあったら連絡ください。
では


2011-03-14 10:58

朝からいくつもの予定をこなす日が続いているので、夜は遊んでます。
昨日の夜は、池袋のジョンとヨーコとションに会いにいく。赤ん坊の隣で深酒。

2010-11-16 23:09

最近、大阪から部屋に戻ると、部屋が何かくさい。
クンクンすると、排水溝の匂いみたい。
ただ、少しの時間部屋にいると、すぐに臭くなくなってくる。
なんか人間ってすごいなぁ、と思いながらも、少し外に出てまた帰ってくると。
また、「くさっ!」て、なる。

これって旅に出る理由っぽいなぁと思った。
やっぱり、旅は非日常を求めているんだけど、逆に旅や移動のいいところは、帰ってきたときに日常が少し当たり前じゃなく新鮮に見えるとこにもあるんだろうな。
だから、部屋作業で煮詰まって、少し散歩にでるもの同じ。あと、移動ってのもいいよね。
旅先で何かに出会うってのもあるんだけ、いつも成田空港とかに帰ってきて、電車で東京へ向かうときって、「あぁ日本ってきれいだなぁ」って思うんだよね。

昨日はそんな話もしました。


あと、先日友人と盛り上がったのは、
アーティストに、移動費を免除したり安くしたら、面白いねって話。
新幹線、高速道路、飛行機など。アーティストが楽にいろいろと動き回れたら面白そうだよね。
どうでしょう。文化庁長官。(今度TWSに来るらしい)


2010-10-10 11:43

成田空港から朝一に出る便に乗る為に、東京と空港の中間あたりに住む友人の家に泊めてもらった。
ちょうどその日、彼の奥さんは妊娠中で体調が優れないと2階で休んでいた。
旅行自体は、ある尊敬する人のクロアチア取材にカメラマンとして同行するという仕事だった。
夜、友人が、大学の頃からの親友でさらに久しぶりということもあって、案の定深夜まで呑んでしまった。
2階に奥さんの様子を見に行っていた友人が階段を転がるように降りて来て「もしかするともうすぐ生まれるかもしれない…」と酔いがふっとんだ顔で言った。妊娠中の彼の奥さんの陣痛が突然はじまったらしい。僕はのんきに「めでたいね」とコップに酒をつぎ乾杯をしようとしたが、彼はそれどころでもない様子で(当たり前だ…)、完全に落ち着きを失っていた。友人と僕は徹夜を覚悟した。1時間くらいたって奥さんが2階から大きなおなかを抱えて降りて来て「なんかまだ大丈夫そうだから、少し眠って」と言った。仕事のこともあったので、彼がそわそわしている横で少し仮眠をとった。
どのくらい寝ていたのか、彼が慌ただしく動いているので目が覚めた。「今破水した…」。時計を見ると僕ももうでないと行けない時刻になっている。3人で車にとびのった。

車内は今にも生まれそうな雰囲気の奥さんと彼の緊張感が充満していた。ただ窓の外は春の朝の千葉ののどかな田園風景が流れて、僕はと言うと、車に揺られながらボケボケとして頭と身体で、幸せがはじまるような温かさを感じて、なぜか少しうるっときていた。

結局、病院の近所の駅で降りた。そこは空港からは遠かった。空港の待ち合わせ場所に予定時間を20分遅れ、汗だくになって走った。目はうつろで、口からは酒の匂いを漂わせ、「友人の奥さんが朝破水して…車で病院へ…」と明らかに嘘っぽい言い訳をする…、なんと胡散臭く不安なカメラマンを雇ったものだと思ったろう…。

日本からの飛行機は、もちろん何もなかったように普通に離陸した。病院に駆け込む彼らを想像した、友人の息子が無事生まれたかが気になったが、今日から2週間パソコンも携帯も持っていないので知ることはできそうになかった。
ウィーンを経由してクロアチアの首都ザグレブでトランジット3時間、イトウさんは今飛行機の中で読んでいた本について話した。「愛」や「自由」や「平等」って言葉を日本人は本当に理解できるのか…日本語に訳された時のズレや、そのような話だったと思う。そして僕はそれらの言葉を「美術」という言葉に置き変えながら聞いた。ザグレブから乗った小型の飛行機はドゥブロヴニク郊外の空港に夜22時に到着した。
小さな空港で、飛行機から直接滑走路を歩いてゲートに向かう。夜の匂いがした。そして湿気を含んだ風に少し爽やかな花の匂いが混じっているように感じた。

空港から出ると、最終便だったのか、何もない空港側には何台かタクシーが止まっているだけだった。ぼくらはそれらのひとつに乗り込んだ。今回の取材は、ある雑誌の記事の為にここドゥブロヴニクでカメラマンとして同行するというものだったが、取材終了後、足を伸ばしてボスニアまで行くことになっていた。何と出会うかは決めていない。
車内にはカセットテープでマンドリンの軽やかなメロディーが流れている。
「これはイタリアの音楽ですか?」ときくと
「いや、この辺の音楽だ。イタリアは対岸だからね。良く似てるんだよ」と運転手のオヤジは、観光慣れしているのか、聞き取りやすい英語で言った。
タクシーは一山越え、海岸の斜面をうねりながら走る。
「きみたち、どこに行くんだ?」
「クロアチアはドゥブロヴニクに1週間、そのあとボスニアのモスタルとサラエボに行こうと思っています」
「モスタルもサラエボもきれいな町だ。本当にとてもいい所だ」
そういうと、少し沈黙が流れた。
「でも、ここの町その町もね、戦争で破壊されたんだ。今から行くドゥブロヴニクも本当にひどかった…。美しい町だったのに…。たぶん、君たちは、この旅の中で、何度も『なぜ?』『なぜ?』…、って疑問を持つだろうよ。」
オヤジは静かにそういった。

「アドリア海の真珠」と呼ばれるドゥブロヴニクは、十数年前、セルビア人の爆撃によって破壊された。この内戦でたくさんの人が死んだ。ただ、ドブログニクの人々は、戦後、全力で街を戦前の姿に戻すため奮闘し、今はもう戦争の傷痕を見ることすらないまでになっているらしい。本で読んだ。

「あぁ、この橋渡ってまっすぐ行くとすぐにボスニアの町があって、そこも本当にいい所なんだよ。時間があったら行ってみたらいいよ」
やけに隣の国の事を懐かしそうにほめるオヤジ。
「あ~、そうかぁ…、隣の国のことほめまくってるけど、内戦が終わるまでは同じユーゴスラビアって国だったんだもんなぁ…」
とオヤジに分らないように、ひとりが日本語でつぶやいた。

タクシー運転手はもう陽気な顔で家族の話をはじめている。
英語の会話は、聞く意識を働かさなければ、言葉としての認識が薄れ、カセットテープの異国の音楽や車のエンジン音と同様に、すぐに環境音のようになる。
窓の外を、小さな港町がいくつも通り過ぎていく。
海も辺りもは既に闇に包まれ、山と海に挟まれた港町は、天の川のようにうねりながら眼下で煌めいている。そのひとつひとつの明かりが、ひとつひとつの人の生活なのだとふと思った。


