新美塾のトークイベントが終わった。
入場者などでしか成功を図れない展覧会中心主義的な美術館の隅っこの空きスペースに軽音部を作ってしまうように、コロナ禍の中で中高生との表現の学びの場を作ってしまおうという挑戦の新美塾の、その評価しづらい少人数のプロジェクトをどのように評価してもらい継続し拡大させるかへの挑戦としてのトークイベント(と言うかシンポジウム)だった。が、蓋を開けると残念ながら、ライブ配信などをしないこのイベントへ参加する人は少なかった印象で、やはり決して派手さのないこのような企画への関心の低さを感じて悲しくなった。
でも、逆に、この3年間で新美塾に参加した1期生2期生3期生の”卒業生”がたくさん参加してくれて、彼らのイキイキとした表情や言葉や近況報告を聞くことができて、ある意味でこのイベントは外へのプレゼンではなく、僕やスタッフや卒業生のための「卒業式」であり「新美塾とは何だったのか?」を考える機会になり、それは感動的だったし、大成功になった。
さらに、新美の逢坂館長も最初から最後まで聞いていただき、励ましの言葉をもらうことができ、新美のユースプロジェクトは新美塾の後も新しく展開していく可能性を感じた。さらに、行政からの文化のお金は減らされる一方で、このようなプロジェクトは特に厳しくなる状況の中で、協賛に興味を示す企業の可能性も少し聞けて、記録集やこのイベントなどを意識的に作ってきた成果も感じることができて、本当に嬉しかった。
僕のコロナ禍での制作は、大きな疑問から始まった。
一人で旅をして作品を作り、美術館や本屋にそれを置くことへの疑問。
輸送費は高騰し、海外での展示は大きなストレスを感じたし、国内で移動すら困難な時期も多かった。
さらに、子供たちの教育の場でも閉塞感が漂っていた。
この世界的なパンデミックの時代を前に自分の身体や思考はどのように反応し、それに対してアプローチできるのか?深く考え動こうとした。
その結果として僕の制作や作品は、旅をして作品を作り美術館に置くスタイル/意識から、同じ場所に関わりながら人々と一緒に場所を作りそこで経験や体験や学びを生み出していく方向に変化した。それが、東京での新美塾であり、直島での瀬戸内「 」資料館。さらにこの二つは一人ではなく、チームで動いていくのも新しい挑戦だったと思う。
でも、この二つの”作品”を僕の作品だと認知する人は少ないだろう。新美塾は”ワークショップ”だと思われているし、瀬戸内「 」資料館は”場づくり”だと思われている。しかし、僕はコロナ禍に対して向き合った結果生み出された作品だと思っているし、美術館という場所を再考しハックしたりセルフビルドするプロジェクトだったとも言える。置いて終わりの作品を空間に置いて数千人がみて勝手に感じる、というスタイルではなく、新しい美術館の姿を一人想像し、ゼロから場所を作りながらじわじわと人々が参加し直接参加者の中に何かが発生していくこと続けた。僕はこの4−5年で新しい思考と身体を手に入れた。
でも、コロナ禍は終わった。
僕の問題意識も次へ変化していっている。つまり、新美塾も資料館も、僕の手から離れるタイミングが迫ってきている。しかし、それはこの二つを置いて終わりにするのではなく、関係性は続くだろう。手から離しながら、卒業生たちを見守っていくし、資料館のアーカイブは継続していきたい。
明日は娘の卒園式。そして、間も無く小学校に入学だ。
さあ、次は何を始めようか!
僕もここから、新しい出会いを求め、そして次の準備に入ろう。
イベントの翌日、隅田川沿いに立つバラックのような映画に出てきそうな空間で、「山下道ラジオ」のオフ会を開いた。わいわい、鍋をしたり、肉を焼きながら。幸せな空間が広がっていた。これもコロナ禍での実験とその成果。
「山下道ラジオ」は、孤立した島の生活の中で絵、新美塾や資料館を進めていくための思考の鍛錬場になっていたし、そのプロセスを全てオープンにする場所だった。