久しぶりの台湾でのグループ展。
2013年のアジアンアートビエンナーレ以来、11年ぶりに台湾に足を踏み入れた。
色々と思ったことを書き残してみる。かなり懐古的に。
台湾にはじめてきたのは、シリーズ「torii」の制作のため、2006年だった。
その後、取材のために何度も訪れた。まだ、デビューしたばかりの若い写真家?いやいや、カメラを手にした20代のただのバックパッカーだった。安宿に泊まって、日本統治時代の遺構を見てまわり、自分で日本統治時代の研究者に会いに行ったり、一人孤独な調査と旅が続いた。
2010年に東京で出会った台湾の若いキュレーターAが完成間近の「torii」に興味を持ち、2011年に鳳甲美術館での小さなグループ展に参加することになった。初めての海外での展示制作。日本人は僕だけ。僕よりも少し年下の20代後半の台湾のキュレーターや作家たちと、言語をこえて展示を一緒に作る経験は本当に素晴らしい経験だった。
2011年展示設営の様子
一人っきりの旅ではなく、台湾の同世代の人々との展示を作る共同作業。その後、2013年、台中の国立台湾美術館のアジアンアートビエンナーレに参加。2012年の韓国光州ビエンナーレやこのビエンナーレへの参加によって、アジアや国際的に作家たちがどのような制作や発表を活動をしているかを肌で感じれたし、視界が一気に開けたように思った。さまざまな先輩の作家をみながら作家としての生き方を模索し始めた。(2009年のフランス1年間、何も出来ず自分が日本人であることを外から感じられた時間や、2010年の東京のレジデンスの1年間も土台作りとして大きい期間。)
大学卒業して10年目、ちょうど日本での美術館でのグループ展が増え始めようとした頃に、それと同時に台湾(や韓国やベトナムなど東アジア)での関係が接続し始めていた感覚。本当に幸運だった。そこから10年、欧米も含めて活動の幅は広がった。台湾には特別な感覚を持っていたが、台湾と関係はそこからずっと止まったままになった…。僕に原因があったというよりも、多分交流がより活発になり選択肢が増えたのだろう。2012年に「torii」は写真集になりほぼ完成したし発表したかったが、台湾ではその機会はなかった。(その背景には一つ、台湾に限らず、植民主義を扱う場合、日本人という加害側ではなく、被害を受けた側から何かが生み出されること(地元からの作品の誕生)を望んだのだろうと僕は思う。)そのうち、「torii」に似た作品が台湾で注目されていたり植民地時代を扱う作品もどんどん流行していくのも遠くから見ていたし、友人の日本人作家たちがどんどん台湾で活躍する姿を見て、少し複雑な思いをしていた。ま、その頃、僕自身は、新たなフィールドや手法を開発し始めたこともあって、自ら台湾に向かう機会も失い、色々あって、近い場所であった台湾との距離は10年以上遠のいていた。
日記 2011年9月22日
https://shitamichi.exblog.jp/15540224
日記 2011年11月23日
https://shitamichi.exblog.jp/16943194/
そんな中、今年の2月、
台湾の20代後半のキュレーターからグループ展のメールがあった。本当に久しぶりで、とても嬉しい連絡。実際に台湾に来ると、2011年の展示で一緒に作ったキュレーターAは、既に40代になり美術館の館長になっていた。そして今回のキュレーターたちはその生徒たちのような存在だった。世代が”一回り”していた。
今回は、作品選定や制作は半年程度の短い期間であったし旧作の展示であったが、彼らは本当に情熱があり、よく働き、即座に深い部分まで内容を理解し、仕事が丁寧だった。インストールやランティングなどのテクニカルも、デザインやマネージメントも含め、30歳前後の若い台湾の展示チームは、本当に素晴らしかく、驚かされた。
僕はというと、そのグループ展では一番の長老になっていた。笑