(未発表「クロアチア日記」1日目より)


ちなみに、このドゥブロヴニクって街は、「紅の豚」のモデルのひとつ。
そういえば、トールと作ったこの千葉の友人の結婚式ムービーのラストもこの映画の加藤登紀子の曲だったね。偶然。


旅中には知らなかったんだけど、
友人夫婦の元気な男の子は、この日無事生まれた。
だから今日は誕生日ということ。
カイジ。
1歳のお誕生日おめでとう。

2010-04-20 00:04


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下道家押入遺跡より出土した下道最古の地図。
かつての実家の裏山に点在していた古墳を調査し書き記したと思われる(小4時代)
右下に描かれた円墳の絵は掩体壕の図を彷彿とさせる。『戦争のかたち』を裏付ける重要な発見と言えよう。

それと同じく出土した『大人になったら』には。
「1:きれいなおよめさんをもらって幸せにくらす。」
「2:かねもうけになる考古学者」
「5:ふつうのかていでよい」
「7:村のいいところにいえをたてる」
と夢が箇条書きで記されていた。


2010-03-30 15:45

大阪と岡山に用事。実家へ帰る。
今日は文章を書かないといけないのに、甥姪がうるさい。
いや、ここは彼らの家なんだし、元気があることは素晴らしいことなのだが、
とにかく、うるさくて書けなる状態ではない。。
近所の図書館にいくも場所がない。。
結局、彼らが遊ぶリビング以外の場所で書くことにする。
彼らの勉強部屋を占拠。あべこべだな。
姪の勉強机で、ひとりパソコンでぴちぴちと。
机の上には、姪っ子のモノが散らばっている。
教科書や、僕がクリスマスにあげた地球儀、パリのスノードーム、ピンクのハローキティーの鉛筆削り、友達との写真、カピバラの写真…。
すると、母がうどんを差し入れてくれる。
勉強机に置かれたうどんの不自然さ…、そしてズルズルっとすすった瞬間。
あぁ、実家だなぁ…、と、そして、受験勉強みたいだぁ…。と。

今、文章書き終え、バスに乗ります。
明日朝東京に。

2010/02/07 20:19

書類つくりに追われている。
息抜きに、書くことにする。


展示中の梅香堂について。

ここは去年の秋にオープンした。
梅香堂は、和菓子屋ではない。
トタンのバラックのような倉庫を改装した秘密基地のような場所で、寝るとこもシャワーもトイレもピカピカのが付いていて、アーティストが一人滞在しながら制作し展示もできる、町ともマッチしている(駄洒落)、「過去からやって来た妙に近代的なシェルター」のようなスペース。
川の側に建っていて、台風が来たらそのまんま川にどぶんと行ってしまいそうな、そのまま、海まで流れて行きそうな…、それいいね、旧ユーゴの監督の映画みたい。

で、
オーナーは、今まで美術館などで学芸員として一線を走ってきながら、50歳を前に突然の転身(ドロップアウト)して、この大阪の画廊ひとつない超下町に、このスペースを作ってしまった。
長野でそば打ちをはじめるように…?
いやいや、何か違う…。「アートってなんや!?それ儲かんのか!?食えんのか!?」そんな大阪の下町に、「なにかよく分らない『場所』」を作ったのだ。
最近、町の人もおそるおそる近寄って来ている。
おかしなキャラの常連も増えて来てる。
なにか、はじまりそうな空気が満ちている。
窓から見える川には鴨がプカプカ浮いている。

僕はというと、
「新しいことをはじめた」
ここのそんな新鮮な空気を大きく吸い込んでいる。

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2010/01/04 01:11

友人三人と、茄子紺の小さい車で、香川を目指す。
夜中に出発して、満天の星空の下、月が並走する。
i-podから音楽が流れ続ける。
2人とも寝てしまい、ひとりハンドルを握りながら歌う。
瀬戸大橋を越えているとき、朝日が神々しく輝き出した。
涙が…、嘘、出ていないけど、とても感動した。


今日家で作業中、たまたまyoutubeをサーフしていてこの曲が出て来て、そんな日の情景が蘇った。
これも、HOMEーMADE STORY、音楽版だね。自分だけの些細な情景。


たくさん、素晴らしい些細な日常を、情景を、通り過ぎている、気付かないうちに。で、ある日何かのきっかけでそれが再生される。
そんな作品を作る。


2009/12/23 17:35

国立国際美術館に向かう途中、中之島の川沿いの道を歩いた。
今年の夏、水都大阪の為に何度も自転車で走った道。
途中、ダイビルというレンガ作りのデコラティブな柱が印象的な建築が、人気がなく柵で囲まれているのが気になる。ボケッと立ち止まって見ていると、少し離れたところで、熱心に建物を撮影しているサラリーマン風のおやじさんが目についた。近寄って話しかけてみると、
「この建物、もうすぐ壊されるんですよ…。若い頃、この建物で働いていたから、来てみたんです…」と寂しそうにシャッターを切る。
なんか薄汚れたレンガ作りでロンドンっぽいいい味が出ている、装飾もごちゃごちゃしてて気持ち悪くてかっこいい…。
「僕もこの建物、気になっていたし、こういう建物が残ってるから中之島ってなんか、東京にはないいい風景だなぁって思ってたのに残念ですねぇ…というか、腹が立ちますね…」と俺。
「関東大震災のあたりに建てられたらしくて、大阪一のビルってことでダイビルって名前になったらしいです。立派な建物なんですけどねぇ…」
二人で何かしんみり。

お別れを言い、国立国際に向かう。
おやじさんは、垣根の中に足を突っ込んで、まだ熱心にシャッターをきっていた。
なんか、分るよ、おやじ。。

長い時間かけて残っていたモノは、一瞬で壊せる。残ってきた労力の遥かに少ない労力で、一瞬で消せる。そして、壊してしまったモノは、二度と見ることはできない。建物だけの問題じゃない、風景自体の問題。当たり前だけど、そういうことだ。
どうせ、壊す側の主張は、この辺りが一等地でこの古くさいこじんまりしたビルでは、モッタイナイからでしょう。
「町として需要な歴史が詰まった建物をつぶすのはモッタイナイ」 VS「一等地にこんなに低い建物モッタイナイ」
友人が住んでいた阿佐ヶ谷住宅もそうだった。勝者は大体後者の方。

帰りにジュンク堂へ行く。
本屋が入っている真新しい高層ビルの前の広場に、かつてココに建っていた旧毎日新聞の重厚な石造りの建築物の入り口部分の壁がポツンとモニュメントとして残されている。取って付けたような寒々しい保存だ。
「だから、こういうことじゃないんだよ…アホ…」


2009/12/09 21:19

休日が、何曜日なのか…何日なのか…いつなのか…、そんな事が分らなくなって2年がすぎた。
今日はなにか休日感があったので、休日。

二日酔いの頭で、一階へおりると、鹿児島在住の作家がネットを使いにやって来ている。
その横でゴロゴロしながら、何かを話していた。たぶん「マツトウヤユミってどういう漢字だっけ?」とかそんな話。よくおぼえていない。

ゴロゴロしていると、名古屋の彼女から電話がある。
会社に行く途中みたいで、電話の向こうには町の雑音とともに、彼女のカツカツと仕事に向かう靴の音が、少し速いリズムで聞こえる。

隣の隣の家に、食器を返しに行くと、コスゲチームの女性がひとりが、薄暗いキッチンで怖い顔をしている。
「最近わたしひとりしかいないはずなのに…、知らない間に…、冷蔵庫の中が変わってて…怖い…誰か侵入者がいるのかも…」
少し青ざめた彼女の目の前のテーブルの上には、冷えたどら焼きが4つ置いてある。
それらは、昨日の夕方にウチの宿の冷蔵庫がいっぱいだったので、彼女たちの家の冷蔵庫に少し避難させてたモノだった。すまん。。驚かせて。。

昼から、近所の梅香堂というギャラリーに行く。本棚作りのお手伝い。
なんだか、壁いっぱいに作られた木製の特注のやつで、素敵で。白い壁もいいけど、図書館のような壁にびっしりいろんな背表紙の色が雑音として入ってくる空間がなんか気に入って。で、来月に展示をする話になった。

今日から新しいお客さんがもうひとりやってくる。メキシコ在住の方らしく、今日飛行機で到着するらしい。メキシコかぁ…。
ご近所さんに、サボテンを借りて来て、談話室の円卓の上に置いてみた。反応はいかに。。

家に帰って、ボンヤリ文章を書いていると、なんとなく、友人透のブログを見てしまっていて、
1時間半が経っていました。
なんだろう…、外が暗くなってる…。

今日は休日らしかったのだろうか…、と考えると、
今日は休日だったんだという意識を持つと、妙にその日がもったいない気持ちで終わることが多く感じた。逆に何かせなばと思いつつ何もできない、のんびりしようと思いつつ忙しい、みたいな。
毎日普通の日でいいのかもしれないし、いやその逆でいいのかもしれない。

どゆこと?


2009/09/30 20:39 (大阪でゲストハウス管理人していた時のもの)

通りを小学生らしき少女が3人、自転車で通りすぎる。
彼女たちは、それぞれの自転車のベルをチリンチリンと鳴らす。
それぞれのベルの音階の違いを発見して、明らかに楽しんでいる後ろ姿。
3人で音楽を奏でている。
たぶん、キラキラ星。


ドド、ソソ、ララ、ソ…
(チリンチリン、チリンチリン、チリンチリン、チリン…)


2009-09-17 20:01
(大阪でゲストハウス管理人をしていた時)


(窓から入って来た2人のおばさんの声)

1:「なんとかさんのおばあさん、最近見たんやけど、歩くの前よりずいぶんゆっくりになっとったわ」
2:「あれ、旦那さん、どうしたんやっけ?」
1:「亡くなったよぉ」
2:「そうかぁ。まぁ、私らみんな、結局入るとこはいっしょやからなぁ」
1:「そやなぁ(笑)」
2:(笑)


| 2009-09-14 11:10


最近行きつけになっている飲み屋で、たこ焼きバー「てっちゃん」というのがあって。
ここの駄洒落好きのマスター?のあだ名がてっちゃんです。店は表の路上でたこ焼きを焼く普通のたこ焼き屋の奥に立ち飲み的な簡易バーカウンターのついたもの。料理はたこ焼きのみ。陽気なてっちゃんの人柄もあって、雰囲気がすごくいいし、なんかウケるんです。

「てっちゃん」っていうのは、よくあるあだ名だけど、関東では[て]にアクセント、大阪では[ちゃ]にアクセントじゃないかな?そんなことを感じる。
このあたりのスナックや喫茶店の名前には「○っちゃん」というのが多い気もする。看板からは分らないけど、たぶん全部[ちゃ]にアクセントなんだろう。

たこ焼きバーでは常連さんの顔見知りもでき、
ついには、「みっちゃん」というあだ名をもらいました。
[ちゃ]にアクセントの大阪風のモノです。

「下道(君&さん&呼び捨て)」「みっちー」「みち」で呼び方が決まっていたので、なんか新鮮です。
もうひとつ顔ができたような。

ちなみに、
フランスにいるときは、はじめのころ紙に「MICHI(ミチ)」と書いたのに、あっちの発音で[CHI]は[チ]じゃなくて[シ]なので「ミシ、ミシ」と呼ばれてました。あ〜これはフランスっぽい。


2009-09-13 11:02
(大阪でゲストハウス管理人していた時)

昨日朝、玄関から外へ出ると、通りをとぼとぼと歩いていた、ものすごくちっちゃいおばあちゃんと鉢合わせになる。
若干気まずくて挨拶をすると、彼女も立ち止まる。
含み笑いを浮かべ。

婆:「おはよう(「よ」にアクセント)」
  「にいちゃん。$%に*;%$てんでぇ」

道:「えっ??」
滑舌が悪い訳ではない、たぶんちっちゃすぎるからか少し機械的なエフェクトのかかったような声…、聞き取れない…。

婆:「おにいちゃん、$%に*;%$てんでぇ」

道:(ダメだ二回聞いても聞き取れない。。いいや適当に)
  「そうなんですよ。ここに2ヶ月だけ住む事に…」

婆:「ちゃう、ちゃう」
道:(あ…外した…)

そのちっちゃいおばあちゃんは、口元を指差し
婆:「にいちゃん。口の横に。何か。ついてんでぇ。」


道:「あっ。。歯磨き粉です…ありがとうございます…」

婆:「女の子に笑われるでぇ〜(笑)」

おばあちゃんは、ものすごくゆっくりとしたスピードで立ち去って行った。

2009-09-13 10:40
(大阪でゲストハウス管理人をしていた時)

「あれ?下道くん、焼けてない?」
今日朝、お隣に滞在中のコスゲさんグループ宅をお邪魔するとそんなことを言われる。
「ふっ、そう、昨日、ひとりで、近所のすごくレトロな市民プールに行って、2時間ほどプカプカ水に浮いていたんです。」
(えっ、こんな忙しい時期に…と思ったに違いない…)


子供がパラパラしかいない平日の昼間に、屋外市民プールに行ったんです。ひとりで。

仰向けに水に浮かぶと、聞こえる音は水の音だけで、視界には青空に夏の雲がゆっくり動いていて…。嗚呼…。溶けそう…。
でした。
鼻に水が入って、ツーーンとして、立ち上がると、子供の歓声が、ワーーーーッと聞こえて。
すぐ隣の少し上を、オレンジの電車が、ガーーーーッと通り過ぎる。
電車の窓から見えるこのプールを思い浮かべてみる。
たぶんびっくりするくらい夏っぽいんだろうと。
ふと、監視員と目が合う。
子供用のプールに身長180の三十路が立っている。水面は膝。たぶん怪しい。
また泳ぐ。。