日本でももう若手ではないが、まだ若い中堅? 日本のキュレーターは35歳くらいでもまだ若手で40代50代はまだまだ働き盛り、Aは40そこそこで館長だ。台湾は若い。それは本当に面白いこと。僕は既に大御所のような扱いになっていた。いや、悪い感じで大御所のようにペコペコとされることはなく、フラットに付き合ってくれるが、深いリスペクトを感じ、自分の立ち振る舞いを深く考える良い機会になった。実際、僕はまだ何も成し遂げていないし、人の上に立てるような存在でもないと思う。でも、自分の役割は変わったのだろう。上に押し上げられ、若い人から意見を求められるし、自分はまだそれは慣れないが、自分なりに意識的に立ち振る舞っていく必要があるだろう、ということを今回、深く考えて、静かに挑戦した。
2024年展示オープンパーティーの深夜 Photo by Yuya Suzuki
今回の出品作品は、2011年から作っている「bridge」や2010年からやっているワークショップ「見えない風景」。キュレーターからの推薦もあり話し合った。せっかくの11年ぶりの台湾で発表する作品が11年以上前のものであるのは、少し悲しさのようなものも感じた(「今の新作を見せたい!」という気持ちこともあるので)。しかし、逆に2011年の東日本大震災や福島の事故の影響の中で制作した作品が、今のコロナ後で人々の心に届いているのは作家としてとても勇気づけられることでもある。
現代の社会事象が現代美術家の作品制作の素材/メディウム(ある意味”ネタ”)になって久しいし、何人の日本人の作家が”福島”を直接的にネタにしてきたように。「bridge」は東日本大震災や福島の原発事故を受けて(テーマに)、僕が作った作品であるが、社会事象を直接ネタとして扱わず、自分の中で起こった変化に目を向けた。直接的に表現しなかったから、わかりにくい作品だと思う。でも今、国を超えて、この作品が伝わっている。この作品が(まずは10年という)時間を超えたことも正直嬉しい。
今回のグループ展に選ばれた作品たちも、ストレートに社会事象を扱うのではなく、日常的な些細な変化をテーマにしていて、静かだけどじわりと胸にくるものが多い。
最新の社会事象や場所性を扱い、常に新作を作っている作家は、現在美術館や芸術祭にどんどん呼ばれている。その中で僕はそのレースには合わないのは最近よく理解できた。だからそういう企画には呼ばれにくくなっている。(いや1年以上の時間と並走をくれれば、新作を挑戦できるが、その程度の時間や並走が企画側にない気がする。)
2009〜2018年あたりに、台湾や韓国や東アジアの若いキュレーターや作家たちに出会って、模索した制作や発表の方法。それは滞在制作や展覧会をベースにしていた。
しかし、2018〜現在、さらにコロナ禍で小さな島で家族と暮らしながら、考え模索した制作や発表の方法。(それは紛れもなく僕の今の最新作なのだろうけど、)『瀬戸内「 」資料館』も『新美塾!』も展覧会をベースにした発表を想定していない。作品とし認知もされにくい。(それはアートのプラットフォームに載せることを最優先にしていないからかもしれないが。)数ヶ月の滞在制作ではなく、数年のスパンで作っている。内容はより即興的で、非物質的で、制作しているのは”場所”そのものであり、学校や美術館や公共への新しい道の模索なのかもしれない。持ち運びもできない存在。時間も人員もお金もかかる。この流れは、国際展やグループ展というフォーマットをベースに渡り歩き、自分の活動を広げるのはフィットしないだろう、かもしれない。(いや、逆に言えば、時間も人員や程々の予算があれば、すごいことができると思っているのだが。)
とにかく、10年ぶりの台湾での機会は、10年ぶりの街や友人との再会し、映画「おもひでぽろぽろ」のように10年以上前の自分との再会する機会になった。そして、目の前には、変化した自分の置かれた環境があり、新しい人々との出会いがあった。
2010年代世界を飛び回り、2020年前半で小さな島に閉じこもった僕に、今回は強烈に過去を振り返る機会を与えてくれた。そして、40代や50代をどのように生きるか、自分には何ができるのか。それを一人で考える時間を与えてくれた。
少し過去を振り返ってしまったが、過去の自分をポイと投げ捨て、変わり続けるのだ。
自分も誰も歩んだことのない道を踏み締めて一歩一歩。