俺の父親がこの辺りに小中学校くらいの頃住んでいた事があって、この市民プールはその頃からあったらしい。でも、少しはなれた所に、別の屋内プールができたので、このプールは、今年8月いっぱいで閉鎖。
屋内の近代的なプールと、この屋外の学校のプールみたいなプール。
全然違う種類のモノじゃない?
運動用と夏休み用。
(英語なら)スポーツとサマー。
そんくらい違うでしょ。
また、日本からひとつの風景が消えるんです。
便利になることで、微かな重要な何かが消えて行くんです。

2009-08-25 19:04

昼寝から目覚めると夕方になっている。
4時過ぎ。
今日は近所の市民プールが閉鎖になる日、4時半までだー!
カメラを持っては走って行くと。数十メートル先から子どもの歓声が聞こえて来て、少しほっとする。
入り口で「今日はもう終わり」と言われ
「今日、このプール最後ですよね。写真写しに入っていいですか?」と聞くと
「おー、撮って撮って、ほんま今日で終わりやから〜」
と、無料で入れてもらう。

プールの中はいつものように子どもで溢れていて、監視員の茶髪のにいちゃんねいちゃんもプールに飛び込んだり騒いでいる。
数枚写真を撮ってみるが、写真じゃない気もする。
蛍の光が定時に流れる。
みんな帰る様子はない。

監視員のひとりが拡声器で
「長い間ありがとうございました」
というと、少しずつ子どもたちが帰っていく。

オレンジの電車が横をガーーーーッと通り過ぎる。
人がまばらになったプールに、残念そうに数人子どもがプールに飛び込む。

2009-08-31 21:10
(大阪)

パリで出会った文筆家の人が言っていたんだけど。
「最近やりたい事を書き出してみたんだよ。伊豆に行くとか、小さい事から。俳優になって映画にでたいって、非現実的なものまで。そうしすると数十個はあって、ちょっとづつそれにやったよってバツをつけていきたいんだ」

誰かの本でも「若い頃にやりたい事を100個書いてみた」ってのがあったけど。その人は「美人なモデルとヤる」とかいろいろ書いてた。
そういうのって単純におもしろいよね。

俺は、「サーフィンを始める」とか「35までに本を2冊あれとあれでだす」とか、つまらないものから、いろっっいろあるけど。
この話を書くのは、今回、山口滞在中に、おしゃれカフェで働いたり、大学で臨時講師やったり、ラジオに出演したり…、色々経験させてもらって、それはただ「アーティストの下道です。こんなことをやってます!」とか、それを紹介します、ってことではない気がしてる。単なる営業じゃないというか。
今管理人しているのも、いろんな人に出会って「俺はこんなことやってて、面白いでしょ!名刺あげるから…、よろしく」とか、そんいうんじゃなくて。なんか、吸収したいというかね。
村上春樹が他人の本を翻訳をする理由のひとつが、自分にないモノや、その技術(?)を吸収するため、みたいな事を言っていたけど、そういう気になる人と同化しながら自分的に編集するのって必要だし、自分の場合、攻め攻め状態だとできないきがする。
なんだろう、いろんな可能性を持っていて、その可能性を幼い頃から360度から徐々に狭めて行く事が、大人だったり、プロフェッショナルなことみたいに、思っていたけど、意外とそんな事でもないんじゃないかなって、実体験で感じる事は多くて。
岡本太郎が、晩年本気でスキーを始めたり…、趣味といえばそうだけど、生きてる可能性ってのは、広げる事も狭める事もできるんだなと思う訳ですよ。
もちろん、狭くした中の美味しい所もあるし、狭める中での深めかたもある、でもただ狭めて行くことの危険性ってのを感じるって話です。

今日は今さっきまで、ここに一郎君がダラダラしにきてました。
現場アートに関わってないけど、いい時間かもね。
こういうあつい系の日記を書くと、「シタミチがんばってるね」っていわれるけど、がんばってるのは体でも頭でもなく、ただ何かを解放しよう肩の力を抜こうとしてるだけなんで。その言葉はフィットしません。

あ、そう今日
宮本常一の未完の全集「宮本常一著作集」の31を買いました。シンプルでぐっときます。高いけど徐々に欲しい所から集めて行きたいですね。
これもやりたい事のひとつ。

では、明日。
まだ、山口余韻があるね。夏だね。

2009-08-20 01:51
(大阪)

ゲストやご近所さんなど、毎日人と出会ってしまう環境であるMAC(Maemachi Art Center)、そのすさまじい滞在生活を終えました。
個展、グループ展、ワークショップ、連日のミーティング、カフェでの仕事、ラジオ出演、大学講義、暗室籠り、温泉、ビール、雑魚寝、花火、海、ドライブ、刺身、温泉、ビール…。
三十路の夏に、こんな遊びまくって充実しまくっていいのか…と、不安になるくらいの、山口滞在でした。今できる本気で遊んだ、という後味です。
とろけそうな三十路の夏の旬の果実みたいなやつです。
もちろん、甘酸っぱくはなく、気持ち悪いくらい臭くて美味しいヤツ。
今旬の果実は今食え。という感じですかね。
果実とは逆に、最近突然酢の物に目覚め、オヤジ化する自分も感じますね。

去年11月のフランスからの帰国以来、パッキングされた荷物を実家に押し込めたまま、開封することなく、次の拠点や同世代の活動を見ながら、放浪生活にはいっています。
最近では「放浪って、シタミチ君らしいね」とか言われてしまいますが、「拠点を決めて籠ること」の大切さは痛い程わかっているので、今は期間限定での、人に出会いまくり、話をしたり、人から吸収する時期だと思います。そう割り切っての放浪です。もう10ヶ月目です。大阪終わる頃は1年。。フランスから数えると2年の放浪生活。もちろん上には上がいますが。
来年度は、全く違う活動をしていると思います。

昨日は、青春18切符でなんとか大阪入りして、その足で永田さんや大川さん、高林くんと打ち合わせ。そして、今回の拠点、大阪の此花「モトタバコヤ」という空き家へ。ここで管理人を2ヶ月期間限定でやる為に、大阪にやってきました。地元の大学生がフリマの準備とかで出入りしてたんですが、夜は空き家にひとりぼっち。なんか、山口ののんびりした空気から一変、いきなりディープ大阪に放り込まれた感じです。しかもポツンと。そしてゴキブリと目が合う。ひとりじゃなかった…。
ここは元タバコ屋さんの空き家で、地元の活性化の為のフリースペースとしてたまに使われて来てます。数年前には浅井裕介くんを中心にイベントをやったみたいで、未だにその残骸が壁に残っています。今回は、大阪中之島で行われる「水都大阪」というイベントの臨時宿泊施設として、なぜか俺が管理人で2ヶ月解放されるようです。
幼い頃、両親は関西出身なので、学校では岡山弁、家ではソフトな関西弁といった感じでした。なので、ダウンタウンが流行って以来「エセ関西弁」である自分のコンプレックスはなくはなく、「一度は大阪に関西弁の留学に住んでみたい」と思っていたので、2ヶ月のショートステイですが楽しみです。
夜は、大川さんと土田さんとミーティング。
MACの夜は、具沢山男の山口丼(汗だく)、という感じでしたが、ここはクーラーもあり女性も多そうなので今の所は結構爽やかですね。(笑)

ここでの目標は
「人と出会う」「この町で何かを作る」「人の話を聞く」「お金を貯める」さらに「ゴキブリに強くなる」
です。
フランスに旅経って以来放浪ですが、何かが変わって来てると思います。
籠りたい、定住したい、取材に行きたい、そんな感じの気持ちをため込みつつ、ここ大阪生活スタートですね。


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「いつか、ある人にこんなことを聞かれたことがあるんだ。たとえば、こんな星空や泣けてくるような夕陽を一人で見ていたとするだろう。もし愛する人がいたら、その美しさやその時の気持ちをどんなふうに伝えるかって?」

「写真を撮るか、もし絵がうまかったらキャンバスに描いて見せるか、いや、やっぱり言葉で伝えたらいいのかな」

「その人はこう言ったんだ。自分が変わってゆくことだって。その夕陽を見て、感動して、自分が変わってゆくことだと思うって」


(『旅をする木』星野道夫)

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うわぁ、ロマンチックやなぁ〜。
では、ホームセンターへ行って来まーす。

2009-08-13 12:22

昨日は今度のイベントの許可申請と下見をかねて、門司と下関にだいや君と行った。
下関で平楽寺くんと会う。商店街の彼んちのタバコ屋さんの中で話をした。ちょくちょくお客さんがタバコを買いに来て、あのタバコ屋の小窓からタバコとお金を交換している。
タバコ屋の話、町の話、モノを作る話、家族やルーツの話。。今後に繋がるとても濃い話ができた。
本州の西の端っこのちょっと廃れた商店街のタバコ屋は、表はもちろんタバコ屋だが、裏から入ると彼の作業場兼ギャラリーと、リバーシブル空間。展示作品について話を聞く。来週は地元の郵便局跡でイベントを開くそうだ。東京とかじゃなくて、自分の場所をここに持って(ある意味縛られつつも)、制作しながら、発信しながら、活動している。

タバコは年々売れなくなるし、それには歯止めは利かないだろうと彼は言う。(それは写真でいうフィルムのように)値段は高騰し町では喫煙場所は減る一方。今よりもっと趣味的にたしなむ傾向は強くなるだろういう気がする。
町のタバコ屋はどうなるのだろう。
8月から滞在する(管理人をする)大阪のアーティストの宿泊施設に利用される空き家は、もとはタバコ屋で。何か考える事が多い。

自分とかと近い世代の友人は、内面的な自分探しとかじゃなくて、自分らしい住処を求めている人は結構多い。どこで暮らすか…。
土地と住民を縛った慣習を、すぐには取り壊せないだろうから、探しながらさまよっているんだと思う。けど、一軒家を持って一人前!みたいな考えは明らかに薄いし、とにかくみんなさまよってるんだと思う。


下関では地元の歴史を研究している野村さんと喫茶店でお話をする。
下関駅ビルでタンクトップを3枚買う。
学校帰りの高校生で込み合う電車に揺られて、1時間半、ひとり湯田温泉駅下車、友人たちがシェアするの住処へ。


明日からは
山口市内のレストラン&バー「ハブ」で、ランチタイムに働く事になった。ウェイターです。
移動→滞在→制作→移動
という感じのアーティストって結構いると思うけど、
結局費用は、作品を売るか、助成金をとるか、別の仕事でためるか、だれかにもらうか…、そんなところ。
今回、地元でリアルに働ける(さらにその場所で展示も計画中)のは、作品制作を考える上で、本当にいい経験だと思っていて、仕事として普通にしっかり働きたいと思っている。紹介してくれた友人、理解ある店長赤池さんに感謝。なんとマカナイ付!食職降臨です!
なんか、写真は撮ってるけど、少しプロジェクト系作品に触れたり作ってみる時期なのかもしれないな。でも、参加型プロジェクトだからって、アウトプットの形は、やりっぱなしじゃなく、単なる記録を残すのではなく、しっかりと落とし込むプロジェクトにしたいですね。


2009-07-17 12:30

撮影に行ったフナハシさんちの子供が絵を描いていた。3兄弟みんな画伯です。
末っ子はまず、紙に、赤で太陽、黒で地面を描いた。
地面の上には、大中小の宇宙人のような、3兄弟。
そのあと、画面の上のほうから、ぐるぐると黒色で雲を描き始めた。


お兄ちゃんが「雲が真っ黒じゃなぁー!?」というと、
「雨の雲じゃけー」と言って、上から下へどんどん黒く画面を塗りつぶしてく。
そして、遂に太陽まで黒く塗りつぶされ、
雨が降り始め、雷が描かれ、
ほぼ真っ暗な土砂降りの絵になった。

画伯曰く
「朝は晴れとったのに、今雨ふっとっるしな、今日の絵」

晴れの時から、後ろで見ていたので、絵が朝から夕方までの時間が入り込んでいるのを体験できて、静かに感動しました。
言い値、紙で作った10円でその絵を買いました。


2009-07-06 00:50

数年前まで働いていた会社の引っ越し作業などをお手伝いしながら、社長さんの家やさらには娘さんの夫婦の家に厄介になりながら、2週間が過ぎました。東京で住んでいた頃のことを思い出しながら、足踏みを続ける自分も見えてきます。30の壁ってやつは存在しますね。思っていたより厚い壁です、みなさん。
昨日は出版社の方とキュレーターの方と、四ッ谷でプレゼンのようなことをしたり話して、もう少し作品発表の「新陳代謝」を良くしなきゃなぁ、なんておもいました。そのあと、大学の頃の友人の結婚パーティー。美人なのにいつも汚い格好をしていた彼女のドレス姿は、とてもきれいでしたね。おめでとう。そして、なぜか、最近、結婚ラッシュ出産ラッシュです。全部まとめておめでとう。
パーティーでは、「ミッチーいま何してんの?どこ住んでんの?」と聞きまくられ、それに「数年前まで働いていた会社の引っ越し作業などをお手伝いしながら、社長さんの家やさらには…」といった説明につかれはてる。どうなるんだろうね

2009-05-31 14:49

こっち着て、このブログが書ける環境になるまで、ノートに書いてた日記をアップします。
別にどうって事ないので、暇な人はどうぞ。

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9月4日

6時40分時間通りにパリシャルルドゴール空港着。
空港のアメックスでTCをユーロにして、Roissybus乗り場でシンガポール人の華僑系?カップルと話す。
彼らのパリ滞在は4日間だけらしく、こちらが1年というと「いいねぇ」とうらやましそう。今まで1、2週間程度の海外旅行中にこの反対の状態を経験して来ていたので、少し優越感。
バスに乗り、終点オペラガルニエを目指す。地下鉄の方が安いし目的地までのアクセスもいいのだが、ガイドブックに旅行者を狙った犯罪が大変に多く特に朝晩は要注意とのことだったので、市内へはバスを選んだ。バスに揺られながら、空港から兎町の中心に向かう郊外の閑散とした風景は、成田や台北やサイパンやどこも似ていると感じた。建物は町に比べて少ないが、廃墟がやけに目立つし、どこか牧歌的でそうではない風景。巨大なショッピングセンターIKEAがあったりして、部屋の事とかも考えつつオペラガルニエ着。
朝日に照らされたベタベタなゴッシック町並み、9月頭なのにもう冬の始まりのようなカチンと張りつめるような冷たい空気の中、背中に10キロ以上のカメラが入ったリュック、前に貴重品類を詰め込んだ肩掛け、さらに手には95リットツのスーツケースを押していて、数分歩くと汗が吹き出してきた。さらに先月日本で買ったばかりのスーツケース(リモア似の安物)のタイヤは石畳の通りでガタガタと壊れそうな音を出している。
まずはオペラ大通りをルーブルまで出て、そこからセーフ川沿いにひたすら歩く。仕事に向かうのだろう慌ただしい人の流れの中をもたもた歩きながら、あーーとんえもないパリ中心街に来たんだなぁと思いながら1時間、思った以上に遠い我が家に不安になり始める。何度か通り沿いの店の店員に道を聞きながら歩く。笑顔で自信満々で全然違う場所を教えてくるヤツも多かったが、文句の一つも言えず全て「メルシー」で。
目的地であり今日から我が家になるcite international des arts着。しかし、ノートルダム寺院要する超有名観光地でもありパリ市の発祥の地でもある「シテ」を名前に付けたかったのは分かるが、施設はシテ島の対岸を通り過ぎる事10分(手ぶらで5分)、サンルイ島の対岸である。
一階の受付で面倒くさそうに片言の英語を話すTシャツ姿の小太りの野郎に入居の作業をしてもらい部屋へ入る。4階のセーヌ川側の部屋、ガランとした10畳くらいのアトリエとドアは無く壁だけで隔たれた3畳ほどの寝室、あとキッチンとシャワー&トイレと1畳半くらいの倉庫。東京都内で借りるなら15万円前後くらいはする物件だろうか。(後日談によるとこの辺りでもそのくらいはする部屋らしい)広さは十分すぎるほど。
強いて言えば、入居前に学校の留学課や色々な人からも「セーヌ川沿いで、窓からノートルダムやエッフェル塔までも見える素敵な部屋ですよ」と聞いていて期待していた部屋の窓からの風景は、ノートルダムとエッフェル塔の上の方以外は建物のすぐ前に鬱蒼と茂る並木に阻まれことごとく見えない…。期待は残念の元。(造語)
何もないアトリエにぽつりと置かれたテーブルで小太りの差し出した書類にサインすると、契約完了らしく小太りは出て行った。

とりあえず、バッグを置いてシテ島に橋で渡りノートルダム寺院に行く。施設を出ると、もう町は朝の通勤モードから観光モードに変わって、通りに観光客が溢れている。やけに中国人団体観光客が目につく。中国人のおやじはNIKONの巨大なデジタルカメラでバジャバシャ写真を撮りまくっている。日本を発つ前に読んだ「ニューズウィーク」にそんな中国人観光客を世界の観光地の人々は「21世紀の日本人観光客だ」と書いていたのを思い出した。日本人観光客は数人単位でポツポツといて、意外と地味にしている。こういった話をすると「日本人観光客はもう成熟した」などと聞くことがあるが、本当にそうだろうか。多分人それぞれ。

これまで1年に2、3度の国内外旅行(取材)をして来た。そのほとんどがバイトの休みの関係もあって1、2週間の旅だ。そんな旅に出かける時は、ある程度の行く場所の予習計画を建てるし、それなりの意気込みというかある種の旅のテンションを持って出発し行動していたように思う。観光地は好きな方じゃないけど、「せっかく来たんだしとりあえずコレくらいは見とかないと」で、こういった場所も押さえてきた。つまりはこうした、その土地の有名な食事を食べて有名な風景をを眺めるのが「観光」というものなのだろうし、「観光地が嫌いだ」などと言う旅人でさえ、この巡礼的な「観光」からはなかなか逃れる事ができない。
でも今はこの場所に1年住むということで、テンションを見つける事もできず日本のままのテンションを引きずりながらここにつっ立っていた。昨日まで日本にいた自分がこのベタな観光地のど真ん中に目的の無くフラフラしている事の違和感に満ちているのだ。

お腹がすいたので、散歩で見つけた地元っぽいパン屋でクロワッサンとチーズの入ったパンを買い部屋に帰って食べる。ムサビから来ているもう一人の日本人ナホシ君に内線で連絡をしてみる。彼は寝ていたみたいで、一時間後にウチに来てくれ、この施設についてや町の事、便利な店、インターネット、居るものとかいろいろな事を教えてもらう。その後、実際に近所の安いスーパーや電気屋、雑貨やを教えてくれながら2人で2時間ほど散歩をして、その後、七星君の部屋でビールを飲みながら夜に夜になるまで色々とくっちゃべる。七星君は髪を後ろで束ね痩せた村上隆の様な風貌だが、温厚というか刺々しさが無い雰囲気、制作もコンセプチャルアート云々じゃなくて純粋に描く行為を楽しもうとするタイプみたいでいい感じ。ビールは500ml8本で8ユーロと意外と安い。

9月5日

時差ぼけのせいで、深夜2時、4時、6時と2時間おきに目が覚める。朝6時にはもう寝れなくなり起きだす。
倉庫に山積みになっていた備品や前の住人が置いていった家具をガランとした部屋に配置してみるが、絵を描いたりするような広いアトリエが、いくつかの家具で構成できるはずもなく、部屋はガランとしたままだった。
絵を描かない僕にとって、メインはフィールドワークであり、アトリエは文章を書いたりネットをしたり情報を集めまとめていく編集の場所となるだろう。
メインの仕事場になるだろう大きな黒いデスクを外に向けて置くか、今までしてきた様に壁向きにするかで1時間ほど悩み、結局中途半端な角度にしたまま散歩に出る。

Tシャツに上に一枚羽織って出ると冷たい空気がちょうどいいが、日差しが出るとすぐに暑くなった。白人の観光客なんかは元からTシャツ姿でウロウロしている。
昨日七星君に教えてもらったスーパーやショッピングモールを反芻する様に巡り、帰りは少し迷ってみる。

部屋に戻り、買う必要のある物をとりあえずリストアップして、ノートパソコンを持ってポンピドゥを目指す。最近パリは観光事業の一環で公共の場所に無料ネットサービスを行っていて、無線LANに対応していれば、ものの数秒でネットをつなげる事が出来る。展示を見る事も無く、入り口付近のネットスペースに腰を下ろし、ノートパソコンを膝に置いて溜まったメールをチェックする。
その後買い物をして部屋へ戻ると、ちょうどのタイミングで七星君からの内線が入る。この施設には最初から内線電話が繋がっていて、受話器を取って部屋番号をダイヤルすると、直通が無料で掛かるシステム。ここシテ寮で交流の為に月一で開かれるパーティーは、ナンパ目的の輩も多いらしく以前ここに住んでいた女性からは、むやみに部屋番号を教えるのは辞める様にとのアドバイスを受けた。
少し話が外れたが、ナホシ君からの内線は「今夜、ボザール(国立の美術学校)に通ってる女性がホームパーティーをするから一緒に行こう」というもの。待ち合わせの時間までまだ時間があったので、もう一度散歩に出る。
夜七時、外はまだ明るい。七別館(僕は本館)の前に時間通りに行くと、ナホシ君と日本人女性が待っている。女性はリエちゃんと言って別館の七星君の向かいに住むピアノの演奏者。3人でRER(地下鉄)でジュレス(Jaures)へ向かう。電車内も町も黒人が多く、七星君は「この辺りは治安がよくなさそうだ」と言っている。
部屋は駅から徒歩5分くらいの薄暗い建物の4階の部屋。中に入ると、家主のミロちゃん、ルームメイトのニーナ、2人ともボザールに通う予定で、あと国内の助成金を受けてパリに住む伸君。みんな日本人アーティストだ。どうやら今日ニーナはパリに着いたらしく歓迎会のようだ。ミロちゃんが作ったパエリアはとてもおいしかった。みんな歳も専門も違うけど、すぐに打ち解け、酒はビールからワインへいき、最後はよくわからない甘くて強いお酒へ移行し、記憶が無くなる。

9月6日

ソファーで目覚める。

2007-09-26 05:38

情熱大陸で大竹伸朗がやっていた噂が、遥々パリにまで届き、知人はyoutubeで探したが見つからなかったらしい。
「そこまでしてみたいとは思わない」とかほざきつつ俺は、彼の著書「既にそこにあるもの」をスーツケースの隅に忍ばせて、パリに持って来ていた。
日本で読んでてバイブルというわけでもないが、正露丸みたいに何かあったら服用する程度で持って来ていた。


【P59−P60抜粋】
  画家とか彫刻家、美術家、造形作家、どう呼ぼうがどうでもいいが、そう自らを名乗る人間にとって、作品制作における”意図”とは一体何なのだろう。意識的な作品意図をどこかしら超える瞬間のないものは、もはや”作品”とは呼べない。僕はこの”作品”と”意図”の関係が今でも不思議でならない。
 古い佇まいを持つ料理屋の便所の壁はとてつもなく美しいものが多いが、それをそれをくりぬいて美術館の壁にかけ、タイトルが「料理屋の便所の壁」だったとしたら、多くの人はそこに抵抗を感じるだろうか。僕はそうした壁に全く異なる意図的なタイトルをつけたり、そうした行為に意味を持たせることなく、便所からはがした美しい壁に、「便所の壁」というタイトルを付け、人々がそのタイトルを見ようが見まいが同じように「美しい」と思えるようになればいいと思う。なぜならそれは便所の壁なのだし、それは美しいのだから。


ありがとう、今日の腹痛も少し楽になった気がします。
というか、今文章が書けなくて、写してみたくなっただけかも。


2007-09-16 04:35:14

かつて僕が通っていた頃、ムサビに2校舎という建物があった。
今では近代的な建物になっているが、かつてはボロくて薄暗くて、学生達は「昔女子寮で自殺があった」「レイプ事件があった」などと噂するような、どこの学校にでもありそうな怪談の舞台になるような建物だった。
事実僕らも酔っ払って探検したり、肝試しをしたりもした。でも、昼間に行くと雰囲気は、コの字型に立てられた建物の小さな中庭に作られた荒廃した小さな畑や、入り口近辺にあふれ返った民具の山。入り口には、「民俗資料館」みたいな名前の書かれた古めかしい看板が立てられていた。
少し廃墟っぽくて、大学内からは少し隔離された奇妙な場所だった。

そのころムサビの名物教授といえば、民俗学の相沢先生だった。かつてムサビで教鞭をとった宮本常一の弟子(?)らしい事は知っていた。授業内容にもなっていた先生の調査保存したという茅葺の集落「大内宿」の写真は、別冊太陽『宮本常一』のムサビ教授時代にも「武蔵野美術大学の愛弟子たちと総合調査を行った」として登場していた。

かつての2号館の持っていた独特の雰囲気は、宮本常一とそこに集まった愛弟子(学生)たちの熱気の残り香のようなものだったのだろうか。


2007-08-19 13:14:53

たまたま見た数週間前の「情熱大陸」は、日本から遠く離れたフィリピンの小さな村で助産婦として生きる冨田さんという女性の話だった。
医療の行き届かない村で、生まれてくる命と孤軍奮闘する彼女のドキュメント。
番組で特に印象に残ったのは、彼女は南国の木が茂る自宅の窓辺に座り、この土地でこのような事をするきっかけが「母の死とその結果入った保険金だ」と非常にサバサバとした口調で話すシーン。相当の決意があったであろう現在の活動のきっかけとしては、少し簡単すぎる説明のように思えた。彼女は作業的にインタビューを終え、もう話すことはないといった雰囲気でカメラを見つめていた。
その時点でインタビューは終わっているはずだったが、沈黙を続ける彼女になぜかカメラは向け続けられ、少し不自然に沈黙が画面上を支配した。しかし次の瞬間、彼女の目線がカメラから外れ表情が大きく崩れた。いろいろな想いがあふれ出したのだろう、「すみません…」と言いタオルで顔を覆った。

言葉では語りきれない事を写し取った瞬間のように感じた。


2007-02-28 01:22:35

たまたま見た数週間前の「情熱大陸」は、日本から遠く離れたフィリピンの小さな村で助産婦として生きる冨田さんという女性の話だった。
医療の行き届かない村で、生まれてくる命と孤軍奮闘する彼女のドキュメント。
番組で特に印象に残ったのは、彼女は南国の木が茂る自宅の窓辺に座り、この土地でこのような事をするきっかけが「母の死とその結果入った保険金だ」と非常にサバサバとした口調で話すシーン。相当の決意があったであろう現在の活動のきっかけとしては、少し簡単すぎる説明のように思えた。彼女は作業的にインタビューを終え、もう話すことはないといった雰囲気でカメラを見つめていた。
その時点でインタビューは終わっているはずだったが、沈黙を続ける彼女になぜかカメラは向け続けられ、少し不自然に沈黙が画面上を支配した。しかし次の瞬間、彼女の目線がカメラから外れ表情が大きく崩れた。いろいろな想いがあふれ出したのだろう、「すみません…」と言いタオルで顔を覆った。

言葉では語りきれない事を写し取った瞬間のように感じた。


2007-02-28 01:22:35

Cのデスクトップを整理していると、前回台湾に行ったときの日記が出て来たので、今思う事と一緒にアップしておく。

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3泊4日の台湾旅行は、残念なことに台風と歩調がぴったり合ってしまった。
電車での台湾半周の予定は、電車は全線がストップのために、結局2泊3日間は全く台北に足止めをくらってしまった。しかしと言うかそのおかげで、台北の路地にひっそりとある「おおしろ」という名の日本人が多く集まるバックパッカーが集まる宿に泊まり、1日中薄暗い談話室で、「今までや今からの旅の話」や「怖い話」「恋の話」等々修学旅行の夜みたいな話をしながら多くの旅人と酒を飲み交わした。何か長い旅の途中、どこかも分からない場所に迷い込んだような時間だった。雨が小降りになると、台風に飛ばされそうになりながら何人かで夜市を散策したりもしたし、それなりに濃厚な時間を過ごせた。
「おおしろ」は、日本人が経営しているために宿泊客の多くが日本人だったことで、いい意味でも悪い意味でもラクチン過ぎた。

3日目に無理矢理走り始めた特急列車「自強号」に乗り込んで、朝一で「玉里」という田舎町を目指した。途中後ろの座席から見知らぬおじいちゃんに「あのボロい家は日本人の製糖工場の官舎」「あれはビンロウの木だよ」などと、上手な日本語で解説をしてもらいながら窓の外を眺める。噛みタバコに似た効果のあるビンロウの木は背の高いヤシの木のようで、日本統治時代に開拓されたという広大な田園風景のなかに所々茂り、台風の強い風に幹を激しく揺らしていた。
通過する駅は、、、と日本時代の名残を残している。到着した玉里は、一週間程度の旅行で日本人が立ち寄るような観光資源を持たない街。この街には神社の跡がきれいな形で残っていると言う。北回帰線よりも南なので木々や町並みは沖縄のように南国そのものだが、曇った天気のせいもあり寂れ具合が日本なら山陰の小さな街のような雰囲気を感じた。
少し雨のやんだ瞬間を狙って玉里駅の裏山近くの住宅地で、今回の旅初の撮影のセッティングをする。住宅地にまぎれて立つ鳥居跡は、針金で作られたバスケットゴールやテレビ用のアンテナがくくりつけられ、さらには一本の支柱は家の柱として取り込まれていた。
どこからとも無くチャリンコに乗ったガキ達が集まってきた。興味はあるが言葉は通じなし怖いのだろう、歩行者天国の人気のないパフォーマーのように僕はガキ5人に遠巻きで観察されている。手帳にドラえもんの絵を描くと、すぐに人懐っこい笑顔で近づいて来た。ジャパニメーションは世界共通言語か。(調子に乗って「カメハメハー!」って動作付きでやったら、ポカーーンとしてたけど…。)
一人の少年は家からしゃべる電子辞書を持って来て、こちらをちらちら見ながら「こんにちは」「さようなら」などと日本語を鳴らし始めた。片手間に少しの台湾語で電子辞書に返事をすると、ガキたちは外国人との初の会話にはしゃいでいた。
神社の跡を撮影しいると、「こっちのもあるよ」と言わんばかりに無言で森の奥にある遺構を子供たちが案内してくれた。3脚を立て、時間を忘れ撮影に没頭していると、パチパチと音が聞こえるので子供たちを見ると、ヤブ蚊の襲撃に遭い、かゆそうに足を叩いている。さらに撮影を続けていると、少年が電子辞書で叩いて、「どれぐらいかかりますか?」だって…。爆笑しながらガキたちにお礼と謝罪。
雨が降り始めたので山を下りて台北へとんぼ返り、これが唯一の予定通りの行動になった。ま、これも旅。と、思うしかない。帰りの電車で知り合ったサーファーっぽい台湾人男性は「ヒカル」という名前。窓の外が暗くなる中、僕らは筆談で会話を続けた。時折新幹線の売り子のように女性がカラカラとカートに引いたやってくる。「弁当売り」らしく、「ベントー!ベントー!」と言っている。
いろいろなところに日本の亡霊を見るこの国。

「おおしろ」に帰ると、宿泊客の唯一の韓国人の女性が、まだ夜8時半というのに談話室で話す友人たちに「うるさい!」と不機嫌そうな顔を見せに来たり、女性用の部屋でヒステリックな音を立てている。先日、テレビで韓国映画女優が日本韓国の相違を聞かれ「日本人が嫌に思った事を内面に押し込むこと」を挙げていたことを思い出す。それって悪いこと?

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陸上に誰かが引かれたり、海の上を浮遊している国の境を往復しながら旅をする。
人々の外見や家並みや風景とかは驚くほど似ていても、人々の内面の違いにはいつも驚かされる。
前者の相違は遺伝子的な流れの中で形成され、後者の相違は国境線のように政治的/人為的に形成された、そう思うことがある。

前者特に類似している部分を紐解きながら地球を旅するのも楽しそうだけど、今僕は後者を見ながら狭い範囲で観察したいのかもしれない。

旅していると、今その国にあるイデオロギーの前世代の存在/影のような物と出くわす瞬間がある。
僕が数年前に国内で出会ってしまったのは、戦前の日本。村上龍の『5分後の世界』みたいに。それは自国で異国の文化に触れるような感覚に近かった。僕は知らないうちに戦後に作られた国/国民の方向付けに乗っかって生きて来たわけで、その政策のなかで戦前がバッサリ切り離されていたのだろう。戦争なんていくつもやって来ているのに、1945年を境に戦前や戦後って言葉を使うのも独特だし、「かつてこんな国がこの島国にあった」みたいな感じで、戦前は捉えられてるように思える。

台湾は、色々な国に支配され続けた歴史のなかで形成されている部分が強くて、戦前戦後って切り離す訳じゃなくて苦悩とかも引っ括めて冷静に見つめながら動いて行ってるのだろうか。中国や韓国とは違う、独立国ではない流動性のようなものみたいに。

2006-10-19 15:25:50

『切手のないおくりもの』

私からあなたへ
この歌をとどけよう
広い世界にたった一人の
わたしの好きなあなたへ

年老いたあなたへ
この歌をとどけよう
心やさしく育ててくれた
お礼がわりにこの歌を

夢のないあなたへ
この歌をとどけよう
愛することの喜びを知る
魔法仕掛けのこの歌を

知りあえたあなたに
この歌をとどけよう
今後よろしくお願いします
名刺がわりにこの歌を

別れゆくあなたに
この歌をとどけよう
淋しい時に歌ってほしい
遠い空からこの歌を

(作詞・作曲:財津和夫)

コード進行は
F→C7→Dm→C7
B♭→F→A7→Dm→F→C7→F

2006-09-15 15:52:30

昨日は、雨の小金井公園、ハナレグミのらいぶへ。(フリー)
カッパ長靴フル装備でバイクを走らせる。すでに会場はすごい人が集まっていて、着いたら直ぐに「サヨナラcolor」が。歌声も手拍子も室内とは違って、地面や空へと吸い込まれる感じ。雨が上がると空にはいっぱいのシャボン玉。彼の声は包容力のあってあったかくっていい。
今年初の野フェスは夢心地でした。

で、今日は、二日酔いの頭で1時間遅れで暗室へ。
暗くて眠いし、すっぱい臭いで気持ち悪いし、今日の暗室は地獄だぁ…。

2005-09-25 19:07:38